忍者ブログ
”何も足さない何も引かないたったいまここ”

「問題だ!」と主張する声 ← こそが唯一の問題


だったらどうしましょうか。取り組みの方向性が変わります。


トップページに書いているコレをしばらく取り上げてみようと思います。


新しい歌詞をつくろうとして何も浮かばない瞬間があります。
カラオケで既存の歌詞を思い出そうとして出て来ない瞬間があります。
歌詞が出て来る瞬間と、出て来ない瞬間。
いったいどちらが「素」でしょうか。


出て来ない瞬間が「素」だと誰もが知っています。
もう少し深く考えると、あらゆる歌詞は、この「出て来ない瞬間」の海に支えられているのです。沈黙の海に深く深く沈んでいる(潜在的可能性)ものが言葉として浮き上がって来ます。


この「素(沈黙の海)」について、個々人がもっと掘り下げる必要があるのかもしれません。


古今東西の聖者たちが言った


『私はある(I AM THAT I AM)』


とは何でしょうか。
「私、は、ある」ではありません。


『私はある』です。
有限の歌詞か、沈黙の海か、どちらかと言えばそれは沈黙の海のはずです。
また、有限の歌詞が出て来た瞬間もそれは継続しています。
どの瞬間も下支えしています。有か無ではなくて、出て来た「有も無も」それによって支えられています。


自我の理解(いわゆる行為者としての私)と
存在の確実性は


まったく違うものをそれぞれ指しています。


「私はある」という日本語の文字も重要ではありません。
これは単に「月を指し示すための指」であり、示された「私はある」には特定の文字も言語もありません。


あらゆる行為は、
1、存在の確実性の下支えに気づきながら行う
2、気づかないで行う(自我が自分を主体だと信じながら行う)


二つに分かれます。どんなものもそう分かれることになります。
n230255
PR
08 2025/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody
忍者ブログ [PR]