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これは独り言です。
いま大事なことは「どうやって」内在神を感じるかです。
それには「真我ではないものの放棄」です。「想念の私」を見つけようとします。
そうすると必ず、100%「思考が止まる」一瞬がやってきます。人間が扱うものに100%はほとんどないですから、これがどれだけ信頼性が高い目安かわかります。
正しいスイッチを押したら思考が止まるので、それをヒントに「想念の私」を見つけようとすると「思考が止まる」相関関係を何度も何度も自己確認します。
そのうちに「今この瞬間」には「想念の私」が存在しない可能性にたどり着きます。
なぜなら「想念の私」というのは、過去を今この瞬間に持ち込んだ際に瞬間的に発生する断続意識だからです。つまり「想念の私」は構造上「ここ」に、「いま」にいることができないのです。「断続している」意識だから。
では「ここ」にあるもの、「いま」にあるものはなんでしょうか。
これが真我であり、内在神の入り口です。
内在神を信頼し、「想念の私」を忍び込ませないように見張り、「いま・ここ」のほんとうの姿に触れていきます。
見張りは「ゆるく」維持します。そうしないと挫折しかねません。
ダイエットと同じように「やり始めたら一回で」成功させるほうが良いです。ゆるく維持さえしていれば一回で成功します。n222338


調理師専門学校に


あなたが今日入学したとします。他の学生さんはわかりませんが、少なくともあなたには明確な目標がありました。
あなたは卒業したらすぐに「カレー単品のみ」で店を出して勝負するつもりです。
単品です。季節のカレーも出しません。
すべての授業はたった一品のそのメニューに役立てるために利用されます。
あなたの学習効率はかなり高くなることが予想されます。
なぜなら出会うすべての知識に役立てるべき明確な「参照点(成功の可否を握るたった一品のメニュー)」があるからです。
もしこれが単品ではなく、3品のメニューがあったらかなりあやふやになります。
これと同じことが
自己の「円環(パターン)」に対しても言えます。
環境や遭遇する出来事は千差万別でも、学習効率だけで言うなら、この「参照点」を持っている人間のほうが圧倒的に有利です。
すべては自己の「円環」を進化させるためだけに利用されるのです。
魂の旅から言えば、「円環」とは単品メニューなんですね。
ただしこの学習効率を得るためには、自己の「円環」の進化のためだけにすべての環境と出来事を利用できるという自己認識が必要です。
自分を「被害者」だと思いこむ逃避パターンを一度つくりだしてしまうと変な方向に行ってしまいます。
ですから「信頼」が、それも内在神に対する信頼があるなら尚良いです。
外の存在(他人・像・物体・有名な神仏)を信頼すると、悪意に利用されることが多く危険だからです。n222305


【過去記事20201108】
Fiora 世界を覆う巨大な変化は、ご存知のように 第一に 【1】新型コロナウイルス ですね。そして今日 【2】バイデン勝利宣言 が出ました。これがどのくらい世界を変化させるきっかけとなるか、注視していただきたいです。 地上を生きる人々にとっては「最悪」の変化かもしれませんし、 御意図としては「上も、下も、必然」の結果かもしれません。 政治的な日程を言うつもりはありませんが、いまから1カ月の間、 12月8日を迎えるまでの期間は、あらゆる意味で「上も、下も」準備を整えるのに最適の期間です。 たとえば、物資を確保することです。 食料は十分ですか? 生き抜く覚悟はありますか? 霊界(また所属霊団)があなたに何を望んでいるか、大きな方針は理解していますか? nobodyには再三言いましたが、 迷ったときは ☆「助けなさい」 ☆「手をつなぎなさい」 ☆「126代天皇陛下の下、日本国の真の目覚めを支えることを優先しなさい」 あなたの意識レベルは、あなたが決めています。 誰の責任にも転嫁できません。 世界が変わることに「嫌~」と言い続けてもいいですし、どのように向かい合っても構いません。自分でその責を負う意味を理解していれば。 いまから1カ月の間、 今後どの視野・視座・視点で生きるか「自分で」決めることをお勧めします。 中国共産党などの独裁が最も恐ろしい敵かどうかも、一人一人の見方です。 環境問題がより恐ろしい危急の事態だと感じる方もいれば、いま己の霊性こそ重要な問題だと感じる方もいます。 どこまでも利己的に生きても、それも一人の人間が出した結論です。 突然大きな事態が起こり、世界観が一変する。 そのときあなたにあるものは、昨日まで世界をこのように見ていたという 視野・視座・視点です。 あなたのせいです。 あなたの実力です。 あなたの人格です。 あなたの品性です。 あなたの背後に控えるチームが「ため息」をついていたのは、あなたの「世界の見方」と「身勝手さ」についてです。 チームは協力し、お互いに貢献し、一丸となって困難に向かうものですよね? 新型コロナウイルスに匹敵する変化がバイデン勝利宣言から今日始まりました。(Fiora20201108)
 ↓ 要旨
1、ワクチン(20201208以降の世界)が変えた後の世界に対応して
2、食糧危機
3、新日本を支えて


明日からがんばるんじゃない…
今日…今日だけがんばるんだっ…!


迷ったら…正しい道だぜ! オレたちは!
オレたちはそうやって生きていこう!


予期せぬことを重視しなければならない。ところが、報告システムのほとんどが予期せぬことを無視するようになっている。この間違いを直すことはできる。


誤りは真我と身体を同一視することにあります。


個人、神、そして束縛という三つの実体があります。そのような三位はどの宗教にも共通のものです。心が機能しているかぎり、それらも実在性を持つでしょう。


最も気高く、すぐれた考えを体験する場を与えてくれる価値観に従いなさい。


あなたに起こること、あるいはあなたを通して起こることで、自分の最高の善のためにならないことは何もない。


「私は何ものかである」という信念や感情は、無知、つまり、体験の真の性質を無視することを前提として生まれます。これは架空の立場です。
私たちは何ものでもない、つまり物事ではなく、開かれていて、空で、輝く気づきの現存であると知っている立場は、叡智と啓示の立場です。
そして私たちこそが、目に見えるすべての物事の要素、心、体、世界のすべてのあらわれの要素であると知っている立場は、愛、純粋な親密さの立場であり、ここにおいては内側の自己も、外側の対象物、他者、世界も存在しません。
私たちにはこの三つ、「私は何ものかである」、「私は何ものでもない」、「私はすべてである」という三つの選択肢しかありません。そして、あらゆる瞬間、私たちは選びたい立場を選ぶことができます。


質問者 瞑想はプラティーカム(イメージ、象徴)があれば容易なのですが、真我探究にはプラティーカムがありません。


マハルシ 深い眠りの状態を考えてごらんなさい。あなたはそのとき存在していました。そこにどんなプラティーカムがあったでしょうか? ですから、プラティーカムがなくとも真我を実現することはできるのです。

(対話482)


質問者 アートマ・サークシャートカーラ(真我実現)とは何でしょうか?


マハルシ あなたはアートマン(真我)であり、サークシャート(今ここにある直接体験)でもあるのです。そのどこにカーラ(実現)が必要でしょうか? この質問は、あなたが自分を真我ではないと考えていることを表しています。


この質問の根底には、あなたが自分自身を粗大な身体と同一視しているという事実があるのです。


今、あなたは自分自身を身体だと見なしています。そして自分の周りに物事を見るように、真我も目で見たいと考えているのです。習慣はそのように影響を与えるものです。


アートマ・サークシャートカーラとはアナートマ・ニラーサナ(真我ではないものの放棄)なのです。

(対話565)


マハルシ 束縛は外側にはないのです。それゆえ、解放を求めるための外的な救済策は必要ありません。
そのようなことを考えて束縛されるか、考えるのをやめて自由になるかは、あなたの能力の内にあるのです。


質問者 それでも、考えなしでいることは容易ではありません。


マハルシ





考えを止める必要はありません。





ただ想念の源だけを思いなさい。
ただ想念の源だけを探して、
ただ想念の源だけを見いだしなさい。

(対話524)


ものごとを正確に見極めるには、外的な状況がどんなふうで、どう動いているかだけでなく、自分がその状況にどんな感情を投影しているかも見極めねばなりません。内的現実、外的現実のどちらも視野にいれます。


問題は、あなたが何かを知らないということではありません。
問題は、何か見つけなくてはならない、あるいはこの瞬間以外に何か必要なものがある、とあなたが考えていることなのです。


それはこうあるべきだということもないし、うまくいったからといってくりかえすべきでもありません。それはあなたの学びの成果ではありません。それは、あなたが無条件の心と、生き生きとしたかかわりをもったからです。


マハルシ 立ち現れた「私」も、いずれは沈みゆきます。それが個人の「私」、あるいは「私」という観念です。





立ち現れたことのないものは、沈みゆくこともありません。





それはただ存在しています。そして永遠に存在し続けるのです。それが普遍かつ完全な「私」真我実現です。


自分が嫌だと思うものが人であれ、状況であれ、何であれ、あなたがそれを見たり考えたり想像したりできるということは、それがあなたの中にもあるということです。あなたの中になければ、あなたはそれを見たり、それについて考えたり想像したりできないからです。何かに嫌悪感を感じたら、それが自分のグリッドの中にあって、自分はそれから逃げ出さないで体験する必要があるのだと気づくと、嫌悪感は自然になくなります。


一つの根本的真理を認めなくてはなりません。現在この瞬間、いまの自分に何もつけ加えることも取り除くこともせず、いまあるがままの姿で、自分は神であることを知ることができる、という真理を認めなければなりません。


自分に正直な人であれば、他人から傷つけられることは何度も何度も起こることである、と認められるはずです。人生の基本的真実を心の奥深くで理解すると、他人からまた傷つけられるのではないかと心配する必要がなくなります。そしてその真実とは、「あなたの人生に関わるすべての人、世界中すべての人は心の平安を求めている」ということです。他人を傷つけてしまったり、他人から傷つけられたりしたときにも、その行為は決して意図的なものではない、ということが理解できると、心の平安を求めることの助けになります。


本質的には、誰も他人を傷つけようなどと意図していないのだということが理解できますか。人は憎しみや悪意や悔恨から他人を傷つけるのではありません。無知と怖れから人を傷つけるのです。


質問者 気づきの訓練とはどのようなものでしょうか?


マハラジ 訓練の必要はない。気づきはつねにあなたとともにある。あなたが外面に対して与える注意を、内面に向けるだけだ。何も新しく、特別な周囲の気づきが必要なわけではない。


凡庸な精神
凡庸さの要因の一つは達成しよう、結果を持とう、成功しようとする衝動ではないだろうか? そしてわれわれが創造的になることを欲するとき、われわれは依然としてものごとを浅薄に扱っているのではないだろうか? 私は【これ】だ、そしてそれを私は【それ】に変えようと欲する、それゆえ私はいかにしてと尋ねる。しかし創造性が、何か追求されるべきもの、達成されるべき結果であるとき、精神はそれをそれ自身の状態へと引き下げてしまったのだ。われわれはこの過程を理解しなければならないのであって、凡庸さを何かほかのものに変えようと試みてはならない。


両方に気づくこと
単に部分的に鋭敏であることは、麻痺していることである。美を受け入れて、醜に逆らうことは、何の感受性も持たないことである。沈黙を歓迎して、騒音を拒むことは、全的ではないことだ。鋭敏であることは、沈黙と騒音のうちの一方を追い求めて他方に逆らうことなく、両方に気づくことである。それは、自己矛盾なしにあること、全的であることなのである。


自分の経験を正直によく見てみれば、自分の時間のほとんどを、ある状況を避けるか、”抵抗する”ために使っているのがわかります。それを避けようとすればするほど、そういう状況が数多く起きてくるのは当然です。逃避と否定からは何も学べないからです。


目の前にある今の状況に立ちむかい、責任をとろうとするとき、初めてその状況に意味をもってかかわることができます。恐怖心に直面し、対決することが、プロセスの第一歩です。


あなたは自分がこの世界にいるのは、有意義でかっこうのよいことをあれこれ達成するためだと思っているでしょうが、それはあなたのエゴが人々に認められようとして叫んでいるにすぎません。あなたがここにいるのは、何かをなしとげるためではなく、自分や他人について抱いているまちがった観念や信念をゼロにもどすためです。


あなたの心や経験のなかの混沌や混乱はすべて、完全にいま現在にいて、現在にのみ注意を向けることで乗りこえられます。これこそ奇跡的な真実です。


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画家はどんなときに絵を描く幸せを感じるのでしょうか。絵を描いていて、画家という存在がなくなったときです。創作行為がおこなわれているのですが、使う色や絵筆の動きについて画家はいちいち考えてはいません。その瞬間、画家は無限の空間にいます。こうした異質の空間に入る画家の能力が高ければ高いほど、その作品は偉大なものとなります。
ゴッホについてはいろいろな意見があると思いますが、私が言っておきたいのは、彼は気ちがいではなかったということです。頭が混乱していたことは確かです。『星月夜』のような絵を創作したあとで現実に戻るのは、ゴッホにとって非常に困難なことでした。というのも、ゴッホは、地球界での人生は苦痛に満ちたものであり経済的に報われない、という基本的な信念を持っていたからです。それにもかかわらずゴッホは、こうした狭い固定観念から抜け出て、意識を星の世界へ移行させることができました。そこで彼は宇宙の動きを体験し、それをほかの人間も<見る>ことができるように再現したわけです。これは、意識の焦点を移行させるということの、わかりやすい例です。
ということは、意識の焦点を移行させるためには、すべての人が画家にならなければならないということでしょうか。いいえ、あらゆる瞬間にすべての人は芸術家なのです。目の前にあるものが何であれ、自分はそれを創造しているのだ、という事実に胸をおどらせてください。人は自分の意識を純粋な覚醒という絵の具にひたし、創造という絵筆でそれぞれの瞬間の絵を描いているのです。


神がすべてであり、すべては一つなのだとしたら、普遍的な深い”愛”の感情が存在し、「相手」がいなくでも、それを感じることができるはずです。何をしているときにも、これが真実であると固く信じて、”大いなる愛”の感覚を探し求め、それを待ち望んでください。それを感じることができると、自分にパワーが戻ってきます。そうなるとあなたは、”大いなる愛”のパワーがある、自分の「存在」の中心にいることになるのです。


そのために必要なのは、そうした愛を自分は当然感じるだろうという「期待感」です。


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そのときどきで、使える形を使ってください。先入観を捨てます。毎瞬があたらしい瞬間です。すべての状況が、あなたのちがう面をひきだそうとします。


あることをある特定のやりかたで言ったりしたりすることに固執すれば、時間に縛られることになります。そういう執着は、あなたを過去に縛りつけます。やってくる経験がたずねているのは、あなたが喜んで過去を手放すか、喜んで信頼に身をゆだねるか、喜んで時間の外に踏み出すかどうか、ということです。


あなたが形に執着しなければ、時間の外に踏み出すことはかんたんです。あなたはいま現在に焦点をあわせます。永遠のいまです。どんなことが起きようと、そのことに全身でかかわっていけます。


でも、あなたがたの中でどれほどの人が、経験のなかで完全に現在という瞬間にいるでしょう。たいていの人は、経験を評価したり、判断したり、アラ探しをしたり、こうあってほしいという色眼鏡で見たりという作業で手一杯です。つまり、あなたがたはにせのアイデンティティにしがみついています。現在を過去に合わせようとしています。


マハラジ マインドを超えたところに体験はない。体験とは二元的状態だ。実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成ることを分離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろう。実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割不可能だからだ。そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちらも「私は在る」という感覚のなかに立ち現れる。これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを逃すことになる。


最終的な責任はあなた方にあります。悩みや苦しみをなくす方法が存在し、それがいまここにあるということを忘れないようにしてください。


モード(様態)


マハルシ 眠り、夢見、目覚めは、真我の前を通り過ぎてゆく様態でしかありません。それらはあなたが気づいていようといまいと、自動的に移り変わっていきます。ジニャーニの境地では、目覚め、サマーディ、眠り、夢見の状態が彼の中で移り過ぎてゆきます。それはちょうど牛車に乗った旅人が、牛が動いているときも、立ち止まっているときも、くびきをはずして休んでいるときも、気づかずに眠っているのと同じ状態です。

(対話313)


マハルシ 真我の真の本性は「平和」として在ることだと言われています。もしその「平和」が見いだせないとしても、その「見いだせない」ということは一つの想念でしかなく、真我とは相容れないものです。
瞑想をするのは、このような真我と相容れない想念を取り払うためです。それゆえ、想念は立ち現れたそのときその場で静められなければなりません。いつであれ想念が起こったときは、その波にさらわれてはなりません。真我を忘れると身体に気づくようになります。しかし真我を忘れることができるでしょうか? 真我として在りながら、忘れることができるでしょうか? もしそうであれば、そこには忘れる自分と忘れられる自分の二人がいるはずです。それは馬鹿げています。





それゆえ、真我は憂鬱ではなく、不完全でもありません。真我は常に幸福です。それに反する感情はただの想念にすぎず、それ自体は何の力も持っていないのです。





想念から自由になりなさい。

(対話462)


マハルシ この詩節の真の意義は、アートマンだけをとらえ、そこから道を踏み外さないことです。


問題が起こるのは、自分自身以外のものが存在するときです。「アートマンは唯一存在する一者である」ということを真に理解すれば、他者もなく恐れの原因もなくなるでしょう。


真我に心をとどめ、行為者という感覚なしに、自然に行為しなさい。そうすれば、行為の結果があなたに影響することはないだろう。


「真我の内に在る」ことが『ギーター』の教えの大要であり、精髄なのです。

(対話58)


神とは絶対的幸福である


あなたが悩みを持たず、素直で明るい意識だったら、いまよりずっとおもしろくて魅力的な人間になるかもしれませんよ。神の覚醒意識を望むというのは、非常に深いところに根ざした欲求です。あなたが勝者の意識を持たず、望みどおりの人生を手に入れるという意識を持っていないのだったら、覚醒意識を手に入れるという問題においても、やはりそれを「得る」ことはできないでしょう。そういう人は、「求める人」で終わってしまいます。勝者のみが「見つける人」になれるからです。意識の転換が必要です。


自分が感じたいと思っている、新しい感覚について話すようにしてください。人生のすばらしさや価値や”大いなる光”を、自分の人生のなかに探すようにしてください。そして、それ以外のものにはあまり注意を払わないことです。自分のすべてを受け入れるという生き方を、ますます熱心に実践するようにしてください。そのために必要なことは、何でもしてください。


この勉強を始めたときに言ったことですが、神は地を這う虫には興味がないのです。神は、生き生きと元気にあふれ、パワフルで拡がりゆく意識に興味があるのです。だからといって、そういう人はけっして気分が沈んだりしないという意味ではありません。どんな感情も抑えつけず、自分の望むことに意識を集中してください。”神意識”と最も調和している人々は、前向きで生き生きとしていて、強じんな明るさと優しい心を持っています。そうした人たちは、よいことも悪いことも、自分は何でもすることができることを知っていながら、そういうなかで罪の意識を捨てて、代わりに”大いなる光”と”幸せ”と神を選ぶことに精神を集中しているのです。


マハルシ ほとんどの人が、「多数の個人が存在する」という論点に立っています。
人は自分を自我と同一視し、「自分のような存在が他にも数多く存在するに違いない」と議論します。


ある人が夢の中で大勢の個人を見たとします。目を覚ました後でも、その人は夢の中で見た大勢の個人が実際に存在すると信じて、彼らについて尋ねたりするでしょうか?


ここに水の入った容器がいくつかあり、その中に月が映っていると想像してください。それぞれの容器に映った月のイメージはみな違ったものですし、本物の月のイメージもまた違ったものです。もし容器の一つが床に落ちてこなごなになれば、その中の月の反映も消え去るでしょう。しかしその反映の消滅が本物の月に影響を与えることはありませんし、他の容器の中の反映も影響を受けません。これは個人が解脱に達するのと似ています。ただその人だけが解脱するのです。


多様性を支持する二元論の学派(ドヴァイタ)は、このことについて非二元論の学派(アドヴァイタ)に反論します。「真我が単一なら、一人が解脱すればすべての魂が解脱するはずなのに、実際はそうではない。それゆえ、アドヴァイタ学派は間違っている」と。


この議論の欠点は、「真我本来の光」と「真我の光の反映」とが取り違えられているところにあります。自我、世界、個人は、すべて個人のヴァーサナー(心の潜在的傾向)ゆえに現れ、ヴァーサナーが消え去れば、個人が見ていた幻影も消え去ります。つまり一つの容器が壊れたとき、その反映も消え去るのです。


実際のところ、真我が束縛されたことなど一度もなく、それゆえ解放もありません。
あらゆる問題は自我にとってのみ存在するのです。

(対話571)


月は空にある。私はそれに叫びかけ、唾を吐きかけることもできる。私はそれを礼拝し、花を投げかけ、賛歌を歌うこともできる。私の行為によって月は影響を受けただろうか? いいやまったく受けなかった。それはただ輝きつづけるばかりだ。私たちが良いふるまいをしようと悪いふるまいをしようと、喧嘩をしようと瞑想をしようと、月は何の影響も受けない。それは空についても同じことだ。私たちは空の中に座っている。四つの壁の中には空がある。私たちは瞑想しているかもしれない。あるいは何か他のことをしているかもしれない。私たちが何をしようと、あるいはしなかろうと、空は影響されないままだ。私たちが存在しようと不在であろうと、空にとっては何の違いもない。これが四つの壁の中にある空間なのだ。


あなたはすべての物事が現れては消え去るその空なのだ。物事があなたなのではない。あなたは世界の活動にも無活動にも影響されない。物事が存在しようと不在だろうと、あなたにとっては何の違いもない。あなたは常に空なのだ。


もしあなたが継続したエゴだとしたら、誕生以来あなたに起こった考えや信念、アイデアや体験、記憶や気づきなどのすべてが脈々とこの瞬間に生きてあふれ返っていなくてはなりません。自分が継続した実体だと思い込もうとすることで、本当に継続しているものが体験できなくなっています。


本当に継続しているものはこれまでもずっとありましたし、いまもあります。それは<我在り>と言うときの”我”です。それはあらゆるものが流れ出る”源”です。それは始まりの前にあり終わりの後にあるもので、意識の本質です。それは純粋な意識そのものです。それが継続するもので、それ以外には何も継続しません。
それ以外のものであなたがこの瞬間にもたらすものはすべて、目に見える、継続した有限の人間として自分が存在すると思い込みたいがためにあなたがもたらしているものです。


あらゆるものの中を息づくただひとつの現実があるだけです。それ以外はすべて幻影です。あなたは自分が考えているものとは違います。あなたはいつどう変わるともしれない短い命を、あてもなくおびえながら生きる意識のかけらではありません。あなたは広大無辺の完全に目覚めたすばらしい意識であり、それを充分に体験するのはあなたの持って生まれた権利です。これからのあらゆる瞬間にそのことを完全に完璧に知るようになってほしいというのが、わたしの願いです。


あなたが自分自身と呼んでいるあの慣れ親しんだ感覚、間違って<自分>と呼んでいるあの感覚に気づくように、ここでまたお願いしたいと思います。実際のところ、あの慣れ親しんだ感覚というか、歓喜の絶頂から憂鬱のどん底まで、愛から憎しみにいたるまで、不安から喜びにいたるまで、あらゆる過程に存在する感覚こそがあなたの本質です。あなたは”わたし”を間違って<自分>と呼んでしまったのです。生まれたり消えたりするのは有限の<自分>です。あなたといつもいっしょにいて、朝目覚めた瞬間からもっとも深い夢の瞬間までいるのが”わたし”の本質です。


あなたは”わたし”の本質をいつも感じているのですが、それをいままでは間違った名前で呼んできました。これまであらゆる瞬間に感じてきた感覚があなたが求めているものです。ほかのあらゆるものはその上に反映されます。こうしてここにすわっているときも、常に変わらず存在するのはその純粋な意識です。わかりますか。あなたは自分がすでにそうであるものを求めているのです。あまりに明らかで、不変で、強く、なじみが深いので、それがわからなかったのです。どうか見過ごさないでください。


森羅万象いかなる処にもわたしを見
わたしのなかに森羅万象を見る人を
わたしは必ず見ている
彼は常にわたしと共にある

バガヴァッド・ギーター 第6章30節


質問者 私の年齢でもハタ・ヨーガを遂げることはできるでしょうか?


マハルシ なぜそのようなことを考えなければならないのですか? あなたは真我があなたの外側に存在すると考えるため、それを求めて努力するのです。しかしあなたは常に存在しているのではないでしょうか? なぜ自分自身を離れて、外側にある何かを追い求めるのでしょうか?

(対話619)


マハルシ あなたは純粋意識なのです。グリハスタ・ダルマも世界も純粋意識の上に現れた単なる現象にすぎず、それは影響を受けることなくとどまります。


疑いが誰にとって起こるのかを見なさい。疑う者とは誰でしょうか? 考える者とは誰でしょうか? それは自我です。それをとらえなさい。
自我がどこから立ち現れるのかを見いだしなさい。それが純粋意識なのです。


「私は実現できるだろうか?」という疑いや、「私はまだ実現していない」という感覚自体が障害なのです。

(対話251)


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。


あなたが自分の未解決の問題に直面する勇気を持つと、あなたの心が一挙に大きく開かれ、人間は誰でも同じ問題を抱えているのだ、ということに気づきます。あなた方はみな怖れているのです。それというのも、自分はこの危険に満ちた世界を行く先もわからずにすすんでいる、ちっぽけな存在であると、自分を取りちがえて考えているからです。


これから先、もっとも有益な道具は、自己の限られた意識以外のものを体験したいという願望です。前にも言ったように、人は自分が何であるかということを思いちがいしています。


自身の傷に対して自分で愛を与えるという責任をとらないうちは、攻撃──防御、罪悪──非難という悪循環から抜け出ることはできません。怒り、傷つけられたという思い、裏切られた感じ、それらはあたかも正当なように見えますが、おたがいのいさかいの火に油を注ぐだけでなく、自分は愛されないし、愛する能力もない、という無意識の信念をたえず強めていきます。


自分自身がどれほど自己を憎悪しているかに気づく必要があります。鏡をのぞいて、そこに自分の信じていることがそっくり映っているのがわかるまでは、まずは日々出会うすべての兄弟姉妹を鏡として、自分が自分をどう見ているのかを知ることができます。この実践は特にむずかしくはありませんが、天国への最短距離というわけではありません。自分の見ているものは、よその人への教訓なのだと考えがちだからです。


この世界のいまわしい心理戦争からのがれるには、投影というゲームをやめることです。このゲームは自分の無意識の中の死への衝動を、それは悪いというせまい道徳倫理で、自分の目からもおおい隠してしまいます。皮肉に聞こえるかもしれませんが、自分は正しくて悪いのは兄弟なのだと主張しているその瞬間に、あなたは自分自身の罪悪感と劣等感を拡大しているのです。


非難の悪循環から抜け出るには、非難をやめるしかありません。ただし、覚悟してください。苦しみの円環から抜け出ようとすると、世間からはよく言われないでしょう。まず最初に攻撃の矢面に立たされるのは、この世界の投影ゲームに参加しない人たちです。あなたがたがわたしの生涯から教訓を受けとるとしたら、まずはそのことです。


「悪事をふたつ重ねても、ひとつの善事にはならぬ」という言い回しを聞いたことがありますか。これこそ、わたしの教えの中心にあるものです。あらゆる悪事は、正しいやりかたで修正されなければなりません。それ以外の修正方法は、攻撃となります。


相手の議論をねじ伏せようとしたり、まちがいだぞと言い負かそうとしても、相手はいこじになるだけです。それは暴力的なやりかたです。これに対して、わたしのやりかたは非暴力的です。わたしの場合は、こうすれば問題は解決するという解答を実際に行動で見せてあげます。それは苦しんでいるものに対し、攻撃ではなく、愛をもたらします。このやりかたは、本来の目的にかなっています。


よくないこととは、罪悪感を教え、苦痛や苦しみが必要なのだという信念を確立することです。正しいこととは、愛を教え、それにあらゆる苦しみを乗りこえる力があるのを示すことです。かんたんに言えば、正しくあればよくないことはできないし、よくない場合には正しいことはできません。正しくあるために、正しいことを行いなさい。


愛の感じられないやりかたでは、真に愛することはできません。ほんとうに正しい人間なら、誤りを攻撃する態度はとれません。誤りはもちろんなくすべきです。しかし、すべての誤りの根源は恐怖心ですから、恐怖心の撲滅が誤りの修正につながります。


あなたがたのほとんどは、恐怖心についてはかなり理解していますが、愛についてはほとんど知りません。あなたは神を恐怖し、わたしを恐怖し、おたがいを恐怖しています。


なぜ恐怖を抱くのですか。それは、自分に愛される値打ちがなく、おたがいを愛する能力もないと信じているからです。


たったひとつ、この信念を変えさえすればよいのです。人生のすべてのネガティブなものは、自分についてのこの誤った信念をぬぎすてたとたんに、はがれ落ちます。


そのとき、あなたは一点の疑いもなく、あなたを愛している神の愛を知るのです。そのとき、あなたは”彼女”がただの一度もあなたを見捨てたことがなかったのがわかるでしょう。たとえあなたが”彼女”の罰が自分にくだり、世界は破壊されるだろうという血迷った考えにとらわれていたさなかにもです。そのとき、あなたは自分の心の創造の力を知り、そして神と別個にではなく、神とともに創造することを選ぶでしょう。


質問者 神の力なくしては、何ひとつ為されません。彼なしにはあなたがここに座り、私たちに話すということさえありえなかったでしょう。


マハラジ 疑いなく、すべては神の為す業だ。それが何だというのだろう、私には何も求めるものはないのだ。神が何を私に与え、あるいは取り上げることができるというのだろう? 私のものは私のものだ。そして神が存在しなかったときにも、それは私のものだった。もちろん、それは非常に小さな取るに足らないもの、微々たるものだ。「私は在る」という感覚、存在の事実だ。これは私自身の場であり、誰に与えられたものでもない。この地球は私のものであり、そこに育つものは神のものだ。


質問者 神があなたに地球の借地料を払ったのですか?


マハラジ 神は私の帰依者だ。これらすべては神が私のためにしたことだ。


質問者 あなたを離れて神は存在しないのでしょうか?


マハラジ もちろん存在しえない。「私は在る」が根で、神は樹だ。私が誰を、何のために礼拝しなければならないというのだろう?


質問者 あなたは帰依者なのでしょうか。それとも帰依の対象なのでしょうか?


マハラジ そのどちらでもない。私は帰依そのものだ。


質問者 世界には帰依が欠けています。


マハラジ あなたはいつも世界を改善することに忙しいが、世界があなたによって救われることを待っていると本当に信じているのだろうか?


質問者 世界に対してどれだけのことができるのか、私にはわかりません。私にできることはただ試みることだけです。何かあなたが私にしてほしいと望むことがあるでしょうか?


マハラジ あなたなしで世界が存在するだろうか? あなたは世界についてすべて知っている。だが、あなた自身に関しては何も知らない。あなた自身があなたの仕事の道具なのだ。仕事について考える前に、道具の面倒を見たらどうかね?


質問者 私は待てますが、世界は待つことができないでしょう。


マハラジ 探求しないことで、あなたは世界を待たせている。


質問者 何を待っているのですか?


マハラジ 救ってくれる誰かを待っているのだ。


質問者 神が世界を管理しているのです。神は救うでしょう。


マハラジ それはあなたがそう言うだけだ! 神があなたのところへやってきて、世界はあなたのものではなく、彼の創造物と関心事だと言ったのかね?


質問者 なぜそれが私ひとりの関心事であるべきなのですか?


マハラジ 考えてみなさい。あなたの住む世界をほかに誰が知っているというのかね?


質問者 あなたが、そして皆が知っています。


マハラジ 誰かがあなたの世界の外側から来て、あなたにそう言ったのだろうか? 私自身も、ほかの皆も、あなたの世界のなかで現れては消えていくのだ。私たちは皆あなたのなすがままなのだ。


質問者 そんなひどい話があるでしょうか! あなたが私の世界のなかにいるように、私はあなたの世界のなかに存在しています。


マハラジ 私の世界の証拠をあなたはもっていない。あなたは完全に自分でつくり出した世界のなかに包みこまれているのだ。


質問者 なるほど。まったくそのとおりですが……どうしようもないのですか?


マハラジ あなたの世界の牢獄のなかにある人が現れ、あなたが創造した苦痛に満ちた矛盾の世界は継続も永続もせず、それはただ誤解がもとで現れたのだ、とあなたに言うのだ。彼はあなたに来たときと同じ方法、同じ道を通ってここを出ようと主張している。あなたはあなたが本来何であるのか忘れることによってその牢獄に入った。そして、あなたがあなた自身であると知ることでそこから出るのだ。


質問者 それがどのように世界に影響をあたえるのでしょうか?


マハラジ 世界から自由になってはじめて、世界に対して何かができる。その囚人であるかぎり、それを変えることはできない。それどころか、あなたが何をしてもかえって状況を悪化するだけだ。


質問者 公正さが私を自由にしてくれるでしょう。


マハラジ 公正さは疑うことなくあなたと世界を住みよい場所に、幸福にさえするだろう。だが、それが何になるというのだろうか? そこには実在性がない。永遠には続かないのだ。


質問者 神が助けてくれるでしょう。


マハラジ あなたを助けるには、神があなたの存在を知らなければならない。だが、あなたも、あなたの世界も夢なのだ。夢のなかで、あなたは断末魔の苦しみを味わうかもしれない。誰もそれを知らないし、誰もあなたを助けることはできないのだ。


質問者 では、私の質問も、探求も、研究も何の役にも立たないのですか?


マハラジ それらは眠りを破ろうとする人の活動だ。それらが気づきをもたらす原因にはならないが、その初期の徴候ではある。だが、あなたがすでに答えを知っていることについて、無意味な質問をしてはならない。


質問者 どうすれば真の回答が得られるのでしょうか?


マハラジ 真の質問を尋ねることによって、言葉の上ではなく、あなた自身の光にしたがって生きることに挑むことで得られるのだ。真理のために死をも厭わない人がそれを得るのだ。


質問者 もうひとつの質問です。個人がいます。その個人を知る者がいます。そこには観照者がいます。知る者と観照者は同じなのでしょうか? あるいは分離した状態にあるのでしょうか?


マハラジ 知る者と観照者は別々だろうか、ひとつだろうか? 知る者が知られるものと別のものとして見られたとき、観照者はひとり離れて在る。知られるものと知る者がひとつであるとき、観照者はそれらとひとつになるのだ。


質問者 ジニャーニ(賢者)とは誰なのでしょうか? 観照者でしょうか、それとも至高なるものでしょうか?


マハラジ ジニャーニは至高なるものであり、観照者でもある。彼は存在と気づきの両方だ。意識との関わりにおいて、彼は気づきであり、宇宙との関わりにあっては純粋な存在だ。


質問者 それでは、個人についてはどうでしょう? はじめに現れるのは個人でしょうか、知る者でしょうか?


マハラジ 個人とは非常に小さなものだ。実際には、それはいくつかの要素が混成されたもので、それ自身として存在することはできない。知覚されもしない。それはただ存在しないのだ。それはマインドの影、記憶の総計にすぎない。純粋な存在はマインドの鏡のなかに知るという状態として映る。知られたものは記憶と習慣を根底にして、個人としての形を取るのだ。それはマインドのスクリーンの上に映しだされた知る者の反映、ただの影にすぎない。


質問者 鏡が在り、反射があります。しかし、太陽はどこでしょうか?


マハラジ 至高なるものが太陽だ。


質問者 それは意識しているはずです。


マハラジ それは意識でも、無意識でもない。意識、無意識といった言葉で考えてはいけない。それは生命であり、その両方を含み、また両方を超えている。


質問者 生命は高い知性をもっています。どうして無意識であることができるでしょう?


マハラジ 記憶が中断するとき、あなたはそれを無意識と言う。実際には、意識だけが存在するのだ。すべての生命は意識しており、すべての意識は生きている。


質問者 岩でさえも?


マハラジ 岩でさえも意識し、生きている。


質問者 私には自分で想像できないものの存在を疑う傾向があるのです。


マハラジ 想像したものの存在を疑うほうが、あなたをより賢くするだろう。想像されたものが偽りなのだ。


質問者 想像可能なものはすべて偽りなのでしょうか?


マハラジ 記憶に基づいて想像されたものは偽りだ。未来はまったくの非実在ではない。


質問者 未来のどの部分が真実で、どの部分が偽りでしょうか?


マハラジ 予期されず、予測不可能なものが真実だ。


無住心(むじゅうしん) Non-Abiding Mind
『金剛般若経』の中の「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」という言葉に拠る。これは、「まさに住する所無くして、しかもその心を生ず」と読み、「いかなる対象にもとどまることのないまま、心を生じるままに任す」を意味する。禅の六祖慧能はこの言葉を師から聞いた瞬間に大悟した(『六祖壇経』)。大珠慧海は『頓悟要門』の中で、「善悪、有無、内外、中間にとどまらず、空にも不空にも、定にも不定にもとどまらない心を無住心という。無住心とは仏心なり」と説いている。


質問者 意識と気づき、どちらが先に現れるのでしょうか?


マハラジ 気づきがそこにひとつの対象物をもったとき意識となる。対象はつねに変わっていく。意識のなかには運動がある。気づき自体は、運動も時間もない今ここにあるのだ。



あなたの視点を叡智の視点に変えなさい


質問者 どうすれば想念を互いに伝達し合えるでしょうか?


マハルシ それはそこに「二」という概念があるときだけ可能です。


想念は立ち現れるため、私たちはそれが生じる元となる何かが存在すると推測し、それを心と呼ぶのです。


あなたの視点が外交的だったため、真我の視野を失い、ヴィジョンも外的なものになったのです。外側の物事の中に真我を見いだすことはできません。

(対話238)


あなたが人々を神という本来の地位に戻し、何をしていようとも、彼らは自分の内なる神のために生きていることを知るとき(これは、あなたが自分の内なる神のために生きているのと同じだが)、あなたはすべての人々を愛することを学ぶことができる。彼らの表現がどんなものであろうと、これまでの存在ではじめて、あなたは本当の意味で彼らを愛することができるのだ。というのも、あなたの愛は価値判断によって制限されたり、抑制されたりするものではないからだ。そして、これがまさに、キリスト、すなわち「神として生きる人間」の内面の在り方なのである。


質問者 先日、私はあなたに二通りの成長の方法、放棄と悦楽(ヨーガとボーガ)について尋ねました。その違いはさほどのものではありませんでした。ヨーギは楽しむために放棄し、ボーギは放棄するために楽しむのです。ヨーギはまず放棄をし、ボーギはまず楽しみます。


マハラジ それが何だというのだね? ヨーガのことはヨーギにボーガのことはボーギにまかせておくがいい。


質問者 私にはボーガの道のほうがより良いように見えます。ヨーギは熟しきらないマンゴーのように、未熟なまま木から切り離され、かごのなかに熟すまで保たれます。風通し悪く、加熱されて、熟しはしますが本当の味と香りは失われてしまうのです。木に残ったマンゴーは完全なサイズで、色、甘さなど、あらゆる喜びをともなって成長します。それでも、どういうわけかヨーギはあらゆる称賛を受け、ボーギは非難を受けます。私の目にはボーギのほうがよりよく映るのです。


マハラジ 何があなたにそう言わせるのだろうか?


質問者 私は多くのヨーギたちと、彼らの途方もない努力を見てきました。たとえ彼らが真我を実現したときでも、何かそこには苦く、厳しいものがあります。彼らは一見、多くの時を三昧(ざんまい)状態のなかで過ごしているようですが、いざ話をすると聖典の引用をするばかりです。そのようなジニャーニ(知者)たちは、もっとも良いところで、完成されていても周囲にわずかな芳香を放つ小さな花のようです。森林のように豊かで、多彩であり、巨大な、動きにあふれる世界をもった何人かの人たちがいます。その違いには何らかの理由があるはずです。


マハラジ あなたはすでに言ったではないか。あなたによればヨーガにおいて人は発育を妨げられ、ボーガにおいて育成するのだと。


質問者 そうではありませんか? ヨーギは人生を恐れ、平和を探し求めます。一方、ボーギは冒険的精神いっぱいに前進するのです。ヨーギは理想に束縛され、一方、ボーギはつねに探検する用意があります。


マハラジ それは多くを望むか、わずかで満足するかという問題だ。ヨーギは野心的だが、ボーギは単に冒険的だ。あなたのボーギはより豊かで、もっと興味深いように見える。だが、実際はそうではないのだ。ヨーギは鋭いナイフの刃先のように、狭く局限される。深く、ためらいなく、数多くの偽りの層を誤ることなく貫くために、彼はそうあらねばならないのだ。ボーギはたくさんの祭壇を崇拝する。ヨーギはただひとつ、彼の真我のみに仕えるのだ。
ヨーギをボーギに対立させるのは、まったく無駄なことだ。外面へ向かう道(プラヴリッティ)は、かならず内面への道(ニヴリッティ)に先行するものだ。判定を下したり、採点したりすることはばかげている。すべてが究極の完成に貢献しているのだ。ある人びとは、実在には三つの層があると言っている。真理、智慧、至福だ。真理を求める者はヨーギとなる。智慧を求める者はジニャーニに、幸福を求める者は行動の人となる。


質問者 私たちは非二元性の至福についての話を聞きました。


マハラジ 非二元性の至福は大いなる平和の本性なのだ。喜びと苦痛は正当、非正当といった行為の結果だ。


質問者 何がその違いを生みだすのでしょうか?


マハラジ 違いは与えることと、つかみ取ることにある。どの道を行こうとも最後にはみなひとつとなる。


質問者 もしゴールに違いがないのなら、なぜ多様な道に区別をもうけるのでしょうか?


マハラジ 各人がそれぞれの自然な本性にしたがって行動するがいい。いかなる場合であっても究極の目的に仕えることだろう。あなたの識別や分類はまったく正しい。だが私にとって、それらは存在しない。何の根拠がなくとも、夢の記述は詳細で正確かもしれない。同じように、あなたの区別分類もまた、憶測に合わせたものにほかならない。ある概念からはじめて、異なった衣装をつけた同じ概念で終えただけだ。


質問者 あなたはどのようにものごとを見るのでしょうか?


マハラジ 私にとっては、ひとつとすべては同じだ。同じ意識(チット)が存在(サット)と至福(アーナンダ)として現れる。動のなかの意識が至福であり、不動の意識が存在だ。


質問者 「我はそれなり」という信念も偽りなのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。信念とは精神的状態だからだ。「それ」のなかに「私は在る」はない。「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、「それ」は光を奪われる。しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダーナンダ)が訪れる。そして至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって束縛がはじまるのだ。
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