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最高の商品価値は時間だと思う!(゚Д゚)


マハルシ 他の人たちは世界を自分から分離したものとして見て、不完全性を感じているために不幸なのです。


マハラジ あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。


ハン・ヒョジュ! ハン・ヒョジュ!(゚Д゚)


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あなたが悟りの境地に達していないのは、本当はすでに悟っているのに、そのことに気づかないようにしているからです。あなたがそうすることを選ぶのは、何も邪悪な動機があるからではなく、神と分離した物質界で、自分自身が創造しているものにたえず魅了されているからにすぎません。


自分の幸不幸はただ一つのことにかかっている──つまり、自分が神の一部であると感じられるかどうか、ということです。そのことを思い出す機会を自分に与えてください。


あなたが自分自身の人生や死を創造することを怖れているのは、神の意志に反して創造することを怖れているからだ、ということを理解してください。





神はあなたに最悪を望んではいないし、ありきたりさえも望んではいません。





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質問者 人間と宇宙に関しての数多くの理論があります。創造の理論、幻想の理論、夢見の理論等々、数えきれません。どれが本物なのでしょうか?


マハラジ すべて本物で、すべて偽物だ。どれでもあなたの好きなものを選ぶがいい。


質問者 あなたは夢の理論を好んでいるようですが。


マハラジ それらはみな言葉をつなぎ合わせたものだ。ある人はある理論を好み、ほかの人は別のものを好む。理論は正しくも間違ってもいない。それらはただ説明不可能なことを説明しようと試みたものだ。理論が問題なのではなく、それがどのように試されるかが問題なのだ。理論を試すことがそれを価値あるものにする。あなたの好きなどの理論でも実験してみるといい。もし誠実で真剣であれば、実在の達成はあなたのものとなろう。ひとりの生きる存在として、あなたは苦痛に満ちた、やりきれない状況のなかにいる。そして解決法を探している。あなたのいる牢獄のいくつか異なった地図があなたに渡された。どれも本物とは言えない。だが、それらはみないくらかの価値をもってはいる。ただ、あなたが本当に真剣ならば。理論ではなく、あなたの真剣さが解放へと導くのだ。


質問者 理論は迷わせるかもしれず、真剣さは盲目にさせるかもしれません。


マハラジ あなたの誠実さがあなたを導くだろう。自由と完成への献身が、あなたにすべての理論やシステムを放棄させるだろう。そしてあなたは智慧と知性、そして愛とともに生きはじめる。理論は出発点としては良いが、いずれ放棄されなければならないものだ。早ければ早いほどいい。


質問者 真我の実現のためには、ヨーガの八段階の修練は必要なく、意志の力のみで充分だと説くヨーギがいます。純粋な意志の力への完全な確信をもって目的に集中するならば、ほかの者たちが何十年もかけて到達することも、努力なしに急速に達成すると言います。


マハラジ 集中力、絶対の確信、純粋な意志! そのような財産があれば、疑いなく瞬時に達成するだろう。このヨーギの説く意志は、ひとつを除いたすべての欲望をぬぐい去った成熟した探求者にとってはいいだろう。つまるところ、意志とは安定したハートとマインドのことなのだ。そのような不動の姿勢で望めば、達成できないものなど何もない。


質問者 ヨーギが意味していたのは、単に絶え間ない追求と勉学への不動の意志を意味していたのではないと私は感じています。目的への意志が確固であれば、どのような勉学も、研究も必要ないということです。単に意志をもっているという事実が、対象を引きつけるのです。


マハラジ あなたが意志、決心、一途な心、何という名でそれを呼ぼうと、つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。死ぬほど真剣なとき、あなたはあらゆる出来事、あらゆる人生の瞬間を本来の目的に結びつける。ほかのことであなたの時間とエネルギーを浪費したりはしない。あなたは目的に完全に献身する。意志、愛、あるいは誠実さと呼んでもいい。私たちは複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。昨日の仕事を今日取り消し、つねに自分自身に矛盾している。身動きがとれなくなるのも無理はない。ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。


質問者 欲望と運命、どちらがより強力なのでしょうか?


マハラジ 欲望が運命を形づくる。


質問者 そして運命が欲望を形づくります。私の欲望は遺伝と環境、チャンスと偶然、いわゆる運命によって条件づけされているのです。


マハラジ あなたの言うとおりだろう。


質問者 いつ私は望む自由をもてるのでしょうか?


マハラジ たった今、あなたは自由なのだ。あなたが望むことは何だろう? それを望むがいい。


質問者 もちろん、望むことは自由ですが、それに働きかけることは自由ではありません。ほかのものへの衝動が、私を迷わせるのです。たとえ私が容認したものでも、私の欲望は充分強くありません。私が容認しない欲望のほうが強いのです。


マハラジ おそらく、あなたはあなた自身を偽っているのだろう。たぶんあなたが容認する欲望は体裁を保つため表面にとどめておいて、本当の欲望には表現の機会を与えていないのだろう。


質問者 あなたの言うとおりかもしれません。しかし、それもまた別の理論です。事実は、私はすべきだと想うことを自由に望めないと感じ、正しく望んでいるように見えるときには、それにしたがって行為をしないのです。


マハラジ それはみな精神的弱さと、不完全な脳によるものだ。マインドを落ち着け、強化しなさい。そうすればあなたの思考、感情、言葉、行為は、あなたの意志の方向に沿うようになるだろう。


質問者 マインドを統合し、強化することはたやすい仕事ではありません。いったいどのようにはじめればいいのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたがいるところからはじめることができる。あなたは今ここに在る。今ここを離れることはできないのだ。


質問者 ですが、今ここで私は何ができるのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたの存在に気づくことができる。今ここで。


質問者 それだけですか?


マハラジ それだけだ。それ以上何もありはしない。


質問者 夢見の状態と目覚めの状態で、いつも私は自分を意識しています。それは大した助けにはなってはいません。


マハラジ あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。


質問者 どのような新しい要因をもちこめばいいのでしょうか?


マハラジ 出来事に巻きこまれることなく見守る、純粋な観照の姿勢だ。


質問者 それが私に何をするのでしょうか?


マハラジ 弱いマインドは知性と理解の欠如から起こる。それはまた不注意の結果でもある。気づきのために努力することによって、あなたはマインドをひとつにし、それを強力にするのだ。


質問者 私は何が起こっているかには完全に気づいているかも知れませんが、それに影響を与えることはまったく不可能なのです。


マハラジ そうではない。何が起こっているかは、あなたのマインドの投影なのだ。それゆえ、あなたのマインドとその投影に気づいていなさい。弱いマインドにはそれ自身の投影を制御することができない。あなたはあなたが知らないことを制御できないのだ。一方、知識が力を与える。その訓練はとてもシンプルなものだ。自己を制御するために、自己を知りなさい。


質問者 おそらく、私は自分を制御できるようにはなるかもしれません。しかし、世界の混乱を扱うことができるようになるでしょうか?


マハラジ あなたのマインドがつくり出した混乱以外に、世界の混乱というものはない。それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを中心に自己創造されるのだ。実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。


質問者 私は、自分が喜びへの欲望と苦痛への恐れによって、完全に動機づけされていることを見いだしました。いかに私の欲望が高尚であり、恐れが正当化されたとしても、喜びと苦痛は、その間で私の人生が振動する、二つの極なのです。


マハラジ 苦痛と喜び、恐れと欲望、その両方の源へと行きなさい。観察し、調査し、理解することを試みなさい。


質問者 欲望も恐れも身体的、精神的要因によって起こる感情です。それらはそこにあり、たやすく観察できます。しかし、なぜそれらはそこにあるのでしょうか? なぜ私は喜びを望み、苦痛を恐れるのでしょうか?


マハラジ そこに身体と身体を守るマインドが存在するかぎり、好感と反感は作用するだろう。それらが出来事のなかに現れても、あなたに影響することはない。あなたの留意の焦点は別の場にあり、それに迷わされることはないのだ。


質問者 それでも、それらはそこにあるでしょう。完全に自由になることは不可能なのでしょうか?


マハラジ あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の結果なのだ。普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろう。


質問者 しばしば、人びとは自らの意志で死にます。


マハラジ 選択が死より一層悪いときにかぎってだ。しかし、そのような死ぬ用意も生きる意志と同じ源から流れてくる。その源は生命そのものよりも深いものだ。生きる存在として在るということは、究極の状態ではない。その彼方には、何かはるかに素晴らしい、存在でも非存在でもなく、生命でも非生命でもないものがある。それが時間と空間の限界を超えた純粋な覚醒だ。ひとたびこの「身体─精神」が自己だという幻想が放棄されたならば、死はその恐怖を失い、それは生きることの一部となるのだ。


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マハルシ 問題は「自分は限定されている」と考えるために起こります。その考えは誤りです。そしてその誤りを自覚することはできるのです。

(対話63)


質問者 アートマ・サークシャートカーラ(真我実現)とは何でしょうか?


マハルシ あなたはアートマン(真我)であり、サークシャート(今ここにある直接体験)でもあるのです。そのどこにカーラ(実現)が必要でしょうか? この質問は、あなたが自分を真我ではないと考えていることを表しています。


この質問の根底には、あなたが自分自身を粗大な身体と同一視しているという事実があるのです。


今、あなたは自分自身を身体だと見なしています。そして自分の周りに物事を見るように、真我も目で見たいと考えているのです。習慣はそのように影響を与えるものです。


アートマ・サークシャートカーラとはアナートマ・ニラーサナ(真我ではないものの放棄)なのです。

(対話565)


神からくる答えだけを、あなたの祈りの答えとしてください。これこれが必要です、と訴えるまでもありません。





あなた自身より、神のほうがよくご存じです。そのことを信頼してください。





あなたの人生における神の存在に、心を開いてください。前向きに神から学び、神について学ぼうとしてください。


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「未知なる神」とは誰だったのか? それは私自身であり、夜の巣の中の鳥たちであり、葦に降った霜、夜明け、たそがれ時の空だった。それは太陽であり、月であり、子どもたちとその笑い声、なめらかな脚、流れる水、そしてニンニクと革と真鍮の香りだった。それはいつも私の目の前にあったのだが、私がこの理解にいたるまでには長い時間がかかった。「未知なる神」は月や太陽を超えたところにいるのではなかった。それは私のまわりにあるすべてのものだったのだ。この新しい考え方が生まれてからは、私は人生を抱き容れ始め、人生を大切なものだとみなし始めた。そして生きる理由にも気づき始めた。流血や死や戦争の悪臭よりもすばらしいもの、すなわち生命というものがあったのだ。それは、われわれがこれまでに考えていたよりも遥かに偉大なものだったのだ。


その後の長い年月の中で、私はまさにこの気づきを通して、人間はあらゆるものの中で最も偉大な存在であるということを理解するようになる。


生命とその絶え間ない継続性を観察し、それらについて熟考してはじめて、私には「未知なる神」が本当は誰なのかがわかった。「未知なる神」は人間の歪んだ考え方から創り出された神々ではない、という結論に私はいたった。人間のマインドの中に存在する神々は、単に彼らが最も恐れ、敬っているものが人格化したものにすぎないと気づいたのだ。つまり、本当の神とは、絶え間なく続く本質の部分であり、それこそが人間に、自分の選んだ通りの幻を何でも創造することを許し、その幻を最後まで演じきることを許しているのだ、ということに気づいたのだ。そして春がめぐり、人間がふたたびこの場所に戻ってきて別の人生を送るときにも、それは依然としてここに存在し続けているのだということに気づいた。生命の力と、その絶え間ない継続性の中にこそ、まさに「未知なる神」が存在するのだと私は気づいたのだ。


彼は、自分の全メッセージは「あなたは神である」という一言に集約することができる、と繰り返し強調してきました。


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マハラジ あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさい。あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。


質問者 私たちの基本的な違いは、あなたは真実を知り、私が知っているのは私のマインドの作用だけだということです。それゆえ、あなたの言うことと私の聞くことにはであいがないのです。言葉は同じでも、あなたが言うことは真実であり、私の理解することは偽りです。この私たちの間の隙間をどうやって埋めればよいのでしょうか?


マハラジ これがあなた自身であるという考えを放棄しなさい。そうすれば隙間はなくなるだろう。自分自身を分離していると考えることで、あなたは隙間をつくり出したのだ。隙間を埋める必要はない。ただ、隙間をつくらないことだ。すべてはあなたであり、あなたのものなのだ。そこにはほかに誰もいない。これが事実なのだ。


質問者 何と奇妙な! 同じ言葉自体が、あなたにとっては真実であり、私にとっては偽りなのです。「そこには他に誰もいない」、何と明らかな嘘でしょう!


マハラジ 嘘でも真実でもかまわない。言葉は重要ではないのだ。問題はあなた自身についてあなたが持っている考えなのだ。なぜなら、それがあなたを妨げているからだ。それを捨て去りなさい。


質問者 幼年時代から、私は名前と形に限定されていると考えるように教えられてきたのです。単なる反対の表明だけで、精神的な轍(わだち)を消し去ることはできません。定期的な洗脳が必要でしょう。もし可能であるならば。


マハラジ あなたは洗脳と呼び、私は轍を平らにするためのヨーガと呼ぶ。何度も同じ思考を思いめぐらすように強いられてはならない。進みなさい。


質問者 言うは易く行うは難しです。


マハラジ 子どもみたいなことを言ってはならない。苦しむより変えることのほうが易しいのだ。幼稚さから脱却しなさい。それだけだ。


質問者 そういったことは為されることではなく、起こることです。それらは起こるのです。


マハラジ すべてはつねに起こっている。だが、あなたはそれに用意ができていなければならない。用意のできていることが成熟なのだ。あなたが真理を見ないのは、マインドに用意ができていないからだ。


質問者 もし実在が私の本性ならば、どうして用意ができていないということがありうるのでしょうか?


マハラジ 用意ができていないのは、恐れているからだ。あなたはあなたが何であるかを恐れている。全体性があなたの目的地だ。だが、あなたは自己のアイデンティティを失うのが怖い。これが幼稚さだ。あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついているのだ。すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。それ以外何も存在をもってはいないのだ。これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。


質問者 もちろん、「私は在る」であり、また「私は知る」でもあります。そして、私は誰それであるということを知っており、身体の所有者であり、他の所有者との多様な関係のなかにいるということを知っています。


マハラジ それはすべて、今のなかに持ちこまれた記憶なのだ。


質問者 私が確信できるのは、今あることだけです。過去と未来、記憶と想像、これらは精神的状態です。しかし、それらが私が知るすべてであって、それらは今在るのです。あなたはそれらを放棄するように言いますが、いったいどうやって今を放棄できるのでしょうか?


マハラジ あなたはいやおうなく、つねに未来のなかに進んでいるのだ。


質問者 私は今から今へと進んでいるのです。私はまったく動いてなどいません。他のすべては動いても、私は動きません。


マハラジ 認めよう。だが、あなたのマインドが動いている。現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。マインドを裏表にひっくり返しなさい。動を無視しなさい。そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しかし岩のように確固たるものとして見いだすだろう。


質問者 もしそれが今なら、なぜ私は気づかないのでしょうか?


マハラジ あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。その考えを捨て去りなさい。


質問者 それは私を気づかせてはくれません。


マハラジ 待ちなさい。あなたは同時に壁の両側にいることを望んでいる。それはできる。だが、壁を取り去らなければならないのだ。あるいは壁とその両側はひとつの単一の空間であり、そこに「ここ」と「そこ」という観念は適応しないということを自覚しなさい。


質問者 比喩は何も証明しません。私の不満はひとつ、なぜ私はあなたの見ていることを見ないのでしょう、なぜあなたの言葉は私のなかで真実として響かないのでしょうか? ということです。これくらいは教えてください。ほかのすべては待てます。あなたは賢く、私は愚かです。あなたは見て、私は見ません。どこに私は智慧を見いだせばよいのでしょうか?


マハラジ もしあなたが愚かだということを知っているならば、あなたはまったく愚かではないのだ。


質問者 自分が病気だと知ることがそれを癒さないように、自分を愚かだと知ることは私を賢明にはしません。


マハラジ あなたが病気だと知ることが、健康になることのはじまりではないかね?


質問者 いいえ、違うのです。比べればわかります。仮に、私が生来盲目であって、あなたは物に触れることなしにそれを知ると私にいいます。私は触れなければなりません。私は見るということの意味を知らずに、自分が盲目であることに気づくのです。同様にあなたが主張することを私が理解できないとき、私には何かが欠けているということを知るのです。あなたは私について本当に素晴らしいことを語ります。あなたによれば、私は永遠で、遍在し、全知の、至上の幸福であり、存在するすべての創造者、維持者、破壊者、すべての生命の源、存在の本質、神、そしてあらゆる創造物にとっての最愛の者だということです。あなたは私を究極の実在、すべての存在のゴールとその源と同等だと言います。私はただ無視するだけです。なぜなら、私自身は欲望と恐れの小さな包み、苦しみの泡、暗黒の海中の、意識の一瞬のひらめきだと知っているからです。


マハラジ 苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去った後もあなたは残る。はかないのは苦痛であり、あなたではない。


質問者 すみません。しかし、私にはあなたの見るものが見えないのです。生まれた日から、死ぬ日まで、苦痛と快楽は人生の模様を織り込んでいくでしょう。誕生以前と死後の存在について私は何もわかりません。私はあなたを容認も否定もしません。あなたの言われることは聞きます。ただ私はそれを知らないのです。


マハラジ 今、あなたは意識がある。そうではないかね?


質問者 どうか、以前と以後については聞かないでください。私は今のことだけを知っているのです。


マハラジ それで充分だ。あなたは意識している。それをつかみなさい。あなたが意識していない状態がある。無意識の存在と呼ぶものだ。


質問者 無意識ですか?


マハラジ 意識と無意識はここではあてはまらない。存在は意識のなかにある。本質は意識に依存しない。


質問者 それは虚空でしょうか? 沈黙でしょうか?


マハラジ なぜ言葉巧みになるのかね? 存在は意識に浸透し、そして超越する。客観意識は純粋な意識の一部分であり、それを超えることはないのだ。


質問者 意識でも無意識でもない純粋な存在状態を、どのようにして知るに至ったのですか? すべての知識は意識のなかにのみ存在するのです。マインドの停止といった状態はあるかもしれません。そのとき意識は観照者として現れるのでしょうか?


マハラジ 観照者だけが出来事を記録する。マインドの停止状態では、「私は在る」という感覚さえも消え去る。マインドなしに「私は在る」はないのだ。


質問者 マインドがないということは思考がないということです。思考としての「私は在る」は静まり、存在の感覚である「私は在る」は残ります。


マハラジ マインドとともにすべての体験は静まる。マインドなしには体験者も体験もありえない。


質問者 観照者は残るのでしょうか?


マハラジ 観照者は単に体験の存在と不在を記録するだけだ。それは、それ自体では体験ではないが、「私は観照者だ」という思いが立ち現れたとき、それは体験となる。


質問者 私が知っていることといえば、マインドはときどき作用し、ときどき止まるということです。精神的沈黙の体験を、私はマインドの停止と呼んでいます。


マハラジ それを沈黙、または虚空、あるいは停止とでも呼ぶがいい。事実は体験者、体験すること、体験の三つが不在だということだ。観照のなか、気づきのなかでは、自意識、あれやこれとしての存在の感覚はない。自己同一化されない存在が残るのだ。


質問者 それは無意識の状態なのでしょうか?


マハラジ それは何とでも関係している。それは対極のものだ。それはまた、すべての対極の中間であり、その彼方でもある。それは意識でも無意識でもなく、その中間でもその二つを超えたものでもない。それはそれ自体で在り、体験やその不在といった何かとの関係はない。


質問者 なんと奇妙な! あなたはそれが体験であるかのように話をします。


マハラジ 私がそれについて考えたとき、それは体験になるのだ。


質問者 目に見えない光が花に遮られて色となるように、それは体験となるのでしょうか?


マハラジ そうだ。それは色のなかにあるが、色そのものではない。


質問者 古くからおなじみのナーガールジュナ(竜樹)の四重否定です。これでもなく、それでもない、その両方であり、そのどちらでもない。めまいがしそうです!


マハラジ あなたの困難は、実在を意識の状態と考えることから生じるのだ。あたかも実在が多様な尺度をもった属性か特質かのように、あなたは「これは真実で、あれは真実ではない。そしてこれは部分的に真実で、部分的に偽りだ」と言う傾向がある。


質問者 私ならこう言うでしょう。結局、意識は苦痛をともなったときに問題となるのです。永遠の至福の状態では、質問は起こりません。すべての意識は快楽と苦痛の混合なのです。なぜでしょうか?


マハラジ すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。


質問者 つまり、欲望なしに意識はないということなのでしょうか? では、無意識であることにどのような利点があるのでしょう? もし私が苦痛からの自由のために快楽を差し控えなければならないとしたら、私ならどちらも取っておくでしょう。


マハラジ 苦痛と快楽の彼方に至福があるのだ。


質問者 無意識の至福に何の価値があるのでしょうか?


マハラジ 意識でも無意識でもない、実在だ。


質問者 意識へのあなたの反対理由は何でしょうか?


マハラジ それは重荷なのだ。身体とは重荷だ。感覚、欲望、思考、これらはみな重荷なのだ。すべての意識は葛藤だ。


質問者 実在は真の存在、純粋な意識、無限の至福と描写されています。それが苦痛とどう関わってくるのでしょうか?


マハラジ 苦痛と快楽は起こる。だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによって傷ついている。苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。


質問者 これらはみな疑いなく、たいへん興味深い話です。しかし私のゴールはもっとシンプルなものです。私は人生において、より多くの快楽とより少ない苦痛が欲しいのです。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。


質問者 これらすべてが私にとって何だというのでしょうか?それは私を満足させてはくれません。


マハラジ あなたは誰だろうか? 誰が不満なのだろうか?


質問者 私は苦痛と快楽の人間です。


マハラジ 苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。苦痛と快楽は、至福の海の波の頂きと谷間だ。その底深くには完全な充足があるのだ。


質問者 あなたの体験は本当に不断のものでしょうか?


マハラジ それは時を超えた、不変のものだ。


質問者 私の知っているのは欲望と苦痛への恐れだけなのです。


マハラジ それはあなたが自分自身についてそう考えるだけだ。やめなさい。あなたが習慣をただちに打ち破れないなら、あなたが慣れ親しんできた考え方に注目し、その偽りを見破りなさい。習慣を問いただすことはマインドの義務だ。マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。そして外側にとどまりなさい。


質問者 正直なところ、私にはすべてがマインドによってつくられたという説明が信頼できません。目が手段であるように、マインドもまた手段にすぎません。あなたには知覚されたものが創造されたものだと言えますか?私は窓のなかにではなく、窓を通して世界を見ます。私たちに共通の基盤があるために、あなたの言うことはすべて筋が通って聞こえますが、あなたの基盤が実在のなかにあるのか、マインドのなかにだけあるのか私にはわかりません。ただマインドに映るものとしてとらえることはできます。それがあたにとってどんな意味をもつのか私にはわかりません。


マハラジ あなたがマインドのなかに立場を置くかぎり、あなたは私をマインドのなかに見るだろう。


質問者 言葉は理解するために何と不適切なのでしょう!


マハラジ 言葉なしでは、理解する何がそこにあるというのだろうか? 理解する必要は誤解から起こるのだ。私の言うことは真実でも、あなたにとっては、それはただの理論となってしまう。どうすれば、あなたはそれが真実だと知るようになるだろうか? 聞きなさい、覚え、熟考し、視覚化し、体験しなさい。あなたの日々の生活においてそれを生かしなさい。私に対して忍耐強くありなさい。特に自分自身に対して忍耐強くありなさい。なぜなら、あなたがあなたのただひとつの障害だからだ。道はあなたを通ってあなたを超えていく。特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表してきたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだということがわかるだろう。


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マハルシ 真我が実現された状態の中に創造はありません。
人は世界を見るとき、真我を見ていません。真我を見るとき、世界は見られていません。
だから、真我を見なさい。

(対話455)


マハルシ 心を内側に向けるには、心を直接「私」の中に落ち着かせなければなりません。そうしたとき外的な活動はやみ、完全な平和が支配するのです。

(対話519)


何か目に見えたら、それではありません。何か考えが浮かんだら、それではありません。あなたのすることでもありません。けれどもこうしたことの中に常にあるものです。


『わたしはイライラしている』と言うときの<わたし>はどんな感覚ですか。
『わたしは落ち着いている』と言うときにもその感覚がありますか。
あなたの中には決して変化しない何かがあります。それは生まれることも消えることもなく、いま起きていることを完全に知っています。何かがすべてを観察し、すべてを感じ、すべてに反応します。それから離れないでください。


狂気を目の前にしても、すぐれたセラピストは一つの絶対的真実を知っています。それは、患者の意識がどんなに混乱し、もうろうとしていても、人格の中心の核となるものは、依然として存在しているという事実です。意識が完全に存在しているところが、どこかにあるはずです。患者の内面の統合がなされている場所があり、セラピストは患者をその部分にくり返し連れ戻します。「私」というものを感じる部分がかならずあるのです。「私は気が狂っている。私は絶望している。私はもう何が何だかわからない」というときの「私」が、つねに存在します。


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存在する全てのものの本質とは何でしょうか? それらの源は何でしょうか? それらの本質は何でしょうか? それらの運命は? これらの問いへのラムサのアプローチは、彼の「ヴォイド」という概念から始まります。ヴォイドは、存在する全てのものが生じる源です。彼はヴォイドを「物質的には何もない広大な無でありながら、潜在的に全てのものでもある」と言う風に描写します。ヴォイドの中には何もありません。つまり動きも活動もありません。神に関する問いへの哲学的なアプローチの多くは(一神教の宗教の神学も含めて)、神というものを、「全知」、「無限」、「絶対」、「超越的」、「不変」の存在とみなしてきました。ラムサの体系では、絶対性、無限性、不変性といった属性は、ヴォイドの持つ性質です。ヴォイドは自己完結的、自己充足的であり、一種の休止した状態、何も必要としない状態です。ヴォイドは、全てを包含する広大なもののように見えるにもかかわらず、その原初の状態では、自分自身について何も知りません。というのも、知るということは、ひとつの活動だからです。


アリストテレス哲学やトマス・アクィナス神学の中に私たちが見いだす、創造者としての神の概念、すなわち「第一原因」、「不動の動者」といった概念は、ラムサによって、「自分自身について熟考し、自分自身を知ろうとするヴォイド」という言葉で描写されます。この「熟考」という行為は、自分自身に気づき、自分自身を知っているひとつの点を生み出すという、ヴォイドの中での独特の動きを象徴しています。自分自身に気づいているこの点は、「ゼロポイント」、「観察者」、「第一意識」、「意識とエネルギー」、「神」と呼ばれています。ゼロポイントは、広大なヴォイドの中に潜在的可能性として含まれている未知のものをすべて体験して既知にする、という原初の意図をたずさえています。これが進化の基礎です。自分自身について熟考したヴォイドは、人間の源であり、起源です。「あなたは神である」というラムサの言葉は、人間は観察者であり、ゼロポイントが肉体化したものであり、創造的な意識とエネルギーである、ということを言っているのです。


喜びとは何なのか? 喜びとは、何の邪魔も入らない動きの自由のことだ。それは、何の審判もなく表現する自由だ。恐れや罪悪感なしに存在する自由のことだ。喜びとは、あなたが自分自身の視点から人生を創造していることを知っている状態である。それは自己の崇高な動きが許されている状態だ。それが喜びである。


喜びにあふれた状態になるためには、どうすればいいのだろうか? もし自分が望むのであれば、自分の人生のあらゆる瞬間が、喜びを表現するための自由と機会を自分に与えてくれているのだと知ることによってである。そして、幸せや喜びや神から自分を切り離すに値するものなど、何ひとつないのだと知ることによってである。実際にそんなものは何もないのだ。そして、自分自身を完璧に愛しつくすことによってである。自分を愛するとき、あなたは神を愛していることになるからだ。


人生の中で、自己への愛よりも偉大な愛はない。それ以上に偉大な愛はないのである。なぜなら、自分を抱き容れてはじめて、自由というものが存在するからだ。そして、喜びが生まれてくるのはその自由からなのだ。


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質問者 今この瞬間、あなたはどのような状態にいるのでしょうか?


マハラジ 無経験の状態だ。そのなかにすべての経験が含まれている。


質問者 あなたはほかの人のマインドやハートのなかに入って、体験を分かちあうことができるのでしょうか?


マハラジ いいや。そのようなことには特別な訓練が必要なのだ。私は小麦を扱う商人のようなものだ。私はパンやケーキに関してはまったく知らない。麦粥の味さえ知らないかもしれない。だが、小麦という穀物に関してはすべて良く知っている。私はすべての体験の源を知っている。しかし、数知れない特定の形態が体験することがらを知ることは、私にはできないし、また知る必要もない。そのときどきにおいて、人生を生きていくために知る必要のあることはほんのわずかであり、私はどうにか、かろうじて知っているだけだ。


質問者 あなたの特定の存在と私の特定の存在は、創造神であるブラフマーのマインドのなかに存在するのでしょうか?


マハラジ 普遍なるものは特定のものには気づいていない。個人としての存在は個人的なものだ。個人は時間と空間のなかに存在し、名前と形をもち、はじまりと終わりがある。普遍なるものはすべての個人を含んでいる。絶対なるものはすべての根底にありながら、すべてを超えているのだ。


質問者 私は全体性には関心がありません。私の個人的な意識とあなたの個人的な意識──その二つを結ぶものは何でしょうか?


マハラジ 二人の夢を見ている人に、どんなつながりがありうるだろうか?


質問者 彼らは互いを夢見合うかもしれません。


マハラジ それこそ人びとがしていることだ。誰もが「他者」を想像し、その間につながりを探し求めている。探している人こそがつなぎ目なのだ。他者というものは存在しない。


質問者 多くの意識の点である私たちの間には、何か共通のものがあるに違いありません。


マハラジ 多くの点とはどこにあるのだろうか? あなたのマインドのなかだ。あなたはあなたの世界がマインドから独立していると主張している。どうしてそうありうるだろう? 他者のマインドを知りたいという欲望は、あなたがあなた自身のマインドを知らないためだ。まず、自分のマインドを知りなさい。そうすれば、他者のマインドという疑問は生じないだろう。なぜなら、「他者」など存在しないからだ。あなたが共通要素、すべてのマインドの連結部なのだ。存在とは意識だ。「私は在る」はすべてにあてはまるのだ。


質問者 至高の実在(パラブラフマン)は、私たちすべてに内在しているかもしれません。しかし、それが私たちにとって何になるというのでしょうか?


マハラジ あなたはあたかも「私はものをしまう場所が必要だ。だが、空間が何の役に立つというのだろうか?」あるいは、「私はミルクか紅茶、コーヒーかソーダが欲しい。だが、水は何の役にも立たない」と言っている人のようだ。至高の実在がすべてを可能にしているということが、あなたにはわからないだろうか? だが、もしそれが何の役に立つのかときくならば、「何の役にも立たない」と言わねばならない。日々の生活においては、実在を知る人には何の利点もないのだ。むしろ、彼は不利な状態にあると言えよう。欲望と恐れから自由な彼は、自分自身を守ろうとしないからだ。利益という概念自体が、彼にとっては異質なものなのだ。彼は増加や増大を嫌う。彼の人生とは、絶え間なく己から剥ぎ取り、分かちあい、与えることだ。


質問者 もし至高なるものを得ることに何の利点もないのならば、なぜそのために骨を折るのでしょうか?


マハラジ あなたが何かにしがみつくときだけ、心配事は生まれる。何にもしがみつかなければ、何の心配もない。より劣ったものを放棄することは、より偉大なものを得ることなのだ。すべてをあきらめなさい。そうすれば、あなたはすべてを得るだろう。そのとき、人生はその目的通り、無尽蔵の源からの純粋な輝きとなる。世界はその輝きのなかに、夢のようにぼんやりとかすんで現れるのだ。


質問者 もし私の世界が単なる夢であり、あなたはその一部であるとするならば、いったい私のために何ができるというのでしょう? もし夢が真実ではなく、存在していないと言うのならば、実在はどのようにそれに影響を与えるのでしょうか?


マハラジ それが続くかぎり、夢は一時的な存在をもっている。問題をつくり出すのは、あなたがそれにしがみついて離さないからだ。手放しなさい。夢があなたのものだと想像することをやめるのだ。


質問者 どうやら、あなたは夢を見る人なしに夢がありえ、私は私の勝手気ままな夢と自己同一化していると決めてかかっているようです。しかし、私は夢見る人であり、また夢でもあるのです。誰が夢見ることをやめるというのでしょうか?


マハラジ 夢に最後までそれ自体を繰り広げさせるがいい。あなたにはどうすることもできない。だが、夢を夢として見、実在の痕跡として拒否することはできるのだ。


質問者 ここで、私はあなたの前に座っています。私は夢を見ていて、あなたは私が夢のなかで話しているのを見ています。私たちの間に何のつながりがあるのでしょうか?


マハラジ あなたを目覚めさせようという私の目的がつながりなのだ。私のハートはあなたに目覚めてほしい。私はあなたが夢のなかで苦しんでいるのを見ている。そしてあなたが不幸の終焉へと目覚めなければならないことを知っているのだ。夢を夢として見るとき、あなたは目覚める。だが、私はあなたの夢自体には興味がない。私にとっては、あなたが目覚めなければならないと知ることだけで充分だ。夢の人生において一定の成果をあげる必要はないのだ。あるいは、それを高尚なものにしたり、幸福で美しいものにしたりする必要もない。あなたに必要なことはただ、夢を見ているということを自覚することなのだ。想像することをやめなさい。信じるのをやめなさい。矛盾と不調和、虚偽と悲しみの人間の状態を見るがいい。そして、それらを超えていく必要性を見なさい。無限の空間のなかに微小な意識の原子が浮遊している。そして、宇宙はそのなかに包含されているのだ。


質問者 夢のなかには、真実で、永遠に続くように見える愛があります。それらもまた目覚めとともに消え去るのでしょうか?


マハラジ 夢のなかで、あなたは誰かを愛し、ほかの人は愛さない。目覚めとともに、あなたはあなた自身がすべてを包含する愛そのものだと知るのだ。個人的な愛は、いかに強烈で真正なものであっても、かならず束縛することになる。自由のなかでの愛は、すべての愛なのだ。


質問者 人びとは来ては去っていきます。人は出会う人を愛するのです。すべてを愛することはできません。


マハラジ あなたが愛そのものであるとき、あなたは時間と数を超える。ひとりを愛することのなかで、あなたはすべてを愛し、すべてを愛することのなかで、あなたはひとりひとりを愛する。ひとりとすべては背反していないのだ。


質問者 あなたは時間を超えた状態にいると言われました。それはつまり、過去と未来があなたに対して開かれているということなのでしょうか? あなたはヴァシシュタ・ムニ、ラーマのグルに出会いましたか?


マハラジ その質問は時間のなかにあり、時間についてのものだ。またしても、あなたは夢の内容について尋ねている。永遠は時間という幻想を超えたものであり、時間の延長ではないのだ。自らをヴァシシュタと名乗るその人がヴァシシュタを知っているのだ。私はすべての名前と形を超えている。ヴァシシュタはあなたの夢のなかに現れた夢なのだ。どうして私に彼を知ることができるだろう? あなたは過去と未来に関心をもちすぎている。それはみな、あなたの存在を継続させたい、自分自身を消滅から守りたいという切望から起こるのだ。あなたは継続することを求めるために、ほかの人たちに一緒にいてもらいたい。それゆえ彼らの存続に関心をもつのだ。しかし、あなたが呼ぶ存続とは、夢の存続にすぎない。それよりは死のほうが望ましい。そこには目覚めるチャンスがあるからだ。


質問者 あなたは永遠に気づいています。それゆえ、存続には関心がないのでしょう。


マハラジ それはその反対だ。すべての欲望から自由であることが永遠なのだ。すべての執着は恐れを暗示している。なぜなら、すべてのものごとは、はかない、つかの間のものだからだ。そして、恐れは人を奴隷にしてしまう。この執着からの自由は、修練によってもたらされるものではない。人が自己の真の存在を知ったとき、自然に執着から自由になるのだ。愛は執着しない。執着は愛ではないのだ。


質問者 では、無執着を得る方法はないのでしょうか?


マハラジ そこに得るようなものは何もない。すべての想像を放棄して、真我を知りなさい。自己知識が無執着なのだ。すべての切望は不充分な感覚から生じる。何も不足してはいないと知ること、存在するものすべてはあなたであり、あなたのものなのだと知ることで欲望はやむのだ。


質問者 自己を知るために、私は気づきの訓練をしなければならないのでしょうか?


マハラジ 訓練しなければならないことは何もない。自己を知るために、あなた自身で在りなさい。あなた自身で在るために、あなたがあれやこれだと想像することをやめなさい。ただ在りなさい。あなたの真の本性を現れさせるがいい。探求によってかき乱されてはならない。


質問者 もし私がただ待っているだけならば、真我の実現にたいへんな時間がかかってしまいます。


マハラジ それが今ここにすでにあるとき、何を待つというのだろう? ただよく見て、見いだすだけなのだ。あなた自身を、あなたの自己の存在を見なさい。あなたはあなたが存在することを知っている。そして、あなたはそれを愛しているのだ。すべての想像を捨て去りなさい。それだけだ。時間に頼ってはならない。時間とは死だ。待つ者は──死ぬ。生命は今だけに在る。私に過去や未来を語ってはならない。それらはあなたのマインドのなかにのみ存在するのだ。


質問者 あなたもまた死ぬでしょう。


マハラジ 私はすでに死んでいるのだ。私の場合、身体的な死は何の違いももたらさない。私は永遠の存在だ。私は欲望と恐れから自由なのだ。なぜなら、私は過去を思い出さず、未来を想像しないからだ。何の名前も形もないところに、どうして欲望や恐れが存在できるだろうか? 無欲とともに永遠がもたらされるのだ。私は安全だ。なぜなら、存在しないものが存在するものに触れることはできないからだ。あなたは安全ではない。なぜなら、あなたは危険を想像するからだ。もちろん、あなたの現在の身体は複雑で傷つきやすく、保護を必要としている。しかし、あなたがではない。ひとたび、あなたが難攻不落の存在であると自覚したならば、マインドは平和になるだろう。


質問者 世界が苦しんでいるとき、どうして私に平和を見いだすことができるでしょうか?


マハラジ 世界が苦しむのは、それなりの妥当な理由があるのだ。もしあなたが世界を助けたいのなら、あなた自身が助けの必要性を超えなければならない。そうすれば、あなたのすること、そしてしないこともまた、もっとも効果的に世界を助けるだろう。


質問者 行為が必要なときに、どうして無為が役に立つのでしょうか?


マハラジ 行為が必要なときには、行為は起こる。人は行為者ではないのだ。彼は起こっていることに気づいて在る。彼の存在そのものが行為なのだ。窓は壁の不在だ。そして、それが空気と光を与える。なぜなら、それが空だからだ。すべての精神的内容、すべての想像と努力を空っぽにしなさい。そうすれば、その障害の不在そのものが、実在が流れこんでくる場を与えるのだ。もし本当にある人を助けたいと思うならば、近づかずにいることだ。感情的に助けることに専心しようとすれば、果たせずに終わってしまうだろう。あなたは非常に忙しく駆けまわり、自分の慈愛的な性質にとても満足するかもしれない。だが、大した助けにはならないだろう。人が本当に助けられるのは、彼がもはや助けを必要としなくなったときなのだ。それ以外はすべて無用のものだ。


質問者 ただ座っていながら助けが起こるのを待っているほど、充分な時間はないのです。人は何かをしなければなりません。


マハラジ もちろんそうするがいい。しかし、あなたにできることはかぎられている。自己だけが無限なのだ。あなた自身をかぎりなく与えるがいい。それ以外のすべては、わずかな量でしか与えることはできない。あなただけが計り知れないのだ。助けることはあなたの本性だ。食べたり飲んだりするときにも、あなたは身体を助けているのだ。あなた自身のためには、何も必要ない。あなたは純粋な明け渡しだ。無始無窮であり、無尽蔵なのだ。あなたが悲しみや苦しみを見るときは、それとともに在りなさい。性急に行動に走ってはならない。学ぶことも行動も、本当の意味での助けにはならないのだ。悲しみとともにありなさい。そして、その根底にあるものを露わにしなさい。理解することを助けることが、本当の助けとなるのだ。


質問者 私の死は近づいています。


マハラジ 時間が足りないのはあなたの身体だ。あなたではない。時間と空間はマインドのなかにのみある。あなたは束縛されてはいないのだ。ただ、あなた自身を理解しなさい。そのこと自体が永遠なのだ。


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完全さは、あなたが真実を話すとき、人を感心させようという願いを捨てるとき、いつわりの自尊心を放棄するときに、ひとりでに、また楽に達成されるものなのです。
自分を修正し、正しくしてくださいと願うものは、それを受けとるでしょう。それはその人が他人より良い人間であったからではなく、ただそれを願い求めたからです。
自分の過ちを認める準備のできていない人たちを、悪いと判断しないでください。ただ自分の過ちを認め、あとは神におまかせします。
あなたの経験を人と分かちあってください。でも、押しつけてはいけません。あなたには、ほかの人が何を必要としているかわからないのですし、それはあなたが知らなくてよいことです。
兄弟の中にある善を思い出してください。あなた自身の中の善を思い出してください。どんな恐怖心や判断の気持ちがわきおこっても、その場で溶かし去ってください。自分の過ちを認め、他人の過ちに寛大になりなさい。


人を裁くかわりに、自分が<思考の目>を持っていることに気づいてください。そして世界や人生やものごとを自分がどのように見たり考えたりしているのか、詳しく観察するのです。人と話すときには、自分が何を言っているのかに注意を払ってください。何かを主張し、自分が<正しい>ことを相手に納得させようとしている──そうした自分の言葉によく耳を傾けてください。自分らしく振るまい、自分の考えを述べ、したいことをしてください。ただ、どうか自分の言葉に耳を傾けてください。そして自分の考えのもとになっている固定観念は何なのか、自分自身に問いかけてください。
話しているときに、人は自分のこうした固定観念にあまり注意を払っていません。ですから自分の話す言葉をよく聞いて、「この考えはどこから来たのだろうか。こうであるべきだと誰から教わったのだろうか」と自問してみてください。固定観念を手元に持ってきて、よく調べてみるのです。そうすれば、その考えがどのようにして生まれたのか、どのようにして自分の考えになったのか、が理解できるようになるでしょう。


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生命からの分離と、「不完全」と呼ばれる理解は、何かがほかのものよりも偉大であるとみなしたときにのみ生じるものである。だが、生命という現実の中では、何かがほかのものより偉大であったり劣っていたりすることはない。すべてのものはただ在るだけであって、「在ること」という平等性の中にあるのだ。それゆえ、すべてのものは「完全な状態」、もっと適切な言い方をすれば、「在るという状態」、「ただ存在するという状態」にある。何かをその本当の姿である「在ること」という完全性よりも劣っているとみなすのは、態度という集合的な思考だけなのだ。


さて、最大の分離は、あなた方が人間という化身に入ったときに起こった。その時点までは、あなた方は自分をすべてのものから分離させ始めてはいたが、それでもまだ自分が神であること、そして自分の存在が不死であることを知っていたのである。だが、あなた方が自分を化身のレベルまで下げ、細胞物質という現実を体験し始めたとき、空腹や寒さや生存といった肉体的機能にとらわれてしまったのだ。つまりそれは、自分がなった化身を維持するための苦労のことである。こうして、あなたは細胞物質と結びついたわけだが、細胞物質は、それが創造されたときに、それ自体が生存していけるようにプログラムされていた。偉大なる不死の存在と、自らの構造を生き延びさせようとする物質的機構との結婚は、「ただ在る」というあなたの自我の状態を大きく変質させた。これが「知識の木」、すなわち「変質した自我」の誕生である。そして、あなたの変質した自我をさらに強め、自分は神であり、不死であり、すべての生命とひとつであることを「知っている状態」をさらに変質させたのは、この天界での恐れや競争や嫉妬といったさまざまな感情の体験であったが、それらの感情は魂に記録され、細胞構造の中にプログラムされていったのである。


神々が最終的に自分たちを男と女という形に変え、自分たちがほかの創造物よりも賢くなり、ほかの創造物から逃げられるようになることにすべての意識を集中したとき、神々は変質した生の状態に入ってしまった。皮肉だったのは、自分たちを餌食にする動物からは逃げられたとしても、自分たちの意識を支配し始めていた生存に関わるさまざまな態度からは逃げられなかったことだ。生存に関わる態度と死に対する恐怖が、結局は神々の体を衰えさせてしまったのである。というのも、ある存在がどんなものを恐れていようと、その存在は恐れているものそのものになっていくからだ。


残念なことに、「すべての生命と一体である」という理解は、創造物をデザインしていく過程で、「より偉大である」、「すぐれている」といった思考と競争を通してすでに失われ始めていた。


マスターよ、このことを言っておきたい。すべてのものと一体である状態は、本当にわずか一瞬、わずか一息しか離れていないのだ。自分の存在の奥深くで、もはやいかなるものとも自分を切り離したくないと望むとき、あなたはもはや切り離された存在ではなくなる。すべての思考から自分を切り離してきたのは、あなたの態度、制限された考え方、変質したアイデンティティーにほかならない。


マスターよ、自分であるものを愛しなさい。それを愛するのだ。自分が永遠の存在であり、自分は神なのだと知りなさい。ただそれを知るのだ。それを感じ、その思考を抱き容れなさい。多くの時代を通してあなたを守ってきた本能という遺産が、自分は死すべき人間ではなく、まさに不死の存在であり、自分は限られた人間ではなく、まさに限りない神なのだという「知っている状態」に出会ったとき、あなたの魂はこの限りない思考をあなたの化身の全細胞に伝え、それによって細胞は歓喜することだろう。そうなれば、あなたの体は、その中に宿る偉大なる神の無限の思考に喜んでしたがうようになる。そして、これまであなたの体は、本能的な生存のために不安や用心深さを保持してきたのだから、今や体がその細胞の中に無限の神を宿し、体中の物質が「神なる自分」のすべてと整合した状態へと統一されるときがきているのだ。


マハルシ この詩節の真の意義は、アートマンだけをとらえ、そこから道を踏み外さないことです。


問題が起こるのは、自分自身以外のものが存在するときです。「アートマンは唯一存在する一者である」ということを真に理解すれば、他者もなく恐れの原因もなくなるでしょう。


真我に心をとどめ、行為者という感覚なしに、自然に行為しなさい。そうすれば、行為の結果があなたに影響することはないだろう。


「真我の内に在る」ことが『ギーター』の教えの大要であり、精髄なのです。

(対話58)


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質問者 賢者の日々のマインドの状態とはどのようなものでしょうか? 彼はどのように見、聞き、食べ、飲み、目覚め、働き、そして休むのでしょうか? 彼の境地が私たちのものと異なるという証拠は何でしょうか? いわゆる実現したと言われる人びとの証言以外に、客観的に彼らの状態を証明する方法はありません。何か観察可能な違いが彼らの生理学的な、そして神経反応、物質代謝、または脳波、あるいは心身相関の構造のなかにあるのでしょうか?


マハラジ あなたは違いを見つけるかもしれないし、見つけないかもしれない。すべてはあなたの観察の能力にかかっている。しかしながら、客観的な違いがもっとも重要なものではない。問題は彼らの見地と彼らの態度にある。それは超然として、冷静で、完全に無執着で在ることだ。


質問者 ジニャーニの子供が死んだとき、彼は悲しみを感じるのでしょうか? 彼は苦しまないのでしょうか?


マハラジ 彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。出来事自体が重要なのではない。だが、生きていようと死んでいようと、身体のなかにいようと外にいようと、彼は苦しむ人たちに対して慈悲に満ちている。やはり、彼の本性は愛と慈悲なのだ。彼はすべての生命とひとつであり、行為のなかでひとつであることが愛なのだ。


質問者 人びとは死をとても恐れています。


マハラジ ジニャーニに恐れるものは何もない。だが彼は恐れている人を憐れむ。つまるところ、生まれること、生きること、そして死ぬことは自然なことだ。恐れることは自然ではない。もちろん、起きていることに注意は払われる。


質問者 あなたが病気だと想像してください。医師が、あなたの病状は深刻なもので、あと二、三日しかもたないだろうと言ったとします。あなたの最初の反応は何でしょうか?


マハラジ 無反応だ。線香の火に燃えつきるときが来ることが自然なように、身体が死ぬのは自然なことだ。それはまったく重要な問題ではない。重要なことは、私は身体でもマインドでもないということだ。私は在る。


質問者 あなたの家族は絶望するでしょう。彼らに何と伝えるのでしょうか?


マハラジ よく言われることだ。恐れてはならない。人生は続いていく。神があなたたちを守るだろう。私たちはすぐにまた一緒になるだろう、といったことだ。だが、私にとってこの動揺全体は無意味なものだ。なぜなら、私は生きるとか死ぬといった想像をする実体ではないからだ。私はけっして生まれなかった。私に死ぬことはできないのだ。私には覚えることも忘れることもない。


質問者 死者への祈りはどうなるのですか?


マハラジ もちろん、死者への祈りを捧げるがいい。それはとても彼らの意にかなうだろう。彼らは嬉しく思う。ジニャーニはあなたがたの祈りを必要としていない。彼自身があなたがたの祈りへの応えなのだ。


質問者 死の後、ジニャーニはどのように旅立っていくのでしょう?


マハラジ ジニャーニはすでに死んでいる。あなたは彼にもう一度死ぬことを期待するのかね?


質問者 もちろん、身体の崩壊はジニャーニにとっても重要な出来事に違いありません。


マハラジ ジニャーニに重要な出来事というものはない。誰かが最高の目的を成就したときを除いては。そのときだけは、彼のハートも喜ぶ。それ以外のすべてに対して彼は関心がない。宇宙全体が彼の身体であり、すべての生命は彼の生命なのだ。都会でひとつの電球が切れたとき、それがネットワーク全体に影響を与えることはない。同じようにひとつの身体の死が全体に影響を与えることはないのだ。


質問者 特定の存在は、全体にとって問題ではないかもしれませんが、特定の存在にとっては問題です。全体とは抽象的なものですが、特定の存在は具体的なものであり、現実です。


マハラジ それはあなたがそう言うだけだ。私にとってはその反対だ。全体が現実で、部分は来ては去るものだ。特定の存在は誕生、再誕生し、名前と形を変えていく。ジニャーニは、その変化を可能にする不変の実在なのだ。しかし、彼はあなたに確信を与えることはできない。それはあなた自身の体験とともにやってこなければならないのだ。私にとってはすべてがひとつであり、すべてが同等だ。


質問者 罪と徳はひとつであり、同じものなのでしょうか?


マハラジ それらはみな人間のつくり出した価値だ。それらが私にどんな意味をもつというのだろう? 結果的に幸福をもたらすなら、それは徳だ。結果的に不幸をもたらすものは罪だ。どちらもマインドの状態だ。私の境地はマインドの状態ではないのだ。


質問者 私たちは見るということの意味を理解できずにいる盲人のようです。


マハラジ あなたの好きなように言うがいい。


質問者 沈黙の修練は、サーダナとして効果的なものでしょうか?


マハラジ 何であれあなたが悟りを得るためにすることは、あなたを悟りへと近づける。何であれあなたが悟りを覚えることなしにする行為は、あなたを悟りから遠ざける。だが、なぜそう事を複雑にするのかね? ただ、あなたはすべてのものごとや思考を超えているということを覚えておきなさい。あなたが成りたいもの、あなたはすでにそれなのだ。ただ、それを心にとどめておきなさい。


質問者 あなたの言うことは聞いていますが、私には信じられないのです。


マハラジ 私もまた同じ立場にいたのだ。だが、私はグルを信頼し、彼はそれが正しいことを証明した。もしできるならば、私を信頼しなさい。私の言うことを心にとどめておきなさい。何も望んではならない。なぜなら、あなたは何ひとつ欠いてはいないからだ。探すということ自体が見つけるということを妨げるのだ。


質問者 あなたは本当にすべてのことに無関心なようですね!


マハラジ 私は無関心なのではない。公平なのだ。私には、私と私のものへの選り好みがないのだ。かごいっぱいの土とかごいっぱいの宝石はどちらも不要なものだ。生と死はどちらも同じことだ。


質問者 公平さがあなたを無関心にするのです。


マハラジ その反対に、慈悲と愛が私の核だ。すべての偏愛を離れ、愛することに自由なのだ。


質問者 仏陀は、悟りの概念は非常に重要なものだと言いました。ほとんどの人たちは、悟りのために努力している人たちがいることはもちろん、そのようなものがあるということさえ知らずに生きています。ひとたび、彼らがそれについて耳にしたなら、けっして絶えることのない種子がまかれたのです。それゆえ、彼は毎年八カ月間、彼の比丘(ビク)たちに絶え間なく教えを説くように送りだしたのです。


マハラジ 「人は食物、衣服、住居、知識、愛情を与えることができるが、最上の贈り物は悟りの福音だ」と私のグルはよく言ったものだった。あなたの言うとおりだ。悟りは最上の贈り物だ。ひとたび、それを得たら、誰もそれをあなたから取り上げることはできない。


質問者 もし西洋であなたがこのように話したら、人びとはあなたを狂人だと思うでしょう。


マハラジ もちろん、彼らはそう思うだろう! 無知なる人びとにとって、彼らに理解できないことはすべて狂気なのだ。それが何だというのだろう? 彼らは彼らのままであればいい。私が私であることに何の益もなく、彼らが彼らであることに何の過ちもない。至高の実在は無数の方法でそれ自身を顕現する。果てしない数の名前と形がある。同じ海のなかにすべては立ち現れ、すべては溶けあう。すべての源はひとつだ。原因と結果を探し求めることはマインドの娯楽にすぎない。存在するもの、それは愛すべきものだ。愛は結果ではなく、存在の基盤そのものだ。どこへ行こうと、あなたは存在と意識と愛を見いだすだろう。いったいどうして、何のために選り好みをするのだろうか?


質問者 洪水や地震のような自然災害が、何千何百万人もの命を奪うことがあっても、私を悩ましはしません。しかし、ひとりの人間が人の手によって死ぬとき、私は途方もなく悲しみます。不可避のものにはそれ自体の威厳があります。しかし、殺すことは避けることができるものです。そしてそれゆえ、醜く恐ろしいものなのです。


マハラジ すべては起こるように起こるのだ。自然なものであれ、人為的なものであれ、災難は起こる。怖がる必要はないのだ。


質問者 原因なしに何かがありうるのでしょうか?


マハラジ すべての出来事のなかに宇宙全体が反映されている。究極的な原因の由来を調べることは不可能だ。因果律の概念自体はただの考え方にすぎない。原因のない存在の出現を想像することはできない。しかしながら、それが因果関係の存在を証明するわけではないのだ。


質問者 自然にはマインドがありません。それゆえ、責任はありません。しかし、人にはマインドがあります。なぜ人のマインドはそれほどまで邪悪なのでしょうか?


マハラジ 邪悪さの原因もまた遺伝や環境などの自然なものだ。あなたは性急に非難しすぎる。他者について思い煩うことはやめなさい。あなた自身のマインドを最初に扱いなさい。あなたのマインドもまた、自然の一部分であることを自覚すれば、二元性は消え去る。


質問者 私には計り知れない不思議としか言えません。マインドがどうして自然の一部分でありうるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、自然はマインドのなかにあるからだ。マインドなしで自然がどこにあるだろうか?


質問者 もし自然がマインドのなかに在り、マインドが私自身のものならば、私は自然を制御できるはずですが、それは事実ではありません。私の制御を超えた力が、私の行動を決定するのです。


マハラジ 観照の姿勢を発達させなさい。そうすれば、あなたは無執着が制御をもたらすということを自らの体験をもって見いだすだろう。観照している状態は完全な力をもっている。そこには何も受動的なことはないのだ。


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マハルシ あなたは純粋意識なのです。グリハスタ・ダルマも世界も純粋意識の上に現れた単なる現象にすぎず、それは影響を受けることなくとどまります。


疑いが誰にとって起こるのかを見なさい。疑う者とは誰でしょうか? 考える者とは誰でしょうか? それは自我です。それをとらえなさい。
自我がどこから立ち現れるのかを見いだしなさい。それが純粋意識なのです。


「私は実現できるだろうか?」という疑いや、「私はまだ実現していない」という感覚自体が障害なのです。

(対話251)


マハルシ ヨーギーは脳の中枢、あるいは千の花弁の蓮と呼ばれるサハスラーラに達することを最重要視しています。
事実は、身体は心の中に存在し、心は脳をその座としています。
その源に直接向かいなさい。借り物の源泉に依存してはならないのです。


集中とは一つのことを考えることではありません。その反対に、それは私たちの真の本性のヴィジョンを妨げるすべての想念を取り除くことなのです。

(対話398)


質問者 どうすればアートマンを見いだせるでしょうか?


マハルシ アートマンの探究ということはありえません。真我ではないものだけが探究の対象となり、それを排除することだけが可能なのです。

(対話78)


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。


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愛と希望と喜びを内にはらんだあなた方の大切な魂が、叡智と思いやりの荘厳な花へと開いていく中で、そして見える見えないにかかわらずあらゆる生命を抱き容れる愛の荘厳な花へと開いていく中で、この天界でのあなた方の人生の日々を通して、私はつねにあなた方全員とともにあるだろう。だが、そのような瞬間よりも、あなたが自分の内面に神を見て、神を理解し、神を知る瞬間のほうが、遥かに、遥かに偉大な瞬間なのである。


さて、これまで私は、考えられる限りのあらゆる言い方で、何度も何度も繰り返し、あなたが知り得る最も偉大な真実を語ってきた。その真実とは、「あなたは神である」ということだ。


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質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


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