忍者ブログ

第三のヒロシマ前夜29


あなたが無常の世界から不変の世界へと意識を移行させて、自分の「愛のこころ」のなかに百回、千回、いや一万回と意識を沈潜していくと、あなたを愛情深い思いやりへと動かすエネルギーが生まれてきます。





この点がわかるまで、あなたはどんなに努力しても、けっして自由になることはありません。






マハルシ 内面深く沈み、真我としてとどまりなさい。それが「存在」としてのシヴァなのです。シヴァのヴィジョンが繰り返し起こることを期待してはいけません。あなたの見る対象物とシヴァとの違いは何でしょうか? シヴァは主体と対象の両方です。あなたがシヴァなしで存在することはありえません。なぜなら、シヴァは今ここで、常に実現されているからです。もしあなたがシヴァを実現していないと考えているなら、それは誤りです。その考えこそがシヴァを実現するための障害だからです。

(対話450)



質問者 真我を実現するには時間がかかるのでしょうか? それとも時間は実現を助けることができないのでしょうか? 真我の実現はただ時間の問題なのでしょうか? それとも時間以外の要因に依存するのでしょうか?


マハラジ 待つことは無駄なことだ。問題を解決するために時間に依存することは自己欺瞞だ。未来は、単に過去がそれ自体を繰り返すだけなのだ。変化は未来のなかではなく、いまの中だけで起こりうる。


質問者 何が変化をもたらすのでしょうか?


マハラジ 澄みきった明晰性で変化の必要性を見なさい。それだけだ。


質問者 真我の実現は物質のなかで、あるいはその彼方で起こるのでしょうか? それは身体とマインドに依存する体験なのでしょうか?


マハラジ すべての体験は限定された、一時的な幻想でしかない。体験からは何も期待してはならない。それが新しい次元の体験へと導くことはあっても、真我の実現自体はひとつの体験ではないのだ。新しい体験がいかに興味深いものであっても、古いものより真実だというわけではない。真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。それは体験を可能にする気づきなのだ。すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべての体験のなかには気づきが存在している。それにも関わらず、気づきは体験ではないのだ。


質問者 もし気づきが体験ではないとするなら、それはどのようにして認識されるのでしょうか?


マハラジ 気づきは常にそこにある。それが認識される必要はないのだ。マインドの扉を開きなさい。そうすればそれは光で満ちあふれるだろう。


質問者 物質とは何でしょうか?


マハラジ  あなたは物質を何だと理解しているだろう?


質問者 科学は物質を理解しています。


マハラジ  科学は、単に私たちの無知の境界線を押し戻しているだけだ。


質問者 それでは自然とは何でしょうか?


マハラジ  意識的な体験の総体性が自然だ。意識的自己としてのあなたは自然の一部なのだ。気づきとしてのあなたはその彼方にある。自然を単なる意識として見ることが気づきなのだ。


質問者 気づきの段階というものはあるのでしょうか?


マハラジ 意識のなかに段階はあるが、気づきのなかにはない。それは均質なひと塊なのだ。マインドのなかでのその反映が愛と理解だ。理解における明晰性の段階や、愛の強烈さに度合いはあっても、その源に段階はないのだ。源は単一であり、シンプルだ。だがその贈り物は無限のものだ。ただ、贈り物を源と取り違えてはならない。あなた自身が川ではなく源であることを自覚しなさい。それだけだ。


質問者 私は川でもあるのです。


マハラジ もちろんだ。「私は在る」としてのあなたは、身体の岸の間を流れる川だ。だが、あなたはまた源でもあり、海でもあり、空の雲でもあるのだ。どこであれ、そこに生命と意識があるとき、あなたは在る。極小よりも小さく、極大よりも大きい。あなたは在る。ほかのすべては現れにすぎない。


質問者 存在の感覚と生命の感覚──それらは同一のものでしょうか、それとも異なるものでしょうか?


マハラジ 空間のなかのアイデンティティがそのひとつをつくり出し、時間のなかの継続性がもうひとつをつくり出すのだ。


質問者 あなたはかつて、見る者、見ること、見られるものは、三つではなくひとつの単一体だと言われました。私にとって、その三つは分離しています。あなたの言葉を疑うわけではありません。ただ、私には理解できないのです。


マハラジ 注意深く見てみなさい。すると、見る者と見られるものは、見ることがあるときにだけ現れることが理解できるだろう。それらは見ることの属性なのだ。あなたが、「私はこれを見ている」と言うとき、「私」と「これ」は見ることとともに現れ、それ以前にはないことがわかる。あなたは目に見えない「これ」や見ていない「私」をもつことはできないのだ。


質問者 私は、「私は見ない」と言うことができます。


マハラジ 「私はこれを見ている」が「私は私が見ていないことを見ている」、あるいは「私は暗闇を見ている」になるのだ。見ることは残る。知られるもの、知ること、知る者という三位のなかでは、知ることだけが事実だ。「私」と「これ」は疑わしいものだ。誰が知ろう? 何が知られるというのだろう? 知ることがあるということを除いては、そこには何の確実性もないのだ。


質問者 どうして私は知る者ではなく、知ることに確信があるのでしょうか?


マハラジ 知ることは、在ることと愛することとともに、あなたの真の本性の反映なのだ。知る者と知られるものは、マインドによって加えられるのだ。実際は何もないところに、主体─客体の二元性をつくり出すのがマインドの本質なのだ。


質問者 欲望と恐れの原因とは何でしょうか?


マハラジ 明らかに、過去の苦痛と快楽の記憶だ。そこには何も偉大な神秘があるわけではない。同じ対象物に恐れと欲望が関係したときにだけ葛藤が起こるのだ。


質問者 どのようにして記憶を終わらせることができるのでしょうか?


マハラジ それは必要でもなければ、可能でもない。すべては意識のなかで起こり、あなたがその根本、源、意識の根底なのだということを認識しなさい。世界は体験の連続にすぎず、あなたはそれらに意識を与えるものだ。しかも、あなたはすべての体験を超えた彼方にとどまるのだ。それは熱、炎、燃える木材のようなものだ。熱は炎を維持し、炎は木材を焼き尽くす。熱がなければ炎も燃料もなかっただろう。同じように、気づきなしには意識も、物質を意識の媒体に変容する生命もなかっただろう。


質問者 あなたは、私がいなければ世界はなく、また世界と世界に関する私の知識は同一のものだと主張しています。科学はまったくこれとは異なった結論に至っています。世界とは何か具体的な、継続的なものであり、一方、私とは神経系統の生物学的進化の副産物なのです。それは根本的には意識の中枢であるよりも、個人的、種族的存続の機構なのです。あなたの話はまったく主観的な見解です。一方、科学は客観的言語で描写しようと試みています。この矛盾は避けることができないのでしょうか?


マハラジ その混乱は明白であり、純粋に言葉によるものだ。在るものは在る。それは主観的でも客観的でもない。物質とマインドは分離したものではない。それらはひとつのエネルギーの二つの相なのだ。マインドを物質の機能として見てみなさい。そうすればあなたは科学を手にする。物質をマインドの産物として見てみなさい。そうするとあなたは宗教を手にするだろう。


質問者 しかし、何が真実なのでしょうか? マインドと物質、どちらが先に現れるのでしょうか?


マハラジ どちらも先に現れはしないし、どちらか一方が現れるのでもない。物質は形であり、マインドは名前なのだ。それらはともに世界をつくる。浸透し、超越するのが実在、純粋な存在─意識─至福、あなたの本質そのものなのだ。


質問者 私が知っているのは意識の流れ、出来事の果てしない連鎖だけです。時間の川は容赦なく流れ、運び去ります。つねに未来は過去へと変容していきます。


マハラジ あなたは自分の言葉の犠牲になっていないだろうか? あなたは時間の流れについて語る。あたかもあなたが不動でいるかのように。だが、あなたが昨日目撃した出来事を、誰かほかの人が明日見るかもしれない。動きのなかにいるのはあなたであって、時間ではないのだ。動きを止めなさい。すると時間は止まる。


質問者 時間が止まる? それはどういう意味でしょうか?


マハラジ 過去と未来が、永遠の今のなかで溶けあうのだ。


質問者 しかし、実際の体験のなかで、それはどういう意味をもつのでしょうか? あなたにとって時間が止まったと、どうやって知るのでしょうか?


マハラジ それは過去と未来がもはや重要ではなくなるという意味でもありうる。それはまた、かつて起こったすべて、これから起こるだろうすべてが、思いのままに開かれた本として読むことができるという意味でもある。


質問者 訓練によってアクセスできる宇宙的記憶というものを想像することはできます。しかし、どのようにして未来が知られるというのでしょうか? 予期しない出来事は不可避です。


マハラジ あるレベルで予期しなかったことは、高次のレベルから見れば確実に起こることかもしれない。結局、私たちはマインドの限界内に在る。実際には、何も起こってはいないのだ。過去もなければ、未来もない。すべては現れであり、何も存在しないのだ。


質問者 何も存在しないとはどういう意味でしょうか? あなたは虚空になるのでしょうか、それとも眠りにつくということでしょうか? あるいは、あなたは世界を消し去り、あなたのつぎの思考のひらめきで私たちが生命に連れ戻されるまで、私たちを停止の状態にとどめるということでしょうか?


マハラジ いいや。そんなひどい話ではない。マインドと物質の、そして名前と形の世界は続いていく。だが、それは私にとってまったく重要ではない。それは影のようなものだ。それはそこにある。どこへ行こうともついてくる。だが、どのような意味でも私を邪魔することはない。体験の世界はそのまま残る。だが、欲望と恐れで私に関わる名前と形は残さないのだ。体験とは、いわば属性をもたない純粋な体験だ。ほかによりよい言葉がないために、私はそれを体験と呼ぶのだ。それは大海の波のようなものだ。つねに存在しながら、その平和な力に影響を与えることはない。


質問者 体験は無名無形の定義できないものだということでしょうか?


マハラジ はじめは、すべての体験がそのようなものだ。記憶から生まれた欲望と恐れが名前と形を与え、ほかの体験と分けてしまうのだ。それは意識的な体験ではない。なぜなら、それはほかの体験と対立しているわけではないからだ。それでもそれは同じ体験なのだ。


質問者 もし体験が意識的ではないなら、どうしてそれについて話すのでしょうか?


マハラジ ほとんどのあなたの体験は無意識のものだ。意識的なものは非常に少ない。あなたは事実に気づいていないのだ。なぜなら、あなたにとっては意識的なものしか数に入らないからだ。無意識に気づくようになりなさい。


質問者 無意識に気づくことができるのでしょうか? どのようにするのでしょう?


マハラジ 欲望と恐れが覆い隠し、歪ませてしまう要因なのだ。マインドがそれらから解放されたとき、無意識は容易に手に入るようになる。


質問者 無意識が意識的になるという意味でしょうか?


マハラジ むしろ反対だ。意識が無意識とひとつになるのだ。それをどちらから見ても区別がなくなるのだ。


質問者 困惑してしまいます。どうして気づいていながら、しかも無意識であることができるのでしょうか?


マハラジ 気づきは意識に対して限定されてはいない。それは存在するすべてに対するものだ。意識は二元性のものだ。気づきのなかに二元性はない。それは純粋な知覚のひと塊なのだ。純粋な存在と純粋な創造についても同じように、無名、無形、静寂であり、しかも絶対的実在だと言うことができる。言葉では言い表せないということが、それらに影響を与えることはまったくない。それらは無意識でありながら、本質的なものなのだ。意識を根本的に変えることはできない。それは修正することができるだけだ。いかなるものも、変化するためには朦朧とした状態と消滅を、死を通らなければならないのだ。金の宝飾品は、ほかの形に鋳造される前に溶解されなければならない。死ぬことを拒むものは再誕生できないのだ。


質問者 身体の死なしに、どのように死ぬというのでしょう?


マハラジ 内側に向かうこと、超然と離れてあること、手放すことが死だ。生を全うするには、死は欠くことのできないものだ。すべての終焉がすべてのはじまりをもたらす。
その一方、よく理解しなさい、生きる者ではなく、ただ死者だけが死ぬことができる。あなたのなかで生きているもの、それは不死なのだ。


質問者 欲望はどこからそのエネルギーを引き出すのでしょうか?


マハラジ 記憶から引き出した名前と形からだ。エネルギーは源から流れだすのだ。


質問者 ある欲望は完全に間違ったものです。間違った欲望が、どうして崇高な源から流れだすことができるのでしょうか?


マハラジ 源は正しくも間違いでもない。欲望そのものも、正しくも間違いでもないのだ。それは幸福を求める努力にほかならない。自分自身を一片の身体と同一化して途方にくれ、あなたは幸福と呼ぶ充足と完全性の感覚を絶望的に探しまわるのだ。


質問者 いつそれを失ったのでしょうか? 私はけっしてもってはいなかったのです。


マハラジ 今朝、目覚める前にあなたはもっていたのだ。意識を超えていきなさい。そうすれば見いだすだろう。


質問者 どうすれば彼方へと超えていけるのでしょうか?


マハラジ あなたはすでに知っているのだ。そうしなさい。


質問者 あなたはそう言われますが、私は何も知らないのです。


マハラジ それでも、私は繰り返そう。あなたはそれを知っているのだ。そうするがいい。超えていきなさい。あなたの正常な、自然な、根本的な状態に戻りなさい。


質問者 私はとまどうばかりです。


マハラジ 目のなかのほこりが、あなたを盲目だと思わせるのだ。ほこりを洗い落として見てみなさい。


質問者 私は見ています! ただ暗闇が見えるだけなのです。


マハラジ ほこりを取り除きなさい。そうすれば、あなたの目は光にあふれることだろう。光はそこにあり、待っているのだ。目はそこにあり、用意ができている。あなたが見ている暗闇は、ほこりの影にすぎないのだ。それを取り除きなさい。そしてあなたの本性に戻るのだ。


PR

第三のヒロシマ前夜28


生きたくても生きられなかった人
神界が自殺による終わりを望むわけがない。だから自死を選んだ人は誤解から先回りしてしまったのだと私は信じる。
誤解はある。だからできうるかぎり、手の届く範囲、言葉の届く範囲では、先回りを先回りしたい。


北朝鮮、中国、安倍総理、の三方を危険視している
立場が私の視点であり、安倍総理のどこが危険かと言えば自民党改憲草案の人権軽視が危険だと思っている。杞憂かもしれないが、草案は氷山の一角にしか思えないのだ。国防の必要性を名目にして日本国の基本的人権が懐憲されてしまうことを危惧している。
とは言え、北朝鮮と中国に対して適切に対応しなければならず、連戦になるからこそ今からの日本は北朝鮮に対しても51対49のギリギリ勝ちになるまで体型を絞らなければならないと思っている。この過程の苦労や失敗談は多いほうがいい。対中国戦において身になると思うからだ。
今月2018年1月の主眼は米国が「(日本を)裏切るか、(覇権国として)こけるか」を確認するということ。どちらであっても日本は独自に防衛していく覚悟を決めなければならない。
「だからアメリカは信用ならないって言ったんだ」と叫ぶ日本人やコメンテーターが来月以降増えないことを祈っている。


マハルシ 聖典には次のような言葉が見られます。
「語ることなく語られた言葉」
「真理を示され永遠の静寂にとどまる」
語られることのない言葉とはどういうことでしょうか? それはただ沈黙なのです。それはプラナヴァ(聖音オーム)、あるいはマハーヴァーキャ(偉大な確言)です。それらは「言葉」とも呼ばれています。

(対話185)


質問者 実現しようと試みる必要もないのですか?


マハルシ その必要はありません。心の静寂あるいは平和が実現です。真我が存在しない瞬間などないのです。





そこに疑い、あるいは実現していないという感覚があるかぎり、そのような考えを取り除くよう試みなければなりません。





想念は真我を非真我と同一視することによって起こります。非真我が消え去れば、後に残るのは真我だけです。





空間をつくり出すには、そこにあったものを取り除くだけで十分です。新たに空間を運んでくる必要はありません。


(略)


真我を見るために、他の真我を必要とすることはありません。





ある女性が首にかけていたネックレスを失ったと思い込み、探し回っていました。そして友人から自分の首にかかっていることを教えられたのです。ネックレスを失ったという感覚、探している間の不安、発見したときの喜びは、すべて彼女が自分でつくり出したものです。


同様に、真我はあなたが探求しようとしまいと、常にそこに在ります。その女性が失ったネックレスを取り戻したと感じたように、無知を取り除き、偽りの自己同一化を止めることが、常に今ここに存在する真我を明らかにするのです。


(略)


すべての疑いは自分自身の内で解かなければなりません。いかに言葉を費やそうとも満足は得られません。考える者をとらえなさい。考える者がとらえられていないときにのみ、事物は外側に現れ、そして心に疑いが起こるのです。

(対話245)



「フィーリング」(又は「感情」)は、われわれが過去の体験で味わった既知の感情ではない。それはいわば「言葉では表現できない微妙な感覚」であり、より新しい教えに登場する言葉で言えば、「特定の振動数」である。そして、この「特定の振動数」を得るためには、過去の感情を完全にシャットアウトして自分の望みにアナロジカルにフォーカスし続ける能力が不可欠である。



質問者 あなたはあなたを取り巻く環境をまったく意識していないと言われましたが、私たちにとって、あなたは非常に注意深く、活動的に見えます。あなたが記憶の跡を残さない、一種の催眠状態にあるとは信じられません。それどころか、あなたの記憶は非常に優れているように見えます。あなたにとって世界が存在しないというあなたの主張をどう理解すればいいのでしょうか?


マハラジ すべては焦点の問題だ。あなたの焦点は世界に当てられており、私の焦点は実在に当てられている。世界は昼間の月のようなものだ。太陽が照れば、月はほとんど目に映らない。あるいは、あなたがどのようにものを食べるか見てみなさい。口のなかに食べ物がある間はそれを意識しているが、ひとたび飲みこんでしまえばもはや関心をもたない。消化されるまでマインドにとどめていたら、厄介なことになるだろう。マインドは普通停止しているべきであり、絶え間ない活動は病的状態なのだ。私が知っているのは、宇宙はひとりでに、それ自身で動いているということだ。それ以外に何を知る必要があるだろう?


質問者 では、ジニャーニ(賢者)は彼自身が注意を向けたときだけ何をしているのかを知り、そうでなければ煩わされることなく、ただ行為するということなのですね。


マハラジ たいていの人は身体を意識していない。彼らは感覚や感情や思考を意識しているが、それらでさえ、ひとたび執着を離れれば意識の中心から去り、自発的に、努力なく起こる。


質問者 それでは、意識の中心には何があるのでしょうか?


マハラジ それは名前も形も与えることのできないものだ。なぜなら、それは何の特質ももたず、意識を超えたものだからだ。意識のなかにありながら、意識を超えた点とも言える。紙のなかにあるひとつの穴が、紙のなかにありながら、しかも紙に属さないように、至高の状態は意識の中心そのものでありながら、しかも意識を超越している。それはマインドのなかの開かれた穴から光が氾濫しているようなものだ。その開かれた穴は、光とさえ呼ぶこともできない。それはただ開かれたるものなのだ。


質問者 その開かれたるものこそ、空、不在なのですね。


マハラジ そのとおりだ。マインドの観点からすれば、それは気づきの光が精神的空間に入っていくために開かれたものだ。光そのものとしては、固体の、岩石のように濃密な、均質で不変であり、名前や形といった精神的パターンから自由な、純粋な気づきの塊とでも言うほかないだろう。


質問者 精神的空間と至高なるものの所在には、何らかの関連があるのでしょうか?


マハラジ 至高なるものがマインドに存在を与える。マインドが身体に存在を与えるのだ。


質問者 そしてその彼方には?


マハラジ 例えば、長寿の技をマスターし、寿齢千歳を超えた尊ぶべきヨーガの導師が、私のもとにその技を教えにきたとしよう。私は彼の偉業を讃えて、誠実に敬うだろう。だが、私が彼に言えることといえば、「長生きがいったい何になるというのか?」ということだけだ。私は時を超えて在る。どれほど寿命が長くなろうと、それはほんの一瞬の夢にすぎないのだ。同じように、私はあらゆる属性をも超越している。それらは私のなかで、現れては消えていく。しかし、それが私を言い表すことはできない。宇宙は特質やそれらの相違を基底とした名前と形であり、私はその彼方に在る。世界は私が在るゆえに存在する。だが、私は世界ではない。


質問者 しかし、あなたは世界のなかに生きているのですよ!


マハラジ それはあなたが言っていることだ! この身体とマインドを含めた世界の存在は知っている。だが、私はそれらを他のマインドや身体以上に「私のもの」とは考えてはいない。それらは時間と空間のなかにある。だが、私は時間と空間を超えて在るのだ。


質問者 すべてがあなたの光のなかに存在するのなら、あなたは世界の創造者ではないのですか?


マハラジ 私はその潜在的可能性でも、実現性でも、現実でもない。私の光のなかで、世界は太陽光線のなかを舞うほこりのように現れては去っていく。光はその微小片を照らすだろうが、それに依存することはない。またそれを創造もしない。それを知っているとさえ言えないのだ。


質問者 私はあなたに質問し、あなたは答えています。あなたはその質問や答えを意識しているのでしょうか?


マハラジ 実際には、私は聞いても答えてもいない。出来事の世界のなかで、質問が起こり、答えが起こる。何も私には起こらない。すべてはただ起こるのだ。


質問者 そして、あなたは観照者なのでしょうか?


マハラジ 観照者とはどういう意味だろうか? ただの知識にすぎない。雨が降り、そして今、雨はやんだ。私は濡れないままだ。雨が降ったのは知っている。だが、私は影響されない。ただ、雨を観照しただけだ。


質問者 完全に悟りを得た人、自然に至高の状態に在る人もまた、食べたり、飲んだりするように見えますが、彼はそれに気づいているのでしょうか?


マハラジ 意識がそのなかで起こる宇宙意識は、意識のエーテルと呼ばれる。意識の対象物すべてが宇宙を構成している。それら両方を支え、そして超えて在るのが至高の状態、完全な静寂と沈黙の状態だ。誰であれ、そこに行けば消え去る。言葉やマインドで到達することはできない。あなたはそれを神、パラブラフマンあるいは至高の実在と名づけるかもしれない。しかし、それらはマインドによって与えられた名前だ。それは、名前も内容もなく、努力もなくして自然な状態、存在も非存在も超えたものだ。


質問者 それでも、人は意識にとどまるのでしょうか?


マハラジ 宇宙がマインドの身体であるように、意識は至高なるものの身体だ。至高なるものは意識しないが、それが意識を発現させるのだ。


質問者 私の日々の活動は、その多くが習慣によって自動的に行なわれています。広範囲の活動に気づいてはいても、一瞬一瞬、詳細にわたってではありません。私の意識がより広く深くなるにしたがって、細部への関心は退き、広範囲の方向へと私を開いてくれます。ジニャーニにも、少なからずそういったことが起こるのでしょうか?


マハラジ 意識のレベルでは、そうだ。至高の状態においては、そうではない。至高の状態は分割不可能で、完全にひとつであり、ひと塊の実在なのだ。それを知るためのただひとつの方法は、それになること、それとして在ることだ。マインドはそれに到達できない。それを知覚するために感覚器官は必要ない。それを知るためにマインドは必要ないのだ。


質問者 神はこうして世界を動かしているのですね。


マハラジ 神は世界を動かしてはいない。


質問者 それでは、誰がそれをしているのですか?


マハラジ 誰もしてはいない。すべてはひとりでに起こるのだ。あなたが質問をし、あなたが答えを供給している。そして質問するとき、あなたは答えを知っている。すべては意識のなかの戯れなのだ。すべての分割は幻想だ。あなたが知ることのできるのは偽物だけだ。真我に、あなた自身がならなければならないのだ。


質問者 観照されている意識があり、観照している意識があります。二番目のものが至高なるものなのでしょうか?


マハラジ 二つのものがある。個人と観照者つまり観察者だ。それらをひとつとして見て、それを超えたとき、あなたは至高の状態にある。それは知覚不可能だ。なぜなら、それが知覚を可能にするものだからだ。それは存在と非存在を超越している。それは鏡でも鏡のなかのイメージでもない。時を超えた実在、信じがたいほど堅固で、確固たるもの、それがそれである。


質問者 ジニャーニは観照者なのでしょうか、それとも至高なるものなのでしょうか?


マハラジ もちろん至高なるものだ。だが、彼は普遍的観照者でもある。


質問者 しかし、彼は個人としても在るのでしょうか?


マハラジ あなたが自分自身を個人だと信じるならば、いたるところに個人を見る。実際には、個人というものは存在しない。あるのは記憶と習慣の脈絡だけだ。真我を実現した瞬間、個人は消え去る。アイデンティティは残る。だが、アイデンティティは個人ではない。それは実在そのもののなかに本来備わっている。個人はそれ自身のなかに存在をもっていない。それは観照者のマインドに映った「私は在る」という感覚であり、また、存在のひとつの様式なのだ。


質問者 至高なるものは意識しているのでしょうか?


マハラジ 私の経験では、それは意識してもいず、無意識でもない。


質問者 プラジニャーナム ブラフマ。このプラジニャーとは何でしょうか?


マハラジ それは生命そのものの非─自意識的知識だ。


質問者 それは生命力、生命のエネルギー、生気なのでしょうか?


マハラジ エネルギーがはじめに現れる。すべてはエネルギーが形をとったものだからだ。意識は目覚めの状態においてもっとも差異が認められる。夢見においてはより少ない。眠りにおいてはさらに少ない。第四の状態では均質だ。それを超えると、表現不可能な、単一の実在、それがジニャーニの生きる世界なのだ。


質問者 私は手を切ってしまったのですが、それは治りました。いったい何の力によって治ったのでしょう?


マハラジ 生命の力によってだ。


質問者 その力とは何なのでしょうか?


マハラジ それは意識だ。すべては意識なのだ。


質問者 意識の源泉は何でしょうか?


マハラジ 意識そのものがすべての源なのだ。


質問者 意識なしに生命はありうるでしょうか?


マハラジ いいや。生命なしには意識もありえない。それらはひとつだ。しかし実際には、究極なるものだけが存在する。それ以外は名前と形があるだけだ。あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、至高なるものは、あなたにとって非存在のものとしてしか映らないだろう。名前と形は実態のない空虚な殻(から)にすぎず、実在は名前も形もない純粋な生命のエネルギーと意識の光だと理解したとき、あなたは実在の深い静寂に浸り、平和の内に在ることだろう。


質問者 もし時間と空間がただの幻想で、あなたはそれらを超えているというのなら、今のニューヨークがどのような天気なのか言ってください。暑いですか、それとも雨ですか?


マハラジ どうして私にそれが言えよう? そういったことには特別な訓練が必要だ。そうでなければ、ニューヨークに行くがいい。私が時間と空間を超越していることは確かかも知れないが、ある一定の時間と空間において、思いのままに自分の所在を選定することはできない。興味もなければ特別なヨーガのトレーニングをする理由もない。ニューヨークという名前を今耳にしたが、私にとってはただの言葉にすぎない。原子のひとつひとつがこの宇宙と同じほど複雑な宇宙かもしれない。そのすべてを私が知らねばならないかね? 確かにできる、もし訓練するならば。


質問者 ニューヨークの天候について尋ねたことで、私はどこで間違いを犯したのでしょうか?


マハラジ 世界とマインドはともに存在の状態だ。至高なるものとは、ある状態ではない。それはすべての状態に遍在しているが、何かほかの状態ではない。至高なるものはまったく原因がなく、独立し、それ自身において完成している。時間も空間も、マインドも物質も超越したものなのだ。


質問者 何をもって至高なるものを認識するのでしょうか?


マハラジ それが何の痕跡も残さないということが要点なのだ。何によっても認識することはできない。あらゆるしるしや手がかりの探求をあきらめることによって、直接に見られなければならない。すべての名前と形が放棄されたとき、実在が残る。あなたがそれを探す必要はない。複数性と多様性はただのマインドの戯れだ。実在はひとつだ。


質問者 もし実在が何の証拠も残さないのなら、それについて話すことさえできません。


マハラジ それは在る。それを否定することはできない。それは深遠な、神秘を超えた神秘なのだ。だが、それは在る。それ以外のすべてはただ起こるだけだ。


質問者 それは未知なるものなのでしょうか?


マハラジ 未知も既知もともに超えている。しかし、私なら未知よりも既知と呼ぶだろう。なぜなら、いつであれ何かが知られたとき、知られたものは実在だからだ。


質問者 沈黙は実在の特質なのでしょうか?


マハラジ それもまたマインドのものだ。すべての状態と条件はマインドに属する。


質問者 サマーディとは何でしょうか?


マハラジ 意識を使わないことがサマーディだ。ただマインドに触れないのだ。身体からもマインドからも何も求めないことだ。



第三のヒロシマ前夜27


みな身から出たさびだ。
さびを出すのが嫌だったら自分を純金にするか、絶えず自分を磨いていなければいけない。自分では何もせずに、さびが出るのに不平を起こすのは己を知らない者だ。

武者小路実篤


マハルシ それには、「私は心や現象を超越した真我である」という強烈な確信が必要とされます。


マハルシ たとえ心が活動的であろうと、それが何だと言うのでしょう? それはただ根底に在る真我の上でさ迷っているだけです。心が活動している間でさえ、真我をとらえなさい。


マハルシ ただ「私は真我である」という断固たる確信が必要なだけです。他の活動は、むしろあなたにヴェールを覆っているのです。


マハルシ つまり、確信が弱かったのです。

(対話406)


マハルシ あなたの心が落ち着きを失ってさ迷い出すからです。
疲れるのは心であってあなたではないのです。


新しい状態を得ようとする必要などありません。あなたが抱いている想念を今棄て去りなさい。
あなたは想念から自由だからです。


想念から自由になりなさい。何もとらえてはいけません。それらがあなたをとらえているわけではないのです。


質問者 マハルシは「想念を心から剥ぎ取るべきだ」と言われました。


マハルシ それ自体が想念なのです。
あなたに必要なことは、ただあなたの限定を剥ぎ取るだけです。


質問者 しかしそれが最も困難なことなのです。


マハルシ これもまた想念です。そしてそれが障害なのです。

(対話472)



ボブ あなたの経歴は?


デル 私は1972年に探求をはじめました。私はTM(超越瞑想)からはじめました。それから他の瞑想やたくさんのことを試みました。長いこと把握しようとしてきました。それで、その把握のプロセスに人はどう明け渡すのでしょうか?


ボブ あなたが話しているそのあなたというのは何ですか? あなたはそのなかを覗いたことがありますか?


デル 私は今それに働きかけています、あなたの本を読んでから。


ボブ あなたは自分が存在することを知っています、そうですね? あなたはそれを否定できません。その自分が存在することを知っていることは、マインドをとおして「私は在る」という思考として表現されます。あなたが自分だと思っているその人とは、単なる精神的な像なのです。それには独立した本質が何もありません。もしあなたが意識していなかったら、あるいは気づいていなかったら──つまりもしその知っていることがそこになかったら──あなたは自分自身というその精神的イメージをもつことはできなかったはずです。ですから、そのエゴ、あるいは偽りの自己中心とは、すべてがそこから評価される参照点であり、それは虚構なのです。そしてあなたは、全人生をその虚構とともに生きてきたのです。分離という観念は、その「私」という観念に基づいた虚構です。あなたが求めているもの、あなたはすでにそれなのです。その「私」という観念がはじまるやいなや、それはつねに対極のペアのなかで機能します。もしそれが過去、つまり記憶でなかったら、それは未来、つまり期待や想像です。その範囲内で、それは対極のペアのなかで振動しているのです。良い/悪い、楽しい/苦しい、嬉しい/悲しい、と。あらゆることがそのあなた自身というイメージから判断されますが、それは過去の死んだイメージなのです。それが有効な参照点でないのは、過去からのものだからです。それは死んでいます。あなたが求めているもの、あなたはすでにそれなのです。あなたはこの現在の瞬間から外に出ることはできません。あなたは過去を思い出すことはできますが、過去の瞬間を生きることができるでしょうか? もちろんできません。あなたは現在に過去を思い出すことができるだけです。あなたは未来を想像することができますが、それはこの現在しか、たった今しかできません。ですから、これこそが現実なのです──この瞬間が。これこそがあなたが生きられる唯一の瞬間です。あなたは逆戻りして、過去を思いだすことができます。悟りや、そういうナンセンスをすべて期待することはできます。私たちはそういうことを何年もやってきました。そしてそうするなかで私たちは疑う余地のないものを見逃してきたのです。この現在という瞬間です。だから、これを見ることです。それを調べるのです。あなたは、あなたがあなたであるものと、つまり純粋な存在意識とともに残されるのを発見するでしょう。


デル 私のすべての欲望が浮上してくるのを、私はどうすれば止められるのでしょうか?


ボブ 誰がですか? もう一度見てください。あなたが「私はどうすれば……」と言うとき、あなたは誰のことを言っていますか? それに目を向け、それを尋ねるのです。わかりますね。欲望とは何か? ひとつの思考です。それはひとつの思考への固着です。もしあなたがある想念や思いつきに固着しなかったら、その想念は自由に流れます。いいですか、その固着はエネルギーの詰まりです。それはあるがままに対する抵抗です。あるがままに対するどんな抵抗も、葛藤です。あなたは思考を止めることはできません。それはただその思考にはどんな実体も、また独立した本質もないことを理解するということなのです。あなたのなかには、何かを止めたり何かをしたりできる何らかの力をもったどんな実体も存在しません。しかしそれを理解することが重要なのです。その抵抗の認識は、無抵抗の地点から起こるに違いありません。その無抵抗の瞬間、あなたは在るのです。自分が抵抗していることを、あなたは無抵抗からしか認識できません。例えば、もしあなたが完全に狂っていたら、あなたにそれはわかりません。正気の地点からしか、あなたは自分の狂気を認識しません。その無抵抗の地点からの抵抗の認識のなかで、あなたはごく微妙なくつろぎに気づくでしょう。そしてしばらくして、それがより頻繁に起こるうちに、それはもっとはっきりしたものになります。その瞬間、そこに手放しがあります。


デル しかしそれをどう手放すのですか?


ボブ あなたにはできません。そこに何かをするあなたはいません。それはただ認識するという問題です──見守り、その瞬間に気づいているということです。「どうやって」と言ったとたん、あなたはやり方を物色しているのですが、あなたは再びそれを自己中心に、参照点に関係させているのです。


デル その認識はどこから来るのですか?


ボブ 純粋な知性エネルギーからです。あなたはたった今、自分が存在していることを知っています、そうですね? あなたにはこの部屋のあらゆるものが見えていますね? それをあなたはどこから認識しているのですか? 思考ですか? それは思考に先だって在るのではありませんか? あなたが考える前に、あなたはすべてを見ているのではありませんか?


デル はい。


ボブ その自然に知ること、または純粋な知性エネルギー、それが本当のあなたです。その空虚、その認識する空、知る力に満ちた、知性に満ちた空です。だから私はそれを、「神」や「霊」といった言葉ではなく、むしろ「知性エネルギー」と呼ぶのです。なぜなら神については誰もが違った概念をもっているからです。それは混乱を引き起こします。私が話している知性エネルギーとは、宇宙で機能しているのと同じ知性です。それは星々を軌道に保ち、潮の満ち引きを保っています。それがあなたの心臓を鼓動させ、あなたの食べ物を消化し、といったことをしているのです。あなたは自分の細胞に成長するように告げる必要はありません。その「私」は何もできないのに、それができると私たちが信じているのは、私たちの焦点が考えることのなかにあるからです。


デル 最近六ヶ月間というもの、私はたくさんの瞑想と自己探求をしてきました。ラマナ・マハルシは人びとに「私は誰か?」と問うようにと告げました。


ボブ それであなたは何かを発見しましたか?


デル いいえ。


ボブ そうです、なぜならそこには何もないからです! あなたはけっして、マインドのなかにその答を見つけることはないでしょう。


デル それが私が探していた場所です。私たちの過去の条件づけのために、私たちは答えを求めているのです。そしてそこに答えはありません。


ボブ そのとおりです。マインドは二元論です。それは対極のペアのなかへと振動していくのです。


デル もし私たちがマインドのなかに答えを見つけられないのなら、私たちはどこでそれを見つけられるのでしょうか?


ボブ フルストップ。


デル どこにフルストップがあるのですか?


ボブ たった今です。思考がないと、あなたに見えることが停止しましたか? あなたに聞こえることが停止しましたか?


デル いいえ。


ボブ ただ考えるのをやめただけでは、あなたは存在をやめもしなければ、分解することもありません。フルストップはマインドに先立って在ります。思考がなくても、あなたはまだ存在しているのです。


デル あなたはどうやって思考を止めるのですか?


ボブ あなたはそれを止めません。あなたにそれを止めることはできません。そうではなく、思考が何であるかを理解するのです。あなたが自分に「もし自分がそれについて何も考えなかったら、たった今何が間違っているのか?」と尋ねるとき、あなたはどうするでしょうか? あなたはちょっと止まって調べるでしょう。その一瞬の沈黙の、その瞬間には、そこに思考はありません。そしてそこに思考がないとき、あなたは何を認識するでしょう? あなたは自分が何も言えないことを知ります。あなたには、いいとか悪いとか、そんなことは何も言えません。でもあなたは分解していない。あなたはやはり、自分が存在するというその基本的な「知」──マインドに先だって在るその存在意識なのです。そこで、あなたは考えるマインドと実在との──その純粋な知性との違いを理解します。それはつねにそこにあるのですが、私たちはあまりにもマインドに焦点が合っているために、それを無視するのです。私たちはマインドがすべてをやっているのだと思う。そうではないのです。

「Living Reality(P152-155)」



質問者 マインドの最高の力は、理解、知性、そして洞察です。人は三つの身体をもっています。粗大身、微細身、原因身* (プラーナ、マナ、カラナ)です。粗大身は彼の存在を反映し、微細身は知識を、原因身は喜びに満ちた創造性を反映します。もちろん、これらは意識のなかで形成されたものです。しかし、それらは各々の特質をもって、分離しているように見えます。知性(ブッディ)はマインドのなかでの知的能力の反映です。それがマインドを知識あるものにするのです。知性がより優れるほど、知識はより広く、深く、真正になります。ものごとや人を知ること、そして自己を知ることは、すべて知性の機能なのです。最後のものがもっとも重要で、前の二つを含んでいます。自分自身や世界を誤って理解することは、不正な考えや欲望をもたらし、それがまた束縛となります。自己への正しい理解が、幻想である束縛からの解放に欠かせません。これらすべてを理論としては理解できるのですが、実際問題となると、私は状況や人びとへの対応に失敗し、私の不適切な反応が束縛をさらに加えるばかりなのです。人生は私の鈍く、遅い思考にはあまりにも速く進みます。古い習慣がすでに繰り返された後で私は理解するのですが、遅すぎるのです。


* 訳注 粗大身、微細身、原因身
粗大身はストゥーラ・シャリーラと呼ばれ、一番外側の身体、肉体を表す。微細身はスークシュマ・シャリーラと呼ばれ、知的な働きをする身体を表す。原因身はカーラナ・シャリーラと呼ばれ、内面的な身体を表す。ヒンドゥー教の教義においては、これら三つの身体をトリ・シャリーラと呼んでいる。


マハラジ それでは、あなたの問題とは何かね?


質問者 私には知性だけではなく、人生で起こる出来事に即座に対応できる能力が必要なのです。そしてそれが完全に自発的でないかぎり、即座とは言えません。どうすれば、そのような自発性を達成できるのでしょうか?


マハラジ 太陽を引きつけるために鏡にできることは何もない。それはただ輝きつづけるだけだ。マインドが用意できしだい、太陽はそのなかで輝くのだ。


質問者 その光は、真我のものでしょうか、あるいはマインドのものでしょうか?


マハラジ 両方だ。光はそれ自身原因をもたず、変化もしない。マインドが動き、変化するにしたがって、それは色づけされる。それは非常に映画に似ている。光はフィルムのなかにはないが、フィルムが光に色づけをし、それを遮ることによってあたかも動いているように見せるのだ。


質問者 あなたは今、完全な状態に在るのでしょうか?


マハラジ 完全とはマインドが純粋なときの状態だ。状態が純粋であろうと、不純であろうと、何であれ、私はマインドを超えている。気づきが私の本性なのだ。究極的には、私は存在も非存在も超えている。


質問者 あなたの状態に到達するには瞑想が役立つのでしょうか?


マハラジ 瞑想はあなたの束縛を見いだし、それらを緩め、解き、自由にする。もはや何にも執着しなくなったとき、あなたの分の仕事は終わったのだ。残りはあなたのために自然に為される。


質問者 誰によってでしょうか?


マハラジ あなたのマインドを探求させ、ハートが真理を求めるよう促す地点まであなたを連れてきた、その同じ力によってだ。その同じ力があなたを生きさせているのだ。それを生命、あるいは至高なるものと呼ぶがいい。


質問者 同じ力がやがて私を殺すのです。


マハラジ あなたは誕生のとき、存在していなかっただろうか? 死が訪れるときも、存在しているのではないだろうか? つねに存在するその人を見つけだしなさい。そうすれば、あなたの自発的で完全な反応に関する問題も解決するだろう。


質問者 永遠を実現することと、つねに変化しつづける出来事への努力を要しない適切な反応は、二つの異なった別々の問題です。あなたはどうやらその二つをひとつにまとめてしまったようですが、何があなたをそうさせるのですか?


マハラジ 永遠を実現することは永遠、全体、宇宙、そしてそれらを含むすべてになることだ。すべての出来事は全体性の作用であり表現だ。それは根本的に全体との調和のなかに在る。全体性からのすべての反応は正しく、努力なく、即座のものでなくてはならない。さもなければ、正しくはありえない。遅れた反応は誤った反応なのだ。思考、感情、そして行為はひとつにならなければならず、また状況の求めに応じて、同時でなければならない。


質問者 どうすればそうなるのでしょうか?


マハラジ もうすでに言ったはずだ。あなたの誕生時に存在し、あなたの死を観照するその人を見いだしなさい。


質問者 私の父と母でしょうか?


マハラジ そうだ。あなたの父、母、あなたの存在の源だ。問題を解くには、その源にたどり着かなければならない。真我の探求と冷静沈着さという普遍的解決法による問題解決においてのみ、正しい回答が見いだせるのだ。



第三のヒロシマ前夜26


一度でアウト・自殺を軽く扱った者
どこぞのユーチューバーの騒動が話題になっていたが、こういう言動は一度でアウトで、二度目のチャンスなどはないと思う。そもそも一度目が発生すること自体がアウトだ。想像力がない、と言うのでは軽すぎる。私は椎名林檎が好きで、「そうだ、樹海、行こう」の走れわナンバーの演出(数秒間でも)はいくらアーティストだろうとキャリアに傷がつくぐらいどうかと思っていた。東京五輪の音楽監督をするならこういうのは即座に断る方でいてほしい。
宗教とか、スピリチュアルとか言う方であれば特に、そういう言動が出たら相手の背景まで疑った方がいいと思う。つまり、霊の世界と肉の世界を跨ぐ事情に疎いか鈍いか浅いのだ。それは特殊な知識の問題ではなく、人の痛みに疎いぐらい人間が「浅い」ということに他ならない。


異質な二つの文化がある場合、それぞれが、自分の文化の方が優れていると感じる傾向がつねにあります。優越感というのは、愛の存在をほとんど不可能にします。この二つの文化のあいだには、理解やコミュニケーションがほとんど存在しません。ということは、愛の心が生む叡智がそこにはないということです。
ところが戦争のような極限状況にあっても、愛の心を動かすことはできます。なぜなら双方とも、基本的に同じ恐怖と混迷のなかにあるからです。そこに愛の生まれるチャンスがあります。相手も自分と同じ恐怖に直面しているのだとわかって、固定観念を捨て、心の理解を通しておたがいと向き合うチャンスが生まれます。



マハルシ 身体は生命意識を持たず、「私」と言うことはできません。真我は非二元的な純粋意識です。それも「私」と言うことはできません。眠りの中では誰も「私」とは言いません。


それでは自我とは何でしょうか?


人は暗闇にいると、そばに何かがいると想像してしまいます。それは何か黒い物体かもしれません。近寄って見ると幽霊は見えず、ただ木やポストのような物体を見間違えただけだということがわかるのです。近づいて見てみなければ、幽霊は彼を脅かしたでしょう。必要なのは、ただよく見ることだけです。そうすれば、幽霊は消え去ります。幽霊は初めからそこにいなかったのです。自我においても同じことです。それは身体と純粋意識の間に介在する実体のない結び目です。それは実在しません。よく見てみないかぎり、それは問題を与え続けるでしょう。

(対話612)


質問者 人は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生に起こるすべては運命づけられ、あらかじめ決められているのでしょうか?


マハルシ 自由意志は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意志は存在するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意志を正しい道に導くように助言しているのです。
自由意志や運命は誰にとって問題となるのか? それを見いだし、その中にとどまりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。


もしあなたが自分を身体と見なすなら、それらは常にあなたを支配するでしょう。
もしあなたが自分を身体と見なさなければ、それらがあなたに影響を与えることはなくなります。


眠りの中では、あなたは身体ではありませんでした。
あなたは今、身体なのでしょうか?

(対話426)



質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。



第三のヒロシマ前夜25


定期的に忘れて定期的に思い出す言葉がある。それが「人生の一日一日に目的がある」で、藤山直美さんの「あの人、腕止まったと思ったら、人間の成長が止まってんねん」もそうだ。なんで成長が止まったのか、たぶんいつのまにか神に対して謙虚でなくなったからだと思う。(誰かか何かが)与えてくださった今日の意味を掴む努力を放棄したからだ。共感と思いやりと智慧を育むチャンスを雑に扱ったからだ。不平不満は、自分が間違っている証拠だ。


人生の一日一日に目的があります。


それは自分の家で、天使が舞い踊るなどというような奇跡的なことでは全くありません。それは、


自分はパワー発生器であり、パワーを発生することによって、ちがいを生みだすことができる、ということを知ることです。自分が生みだしたちがいが、自分の基準に満たないときに、問題が起こります。


自分のなかにある怖れのために、真実を話せなかったり、自己憐憫を克服できなくて、悲しく思うような場合がそうなのです。


テレビはたとえ故障していなくても、スイッチを入れない限り何も起きません。人は自分とテレビとの関係を明確に理解していますから、何も起きなくて当然だと思っています。そこで私があなた方に望むことは、テレビについてのすばらしい知恵のすべてを、もっと広い次元に応用し、「このすばらしい電磁流のスイッチを入れるのは、私の責任です」と宣言することです。



あなたという驚くべき存在の外に「父」を見つけることはけっしてできない。そうしようとすることさえ、自分に間違った要求をすることになる。なぜなら、自分の内面から発するものを語るために、あなたは自分の外に出ようとしているからだ。神というものを認識するためのただひとつの道は、自分の内面にある「父」がいかなるものであるのかを観察することだ。


私が愛し、仕えているこの神は、それを通してすべての神秘がなされるものであり、生命全体の絶え間ない継続性である。生命の王国のこの絶え間ない継続性は、永遠に続いていくものであり、そこでは「今」という瞬間だけが存在する。この「今」という瞬間、この特定の瞬間において、神は在るものすべての「在ること」なのだ。そして、これからやってくるたくさんの「今」では、神は、すべての生命が脈打ちながらともに前進している姿、すなわちすべての生命が躍動しながら生き、感じ、広がり、進化している姿であり、神はそれらを通して自分自身の「在ること」を表現しているのである。


神とは在るものすべての究極の姿だが、境界もないし、始めも終わりもない。それは比類なき無限性なのである。



マハラジ 探求者とは彼自身を探している人だ。じきに彼は、身体が彼ではありえないと発見する。ひとたび「私は身体ではない」という確信がしっかりと確立されれば、もはや彼は身体に代わって感じ、考え、行動することはできなくなる。彼は普遍的な存在、知識、行為なのだということを容易に発見するだろう。彼のなかで、彼を通して宇宙全体が真実で、意識的で、活動的になるのだ。これが問題の核心だ。あなたは身体意識として環境の奴隷となるか、あるいはあなたは普遍的意識そのものであり、あらゆる出来事を完全に制御するかだ。しかし、それでも意識、個人、普遍なるものは私の真の居場所ではないのだ。私はその中にはなく、それは私のものではない。その中に「私」はない。どのようにして人が意識でもなく、無意識でもなく、ただ彼方に在ることができるのかを説明することは容易でないが、私は彼方にあるのだ。私は神の中にいる、あるいは私は神だ、とは言えない。神は普遍的な光と愛、普遍的な観照者だ。私は普遍的なものさえ超えているのだ。


質問者 それでは、あなたには名前も形もないということです。いったい、あなたはいかなる類の存在なのでしょうか?


マハラジ 私は私であるものだ。形がなく、形がないということでもない。意識ではなく、無意識でもない。私はこれらすべての範疇の外に在るのだ。


質問者 あなたは「ネティ・ネティ」、これではない、これではないというアプローチについて語っているのでしょうか?


マハラジ 単なる否定によって私を見いだすことはできない。私はすべてであり、無なのだ。その両方であり、その両方でない。そういった定義は宇宙の支配者には当てはまるだろうが、私には当てはまらないのだ。


質問者 あなたはただの無だということを伝えたいのでしょうか?


マハラジ そうではない。私は完全であり完璧なのだ。私は存在の中の存在性、知ることの中の知、幸福の充足だ。私を虚空に引き下げることはできない。


質問者 もしあなたが言葉を超えているならば、私たちは何について話すというのでしょう?形而上学的には、あなたの言われることは筋が通っていて、内面的な矛盾はありません。しかし、あなたの言われることは、私の糧になっていないのです。それは完全に私の緊急の必要性を超えています。私がパンを求めているときに、あなたは宝石を与えているのです。それらが美しいことは、疑うまでもありません。しかし、私は空腹なのです。


マハラジ そうではないのだ。私はあなたがまさに必要としているものを差しだしている──気づきだ。あなたは空腹ではなく、パンも必要ない。あなたに必要なのは停止、放棄、開放だ。あなたが必要だと信じているものは、あなたに必要なものではないのだ。あなたが本当に必要としているものを知っているのは私だ。あなたではない。あなたは私がいる状態に戻らなければならない──あなたの自然な状態に。ほかの何であれ、あなたの考えるものは幻想であり、障害だ。私を信じてほしい。あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているようなものだ。あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄することで充分だ。それ以外のすべては無駄なのだ。


質問者 言うは易く行うは難し、です。苦痛を抱えた人があなたのもとへやってきたとします。そして、あなたは彼に胃の中のものを吐き出すように勧めるのです。もちろん、マインドがなければ何の問題もありません。しかし、もっとも明白に、マインドはそこにあるのです。


マハラジ マインドがそこにある、とあなたに言うのはマインドなのだ。騙されてはいけない。マインドについての果てしない議論はみな、マインドそのものによってそれ自身を保護し、継続し、拡張するために生みだされたのだ。それを超えた彼方へとあなたを連れていくことができるのは、マインドの回旋や動乱を完全に拒絶することだ。


マハラジ いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。自己実現は獲得されるものではない。それはもっと理解の本質に近いものだ。ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。意識とその内容をとどめようとしてはならない。意識をとどめれば、それは止まる。洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持しようとするものにとって破壊的になる。来るものは去らなければならない。永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。無限の実在は存在と非存在の彼方にある。何度も繰り返し試みることだ。


質問者 試みるには信頼が必要です。


マハラジ まず、熱望がなければならない。欲望が強力なとき、試みようとする意志が現れるだろう。欲望が強いとき、あなたは成功への確信も必要ない。あなたには賭をする用意があるのだ。


質問者 強い欲望、強い信頼──最後にはどちらも同じことです。これらの人々は彼らの両親も、社会も、自分自身さえ信頼しません。触れるものすべてがくずれてしまうのです。彼らに絶対的に真正で、疑う余地のない、マインドによる議論を超えたひとつの体験を与えてください。そうすれば彼らは世界の果てまであなたにしたがうでしょう。


マハラジ だが、私はほかでもない、それをしているのだ! 休むことなく、私はひとつの論争の余地のない要因へと彼らを引き寄せている。存在に証明は必要ない。それはそれ以外のすべてを証明するのだ。もし彼らが存在の事実の中に深く入っていき、「私は在る」が扉となる広大さと栄光を見いだし、その扉を通り抜けて、さらに彼方へと進んで行くなら、彼らの人生は幸福と光に満ちたものとなるだろう。私を信じてほしい。到達したとき、発見されるものに比べれば、必要とされる努力など無に等しいのだ。


質問者 あなたの言われるとおりです。しかし、これらの人々は自信も忍耐ももってはいないのです。短期間の努力でさえ彼らを疲れさせてしまいます。彼らが盲目のうちに手探りをし、しかも救いの手をつかむことさえできずにいるのを見るのは心痛むことです。彼らは根本的に本当にすてきな人たちなのですが、完全に道に迷っています。私は彼らに言うのです。「真理をあなたの要求額で手に入れることはできない。条件を受け入れなければならないのだ」と。それに対する彼らの答えはこうです。「何人かは条件を受け入れ、何人かは受け入れないでしょう。受容や非受容は表面的で偶然のものです。実在はすべての中にあるのです。すべての人が無条件で歩いていける道がかならずあるはずです」と。


マハラジ あらゆるレベルで、人生のあらゆる領域において、すべてに対して開かれたそのような道はあるのだ。誰もが自分自身に気づいている。自己覚醒を深め、広めていくことは王道なのだ。それを留意、観照、あるいはただ注意と呼んでもいい。それはすべての人たちのためにある。誰もそれにとって未熟ではない。そして誰にも失敗はありえない。しかし、もちろんただ注意するだけではない。あなたの留意はマインドをも含まなければならないのだ。観照とは、根本的に意識とその動きへの気づきなのだ。


12 2018/01 02
S M T W T F S
20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
HN:
Fiora & nobody
忍者ブログ [PR]