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第三のヒロシマ前夜39


日本人が「外」に目をつぶり、70年前に焼け野原になるほどのダメージを受けた。今もそうだ。どんなに目をつぶっても、「外」の影響から逃れることはできないし、目を開いたときに、問題は問題として津波のように押し寄せてくる。「外」に目を向けない日本人は、危険な日本人だと思う。そういう日本人は大切なことを、事実の強制力を忘れているのだ。
「外」は第二義的なものだとする精神世界の教えもある。事実、だが、第二義的だとする主張だ。では第一は何か。それを自覚していた今日だったろうか。
今日、心は救われただろうか。


欲望を抱くことと執着を捨てることは同じことの表と裏にすぎません。あなたが本当に求めているのは、





欲望を抱くことも執着を捨てることも両方とも存在する意識状態です。





普通、欲望は何かに向かう気持ちを指し、執着を捨てるのは何かから離れる気持ちを指します。ここで必要なのは、その両方を含みながら、どちらの方向性も含まない言葉、強いて言えば、あらゆるものを完全に受け入れるという意味の言葉です。執着を捨てるというのは、ほとんどの人にとって、エネルギーを失い、興味あることから身を引き、無関心になることを意味します。けれども実際は、真に執着を捨てた人は完全にその瞬間に意識があって、すべてにいつでも関心を向けることができます。


自分と自分以外のものをつねに分断するエゴの動きの枠外に出ると、魂の叫びや苦痛そのもののなかに、じつはすばらしい解決がひそんでいたことを発見します。それらはいっしょに現れます。不安を感じることを怖れないでください。あまりに長いあいだ思考の世界に生きてきたので、自分が生き生きとダイナミックに存在する神であるという体験をしていないのだ、ということに気づいてください。あなたは純粋な目覚めた意識なのです。


神とは単なる概念ではありません。それは圧倒的にすばらしい意識の感覚なのです。それは、「すべてよし。いままでもつねに完璧であったし、これからも完璧でしかない」ということを、思考を超えた次元で知り、その境地に安心して完全に憩うということです。あなたのなかには、完全に心安らかでいのちにあふれ、目覚めている部分があります。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに自由が存在します。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに完全なる心の平安と絶対的安全が存在します。それを求めてください。そうすれば見つかります。何度も何度も探してください。あなたがこの世に来たのはそのためです。それが人生の旅の目的なのです。



自分の望みを物質世界で実現することがじょうずな人は、現実的な目標をたて、状況に応じて柔軟に対応していくことを学んでいます。


柔軟性ということの意味を知りたいなら、風のなかの若木をごらんなさい。幹は細くもろくても、すばらしい強靭さと耐久性をもっています。それは木が風にさからうのではなく、それに合わせて動くからです。


あることの起きる条件が整っていれば、たいした努力なしに実現します。条件が整っていなければ、たいへんな努力をしても実りません。風とともに動くには、現在の条件に対する敏感さがいります。休んで英気をたくわえるときがあり、エネルギッシュに前進するときがあっていいのです。


いつ動き、いつ動くべきでないかは、常識と直感の問題です。抽象的な思考だけでは、ほんとうにものごとを感じとることはできません。抽象思考は、感情の敏感さと結びつくべきです。


ものごとを正確に見極めるには、外的な状況がどんなふうで、どう動いているかだけでなく、自分がその状況にどんな感情を投影しているかも見極めねばなりません。内的現実、外的現実のどちらも視野にいれます。


内的現実が外的現実のそれを決定するのだ、という人がいます。逆だという人もいます。どちらも真実です。ニワトリは、卵がなければ存在しないし、逆もまた真です。原因と結果は直線的に結ばれるものでもないし、こうなればこうなる、と次々ドミノ倒しのようにつながっていくものでもありません。それは同時にあらわれます。本質は円環的なのです。原因が結果を決めるだけでなく、結果も原因を決めます。


「ニワトリか卵か、どちらが先か」という問いに対する答えは、どちらでもあるし、どちらでもない、ということです。ニワトリと卵は同時存在です。「Aか、さもなければAでないか」という問いはすべて同じように答えられます。そうでなければ、その答えはまちがっています。


”至高のリアリティ”とは、AでなければBであるというような二極性の枠ではとらえられません。それは内なる主観的現実と、外なる客観的現実の両方を含み、また両者の自発的な相互作用を含んでいます。


”至高のリアリティ”は、全的な受容、全的な降伏、全的なすべてを受けいれる愛の産物です。そこにふくまれないものはありません。


木が根こそぎひきぬかれ、川に流されたとしても、そこに悲劇はありません。木と川のあいだには、なんの差異もないからです。


”至高のリアリティ”の流れと対照的に、世の中には”抵抗”というものがあり、これがさまざまの条件づけを生みだします。弁別、比較、評価判断が起き、自然の流れが妨げられます。


”至高のリアリティ”の本質は「イエス」と言うことです。それにはもともと陶酔と熱狂がそなわっています。それは、あらゆるものごとを吸収同化します。それは目に見えるようになった幸福です。すべての人、すべてのものを、自分自身とみなすからです。


”抵抗”はつねに「ノー」と言います。それは本来、葛藤や努力をともなっています。あらゆるものに反対しますので、不幸の具現化ともいえます。抵抗がないとき不幸はありません。不幸はつねに、なんらかの条件に対して抵抗します。不幸は、これは良いという解釈、あるいは悪いという解釈の上に立っています。不幸の根とは、執着、こだわりです。


さて、わたしはあらゆる執着を捨てなさいと言っているわけではありません。友よ、それは現実的に達成できるゴールとはいえないでしょう。ただ、自分の執着、ものごとの感じかた、良い悪いという解釈方法に気づきはじめてください。あなたが自分の幸福をいかに条件つきのものにしているかに、気づいてほしいと求めているのです。


無条件というものを理解したければ、風に身をゆする木を見なさい。あれ以上の比喩はありません。木は深く根をはり、がっしりと枝をひろげています。足もとは確固とし、上のほうは柔軟です。それは力強さと、ゆだね、あけわたすことのシンボルです。


柔軟性を人生のあらゆる状況において発揮することによって、あなたもまた同じような力強さを発達させることができます。背筋をのばして立ち、この瞬間に根ざしていてください。自分の欲しているものを知り、しかし、それらをむりやりに求めるのではなく、人生の流れがおのずとそれをかなえてくれることを知りなさい。あなたの欲しいものを、ある方法で手に入れるということに執着してはなりません。それは、不必要な抵抗をもたらします。


風とともに動くのです。人生はダンスです。動きであり、持続です。


あなたの選択は簡潔です。ダンスできるか、できないか。
ダンスをしないことに決めても、ダンスフロアから追い出されるわけではありません。ダンスはあなたのまわりで、くりひろげられ続けています。ダンスは続き、あなたもその一部です。


あらゆる条件は、無条件という状態に対して開かれています。ただ自分をオープンにして、この瞬間の中にいれば、神の腕の中に抱きとめられるでしょう。しかし一瞬でも抵抗すれば、自分で作り出した不必要なもつれに絡まってしまいます。


人間は条件つきの現実(リアリティ)から自由になることはできません。なぜなら、条件つきの現実は、人間の意識が創造したものだからです。自分の創造物から逃げようとするのをやめてください。ただ受けいれるのです。木が風を受けいれるように。あなたの聖性は、完全に人間らしくあること、
自分や他人の欠乏や欲求を完全に受けいれる態勢になることのなかにあります。
深いあわれみの気持ちは、自分を感情的体験から切り離してしまうのでなく、完全にその体験に参加することによってのみ持つことができます。


「ここは苦しみの場所だ、あるいは喜びの場所だ」とは言わないでください。あなたの体験を、実際とはべつのものに仕立てあげないでください。解釈から遠ざかりなさい。解釈は、人生のどちらかいっぽうの極をだけ受けいれるよう、うながすのです。


この世界でのわたしの経験も、あなたがたと同じでした。わたしはあなたがたと同じように、人生のダンスの中へ入ってゆき、理解と受容のなかで成長し、条件づけられた愛から、条件なき愛の経験へと移行してゆきました。愛する兄弟姉妹よ、あなたがたが感じたり経験したりしたもので、わたしが味わわなかったものはありません。わたしはあらゆる欲望と恐怖心を知っています。それらすべてを通りぬけたからです。


わたしもあなたと同じ程度のダンサーです。わたしはそこに参加し学びたいと、喜びいさんで願っただけです。わたしがあなたがたに求めるものも、それだけです。喜びいさんでおこなってください。参加してください。触れ、触れられてください。そのためにこそ、あなたがたはここにいます。


ハートは開くとき、愛に満たされています。奇蹟は、開いているハートに、そしてコントロールしたい、知りたいという欲求をあけわたした心(マインド)に、自然にやってきます。


神の一部であるあなたに、神が供給をさしひかえることはありえません。あなたを分離した別存在として見ることはありません。親が子どもを見るように、ゆるぎない愛と関心をもってあなたを見守ります。


たったいま、この瞬間に、あなたは救われます。覚えておきなさい、友よ。たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい。
「わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」


もし答えが「イエス」なら、あなたはハートに”聖なる存在”のぬくもりを感じます。答えが「ノー」なら、あなたの意識がその”聖なる存在”のことを思い出させ、あなたをそちらへつれてゆきます。


いま現在の瞬間に対してオープンになれると、心と経験の中にある”聖なる存在”に気づく回数も多くなります。この拡大した意識の内部で、あなたという個人の目的も明らかになり、自分と他人にとって最善のことをするにはどうすればよいか、その道も見えてくるでしょう。


ある環境が、あなたの目の前にあらわれてきます。見かけは混乱したものかもしれませんが、あなたはもう、判断をくだすことはありません。あなた自身にも他人にも、もはや不備な点は見いだせません。いまここにある状況に全面的に身をあけわたすようになり、ベストをつくし、自己放棄の力強さのなかにゆったり安らぎます。あなたは結果をますます神の手にゆだねるようになり、贈り物はつねに受けとるにふさわしいものだということがわかります。あなたの贈り物は、つねに十分なものです。


そのときあなたは、わたしのまことの姿を見るでしょう。わたしはそれを確信し、大きな喜びをもって、その瞬間を待ちのぞみます。それは真理の瞬間だからです。それは分離の終わりです。それはあらゆる苦しみの終わりです。



質問者 あなたは、私がけっして生まれてこなかったし、死ぬこともないと言いつづけています。もしそうならば、どうして私の目には、世界は誕生し、間違いなく死にゆくものとして映るのでしょうか?


マハラジ そう信じるのは、明らかにあなたが生まれ、そして死んでいく身体だという考えを一度も疑ったことがないからだ。生きている間、身体は注意を引き、完全にあなたを魅了する。それゆえ、自己の真の本性を知覚する人は本当にまれなのだ。それは大海の表面を眺め、その下にある広大さを忘れるようなものだ。世界とはマインドの表面だ。そしてマインドは無限なのだ。私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。マインドが静かなとき、それは実在を反映する。マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残るのだ。この実在は非常に堅固であり、現実であり、マインドや物質よりも実質的なものだ。それに比べればダイヤモンドさえもバターのように柔らかい。この圧倒的な実在の現実性が、世界を夢のように霧のかかった無意味なものにするのだ。


質問者 あまりにも多くの苦しみを抱えたこの世界を、どうして無意味なものとして見ることができるのでしょう。なんと冷淡な!


マハラジ 冷淡なのはあなたであって、私ではない。もしあなたの世界がそれほどにも苦しみに満ちているのなら、何とかするがいい。強欲や怠惰をそれに加えてはならない。私はあなたの夢のような世界に束縛されてはいない。私の世界では、苦しみ、欲望、恐れの種子はまかれてはいない。それゆえ、苦しみは育たないのだ。私の世界は対極から自由であり、相互に破壊的な不一致がなく、調和が遍在しているのだ。その平和は岩のように堅固であり、この平和と沈黙が私の身体なのだ。


質問者 あなたが言われることは、仏陀のダルマカーヤ(法身)を思い出させます。


マハラジ そうかもしれない。学術用語で脇道にそれる必要はない。ただ、あなたはマインドのなかで知覚する世界の一部分としての個人をあなた自身だと想像していることを理解しなさい。そしてマインドを外側から見てみなさい。なぜなら、あなたはマインドではないのだから。結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に自己同一化することなのだ。この習慣を捨てなさい。あなたはあなたが知覚するものではないのだ。注意深く、超然と離れて在る力を使いなさい。あなた自身を生きているものすべてのなかに見なさい。そうすれば、あなたのふるまいはあなたの見解を表現するだろう。ひとたびこの世界にあなた自身のものと呼べるものは何もないと悟れば、あなたはそれをステージ上の劇やスクリーン上の画像を見るように外側から見る。賞賛し、楽しみながら、しかも実際には動じることのないままに。あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空間のなかに実際に存在し、短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、あなたは存続し、拡大していくことを切望するようになるだろう。だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうでなければすべてに遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅なるものだと知るとき、もはや恐れることは何もなくなるのだ。あるがままのあなたを知りなさい。ほかに恐れに対する治療法はない。
あなたはこの路線で考え、感じることを学ばなければならない。さもなければ、いつまでも欲望と恐れ、獲得と損失、成長と衰退という個人のレベルにとどまったままだ。個人的な問題はそれ自体のレベルにおいて解決することはできないのだ。幸せであろうと切望することは不幸の原則であるように、生きようとする欲望自体が死のメッセンジャーなのだ。世界は苦痛と恐れの、不安と絶望の大海だ。快楽は魚たちのように、わずかばかりまれにやってきては、たちまちのうちに去っていく。理解力の低い人たちは、あらゆる証拠にも反して彼だけは例外であり、世界が彼に幸福をもたらすことこそ当然だと信じている。だが、もっていないものを世界が与えることはできない。徹底的に世界は非実在であり、真の幸福のためには無用のものなのだ。そうであるほかないのだ。私たちが実在を求めるのは、非実在に苦しんでいるからだ。幸福が私たちの真の本性なのだ。そして、それを見いだすまで私たちはけっして休まないだろう。しかし、それをどこに求めればいいのかを知る人はごくまれだ。ひとたびあなたが、世界とは実在の錯誤した光景であり、それはそう現れたとおりのものではないと理解すれば、それに取りつかれることから自由となる。あなたの真の存在と一致するものだけがあなたを幸福にする。見てのとおり、世界は明らかにそれを完全否定するものなのだ。
ただ静かに在りなさい。そしてマインドの表層に現れるものを見守りなさい。既知なるものを受けつけず、まず未知なるものを歓迎しなさい。そして然る後に、それもまた拒否しなさい。このようにして、あなたは知識のない存在だけの状態に到達するのだ。そこでは存在自体が知識だ。在ること自体によって知ることが直接の知識なのだ。間接的な知識は記憶と感覚を根底とし、知覚者と知覚されたものとの関係の近さ、その二つの間の対比によって制限されてしまう。幸福においてもそれは同様だ。普通、喜びを知るために悲しみ、悲しみを知るために喜ばなければならないものだ。真の幸福には原因がなく、刺激がなくなっても消え去ることはない。それは悲しみと対立するものではない。それはすべての悲しみと苦しみを含むものなのだ。


質問者 こんなにも多くの苦しみに囲まれながら、どうやって幸福でありつづけることができるのでしょうか?


マハラジ それはどうすることもできないのだ。内なる幸福は圧倒的に現実のものだ。空の太陽のように、その現れが雲に隠れたとしても、けっして不在ではないのだ。


質問者 私たちが困難に在るとき、不幸となるのは避けられないことです。


マハラジ 問題はただ恐れだけだ。あなた自身を何にも依存しないものとして知りなさい。そうすれば、あなたは恐れとその影から自由になるだろう。


質問者 幸福と快楽との違いは何でしょうか?


マハラジ 快楽はものに依存している。幸福は依存しない。


質問者 もし幸福が依存しないものなら、なぜ私たちはつねに幸福ではないのでしょうか?


マハラジ 幸福となるためにものが必要だと信じているかぎり、ものの不在によって不幸になるに違いないと信じることだろう。マインドはそれが信じることにしたがって形づくられるのだ。それゆえ人は、幸福になろうと駆りたてられる必要はないのだと確信することが重要なのだ。その反対に、快楽は混乱と厄介者であり、幸福になるには何かをもち、何かをしなければならないという偽りの確信を、単に増長するだけなのだ。しかし、なぜ幸福について話さなければならないのか? 不幸であるとき以外、幸福について話したりはしない。「私は今幸せです」と言う人は、過去と未来という二つの不幸の間にいるのだ。この幸福は苦痛から解放されたことによる単なる興奮にすぎない。真の幸福とは、まったく自己意識のない状態だ。それがもっとも良く表されるのは否定によって、「何も私には間違ったところはない。私には何も心配することがない」と言うことだ。結局、すべてのサーダナの最終的な目的は、この確信が言葉上のものでなく、実際の常在の体験を根底にした地点に到達することなのだ。


質問者 どの体験でしょうか?


マハラジ 空として在ることの体験だ。記憶や期待で混乱していない、開かれた空間の、若々しい、すべての時間とエネルギーを発見や冒険のために得たような幸福だ。


質問者 発見するための何が残されているというのでしょうか?


マハラジ 実在のなか、そして神の偉大なマインドとハートのなかに存在する、外なる宇宙と内なる無限の空間の広がりだ。存在の意味と目的、苦しみの秘密、人生の無知からの救済だ。


質問者 もし幸福であることが恐れと心配からの解放であるなら、困難の不在が幸福であると言えるのではないでしょうか?


マハラジ 不在、非存在の状態は原因とはなりえない。ある原因が前もって存在するということは、それが観念のなかに暗黙のうちに含まれていたことを意味するのだ。何も存在しないあなたの自然な状態のなかに、成ることの原因はありえない。原因は偉大で神秘的な記憶の力のなかに秘められている。しかし、あなたの真の住処はすべての内容物が空っぽの、無のなかにあるのだ。


質問者 空っぽと無──なんと恐ろしい!


マハラジ あなたは眠るとき、喜んでそれにであうのだ! 目覚めた眠りの状態をあなた自身で見いだすがいい。そうすれば、それがあなたの真の本性と完全に調和していることを知るだろう。言葉はあなたに概念しか与えられない。そして概念は体験ではないのだ。私に言えることはただ、幸福には何の原因もなく、原因のないものは不動だということだ。それは快楽のように知覚可能なものではない。知覚可能なものは苦痛と快楽なのだ。不幸から解放された状態は否定を通してしか描写できない。それを直接知るには、因果律に耽溺したマインドと時間の支配を超えていかなければならないのだ。


質問者 もし幸福が意識ではなく、意識が幸福ではないのなら、それら二つの間のつながりは何なのでしょうか?


マハラジ 意識的存在は条件と環境の産物であり、それらに依存し、それらとともに変化する。独立し、創造されたものではなく、永遠で不変のもの、しかもつねに新しく新鮮なものはマインドを超えている。それについて考えるとき、マインドは消え去り、ただ幸福だけが残るのだ。


質問者 すべてが去った後、無が残るのです。


マハラジ 何もないところに無がありうるだろうか? 無とはひとつの概念にすぎない。それは何かの記憶に依存しているものだ。純粋な存在は、定義可能で描写可能な存在から完全に独立しているのだ。


質問者 どうか教えてください。マインドを超えても意識は継続するのでしょうか、それともマインドとともに終焉するのでしょうか?


マハラジ 意識は来ては去っていく。気づきは永遠不変に輝くのだ。


質問者 気づきの中で気づいているのは誰でしょうか?


マハラジ 個人がそこにいるとき、意識もまたそこにある。「私は在る」、マインド、意識はどれも同じ状態を表している。もしあなたが「わたしは気づいている」というなら、それは「わたしは気づいていることについて考えていることを意識している」という意味だ。気づきの中に「私は在る」はない。


質問者 観照はどうでしょうか?


マハラジ 観照はマインドのものだ。観照者は観照されるものとともに在る。非二元性の状態のなかでは、すべての分離がやむのだ。


質問者 あなたはどうなのでしょうか? あなたは気づきのなかに在りつづけるのでしょうか?


マハラジ 個人、「私は身体だ」、このマインド、この記憶の連鎖、この一束の欲望と恐れは消え去る。だが、アイデンティティと呼ばれる何かはそのまま残る。それは必要とされるとき、私が個人となることを可能にするのだ。愛はそれ自身の必要性をつくり出すのだ。ひとりの個人と成ることさえも。


質問者 実在はそれ自体を存在─意識─至福として現すと言われています。それらは絶対的なものでしょうか、それとも相対的なものでしょうか?


マハラジ それらは互いにとって相対的であり、相互に依存している。実在はその表現とは別なのだ。


質問者 実在とその表現はどのような関係にあるのでしょうか?


マハラジ 何の関係もない。実在のなかではすべてが真正で同一なのだ。それは、私たちが「サグナ(顕現)とニルグナ(非顕現)はパラブラフマン(至高の実在)のなかでひとつだ」と表現するのと同じだ。ただ至高なるものだけが存在するのだ。運動のなかでは、それはサグナであり、不動においては、それはニルグナなのだ。だが、動いているのは、あるいは動かないのはマインドだけだ。実在は彼方にあり、あなたも彼方にあるのだ。ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものはあなた自身ではありえないと理解するならば、あなたはあなたの想像から自由になる。すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、真我の実現に必要不可欠なのだ。私たちは注意の欠如から実在を失い、過剰な想像から偽りを生みだすのだ。あなたはこれらのことにマインドとハートを捧げ、繰り返し熟考しなければならない。それは食べ物を料理するようなものだ。用意ができるまでは、それを火にかけておかなければならないのだ。


質問者 私は運命、カルマに支配されているのではないでしょうか? それに対して何ができるのでしょうか? 私が何であるのか、何をするのかは前もって決められているのです。私のいわゆる自由選択さえも先決されているのです。ただ私が気づかず、自分は自由だと想像しているだけなのです。


マハラジ またしても、それはあなたがどう見るかにかかっている。無知とは熱のようなものだ。それはあなたにそこにはないものを見させる。カルマとは神の力によって処方された治療法なのだ。それを歓迎し、その指導に信頼をもってしたがうがいい。そうすればあなたは良くなるだろう。回復すれば患者は病院を去っていく。選択と行為の即座の自由をせがむことは、単に回復を延長させるだけだ。運命を受け入れ、それを満たすがいい。これが運命からの自由への近道なのだ。だが、愛とその欲求からの自由ではない。欲望と恐れから行為することは束縛だ。愛から行為することが自由なのだ。


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第三のヒロシマ前夜38


あなたが誰であるかはわたしにはどうでもいいことです。あなたの人生が平凡であろうが華やかであろうが、どうでもいいことです。金持ちだろうが貧乏だろうが精神病だろうが変わり者だろうがかまいません。ただひとつ、わたしにとって何よりも大事なことがあります。それは、あなたが意識の共同創造者として創造に責任を持つのか、それとも無力なふりをして自分以外のものが意識を創造していると思い込みつづけるのか、です。


自分もともに意識を創造しているのだと認めるにはそれなりの精神的な成熟が必要です。自己憐憫と傲慢さに満ちた環境を創り出して、その中を偏狭な精神で動き回り、自分のちっぽけな悩みにどっぷりつかって生きていくこともできます。または、自分の状況がどんなものであれ、別の選択が可能なのだと考えることもできます。その状況の真っ直中で、生き生きとダイナミックに創造性と愛情と親切心に満ちて自分やまわりの人たちを助けながら生きていくのかどうか、ということです。
自分の思考習慣に責任を持ってください。


別の言葉で言えば、人生がどんなにつらくてひどいみじめなものであっても、これと同じ基本法則があてはまるということです。あなたの心や頭のなかでどんな感情が起こり、どんな争いが起こっていても、あなたの行動がどんなものであっても、内なる神はそれぞれの瞬間を利用することができます。ただ、神にまかせるのだという気持ちを持っていなくてはなりません。そして神にそうするように頼むのです。



マハルシ 「存在」はどの場合においても実在です。万象、多様性、個人は非実在です。それゆえ、実在と非実在の統合、混同、偽りの同一化もまた誤りなのです。それはサッド・アサッドヴィラクシャナ、つまり実在と非実在(サットとアサット)を超越することです。実在は神を含めたすべての概念を超越するものです。「神」という名称が使われているかぎり、それは真実ではありえません。ヘブライ語のエホヴァ=「私は在る」(I AM)という表現は神を的確に表しています。絶対なる存在は描写を超えているのです。

(対話112)


体の死は、眠りに入るのに似ている。スピリットが魂を呼びよせると、魂は「シール」、あるいは「チャクラ」と呼ばれている体の中のエネルギー・センターを通りながら上昇していく。魂とは記憶であるが、それは、頭の中心に位置する最後のシールである第七シール、すなわち脳下垂体と呼ばれる部分を通って体の細胞組織から離れていく。魂がここを通過するとき、しばしば風の音を聞きながらトンネルを通過するような感じとして体験される。トンネルの向こうに見える光が、あなたの存在の光、あなたの存在のスピリットである。魂が体を離れると、体はその役目を終え、その存在は自由な「魂としての自分」になる。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みはまったくない。


死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいほど明るくなってくる。なぜなら、この天界から去る瞬間、あなたは物質の濃密さから抜け出し、光の存在に戻るからだ。そこでのあなたは強力なマインドと感情だけの存在で、光の体があなたの体となる。そして、自分の光の体を通して受け容れた思考によって、その電気的な状態が変わるのである。そこからは、あなたは七つの天界のうちのひとつに行くことになる。あなたがどの天界に行くかは、この天界にいたときに感情的に表現されていた態度によって決まるのである。


「気づき」あるいは「意識の理解レベル」にも、七つの段階がある。その七つの理解とは、「生殖と生存」、「恐れと苦痛」、「力」、「感じる愛」、「表現する愛」、「すべての生命の中に見える神」、そして「私は神である」だ。


この天界、この天国は、「見せる天界」と呼ばれている。なぜならここでは、自分の創造的な力、そして感情という形で表現している自分のどんな態度であろうと、それらを物質の中に見ることができるからだ。この天界は、七つの中でただひとつ、暗闇がその上をおおっている天界であり、光の音楽を耳にできないただひとつの天界でもある。ここに生まれてくる存在たちは、偉大なる「知っている状態」から生まれてきながらも、結局は、社会意識のプログラミングを受けて「何も知らない状態」へと追いやられてしまうのだ。それがここで起こることである。そして、この天界で先に進むのがしばしば非常に困難なのも、やはりこのためである。


あなた方のこの時代は終わりを迎えようとしている。それは「肉体の時代」であった。新しい時代はすでに地平線上にその姿を見せつつある。それは「光の時代」、「純粋なスピリットの時代」、「神の時代」と呼ばれるものだ。すべては平等であり、天の王国はつねに自分の中にあったのだということを人間が知っている時代である。「光の時代」は、人間を無限の思考へと、そしてただ在ることの愛と喜びと自由という崇高な王国へと連れ戻してくれるだろう。この新しい王国そのものになる者たちは、人間の中でも将軍や暴君たちではなく、平和の布告者であり、制限というよどみを超えてこのように言う者たちだ。「私は神であり、自分が見るものすべてを愛する。なぜなら、私は自分が見るものすべてであり、私は自分であるものを愛しているからだ」と。この理解に到るそれぞれの者は、自らのたったひとつの光によって、意識全体を上昇させることになる。そして、あなた方は叡智という真珠で豊かに満たされ、ひとりずつ無限の状態へと戻っていくのだ。そしてその叡智によって、あなた方はそれから先の永遠の中で、さらに賢く創造していくことができるのである。


自分は神であるすべてを受け容れるに値するのだと感じられるほど自分自身を愛するとき、そして自分が「父」とひとつであるのを知ることを望むとき、あなたはこのすばらしい花を咲かせ始める。これが、神のマインドの中にあるすべての思考を受け取るために、あなたが自分の脳の力を開く方法なのだ。つまり、知りたいと望むことによって、そしてその「知っている状態」の感情をすべて感じたいと望むことによってである。



質問者 幸運にも、全人生において私は聖者との交わりをもってきました。それは真我の実現のために充分でしょうか?


マハラジ それは、あなたがそれから何をつくり出すかによる。


質問者 サットサン(聖者との交わり)のなかで起こる解放への働きは自動的なものだと聞きました。川が人を入り江まで運ぶように、善き人びとの深遠な沈黙の影響が私を実在へと導くのです。


マハラジ それは川まであなたを連れていくだろう。しかし、川を渡るのはあなた自身なのだ。自由への意志なしには、自由を獲得することも維持することもできない。解放に向かってあなたは努力しなければならない。最小限あなたにできることは、入念に障害の覆いを取り除くだけだ。もしあなたが平和を求めるのなら、努力しなければならない。ただ静かにしているだけでは、平和は得られないだろう。


質問者 子供はただ成長します。彼は成長のための計画を立てません。パターンももってはいませんし、こちらの手、あちらの足というように、部分的に成長するわけでもありません。彼は完全な形で、無意識のうちに成長するのです。


マハラジ なぜなら、彼は想像から自由だからだ。あなたもまたそのように成長することができる。しかし、記憶や期待から生まれた予測や計画に熱中してはならないのだ。未来に関心がないこと、それがジニャーニ(賢者)の独自性のひとつなのだ。あなたの未来への関心は苦痛への恐れと、快楽への欲望によるものだ。ジニャーニにとってはすべてが至福だ。彼は何が来ようとも幸せなのだ。


質問者 ジニャーニでさえ惨めになるような、多くのことがかならずあるはずです。


マハラジ ジニャーニは困難に遭遇するかもしれない。しかし、それが彼を苦しめることはない。子供を誕生から成人まで育て上げることは困難な仕事かもしれない。しかし、母親にとっては苦難の思い出も喜びなのだ。世界には何の間違いもない。誤りはあなたの見方にあるのだ。あなたを惑わせるのは、あなた自身の想像だ。想像なしには世界もない。あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。あなたが知覚している世界は意識でできている。あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。あなたは永遠に続く時間だ。あなたはそれに生命を与える愛なのだ。想像と執着を切り落としなさい。すると、何が残るだろうか?


質問者 世界が残り、私が残ります。


マハラジ そのとおりだ。だが、あなたが欲望と恐れのスクリーンを通して見ず、あるがままに見るとき、何と違うことだろう。


質問者 実在と幻想、智慧と無知、聖人と罪人、これらすべての区別は何のためにあるのでしょうか? 誰もが幸福を探し求めています。誰もが必死になって努力をしています。誰もがヨーギであり、彼の人生は智慧の学校なのです。各人が各々の方法で、必要な教訓を学んでいるのです。社会はある者たちを認め、ほかを否認します。どこでも、いつのときにでも適応する法則というものはないのです。


マハラジ 私の世界では、愛が唯一の法則だ。私は愛を求めず、ただ与えるだけだ。それが私の本性なのだ。


質問者 あなたはパターンにしたがって毎日を生きています。朝には瞑想のクラス、講話と討論を定期的にもっています。一日に二度、礼拝(プージャ)があり、夕方には宗教的な献歌(バジャン)があります。あなたは一日の課程を綿密に固守しているようです。


マハラジ 私の見るかぎり、礼拝や献歌に関しては、私が干渉する理由はない。一般的な日課は、私がともに生活するようになった人びとや、話を聞きに来る人たちの要望に応えたものだ。彼らは働いている人たちで、多くの義務があり、時間の調整は彼らの都合に合わせている。いくつかの繰り返し課程は避けられない。動物や植物でさえ、彼らの時間割をもっているのだ。


質問者 そうです。私たちは生命すべてに規則的な順序を見ます。誰がその秩序を維持しているのでしょうか? そこには法をしき、秩序を守らせる内なる支配者がいるのでしょうか?


マハラジ すべてはその本性にしたがって動くのだ。どこに警察の必要があるだろう? あらゆる行動は反応を生み出し、それが行動を中立化させ、バランスを取る。すべては起こる。だが、そこには絶え間ない取り消しがある。そして最後には、あたかも何も起こらなかったかのようになるのだ。


質問者 最終的な調和で私をなだめようとしないでください。勘定は合っても、損失は私のものなのです。


マハラジ 見ていなさい。最後にあなたは支出を正当化するに充分なだけの利益を得るかもしれないのだ。


質問者 私には長い過去があり、しばしばその多くの出来事が偶然起こったのか、それともひとつの計画によるものなのかと不思議に思うのです。私が生まれる以前に、生きるべき人生のパターンが定められているのでしょうか? もしそうならば、誰がその計画をつくり、誰がそれを強制したのでしょうか? そこに逸脱や誤りはありうるのでしょうか? ある人は、運命は変えられないもので、あらゆる瞬間があらかじめ決定されていると言います。ほかの人たちは、純粋な偶然がすべてを決定するのだと言います。


マハラジ あなたの好きなように受け取るがいい。人生のなかにひとつのパターンを判別することはできるだろうし、単なる偶然の連鎖を見ることもできる。説明とはマインドを喜ばすためにあるのだ。それらが真実である必要はない。実在は定義不可能であり、描写不可能なものだ。


質問者 あなたは私の質問を避けています! 私はあなたがどう見ているのかが知りたいのです。私たちは、どこを見ても信じがたいほどの知性と美を見いだします。どうして私に宇宙が無形で混沌としていると信じることができるでしょうか? あなたの世界、あなたが住んでいる世界は無形かもしれませんが、混沌としている必要はないはずです。


マハラジ 客観的な世界には構造があり、秩序をもち、美しいものだ。誰もそれを否定できない。だが構造と様式は、そこに強制と拘束があることを暗示しているのだ。私の世界は絶対的に自由だ。そのなかのすべてが自己決定するのだ。それゆえ、私はすべてがひとりでに起こると言いつづけているのだ。私の世界にも秩序がある。しかし、それは外側から押しつけられたものではない。それはその永遠性によって自発的に即座に起こるのだ。完全性は未来にあるのではない。それは今在るのだ。


質問者 あなたの世界は私の世界に影響を与えますか?


マハラジ 今という一点においてだけだ。それは一時的な存在、つかの間の実在の感覚をそれに与えるのだ。完全な気づきのなかでその接点は確立される。それには努力を要しない非自意識の注意力が必要なのだ。


質問者 注意とはマインドの態度なのではありませんか?


マハラジ そうだ。マインドが実在を熱望しているとき、それは注意を与えるのだ。あなたの世界には何の間違いもない。あなた自身がそれから分離していると考えることが無秩序を生みだす。利己主義がすべての悪の源なのだ。


質問者 私の質問に戻ります。私が生まれる前に、内なる自己が人生を詳細にわたって決定するのでしょうか、それとも完全に偶然のものであって、遺伝と環境のなすがままなのでしょうか?


マハラジ 父親と母親を選択し、つぎの生をどのように生きるかを決定したと宣言する者たちが知っているかもしれない。私自身に関して言えば、私はけっして生まれてこなかったのだ。


質問者 あなたが私の前に座って質問に答えているのを私は見ていますよ。


マハラジ あなたの見ているのは身体だけだ。もちろん、それは生まれてきたし、死ぬだろう。


質問者 私に興味があるのはこの「身体─精神」の人生の物語です。それはあなたによって定められたのでしょうか、それとも誰かほかの人によるのでしょうか、あるいはそれは偶然起こったのでしょうか?


マハラジ あなたの質問自体に策略がある。私は身体と宇宙の間に区別をつけはしない。それぞれが互いの原因であり、互いは真実においてひとつなのだ。だが、私はそのすべての外にいる。私はけっして生まれてこなかったと言っているときに、なぜ私がつぎの生のためにどのような準備をしてきたかといった質問をするのだろうか? あなたが想像を展開させることを許した瞬間、それはただちに宇宙を紡ぎだすのだ。それはあなたが想像するようなものではまったくない。そして、私はあなたの想像には拘束されないのだ。


質問者 命ある身体を育て、維持するには、知性とエネルギーが要求されます。それらはどこから来るのでしょうか?


マハラジ そこには想像があるだけだ。知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされてしまった。あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなってしまったのだ。想像が豊かな創造力であることに疑いはない。宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のなかにあり、実際には存在しないのだ。


質問者 最近私が読んだ記事に、幼年期に残酷に扱われた少女の話があります。彼女はひどく身体を傷つけられ、不具にされ、完全に周囲から疎外されて孤児院で育ってきました。この少女はもの静かで従順ですが、完全に無関心なのです。子供たちの面倒を見ていた尼僧のひとりは、少女は知的障害ではなく、ただ引きこもり、無反応なだけなのだと確信しました。ひとりの精神分析医が治療を頼まれ、一週間に一度面会し、二年間にわたって孤立の壁を打ち破ろうと試みました。彼女は従順で行儀正しいのですが、医師に注意を向けませんでした。彼は彼女におもちゃの家を与えました。移動可能な家具や部屋、父親や母親、そして子供たちの姿の人形を添えて。それが彼女の反応を引き起こし、興味をもたらしました。ある日、古傷が回想され、よみがえり、表層に呼び起こされたのです。次第に彼女は回復し、何度かの手術によって顔と身体は正常な状態に戻りました。そして彼女は有能で、魅力的な若い女性へと成長したのです。それは医師にとって五年以上の歳月を要しました。しかし、仕事は為されたのです。彼は真のグルです! 彼は何の条件も押しつけず、用意や適性についても話しませんでした。信頼も希望もなしに、ただ心からの愛をもって何度も何度も試みたのです。


マハラジ そうだ。それがグルの本性なのだ。彼はけっしてあきらめない。しかし、成功するためには、彼はあまり強い抵抗を受けてはならないのだ。疑いや不服従は遅れを余儀なくしてしまう。自信と従順さを与えることで、彼は弟子のなかに革新的な変化をもたらすことができる。グルの深い洞察と弟子の誠実さ、その両方が必要とされるのだ。彼女の状態がどのようなものであろうと、あなたの話のなかの少女は、人びとの誠実さの欠如に苦しんだのだ。もっとも難しいのが知的な人びとだ。彼らは多くを語るばかりで誠実ではないからだ。
あなたが真我の実現と呼ぶものは自然なことだ。あなたの用意が調ったとき、グルは待っている。サーダナ(修練)は努力を要しないものだ。あなたと師の関係性が正しいとき、あなたは成長する。何よりも、彼を信頼することだ。彼があなたを惑わすことはないのだ。


質問者 たとえ、彼が明らかに間違ったことをするように要求したときも信頼すべきでしょうか?


マハラジ そうしなさい。ひとりの隠遁者(サンニャーシン)がグルから結婚をするようにと言われた。彼はそれに従い、苦渋を味わった。しかし、彼の四人の子供たちは皆、マハーラーシュトラ州のもっとも偉大な聖者や賢者となったのだ。何であれあなたのグルから来るものは、喜びとともに受け取りなさい。そうすれば、あなたは努力することなく完成へと成長するだろう。


質問者 師よ、何か欲しいものや望みがありますか? 何かあなたのためにできることがあるでしょうか?


マハラジ 私のもっていない何を与えることができるというのだろうか? 物質的なものは満足をもたらすために必要だ。だが、私は私自身に満足しているのだ。ほかに何が必要だというのだろう?


質問者 もちろん、空腹のときには食べ物が、病気のときには薬が必要です。


マハラジ 空腹が食べ物を、病気が薬をもたらすのだ。それはすべて自然の仕事だ。


質問者 もしあなたにとって必要だと私が信じるものをもってきたならば、あなたは受け取るでしょうか?


マハラジ あなたに差しださせたその愛が、私をして受け取らせるだろう。


質問者 もし誰かが美しいアーシュラムを建設すると願い出たならどうしますか?


マハラジ 彼にぜひそうさせるがいい。富を使い、何百もの人を雇い、何千人に食事を供させるがいい。


質問者 それは欲望ではないのでしょうか?


マハラジ まったくそうではない。私は彼に適切に、中途半端ではなく、惜しむことなくするように頼むだけだ。私の欲望ではなく、彼が彼自身の欲望を満たしているのだ。彼に成功させ、人や神々のあいだで名を挙げさせるがいい。


質問者 しかし、あなたはそれを望んでいるのでしょうか?


マハラジ 私はそれを望んではいない。


質問者 あなたはそれを受け入れるのでしょうか?


マハラジ 私には必要ないのだ。


質問者 あなたはそのなかに住むでしょうか?


マハラジ もし強要されたならば。


質問者 何があなたを強要するのでしょうか?


マハラジ 光を探し求めている人たちの愛だ。


質問者 ええ。あなたの言われることがわかります。ところで、どうすれば私はサマーディ(三昧状態)に入れるのでしょうか?


マハラジ もしあなたが正しい状態にいれば、何であれ見るものがあなたをサマーディに引き入れるだろう。結局、サマーディは特別な状態ではないのだ。マインドが強烈に興味をもっているとき、それは興味の対象とひとつになる。見る者と見られるものは、見ることのなかでひとつとなり、聞く者と聞かれるものは、聞くことのなかでひとつとなり、愛する者と愛されるものは、愛することのなかでひとつとなる。あらゆる体験がサマーディの根底となるのだ。


質問者 あなたはつねにサマーディに在るのでしょうか?


マハラジ もちろん、そうではない。サマーディは、要するにマインドの状態なのだ。私はすべての体験を超え、サマーディさえも超えている。私は偉大な貪り食う者、破壊者だ。何であれ私が触れるものは虚空(アーカーシュ)のなかへと消え去るのだ。


質問者 私は真我実現のためにサマーディが必要なのです。


マハラジ あなたはあなたに必要な真我実現のすべてを手にしている。だが、それを信頼していないのだ。勇気をもちなさい。あなた自身を信頼しなさい。行き、話し、行為しなさい。それ自体が証明する機会を与えるがいい。ほとんど気がつかないほどの真我の実現が起こるかもしれない。だが、とにかくそれには確信が必要なのだ。変わったにもかかわらず、それに気づかないでいる。そのような劇的ではない場合のほうが、しばしば、もっとも信頼のおけるものなのだ。


質問者 人は自分が真我を実現したと信じたり、誤解したりすることができるのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。「私は真我を実現した」という考えそのものが過ちだ。自然な状態のなかには、「私はこれだ」、「私はあれだ」といった考えはないのだ。



第三のヒロシマ前夜37


5分でもジミーさんを見ると爆笑してしまう。癒される。


今日私がお話することは、彼女が何年も前に発した問いに対する答えです。究極的には、すべての人は孤島にひとりぼっちでいるのです。今まで読んだ本も、今まで唱えてきた祈りも、あなたが感じている空しさの前では何の意味も持っていません。


そこで、まず、あなたがどんな人間かという基本的な部分はほとんど変わらないんだ、という事実を受け入れてください。たとえどんなことをしようとも、どんな精神修養をしようとも、あなたはほとんど変わらないということです。あなたは何十億という経験の成果であり、あなた以外の何ものでもありません。したがって、自分は自分であるということを認めることから始めなくてはなりません。


この事実を心の奥深くでかみしめ、自分のものにしたあとでも、たとえば、嫉妬心が起きたりします。まわりを見まわしてみると、自分が再び感情にしばられていることに気づきます。嫉妬心から抜けでることができず、その感情にとらわれています。嫉妬心から逃れることはできません。なぜなら、逃れる必要がないからです。今までのあなたは、自分にはどこかいけないところがあるから直さなくてはならない、という仮定にもとづいて生きてきました。私に言わせてもらうなら、あなたにはどこも悪いところなどないし、直さなければならないところもありません。ただ、あなたが自分のなかの特定の部分を愛していないことが原因で、心の緊張が生まれています。



あなたという驚くべき存在の外に「父」を見つけることはけっしてできない。そうしようとすることさえ、自分に間違った要求をすることになる。なぜなら、自分の内面から発するものを語るために、あなたは自分の外に出ようとしているからだ。神というものを認識するためのただひとつの道は、自分の内面にある「父」がいかなるものであるのかを観察することだ。


私が愛し、仕えているこの神は、それを通してすべての神秘がなされるものであり、生命全体の絶え間ない継続性である。生命の王国のこの絶え間ない継続性は、永遠に続いていくものであり、そこでは「今」という瞬間だけが存在する。この「今」という瞬間、この特定の瞬間において、神は在るものすべての「在ること」なのだ。そして、これからやってくるたくさんの「今」では、神は、すべての生命が脈打ちながらともに前進している姿、すなわちすべての生命が躍動しながら生き、感じ、広がり、進化している姿であり、神はそれらを通して自分自身の「在ること」を表現しているのである。


神とは在るものすべての究極の姿だが、境界もないし、始めも終わりもない。それは比類なき無限性なのである。



質問者 もう何年も何年もあなたの教えは同じままです。あなたの語ることに進展は見られないようです。


マハラジ  病院では患者が治療され、回復していく。治療とは変化のほとんどない決まりきった仕事だ。だが、健康については何も単調ということはない。私の教えは決まりきったものかもしれない。しかし、その結果は人によって新たなものだ。


質問者 真我の実現とは何でしょうか?誰が実現した人なのでしょうか?ジニャーニ(賢者)は何によって認識できるのでしょうか?


マハラジ  ジニャーナ(真理の知識)特有の証拠というものはない。無知だけが認識できる。ジニャーナは認識できない。ジニャーニは自分が何か特別な存在だとは主張しない。自分自身の偉大さ、特別さを宣言する者はジニャーニではない。彼らは実現に向けての何か特別な発達を実現と考え違いをしたのだ。ジニャーニには、自分がジニャーニだと宣言しようとする意図はない。彼は彼自身を完全に普通と考え、彼の真の本性に忠実なのだ。自分自身を万能の、全知全能の神として宣言することは、明白なる無知のしるしだ。


質問者 ジニャーニは彼の体験を無知な人に伝えることができますか?ジニャーナはひとりの人から別の人に伝達できるのでしょうか?


マハラジ  それはできる。ジニャーニの言葉は、マインドのなかの無知と暗闇を追い払う力を持っている。言葉ではなく、その背後にある力が重要なのだ。


質問者 その力とは何でしょうか?


マハラジ  真我実現の直接的体験をもとにした確信の力だ。


質問者 ある真我を実現した人が、知識は勝ち取るものであり、受け取るものではないと言いました。ほかの人が教えることはできるが、学ぶことは自分自身によるものだと言っています。


マハラジ  それは同じことだ。


質問者 ヨーガを何年も何年も修練し、何の結果も得られない人たちは大勢います。何が彼らの失敗だったのでしょうか?


マハラジ  何人かは意識を停止させた恍惚状態に耽溺したためだ。完全な意識なしにどんな進展がありうるだろうか?


質問者 多くの人がサマーディ(三昧状態)の修練を積んでいます。サマーディでは、意識は強烈なはずです。しかしながら彼らは何の結果も得ていません。


マハラジ  何の結果を期待するというのだろう?そしてなぜジニャーナが何かの結果であるべきなのだろうか?ひとつのことが別のことへと導いていく。しかしジニャーナは原因と結果に縛られるようなものではない。それは因果律を完全に超えたものなのだ。それは真我のなかにとどまることだ。ヨーギは多くの不思議にであうだろう。だが真我に関して彼は無知なままだ。ジニャーニが見、感じることは普通のことかもしれない。だが、彼は真我を知っているのだ。


質問者 数多くの人びとが真我の実現のために真剣に努力をしています。しかし結果は乏しいものです。何がその原因なのでしょうか?


マハラジ  彼らは知識の源を充分調べなかったのだ。感覚、感情、思考を彼らは充分知らないのだ。これが遅れのひとつの原因かもしれない。ほかには、ある欲望がいまだに生き残っているかもしれないことだ。


質問者 サーダナにおける浮き沈みは避けられないものです。誠実な探求者は、それでもこつこつと取り組みます。ジニャーニはこのような探求者のために何ができるでしょうか?


マハラジ  もし探求者が誠実ならば、光は与えられるだろう。光はすべてにとって、つねにそこにある。だが、探求者がまれなのだ。探求者のなかでも用意のできた者はたいへんまれだ。成熟したハートとマインドが不可欠なのだ。


質問者 あなた自身の真我実現は、努力を通して得たのでしょうか?それとも、グルの恩寵によってでしょうか?


マハラジ  教えが彼の恩寵で、信頼が私の努力だった。彼への信頼が、私に彼の言葉を真実として受け入れさせ、その中に深く入っていき、それを生きるようにさせたのだ。そしてこれが、私が私で在るということを実現させたのだ。グルの人格と言葉が、私に彼を信頼させ、そして私の信頼が実を結ばせたのだ。


質問者 しかし、グルは言葉なしで、信頼もなく、ただこのように何の準備もなく真我の実現を与えることができるのでしょうか?


マハラジ  できる。だが、どこに受け取る人がいるだろうか?私は本当にグルと心をひとつにしていた。まったく完全に彼を信頼し、彼への抵抗は無に等しかったため、すべてはやさしくすばやく起こったのだ。しかし、誰もがそのように幸運なわけではない。怠惰と落ち着きのなさはしばしば道を阻み、それらが取り除かれるまで進展は遅くなる。ただグルが触れ、見、思うだけで、その場で真我を実現した人たちは、すでに成熟していたのだ。しかし、そのような人は本当にまれだ。大多数は成熟するまでに、いくらかの時が必要だ。サーダナは成熟を加速するものだ。


質問者 何が人を成熟させるのでしょうか?何が成熟の要因でしょうか?


マハラジ  もちろん、真剣さだ。人は本当に熱望しなければならない。つまるところ、真我を実現した人はもっとも真剣な人だ。何であれ彼がすることは、限界も制限もなく完全だ。真剣さがあなたを実在へと連れていくのだ。


質問者 あなたは世界を愛していますか?


マハラジ  傷つけられたとき、あなたは泣く。どうしてだろう?なぜなら、あなたはあなた自身を愛しているからだ。あなたの愛を身体に閉じこめてはならない。開いておきなさい。そうすれば、それはすべてへの愛となる。すべての偽りの自己同一化が捨て去られたとき、すべてを包容する愛が残る。あなたに関する考えをすべてぬぐい去りなさい。あなたが神だという考えさえも捨て去りなさい。いかなる自己定義も正当ではない。


質問者 私は約束に疲れました。私はサーダナに疲れてしまいました。それは私の時間とエネルギーを使い果たし、何の見返りもありません。私は実在が今ここで欲しいのです。それはできますか?


マハラジ  もちろん、できる。あなたが本当に、あなたのサーダナも含めたすべてに愛想をつかしたと言うのならば。あなたが世界から何も要求せず、神からも何も求めず、何も探さず、何も期待しないとき、至高の状態は招かずして、不意にあなたのもとへやってくるだろう。


質問者 もし家族生活と世間の関心事に没頭している人が、聖典に記述されたとおりに厳しくサーダナをしたならば、彼は結果を得るでしょうか?


マハラジ  結果は得るだろうが、彼はそれらのなかに、さなぎのように包みこまれてしまうだろう。


質問者 数え切れないほどの聖者たちが、あなたは成熟し用意ができたときに真我を実現するだろうと言ってきました。彼らの言葉は真実かもしれません。しかし、それらは役に立ちません。時間を必要とする成熟に依存せず、努力が必要なサーダナにも依存しない道がかならずあるはずです。


マハラジ  それを道と呼んではならない。それはある種の技なのだ。それでさえもない。開いていて、静かで在りなさい。あなたの探しているものは本当にあなたの近くにある。だから、道と呼ぶにはふさわしくないのだ。


質問者 世界には数え切れないほど無知な人々がいるのに、ジニャーニはほんのひとにぎりです。何が原因なのでしょうか?


マハラジ  他者にかまうよりも、自分自身の面倒を見なさい。あなたはあなたが存在することを知っている。あなた自身の上に名前という重荷を負わせてはならない。ただ在りなさい。いかなるものでも名前や形を自分自身に与えることで、あなたの真の本性は隠されてしまうのだ。


質問者 なぜ真我の実現の前に探求は終わらなければならないのでしょうか?


マハラジ  真実への欲望は最高の欲望だ。だが、それはいまだに欲望であることに変わりはない。真実が在るためには、すべての欲望が放棄されなければならないのだ。あなたは在る、ということを覚えていなさい。これがあなたの仕事の資本だ。その資本を回転させなさい。そうすれば多大な利益を生むだろう。


質問者 そもそも、なぜ探求があるのでしょうか?


マハラジ  人生とは探求なのだ。探求するほかないのだ。すべての探求が終焉したとき、それが至高の状態だ。


質問者 至高の状態はなぜ来ては去っていくのでしょうか?


マハラジ  それは去来するものではない。それは在る。


質問者 あなたは自分の体験から話しているのでしょうか?


マハラジ  もちろんだ。それは時間を超えた常在の状態なのだ。


質問者 私にとってそれは去来し、あなたにとってはそうではありません。この違いはなぜでしょうか?


マハラジ  おそらく、私に欲望がないからだろう。あるいは、あなたが至高なる者を充分強く求めてはいないからだ。あなたのマインドが実在に気づかないとき、あなたは死にもの狂いでなければならないのだ。


質問者 全人生において、私は努力してきました。そして何も達成しなかったのです。私は読み、話を聞いてきましたが、すべては無駄でした。


マハラジ  読むことと聞くことがあなたにとって習慣になってしまったのだ。


質問者 それらもまた放棄しました。近頃は読むことさえもしません。


マハラジ  放棄したものはもはや重要ではない。あなたが放棄していないものは何だろうか?それを見つけ、放棄しなさい。サーダナとは放棄するものを探すことだ。あなた自身を完全に空っぽにしなさい。


質問者 どうして愚か者に智慧を望むことができるでしょうか?人が強く望むためには、欲望の対象を知る必要があります。至高なるものが知られていないのに、どうやって求めることができるでしょうか?


マハラジ  人は自然に成熟していくものだ。そして真我の実現にふさわしくなるのだ。


質問者 しかし、成熟の要因は何でしょうか?


マハラジ  自己想起、「私は在る」という気づきがあなたを強力に迅速に成熟させる。あなた自身に関するすべての観念を捨て去りなさい。そして、ただ在るのだ。


質問者 私はすべての道や方法や技や計略に疲れました。それらはすべて精神的なアクロバットです。実在を直接、即時に知覚する術はないのでしょうか?


マハラジ  あなたのマインドを使うことをやめ、何が起こるか見てみなさい。これだけを徹底してやりなさい。それだけだ。


質問者 私が若かったとき、短いけれども忘れがたい奇妙な体験をしました。それは無としての存在、ただの無でありながら、しかも完全に意識して在るというものです。しかし危険なのは、すでに過ぎ去った瞬間の記憶からそれを再生しようとする欲望をもつことです。


マハラジ  それはすべて想像だ。意識の光のなかで、ありとあらゆることが起こる。人はそのどれにも特別な重要性を与える必要はない。花の眺めは神のヴィジョンを見ることと同じように奇跡的なものだ。それはそれとして放っておきなさい。なぜ思い出し、その記憶を問題にしなければならないのか?それを片寄りなく見ることだ。高い低い、内側と外側、永遠と一過性を区別してはならない。彼方へと超えていきなさい。源に戻りなさい。何が起ころうと変わらない自己へと向かいなさい。あなたの弱点は、あなたが世界のなかに生まれたと確信していることだ。実際には、世界はあなたによって、あなたのなかで、つねに再創造されているのだ。すべてをあなたの存在の源である光から出現したものとして見なさい。その光のなかに、あなたは愛と無限のエネルギーを見いだすだろう。


質問者 もし私がその光ならば、なぜ私はそれを知らないのでしょうか?


マハラジ  知るためには知る能力のあるマインド、知るマインドが必要だ。しかしあなたのマインドはつねに走りまわり、けっして静止せず、完全に反映しない。目の病で視界が曇っているとき、どうして月の壮麗な姿を見ることができるだろう?


質問者 太陽が影をつくり出す原因であるかぎり、影のなかに太陽を見ることはできない、と言えるでしょうか?私は振り返らなければならないのです。


マハラジ  またしても、あなたは太陽、身体、影という三位の概念をもち出した。実在のなかにそのような区別はないのだ。私の話していることは、二元性や三位とは何の関わりもないことだ。知的な理解や言語表現をしてはならない。ただ見なさい。そして在りなさい。


質問者 在るために、見なければならないのでしょうか?


マハラジ  あるがままのあなたを見なさい。他者に聞いてはならない。あなた自身に関して他者に言わせてはならない。内面を見なさい。すべての師たちが言えることはこれだけだ。ひとりの師からほかへと渡り歩く必要はない。すべての井戸のなかに同じ水があるのだ。一番近い井戸から水を引くがいい。私の場合、水は私のなかにあり、私が水なのだ。



第三のヒロシマ前夜36


人生を変える必要はありません。何か小さな一つの原因が何か小さな一つの結果を生むわけではありません。AがBになり、BがCになるというような直線型思考を何とか打ち破ろう、と私はつねに努力しています。人間は直線型の体験の産物ではないのです。あなた方は意識の爆発であり、ものごとは一瞬たりとも休みなく動いています。ものごとはつねに変化しているのですから、そのまま変化するにまかせてください。神を見つけるために、外の世界を変えたり何かをしたりする必要はありません。


ただ覚えておいてほしいのは、人生で起きることはすべて、人々の心の奥深くに孤独があることを思い出させるために生じているのだ、ということです。変えなければならないのは外の世界だと思っているうちは、そうした問題は一生なくならないでしょう。外の世界はどうでもいいとか、外の世界には問題がない、と言っているわけではありません。私は単に、外の世界は第二義的なものだと言っているのです。確かにそこには悩みや苦しみがあります。けれどもどんなにその悩みや苦しみが深刻なものであっても、自分は神を怒らせるようなことを何かしたので、こんな苦しみという罰を受けているのではないか、という怖れに比べたら、それほど深刻ではありません。


欲しいと思っているものが何であれ、それはあなたが本当に望んでいることのカムフラージュにすぎません。カムフラージュは第二義的なものだということを覚えておいてください。


だからといって、自分の人生に関心を払うなとか、自分に必要な物を求めるなと言っているのではありません。それらをすべて認めた上で、自分の真の目的は何なのかを忘れないように、ということです。すると、問題と答えは一体なので、”大いなる光”が輝きはじめ、自分のなかにパワーがみなぎりはじめます。やがて、そのすばらしく穏やかな静けさのなかに、あるやさしい感覚がたえず存在するのに気づくでしょう。それに注意を払ってください。その継続的感覚こそが神なのです。第二義的なものから離れ、魂の根源的な叫びのなかに深く身を置いてください。そして”大いなる故郷”へ帰ってください。



あなた方は、それぞれが美しい存在であると同時に、一人ひとりが異なっている。なぜなら、一人ひとりが、自分独自の意図的かつ創造的な目的を持ちながら表現している神だからだ。


あなた方のすべてが、かつては小さな思考、輝く光であったが、その光が、神が永遠に動き続け、絶え間なく存在し続けていくための継続性そのものになったのである。探求のためのさらに偉大な世界を建設するために、多大な配慮とたくさんの実験を通して、あなた方は物質、あるいは「凝固した思考」でできた化身をつくり上げた。この化身によって、あなた方はそれまでとは別の存在の天界において、表現できるようになったのだ。こうしてあなたは、神と呼ばれる思考のすべてのパターンを探求できたのである。


あなた方のすべてが、自分の創造的な知性の力を「見せる」ために、「見せる天界」と呼ばれる生命のこのレベルにいるのだ。


神とは、思考の中のより高い振動数であるだけでなく、物質と呼ばれる最も濃密で、最も振動数が低い思考でもあるのだ。


自分の思考プロセスのすべてを理解するためには(つまりあなたであるすべて、あなた自身である神のすべてを抱き容れるためには)、この天界も含めたすべての存在の天界で生きることができるほどの、適応力と自己愛を持たなければならない。


この旅は、神であるすべてのものの中で神を知るということを、その目的にしてきた。すなわち、思考から光へ、エレクトラムの分裂へ、物質へ、そしてこの天界へと。あなた方全員が、このような旅をしてきたのだ。これは偉大なだけでなく、かなり勇気のあることでもあるが、この旅には少しばかりのリスクがともなう。偉大なる不死の自己を変容させてこの物質の天界に入ってくることによって、自分のアイデンティティーを見失い、生存というものに完全にとらわれてしまう可能性が高いからだ。



質問者 私たちはサティア・サイババ* のアーシュラムにある期間滞在していました。また、ティルヴァンナーマライのラマナシュラマムでも2カ月ほど過ごしました。今、私たちはアメリカへ帰国の途上なのです。


* 訳注 サティア・サイババ Satya Sai Baba
(1926-)アーンドラ・プラディーシュ州の村プッターパルティに生まれる。マハーラーシュトラ州の偉大な聖者シルディ・サイババの化身であると自ら名乗る。砂糖菓子や花、聖灰を物質化し、遠く離れた弟子の想念を読みとるといった奇跡を行なう世界的に有名なグル。


マハラジ  インドがあなたに何らかの変化をもたらしただろうか?


質問者 私たちは重荷を降ろしたかのように感じています。シュリー・サティヤ・サイババは、すべてを彼に明け渡し、ただ日々をできるかぎり公正に生きるようにと言われました。「正しく在りなさい。あとは私にまかせなさい」と彼は言いました。


マハラジ  シュリー・ラマナアシュラムでは何をしていたのかね?


質問者 私たちは師から授かったマントラを復唱しつづていました。また瞑想もしました。考えることや勉強することはほとんどなく、ただ、静かにしているよう心がけていただけです。私たちはバクティ(帰依)の道を行く者で、哲学はむしろ知らないのです。私たちには考えなければならないことはさほどなく、ただグルを信頼し、人生を生きていくだけです。


マハラジ  バクタ(帰依者)の多くは、すべてがうまくいっている間はグルを信頼する。しかし、問題が起こると彼らは落ちこみ、ほかの師を探しに行くのだ。


質問者 そうです。その危険性については警告されました。私たちは厳しい状況もやさしい状況とともに受け入れていこうと思っています。「すべては恩寵だ」という感情が非常に強くなければなりません。ひとりのサードゥ(修行僧)が東に向かって歩いていると、その方向から強風が吹いてきました。サードゥはただくるりと向きを変えて、西に歩き出したのです。私たちもグルによって与えられた環境に私たち自身を合わせながら、そのように生きたいと願っています。


マハラジ  ただ生命だけがある。生命を生きる人は誰もいないのだ。


質問者 それは私たちも理解します。それでもなお、私たちは、ただ生きるのではなく、自分たちの人生を生きようとしてしまうのです。未来のために計画を立ててしまうことは、私たちにとって根深い習慣なのです。


マハラジ  あなたが計画を立てようと立てまいと、人生は続いていくのだ。だがその人生において、マインドのなかに小さな渦巻きが現れる。それは幻想にふけり、それ自体が人生を支配し、コントロールしていると想像するのだ。
生命そのものは無欲だ。だが、偽りの自己はそれが快く続いてほしい。そのため、それはつねに自己の継続を守ることに没頭しているのだ。生命は恐れず、自由だ。あなたが出来事に影響を与えているという考えをもっているかぎり、解放はあなたのものではない。行為者という観念、自分が出来事の原因であるという観念自体が束縛なのだ。


質問者 どうすれば、私たちは為す者と為されることという二元性を克服できるのでしょうか?


マハラジ  生命を無限で、分割不可能な、つねに存在し、つねに活動的なものとして黙想しなさい。あなたがそれとひとつであると悟るまで。それは難しくなどない。なぜなら、あなたはただ自分の自然な状態に戻るだけだからだ。
すべては内側から現れ、あなたの住む世界があなたの上に投影されているのではなく、あなたによって投影されているとひとたび自覚すれば、恐れは終焉するのだ。この自覚なしに、あなたはあなた自身を外界の身体、マインド、社会、国家、人類、そして神や至高なるものといったものとさえ同一化してしまう。だが、それらはみな恐れからの逃避なのだ。あなたが住む小さな世界の責任を完全に受け入れ、その創造、維持、破壊の過程を見守るときにだけ、あなたはあなた自身の想像による束縛から自由になるのだ。


質問者 どうして私は自分自身をそんなにも不幸だと想像してしまうのでしょうか?


マハラジ  ただの習慣からなのだ。あなたの考え方や感じ方を変えなさい。それらを再検討し、詳細に調べてみなさい。あなたは不注意によって束縛される。注意が解放するのだ。あなたはあまりにも多くのことを当然のこととして受け取ってきた。疑いはじめなさい。もっとも明らかなことは、もっとも疑わしいのだ。あなた自身にこのように問いかけてみるといい。「私は本当に生まれたのだろうか?」「私とは本当にこれなのだろうか?」「私が存在すると、どのようにして知るのだろうか?」「誰が私の親なのだろうか?」「彼らが私を創造したのか、それとも私が彼らを創造したのだろうか?」「私自身に関して言われたことを、すべて信じなければならないのだろうか?」「私とは誰なのか?」と。あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつぎこんできた。今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。事実、破壊することはたやすい。なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。すべては「私は在る」という想念にかかっている。それを徹底的に調べるがいい。それはあらゆる困難の根底に存在している。それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。実在は皮の内側にも外側にもある。しかし、皮そのものは実在ではないのだ。この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。


質問者 どうすれば「私」という感覚から自由になれるのでしょうか?


マハラジ  もしあなたがそれから自由になりたいのなら「私」という感覚と向き合わなければならない。あなたが明確にそれを見て完全に理解するまで、それが作用しているときや、落ち着いているときを見守りなさい。それがどのようにはじまり、どのように停止し、何を欲しがり、どのようにそれを得るのかを見なさい。結局、すべてのヨーガは、その源が何であれ、性質が何であれ、目的はただひとつだ。分離された存在という不幸から、広大な美しい絵の中の無意味な点としての存在から、あなたを救い出すことにあるのだ。
あなたが苦しむのは、あなた自身を実在から疎外したからだ。そして今、あなたはこの疎外感からの逃避を探し求めている。あなた自身の強迫観念から逃げることはできない。ただ、それを育むのをやめることができるだけだ。
「私は在る」は偽りだからこそ、それは存続を願う。実在は存続する必要がない──それ自身、破壊不可能なことを知っているからだ。それは形態とその表現の破壊に無関心なのだ。「私は在る」を強調し安定させようと、私たちはありとあらゆることをするが──すべては無駄に終わってしまう。なぜなら、「私は在る」は瞬間から瞬間へと再構築されていくものだからだ。それは絶え間ない仕事なのだ。そして唯一の革新的な解決法は、「私はあれであり、これである」という分離した感覚を永遠に消し去ることだ。存在は残る。だが、自己存在ではない。


質問者 私には明確な霊的野心があります。それを満たすために努力しなければならないのではありませんか?


マハラジ  いかなる野心も霊的なものではありえない。すべての野心は「私は在る」のためのものなのだ。もしあなたが本当の進展を遂げたいのなら、すべての個人的な達成という考えは、あきらめなければならない。いわゆるヨーギの野心というものは、実にばかげたものだ。男性の女性に対する欲望は、永遠の個人的な至福を渇望することに比べれば純真なものだ。マインドとは詐欺師なのだ。より敬虔に見えるほど、裏切りはさらに悪いものとなるだろう。


質問者 ひっきりなしに、人びとは世間の悩みごとをかかえてあなたのもとへやってきます。あなたはいったいどのようにして、彼らに何を言うかを知るのでしょうか?


マハラジ  ただその瞬間、私のマインドに現れたことを告げるだけだ。私には人びとに対応するための企画化された手順といったものはない。


質問者 あなたはあなた自身に確信をもっています。しかし、私のもとに人びとが来るとき、どのようにして私の助言が正しいものだと確信できるのでしょうか?


マハラジ  あなたがどの状態のなかにいるのか、どのレベルで話しているのかを見なさい。もしあなたがマインドから話しているなら、間違っているかもしれない。あなたの精神的習慣が停止しており、状況への完全な洞察から話しているのならば、あなたの助言は本物の返答かもしれない。要点は、あなたも、あなたの前にいる人も、ともに単なる身体ではないと完全に気づいていることだ。もしあなたの気づきが明晰で完全ならば、間違いはありえない。


警告あり



第三のヒロシマ前夜35


─ 道 ─
覚醒は過程ではなく、意思の問題です。


自分が想像できる最高の意識に自分のすべてをゆだねることは、自分のパワー(他人に害を与えず、その人を最大限に生かす行動として現れる、強さや広がりを持った内なる感覚)を捨てることではありません。なぜなら、自分のすべてをゆだねるというのは、自分のパワーと「相手」のパワーとが混ざり合うことだからです。本当は、別々に見えるこれらのパワーは常につながっているのです。あらゆる神なるエネルギーは、すべてをゆだねる行為などがなくとも、はじめからひとつに結びついているのです。


「自分をゆだねる」とは、自分のパワーを誰かに手わたすことではなく、パワーを合わせるということなのです。そうすると、自分が弱くなるのではなく、反対に自分のなかに、はかりしれないほどのパワーがみなぎってくるのが感じられます。人が真の神なるエネルギーに触れた場合は、パワーがドーッとあふれてくることでわかります。



あなたがこれまでに考えたあらゆること、つまりこれまでに空想したあらゆることや、これまでに語ったあらゆることは、もうすでに起こったか、これから起こるのを待っているのだ。そうでなければ、いったいどうやってすべては創造されると思うのか? 思考によって創造されるのである。思考は真に生命を与える者であり、けっして死ぬことはなく、けっして破壊されることもない。そして、あなたは思考を使って、自分自身のことを思うことによって自分に生命をもたらしてきた。というのも、思考は、あなたを神のマインドに結びつけるものだからだ。


もう長い間、さまざまな存在が、謎かけや歌や書物を通して、この真実をあなた方に教えようとしてきた。だが、あなた方のほとんどがこれに気づくことを拒んできた。自分の人生に対する責任という重荷が自分の肩にのしかかってくることを望む者が、ほとんどいなかったからだ。しかし、あなたが考えることはすべて、つまり自分や「父」や人生に対してあなたが持っている態度はすべて、そのとおりになる、というのがこの世界の法則なのだ。あなたが考えることが、最も下劣で醜悪なことであろうと、この上なくすばらしいことであろうと、それらはそのとおりになるのだ。というのも、その違いを知るのはあなただけだからだ。「父」が知るのは生命だけである。それゆえ、あなたは自分が語るとおりのものを得るのだ。あなたは、あなたが考えるとおりのものなのだ。「自分はこうである」と結論を下すものが、あなたなのである。


自分が劣っていると考えれば考えるほど、あなたは実際にそうなっていく。自分にはあまり知性がないと思えば思うほど、あなたはさらに愚かになっていく。自分はあまり美しくはないと考えれば考えるほど、あなたはさらに醜くなっていく。自分は貧しいと思えば思うほど、あなたはどんどんみじめになっていくが、それはあなたが自分でそう定めたからなのだ。


神の愛がどれほど偉大であるか、熟考してみてほしい。その愛によって、あなたは自分の望むどんなものにでもなれ、自分が望むどんなものでも自分で創造することができるのだ。しかも、その愛はあなたに対してけっして価値判断を下さないのである。



マハラジ あなたは床に座っても大丈夫かね? クッションは必要ないかね? 何か尋ねたいことはないだろうか? 尋ねる必要があるというわけではない。静かにしているだけでもいいのだ。在るためには、ただ在ることが重要だ。何を尋ねる必要も、する必要もない。そのような、一見怠惰な時間の過ごし方はインドでは高く評価されているのだ。つまりしばらくの間、あなたは「つぎは何か?」という考えに取りつかれることから解放されるのだ。あなたが急がず不安から自由なとき、マインドは静かになり、沈黙のなかでふだん認識するには微妙で繊細すぎるほどの何かが聞こえてくるかもしれない。マインドは見るために開いていて静かでなければならない。私たちがここで試みていることは、何が実在なのかを理解するために、マインドに正しい状態をもたらすことなのだ。


質問者 どのようにして心配を断ち切ればいいのでしょうか?


マハラジ 心配について心配する必要はない。ただ在りなさい。静かにしようとしなくてもいいのだ。「静かに在る」ということを成し遂げるべき仕事にしてはいけない。「静かに在る」ことについて落ち着きを失ってはいけない。「幸福である」ことについて惨めになってはいけない。ただ、あなたが在るということに気づいていなさい。そして気づきつづけなさい。「はい。私は気づいています。つぎは何でしょうか?」と言ってはならない。「私は在る」のなかに「つぎ」はない。それは時間を超えた状態なのだ。


質問者 それが時間を超えた状態なら、いずれにせよ、それは自らを明らかにするでしょう。


マハラジ あなたは永遠に、あなたであるものだ。だがそれを知り、それにしたがって行為しないかぎり、あなたにとって何の役に立つだろう? あなたの乞食の鉢は純金でできているかもしれない。それでも、それを知らないかぎりあなたは貧者なのだ。あなたは自分の内なる価値を知り、信頼し、欲望と恐れを日々捨て去っていくことで、それを表現していかなければならないのだ。


質問者 もし私が私自身を知れば、欲望や恐れはなくなるのでしょうか?


マハラジ 新たな視野にもかかわらず、しばらくの間は既知なる過去への切望と未知なる未来への恐れという精神的習慣が続くことだろう。それらがただのマインドにすぎないと知ったとき、あなたはそれらを超えていくことができる。あなた自身に関してあらゆる類の観念を持っているかぎり、あなたはあなた自身をそれらの観念を通して知るのだ。あなたをあるがままに知るには、すべての観念を捨て去らなければならない。純粋な水の味を想像することはできない。すべての味を放棄することによってのみ、それを発見することができるのだ。
現在の生き方に興味を持っているかぎり、あなたはそれを放棄しないだろう。なじみのあることにしがみついているかぎり、発見は訪れないだろう。人生の計り知れない悲しみを完全に自覚し、それに対して抵抗するときにのみ、出口は見いだされるのだ。


質問者 今こそ私には、インドの永遠なる生命の秘密がこの存在の次元にあると理解できます。インドはつねにその保管者であったのです。


マハラジ それは開かれた秘密であり、そこにはつねにそれを分かちあう用意のある人びとがいたのだ。教師は数多くいるが、恐れのない弟子はまれだ。


質問者 私には学ぶ用意があります。


マハラジ 言葉を学ぶだけでは充分ではない。あなたは理論を知っているかもしれない。だが非個人として、存在の無条件の中心、愛と至福としてのあなた自身による実際の体験なしには、単なる言語上の知識は不毛なのだ。


質問者 それでは、どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 在ることを試みなさい。ただ在りなさい。重要な言葉は「試みること」だ。一日のなかで、充分な時間を静かに座ることに当てなさい。ただ人格と、その耽溺や妄想を超えていくように試みなさい。どのようにするかを尋ねてはならない。それは説明できないのだ。ただ、成功するまで試みなさい。もっとも重要なことは誠実さ、真剣さだ。あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざりしていなければならないのだ。そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の必要性を見なさい。この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。
結局、人生のあらゆる瞬間においてあなたはあるがままのあなたなのだ。だが、けっしてそれを意識したことがなかった。おそらく眠りから目覚める瞬間を除いては。あなたに必要なことは存在に気づくことだけなのだ。言葉としての表明ではなく、ひとつの常在の事実として。本来のあなたである気づきが、あるがままのあなたへと目を開かせるだろう。それはとてもシンプルなことだ。最初にあなた自身との絶え間ない接触を確立しなさい。すべての祝福は自己覚醒のなかへと注がれる。観察の中心として在ることからはじめなさい。あなたの認識範囲を熟考し、そして行為における愛の中心へと成長していきなさい。「私は在る」はまったく自然に、努力の跡もなく偉大な樹へと生長する小さな種子なのだ。


質問者 私は自分のなかに多くの悪があることがわかります。それを変えるべきではないでしょうか?


マハラジ 悪とは不注意の影なのだ。自己覚醒の光のなかで悪は枯れ果て、落ちていくだろう。
他者への依存はすべて不毛なことだ。なぜなら、他者が与えるものは、他者によって取り去られるからだ。初めからあなた自身のものだけが、最後まであなた自身のものとして残るのだ。内なる導き手だけを受け入れなさい。そしてすべての記憶を捨て去りなさい。なぜなら、それらはあなたを惑わせるからだ。たとえ、あなたがまったく方法や手段について無知であったとしても、静かにしていなさい。そして内側を見なさい。導きはかならずやってくる。つぎの一歩がどうあるべきかを知らないまま、取り残されることはけっしてないだろう。問題は、あなたがそれを避けるかも知れないことだ。グルは、彼の体験と成功からあなたに勇気を与えるためにそこにいる。だが、あなた自身の気づきと努力を通して発見したことだけが、あなたにとって永久に役立つだろう。
何であれあなたが知覚するものは、あなたのものではないということを覚えていなさい。外側から来るものには何の価値もないのだ。あなた自身の感覚と理解だけが有意義であり、ものごとを明らかにするのだ。聞いたり読んだりした言葉はマインドのなかにイメージをつくり出すだけだ。だが、あなたは精神的イメージではない。あなたはイメージの背後とその彼方にある行為と知覚を可能にする力なのだ。


質問者 どうやら、あなたは私にエゴイズムといっていいほど利己主義になれと助言しているようです。私はほかの人びとに興味をもつことさえ許されないのでしょうか?


マハラジ あなたの他者への興味が利己的、自己中心的、自分思考なのだ。あなたは個人としての他者に興味があるのではない。ただ彼らがあなた自身のイメージを豊かに高めるかぎり興味をもつのだ。そして究極的な利己主義とは、自己の身体の保護、維持、そして繁殖だけを気にすることだ。身体ということで、私はあなたの名前と形に関するすべて──あなたの家族、部族、国、人種などを意味している。自己の名前と形に執着することは利己主義なのだ。自分が身体でもマインドでもないと知っている人は、利己的ではありえない。なぜなら、彼は利己的になるための何ものももってはいないからだ。あるいは、彼は出会うすべての人のために、等しく「利己的」であるとも言えるだろう。すべての人の幸福が彼自身のものなのだ。「私は世界だ。世界は私自身だ」という感覚はまったく自然になり、ひとたびそれが確立されたら、けっして利己的であることはない。利己的であることとは、部分が全体に対して欲望し、獲得し、蓄積することを意味しているのだ。


質問者 人は多くの所有物、遺産相続、結婚、あるいは単に幸運から裕福であるかもしれません。


マハラジ もしあなたがそれにしがみつかなければ、それらは取り去られてしまうだろう。


質問者 現在の状態においてあなたはほかの人を個人として愛することができますか?


マハラジ 私がほかの人だ。ほかの人が私なのだ。名前と形において私たちは異なっている。だが、そこに分離はない。存在の根本において、私たちはひとつなのだ。


質問者 人びとの間に愛があるときはいつでもそうなのではありませんか?


マハラジ そうだ。だが、彼らはそれを意識してはいない。彼らは魅力を感じるが、その理由を知らないのだ。


質問者 どうして愛は選択するのでしょうか?


マハラジ 愛は選択しない。欲望が選択するのだ。愛のなかに他者はいない。利己主義の中心がもはやないとき、すべての快楽への欲望と苦痛への恐れはやむ。人はもはや幸福であることに興味を持たなくなる。幸福を超えたところに、純粋で強烈な、無尽蔵のエネルギー、永久に枯渇することのない源から与えることの歓喜があるのだ。


質問者 私は善と悪の問題をまず解決するべきではないでしょうか?


マハラジ 人びとは快いことを善とみなし、苦しいことを悪と見なすのだ。


質問者 ええ、私たち普通の人びとにとってはそのとおりです。しかし、あなたが統合されたレベルから見たときはどうでしょう? あなたにとっては何が善で何が悪なのでしょうか?


マハラジ 苦しみを増長することが悪であり、それを取り除くことは善だ。


質問者 では、苦しみそのものは善ではないと言われるのですね? 苦しみを正しく、高尚なものとして考えている宗教がありますが。


マハラジ カルマ、あるいは運命は有益な法則の表現だ。普遍的なものは均衡、調和、統一に向かう傾向がある。あらゆる瞬間において、何であれ起こっていることは最善のためのものだ。それは苦しいもの、あるいは醜いもの、苦渋に満ち、無意味なものかもしれない。それでも、過去と未来のことを考えれば、それは破滅的な状況からの出口として最善のものなのだ。


質問者 人は自分自身の罪だけのために苦しむのでしょうか?


マハラジ 人は自分自身が何であると考えるかにしたがって苦しむ。あなたが人類とひとつであると感じるならば、あなたは人類とともに苦しむのだ。


質問者 では、宇宙とひとつだと主張しているあなたにとって、時間的にも空間的にも苦しみはかぎりないものなのです!


マハラジ 在ることとは苦しむことなのだ。自己同一化の輪が狭いほど、欲望と恐れによって生じた苦しみはより激しいものとなるのだ。


質問者 キリスト教は苦しみを、浄化し気高くするものとして受け入れています。一方、ヒンドゥー教はそれを毛嫌いしているようです。


マハラジ キリスト教は言葉を構成するひとつの方式であり、ヒンドゥー教はまた別の方式なのだ。実在は言葉の背後に、そしてその彼方にある。それは伝達不可能でありながら直接体験され、マインドに爆発的影響を及ぼすものなのだ。他に何も望むものがないとき、実在は容易に手に入る。非実在は想像によって創造され、欲望によって永続されるのだ。


質問者 必要とされ、善である苦しみというものはないのでしょうか?


マハラジ 偶然に、あるいは不意に起こる苦痛は一時的であり、避けることができない。たとえ最善を考慮した上であっても、意図的に加えられた苦痛は、無意味であり残酷なものだ。


質問者 あなたなら犯罪を罰することはないのでしょうか?


マハラジ 罰は合法化された犯罪でしかない。報復よりも防止をもとに築かれた社会では、犯罪は非常にまれなのだ。不健全なマインドと身体によって起こったようないくつかの例外は、医学的に扱われることだろう。


質問者 どうやら、あなたは宗教を無用だと考えているようですね。


マハラジ 宗教とは何だろうか? 空に浮かぶひとつの雲だ。私は無数の言葉で織りなされた雲のなかにではなく、空のなかに住んでいる。無用な言葉を取り去りなさい。すると何が残るだろうか? 真理が残る。私の家は不変なるもののなかにある。それは対極同士がつねに調和され、統合された状態にある。人びとはそのような状態の実際の体験や、その障害について、そしてひとたび知覚されればそれを意識内に確立する技について学ぶためにここへやってくるのだ。そうすることによって、生きることと理解との間に衝突が起こらないように。その状態自体はマインドを超えており、習う必要はない。マインドは障害に焦点を合わせることができるだけだ。障害を障害として見ることは効果のあることだ。なぜなら、マインドがマインドに働きかけているからだ。
ことの起源からはじめなさい。「あなたは在る」という事実に注意を払いなさい。「私はいない」と言えるときはないのだ。あなたに言えることは、「私は覚えていない」ということだけだ。記憶がいかに頼りにならないものか、あなたも知っているだろう。些細な個人的関心事に没頭して、あなたはあなたが何なのかを忘れてしまったのだ。既知なるものを消し去ることで、失われた記憶を取り戻すように試みなさい。何が起こるのかをあなたに伝えることはできない。またそれは望ましいことではない。期待が幻想を生みだすからだ。内なる探求においては、予期せぬことが起こることは不可避だ。発見は、かならずすべての想像を超えたものなのだ。生まれたばかりの子どもに、誕生した後の人生を知ることができないようなものだ。なぜなら、マインドのなかにそれを形づくるための確かな画像が何もないからだ。同じようにマインドは、「これではない、あれでもない」という否定の言語による以外に、非実在の言語をもって実在について考えることは不可能なのだ。非実在を実在と受け入れることが障害であり、偽りを偽りとして見て、それを放棄することが実在を存在のなかにもたらすのだ。明晰性とかぎりない愛、完全に恐れのない状態。今、これらは単なる言葉、色彩のないただの輪郭、こうありうるというヒントでしかない。あなたは手術の結果、目の見えるようになることを期待している盲目の人のようなものだ。もしあなたが手術を避けさえしなければ! 私が在る状態では、言葉はまったく重要なものではない。また、そこには言葉への耽溺などない。ただ、事実だけが重要なのだ。


質問者 言葉なくして宗教はありえません。


マハラジ 記録された宗教は単なる無用な言葉の山にすぎない。宗教はその真実の顔を行為のなかで、沈黙の行為のなかで示すのだ。人が何を信じているかを知るには、彼の行為を見守るがいい。大半の人びとにとっては、身体とマインドに仕えることが彼らの宗教なのだ。彼らは宗教的理念をもっているかもしれない。だが、それにしたがって行為することはない。彼らはその理念をもてあそぶかもしれない。そして、しばしば非常にその理念を好んでいるかもしれない。それでも、それにしたがって行為することはないだろう。


質問者 言葉は意思伝達のために必要とされます。


マハラジ 確かに、情報の伝達のためには必要だ。だが、人びとの間の真の伝達は言語によるものではない。関係性を確立し維持していくには、直接行動によって表された感情豊かな気づきが要求されるからだ。あなたが何を言うかではなく、何をするかが重要なのだ。言葉はマインドによって作られ、マインドのレベルにおいてのみ意味を持つ。あなたには「パン」という言葉を食べることも、それによって生きることもできない。それは単に概念を伝えるだけなのだ。それは実際に食べることによって意味を獲得する。それと同じ感覚で私はあなたに「普通の状態とは言語上のものではない」と言っているのだ。それは賢明なる愛が行為のなかで表現されたものだとも言えよう。だが、あなたがその豊かさと美を自ら体験しないかぎり、言葉では言い表せないのだ。
言葉にはそれ自体のかぎられた有益性がある。だが、言葉に制限を与えてこなかったことが、私たちを崩壊の淵へと追いやったのだ。私たちの高尚な考えは、不名誉な行為によって絶妙に相殺されてきた。私たちは神、真理、愛について語る。だが、直接の体験の代わりに定義を蓄えてきた。行為を広め、そして深めていく代わりに、定義づけに忙しかったのだ。そして定義できることを、私たちは知っていると想像してきたのだ。


質問者 どのようにして言葉を通さずに体験を伝えることができるのでしょう?


マハラジ 体験は言葉で伝えることができない。それは行為とともに表されるのだ。体験のなかに強烈に在る人は、確信と勇気をまわりに放っている。ほかの人たちも行為し、行為から生まれた体験を得ていくのだ。言語上の教えは、マインドがマインド自体とその蓄積してきたものを取り除き、空にするのを助けるのだ。
一切の外的なものに価値がなくなり、ハートにそのすべてを放棄する用意があるとき、ひとつの霊的な成熟のレベルに到達されたのだ。そのときこそ実在はチャンスを得、それをしっかりとつかむ。もし遅れがあるとしたら、マインドが見ること、あるいは捨て去ることを望まないことが原因なのだ。


質問者 私たちはそれほどまでに孤独なのでしょうか?


マハラジ いいや、そうではない。もっている者たちは与えることができる。そして、そのような与える者たちは多くいる。世界自体が、誠実な犠牲的行為によって支えられている最高の贈り物なのだ。だが賢明で、謙虚な、受け取るにふさわしい人たちはまれだ。「求めよ。さらば与えられん」は永遠の法則なのだ。
あなたはとても多くの言葉を学び、とても多くの言葉を話してきた。あなたはすべてを知っている。だが、あなた自身を知らないのだ。なぜなら、自己が言葉を通して知られることはないからだ。ただ直接の洞察だけが自己を露わにする。内側を見なさい。内側を探求するのだ。


質問者 言葉を放棄するのは本当に難しいことです。私たちの精神的人生は、ひとつの絶え間ない言葉の流れなのです。


マハラジ それはやさしいとか難しいという問題ではない。あなたに選択権はない。試みるか、試みないか。それはあなたにかかっているのだ。


質問者 私は何度も試み、そして失敗してきたのです。


マハラジ もう一度、試みなさい。あなたが試み続けるなら、何かが起こるだろう。試みなければ、あなたは立ち往生するだけだ。あなたはすべての正しい言葉を知り、聖典を引用し、討論において優秀であるかもしれない。しかしそれでも、ただの薄っぺらな人間のままだ。あるいはあなたは目立たない、謙虚な、取るに足りない人かもしれない。それでも愛に満ちた優しさと、深い知恵に輝いているかもしれないのだ。


警告あり


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