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Krishnamurti あるがままのものの観察


―あるがままのものの観察、あるがままのものに“なる”こと―


理想(比較)なき観察―「あるがまま」と「あるべき姿(こうありたいもの・こうであって欲しいもの)」 あるがままのもの=現にあるもの、今、現に、このように存在する私の知覚的・心理的事実 瞑想は、「あるがままのもの」からの逃避ではない。それは、あるがままのものを理解し、そしてそれを超えることである。 あるがままのもの(=今、現に存在する私の心理的/経験的事実・現状)を理解することなしに瞑想は、 一種の自己・現実・問題からの逃避になるに過ぎない。瞑想とは、私・自我の感覚を生み出す思考の全活動を、一個の事実として理解することなのである。


それ自身の内部で、現在、実際に進行しつつあることに、どんな選択も是非判断もなしに気づいていること。 その基礎は「何かに到達する」という希望の一切ないところに敷かれます。希望を持つなら、この現状―絶望―から逃げているのです。 希望を持つのではなく、絶望を理解しなくてはなりません。 「あるがままのもの」の理解のなかには希望も絶望もありません。


動いている自己を観察し、それに学んで下さい。 それを見守り、それに破壊することなしに気づいていて下さい。 「私はそれを変えなければならない」「私はそれを取り除かなければならない」と言わないで。何の取捨選択もなしに、何の常識的・文化的・教義的な是非判断もなしに、ただそれを見守って下さい。 そのとき、その見守り-学ぶことの結果、自己は消え去ります。


この心の浄化は、意志によるものでも宗教的な訓練の結果でもありません。 いま在るものへの全的な気づきが、唯一の解放者なのです。


もし、あなたがあるがままのものを見るなら、あなたは世界全体を見ます。 あるがままのものを否定することに葛藤の始まりがあります。 世界の美しさはあるがままのもののなかにあります。 そして、努力なしにあるがままのものと共に在ることが徳なのです。


私たちは、私たち自身のありのままの生を見なければなりません。 果てしのない不満足さと空虚さを、 決して満たされることのない欲望と葛藤を、 そして、様々な娯楽、刺激物への逃避を。 非難も選択もすることなしに、恐怖や願望の歪みもなしに、 いま現にそうである私たち自身の姿を観察しなければならないのです。


そのとき、その観察のなかに、とてつもない変化が生じるのです。


いま現に、あるがままの姿(現実・事実)と、あるべき姿(観念・理想・理念)のあいだの矛盾・葛藤に 莫大な量のエネルギーが費されています。 この矛盾が無くなったなら― つまり、瞬間的・心理的に反対物を作り出してしまい、 そこへ移行しようとすることによって、事実あるものを見ない、ことを止めてしまったなら― 変容に必要なエネルギーは充分に存在するのです。 この反対物のあいだの闘いが、エネルギーの浪費を引き起こしているのです。


性的、生物的欲望などへの非難や修正、制御もまたエネルギーの浪費を引き起こします。 しかし、それらを非難することなく、そのなかに入り込み、それと共に流れ、 それと一つになってそれを見つめ、それを理解していくことができるなら、 そこにエネルギーのロスはないのです。 この豊富なエネルギーが変容には必要なのです。


ある瞬間において「あるがままのもの」は、恐怖や、ひどい絶望、束の間の喜びであるかもしれません。


結局、いわゆる修行を実践している人たちは、 彼らがいつか達成することを望んでいる遠くにある観念を追求しているので、 今、ここにある現実を見ることがありません。 彼らは常に明日の観点から考え、自分自身を訓練します。


未来において実現されるであろう理想像を心に思い描き、 「そう(で)あるべきだ」と考えるものを実現しようと、常に努力し、自己訓練しています。


彼は自分自身のなかで、現在、正に起こっている過程の全体を決して理解しようとはしません。 そうではなく未来の理想にのみ関わっているのです。


野心的な人間は誰よりもいちばん恐れている人間である。 なぜなら、彼はあるがままの自分であることを恐れているからだ。


困難なのは、 「あるがままの事実(現実)」から走り去ってしまうことなしに、それと共に留まる、ということです。


我々の反応・応答のたいていが、事実(現実)からの逃避の行為となっているため、 逃避しないでそれと向きあうことが、これほどにも難しいこととなっているのです。


しかし、真の実在はあなたの近くにあるのです。 遠くにそれを求める必要はありません。 真理を求める人は、決してそれを見つけないでしょう。 真理は「あるがままのもの」のなかにあるからです。 そういう真理こそ、美しいのです。


それに反し、 あなたが真理を自分の知識に基づいて思い描き、それを追求し始めた瞬間から、戦いが始まるのです。 戦う人は理解することができません。 ですから私たちは、注意深く、受動的に、 この「あるがままの生、あるがままの、今、存在するもの」を観察しなければならないのです。 いま現に存在するものについて、それを否定したり、何かに変えようとするのではありません。 あるがままのものの知覚それ自体が、その変容をもたらすのです。


しかし「あるがままのものの見方」を知らなければなりません。 それは… 「どんな取捨選択もなしに、ただ全的に観察すること」なのです。 山登りを私は信じません。 “登り”など、ないのです。 「私はこれだが、いずれそれになる」など、ないのです。 あるのはただ「これ」のみです。 「これ」を変えなさい―それがすべてです。 心がもはや、「あるがままのもの」を避けておらず、抵抗しておらず、 それに単純に、受動的に、気づいているとき― その受容性のなかに変容が生じているのを知るでしょう。


私たちは理想が必要だと考えます。 しかし理想は私たちのなかに、この根源的な変化をもたらすのに役立つでしょうか。 それとも、それは単に、私たちが変化を延期し、未来に押しつけ、 それによって即座の根本的な変容を避けるのに役立つだけでしょうか。 確かに、私たちが理想を持つかぎり、私たちは決して本当には変化せず、 実際には、即座の根源的変容を避けるための延期の手段として、その理想を利用しているだけなのです。 理想は欠くことのできない大切なものであるということが、私たちの多くにとって当然のことだと思われています。 それなしには変化のはずみがないだろう、 それなしには、腐敗し、淀んで、腐るだろう、と私たちは考えるからです。


しかし、何らかの種類の理想が本当に私たちを変えるでしょうか。 私たちはなぜ理想を持つのでしょうか。 私が暴力的なら、非暴力の理想を持つ必要があるでしょうか。 非暴力の追求は、心を暴力から解放するでしょうか。 それとも、非暴力の追求(への欲求)そのものが、実際には暴力の理解を妨げているのでしょうか。


結局、私が心の全体で、問題=心の暴力性に完全な注意を注ぐときのみ、 私はそれ=暴力性を理解することができます。 そして、私が「暴力性」という事実と、その事実の理解に全面的に関わるとき、 非暴力の理想がどんな意味を持つでしょうか。 理想の追求は、現実・事実の回避、変容の未来への延期なのではないのでしょうか。 私が暴力を理解するつもりなら、私の心の全体を、それに注がなければなりません。 非暴力の「理想」によって注意をそらされていてはなりません。 これは本当に、非常に重要な問題です。


私たちの多くは、理想を自己変革の本質的な要因とみなします。 しかし実際には、心が暴力そのものの全体を理解するときにのみ本質的な変化があるのであり、 暴力を理解するためには、あなたはそれにあなたの全面的な注意を注がなくてはなりません。 理想によって注意をそらされていてはなりません。 ひとが暴力を完全に注意して見ることができ、それを完全に理解することができるなら、 そのとき多分、それを根源的に解決する道が見えてくるのです。


非暴力を習慣的に実行する人は、本質的に自己中心的であり、 したがって、その言葉の真の意味において「暴力的」です。 謙虚を習慣的に実行するひとは決して謙虚ではありません。 なぜなら、謙虚を獲得する、あるいは何であれ徳を養成するという過程が 自己中心性のもう一つの現われに過ぎず、 それは本質的に邪悪で暴力的だからです。 私がこれを非常に明確に見るなら、そのとき私はどうしたらいいでしょうか。


どんな風に私は、暴力から心を解放することに取り掛かったらいいのでしょうか。 私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている。 「あのようになりたい」という絶え間ない葛藤が私たちを苦しめ続ける。 あなたが一度も「瞑想」という言葉を聞いたことがなければなあ、と思います。 あなたが一度も、静かであるとはどんなことか、 心が静かなとき、その向こうに起こるかもしれないことについて、聞いたことがなければなあ、と思うのです。 もしも、あなたがこれらのことを、何も、一度も聞いたことがなく、 ありのままのあなたの生を― 悲惨、葛藤、苦しみに満ちたあなたの日常の生を―処理するだけであったなら、 その観察のなかに「他なるもの」が起こり得るかもしれないでしょうに。 しかし、あなたはそれを理解しようとはせずに他のものを望んでいます。


それが私が、「もしも、あなたが知ることなしに始めることができたらなあ」と言う理由です。 私は思考によって触れられていない実在があるかどうか知りません。 私はそのように宗教的な心があるかどうか、本当に何も知らないのです。


質問者:人間の生の究極的な意味、あるいは目的は何でしょうか。


クリシュナムルティ:私たちの生には意味や目的があるでしょうか。 私たちは目的を考え出すことはできます。 ―完璧な悟り、至福の状態に到達すること、と云った。 あるいは果てしなく理論を考え、それを自分の生の主題として生きていくこともできます。 私たちの生には、 幾ばくかのお金を稼ぎ、馬鹿げた種類の娯楽にそれを費やすこと以外、何の意味も目的もありません。 理論のなかにではなく、実際に、自分自身の生のなかに、このすべてを見ることができます。 自分自身のなかの果てしない戦い、目的の、悟りの追求、 世界中に―インドや日本に―瞑想の技術を学ぶために行くこと。 あなたは千もの目的を考え出せます。 しかし、あなたはどこへ行く必要もありません。 ヒマラヤにも、僧院にも、どんな道場にも。 なぜなら、あらゆるものがあなたのなかにあるからです。 どうやって見るのかを知るなら、最高のもの、測り知ることのできないものが、あなたのなかにあるのです。 「あるがままのもの、測り得るもの」を通して、あなたは「測り知れないもの」を見出します。 それは、あなたが自分自身で始めなければならないことです。 それをどうやって見るのかを知ることです。 それは、観察者なしに見ることなのです。 努力とは、あるがままのものをそれとは違ったものに― つまり、あるべきものに変える闘いを意味しています。 私たちは、あるがままのものに直面することを怖れるため、 絶えずそれに制御や修正という形で働きかけ、 それを見ることを避けるのです。 私は、どんなときにも自分や他人を測定しません。 この測定のない状態は、実際にあるがままのものと共に生きるとき、 あるがままのものを善悪の規準で判断しないときにやってきます。



期待感について


神がすべてであり、すべては一つなのだとしたら、普遍的な深い”愛”の感情が存在し、「相手」がいなくでも、それを感じることができるはずです。何をしているときにも、これが真実であると固く信じて、”大いなる愛”の感覚を探し求め、それを待ち望んでください。それを感じることができると、自分にパワーが戻ってきます。そうなるとあなたは、”大いなる愛”のパワーがある、自分の「存在」の中心にいることになるのです。





そのために必要なのは、そうした愛を自分は当然感じるだろうという「期待感」です。





「見つける人」は、いま現在より以上に神が存在することはけっしてない、ということを少なくとも知っています。


知るためにはどうすればいいでしょうか?


自分の存在のなかでいままでとは違った賛美歌を歌い、いままでとは違ったマントラを唱えるのです。


「私の目の前に何があろうともそれは神である。何であろうとも、それは神だ。神はいま、この瞬間に、この呼吸とともに存在し、私が見るものすべてのなかに、私が聞くものすべてのなかに存在する」こう断言するのです。
「あれはイヤな感じがしたから、神であるはずがない。何かほかのものにちがいない」と、言ったりしないことです。


神がすべてのもののなかに存在するということを、信じることはまだできないかもしれませんが、信じるよう努めてみてください。「期待感」と希望を持って待つのです。


自分以外の人間や、まわりで起こっている出来事を見るときに、自分は”神の大いなる光”のなかにいるのだ、ということを忘れないでください。あらゆるものの本質は愛です。そのことを忘れないようにつねに努力するならば、そうした覚醒意識を得るのを妨げているものが少しずつ明らかになってきて、やがて消えていきます。このことを忘れないでいると、”大いなる光”以外のものはどれでも一時的なものであり、生まれては消え、やってきては去っていく、つかのまのはかない障害物にすぎないのだ、ということがわかってきます。不断に変化する考えや信念などというカムフラージュの陰にある、実在するものにつねに意識を向けてください。


人は、自分とは肉体のことだと思っています。人はまた、カルマや輪廻転生があると深く信じているので、過去をなかなか捨てられないし、”大いなる光”が”大いなる光”に出会っているのだ、ということに気づけません。


”大いなる光”が”大いなる光”に出会うと、その結果、よりパワフルな”大いなる光”が生まれます。どんな方法を用いてでも、あらゆるものは神なのだということを覚えていられるならば、自分の悩みの本質がはっきり見えてきます。



質問者 あなたがあなたの息子さんの家で昼食が出されるのを待っているところを目にしました。そのとき、私の意識とあなたの意識の内容が似たものなのか、部分的に異なるのか、それともまったく違うのかと不思議に思っていたのです。あなたは私のように空腹や喉の渇きを覚え、食事が給仕されるまで落ち着かずにいるのでしょうか、それとも、まったく異なったマインドの状態に在るのでしょうか?


マハラジ 表面上の違いはほとんどない。だが、その奥深くではたいへん異なる。あなたはあなた自身を感覚とマインドを通してのみ知っている。あなたはそれらが示唆することをあなた自身として受け入れ、自己の直接の知識をもっていない。あなたのもっているのは単なる観念だけだ。すべて平凡で、使い古しのうわさによるものにすぎない。あなたは何であれ、あなたであると考えたことを真実として受け入れてしまう。あなた自身が知覚可能で、描写可能なものだと想像する習慣が、非常に強固になってしまっているのだ。
私はあなたが見るように見、あなたが聞くように聞き、あなたが味わうように味わい、あなたが食べるように食べる。私はまた喉の渇きや空腹を感じ、時間通りに食事が給仕されることを期待する。飢えたとき、また病気をしたとき、私の身体とマインドは弱まる。これらすべてを私はまったく明確に知覚するが、どういうわけか、私はそのなかにはいないのだ。私は自分がその上を漂い、超然として離れてあるように感じるのだ。超然として離れていると言うことさえ、本当ではない。そこに空腹や渇きがあるように、超然と分離の感覚がそこにあるのだ。そこにはまた、気づきと計り知れない距離の感覚がある。あたかも、身体とマインド、そしてそれらに起こるすべてが、どこか遥か地平線の彼方で起こっているかのようだ。私は映画のスクリーンのように明白で空っぽだ。画像はその上を通り過ぎ、明白で空っぽのままの状態を残して消えていく。どの点においてもスクリーンが画像に影響されることはない。また、画像もスクリーンによる影響を受けはしない。スクリーンは画像を遮り投影する。スクリーンが画像を形づくるのではないのだ。それはフィルムと何の関わりもない。フィルムはフィルムとして、ひと塊の運命なのだ。だが、私の運命ではない。スクリーン上の人びとの運命だ。


質問者 あなたは画像のなかの人びとが運命をもっていると言うのではないでしょうね! 彼らは物語に属しているのです。物語は彼らのものではありません。


マハラジ では、あなたはどうだろうか? あなたはあなたの人生を形づくっているだろうか、あるいはあなたがそれによって形づくられているのだろうか?


質問者 確かに、あなたの言われるとおりです。人生の物語はそれ自体で繰り広げられ、私はそのなかのひとりの役者にすぎません。私なしにはそれが存在しないように、その外側に私の存在もないのです。私はただの登場人物であって、個人ではありません。


マハラジ 彼が人生を起こるがまま受け入れる代わりに、自分でそれを形づくりはじめ、彼自身をそれと同一化するとき、登場人物は個人となるのだ。


質問者 私が質問し、あなたが答えるとき、正確には何が起こっているのでしょう?


マハラジ 質問と回答は、ともにスクリーン上に現れるだけだ。唇は動き、身体が話す。そして、ふたたびスクリーンは明白で空っぽになる。


質問者 あなたが明白で空っぽだと言うとき、あなたは何を意味しているのですか?


マハラジ それはすべての内容から自由であることを意味しているのだ。私自身にとっては、私は知覚可能なものでも、想像可能なものでもない。「これが私だ」と示唆できるようなものは何ひとつないのだ。あなたは自分自身をいともたやすくあらゆるものと自己同一化してしまう。私にとって、それはまったく不可能だ。「私はこれでもなく、あれでもない。また、何も私のものではない」という感覚が私のなかで非常に強いため、あるもの、あるいはある想いが現れるやいなや、「これは私ではない」という感覚がやってくるのだ。


質問者 あなたは「これは私ではない、あれも私ではない」と繰り返すことで時間を過ごしていると言われるのでしょうか?


マハラジ もちろん、そうではない。私はただ、あなたのために言葉に置き換えてみただけだ。グルの恩寵によって、私は主体でも客体でもないということを永久に実現し、つねに自分自身に思い起こさせる必要はないのだ。


質問者 あなたが主体でも客体でもないと言われることで、正確には何を意味しているのか私には理解できません。私たちが話している今この瞬間、私はあなたの体験の客体であり、あなたがその主体ではないでしょうか?


マハラジ 見なさい。私の親指は人差し指に触れている。触れるものと触れられるものの両方だ。私の注意が親指にあるとき、親指が感じるものであり、人差し指は──自己なのだ。注意の焦点を移行し、その関係を逆転してみなさい。注意の焦点を移行することで、私は私が見ているそのものと成り、それがもっている意識を体験し、そのものの内なる観照者となることを見いだしたのだ。この他者の意識の焦点に入る能力を、私は愛と呼ぶ。あなたはあなたの好きなように呼ぶがいい。愛は、「私はすべてだ」と言い、智慧は、「私は無だ」と言う。その二つの合間を私の人生は流れていく。いかなる時間と空間の点においても、私は体験の主体と客体の両方であることができるため、私はその両方であり、どちらでもなく、またその両方を超えていると表現するのだ。


質問者 あなたはあなた自身に関するそのような並外れた表明を行います。何があなたにそのようなことを言わせるのでしょう? 時間と空間を超えると言うことで、あなたは何を意味しているのでしょうか?


マハラジ あなたが尋ね、そして答えがやってくる。私は私自身を見守り、答えを見て、そこに矛盾のないことを見るのだ。私が話していることが真実だということは明らかだ。それはまったくシンプルなことだ。あなたは、ただ私を信頼しなければならない。つまり、私が話すことはまったく真剣だということだ。すでに話したように、グルは私に自己の本性と世界の本性を見せてくれた。それを実現したため、私は世界とひとつであり、しかもそれを超えているのだ。私は欲望と恐れのすべてから自由になった。私が自由になるべきだと論証したのではない。まったく予期せず、何の努力もなく、私は自由であることを見いだしたのだ。この欲望と恐れからの自由は、それ以来、私とともにとどまっている。もうひとつ見いだしたことは、私は何の努力をする必要もなく、何の遅れも軋轢もなしに、行為が思考にしたがうということだった。私はまた、思考が自己充足するようになり、ものごとがすらすらと、正しい場所に落ち着いていくことも見いだしたのだ。主な変化はマインドのなかだった。それは不動で、沈黙し、素速く反応するが、反応を永続させなくなった。自発性が生のあり方となり、真実は自然になり、自然さは真実となった。何にもまして、生は無限の愛、幽玄で静穏な、すべての方角に輝き、すべてを抱擁し、すべてを興味深く、美しく、意味深くする幸運なものとなったのだ。


質問者 自己本来の存在を実現した人には、さまざまなヨーガの能力が自然と手に入ると聞いていますが、これに関するあなたの体験はどのようなものでしょうか?


マハラジ 人間の五つの層の身体* は、私たちのもっとも突飛な夢をも実現可能にする能力をもっている。人のなかには宇宙全体が反映されているばかりではなく、彼には宇宙をコントロールする力も提供されている。賢者は、状況がそれを必要としないかぎり、そのような力を使うことを切望したりしない。日々の生活のためには、彼は個人のもつ技術と能力で充分に適切だと見ているのだ。ある能力は特別な訓練で発達させることができる。しかし、そのような能力を誇示する人は、いまだに束縛のなかにいるのだ。賢者は何ひとつ、自分のものと見なさない。ある時と場所で、ある奇跡がある人のせいで起こったとしても、彼は出来事と人びととの間にいかなる因果的な結びつきも証明しないだろう。また、いかなる結論も引き出すことを許さないだろう。すべては起こるように起こるのだ。なぜなら、それは起こらなければならないからだ。すべてはそのように起こる。なぜなら、宇宙はあるがままだからだ。


質問者 宇宙は幸福に生きる場所のようには見えません。なぜこれほど多くの苦しみがあるのでしょうか?


マハラジ 苦痛は身体的なもの、苦しみは精神的なものだ。マインドを超えたところに苦しみはない。苦痛は身体が危険にあり、注意を要求しているという単なる信号なのだ。同様に、苦しみは個人と呼ばれる記憶と習慣の構造が、喪失、あるいは変化によって脅かされていると私たちに警告しているのだ。苦痛は身体の存続のために欠くことのできないものだ。しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。苦しみは完全に、執着すること、あるいは抵抗することを理由に起こる。それは私たちが人生とともに流れ、進んでいくことを自ら欲しないことの兆候なのだ。
健全な人生が苦痛から自由であるように、聖人の人生は苦しみから自由なのだ。


質問者 聖人ほど苦しむ人は誰もいないでしょう。


マハラジ 彼らがあなたにそう言ったのかね? それともあなたが自分からそう言うのだろうか? 聖人のような高徳な生き方の本質は、現在のこの瞬間の完全な受容と、起こるがままとの調和にあるのだ。聖人はあるがままから変わってほしいとは望まない。すべての要因を考慮した上で、それが不可避であることを彼は知っているのだ。彼は必然的なものと親しくあり、それゆえ苦しむことがないのだ。苦痛なら彼も知っているだろう。だが、それが彼を打ちのめすことはない。もし彼にできるならば、失われたバランスを必要なだけ回復するだろう。あるいは、ものごとがそれ自体の流れを取るにまかせるだろう。


質問者 彼は死ぬかもしれません。


マハラジ それが何だというのだろう? 生きつづけることで、彼が何を得るというのだろう? 死ぬことで彼が何を失うというのだろうか? 生まれたものは死なねばならない。生まれなかったものは死ぬことはできないのだ。すべては彼が彼自身を何であると見なしているかによるのだ。


質問者 あなたが致命的な病気になったと想像してください。あなたは後悔したり、憤ったりするのでしょうか?


マハラジ だが、私はすでに死んでいるのだ。あるいは今まで生きたことも死んだこともなかったのだ。あなたは私の身体が習慣的にふるまっているのを見て、あなたなりの結論を引き出す。あなたの結論が、ほかの誰でもないあなた自身を束縛するということを、あなたは認めないだろう。あなたが抱いている私のイメージはまったく誤ったものかもしれないということを見て取りなさい。あなた自身のイメージもまた誤りなのだ。しかし、それはあなたの問題だ。だが、私のために問題をつくり出しておいて、それから私に解決するように要求する必要はない。私は問題をつくり出してもいなければ、解決してもいないのだ。


* 訳注 五つの層の身体
人間は五つのさやに包まれているというヒンドゥー教の概念。
(一)アンナー・マヤ・コーシャ 物質的身体
(二)プラーナ・マヤ・コーシャ 呼吸にともなう五つの気と五つの行動器官の身体
(三)マノー・マヤ・コーシャ マインドと五つの行動器官の身体
(四)ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ 知性と感情の器官の身体
(五)アーナンダ・マヤ・コーシャ 至福の身体。


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大切なことは、知恵を発達させ、苦痛を手放し、否定性を乗り越えることです


識別


精妙で目に見えないエネルギーを感じ、理解し始めるとき、どのエネルギーを自分のものとし、どのエネルギーを手放すべきかを見わける技術を発達させていくことになります。


イメージの世界は、あなた方の物質的世界の力の源泉です。


自分の人生に解決したい状況があるのなら、いつでも自分を助けてくれるイメージやシンボル(象徴)を求めることができます。


どの瞬間にも、特定のアイディアに何百万もの人たちが焦点を合わせています。


あなたが必要としているエネルギーは、すべてこの世界にあります。


あらゆるエネルギーの相互作用から、自分自身について学ぶことができます。


他人と一緒にいるとき、「存在している」状態を練習してください。つまり、何かをしたり、考えたり、何かに反応したりしない練習をするのです。ただ、言葉を越えた次元で、音や匂いや空間、そして、エネルギーの相互作用などに注意を払ってください。相手が言った言葉に対し、自分がどんなふうに感じたかをチェックし、どんな見方をしたかを観察してください。


(雀鬼、桜井さんの麻雀勝負中の精神状態について語った方が多かったですが、まさにこの「存在している」状態だったのかもしれませんよね)


質問者 どうすればアートマンを見いだせるでしょうか?


マハルシ アートマンの探究ということはありえません。真我ではないものだけが探究の対象となり、それを排除することだけが可能なのです。

(対話78)


(これも移行のための手段として用いることができます。可能なことが「排除のみ」なら、何を排除することが「存在している」状態への移行なのでしょうか?)


マハルシ あなたが存在するという事実は、あなたの実現でもあるのです。


質問者 知的になら理解できます。真理は一瞬のひらめきとしては感じられるのですが、永続しないのです。


マハルシ そのような想念が、あなたの永遠の実現状態を覆い隠してしまうのです。

(対話477)


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過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。その機会を祝福してください。


自分が人を傷つけることができる、あるいは人に傷つけられると、あなたは誤って信じこみました。それが、あなたがたの世界を動かしている思考です。ときには、まったくそのとおりに見えることもわたしは知っています。しかし今となってはそれは真実ではなく、かつても真実ではなかったのです。


あなたは自分が見ることを選んだものを見ます。あらゆる知覚は選択だからです。あなたが、見えるものに自分流の意味を押しつけなくなったとき、あなたのスピリチュアルな目が開いて、判断や批判から自由になった世界が終わりのない美しさに輝いているのを目にするでしょう。


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質問者 私たちはサティヤ・サイババ* のアーシュラムにある期間滞在していました。また、ティルヴァンナーマライのラマナシュラマムでも2カ月ほど過ごしました。今、私たちはアメリカへ帰国の途上なのです。


* 訳注 サティヤ・サイババ Satya Sai Baba
(1926-2011)アーンドラ・プラディーシュ州の村プッターパルティに生まれる。マハーラーシュトラ州の偉大な聖者シルディ・サイババの化身であると自ら名乗る。砂糖菓子や花、聖灰を物質化し、遠く離れた弟子の想念を読みとるといった奇跡を行なう世界的に有名なグル。


マハラジ  インドがあなたに何らかの変化をもたらしただろうか?


質問者 私たちは重荷を降ろしたかのように感じています。シュリー・サティヤ・サイババは、すべてを彼に明け渡し、ただ日々をできるかぎり公正に生きるようにと言われました。「正しく在りなさい。あとは私にまかせなさい」と彼は言いました。


マハラジ  シュリー・ラマナアシュラムでは何をしていたのかね?


質問者 私たちは師から授かったマントラを復唱しつづていました。また瞑想もしました。考えることや勉強することはほとんどなく、ただ、静かにしているよう心がけていただけです。私たちはバクティ(帰依)の道を行く者で、哲学はむしろ知らないのです。私たちには考えなければならないことはさほどなく、ただグルを信頼し、人生を生きていくだけです。


マハラジ  バクタ(帰依者)の多くは、すべてがうまくいっている間はグルを信頼する。しかし、問題が起こると彼らは落ちこみ、ほかの師を探しに行くのだ。


質問者 そうです。その危険性については警告されました。私たちは厳しい状況もやさしい状況とともに受け入れていこうと思っています。「すべては恩寵だ」という感情が非常に強くなければなりません。ひとりのサードゥ(修行僧)が東に向かって歩いていると、その方向から強風が吹いてきました。サードゥはただくるりと向きを変えて、西に歩き出したのです。私たちもグルによって与えられた環境に私たち自身を合わせながら、そのように生きたいと願っています。


マハラジ  ただ生命だけがある。生命を生きる人は誰もいないのだ。


質問者 それは私たちも理解します。それでもなお、私たちは、ただ生きるのではなく、自分たちの人生を生きようとしてしまうのです。未来のために計画を立ててしまうことは、私たちにとって根深い習慣なのです。


マハラジ  あなたが計画を立てようと立てまいと、人生は続いていくのだ。だがその人生において、マインドのなかに小さな渦巻きが現れる。それは幻想にふけり、それ自体が人生を支配し、コントロールしていると想像するのだ。
生命そのものは無欲だ。だが、偽りの自己はそれが快く続いてほしい。そのため、それはつねに自己の継続を守ることに没頭しているのだ。生命は恐れず、自由だ。あなたが出来事に影響を与えているという考えをもっているかぎり、解放はあなたのものではない。行為者という観念、自分が出来事の原因であるという観念自体が束縛なのだ。


質問者 どうすれば、私たちは為す者と為されることという二元性を克服できるのでしょうか?


マハラジ  生命を無限で、分割不可能な、つねに存在し、つねに活動的なものとして黙想しなさい。あなたがそれとひとつであると悟るまで。それは難しくなどない。なぜなら、あなたはただ自分の自然な状態に戻るだけだからだ。
すべては内側から現れ、あなたの住む世界があなたの上に投影されているのではなく、あなたによって投影されているとひとたび自覚すれば、恐れは終焉するのだ。この自覚なしに、あなたはあなた自身を外界の身体、マインド、社会、国家、人類、そして神や至高なるものといったものとさえ同一化してしまう。だが、それらはみな恐れからの逃避なのだ。あなたが住む小さな世界の責任を完全に受け入れ、その創造、維持、破壊の過程を見守るときにだけ、あなたはあなた自身の想像による束縛から自由になるのだ。


質問者 どうして私は自分自身をそんなにも不幸だと想像してしまうのでしょうか?


マハラジ  ただの習慣からなのだ。あなたの考え方や感じ方を変えなさい。それらを再検討し、詳細に調べてみなさい。あなたは不注意によって束縛される。注意が解放するのだ。あなたはあまりにも多くのことを当然のこととして受け取ってきた。疑いはじめなさい。もっとも明らかなことは、もっとも疑わしいのだ。あなた自身にこのように問いかけてみるといい。「私は本当に生まれたのだろうか?」「私とは本当にこれなのだろうか?」「私が存在すると、どのようにして知るのだろうか?」「誰が私の親なのだろうか?」「彼らが私を創造したのか、それとも私が彼らを創造したのだろうか?」「私自身に関して言われたことを、すべて信じなければならないのだろうか?」「私とは誰なのか?」と。あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつぎこんできた。今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。事実、破壊することはたやすい。なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。すべては「私は在る」という想念にかかっている。それを徹底的に調べるがいい。それはあらゆる困難の根底に存在している。それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。実在は皮の内側にも外側にもある。しかし、皮そのものは実在ではないのだ。この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。


質問者 どうすれば「私」という感覚から自由になれるのでしょうか?


マハラジ  もしあなたがそれから自由になりたいのなら「私」という感覚と向き合わなければならない。あなたが明確にそれを見て完全に理解するまで、それが作用しているときや、落ち着いているときを見守りなさい。それがどのようにはじまり、どのように停止し、何を欲しがり、どのようにそれを得るのかを見なさい。結局、すべてのヨーガは、その源が何であれ、性質が何であれ、目的はただひとつだ。分離された存在という不幸から、広大な美しい絵の中の無意味な点としての存在から、あなたを救い出すことにあるのだ。
あなたが苦しむのは、あなた自身を実在から疎外したからだ。そして今、あなたはこの疎外感からの逃避を探し求めている。あなた自身の強迫観念から逃げることはできない。ただ、それを育むのをやめることができるだけだ。
「私は在る」は偽りだからこそ、それは存続を願う。実在は存続する必要がない──それ自身、破壊不可能なことを知っているからだ。それは形態とその表現の破壊に無関心なのだ。「私は在る」を強調し安定させようと、私たちはありとあらゆることをするが──すべては無駄に終わってしまう。なぜなら、「私は在る」は瞬間から瞬間へと再構築されていくものだからだ。それは絶え間ない仕事なのだ。そして唯一の革新的な解決法は、「私はあれであり、これである」という分離した感覚を永遠に消し去ることだ。存在は残る。だが、自己存在ではない。


質問者 私には明確な霊的野心があります。それを満たすために努力しなければならないのではありませんか?


マハラジ  いかなる野心も霊的なものではありえない。すべての野心は「私は在る」のためのものなのだ。もしあなたが本当の進展を遂げたいのなら、すべての個人的な達成という考えは、あきらめなければならない。いわゆるヨーギの野心というものは、実にばかげたものだ。男性の女性に対する欲望は、永遠の個人的な至福を渇望することに比べれば純真なものだ。マインドとは詐欺師なのだ。より敬虔に見えるほど、裏切りはさらに悪いものとなるだろう。


質問者 ひっきりなしに、人びとは世間の悩みごとをかかえてあなたのもとへやってきます。あなたはいったいどのようにして、彼らに何を言うかを知るのでしょうか?


マハラジ  ただその瞬間、私のマインドに現れたことを告げるだけだ。私には人びとに対応するための企画化された手順といったものはない。


質問者 あなたはあなた自身に確信をもっています。しかし、私のもとに人びとが来るとき、どのようにして私の助言が正しいものだと確信できるのでしょうか?


マハラジ  あなたがどの状態のなかにいるのか、どのレベルで話しているのかを見なさい。もしあなたがマインドから話しているなら、間違っているかもしれない。あなたの精神的習慣が停止しており、状況への完全な洞察から話しているのならば、あなたの助言は本物の返答かもしれない。要点は、あなたも、あなたの前にいる人も、ともに単なる身体ではないと完全に気づいていることだ。もしあなたの気づきが明晰で完全ならば、間違いはありえない。



公器とは、器にはこだわっていない、ということです。
Fiora


(たとえば企業の代表者が200年後の自社の存続を願うよりも、社会全体への当該事業の貢献とその変化のみを真摯に考えているような場合ではないでしょうか。ウソなしで100%それだけの場合です)


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迷妄が現れても嫌わず
消えても追求しない者


あなたの救済のために、あなたはなにひとつすることはできません。つまり、あなたが何やかやをすれば、それはすべて、





そこにあるものを発見する邪魔になるのです。





救済はもうそこにあります。あなたはもう救われているのです。救済を買いとる必要はありません。


選択があるからといって、他ならぬあなたが選択をしなければならないというわけではありません。選択があるのを認め、それに気づくことで、選択の中をとおりぬけてください。


欲望を抱くことと執着を捨てることは同じことの表と裏にすぎません。あなたが本当に求めているのは、





欲望を抱くことも執着を捨てることも両方とも存在する意識状態です。





普通、欲望は何かに向かう気持ちを指し、執着を捨てるのは何かから離れる気持ちを指します。ここで必要なのは、その両方を含みながら、どちらの方向性も含まない言葉、強いて言えば、あらゆるものを完全に受け入れるという意味の言葉です。執着を捨てるというのは、ほとんどの人にとって、エネルギーを失い、興味あることから身を引き、無関心になることを意味します。けれども実際は、真に執着を捨てた人は完全にその瞬間に意識があって、すべてにいつでも関心を向けることができます。


自分と自分以外のものをつねに分断するエゴの動きの枠外に出ると、魂の叫びや苦痛そのもののなかに、じつはすばらしい解決がひそんでいたことを発見します。それらはいっしょに現れます。不安を感じることを怖れないでください。あまりに長いあいだ思考の世界に生きてきたので、自分が生き生きとダイナミックに存在する神であるという体験をしていないのだ、ということに気づいてください。あなたは純粋な目覚めた意識なのです。


神とは単なる概念ではありません。それは圧倒的にすばらしい意識の感覚なのです。それは、「すべてよし。いままでもつねに完璧であったし、これからも完璧でしかない」ということを、思考を超えた次元で知り、その境地に安心して完全に憩うということです。あなたのなかには、完全に心安らかでいのちにあふれ、目覚めている部分があります。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに自由が存在します。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに完全なる心の平安と絶対的安全が存在します。それを求めてください。そうすれば見つかります。何度も何度も探してください。あなたがこの世に来たのはそのためです。それが人生の旅の目的なのです。


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自分の望みを物質世界で実現することがじょうずな人は、現実的な目標をたて、状況に応じて柔軟に対応していくことを学んでいます。


柔軟性ということの意味を知りたいなら、風のなかの若木をごらんなさい。幹は細くもろくても、すばらしい強靭さと耐久性をもっています。それは木が風にさからうのではなく、それに合わせて動くからです。


あることの起きる条件が整っていれば、たいした努力なしに実現します。条件が整っていなければ、たいへんな努力をしても実りません。風とともに動くには、現在の条件に対する敏感さがいります。休んで英気をたくわえるときがあり、エネルギッシュに前進するときがあっていいのです。


いつ動き、いつ動くべきでないかは、常識と直感の問題です。抽象的な思考だけでは、ほんとうにものごとを感じとることはできません。抽象思考は、感情の敏感さと結びつくべきです。


ものごとを正確に見極めるには、外的な状況がどんなふうで、どう動いているかだけでなく、自分がその状況にどんな感情を投影しているかも見極めねばなりません。内的現実、外的現実のどちらも視野にいれます。


内的現実が外的現実のそれを決定するのだ、という人がいます。逆だという人もいます。どちらも真実です。ニワトリは、卵がなければ存在しないし、逆もまた真です。原因と結果は直線的に結ばれるものでもないし、こうなればこうなる、と次々ドミノ倒しのようにつながっていくものでもありません。それは同時にあらわれます。本質は円環的なのです。原因が結果を決めるだけでなく、結果も原因を決めます。


「ニワトリか卵か、どちらが先か」という問いに対する答えは、どちらでもあるし、どちらでもない、ということです。ニワトリと卵は同時存在です。「Aか、さもなければAでないか」という問いはすべて同じように答えられます。そうでなければ、その答えはまちがっています。


”至高のリアリティ”とは、AでなければBであるというような二極性の枠ではとらえられません。それは内なる主観的現実と、外なる客観的現実の両方を含み、また両者の自発的な相互作用を含んでいます。


”至高のリアリティ”は、全的な受容、全的な降伏、全的なすべてを受けいれる愛の産物です。そこにふくまれないものはありません。


木が根こそぎひきぬかれ、川に流されたとしても、そこに悲劇はありません。木と川のあいだには、なんの差異もないからです。


”至高のリアリティ”の流れと対照的に、世の中には”抵抗”というものがあり、これがさまざまの条件づけを生みだします。弁別、比較、評価判断が起き、自然の流れが妨げられます。


”至高のリアリティ”の本質は「イエス」と言うことです。それにはもともと陶酔と熱狂がそなわっています。それは、あらゆるものごとを吸収同化します。それは目に見えるようになった幸福です。すべての人、すべてのものを、自分自身とみなすからです。


”抵抗”はつねに「ノー」と言います。それは本来、葛藤や努力をともなっています。あらゆるものに反対しますので、不幸の具現化ともいえます。抵抗がないとき不幸はありません。不幸はつねに、なんらかの条件に対して抵抗します。不幸は、これは良いという解釈、あるいは悪いという解釈の上に立っています。不幸の根とは、執着、こだわりです。


さて、わたしはあらゆる執着を捨てなさいと言っているわけではありません。友よ、それは現実的に達成できるゴールとはいえないでしょう。ただ、自分の執着、ものごとの感じかた、良い悪いという解釈方法に気づきはじめてください。あなたが自分の幸福をいかに条件つきのものにしているかに、気づいてほしいと求めているのです。


無条件というものを理解したければ、風に身をゆする木を見なさい。あれ以上の比喩はありません。木は深く根をはり、がっしりと枝をひろげています。足もとは確固とし、上のほうは柔軟です。それは力強さと、ゆだね、あけわたすことのシンボルです。


柔軟性を人生のあらゆる状況において発揮することによって、あなたもまた同じような力強さを発達させることができます。背筋をのばして立ち、この瞬間に根ざしていてください。自分の欲しているものを知り、しかし、それらをむりやりに求めるのではなく、人生の流れがおのずとそれをかなえてくれることを知りなさい。あなたの欲しいものを、ある方法で手に入れるということに執着してはなりません。それは、不必要な抵抗をもたらします。


風とともに動くのです。人生はダンスです。動きであり、持続です。


あなたの選択は簡潔です。ダンスできるか、できないか。
ダンスをしないことに決めても、ダンスフロアから追い出されるわけではありません。ダンスはあなたのまわりで、くりひろげられ続けています。ダンスは続き、あなたもその一部です。


あらゆる条件は、無条件という状態に対して開かれています。ただ自分をオープンにして、この瞬間の中にいれば、神の腕の中に抱きとめられるでしょう。しかし一瞬でも抵抗すれば、自分で作り出した不必要なもつれに絡まってしまいます。


人間は条件つきの現実(リアリティ)から自由になることはできません。なぜなら、条件つきの現実は、人間の意識が創造したものだからです。自分の創造物から逃げようとするのをやめてください。ただ受けいれるのです。木が風を受けいれるように。あなたの聖性は、完全に人間らしくあること、
自分や他人の欠乏や欲求を完全に受けいれる態勢になることのなかにあります。
深いあわれみの気持ちは、自分を感情的体験から切り離してしまうのでなく、完全にその体験に参加することによってのみ持つことができます。


「ここは苦しみの場所だ、あるいは喜びの場所だ」とは言わないでください。あなたの体験を、実際とはべつのものに仕立てあげないでください。解釈から遠ざかりなさい。解釈は、人生のどちらかいっぽうの極をだけ受けいれるよう、うながすのです。


この世界でのわたしの経験も、あなたがたと同じでした。わたしはあなたがたと同じように、人生のダンスの中へ入ってゆき、理解と受容のなかで成長し、条件づけられた愛から、条件なき愛の経験へと移行してゆきました。愛する兄弟姉妹よ、あなたがたが感じたり経験したりしたもので、わたしが味わわなかったものはありません。わたしはあらゆる欲望と恐怖心を知っています。それらすべてを通りぬけたからです。


わたしもあなたと同じ程度のダンサーです。わたしはそこに参加し学びたいと、喜びいさんで願っただけです。わたしがあなたがたに求めるものも、それだけです。喜びいさんでおこなってください。参加してください。触れ、触れられてください。そのためにこそ、あなたがたはここにいます。


ハートは開くとき、愛に満たされています。奇蹟は、開いているハートに、そしてコントロールしたい、知りたいという欲求をあけわたした心(マインド)に、自然にやってきます。


神の一部であるあなたに、神が供給をさしひかえることはありえません。あなたを分離した別存在として見ることはありません。親が子どもを見るように、ゆるぎない愛と関心をもってあなたを見守ります。


たったいま、この瞬間に、あなたは救われます。覚えておきなさい、友よ。たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい。
「わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」


もし答えが「イエス」なら、あなたはハートに”聖なる存在”のぬくもりを感じます。答えが「ノー」なら、あなたの意識がその”聖なる存在”のことを思い出させ、あなたをそちらへつれてゆきます。


いま現在の瞬間に対してオープンになれると、心と経験の中にある”聖なる存在”に気づく回数も多くなります。この拡大した意識の内部で、あなたという個人の目的も明らかになり、自分と他人にとって最善のことをするにはどうすればよいか、その道も見えてくるでしょう。


ある環境が、あなたの目の前にあらわれてきます。見かけは混乱したものかもしれませんが、あなたはもう、判断をくだすことはありません。あなた自身にも他人にも、もはや不備な点は見いだせません。いまここにある状況に全面的に身をあけわたすようになり、ベストをつくし、自己放棄の力強さのなかにゆったり安らぎます。あなたは結果をますます神の手にゆだねるようになり、贈り物はつねに受けとるにふさわしいものだということがわかります。あなたの贈り物は、つねに十分なものです。


そのときあなたは、わたしのまことの姿を見るでしょう。わたしはそれを確信し、大きな喜びをもって、その瞬間を待ちのぞみます。それは真理の瞬間だからです。それは分離の終わりです。それはあらゆる苦しみの終わりです。


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質問者 あなたは、私がけっして生まれてこなかったし、死ぬこともないと言いつづけています。もしそうならば、どうして私の目には、世界は誕生し、間違いなく死にゆくものとして映るのでしょうか?


マハラジ そう信じるのは、明らかにあなたが生まれ、そして死んでいく身体だという考えを一度も疑ったことがないからだ。生きている間、身体は注意を引き、完全にあなたを魅了する。それゆえ、自己の真の本性を知覚する人は本当にまれなのだ。それは大海の表面を眺め、その下にある広大さを忘れるようなものだ。世界とはマインドの表面だ。そしてマインドは無限なのだ。私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。マインドが静かなとき、それは実在を反映する。マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残るのだ。この実在は非常に堅固であり、現実であり、マインドや物質よりも実質的なものだ。それに比べればダイヤモンドさえもバターのように柔らかい。この圧倒的な実在の現実性が、世界を夢のように霧のかかった無意味なものにするのだ。


質問者 あまりにも多くの苦しみを抱えたこの世界を、どうして無意味なものとして見ることができるのでしょう。なんと冷淡な!


マハラジ 冷淡なのはあなたであって、私ではない。もしあなたの世界がそれほどにも苦しみに満ちているのなら、何とかするがいい。強欲や怠惰をそれに加えてはならない。私はあなたの夢のような世界に束縛されてはいない。私の世界では、苦しみ、欲望、恐れの種子はまかれてはいない。それゆえ、苦しみは育たないのだ。私の世界は対極から自由であり、相互に破壊的な不一致がなく、調和が遍在しているのだ。その平和は岩のように堅固であり、この平和と沈黙が私の身体なのだ。


質問者 あなたが言われることは、仏陀のダルマカーヤ(法身)を思い出させます。


マハラジ そうかもしれない。学術用語で脇道にそれる必要はない。ただ、あなたはマインドのなかで知覚する世界の一部分としての個人をあなた自身だと想像していることを理解しなさい。そしてマインドを外側から見てみなさい。なぜなら、あなたはマインドではないのだから。結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に自己同一化することなのだ。この習慣を捨てなさい。あなたはあなたが知覚するものではないのだ。注意深く、超然と離れて在る力を使いなさい。あなた自身を生きているものすべてのなかに見なさい。そうすれば、あなたのふるまいはあなたの見解を表現するだろう。ひとたびこの世界にあなた自身のものと呼べるものは何もないと悟れば、あなたはそれをステージ上の劇やスクリーン上の画像を見るように外側から見る。賞賛し、楽しみながら、しかも実際には動じることのないままに。あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空間のなかに実際に存在し、短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、あなたは存続し、拡大していくことを切望するようになるだろう。だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうでなければすべてに遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅なるものだと知るとき、もはや恐れることは何もなくなるのだ。あるがままのあなたを知りなさい。ほかに恐れに対する治療法はない。
あなたはこの路線で考え、感じることを学ばなければならない。さもなければ、いつまでも欲望と恐れ、獲得と損失、成長と衰退という個人のレベルにとどまったままだ。個人的な問題はそれ自体のレベルにおいて解決することはできないのだ。幸せであろうと切望することは不幸の原則であるように、生きようとする欲望自体が死のメッセンジャーなのだ。世界は苦痛と恐れの、不安と絶望の大海だ。快楽は魚たちのように、わずかばかりまれにやってきては、たちまちのうちに去っていく。理解力の低い人たちは、あらゆる証拠にも反して彼だけは例外であり、世界が彼に幸福をもたらすことこそ当然だと信じている。だが、もっていないものを世界が与えることはできない。徹底的に世界は非実在であり、真の幸福のためには無用のものなのだ。そうであるほかないのだ。私たちが実在を求めるのは、非実在に苦しんでいるからだ。幸福が私たちの真の本性なのだ。そして、それを見いだすまで私たちはけっして休まないだろう。しかし、それをどこに求めればいいのかを知る人はごくまれだ。ひとたびあなたが、世界とは実在の錯誤した光景であり、それはそう現れたとおりのものではないと理解すれば、それに取りつかれることから自由となる。あなたの真の存在と一致するものだけがあなたを幸福にする。見てのとおり、世界は明らかにそれを完全否定するものなのだ。
ただ静かに在りなさい。そしてマインドの表層に現れるものを見守りなさい。既知なるものを受けつけず、まず未知なるものを歓迎しなさい。そして然る後に、それもまた拒否しなさい。このようにして、あなたは知識のない存在だけの状態に到達するのだ。そこでは存在自体が知識だ。在ること自体によって知ることが直接の知識なのだ。間接的な知識は記憶と感覚を根底とし、知覚者と知覚されたものとの関係の近さ、その二つの間の対比によって制限されてしまう。幸福においてもそれは同様だ。普通、喜びを知るために悲しみ、悲しみを知るために喜ばなければならないものだ。真の幸福には原因がなく、刺激がなくなっても消え去ることはない。それは悲しみと対立するものではない。それはすべての悲しみと苦しみを含むものなのだ。


質問者 こんなにも多くの苦しみに囲まれながら、どうやって幸福でありつづけることができるのでしょうか?


マハラジ それはどうすることもできないのだ。内なる幸福は圧倒的に現実のものだ。空の太陽のように、その現れが雲に隠れたとしても、けっして不在ではないのだ。


質問者 私たちが困難に在るとき、不幸となるのは避けられないことです。


マハラジ 問題はただ恐れだけだ。あなた自身を何にも依存しないものとして知りなさい。そうすれば、あなたは恐れとその影から自由になるだろう。


質問者 幸福と快楽との違いは何でしょうか?


マハラジ 快楽はものに依存している。幸福は依存しない。


質問者 もし幸福が依存しないものなら、なぜ私たちはつねに幸福ではないのでしょうか?


マハラジ 幸福となるためにものが必要だと信じているかぎり、ものの不在によって不幸になるに違いないと信じることだろう。マインドはそれが信じることにしたがって形づくられるのだ。それゆえ人は、幸福になろうと駆りたてられる必要はないのだと確信することが重要なのだ。その反対に、快楽は混乱と厄介者であり、幸福になるには何かをもち、何かをしなければならないという偽りの確信を、単に増長するだけなのだ。しかし、なぜ幸福について話さなければならないのか? 不幸であるとき以外、幸福について話したりはしない。「私は今幸せです」と言う人は、過去と未来という二つの不幸の間にいるのだ。この幸福は苦痛から解放されたことによる単なる興奮にすぎない。真の幸福とは、まったく自己意識のない状態だ。それがもっとも良く表されるのは否定によって、「何も私には間違ったところはない。私には何も心配することがない」と言うことだ。結局、すべてのサーダナの最終的な目的は、この確信が言葉上のものでなく、実際の常在の体験を根底にした地点に到達することなのだ。


質問者 どの体験でしょうか?


マハラジ 空として在ることの体験だ。記憶や期待で混乱していない、開かれた空間の、若々しい、すべての時間とエネルギーを発見や冒険のために得たような幸福だ。


質問者 発見するための何が残されているというのでしょうか?


マハラジ 実在のなか、そして神の偉大なマインドとハートのなかに存在する、外なる宇宙と内なる無限の空間の広がりだ。存在の意味と目的、苦しみの秘密、人生の無知からの救済だ。


質問者 もし幸福であることが恐れと心配からの解放であるなら、困難の不在が幸福であると言えるのではないでしょうか?


マハラジ 不在、非存在の状態は原因とはなりえない。ある原因が前もって存在するということは、それが観念のなかに暗黙のうちに含まれていたことを意味するのだ。何も存在しないあなたの自然な状態のなかに、成ることの原因はありえない。原因は偉大で神秘的な記憶の力のなかに秘められている。しかし、あなたの真の住処はすべての内容物が空っぽの、無のなかにあるのだ。


質問者 空っぽと無──なんと恐ろしい!


マハラジ あなたは眠るとき、喜んでそれにであうのだ! 目覚めた眠りの状態をあなた自身で見いだすがいい。そうすれば、それがあなたの真の本性と完全に調和していることを知るだろう。言葉はあなたに概念しか与えられない。そして概念は体験ではないのだ。私に言えることはただ、幸福には何の原因もなく、原因のないものは不動だということだ。それは快楽のように知覚可能なものではない。知覚可能なものは苦痛と快楽なのだ。不幸から解放された状態は否定を通してしか描写できない。それを直接知るには、因果律に耽溺したマインドと時間の支配を超えていかなければならないのだ。


質問者 もし幸福が意識ではなく、意識が幸福ではないのなら、それら二つの間のつながりは何なのでしょうか?


マハラジ 意識的存在は条件と環境の産物であり、それらに依存し、それらとともに変化する。独立し、創造されたものではなく、永遠で不変のもの、しかもつねに新しく新鮮なものはマインドを超えている。それについて考えるとき、マインドは消え去り、ただ幸福だけが残るのだ。


質問者 すべてが去った後、無が残るのです。


マハラジ 何もないところに無がありうるだろうか? 無とはひとつの概念にすぎない。それは何かの記憶に依存しているものだ。純粋な存在は、定義可能で描写可能な存在から完全に独立しているのだ。


質問者 どうか教えてください。マインドを超えても意識は継続するのでしょうか、それともマインドとともに終焉するのでしょうか?


マハラジ 意識は来ては去っていく。気づきは永遠不変に輝くのだ。


質問者 気づきの中で気づいているのは誰でしょうか?


マハラジ 個人がそこにいるとき、意識もまたそこにある。「私は在る」、マインド、意識はどれも同じ状態を表している。もしあなたが「わたしは気づいている」というなら、それは「わたしは気づいていることについて考えていることを意識している」という意味だ。気づきの中に「私は在る」はない。


質問者 観照はどうでしょうか?


マハラジ 観照はマインドのものだ。観照者は観照されるものとともに在る。非二元性の状態のなかでは、すべての分離がやむのだ。


質問者 あなたはどうなのでしょうか? あなたは気づきのなかに在りつづけるのでしょうか?


マハラジ 個人、「私は身体だ」、このマインド、この記憶の連鎖、この一束の欲望と恐れは消え去る。だが、アイデンティティと呼ばれる何かはそのまま残る。それは必要とされるとき、私が個人となることを可能にするのだ。愛はそれ自身の必要性をつくり出すのだ。ひとりの個人と成ることさえも。


質問者 実在はそれ自体を存在─意識─至福として現すと言われています。それらは絶対的なものでしょうか、それとも相対的なものでしょうか?


マハラジ それらは互いにとって相対的であり、相互に依存している。実在はその表現とは別なのだ。


質問者 実在とその表現はどのような関係にあるのでしょうか?


マハラジ 何の関係もない。実在のなかではすべてが真正で同一なのだ。それは、私たちが「サグナ(顕現)とニルグナ(非顕現)はパラブラフマン(至高の実在)のなかでひとつだ」と表現するのと同じだ。ただ至高なるものだけが存在するのだ。運動のなかでは、それはサグナであり、不動においては、それはニルグナなのだ。だが、動いているのは、あるいは動かないのはマインドだけだ。実在は彼方にあり、あなたも彼方にあるのだ。ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものはあなた自身ではありえないと理解するならば、あなたはあなたの想像から自由になる。すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、真我の実現に必要不可欠なのだ。私たちは注意の欠如から実在を失い、過剰な想像から偽りを生みだすのだ。あなたはこれらのことにマインドとハートを捧げ、繰り返し熟考しなければならない。それは食べ物を料理するようなものだ。用意ができるまでは、それを火にかけておかなければならないのだ。


質問者 私は運命、カルマに支配されているのではないでしょうか? それに対して何ができるのでしょうか? 私が何であるのか、何をするのかは前もって決められているのです。私のいわゆる自由選択さえも先決されているのです。ただ私が気づかず、自分は自由だと想像しているだけなのです。


マハラジ またしても、それはあなたがどう見るかにかかっている。無知とは熱のようなものだ。それはあなたにそこにはないものを見させる。カルマとは神の力によって処方された治療法なのだ。それを歓迎し、その指導に信頼をもってしたがうがいい。そうすればあなたは良くなるだろう。回復すれば患者は病院を去っていく。選択と行為の即座の自由をせがむことは、単に回復を延長させるだけだ。運命を受け入れ、それを満たすがいい。これが運命からの自由への近道なのだ。だが、愛とその欲求からの自由ではない。欲望と恐れから行為することは束縛だ。愛から行為することが自由なのだ。


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あなたが誰であるかはわたしにはどうでもいいことです。あなたの人生が平凡であろうが華やかであろうが、どうでもいいことです。金持ちだろうが貧乏だろうが精神病だろうが変わり者だろうがかまいません。ただひとつ、わたしにとって何よりも大事なことがあります。それは、あなたが意識の共同創造者として創造に責任を持つのか、それとも無力なふりをして自分以外のものが意識を創造していると思い込みつづけるのか、です。


自分もともに意識を創造しているのだと認めるにはそれなりの精神的な成熟が必要です。自己憐憫と傲慢さに満ちた環境を創り出して、その中を偏狭な精神で動き回り、自分のちっぽけな悩みにどっぷりつかって生きていくこともできます。または、自分の状況がどんなものであれ、別の選択が可能なのだと考えることもできます。その状況の真っ直中で、生き生きとダイナミックに創造性と愛情と親切心に満ちて自分やまわりの人たちを助けながら生きていくのかどうか、ということです。
自分の思考習慣に責任を持ってください。


別の言葉で言えば、人生がどんなにつらくてひどいみじめなものであっても、これと同じ基本法則があてはまるということです。あなたの心や頭のなかでどんな感情が起こり、どんな争いが起こっていても、あなたの行動がどんなものであっても、内なる神はそれぞれの瞬間を利用することができます。ただ、神にまかせるのだという気持ちを持っていなくてはなりません。そして神にそうするように頼むのです。


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マハルシ 「存在」はどの場合においても実在です。万象、多様性、個人は非実在です。それゆえ、実在と非実在の統合、混同、偽りの同一化もまた誤りなのです。それはサッド・アサッドヴィラクシャナ、つまり実在と非実在(サットとアサット)を超越することです。実在は神を含めたすべての概念を超越するものです。「神」という名称が使われているかぎり、それは真実ではありえません。ヘブライ語のエホヴァ=「私は在る」(I AM)という表現は神を的確に表しています。絶対なる存在は描写を超えているのです。

(対話112)


体の死は、眠りに入るのに似ている。スピリットが魂を呼びよせると、魂は「シール」、あるいは「チャクラ」と呼ばれている体の中のエネルギー・センターを通りながら上昇していく。魂とは記憶であるが、それは、頭の中心に位置する最後のシールである第七シール、すなわち脳下垂体と呼ばれる部分を通って体の細胞組織から離れていく。魂がここを通過するとき、しばしば風の音を聞きながらトンネルを通過するような感じとして体験される。トンネルの向こうに見える光が、あなたの存在の光、あなたの存在のスピリットである。魂が体を離れると、体はその役目を終え、その存在は自由な「魂としての自分」になる。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みはまったくない。


死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいほど明るくなってくる。なぜなら、この天界から去る瞬間、あなたは物質の濃密さから抜け出し、光の存在に戻るからだ。そこでのあなたは強力なマインドと感情だけの存在で、光の体があなたの体となる。そして、自分の光の体を通して受け容れた思考によって、その電気的な状態が変わるのである。そこからは、あなたは七つの天界のうちのひとつに行くことになる。あなたがどの天界に行くかは、この天界にいたときに感情的に表現されていた態度によって決まるのである。


「気づき」あるいは「意識の理解レベル」にも、七つの段階がある。その七つの理解とは、「生殖と生存」、「恐れと苦痛」、「力」、「感じる愛」、「表現する愛」、「すべての生命の中に見える神」、そして「私は神である」だ。


この天界、この天国は、「見せる天界」と呼ばれている。なぜならここでは、自分の創造的な力、そして感情という形で表現している自分のどんな態度であろうと、それらを物質の中に見ることができるからだ。この天界は、七つの中でただひとつ、暗闇がその上をおおっている天界であり、光の音楽を耳にできないただひとつの天界でもある。ここに生まれてくる存在たちは、偉大なる「知っている状態」から生まれてきながらも、結局は、社会意識のプログラミングを受けて「何も知らない状態」へと追いやられてしまうのだ。それがここで起こることである。そして、この天界で先に進むのがしばしば非常に困難なのも、やはりこのためである。


あなた方のこの時代は終わりを迎えようとしている。それは「肉体の時代」であった。新しい時代はすでに地平線上にその姿を見せつつある。それは「光の時代」、「純粋なスピリットの時代」、「神の時代」と呼ばれるものだ。すべては平等であり、天の王国はつねに自分の中にあったのだということを人間が知っている時代である。「光の時代」は、人間を無限の思考へと、そしてただ在ることの愛と喜びと自由という崇高な王国へと連れ戻してくれるだろう。この新しい王国そのものになる者たちは、人間の中でも将軍や暴君たちではなく、平和の布告者であり、制限というよどみを超えてこのように言う者たちだ。「私は神であり、自分が見るものすべてを愛する。なぜなら、私は自分が見るものすべてであり、私は自分であるものを愛しているからだ」と。この理解に到るそれぞれの者は、自らのたったひとつの光によって、意識全体を上昇させることになる。そして、あなた方は叡智という真珠で豊かに満たされ、ひとりずつ無限の状態へと戻っていくのだ。そしてその叡智によって、あなた方はそれから先の永遠の中で、さらに賢く創造していくことができるのである。


自分は神であるすべてを受け容れるに値するのだと感じられるほど自分自身を愛するとき、そして自分が「父」とひとつであるのを知ることを望むとき、あなたはこのすばらしい花を咲かせ始める。これが、神のマインドの中にあるすべての思考を受け取るために、あなたが自分の脳の力を開く方法なのだ。つまり、知りたいと望むことによって、そしてその「知っている状態」の感情をすべて感じたいと望むことによってである。


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質問者 幸運にも、全人生において私は聖者との交わりをもってきました。それは真我の実現のために充分でしょうか?


マハラジ それは、あなたがそれから何をつくり出すかによる。


質問者 サットサン(聖者との交わり)のなかで起こる解放への働きは自動的なものだと聞きました。川が人を入り江まで運ぶように、善き人びとの深遠な沈黙の影響が私を実在へと導くのです。


マハラジ それは川まであなたを連れていくだろう。しかし、川を渡るのはあなた自身なのだ。自由への意志なしには、自由を獲得することも維持することもできない。解放に向かってあなたは努力しなければならない。最小限あなたにできることは、入念に障害の覆いを取り除くだけだ。もしあなたが平和を求めるのなら、努力しなければならない。ただ静かにしているだけでは、平和は得られないだろう。


質問者 子供はただ成長します。彼は成長のための計画を立てません。パターンももってはいませんし、こちらの手、あちらの足というように、部分的に成長するわけでもありません。彼は完全な形で、無意識のうちに成長するのです。


マハラジ なぜなら、彼は想像から自由だからだ。あなたもまたそのように成長することができる。しかし、記憶や期待から生まれた予測や計画に熱中してはならないのだ。未来に関心がないこと、それがジニャーニ(賢者)の独自性のひとつなのだ。あなたの未来への関心は苦痛への恐れと、快楽への欲望によるものだ。ジニャーニにとってはすべてが至福だ。彼は何が来ようとも幸せなのだ。


質問者 ジニャーニでさえ惨めになるような、多くのことがかならずあるはずです。


マハラジ ジニャーニは困難に遭遇するかもしれない。しかし、それが彼を苦しめることはない。子供を誕生から成人まで育て上げることは困難な仕事かもしれない。しかし、母親にとっては苦難の思い出も喜びなのだ。世界には何の間違いもない。誤りはあなたの見方にあるのだ。あなたを惑わせるのは、あなた自身の想像だ。想像なしには世界もない。あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。あなたが知覚している世界は意識でできている。あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。あなたは永遠に続く時間だ。あなたはそれに生命を与える愛なのだ。想像と執着を切り落としなさい。すると、何が残るだろうか?


質問者 世界が残り、私が残ります。


マハラジ そのとおりだ。だが、あなたが欲望と恐れのスクリーンを通して見ず、あるがままに見るとき、何と違うことだろう。


質問者 実在と幻想、智慧と無知、聖人と罪人、これらすべての区別は何のためにあるのでしょうか? 誰もが幸福を探し求めています。誰もが必死になって努力をしています。誰もがヨーギであり、彼の人生は智慧の学校なのです。各人が各々の方法で、必要な教訓を学んでいるのです。社会はある者たちを認め、ほかを否認します。どこでも、いつのときにでも適応する法則というものはないのです。


マハラジ 私の世界では、愛が唯一の法則だ。私は愛を求めず、ただ与えるだけだ。それが私の本性なのだ。


質問者 あなたはパターンにしたがって毎日を生きています。朝には瞑想のクラス、講話と討論を定期的にもっています。一日に二度、礼拝(プージャ)があり、夕方には宗教的な献歌(バジャン)があります。あなたは一日の課程を綿密に固守しているようです。


マハラジ 私の見るかぎり、礼拝や献歌に関しては、私が干渉する理由はない。一般的な日課は、私がともに生活するようになった人びとや、話を聞きに来る人たちの要望に応えたものだ。彼らは働いている人たちで、多くの義務があり、時間の調整は彼らの都合に合わせている。いくつかの繰り返し課程は避けられない。動物や植物でさえ、彼らの時間割をもっているのだ。


質問者 そうです。私たちは生命すべてに規則的な順序を見ます。誰がその秩序を維持しているのでしょうか? そこには法をしき、秩序を守らせる内なる支配者がいるのでしょうか?


マハラジ すべてはその本性にしたがって動くのだ。どこに警察の必要があるだろう? あらゆる行動は反応を生み出し、それが行動を中立化させ、バランスを取る。すべては起こる。だが、そこには絶え間ない取り消しがある。そして最後には、あたかも何も起こらなかったかのようになるのだ。


質問者 最終的な調和で私をなだめようとしないでください。勘定は合っても、損失は私のものなのです。


マハラジ 見ていなさい。最後にあなたは支出を正当化するに充分なだけの利益を得るかもしれないのだ。


質問者 私には長い過去があり、しばしばその多くの出来事が偶然起こったのか、それともひとつの計画によるものなのかと不思議に思うのです。私が生まれる以前に、生きるべき人生のパターンが定められているのでしょうか? もしそうならば、誰がその計画をつくり、誰がそれを強制したのでしょうか? そこに逸脱や誤りはありうるのでしょうか? ある人は、運命は変えられないもので、あらゆる瞬間があらかじめ決定されていると言います。ほかの人たちは、純粋な偶然がすべてを決定するのだと言います。


マハラジ あなたの好きなように受け取るがいい。人生のなかにひとつのパターンを判別することはできるだろうし、単なる偶然の連鎖を見ることもできる。説明とはマインドを喜ばすためにあるのだ。それらが真実である必要はない。実在は定義不可能であり、描写不可能なものだ。


質問者 あなたは私の質問を避けています! 私はあなたがどう見ているのかが知りたいのです。私たちは、どこを見ても信じがたいほどの知性と美を見いだします。どうして私に宇宙が無形で混沌としていると信じることができるでしょうか? あなたの世界、あなたが住んでいる世界は無形かもしれませんが、混沌としている必要はないはずです。


マハラジ 客観的な世界には構造があり、秩序をもち、美しいものだ。誰もそれを否定できない。だが構造と様式は、そこに強制と拘束があることを暗示しているのだ。私の世界は絶対的に自由だ。そのなかのすべてが自己決定するのだ。それゆえ、私はすべてがひとりでに起こると言いつづけているのだ。私の世界にも秩序がある。しかし、それは外側から押しつけられたものではない。それはその永遠性によって自発的に即座に起こるのだ。完全性は未来にあるのではない。それは今在るのだ。


質問者 あなたの世界は私の世界に影響を与えますか?


マハラジ 今という一点においてだけだ。それは一時的な存在、つかの間の実在の感覚をそれに与えるのだ。完全な気づきのなかでその接点は確立される。それには努力を要しない非自意識の注意力が必要なのだ。


質問者 注意とはマインドの態度なのではありませんか?


マハラジ そうだ。マインドが実在を熱望しているとき、それは注意を与えるのだ。あなたの世界には何の間違いもない。あなた自身がそれから分離していると考えることが無秩序を生みだす。利己主義がすべての悪の源なのだ。


質問者 私の質問に戻ります。私が生まれる前に、内なる自己が人生を詳細にわたって決定するのでしょうか、それとも完全に偶然のものであって、遺伝と環境のなすがままなのでしょうか?


マハラジ 父親と母親を選択し、つぎの生をどのように生きるかを決定したと宣言する者たちが知っているかもしれない。私自身に関して言えば、私はけっして生まれてこなかったのだ。


質問者 あなたが私の前に座って質問に答えているのを私は見ていますよ。


マハラジ あなたの見ているのは身体だけだ。もちろん、それは生まれてきたし、死ぬだろう。


質問者 私に興味があるのはこの「身体─精神」の人生の物語です。それはあなたによって定められたのでしょうか、それとも誰かほかの人によるのでしょうか、あるいはそれは偶然起こったのでしょうか?


マハラジ あなたの質問自体に策略がある。私は身体と宇宙の間に区別をつけはしない。それぞれが互いの原因であり、互いは真実においてひとつなのだ。だが、私はそのすべての外にいる。私はけっして生まれてこなかったと言っているときに、なぜ私がつぎの生のためにどのような準備をしてきたかといった質問をするのだろうか? あなたが想像を展開させることを許した瞬間、それはただちに宇宙を紡ぎだすのだ。それはあなたが想像するようなものではまったくない。そして、私はあなたの想像には拘束されないのだ。


質問者 命ある身体を育て、維持するには、知性とエネルギーが要求されます。それらはどこから来るのでしょうか?


マハラジ そこには想像があるだけだ。知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされてしまった。あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなってしまったのだ。想像が豊かな創造力であることに疑いはない。宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のなかにあり、実際には存在しないのだ。


質問者 最近私が読んだ記事に、幼年期に残酷に扱われた少女の話があります。彼女はひどく身体を傷つけられ、不具にされ、完全に周囲から疎外されて孤児院で育ってきました。この少女はもの静かで従順ですが、完全に無関心なのです。子供たちの面倒を見ていた尼僧のひとりは、少女は知的障害ではなく、ただ引きこもり、無反応なだけなのだと確信しました。ひとりの精神分析医が治療を頼まれ、一週間に一度面会し、二年間にわたって孤立の壁を打ち破ろうと試みました。彼女は従順で行儀正しいのですが、医師に注意を向けませんでした。彼は彼女におもちゃの家を与えました。移動可能な家具や部屋、父親や母親、そして子供たちの姿の人形を添えて。それが彼女の反応を引き起こし、興味をもたらしました。ある日、古傷が回想され、よみがえり、表層に呼び起こされたのです。次第に彼女は回復し、何度かの手術によって顔と身体は正常な状態に戻りました。そして彼女は有能で、魅力的な若い女性へと成長したのです。それは医師にとって五年以上の歳月を要しました。しかし、仕事は為されたのです。彼は真のグルです! 彼は何の条件も押しつけず、用意や適性についても話しませんでした。信頼も希望もなしに、ただ心からの愛をもって何度も何度も試みたのです。


マハラジ そうだ。それがグルの本性なのだ。彼はけっしてあきらめない。しかし、成功するためには、彼はあまり強い抵抗を受けてはならないのだ。疑いや不服従は遅れを余儀なくしてしまう。自信と従順さを与えることで、彼は弟子のなかに革新的な変化をもたらすことができる。グルの深い洞察と弟子の誠実さ、その両方が必要とされるのだ。彼女の状態がどのようなものであろうと、あなたの話のなかの少女は、人びとの誠実さの欠如に苦しんだのだ。もっとも難しいのが知的な人びとだ。彼らは多くを語るばかりで誠実ではないからだ。
あなたが真我の実現と呼ぶものは自然なことだ。あなたの用意が調ったとき、グルは待っている。サーダナ(修練)は努力を要しないものだ。あなたと師の関係性が正しいとき、あなたは成長する。何よりも、彼を信頼することだ。彼があなたを惑わすことはないのだ。


質問者 たとえ、彼が明らかに間違ったことをするように要求したときも信頼すべきでしょうか?


マハラジ そうしなさい。ひとりの隠遁者(サンニャーシン)がグルから結婚をするようにと言われた。彼はそれに従い、苦渋を味わった。しかし、彼の四人の子供たちは皆、マハーラーシュトラ州のもっとも偉大な聖者や賢者となったのだ。何であれあなたのグルから来るものは、喜びとともに受け取りなさい。そうすれば、あなたは努力することなく完成へと成長するだろう。


質問者 師よ、何か欲しいものや望みがありますか? 何かあなたのためにできることがあるでしょうか?


マハラジ 私のもっていない何を与えることができるというのだろうか? 物質的なものは満足をもたらすために必要だ。だが、私は私自身に満足しているのだ。ほかに何が必要だというのだろう?


質問者 もちろん、空腹のときには食べ物が、病気のときには薬が必要です。


マハラジ 空腹が食べ物を、病気が薬をもたらすのだ。それはすべて自然の仕事だ。


質問者 もしあなたにとって必要だと私が信じるものをもってきたならば、あなたは受け取るでしょうか?


マハラジ あなたに差しださせたその愛が、私をして受け取らせるだろう。


質問者 もし誰かが美しいアーシュラムを建設すると願い出たならどうしますか?


マハラジ 彼にぜひそうさせるがいい。富を使い、何百もの人を雇い、何千人に食事を供させるがいい。


質問者 それは欲望ではないのでしょうか?


マハラジ まったくそうではない。私は彼に適切に、中途半端ではなく、惜しむことなくするように頼むだけだ。私の欲望ではなく、彼が彼自身の欲望を満たしているのだ。彼に成功させ、人や神々のあいだで名を挙げさせるがいい。


質問者 しかし、あなたはそれを望んでいるのでしょうか?


マハラジ 私はそれを望んではいない。


質問者 あなたはそれを受け入れるのでしょうか?


マハラジ 私には必要ないのだ。


質問者 あなたはそのなかに住むでしょうか?


マハラジ もし強要されたならば。


質問者 何があなたを強要するのでしょうか?


マハラジ 光を探し求めている人たちの愛だ。


質問者 ええ。あなたの言われることがわかります。ところで、どうすれば私はサマーディ(三昧状態)に入れるのでしょうか?


マハラジ もしあなたが正しい状態にいれば、何であれ見るものがあなたをサマーディに引き入れるだろう。結局、サマーディは特別な状態ではないのだ。マインドが強烈に興味をもっているとき、それは興味の対象とひとつになる。見る者と見られるものは、見ることのなかでひとつとなり、聞く者と聞かれるものは、聞くことのなかでひとつとなり、愛する者と愛されるものは、愛することのなかでひとつとなる。あらゆる体験がサマーディの根底となるのだ。


質問者 あなたはつねにサマーディに在るのでしょうか?


マハラジ もちろん、そうではない。サマーディは、要するにマインドの状態なのだ。私はすべての体験を超え、サマーディさえも超えている。私は偉大な貪り食う者、破壊者だ。何であれ私が触れるものは虚空(アーカーシュ)のなかへと消え去るのだ。


質問者 私は真我実現のためにサマーディが必要なのです。


マハラジ あなたはあなたに必要な真我実現のすべてを手にしている。だが、それを信頼していないのだ。勇気をもちなさい。あなた自身を信頼しなさい。行き、話し、行為しなさい。それ自体が証明する機会を与えるがいい。ほとんど気がつかないほどの真我の実現が起こるかもしれない。だが、とにかくそれには確信が必要なのだ。変わったにもかかわらず、それに気づかないでいる。そのような劇的ではない場合のほうが、しばしば、もっとも信頼のおけるものなのだ。


質問者 人は自分が真我を実現したと信じたり、誤解したりすることができるのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。「私は真我を実現した」という考えそのものが過ちだ。自然な状態のなかには、「私はこれだ」、「私はあれだ」といった考えはないのだ。


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質問者 瞑想はプラティーカム(イメージ、象徴)があれば容易なのですが、真我探究にはプラティーカムがありません。


マハルシ 深い眠りの状態を考えてごらんなさい。あなたはそのとき存在していました。そこにどんなプラティーカムがあったでしょうか? ですから、プラティーカムがなくとも真我を実現することはできるのです。

(対話482)


マハルシ 「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の問題です。それらに独立した実体としての存在はないのです。そのことを調べてみなさい。


修練は、想念に乱されるたびに心を真我の内に引き戻すことにあります。それは精神集中でも心の破壊でもなく、真我の内に心を引き戻すことなのです。

(対話485)


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自分の望みを物質世界で実現することがじょうずな人は、現実的な目標をたて、状況に応じて柔軟に対応していくことを学んでいます。


柔軟性ということの意味を知りたいなら、風のなかの若木をごらんなさい。幹は細くもろくても、すばらしい強靭さと耐久性をもっています。それは木が風にさからうのではなく、それに合わせて動くからです。


あることの起きる条件が整っていれば、たいした努力なしに実現します。条件が整っていなければ、たいへんな努力をしても実りません。風とともに動くには、現在の条件に対する敏感さがいります。休んで英気をたくわえるときがあり、エネルギッシュに前進するときがあっていいのです。


いつ動き、いつ動くべきでないかは、常識と直感の問題です。抽象的な思考だけでは、ほんとうにものごとを感じとることはできません。抽象思考は、感情の敏感さと結びつくべきです。


ものごとを正確に見極めるには、外的な状況がどんなふうで、どう動いているかだけでなく、自分がその状況にどんな感情を投影しているかも見極めねばなりません。内的現実、外的現実のどちらも視野にいれます。


内的現実が外的現実のそれを決定するのだ、という人がいます。逆だという人もいます。どちらも真実です。ニワトリは、卵がなければ存在しないし、逆もまた真です。原因と結果は直線的に結ばれるものでもないし、こうなればこうなる、と次々ドミノ倒しのようにつながっていくものでもありません。それは同時にあらわれます。本質は円環的なのです。原因が結果を決めるだけでなく、結果も原因を決めます。


「ニワトリか卵か、どちらが先か」という問いに対する答えは、どちらでもあるし、どちらでもない、ということです。ニワトリと卵は同時存在です。「Aか、さもなければAでないか」という問いはすべて同じように答えられます。そうでなければ、その答えはまちがっています。


”至高のリアリティ”とは、AでなければBであるというような二極性の枠ではとらえられません。それは内なる主観的現実と、外なる客観的現実の両方を含み、また両者の自発的な相互作用を含んでいます。


”至高のリアリティ”は、全的な受容、全的な降伏、全的なすべてを受けいれる愛の産物です。そこにふくまれないものはありません。


木が根こそぎひきぬかれ、川に流されたとしても、そこに悲劇はありません。木と川のあいだには、なんの差異もないからです。


”至高のリアリティ”の流れと対照的に、世の中には”抵抗”というものがあり、これがさまざまの条件づけを生みだします。弁別、比較、評価判断が起き、自然の流れが妨げられます。


”至高のリアリティ”の本質は「イエス」と言うことです。それにはもともと陶酔と熱狂がそなわっています。それは、あらゆるものごとを吸収同化します。それは目に見えるようになった幸福です。すべての人、すべてのものを、自分自身とみなすからです。


”抵抗”はつねに「ノー」と言います。それは本来、葛藤や努力をともなっています。あらゆるものに反対しますので、不幸の具現化ともいえます。抵抗がないとき不幸はありません。不幸はつねに、なんらかの条件に対して抵抗します。不幸は、これは良いという解釈、あるいは悪いという解釈の上に立っています。不幸の根とは、執着、こだわりです。


さて、わたしはあらゆる執着を捨てなさいと言っているわけではありません。友よ、それは現実的に達成できるゴールとはいえないでしょう。ただ、自分の執着、ものごとの感じかた、良い悪いという解釈方法に気づきはじめてください。あなたが自分の幸福をいかに条件つきのものにしているかに、気づいてほしいと求めているのです。


無条件というものを理解したければ、風に身をゆする木を見なさい。あれ以上の比喩はありません。木は深く根をはり、がっしりと枝をひろげています。足もとは確固とし、上のほうは柔軟です。それは力強さと、ゆだね、あけわたすことのシンボルです。


柔軟性を人生のあらゆる状況において発揮することによって、あなたもまた同じような力強さを発達させることができます。背筋をのばして立ち、この瞬間に根ざしていてください。自分の欲しているものを知り、しかし、それらをむりやりに求めるのではなく、人生の流れがおのずとそれをかなえてくれることを知りなさい。あなたの欲しいものを、ある方法で手に入れるということに執着してはなりません。それは、不必要な抵抗をもたらします。


風とともに動くのです。人生はダンスです。動きであり、持続です。


あなたの選択は簡潔です。ダンスできるか、できないか。
ダンスをしないことに決めても、ダンスフロアから追い出されるわけではありません。ダンスはあなたのまわりで、くりひろげられ続けています。ダンスは続き、あなたもその一部です。


あらゆる条件は、無条件という状態に対して開かれています。ただ自分をオープンにして、この瞬間の中にいれば、神の腕の中に抱きとめられるでしょう。しかし一瞬でも抵抗すれば、自分で作り出した不必要なもつれに絡まってしまいます。


人間は条件つきの現実(リアリティ)から自由になることはできません。なぜなら、条件つきの現実は、人間の意識が創造したものだからです。自分の創造物から逃げようとするのをやめてください。ただ受けいれるのです。木が風を受けいれるように。あなたの聖性は、完全に人間らしくあること、
自分や他人の欠乏や欲求を完全に受けいれる態勢になることのなかにあります。
深いあわれみの気持ちは、自分を感情的体験から切り離してしまうのでなく、完全にその体験に参加することによってのみ持つことができます。


「ここは苦しみの場所だ、あるいは喜びの場所だ」とは言わないでください。あなたの体験を、実際とはべつのものに仕立てあげないでください。解釈から遠ざかりなさい。解釈は、人生のどちらかいっぽうの極をだけ受けいれるよう、うながすのです。


この世界でのわたしの経験も、あなたがたと同じでした。わたしはあなたがたと同じように、人生のダンスの中へ入ってゆき、理解と受容のなかで成長し、条件づけられた愛から、条件なき愛の経験へと移行してゆきました。愛する兄弟姉妹よ、あなたがたが感じたり経験したりしたもので、わたしが味わわなかったものはありません。わたしはあらゆる欲望と恐怖心を知っています。それらすべてを通りぬけたからです。


わたしもあなたと同じ程度のダンサーです。わたしはそこに参加し学びたいと、喜びいさんで願っただけです。わたしがあなたがたに求めるものも、それだけです。喜びいさんでおこなってください。参加してください。触れ、触れられてください。そのためにこそ、あなたがたはここにいます。


ハートは開くとき、愛に満たされています。奇蹟は、開いているハートに、そしてコントロールしたい、知りたいという欲求をあけわたした心(マインド)に、自然にやってきます。


神の一部であるあなたに、神が供給をさしひかえることはありえません。あなたを分離した別存在として見ることはありません。親が子どもを見るように、ゆるぎない愛と関心をもってあなたを見守ります。


たったいま、この瞬間に、あなたは救われます。覚えておきなさい、友よ。たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい。
「わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」


もし答えが「イエス」なら、あなたはハートに”聖なる存在”のぬくもりを感じます。答えが「ノー」なら、あなたの意識がその”聖なる存在”のことを思い出させ、あなたをそちらへつれてゆきます。


いま現在の瞬間に対してオープンになれると、心と経験の中にある”聖なる存在”に気づく回数も多くなります。この拡大した意識の内部で、あなたという個人の目的も明らかになり、自分と他人にとって最善のことをするにはどうすればよいか、その道も見えてくるでしょう。


ある環境が、あなたの目の前にあらわれてきます。見かけは混乱したものかもしれませんが、あなたはもう、判断をくだすことはありません。あなた自身にも他人にも、もはや不備な点は見いだせません。いまここにある状況に全面的に身をあけわたすようになり、ベストをつくし、自己放棄の力強さのなかにゆったり安らぎます。あなたは結果をますます神の手にゆだねるようになり、贈り物はつねに受けとるにふさわしいものだということがわかります。あなたの贈り物は、つねに十分なものです。


そのときあなたは、わたしのまことの姿を見るでしょう。わたしはそれを確信し、大きな喜びをもって、その瞬間を待ちのぞみます。それは真理の瞬間だからです。それは分離の終わりです。それはあらゆる苦しみの終わりです。


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質問者 マインドの最高の力は、理解、知性、そして洞察です。人は三つの身体をもっています。粗大身、微細身、原因身* (プラーナ、マナ、カラナ)です。粗大身は彼の存在を反映し、微細身は知識を、原因身は喜びに満ちた創造性を反映します。もちろん、これらは意識のなかで形成されたものです。しかし、それらは各々の特質をもって、分離しているように見えます。知性(ブッディ)はマインドのなかでの知的能力の反映です。それがマインドを知識あるものにするのです。知性がより優れるほど、知識はより広く、深く、真正になります。ものごとや人を知ること、そして自己を知ることは、すべて知性の機能なのです。最後のものがもっとも重要で、前の二つを含んでいます。自分自身や世界を誤って理解することは、不正な考えや欲望をもたらし、それがまた束縛となります。自己への正しい理解が、幻想である束縛からの解放に欠かせません。これらすべてを理論としては理解できるのですが、実際問題となると、私は状況や人びとへの対応に失敗し、私の不適切な反応が束縛をさらに加えるばかりなのです。人生は私の鈍く、遅い思考にはあまりにも速く進みます。古い習慣がすでに繰り返された後で私は理解するのですが、遅すぎるのです。


* 訳注 粗大身、微細身、原因身
粗大身はストゥーラ・シャリーラと呼ばれ、一番外側の身体、肉体を表す。微細身はスークシュマ・シャリーラと呼ばれ、知的な働きをする身体を表す。原因身はカーラナ・シャリーラと呼ばれ、内面的な身体を表す。ヒンドゥー教の教義においては、これら三つの身体をトリ・シャリーラと呼んでいる。


マハラジ それでは、あなたの問題とは何かね?


質問者 私には知性だけではなく、人生で起こる出来事に即座に対応できる能力が必要なのです。そしてそれが完全に自発的でないかぎり、即座とは言えません。どうすれば、そのような自発性を達成できるのでしょうか?


マハラジ 太陽を引きつけるために鏡にできることは何もない。それはただ輝きつづけるだけだ。マインドが用意できしだい、太陽はそのなかで輝くのだ。


質問者 その光は、真我のものでしょうか、あるいはマインドのものでしょうか?


マハラジ 両方だ。光はそれ自身原因をもたず、変化もしない。マインドが動き、変化するにしたがって、それは色づけされる。それは非常に映画に似ている。光はフィルムのなかにはないが、フィルムが光に色づけをし、それを遮ることによってあたかも動いているように見せるのだ。


質問者 あなたは今、完全な状態に在るのでしょうか?


マハラジ 完全とはマインドが純粋なときの状態だ。状態が純粋であろうと、不純であろうと、何であれ、私はマインドを超えている。気づきが私の本性なのだ。究極的には、私は存在も非存在も超えている。


質問者 あなたの状態に到達するには瞑想が役立つのでしょうか?


マハラジ 瞑想はあなたの束縛を見いだし、それらを緩め、解き、自由にする。もはや何にも執着しなくなったとき、あなたの分の仕事は終わったのだ。残りはあなたのために自然に為される。


質問者 誰によってでしょうか?


マハラジ あなたのマインドを探求させ、ハートが真理を求めるよう促す地点まであなたを連れてきた、その同じ力によってだ。その同じ力があなたを生きさせているのだ。それを生命、あるいは至高なるものと呼ぶがいい。


質問者 同じ力がやがて私を殺すのです。


マハラジ あなたは誕生のとき、存在していなかっただろうか? 死が訪れるときも、存在しているのではないだろうか? つねに存在するその人を見つけだしなさい。そうすれば、あなたの自発的で完全な反応に関する問題も解決するだろう。


質問者 永遠を実現することと、つねに変化しつづける出来事への努力を要しない適切な反応は、二つの異なった別々の問題です。あなたはどうやらその二つをひとつにまとめてしまったようですが、何があなたをそうさせるのですか?


マハラジ 永遠を実現することは永遠、全体、宇宙、そしてそれらを含むすべてになることだ。すべての出来事は全体性の作用であり表現だ。それは根本的に全体との調和のなかに在る。全体性からのすべての反応は正しく、努力なく、即座のものでなくてはならない。さもなければ、正しくはありえない。遅れた反応は誤った反応なのだ。思考、感情、そして行為はひとつにならなければならず、また状況の求めに応じて、同時でなければならない。


質問者 どうすればそうなるのでしょうか?


マハラジ もうすでに言ったはずだ。あなたの誕生時に存在し、あなたの死を観照するその人を見いだしなさい。


質問者 私の父と母でしょうか?


マハラジ そうだ。あなたの父、母、あなたの存在の源だ。問題を解くには、その源にたどり着かなければならない。真我の探求と冷静沈着さという普遍的解決法による問題解決においてのみ、正しい回答が見いだせるのだ。


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