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現代の生活には気をまぎらせてくれるものが無数にあります。自分の人生に何が起きているのかを本当に知ることから注意をそらすために、他人を必要とすることもなくなりました。テレビという世界共通の曼荼羅のおかげで、一人でいながらにして、架空の人々の架空の人生問題に心を奪われてしまうことが可能です。
人類が長生きするようになって、人間の数も増えました。そこで以前よりも多くの人間が、人生というゲームを演じているわけです。このゲームはますます巨大かつ複雑になってきており、ルールもつねに変化しています。それに、誰を愛し誰を憎むべきか、誰を受け入れ誰を避けるべきか、という問題がつねに存在します。こうした問題はどれも、地球規模で起きているばかりでなく、あなたの国のなかでも、町のなかでも、家庭のなかでも、そして心のなかでも起きています。本当の問題から人の目をそらすために、これほど多様な外界の問題を創り出したエゴの能力にはまったく感心します。エゴを黙らせようとしないかぎり、こうした問題は際限なく続き、その数も頻度も増すことでしょう。


多くの場合、あなたがどんな想念を抱くかを決定している主体者はいません。
これまでに一定の思考パターンが出来上がっているので、過去があなたの日々の想念を少しずつしぼり出してくれます。
その結果、変わらぬ<自分>というものが存在すると信じることができます。
エゴは継続性を感じさせたいのです。というのも、継続することが安全をもたらす、とあなたに信じさせたいからです。


さらにエゴはこう言います。あなたが自分だと思っている、そういう<自分>にとっての唯一の幸せは、自分が<正しい>とき、自分が他人よりも優れていると感じるときしか味わうことができない、と。


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マハルシ 問題は「自分は限定されている」と考えるために起こります。その考えは誤りです。そしてその誤りを自覚することはできるのです。

(対話63)


質問者 アートマ・サークシャートカーラ(真我実現)とは何でしょうか?


マハルシ あなたはアートマン(真我)であり、サークシャート(今ここにある直接体験)でもあるのです。そのどこにカーラ(実現)が必要でしょうか? この質問は、あなたが自分を真我ではないと考えていることを表しています。


この質問の根底には、あなたが自分自身を粗大な身体と同一視しているという事実があるのです。


今、あなたは自分自身を身体だと見なしています。そして自分の周りに物事を見るように、真我も目で見たいと考えているのです。習慣はそのように影響を与えるものです。


アートマ・サークシャートカーラとはアナートマ・ニラーサナ(真我ではないものの放棄)なのです。

(対話565)


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マハラジ あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさい。あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。


質問者 私たちの基本的な違いは、あなたは真実を知り、私が知っているのは私のマインドの作用だけだということです。それゆえ、あなたの言うことと私の聞くことにはであいがないのです。言葉は同じでも、あなたが言うことは真実であり、私の理解することは偽りです。この私たちの間の隙間をどうやって埋めればよいのでしょうか?


マハラジ これがあなた自身であるという考えを放棄しなさい。そうすれば隙間はなくなるだろう。自分自身を分離していると考えることで、あなたは隙間をつくり出したのだ。隙間を埋める必要はない。ただ、隙間をつくらないことだ。すべてはあなたであり、あなたのものなのだ。そこにはほかに誰もいない。これが事実なのだ。


質問者 何と奇妙な! 同じ言葉自体が、あなたにとっては真実であり、私にとっては偽りなのです。「そこには他に誰もいない」、何と明らかな嘘でしょう!


マハラジ 嘘でも真実でもかまわない。言葉は重要ではないのだ。問題はあなた自身についてあなたが持っている考えなのだ。なぜなら、それがあなたを妨げているからだ。それを捨て去りなさい。


質問者 幼年時代から、私は名前と形に限定されていると考えるように教えられてきたのです。単なる反対の表明だけで、精神的な轍(わだち)を消し去ることはできません。定期的な洗脳が必要でしょう。もし可能であるならば。


マハラジ あなたは洗脳と呼び、私は轍を平らにするためのヨーガと呼ぶ。何度も同じ思考を思いめぐらすように強いられてはならない。進みなさい。


質問者 言うは易く行うは難しです。


マハラジ 子どもみたいなことを言ってはならない。苦しむより変えることのほうが易しいのだ。幼稚さから脱却しなさい。それだけだ。


質問者 そういったことは為されることではなく、起こることです。それらは起こるのです。


マハラジ すべてはつねに起こっている。だが、あなたはそれに用意ができていなければならない。用意のできていることが成熟なのだ。あなたが真理を見ないのは、マインドに用意ができていないからだ。


質問者 もし実在が私の本性ならば、どうして用意ができていないということがありうるのでしょうか?


マハラジ 用意ができていないのは、恐れているからだ。あなたはあなたが何であるかを恐れている。全体性があなたの目的地だ。だが、あなたは自己のアイデンティティを失うのが怖い。これが幼稚さだ。あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついているのだ。すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。それ以外何も存在をもってはいないのだ。これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。


質問者 もちろん、「私は在る」であり、また「私は知る」でもあります。そして、私は誰それであるということを知っており、身体の所有者であり、他の所有者との多様な関係のなかにいるということを知っています。


マハラジ それはすべて、今のなかに持ちこまれた記憶なのだ。


質問者 私が確信できるのは、今あることだけです。過去と未来、記憶と想像、これらは精神的状態です。しかし、それらが私が知るすべてであって、それらは今在るのです。あなたはそれらを放棄するように言いますが、いったいどうやって今を放棄できるのでしょうか?


マハラジ あなたはいやおうなく、つねに未来のなかに進んでいるのだ。


質問者 私は今から今へと進んでいるのです。私はまったく動いてなどいません。他のすべては動いても、私は動きません。


マハラジ 認めよう。だが、あなたのマインドが動いている。現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。マインドを裏表にひっくり返しなさい。動を無視しなさい。そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しかし岩のように確固たるものとして見いだすだろう。


質問者 もしそれが今なら、なぜ私は気づかないのでしょうか?


マハラジ あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。その考えを捨て去りなさい。


質問者 それは私を気づかせてはくれません。


マハラジ 待ちなさい。あなたは同時に壁の両側にいることを望んでいる。それはできる。だが、壁を取り去らなければならないのだ。あるいは壁とその両側はひとつの単一の空間であり、そこに「ここ」と「そこ」という観念は適応しないということを自覚しなさい。


質問者 比喩は何も証明しません。私の不満はひとつ、なぜ私はあなたの見ていることを見ないのでしょう、なぜあなたの言葉は私のなかで真実として響かないのでしょうか? ということです。これくらいは教えてください。ほかのすべては待てます。あなたは賢く、私は愚かです。あなたは見て、私は見ません。どこに私は智慧を見いだせばよいのでしょうか?


マハラジ もしあなたが愚かだということを知っているならば、あなたはまったく愚かではないのだ。


質問者 自分が病気だと知ることがそれを癒さないように、自分を愚かだと知ることは私を賢明にはしません。


マハラジ あなたが病気だと知ることが、健康になることのはじまりではないかね?


質問者 いいえ、違うのです。比べればわかります。仮に、私が生来盲目であって、あなたは物に触れることなしにそれを知ると私にいいます。私は触れなければなりません。私は見るということの意味を知らずに、自分が盲目であることに気づくのです。同様にあなたが主張することを私が理解できないとき、私には何かが欠けているということを知るのです。あなたは私について本当に素晴らしいことを語ります。あなたによれば、私は永遠で、遍在し、全知の、至上の幸福であり、存在するすべての創造者、維持者、破壊者、すべての生命の源、存在の本質、神、そしてあらゆる創造物にとっての最愛の者だということです。あなたは私を究極の実在、すべての存在のゴールとその源と同等だと言います。私はただ無視するだけです。なぜなら、私自身は欲望と恐れの小さな包み、苦しみの泡、暗黒の海中の、意識の一瞬のひらめきだと知っているからです。


マハラジ 苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去った後もあなたは残る。はかないのは苦痛であり、あなたではない。


質問者 すみません。しかし、私にはあなたの見るものが見えないのです。生まれた日から、死ぬ日まで、苦痛と快楽は人生の模様を織り込んでいくでしょう。誕生以前と死後の存在について私は何もわかりません。私はあなたを容認も否定もしません。あなたの言われることは聞きます。ただ私はそれを知らないのです。


マハラジ 今、あなたは意識がある。そうではないかね?


質問者 どうか、以前と以後については聞かないでください。私は今のことだけを知っているのです。


マハラジ それで充分だ。あなたは意識している。それをつかみなさい。あなたが意識していない状態がある。無意識の存在と呼ぶものだ。


質問者 無意識ですか?


マハラジ 意識と無意識はここではあてはまらない。存在は意識のなかにある。本質は意識に依存しない。


質問者 それは虚空でしょうか? 沈黙でしょうか?


マハラジ なぜ言葉巧みになるのかね? 存在は意識に浸透し、そして超越する。客観意識は純粋な意識の一部分であり、それを超えることはないのだ。


質問者 意識でも無意識でもない純粋な存在状態を、どのようにして知るに至ったのですか? すべての知識は意識のなかにのみ存在するのです。マインドの停止といった状態はあるかもしれません。そのとき意識は観照者として現れるのでしょうか?


マハラジ 観照者だけが出来事を記録する。マインドの停止状態では、「私は在る」という感覚さえも消え去る。マインドなしに「私は在る」はないのだ。


質問者 マインドがないということは思考がないということです。思考としての「私は在る」は静まり、存在の感覚である「私は在る」は残ります。


マハラジ マインドとともにすべての体験は静まる。マインドなしには体験者も体験もありえない。


質問者 観照者は残るのでしょうか?


マハラジ 観照者は単に体験の存在と不在を記録するだけだ。それは、それ自体では体験ではないが、「私は観照者だ」という思いが立ち現れたとき、それは体験となる。


質問者 私が知っていることといえば、マインドはときどき作用し、ときどき止まるということです。精神的沈黙の体験を、私はマインドの停止と呼んでいます。


マハラジ それを沈黙、または虚空、あるいは停止とでも呼ぶがいい。事実は体験者、体験すること、体験の三つが不在だということだ。観照のなか、気づきのなかでは、自意識、あれやこれとしての存在の感覚はない。自己同一化されない存在が残るのだ。


質問者 それは無意識の状態なのでしょうか?


マハラジ それは何とでも関係している。それは対極のものだ。それはまた、すべての対極の中間であり、その彼方でもある。それは意識でも無意識でもなく、その中間でもその二つを超えたものでもない。それはそれ自体で在り、体験やその不在といった何かとの関係はない。


質問者 なんと奇妙な! あなたはそれが体験であるかのように話をします。


マハラジ 私がそれについて考えたとき、それは体験になるのだ。


質問者 目に見えない光が花に遮られて色となるように、それは体験となるのでしょうか?


マハラジ そうだ。それは色のなかにあるが、色そのものではない。


質問者 古くからおなじみのナーガールジュナ(竜樹)の四重否定です。これでもなく、それでもない、その両方であり、そのどちらでもない。めまいがしそうです!


マハラジ あなたの困難は、実在を意識の状態と考えることから生じるのだ。あたかも実在が多様な尺度をもった属性か特質かのように、あなたは「これは真実で、あれは真実ではない。そしてこれは部分的に真実で、部分的に偽りだ」と言う傾向がある。


質問者 私ならこう言うでしょう。結局、意識は苦痛をともなったときに問題となるのです。永遠の至福の状態では、質問は起こりません。すべての意識は快楽と苦痛の混合なのです。なぜでしょうか?


マハラジ すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。


質問者 つまり、欲望なしに意識はないということなのでしょうか? では、無意識であることにどのような利点があるのでしょう? もし私が苦痛からの自由のために快楽を差し控えなければならないとしたら、私ならどちらも取っておくでしょう。


マハラジ 苦痛と快楽の彼方に至福があるのだ。


質問者 無意識の至福に何の価値があるのでしょうか?


マハラジ 意識でも無意識でもない、実在だ。


質問者 意識へのあなたの反対理由は何でしょうか?


マハラジ それは重荷なのだ。身体とは重荷だ。感覚、欲望、思考、これらはみな重荷なのだ。すべての意識は葛藤だ。


質問者 実在は真の存在、純粋な意識、無限の至福と描写されています。それが苦痛とどう関わってくるのでしょうか?


マハラジ 苦痛と快楽は起こる。だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによって傷ついている。苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。


質問者 これらはみな疑いなく、たいへん興味深い話です。しかし私のゴールはもっとシンプルなものです。私は人生において、より多くの快楽とより少ない苦痛が欲しいのです。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。


質問者 これらすべてが私にとって何だというのでしょうか?それは私を満足させてはくれません。


マハラジ あなたは誰だろうか? 誰が不満なのだろうか?


質問者 私は苦痛と快楽の人間です。


マハラジ 苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。苦痛と快楽は、至福の海の波の頂きと谷間だ。その底深くには完全な充足があるのだ。


質問者 あなたの体験は本当に不断のものでしょうか?


マハラジ それは時を超えた、不変のものだ。


質問者 私の知っているのは欲望と苦痛への恐れだけなのです。


マハラジ それはあなたが自分自身についてそう考えるだけだ。やめなさい。あなたが習慣をただちに打ち破れないなら、あなたが慣れ親しんできた考え方に注目し、その偽りを見破りなさい。習慣を問いただすことはマインドの義務だ。マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。そして外側にとどまりなさい。


質問者 正直なところ、私にはすべてがマインドによってつくられたという説明が信頼できません。目が手段であるように、マインドもまた手段にすぎません。あなたには知覚されたものが創造されたものだと言えますか?私は窓のなかにではなく、窓を通して世界を見ます。私たちに共通の基盤があるために、あなたの言うことはすべて筋が通って聞こえますが、あなたの基盤が実在のなかにあるのか、マインドのなかにだけあるのか私にはわかりません。ただマインドに映るものとしてとらえることはできます。それがあたにとってどんな意味をもつのか私にはわかりません。


マハラジ あなたがマインドのなかに立場を置くかぎり、あなたは私をマインドのなかに見るだろう。


質問者 言葉は理解するために何と不適切なのでしょう!


マハラジ 言葉なしでは、理解する何がそこにあるというのだろうか? 理解する必要は誤解から起こるのだ。私の言うことは真実でも、あなたにとっては、それはただの理論となってしまう。どうすれば、あなたはそれが真実だと知るようになるだろうか? 聞きなさい、覚え、熟考し、視覚化し、体験しなさい。あなたの日々の生活においてそれを生かしなさい。私に対して忍耐強くありなさい。特に自分自身に対して忍耐強くありなさい。なぜなら、あなたがあなたのただひとつの障害だからだ。道はあなたを通ってあなたを超えていく。特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表してきたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだということがわかるだろう。


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京都


誰かさんの見立てがあたっているなら、日本が核(または新型爆弾)攻撃による被害を受けたとしても、京都のみは無事のはずだ。残った日本人でなんとかやり直すしかない。


最悪の事態は1発ではなく、複数発着弾すること。
もし本州、四国、九州、北海道にそれぞれ着弾したら、その後のことは考えてもしょうがない。


でも見立てでは1発で、潜水艦発射の可能性が高かった。
今だったら、SLBMは万全ではない可能性もある。


私があの独裁者の立場なら、SLBMを複数同時発射できることを米国に認めさせるのを最優先する。
逆に米国の立場なら、SLBMの準備行動が認められた時点で総攻撃を決断し、マスコミに認識される前に仕掛けるしかなくなる。


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マハルシ 真我が実現された状態の中に創造はありません。
人は世界を見るとき、真我を見ていません。真我を見るとき、世界は見られていません。
だから、真我を見なさい。

(対話455)


マハルシ 心を内側に向けるには、心を直接「私」の中に落ち着かせなければなりません。そうしたとき外的な活動はやみ、完全な平和が支配するのです。

(対話519)


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質問者 今この瞬間、あなたはどのような状態にいるのでしょうか?


マハラジ 無経験の状態だ。そのなかにすべての経験が含まれている。


質問者 あなたはほかの人のマインドやハートのなかに入って、体験を分かちあうことができるのでしょうか?


マハラジ いいや。そのようなことには特別な訓練が必要なのだ。私は小麦を扱う商人のようなものだ。私はパンやケーキに関してはまったく知らない。麦粥の味さえ知らないかもしれない。だが、小麦という穀物に関してはすべて良く知っている。私はすべての体験の源を知っている。しかし、数知れない特定の形態が体験することがらを知ることは、私にはできないし、また知る必要もない。そのときどきにおいて、人生を生きていくために知る必要のあることはほんのわずかであり、私はどうにか、かろうじて知っているだけだ。


質問者 あなたの特定の存在と私の特定の存在は、創造神であるブラフマーのマインドのなかに存在するのでしょうか?


マハラジ 普遍なるものは特定のものには気づいていない。個人としての存在は個人的なものだ。個人は時間と空間のなかに存在し、名前と形をもち、はじまりと終わりがある。普遍なるものはすべての個人を含んでいる。絶対なるものはすべての根底にありながら、すべてを超えているのだ。


質問者 私は全体性には関心がありません。私の個人的な意識とあなたの個人的な意識──その二つを結ぶものは何でしょうか?


マハラジ 二人の夢を見ている人に、どんなつながりがありうるだろうか?


質問者 彼らは互いを夢見合うかもしれません。


マハラジ それこそ人びとがしていることだ。誰もが「他者」を想像し、その間につながりを探し求めている。探している人こそがつなぎ目なのだ。他者というものは存在しない。


質問者 多くの意識の点である私たちの間には、何か共通のものがあるに違いありません。


マハラジ 多くの点とはどこにあるのだろうか? あなたのマインドのなかだ。あなたはあなたの世界がマインドから独立していると主張している。どうしてそうありうるだろう? 他者のマインドを知りたいという欲望は、あなたがあなた自身のマインドを知らないためだ。まず、自分のマインドを知りなさい。そうすれば、他者のマインドという疑問は生じないだろう。なぜなら、「他者」など存在しないからだ。あなたが共通要素、すべてのマインドの連結部なのだ。存在とは意識だ。「私は在る」はすべてにあてはまるのだ。


質問者 至高の実在(パラブラフマン)は、私たちすべてに内在しているかもしれません。しかし、それが私たちにとって何になるというのでしょうか?


マハラジ あなたはあたかも「私はものをしまう場所が必要だ。だが、空間が何の役に立つというのだろうか?」あるいは、「私はミルクか紅茶、コーヒーかソーダが欲しい。だが、水は何の役にも立たない」と言っている人のようだ。至高の実在がすべてを可能にしているということが、あなたにはわからないだろうか? だが、もしそれが何の役に立つのかときくならば、「何の役にも立たない」と言わねばならない。日々の生活においては、実在を知る人には何の利点もないのだ。むしろ、彼は不利な状態にあると言えよう。欲望と恐れから自由な彼は、自分自身を守ろうとしないからだ。利益という概念自体が、彼にとっては異質なものなのだ。彼は増加や増大を嫌う。彼の人生とは、絶え間なく己から剥ぎ取り、分かちあい、与えることだ。


質問者 もし至高なるものを得ることに何の利点もないのならば、なぜそのために骨を折るのでしょうか?


マハラジ あなたが何かにしがみつくときだけ、心配事は生まれる。何にもしがみつかなければ、何の心配もない。より劣ったものを放棄することは、より偉大なものを得ることなのだ。すべてをあきらめなさい。そうすれば、あなたはすべてを得るだろう。そのとき、人生はその目的通り、無尽蔵の源からの純粋な輝きとなる。世界はその輝きのなかに、夢のようにぼんやりとかすんで現れるのだ。


質問者 もし私の世界が単なる夢であり、あなたはその一部であるとするならば、いったい私のために何ができるというのでしょう? もし夢が真実ではなく、存在していないと言うのならば、実在はどのようにそれに影響を与えるのでしょうか?


マハラジ それが続くかぎり、夢は一時的な存在をもっている。問題をつくり出すのは、あなたがそれにしがみついて離さないからだ。手放しなさい。夢があなたのものだと想像することをやめるのだ。


質問者 どうやら、あなたは夢を見る人なしに夢がありえ、私は私の勝手気ままな夢と自己同一化していると決めてかかっているようです。しかし、私は夢見る人であり、また夢でもあるのです。誰が夢見ることをやめるというのでしょうか?


マハラジ 夢に最後までそれ自体を繰り広げさせるがいい。あなたにはどうすることもできない。だが、夢を夢として見、実在の痕跡として拒否することはできるのだ。


質問者 ここで、私はあなたの前に座っています。私は夢を見ていて、あなたは私が夢のなかで話しているのを見ています。私たちの間に何のつながりがあるのでしょうか?


マハラジ あなたを目覚めさせようという私の目的がつながりなのだ。私のハートはあなたに目覚めてほしい。私はあなたが夢のなかで苦しんでいるのを見ている。そしてあなたが不幸の終焉へと目覚めなければならないことを知っているのだ。夢を夢として見るとき、あなたは目覚める。だが、私はあなたの夢自体には興味がない。私にとっては、あなたが目覚めなければならないと知ることだけで充分だ。夢の人生において一定の成果をあげる必要はないのだ。あるいは、それを高尚なものにしたり、幸福で美しいものにしたりする必要もない。あなたに必要なことはただ、夢を見ているということを自覚することなのだ。想像することをやめなさい。信じるのをやめなさい。矛盾と不調和、虚偽と悲しみの人間の状態を見るがいい。そして、それらを超えていく必要性を見なさい。無限の空間のなかに微小な意識の原子が浮遊している。そして、宇宙はそのなかに包含されているのだ。


質問者 夢のなかには、真実で、永遠に続くように見える愛があります。それらもまた目覚めとともに消え去るのでしょうか?


マハラジ 夢のなかで、あなたは誰かを愛し、ほかの人は愛さない。目覚めとともに、あなたはあなた自身がすべてを包含する愛そのものだと知るのだ。個人的な愛は、いかに強烈で真正なものであっても、かならず束縛することになる。自由のなかでの愛は、すべての愛なのだ。


質問者 人びとは来ては去っていきます。人は出会う人を愛するのです。すべてを愛することはできません。


マハラジ あなたが愛そのものであるとき、あなたは時間と数を超える。ひとりを愛することのなかで、あなたはすべてを愛し、すべてを愛することのなかで、あなたはひとりひとりを愛する。ひとりとすべては背反していないのだ。


質問者 あなたは時間を超えた状態にいると言われました。それはつまり、過去と未来があなたに対して開かれているということなのでしょうか? あなたはヴァシシュタ・ムニ、ラーマのグルに出会いましたか?


マハラジ その質問は時間のなかにあり、時間についてのものだ。またしても、あなたは夢の内容について尋ねている。永遠は時間という幻想を超えたものであり、時間の延長ではないのだ。自らをヴァシシュタと名乗るその人がヴァシシュタを知っているのだ。私はすべての名前と形を超えている。ヴァシシュタはあなたの夢のなかに現れた夢なのだ。どうして私に彼を知ることができるだろう? あなたは過去と未来に関心をもちすぎている。それはみな、あなたの存在を継続させたい、自分自身を消滅から守りたいという切望から起こるのだ。あなたは継続することを求めるために、ほかの人たちに一緒にいてもらいたい。それゆえ彼らの存続に関心をもつのだ。しかし、あなたが呼ぶ存続とは、夢の存続にすぎない。それよりは死のほうが望ましい。そこには目覚めるチャンスがあるからだ。


質問者 あなたは永遠に気づいています。それゆえ、存続には関心がないのでしょう。


マハラジ それはその反対だ。すべての欲望から自由であることが永遠なのだ。すべての執着は恐れを暗示している。なぜなら、すべてのものごとは、はかない、つかの間のものだからだ。そして、恐れは人を奴隷にしてしまう。この執着からの自由は、修練によってもたらされるものではない。人が自己の真の存在を知ったとき、自然に執着から自由になるのだ。愛は執着しない。執着は愛ではないのだ。


質問者 では、無執着を得る方法はないのでしょうか?


マハラジ そこに得るようなものは何もない。すべての想像を放棄して、真我を知りなさい。自己知識が無執着なのだ。すべての切望は不充分な感覚から生じる。何も不足してはいないと知ること、存在するものすべてはあなたであり、あなたのものなのだと知ることで欲望はやむのだ。


質問者 自己を知るために、私は気づきの訓練をしなければならないのでしょうか?


マハラジ 訓練しなければならないことは何もない。自己を知るために、あなた自身で在りなさい。あなた自身で在るために、あなたがあれやこれだと想像することをやめなさい。ただ在りなさい。あなたの真の本性を現れさせるがいい。探求によってかき乱されてはならない。


質問者 もし私がただ待っているだけならば、真我の実現にたいへんな時間がかかってしまいます。


マハラジ それが今ここにすでにあるとき、何を待つというのだろう? ただよく見て、見いだすだけなのだ。あなた自身を、あなたの自己の存在を見なさい。あなたはあなたが存在することを知っている。そして、あなたはそれを愛しているのだ。すべての想像を捨て去りなさい。それだけだ。時間に頼ってはならない。時間とは死だ。待つ者は──死ぬ。生命は今だけに在る。私に過去や未来を語ってはならない。それらはあなたのマインドのなかにのみ存在するのだ。


質問者 あなたもまた死ぬでしょう。


マハラジ 私はすでに死んでいるのだ。私の場合、身体的な死は何の違いももたらさない。私は永遠の存在だ。私は欲望と恐れから自由なのだ。なぜなら、私は過去を思い出さず、未来を想像しないからだ。何の名前も形もないところに、どうして欲望や恐れが存在できるだろうか? 無欲とともに永遠がもたらされるのだ。私は安全だ。なぜなら、存在しないものが存在するものに触れることはできないからだ。あなたは安全ではない。なぜなら、あなたは危険を想像するからだ。もちろん、あなたの現在の身体は複雑で傷つきやすく、保護を必要としている。しかし、あなたがではない。ひとたび、あなたが難攻不落の存在であると自覚したならば、マインドは平和になるだろう。


質問者 世界が苦しんでいるとき、どうして私に平和を見いだすことができるでしょうか?


マハラジ 世界が苦しむのは、それなりの妥当な理由があるのだ。もしあなたが世界を助けたいのなら、あなた自身が助けの必要性を超えなければならない。そうすれば、あなたのすること、そしてしないこともまた、もっとも効果的に世界を助けるだろう。


質問者 行為が必要なときに、どうして無為が役に立つのでしょうか?


マハラジ 行為が必要なときには、行為は起こる。人は行為者ではないのだ。彼は起こっていることに気づいて在る。彼の存在そのものが行為なのだ。窓は壁の不在だ。そして、それが空気と光を与える。なぜなら、それが空だからだ。すべての精神的内容、すべての想像と努力を空っぽにしなさい。そうすれば、その障害の不在そのものが、実在が流れこんでくる場を与えるのだ。もし本当にある人を助けたいと思うならば、近づかずにいることだ。感情的に助けることに専心しようとすれば、果たせずに終わってしまうだろう。あなたは非常に忙しく駆けまわり、自分の慈愛的な性質にとても満足するかもしれない。だが、大した助けにはならないだろう。人が本当に助けられるのは、彼がもはや助けを必要としなくなったときなのだ。それ以外はすべて無用のものだ。


質問者 ただ座っていながら助けが起こるのを待っているほど、充分な時間はないのです。人は何かをしなければなりません。


マハラジ もちろんそうするがいい。しかし、あなたにできることはかぎられている。自己だけが無限なのだ。あなた自身をかぎりなく与えるがいい。それ以外のすべては、わずかな量でしか与えることはできない。あなただけが計り知れないのだ。助けることはあなたの本性だ。食べたり飲んだりするときにも、あなたは身体を助けているのだ。あなた自身のためには、何も必要ない。あなたは純粋な明け渡しだ。無始無窮であり、無尽蔵なのだ。あなたが悲しみや苦しみを見るときは、それとともに在りなさい。性急に行動に走ってはならない。学ぶことも行動も、本当の意味での助けにはならないのだ。悲しみとともにありなさい。そして、その根底にあるものを露わにしなさい。理解することを助けることが、本当の助けとなるのだ。


質問者 私の死は近づいています。


マハラジ 時間が足りないのはあなたの身体だ。あなたではない。時間と空間はマインドのなかにのみある。あなたは束縛されてはいないのだ。ただ、あなた自身を理解しなさい。そのこと自体が永遠なのだ。



この短剣の名はアシッドレイン。


降り注ぐ雨を嘆くだけでなく、
誰がいつ酸を加えたのか省みるべきです。


(現象の原因も対策も)自分と切り離されていると想像したときにのみ
我々は力を失うのです。Fiora


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質問者 言葉で伝えられた個人的な教えに価値があるのです。


マハルシ もしも何か新しく未知なものなら教えも適切でしょうが、ここでは心を静め、想念から自由であることが教えなのです。


質問者 日々の生活の中にその状態は見られません。


マハルシ 日々の生活と霊的な人生が異なると想像されたとき、問題は起こるのです。

(対話376)

  
マハルシ あなたは深い眠りの中でも存在していたのです。そのときのあなたと今存在しているあなたは同じ人ですか? 違いますか?


質問者 同じです。


マハルシ 違いは、眠りの中のあなたは機能していなかったということにあります。言うならば、あなたは目覚めのときは思考機能と関わり、眠りのときは思考機能と関わっていなかったということです。
それでは、どちらがあなたの本性でしょうか? 思考と関わっているほうでしょうか、関わっていないほうでしょうか?

(対話520)


マハルシ 「私」という想念が初めに立ち現れ、それからその他のあらゆる想念が生まれます。それらが心というものを構成します。心は対象であり、「私」は主体です。「私」なしに意思がありえるでしょうか? 意思は「私」の中に含まれています。「私」という想念は知性の鞘であり、意思はその一部なのです。
心は想念だけで形作られており、「これ」が対象で、「私」が主体です。

(対話277)


マハルシ これらの疑いはすべて、誤った観点と自分の外側の物事に結果を期待するために起こります。

(対話157)


ヨーガする人の魂は清浄で
心と感覚を支配し
すべての生物に思いやりがあり
絶え間なく働いても決して仕事に縛られない


神聖な意識の人は
見ても 聞いても 触れても
嗅ぐ 食う 動く 眠る 呼吸等をしても
内心では”私は何も為していない”と観る


話すときも 捨てたり取ったりする時も
また眼を開け閉じするときも
五官がその対象と作用しているのみと観じ
彼は常に超然としているのだ


神はあるレベルでは、すべてのものの材料を構成する物質である。別のレベルでは、さまざまな次元の時間の流れであり、複数の並行宇宙を創り出す時間のゆがみである。また、さらに別のレベルでは、物質を支えている光と呼ばれる振動数だ。そして、すべての中で最も偉大なレベルでは、あなたを今の位置に保っている「何もないもの」、すなわち思考であり、宇宙の永遠性なのだ。


神とは、永遠に続いていく生命全体であり、それは脈打ち、広がり、進化している。それは「在ること」であり、この「在ること」は、これまでにあったものを許容するものであり、いま在るものが広がっていくことであり、これからやってくるものを約束するものだ。それは生命を与える動きであり、特定のゴールや理想に到達するのではなく、思考から光へ、それから物質へと、絶え間なく生命を創造し続けている無限の思考プロセスなのである。神は在るものすべての本質であり、この在るものすべては、つねに変化し続け、創造し続け、広がり続け、存在し続ける「ある動機をもった力」の中に在るのである。


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質問者 私たちはまるで動物のように、果てしなく無益な追求のために走りまわっているようです。いったい出口があるのでしょうか?


マハラジ 多くの道があなたに差しだされてきた。それらはあなたをひと回りさせ、出発点に連れ戻すものだ。まずあなたの問題が、目覚めの状態にしか存在しないことを認識しなさい。それがいかに苦痛に満ちたものであっても、眠りについたとき、あなたはすべて忘れることができるということを認識しなさい。目覚めているとき、あなたは意識している。眠っているとき、あなたはただ生きているだけだ。意識と生命。その両方をあなたは神と呼ぶかもしれない。だがあなたはその両方を超えているのだ。神を超え、存在と非存在を超えている。あなた自身がすべてであり、すべてを超えていると知ることを妨げているのは、記憶に基づいたマインドなのだ。あなたがマインドを信頼するかぎり、それはあなたを支配しつづけるだろう。それと闘ってはいけない。ただ無視しなさい。注目を奪われて、それは速度を落とし、その働きの機構を露わにする。ひとたびその本性と目的を知れば、マインドが想像上の問題をつくり出すことをあなたは許さないだろう。


質問者 すべての問題が想像上のものでないことは確かです。そこには現実の問題もあります。


マハラジ マインドがつくり出さなかった問題などというものがありうるだろうか? 生と死は問題をつくらない。苦痛と快楽は来ては去っていく。体験されたことは忘れられる。達成と逃避の問題をつくり出すのは、好きと嫌いに色づけされた記憶と期待だ。真理と愛が人の真の本性であり、マインドとハートはその表現の手段なのだ。


質問者 どのようにして何を欲しているのか知らないマインドを制御すればよいのでしょうか?


マハラジ それは暗闇のなかで作用することはできない。それが正しく機能するには、気づきの純粋な光が必要なのだ。制御しようとする努力はすべて、マインドを記憶の命令の支配下に置くことになる。記憶は良き召使いだが、悪い主人だ。それは発見を巧妙に妨害するのだ。実在のなかに努力の場はない。主要な問題と、そのほかすべての問題の原因は、身体との自己同一化による利己主義にあるのだ。努力によって利己主義を取り除くことはできない。ただ、原因と結果への明晰な洞察によってのみなされるのだ。努力は互いに相容れない欲望の間に起こる葛藤の徴候だ。それらはあるがままに見られなければならない。そのときにだけ、それらは消え去るのだ。


質問者 そして、何が残るのでしょうか?


マハラジ 変化することのできないもの、それが残る。偉大な平和、深い沈黙、秘められた実在の美が残るのだ。それは言葉によって伝えられない、と同時に、それはあなた自身によって体験されることを待っているのだ。


質問者 人は真我実現にふさわしく、適するようにならなければいけないのでしょうか? 私たちの本性は、その内奥に動物性を潜めているのです。それが克服されるまでは、実在が現れることをどうして期待できるでしょうか?


マハラジ 動物性のことは放っておきなさい。それをそのままにしておくがいい。ただあなたが何なのかを覚えておきなさい。観照者としてのあなたなしには神も動物もありえないということを、日々のあらゆる出来事をきっかけにして思い起こしなさい。あなたは存在するすべての本質と実体の両方なのだと理解しなさい。そしてあなたの理解の中に確固としてとどまりなさい。


質問者 理解で充分なのでしょうか? もっと明確な証拠が必要ではないのでしょうか?


マハラジ 証拠の妥当性について決定するのはあなたの理解なのだ。だが、あなた自身の存在以上に、どのような確実な証拠が必要だと言うのかね? あなたがどこへ行こうと、あなたはあなた自身を見いだすのだ。あなたがどれほど遠くにたどり着いたとしても、あなたはそこにいるのだ。


質問者 明らかに、私は遍在するものでも、永遠なるものでもありません。私は今ここにいるだけです。


マハラジ 充分だ。「ここ」はいたるところにあり、「今」はつねにあるのだ。「私は身体だ」という観念を超えていきなさい。そうすれば、あなたは時間と空間があなたのなかにあり、あなたが時間と空間のなかに在るのではないことを見いだすだろう。ひとたびあなたがこれを理解すれば、真我の実現のための主要な障害は取り除かれるのだ。


質問者 理解を超えた真我の実現とは何でしょうか?


マハラジ 深い密林にたくさんのトラがいる。そして、あなたは丈夫な鉄の檻のなかにいると想像してみなさい。檻によって無事に守られていることを知っているため、あなたはトラたちを恐れなく見ている。つぎに、檻のなかにトラたちがいて、あなたはジャングルのなかをうろつきまわっている。最後に、檻は消え、あなたはトラに乗っているのだ!


質問者 私は最近、ボンベイで行なわれた瞑想セッションのひとつに参加しました。そこで私は参加者が自暴自棄になり、精神錯乱しているのを目にしたのです。なぜ人びとはそのようなことをしに行くのでしょうか?


マハラジ それらはみな、感覚的刺激を探求する人びとを満足させるために落ち着きのないマインドが発案したものだ。それらのいくつかは、抑圧された願望や記憶を吐きだすことで無意識の助けとなる。そしてその程度の解放を与えるのだ。しかし、最終的には、彼は何も変わらないままか、あるいはさらに悪くなることさえあるのだ。


質問者 最近、私はあるヨーギの瞑想体験について書かれた本を読みました。それは幻想や幻聴、色彩や音楽であふれ、たいへん人目を引く内容でした。もっとも華麗な娯楽です! 最後には、それらはすべて消え去り、ただ恐れのない感覚だけが残ったのです。無理もありません。それらすべての体験を無傷で通り抜けてきた人には、何も恐れるものなどないのです! それでも、そのような本が私にとっていったい何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ おそらく、何の役にも立たないだろう、それはあなたの興味を引かなかったのだから。ほかの人は感動させられたかもしれない。人は異なるのだ。だが、誰もが自己の存在という事実に直面させられる。「私は在る」は究極の事実だ。「私は誰か?」はすべての人が答えを見いださなければならない究極の質問なのだ。


質問者 同じ答えでしょうか?


マハラジ 本質においては同じだ。表現は多様だ。
それぞれの探求者は自分に合う方法を受け入れ、あるいは発明し、誠実さと努力とともにそれを自分に適用する。彼は彼の気性や期待にしたがって結果を得、それを言葉の鋳型に鋳込め、システムを築きあげ、伝統を設立し、他者を彼のヨーガの学校に入会させるのだ。それはすべて記憶と想像の上に築きあげられたものだ。そのような学校は、無価値でもなければ必要不可欠でもない。より以上の進歩を可能にするために、進歩へのすべての欲望が放棄される地点まで進歩することができる。そうなれば、すべての学校は放棄され、すべての努力は終わり、孤独と暗闇のなかで無知と恐れを永遠に終焉させる最後の一歩が踏まれるのだ。
真の師は弟子を既成の観念、感情、行為に押しこめようとはしない。その反対に、師はすべての観念や組み込まれた行動様式から自由になる必要性を忍耐強く示すのだ。注意を怠らず、誠実であり、どこであれ人生が彼を連れていくままにしたがい、楽しみも苦しみもせず、ただ理解し、学んでいくように。
正しい師のもとでは、弟子は記憶し服従することではなく、学ぶことを学んでいく。サットサン、すなわち聖者との交際は鋳型にはめるのではなく、解放するのだ。あなたを依存させるすべてに気をつけなさい。いわゆる「師への明け渡し」はほとんどの場合、悲劇でなければ、良くても失望に終わる。幸運にも、誠実な探求者は体験からより賢明になって、巻きこまれる前に自分を危険から救うのだ。


質問者 明け渡しには確かに価値があります。


マハラジ 明け渡しとは利己的関心事を明け渡すことだ。それはできるわけがない。あなたがあなたの真の本性を実現するとき、それは起こるのだ。言葉の上の明け渡しは、たとえ感情をともなっていても、緊張下では失意のうちに終わってしまう。最善の場合でも、それは熱望を表すが、実際的事実ではない。


質問者 『リグ・ヴェーダ』* のなかではアディ・ヨーガ、原初のヨーガについて言及されています。私が理解するには、それは智慧と生命をひとつに結びつけることを意味するプラジニャーとプラーナの結婚から成るものです。あなたなら、それはまたダルマとカルマ、公正さと行為の統合をも意味すると言われるでしょうか?


* 訳注 『リグ・ヴェーダ』 Rig Veda ヒンドゥー教のなかで最古、最高、そしてもっとも神聖なる聖典として知られ、また世界においても最古の宗教書。ヴェーダの神々への讃歌。


マハラジ もし公正さが自己の真の本性との調和を意味し、非利己的な無欲の行為を意味するのであれば、そのとおりだ。
アディ・ヨーガにおいては人生そのものがグルであり、マインドが弟子なのだ。マインドは人生に仕え、それを支配したりしない。人生は自然に努力なしに流れ、マインドは流れをすみやかにするために障害物を取り除くのだ。


質問者 人生はその本性から言って反復的なものではないでしょうか? 人生にしたがっていくことは沈滞に導くのではありませんか?


マハラジ それ自体では、人生は途方もなく創造的なものだ。一粒の種子が、やがて森林となる。マインドは森林官のように、存在の膨大な生命力の衝動を保護し調整しているのだ。


質問者 マインドによる生命への奉仕という見方をすれば、アディ・ヨーガは完全な民主主義です。誰もが彼の最善の能力と知識で人生を生きることに従事し、誰もが同じグルの弟子なのです。


マハラジ あなたの言うとおりかもしれない。可能性としては、おそらくそうだろう。だが、人生が熱望と熱心さをともなって愛され信頼されるまでは、意識のなかの動き、行為のなかの気づきであるヨーガについて語ることは夢想的なものでしかない。


質問者 あるとき、私は岩の合間を流れる渓流を眺めていました。それぞれの岩で、岩の大きさと形にしたがって流れの動きは異なっていました。個人とは皆、単に身体の上を流れる動きであり、同時に生命はひとつであり永遠なのではありませんか?


マハラジ 流れの動きと水は別々のものではない。流れの妨害があなたに水の存在を気づかせたのだ。意識はつねに運動と変化のなかにある。不変の意識といったものはありえない。不変なるものは即座に意識をぬぐい去るだろう。内面、あるいは外面の感覚を奪われた人は意識を失い、あるいは意識と無意識を超えて不死不生の状態のなかへと入っていくだろう。霊魂と物質がであったときにだけ意識は生まれるのだ。


質問者 それらはひとつでしょうか、二つでしょうか?


マハラジ それはあなたが使う言葉によって、ひとつ、二つ、あるいは三つなのだ。調べていくことで三つは二つとなり、二つはひとつとなる。顔と鏡とイメージという直喩で見てみなさい。どの二つをとってみても、その二つを結びつける第三の存在が前提にある。あなたが二つはひとつだと悟るまでは、サーダナ(修練)によって三つを二つとして見るのだ。
あなたが世界に没頭しているかぎり、あなた自身を知ることは不可能だ。あなた自身を知るためには、世界から注意を引き離し、内面へと向けなさい。


質問者 私には世界を破壊することはできません。


マハラジ その必要はない。ただ、あなたが見ているものは、あるがままのものではないということを理解しなさい。現れは調べることによって消え去り、根源的な実在が表層に現れるだろう。逃げだすために家を燃やす必要はない。あなたはただ歩いて外に出るだけだ。家が牢獄となるのは、あなたが自由に行き来できなくなったときだけだ。私は意識から自由に自然に出たり入ったりすることができる。そしてそれゆえ、世界は我が家であって牢獄ではないのだ。


質問者 しかし究極的に、世界は存在するのでしょうか、しないのでしょうか?


マハラジ あなたが見ているものは、ほかでもないあなたの自己なのだ。あなたの好きなようにそれを呼ぶがいい。それが事実を変えることはない。運命(プラーラブダ)のフィルムを通して、あなた自身の光がスクリーン上に絵を描いていく。あなたはそれを鑑賞する人であり、光であり、絵であり、スクリーンでもあるのだ。運命のフィルムさえも自ら選択され、自らに課されたものだ。その精神は障害を乗り越えることを楽しむひとつの競技だ。その努めが困難なほど、真我の実現はより深く広いものとなるのだ。


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現実は膝をつかない


現実は負けない。理想は簡単に負ける。
でも現実には2種類の意味がある。


神を忘れている人間は現実を地上の出来事や利益に限定する。
だから真っ逆さまに落ちる。


ほんとうの現実はありとあらゆることが
神にとってどうか。神界にとってどうか、だ。


なぜ盲目的なまでに神を信じる必要があるかというと、
万物を無制限に思慕してくれている唯一の存在が神だからだ。だからこそ宗教の罪は重い。神を騙る詐欺師の集団が増えれば全部うさん臭くなる。
地上に落ちてそれを知っている状態を一時的にリセットした人間は光を見失い闇の中の洞窟を手探りで進みながら自分と向き合う。


光が見えないから自分の現状を正確に知ることができる。
もし物事を裁くなら、裁きの発生源と向き合えるのは人生を通じてただ一人だ。


わたしたちは神を裁いている。
二極性は地球の幻影にすぎず、神に押しつけた価値観こそがわたしという知覚だ。
でもそれは必要だから生まれた、神の機会なのだと思う。
問題も課題も機会も贈り物も受ける知覚もすべてが神。現実とは神なのだ。


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質問者 言葉で伝えられた個人的な教えに価値があるのです。


マハルシ もしも何か新しく未知なものなら教えも適切でしょうが、ここでは心を静め、想念から自由であることが教えなのです。


質問者 日々の生活の中にその状態は見られません。


マハルシ 日々の生活と霊的な人生が異なると想像されたとき、問題は起こるのです。

(対話376)

  
マハルシ あなたは深い眠りの中でも存在していたのです。そのときのあなたと今存在しているあなたは同じ人ですか? 違いますか?


質問者 同じです。


マハルシ 違いは、眠りの中のあなたは機能していなかったということにあります。言うならば、あなたは目覚めのときは思考機能と関わり、眠りのときは思考機能と関わっていなかったということです。
それでは、どちらがあなたの本性でしょうか? 思考と関わっているほうでしょうか、関わっていないほうでしょうか?

(対話520)


マハルシ 「私」という想念が初めに立ち現れ、それからその他のあらゆる想念が生まれます。それらが心というものを構成します。心は対象であり、「私」は主体です。「私」なしに意思がありえるでしょうか? 意思は「私」の中に含まれています。「私」という想念は知性の鞘であり、意思はその一部なのです。
心は想念だけで形作られており、「これ」が対象で、「私」が主体です。

(対話277)


マハルシ これらの疑いはすべて、誤った観点と自分の外側の物事に結果を期待するために起こります。

(対話157)


ヨーガする人の魂は清浄で
心と感覚を支配し
すべての生物に思いやりがあり
絶え間なく働いても決して仕事に縛られない


神聖な意識の人は
見ても 聞いても 触れても
嗅ぐ 食う 動く 眠る 呼吸等をしても
内心では”私は何も為していない”と観る


話すときも 捨てたり取ったりする時も
また眼を開け閉じするときも
五官がその対象と作用しているのみと観じ
彼は常に超然としているのだ


神はあるレベルでは、すべてのものの材料を構成する物質である。別のレベルでは、さまざまな次元の時間の流れであり、複数の並行宇宙を創り出す時間のゆがみである。また、さらに別のレベルでは、物質を支えている光と呼ばれる振動数だ。そして、すべての中で最も偉大なレベルでは、あなたを今の位置に保っている「何もないもの」、すなわち思考であり、宇宙の永遠性なのだ。


神とは、永遠に続いていく生命全体であり、それは脈打ち、広がり、進化している。それは「在ること」であり、この「在ること」は、これまでにあったものを許容するものであり、いま在るものが広がっていくことであり、これからやってくるものを約束するものだ。それは生命を与える動きであり、特定のゴールや理想に到達するのではなく、思考から光へ、それから物質へと、絶え間なく生命を創造し続けている無限の思考プロセスなのである。神は在るものすべての本質であり、この在るものすべては、つねに変化し続け、創造し続け、広がり続け、存在し続ける「ある動機をもった力」の中に在るのである。


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質問者 私たちはまるで動物のように、果てしなく無益な追求のために走りまわっているようです。いったい出口があるのでしょうか?


マハラジ 多くの道があなたに差しだされてきた。それらはあなたをひと回りさせ、出発点に連れ戻すものだ。まずあなたの問題が、目覚めの状態にしか存在しないことを認識しなさい。それがいかに苦痛に満ちたものであっても、眠りについたとき、あなたはすべて忘れることができるということを認識しなさい。目覚めているとき、あなたは意識している。眠っているとき、あなたはただ生きているだけだ。意識と生命。その両方をあなたは神と呼ぶかもしれない。だがあなたはその両方を超えているのだ。神を超え、存在と非存在を超えている。あなた自身がすべてであり、すべてを超えていると知ることを妨げているのは、記憶に基づいたマインドなのだ。あなたがマインドを信頼するかぎり、それはあなたを支配しつづけるだろう。それと闘ってはいけない。ただ無視しなさい。注目を奪われて、それは速度を落とし、その働きの機構を露わにする。ひとたびその本性と目的を知れば、マインドが想像上の問題をつくり出すことをあなたは許さないだろう。


質問者 すべての問題が想像上のものでないことは確かです。そこには現実の問題もあります。


マハラジ マインドがつくり出さなかった問題などというものがありうるだろうか? 生と死は問題をつくらない。苦痛と快楽は来ては去っていく。体験されたことは忘れられる。達成と逃避の問題をつくり出すのは、好きと嫌いに色づけされた記憶と期待だ。真理と愛が人の真の本性であり、マインドとハートはその表現の手段なのだ。


質問者 どのようにして何を欲しているのか知らないマインドを制御すればよいのでしょうか?


マハラジ それは暗闇のなかで作用することはできない。それが正しく機能するには、気づきの純粋な光が必要なのだ。制御しようとする努力はすべて、マインドを記憶の命令の支配下に置くことになる。記憶は良き召使いだが、悪い主人だ。それは発見を巧妙に妨害するのだ。実在のなかに努力の場はない。主要な問題と、そのほかすべての問題の原因は、身体との自己同一化による利己主義にあるのだ。努力によって利己主義を取り除くことはできない。ただ、原因と結果への明晰な洞察によってのみなされるのだ。努力は互いに相容れない欲望の間に起こる葛藤の徴候だ。それらはあるがままに見られなければならない。そのときにだけ、それらは消え去るのだ。


質問者 そして、何が残るのでしょうか?


マハラジ 変化することのできないもの、それが残る。偉大な平和、深い沈黙、秘められた実在の美が残るのだ。それは言葉によって伝えられない、と同時に、それはあなた自身によって体験されることを待っているのだ。


質問者 人は真我実現にふさわしく、適するようにならなければいけないのでしょうか? 私たちの本性は、その内奥に動物性を潜めているのです。それが克服されるまでは、実在が現れることをどうして期待できるでしょうか?


マハラジ 動物性のことは放っておきなさい。それをそのままにしておくがいい。ただあなたが何なのかを覚えておきなさい。観照者としてのあなたなしには神も動物もありえないということを、日々のあらゆる出来事をきっかけにして思い起こしなさい。あなたは存在するすべての本質と実体の両方なのだと理解しなさい。そしてあなたの理解の中に確固としてとどまりなさい。


質問者 理解で充分なのでしょうか? もっと明確な証拠が必要ではないのでしょうか?


マハラジ 証拠の妥当性について決定するのはあなたの理解なのだ。だが、あなた自身の存在以上に、どのような確実な証拠が必要だと言うのかね? あなたがどこへ行こうと、あなたはあなた自身を見いだすのだ。あなたがどれほど遠くにたどり着いたとしても、あなたはそこにいるのだ。


質問者 明らかに、私は遍在するものでも、永遠なるものでもありません。私は今ここにいるだけです。


マハラジ 充分だ。「ここ」はいたるところにあり、「今」はつねにあるのだ。「私は身体だ」という観念を超えていきなさい。そうすれば、あなたは時間と空間があなたのなかにあり、あなたが時間と空間のなかに在るのではないことを見いだすだろう。ひとたびあなたがこれを理解すれば、真我の実現のための主要な障害は取り除かれるのだ。


質問者 理解を超えた真我の実現とは何でしょうか?


マハラジ 深い密林にたくさんのトラがいる。そして、あなたは丈夫な鉄の檻のなかにいると想像してみなさい。檻によって無事に守られていることを知っているため、あなたはトラたちを恐れなく見ている。つぎに、檻のなかにトラたちがいて、あなたはジャングルのなかをうろつきまわっている。最後に、檻は消え、あなたはトラに乗っているのだ!


質問者 私は最近、ボンベイで行なわれた瞑想セッションのひとつに参加しました。そこで私は参加者が自暴自棄になり、精神錯乱しているのを目にしたのです。なぜ人びとはそのようなことをしに行くのでしょうか?


マハラジ それらはみな、感覚的刺激を探求する人びとを満足させるために落ち着きのないマインドが発案したものだ。それらのいくつかは、抑圧された願望や記憶を吐きだすことで無意識の助けとなる。そしてその程度の解放を与えるのだ。しかし、最終的には、彼は何も変わらないままか、あるいはさらに悪くなることさえあるのだ。


質問者 最近、私はあるヨーギの瞑想体験について書かれた本を読みました。それは幻想や幻聴、色彩や音楽であふれ、たいへん人目を引く内容でした。もっとも華麗な娯楽です! 最後には、それらはすべて消え去り、ただ恐れのない感覚だけが残ったのです。無理もありません。それらすべての体験を無傷で通り抜けてきた人には、何も恐れるものなどないのです! それでも、そのような本が私にとっていったい何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ おそらく、何の役にも立たないだろう、それはあなたの興味を引かなかったのだから。ほかの人は感動させられたかもしれない。人は異なるのだ。だが、誰もが自己の存在という事実に直面させられる。「私は在る」は究極の事実だ。「私は誰か?」はすべての人が答えを見いださなければならない究極の質問なのだ。


質問者 同じ答えでしょうか?


マハラジ 本質においては同じだ。表現は多様だ。
それぞれの探求者は自分に合う方法を受け入れ、あるいは発明し、誠実さと努力とともにそれを自分に適用する。彼は彼の気性や期待にしたがって結果を得、それを言葉の鋳型に鋳込め、システムを築きあげ、伝統を設立し、他者を彼のヨーガの学校に入会させるのだ。それはすべて記憶と想像の上に築きあげられたものだ。そのような学校は、無価値でもなければ必要不可欠でもない。より以上の進歩を可能にするために、進歩へのすべての欲望が放棄される地点まで進歩することができる。そうなれば、すべての学校は放棄され、すべての努力は終わり、孤独と暗闇のなかで無知と恐れを永遠に終焉させる最後の一歩が踏まれるのだ。
真の師は弟子を既成の観念、感情、行為に押しこめようとはしない。その反対に、師はすべての観念や組み込まれた行動様式から自由になる必要性を忍耐強く示すのだ。注意を怠らず、誠実であり、どこであれ人生が彼を連れていくままにしたがい、楽しみも苦しみもせず、ただ理解し、学んでいくように。
正しい師のもとでは、弟子は記憶し服従することではなく、学ぶことを学んでいく。サットサン、すなわち聖者との交際は鋳型にはめるのではなく、解放するのだ。あなたを依存させるすべてに気をつけなさい。いわゆる「師への明け渡し」はほとんどの場合、悲劇でなければ、良くても失望に終わる。幸運にも、誠実な探求者は体験からより賢明になって、巻きこまれる前に自分を危険から救うのだ。


質問者 明け渡しには確かに価値があります。


マハラジ 明け渡しとは利己的関心事を明け渡すことだ。それはできるわけがない。あなたがあなたの真の本性を実現するとき、それは起こるのだ。言葉の上の明け渡しは、たとえ感情をともなっていても、緊張下では失意のうちに終わってしまう。最善の場合でも、それは熱望を表すが、実際的事実ではない。


質問者 『リグ・ヴェーダ』* のなかではアディ・ヨーガ、原初のヨーガについて言及されています。私が理解するには、それは智慧と生命をひとつに結びつけることを意味するプラジニャーとプラーナの結婚から成るものです。あなたなら、それはまたダルマとカルマ、公正さと行為の統合をも意味すると言われるでしょうか?


* 訳注 『リグ・ヴェーダ』 Rig Veda ヒンドゥー教のなかで最古、最高、そしてもっとも神聖なる聖典として知られ、また世界においても最古の宗教書。ヴェーダの神々への讃歌。


マハラジ もし公正さが自己の真の本性との調和を意味し、非利己的な無欲の行為を意味するのであれば、そのとおりだ。
アディ・ヨーガにおいては人生そのものがグルであり、マインドが弟子なのだ。マインドは人生に仕え、それを支配したりしない。人生は自然に努力なしに流れ、マインドは流れをすみやかにするために障害物を取り除くのだ。


質問者 人生はその本性から言って反復的なものではないでしょうか? 人生にしたがっていくことは沈滞に導くのではありませんか?


マハラジ それ自体では、人生は途方もなく創造的なものだ。一粒の種子が、やがて森林となる。マインドは森林官のように、存在の膨大な生命力の衝動を保護し調整しているのだ。


質問者 マインドによる生命への奉仕という見方をすれば、アディ・ヨーガは完全な民主主義です。誰もが彼の最善の能力と知識で人生を生きることに従事し、誰もが同じグルの弟子なのです。


マハラジ あなたの言うとおりかもしれない。可能性としては、おそらくそうだろう。だが、人生が熱望と熱心さをともなって愛され信頼されるまでは、意識のなかの動き、行為のなかの気づきであるヨーガについて語ることは夢想的なものでしかない。


質問者 あるとき、私は岩の合間を流れる渓流を眺めていました。それぞれの岩で、岩の大きさと形にしたがって流れの動きは異なっていました。個人とは皆、単に身体の上を流れる動きであり、同時に生命はひとつであり永遠なのではありませんか?


マハラジ 流れの動きと水は別々のものではない。流れの妨害があなたに水の存在を気づかせたのだ。意識はつねに運動と変化のなかにある。不変の意識といったものはありえない。不変なるものは即座に意識をぬぐい去るだろう。内面、あるいは外面の感覚を奪われた人は意識を失い、あるいは意識と無意識を超えて不死不生の状態のなかへと入っていくだろう。霊魂と物質がであったときにだけ意識は生まれるのだ。


質問者 それらはひとつでしょうか、二つでしょうか?


マハラジ それはあなたが使う言葉によって、ひとつ、二つ、あるいは三つなのだ。調べていくことで三つは二つとなり、二つはひとつとなる。顔と鏡とイメージという直喩で見てみなさい。どの二つをとってみても、その二つを結びつける第三の存在が前提にある。あなたが二つはひとつだと悟るまでは、サーダナ(修練)によって三つを二つとして見るのだ。
あなたが世界に没頭しているかぎり、あなた自身を知ることは不可能だ。あなた自身を知るためには、世界から注意を引き離し、内面へと向けなさい。


質問者 私には世界を破壊することはできません。


マハラジ その必要はない。ただ、あなたが見ているものは、あるがままのものではないということを理解しなさい。現れは調べることによって消え去り、根源的な実在が表層に現れるだろう。逃げだすために家を燃やす必要はない。あなたはただ歩いて外に出るだけだ。家が牢獄となるのは、あなたが自由に行き来できなくなったときだけだ。私は意識から自由に自然に出たり入ったりすることができる。そしてそれゆえ、世界は我が家であって牢獄ではないのだ。


質問者 しかし究極的に、世界は存在するのでしょうか、しないのでしょうか?


マハラジ あなたが見ているものは、ほかでもないあなたの自己なのだ。あなたの好きなようにそれを呼ぶがいい。それが事実を変えることはない。運命(プラーラブダ)のフィルムを通して、あなた自身の光がスクリーン上に絵を描いていく。あなたはそれを鑑賞する人であり、光であり、絵であり、スクリーンでもあるのだ。運命のフィルムさえも自ら選択され、自らに課されたものだ。その精神は障害を乗り越えることを楽しむひとつの競技だ。その努めが困難なほど、真我の実現はより深く広いものとなるのだ。


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同時


・国外に核爆弾または新型爆弾の実戦使用(世界の危機)
・国内にアベの憲法改正の意図(日本の危機)


この二つの懸案が同時にかかってくるようだ。
残念ながら北朝鮮問題を目くらましにして内閣支持率は回復してしまった。


北東アジアの夜間の衛星写真を見ればわかるが、北朝鮮の闇は現実だ。
この現実に対して韓国や日本のファンタジー願望は意味をなさない。


多くの人がこう思っているのではないか。
韓国と日本の犠牲者の数を思えば、米国は動けるわけがない。
だが違う。


米国は、同盟国の犠牲を考慮した上で攻撃できる。
そして、それを決定するのが表に出ている政治家だとは限らない。
米国は人道で動いていない。次の100年の国益で日本と韓国を犠牲にする決定を採りうる。
日本と韓国は史上最悪の危機に瀕している。


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なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。だれかを批判する考えが浮かんだとき、それを否定したり、そんなことはないとごまかしたり、あいつこそが悪いのだと投影したりすることもできます。しかし、それに気づいて、その考えに癒しをもたらすこともできます。人を攻撃する考えを隠すこともできますし、告白することもできます。


教会での告解(こっかい)の儀式は、儀式というもののつねとして、その本来の目的を果たさなくなっています。本来の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。その人はローブを着ている必要もありませんし、なにか権威ある立場にいなければならないこともありません。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちはこれからもあるでしょうから、過ちをおかすたびに、ありがたく思うようにしてください。過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。もしあなたがそれをしていることに気づかなければ、一生それをやりつづけ、それが人生の目的になってしまいます。


むしろ過ちを告白すれば、すべての時間を言い訳にあてる必要がなくなります。自分のごまかしを認めれば、過去という限界に縛りつけられることもなくなります。あらゆる衝突をオープンに認めてください。兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。それはあなたが恐怖心や不正直さ、罪悪感をもたずに生きるための薬なのです。この薬を飲んでください、友よ。前にもわたしはこの薬をさしだしましたが、もう一度、さしだします。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたが兄弟とともに演じている、見せかけ、ふりのゲームのせいです。兄弟よりも自分のほうが倫理的で正しい、ということがありえると、あなたは本気で信じていますか。


あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。兄弟があなたを非難するとき、彼は自分自身をも非難しているのです。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。あなたは革命的な教えを伝えているのです。あなたの告白によって、ほかの人も自分自身の過ちを、あわれみをもって見てよいのだとわかるのですから。


自分の過ちを認める人は、人々への燈台のようなものです。その人は、自分の闇のマントを脱ぎ捨てたのです。そのひとを通じて光が輝きます。その心が、透明で、真実が楽々と流れでるすきとおった通路になっているからです。


兄弟はすぐに、この人は信頼できるとわかり、その手をとろうとします。このような人は真の司祭です。自分自身の罪を宥したので、それを他人の罪にも及ぼすことができます。この人の権威は外部からではなく、内部から来ます。宗教的な権威者と世間で認定されているわけではありません。でもそのもとへ来る人はすべて、この人こそ力のある人だと知り、信頼し、自分を打ち明けます。


これが告解ということの真実です。どんな男でも女でも聴聞司祭になりえます。わたしの名前をかたってあなたがたに伝えられている、いかなるうそをも信じないでください。常識を働かせてください。


もしあなたが、うそを許容できなくて宗教に背を向けてしまったのだとしたら、それを恥じることはありません。ごまかしを教え、自分だけを権威者とし、罪悪感を植えつけるような教会に対しては、わたしも背を向けるでしょう。


そうした偽りの教えを拒否するのは、正しいことです。しかし、聖職者の衣をまとった世俗的な偽善者への怒りがあるからといって、わたしと直接に交流することをやめないでほしいのです。他人に教えられたことすべてを忘れ、自分のハートの中にいまある真実だけに思いをめぐらせてみてください。そのハートの中で、あなたとわたしは出会います。わたしの教えや生涯をあざけるような見かけだおしの建物の中ではなく。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


それによって失うものは、この世のくもりと混乱だけではありませんか。秘密を秘密にしておいて、迷路の中にとどまりますか。それともそれを告白し、暗く曲がりくねった小径(こみち)から抜け出しますか。選ぶのはあなたです。


でも、自分をごまかさないでください。隠蔽や闇の中には救済はありません。救済は、真実の光の中にいる人だれにでも与えられます。その光の中には、恥や罪といった影は残っていることはできません。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。兄弟にむかって打ち明けなさい。そうすればいつか、彼もまたあなたを信じて打ち明けるでしょう。真実を否定したり、それを聞かなかったふりをするのはやめてください。わたしはここで、あなたがたに理解できるようなシンプルな言葉で真理を語ったではありませんか。このさきはあなたしだいです。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。


ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。わたしの中にある光は、あなたの中にもあります。わたしがあなたがたにまさって、神に愛されているわけではありません。兄弟姉妹よ、このことは自分のハートの中でおのずとわかってくるでしょう。どれほど外から教えられたり説かれたりしても、それを信じることはできません。


だからこそ、実践してくださいと、わたしは言います。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。あなたがたは、わたしの言葉だけを通して理解するのではありません。教えたことすべてを、わたしは自分の生涯で示しました。ですから友よ、あなたも同じようにしてください。


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質問者 私はアメリカで生まれました。この一年間は、マディア・プラデーシュにあるアーシュラムに滞在し、ヨーガとそのさまざまな相を研究していました。偉大なシヴァーナンダ・サラスヴァティの弟子をグル(師)とする私たちの師は、モンギュルに滞在しています。私はシュリー・ラマナアシュラムにも滞在していました。ボンベイではゴエンカによって主催されているビルマ式の集中瞑想コースに参加しました。それにもかかわらず、私はいまだ平和を見いだしてはいません。自己制御と日々の規律には改善が見られますが、ただそれだけです。私には何が何によってひき起こされたのか正確には言えません。多くの聖地も訪れてきました。それらはどのように私に影響を与えてきたのかは、私には言えません。


マハラジ 遅かれ早かれ、良い結果が現れるだろう。シュリー・ラマナアシュラムでは何か指導を受けたのだろうか?


質問者 ええ。あるイギリス人が教えてくれました。それから、そこに定住しているジニャーナ・ヨーガを修めるインド人もまたレッスンをしてくれました。


マハラジ あなたの予定は?


質問者 ビザの関係で、アメリカに戻らなければなりません。理学士の学位を取得して自然治癒法を研究し、それを職業にしようと思っています。


マハラジ 間違いなく良い職業だ。


質問者 たとえいかに犠牲を払っても、ヨーガの道を追求していこうとすることに、何らかの危険があるでしょうか?


マハラジ 家が火事で燃えているとき、マッチ棒が危険だろうか? 実在を探求することは、すべての仕事のなかでもっとも危険なものだ。なぜなら、それはあなたの住んでいる世界を破壊するからだ。しかし、もしあなたの動機が真理と生命への愛であるならば、恐れる必要はない。


質問者 私は自分自身のマインドを恐れています。それはとても不安定なのです!


マハラジ あなたのマインドの鏡のなかで、イメージが現れては消えていく。鏡はそのままだ。すべての相違は現れのなかにだけあり、実際はひとつなのだと悟るまで、可動のものから不動のものを、変化するもののなかから不変のものを識別することを学びなさい。神、ブラフマン、母体(プラクリティ)、名前はともかく、この基本的なアイデンティティだけが、すべてはひとつだという真我の実現なのだ。ひとたびあなたが直接体験から生まれた確信とともに「私は世界であり、世界は私自身だ」と言うことができたとき、一方であなたは欲望と恐れから自由であり、もう一方では世界に対する完全な責任があるのだ。人類の愚かな悲しみはあなたの唯一の関心事となるのだ。


質問者 それでは、ジニャーニ(賢者)にさえも問題はあるのですね!


マハラジ そうだ。だが、それはもはや彼の創造したものではない。彼の悲しみは罪の感覚によって毒されたものではないのだ。ほかの人たちのために苦しむことは何も間違ったことではない。あなたがたのキリスト教はこのことを根底に置いているのだ。


質問者 すべての苦しみは自己による創造物なのではありませんか?


マハラジ そのとおりだ。苦しみをつくり出す分離した自己がそこにあるかぎりは。究極的に、そこには罪も、犯罪も、報復もなく、ただ生命の果てしない変容があるだけだとあなたは知るのだ。個人的な「私」が消え去るとき、個人的苦しみも消え去る。大いなる慈悲の悲哀と不必要な苦痛は残るのだ。


質問者 ものごとの成り立ちのなかに何か不必要なものがあるのでしょうか?


マハラジ 必要なものは何もない。不可避なものも何もない。習慣と情熱は盲目にし、惑わせる。慈悲心による気づきが癒し、救いをもたらすのだ。私たちにできることは何もない。私たちにできることは、その本性にしたがってものごとが起こるにまかせるだけだ。


質問者 あなたは完全な受動性を指示されるのでしょうか?


マハラジ 明晰性と慈愛が行為なのだ。愛がたゆむことはない、明晰性が導いていく。あなたが行為について心配する必要はない。マインドとハートの面倒を見るがいい。愚かさと利己主義が唯一の悪なのだ。


質問者 神の名の復唱と瞑想、どちらがより良いのでしょうか?


マハラジ 復唱はあなたの呼吸を安定させる。深く静かな呼吸によって、生命力が改善される。それが脳に影響を与え、マインドの浄化を助け、瞑想にふさわしくするのだ。生命力なしには何もなされない。それゆえ、生命力の維持と増強が重要となるのだ。姿勢と呼吸はヨーガの一部だ。なぜなら、身体は良い健康状態で制御されていなければならないからだ。だが、身体への過度な集中も本来の目的にそむいてしまう。なぜなら、はじめのうちはマインドが第一とされるからだ。マインドがやすらぎ、内なる空間(チダカーシュ)を乱さないとき、身体は新たな意味を得、変容は必要となり、また可能ともなるのだ。


質問者 私はインド中を巡り、多くのグルと出会い、いくつかのヨーガを少しずつ学んできました。このようにすべてからすこしずつ味わうことはいいことでしょうか?


マハラジ いいや。これはただの前置きにすぎない。あなたはあなたの道を見いだす助けをさし出す人に出会うだろう。


質問者 私は自分で選んだグルは真のグルではありえないのではないのかと感じています。真の師であるなら、彼は予期できず、抵抗できない形で現れるはずです。


マハラジ 期待しないことが最善だ。あなたの反応の仕方が決定するのだ。


質問者 私は自分の反応のマスターなのでしょうか?


マハラジ 今、識別し無執着であれば、適切な時期にその実を結ぶだろう。もし根元が健康で水のやり具合も良ければ、果実はかならず甘いものとなるだろう。純粋で、目覚め、準備を整えておきなさい。


質問者 苦行や禁欲主義は役に立つのでしょうか?


マハラジ 人生のあらゆる浮き沈みにであうことは充分な苦行だ。苦難を発明する必要などない。何であれ、人生がもたらすものを明るく受け入れていくことが、あなたに必要な苦行のすべてだ。


質問者 犠牲に関してはどうでしょうか?


マハラジ 誰であれ必要とする人に、進んで喜んで分け与えなさい。自分自身に残酷な試練を与えたりしてはならない。


質問者 明け渡しとは何でしょうか?


マハラジ 来るものを受け入れなさい。


質問者 私は自分の足で立つには弱すぎると感じています。私にはグルと善き人びととの聖なる交友が必要だと感じるのです。マインドの平静は私にとって手の届かないものです。ものごとを起こるがままに受け入れることは私をおびえさせます。アメリカに帰ることを考えるとぞっとするのです。


マハラジ 帰りなさい。そしてあなたに与えられた機会に最善を尽くしなさい。理学士の学位をまず取得しなさい。あなたは自然療法の研究のためにいつでもインドに戻ることができる。


質問者 アメリカでのチャンスについてはよくわかっています。私をおびえさせるのは孤独なのです。


マハラジ あなたには、いつもあなた自身の自己という仲間がいる。孤独を感じる必要はない。それから離れれば、インドにいたとしても孤独を感じるだろう。すべての幸福は自己を喜ばすことから来るのだ。自己を満足させなさい。アメリカに戻ったら、あなたのハートのなかの荘厳なる実在に値しないようなことは何もしてはならない。そうすれば、あなたは幸せだろう。そして幸せでありつづけるだろう。だが、自己を見いださなければならない。そして見いだした後、それとともにとどまるのだ。


質問者 完全に独りであることは何かの助けになるでしょうか?


マハラジ それはあなたの気質にかかっている。あなたはほかの者たちとともに、そしてほかの者たちのために、注意深く友好的に働くかもしれない。そしてあなたを愚鈍にし、マインドの果てしないおしゃべりに翻弄させてしまう孤独のなかよりもより完全に成長するかもしれない。努力によって変化をもたらすことができるなどと想像してはいけない。暴力は、たとえ自分自身に向けられたものでも、苦行や禁欲主義のように実を結ばないものなのだ。


質問者 誰が実現し、誰がしていないのかを見分ける方法はないのでしょうか?


マハラジ 唯一の証明はあなたのなかにある。もしあなたが黄金に変身すれば、それは賢者の石に触れたことのしるしなのだ。その人と一緒にいて、何が起こるかを見てみることだ。ほかの者たちに尋ねてはならない。彼らの師があなたのグルであるとはかぎらない。グルは本質において普遍的かもしれないが、表現においては異なるのだ。彼は自分のアーシュラムのことを心配していたり、貪欲だったり、怒っていたりするように見えるかもしれない。一方、ほかの教師たちは違うかもしれない。


質問者 内面と外面の両方での完璧さを期待するべきではないのでしょうか?


マハラジ 内面においては、そのとおりだ。しかし、外面の完璧さは環境、体の状態、個人的、社会的状態など、無数の要因によるのだ。


質問者 私はジニャーニを探しだすように、そうすれば自己知識を達成する技を彼から学べるだろうと言われました。そして今、その取り組み方自体が間違ったものであり、ジニャーニを認めることはできず、ジニャーナ(自己知識)を適切な方法で獲得することもできないと言われたのです。まったく訳がわかりません!


マハラジ それは実在に関するまったくの誤解によるものだ。あなたのマインドは価値評価することや獲得することに没頭している。そして獲得不可能なものがあなたの認識を永遠に待っていることを認めることはないだろう。あなたが為すべきことは、すべての記憶と期待を放棄することだけだ。ただ、完全に無防備な無の状態のなかで待つがいい。


質問者 誰が放棄をするのでしょうか?


マハラジ 神がするだろう。ただ、放棄される必要があることを見なさい。抵抗してはいけない。あなた自身だと思いこんでいる個人にしがみついてはいけない。あなたがあなた自身を個人だと想像するために、賢者もまたより知識があり、より能力があり、どこか普通とは違う個人だろうと思ってしまうのだ。彼は永遠に意識的で幸福だとあなたは言うかもしれない。だが、それも全体としての真理からは遠くかけ離れたものなのだ。定義や描写を信頼してはいけない。それらはひどく誤った印象を与えてしまうのだ。


質問者 どうすればいいのか、どのようにするのかを言ってもらわないかぎり、迷ってしまいます。


マハラジ ならば迷うがいい。あなたが有能で自信があると感じているかぎり、実在はあなたの手の届かないところにあるのだ。あなたが内なる冒険をひとつの生き方として受け入れないかぎり、発見はあなたに訪れないだろう。


質問者 何の発見でしょうか?


マハラジ あなたの存在の中心の発見だ。それはすべての方向、すべての手段と結果から自由なものだ。


質問者 「すべてに成れ、すべてを知れ、すべてを持て」でしょうか?


マハラジ 「何にもなるな、何も知るな、何も持つな」だ。これが唯一生きる価値のある生き方、唯一手にする価値のある幸福なのだ。


質問者 目的が私の理解を超えたものだということは認めましょう。少なくとも道を示してもらえませんか。


マハラジ あなた自身で道を見いださなければならないのだ。あなた自身で見いださないかぎり、それはあなた自身の道ではないだろう。そして、それはどこへもあなたを導きはしないだろう。誠実にあなたの見いだした真理を生きなさい。理解したわずかなことにしたがって行動しなさい。あなたを導くのはほかの誰かの賢さではなく、あなた自身の誠実さなのだ。


質問者 私は過ちを犯すことを恐れるのです。とても多くのことを試みてきましたが、何にもなりませんでした。


マハラジ あなたはほんのわずかしかあなた自身を捧げていない。単に興味があるだけで、誠実ではないのだ。


質問者 それ以上良い在り方を知らないのです。


マハラジ 少なくともそれくらいは、あなたも知っている。それが表面的であることを知り、あなたの体験に価値を与えることはやめなさい。体験が過ぎしだい忘れなさい。清らかな無我の人生を生きなさい。ただ、それだけだ。


質問者 倫理がそんなに重要でしょうか?


マハラジ 騙してはいけない。傷つけてはいけない──それは重要なことではないかね。何よりも、あなたには内面と外面の調和を要する内なる平和が必要なのだ。あなたの信じることをしなさい。そしてあなたのすることを信じなさい。それ以外のすべては時間とエネルギーの浪費なのだ。


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