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所有物1(いち)


ポケットの中に醤油を1瓶忍ばせていたりして、所有物1のときがあります。
でもこの場合は所有物1を持っている「私」がいるので、所有物2です。


所有物1は、手に何か持っているという「手」という観念さえありません。
その場合の唯一の所有物とはいったいなんでしょうか。
1(いち)にはそもそも「所有」という関係性がないとか、2(に)がないときそもそも1(いち)も0(ぜろ)もないとかいう話は脇に置きます。


映画のスクリーンを想像してみたとき、
そこに映る映像がたとえばダイハード1のジョン・マクレーンの爆発飛び降りシーンだとします。
マハルシは気づきを「スクリーン」として描写しますが、
問題は「気づきの構成」です。


爆発飛び降りシーン全体が本当の「気づきの構成」ですが、
当のジョン・マクレーンは自身を主体だと感じているので、
ジョン・マクレーン 対 爆発
の構図になっています。
浮き出るように、ジョン・マクレーンの思考、行為、努力、願望、過程、結果に意識の焦点があたっているため、「気づきの構成要素」は本来のそれとズレています。
日常生活では主にジョン・マクレーンの思考、感情、行為に焦点があたっています。


スクリーンはジョン・マクレーンを演じているのではありません。
本来の「気づきの構成」に沿わない限り、スクリーンは気づかれないままです。
気づかれているのはジョン・マクレーンです。
所有物1とはなんでしょうか。


マハルシ ある医者が患者に一つだけ条件をつけて薬を処方しました。その条件とは、「薬を飲むときに猿のことを考えてはならない」というものです。猿のことを考えまいと思うたびに猿のことを考えはしないでしょうか?
それと同じことで、人々が想念を放棄しようとするとき、その試み自体が目的の達成を阻むのです。


あなたは「あれ」でもなければ「それ」でもありません。「私は在る」が真理なのです。ただの「存在」のみが自然なものであり、「人間としての存在」に限定する必要はないのです。

(対話601)


完全さは、あなたが真実を話すとき、人を感心させようという願いを捨てるとき、いつわりの自尊心を放棄するときに、ひとりでに、また楽に達成されるものなのです。
自分を修正し、正しくしてくださいと願うものは、それを受けとるでしょう。それはその人が他人より良い人間であったからではなく、ただそれを願い求めたからです。
自分の過ちを認める準備のできていない人たちを、悪いと判断しないでください。ただ自分の過ちを認め、あとは神におまかせします。
あなたの経験を人と分かちあってください。でも、押しつけてはいけません。あなたには、ほかの人が何を必要としているかわからないのですし、それはあなたが知らなくてよいことです。
兄弟の中にある善を思い出してください。あなた自身の中の善を思い出してください。どんな恐怖心や判断の気持ちがわきおこっても、その場で溶かし去ってください。自分の過ちを認め、他人の過ちに寛大になりなさい。


人を裁くかわりに、自分が<思考の目>を持っていることに気づいてください。そして世界や人生やものごとを自分がどのように見たり考えたりしているのか、詳しく観察するのです。人と話すときには、自分が何を言っているのかに注意を払ってください。何かを主張し、自分が<正しい>ことを相手に納得させようとしている──そうした自分の言葉によく耳を傾けてください。自分らしく振るまい、自分の考えを述べ、したいことをしてください。ただ、どうか自分の言葉に耳を傾けてください。そして自分の考えのもとになっている固定観念は何なのか、自分自身に問いかけてください。
話しているときに、人は自分のこうした固定観念にあまり注意を払っていません。ですから自分の話す言葉をよく聞いて、「この考えはどこから来たのだろうか。こうであるべきだと誰から教わったのだろうか」と自問してみてください。固定観念を手元に持ってきて、よく調べてみるのです。そうすれば、その考えがどのようにして生まれたのか、どのようにして自分の考えになったのか、が理解できるようになるでしょう。


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生命からの分離と、「不完全」と呼ばれる理解は、何かがほかのものよりも偉大であるとみなしたときにのみ生じるものである。だが、生命という現実の中では、何かがほかのものより偉大であったり劣っていたりすることはない。すべてのものはただ在るだけであって、「在ること」という平等性の中にあるのだ。それゆえ、すべてのものは「完全な状態」、もっと適切な言い方をすれば、「在るという状態」、「ただ存在するという状態」にある。何かをその本当の姿である「在ること」という完全性よりも劣っているとみなすのは、態度という集合的な思考だけなのだ。


さて、最大の分離は、あなた方が人間という化身に入ったときに起こった。その時点までは、あなた方は自分をすべてのものから分離させ始めてはいたが、それでもまだ自分が神であること、そして自分の存在が不死であることを知っていたのである。だが、あなた方が自分を化身のレベルまで下げ、細胞物質という現実を体験し始めたとき、空腹や寒さや生存といった肉体的機能にとらわれてしまったのだ。つまりそれは、自分がなった化身を維持するための苦労のことである。こうして、あなたは細胞物質と結びついたわけだが、細胞物質は、それが創造されたときに、それ自体が生存していけるようにプログラムされていた。偉大なる不死の存在と、自らの構造を生き延びさせようとする物質的機構との結婚は、「ただ在る」というあなたの自我の状態を大きく変質させた。これが「知識の木」、すなわち「変質した自我」の誕生である。そして、あなたの変質した自我をさらに強め、自分は神であり、不死であり、すべての生命とひとつであることを「知っている状態」をさらに変質させたのは、この天界での恐れや競争や嫉妬といったさまざまな感情の体験であったが、それらの感情は魂に記録され、細胞構造の中にプログラムされていったのである。


神々が最終的に自分たちを男と女という形に変え、自分たちがほかの創造物よりも賢くなり、ほかの創造物から逃げられるようになることにすべての意識を集中したとき、神々は変質した生の状態に入ってしまった。皮肉だったのは、自分たちを餌食にする動物からは逃げられたとしても、自分たちの意識を支配し始めていた生存に関わるさまざまな態度からは逃げられなかったことだ。生存に関わる態度と死に対する恐怖が、結局は神々の体を衰えさせてしまったのである。というのも、ある存在がどんなものを恐れていようと、その存在は恐れているものそのものになっていくからだ。


残念なことに、「すべての生命と一体である」という理解は、創造物をデザインしていく過程で、「より偉大である」、「すぐれている」といった思考と競争を通してすでに失われ始めていた。


マスターよ、このことを言っておきたい。すべてのものと一体である状態は、本当にわずか一瞬、わずか一息しか離れていないのだ。自分の存在の奥深くで、もはやいかなるものとも自分を切り離したくないと望むとき、あなたはもはや切り離された存在ではなくなる。すべての思考から自分を切り離してきたのは、あなたの態度、制限された考え方、変質したアイデンティティーにほかならない。


マスターよ、自分であるものを愛しなさい。それを愛するのだ。自分が永遠の存在であり、自分は神なのだと知りなさい。ただそれを知るのだ。それを感じ、その思考を抱き容れなさい。多くの時代を通してあなたを守ってきた本能という遺産が、自分は死すべき人間ではなく、まさに不死の存在であり、自分は限られた人間ではなく、まさに限りない神なのだという「知っている状態」に出会ったとき、あなたの魂はこの限りない思考をあなたの化身の全細胞に伝え、それによって細胞は歓喜することだろう。そうなれば、あなたの体は、その中に宿る偉大なる神の無限の思考に喜んでしたがうようになる。そして、これまであなたの体は、本能的な生存のために不安や用心深さを保持してきたのだから、今や体がその細胞の中に無限の神を宿し、体中の物質が「神なる自分」のすべてと整合した状態へと統一されるときがきているのだ。


マハルシ この詩節の真の意義は、アートマンだけをとらえ、そこから道を踏み外さないことです。


問題が起こるのは、自分自身以外のものが存在するときです。「アートマンは唯一存在する一者である」ということを真に理解すれば、他者もなく恐れの原因もなくなるでしょう。


真我に心をとどめ、行為者という感覚なしに、自然に行為しなさい。そうすれば、行為の結果があなたに影響することはないだろう。


「真我の内に在る」ことが『ギーター』の教えの大要であり、精髄なのです。

(対話58)


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質問者 賢者の日々のマインドの状態とはどのようなものでしょうか? 彼はどのように見、聞き、食べ、飲み、目覚め、働き、そして休むのでしょうか? 彼の境地が私たちのものと異なるという証拠は何でしょうか? いわゆる実現したと言われる人びとの証言以外に、客観的に彼らの状態を証明する方法はありません。何か観察可能な違いが彼らの生理学的な、そして神経反応、物質代謝、または脳波、あるいは心身相関の構造のなかにあるのでしょうか?


マハラジ あなたは違いを見つけるかもしれないし、見つけないかもしれない。すべてはあなたの観察の能力にかかっている。しかしながら、客観的な違いがもっとも重要なものではない。問題は彼らの見地と彼らの態度にある。それは超然として、冷静で、完全に無執着で在ることだ。


質問者 ジニャーニの子供が死んだとき、彼は悲しみを感じるのでしょうか? 彼は苦しまないのでしょうか?


マハラジ 彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。出来事自体が重要なのではない。だが、生きていようと死んでいようと、身体のなかにいようと外にいようと、彼は苦しむ人たちに対して慈悲に満ちている。やはり、彼の本性は愛と慈悲なのだ。彼はすべての生命とひとつであり、行為のなかでひとつであることが愛なのだ。


質問者 人びとは死をとても恐れています。


マハラジ ジニャーニに恐れるものは何もない。だが彼は恐れている人を憐れむ。つまるところ、生まれること、生きること、そして死ぬことは自然なことだ。恐れることは自然ではない。もちろん、起きていることに注意は払われる。


質問者 あなたが病気だと想像してください。医師が、あなたの病状は深刻なもので、あと二、三日しかもたないだろうと言ったとします。あなたの最初の反応は何でしょうか?


マハラジ 無反応だ。線香の火に燃えつきるときが来ることが自然なように、身体が死ぬのは自然なことだ。それはまったく重要な問題ではない。重要なことは、私は身体でもマインドでもないということだ。私は在る。


質問者 あなたの家族は絶望するでしょう。彼らに何と伝えるのでしょうか?


マハラジ よく言われることだ。恐れてはならない。人生は続いていく。神があなたたちを守るだろう。私たちはすぐにまた一緒になるだろう、といったことだ。だが、私にとってこの動揺全体は無意味なものだ。なぜなら、私は生きるとか死ぬといった想像をする実体ではないからだ。私はけっして生まれなかった。私に死ぬことはできないのだ。私には覚えることも忘れることもない。


質問者 死者への祈りはどうなるのですか?


マハラジ もちろん、死者への祈りを捧げるがいい。それはとても彼らの意にかなうだろう。彼らは嬉しく思う。ジニャーニはあなたがたの祈りを必要としていない。彼自身があなたがたの祈りへの応えなのだ。


質問者 死の後、ジニャーニはどのように旅立っていくのでしょう?


マハラジ ジニャーニはすでに死んでいる。あなたは彼にもう一度死ぬことを期待するのかね?


質問者 もちろん、身体の崩壊はジニャーニにとっても重要な出来事に違いありません。


マハラジ ジニャーニに重要な出来事というものはない。誰かが最高の目的を成就したときを除いては。そのときだけは、彼のハートも喜ぶ。それ以外のすべてに対して彼は関心がない。宇宙全体が彼の身体であり、すべての生命は彼の生命なのだ。都会でひとつの電球が切れたとき、それがネットワーク全体に影響を与えることはない。同じようにひとつの身体の死が全体に影響を与えることはないのだ。


質問者 特定の存在は、全体にとって問題ではないかもしれませんが、特定の存在にとっては問題です。全体とは抽象的なものですが、特定の存在は具体的なものであり、現実です。


マハラジ それはあなたがそう言うだけだ。私にとってはその反対だ。全体が現実で、部分は来ては去るものだ。特定の存在は誕生、再誕生し、名前と形を変えていく。ジニャーニは、その変化を可能にする不変の実在なのだ。しかし、彼はあなたに確信を与えることはできない。それはあなた自身の体験とともにやってこなければならないのだ。私にとってはすべてがひとつであり、すべてが同等だ。


質問者 罪と徳はひとつであり、同じものなのでしょうか?


マハラジ それらはみな人間のつくり出した価値だ。それらが私にどんな意味をもつというのだろう? 結果的に幸福をもたらすなら、それは徳だ。結果的に不幸をもたらすものは罪だ。どちらもマインドの状態だ。私の境地はマインドの状態ではないのだ。


質問者 私たちは見るということの意味を理解できずにいる盲人のようです。


マハラジ あなたの好きなように言うがいい。


質問者 沈黙の修練は、サーダナとして効果的なものでしょうか?


マハラジ 何であれあなたが悟りを得るためにすることは、あなたを悟りへと近づける。何であれあなたが悟りを覚えることなしにする行為は、あなたを悟りから遠ざける。だが、なぜそう事を複雑にするのかね? ただ、あなたはすべてのものごとや思考を超えているということを覚えておきなさい。あなたが成りたいもの、あなたはすでにそれなのだ。ただ、それを心にとどめておきなさい。


質問者 あなたの言うことは聞いていますが、私には信じられないのです。


マハラジ 私もまた同じ立場にいたのだ。だが、私はグルを信頼し、彼はそれが正しいことを証明した。もしできるならば、私を信頼しなさい。私の言うことを心にとどめておきなさい。何も望んではならない。なぜなら、あなたは何ひとつ欠いてはいないからだ。探すということ自体が見つけるということを妨げるのだ。


質問者 あなたは本当にすべてのことに無関心なようですね!


マハラジ 私は無関心なのではない。公平なのだ。私には、私と私のものへの選り好みがないのだ。かごいっぱいの土とかごいっぱいの宝石はどちらも不要なものだ。生と死はどちらも同じことだ。


質問者 公平さがあなたを無関心にするのです。


マハラジ その反対に、慈悲と愛が私の核だ。すべての偏愛を離れ、愛することに自由なのだ。


質問者 仏陀は、悟りの概念は非常に重要なものだと言いました。ほとんどの人たちは、悟りのために努力している人たちがいることはもちろん、そのようなものがあるということさえ知らずに生きています。ひとたび、彼らがそれについて耳にしたなら、けっして絶えることのない種子がまかれたのです。それゆえ、彼は毎年八カ月間、彼の比丘(ビク)たちに絶え間なく教えを説くように送りだしたのです。


マハラジ 「人は食物、衣服、住居、知識、愛情を与えることができるが、最上の贈り物は悟りの福音だ」と私のグルはよく言ったものだった。あなたの言うとおりだ。悟りは最上の贈り物だ。ひとたび、それを得たら、誰もそれをあなたから取り上げることはできない。


質問者 もし西洋であなたがこのように話したら、人びとはあなたを狂人だと思うでしょう。


マハラジ もちろん、彼らはそう思うだろう! 無知なる人びとにとって、彼らに理解できないことはすべて狂気なのだ。それが何だというのだろう? 彼らは彼らのままであればいい。私が私であることに何の益もなく、彼らが彼らであることに何の過ちもない。至高の実在は無数の方法でそれ自身を顕現する。果てしない数の名前と形がある。同じ海のなかにすべては立ち現れ、すべては溶けあう。すべての源はひとつだ。原因と結果を探し求めることはマインドの娯楽にすぎない。存在するもの、それは愛すべきものだ。愛は結果ではなく、存在の基盤そのものだ。どこへ行こうと、あなたは存在と意識と愛を見いだすだろう。いったいどうして、何のために選り好みをするのだろうか?


質問者 洪水や地震のような自然災害が、何千何百万人もの命を奪うことがあっても、私を悩ましはしません。しかし、ひとりの人間が人の手によって死ぬとき、私は途方もなく悲しみます。不可避のものにはそれ自体の威厳があります。しかし、殺すことは避けることができるものです。そしてそれゆえ、醜く恐ろしいものなのです。


マハラジ すべては起こるように起こるのだ。自然なものであれ、人為的なものであれ、災難は起こる。怖がる必要はないのだ。


質問者 原因なしに何かがありうるのでしょうか?


マハラジ すべての出来事のなかに宇宙全体が反映されている。究極的な原因の由来を調べることは不可能だ。因果律の概念自体はただの考え方にすぎない。原因のない存在の出現を想像することはできない。しかしながら、それが因果関係の存在を証明するわけではないのだ。


質問者 自然にはマインドがありません。それゆえ、責任はありません。しかし、人にはマインドがあります。なぜ人のマインドはそれほどまで邪悪なのでしょうか?


マハラジ 邪悪さの原因もまた遺伝や環境などの自然なものだ。あなたは性急に非難しすぎる。他者について思い煩うことはやめなさい。あなた自身のマインドを最初に扱いなさい。あなたのマインドもまた、自然の一部分であることを自覚すれば、二元性は消え去る。


質問者 私には計り知れない不思議としか言えません。マインドがどうして自然の一部分でありうるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、自然はマインドのなかにあるからだ。マインドなしで自然がどこにあるだろうか?


質問者 もし自然がマインドのなかに在り、マインドが私自身のものならば、私は自然を制御できるはずですが、それは事実ではありません。私の制御を超えた力が、私の行動を決定するのです。


マハラジ 観照の姿勢を発達させなさい。そうすれば、あなたは無執着が制御をもたらすということを自らの体験をもって見いだすだろう。観照している状態は完全な力をもっている。そこには何も受動的なことはないのだ。


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森羅万象いかなる処にもわたしを見
わたしのなかに森羅万象を見る人を
わたしは必ず見ている
彼は常にわたしと共にある

バガヴァッド・ギーター 第6章30節


肉体の目:自分に起こる感情的な反応などを含めてありのままに見ること
思考の目:自分の感情や思考が外界に投影されたもの、自分独自の観点
霊性の目:


思考のレベルで、誰が正しいのかを決めることはできません。ただ言えることは、人はその人でしかあり得ない、ということです。
裁かずに、自己の「投影」に気づいていてください。


霊性の目は時間と距離を超越し、影響を与えます。


マハルシ あなたは純粋意識なのです。グリハスタ・ダルマも世界も純粋意識の上に現れた単なる現象にすぎず、それは影響を受けることなくとどまります。


疑いが誰にとって起こるのかを見なさい。疑う者とは誰でしょうか? 考える者とは誰でしょうか? それは自我です。それをとらえなさい。
自我がどこから立ち現れるのかを見いだしなさい。それが純粋意識なのです。


「私は実現できるだろうか?」という疑いや、「私はまだ実現していない」という感覚自体が障害なのです。

(対話251)


マハルシ ヨーギーは脳の中枢、あるいは千の花弁の蓮と呼ばれるサハスラーラに達することを最重要視しています。
事実は、身体は心の中に存在し、心は脳をその座としています。
その源に直接向かいなさい。借り物の源泉に依存してはならないのです。


集中とは一つのことを考えることではありません。その反対に、それは私たちの真の本性のヴィジョンを妨げるすべての想念を取り除くことなのです。

(対話398)


質問者 どうすればアートマンを見いだせるでしょうか?


マハルシ アートマンの探究ということはありえません。真我ではないものだけが探究の対象となり、それを排除することだけが可能なのです。

(対話78)


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。


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愛と希望と喜びを内にはらんだあなた方の大切な魂が、叡智と思いやりの荘厳な花へと開いていく中で、そして見える見えないにかかわらずあらゆる生命を抱き容れる愛の荘厳な花へと開いていく中で、この天界でのあなた方の人生の日々を通して、私はつねにあなた方全員とともにあるだろう。だが、そのような瞬間よりも、あなたが自分の内面に神を見て、神を理解し、神を知る瞬間のほうが、遥かに、遥かに偉大な瞬間なのである。


さて、これまで私は、考えられる限りのあらゆる言い方で、何度も何度も繰り返し、あなたが知り得る最も偉大な真実を語ってきた。その真実とは、「あなたは神である」ということだ。


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質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


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リンリンリン


東京都の中心は23区でしょうか。それとも国分寺市?
人によって重心が異なります。
ここにたとえばドーナツがあって、その何もない部分、穴の中心を意識している場合でも
「ドーナツの中心」だと思っている人と、「ドーナツとは一切関係ない空間の中心」だと感じている人の重心は異なります。ドーナツの中心とは「肉の中心」のことです。


本当はみんな、最初から、何もせずに「操舵輪の中心」にいます。
可能性の中心、誕生の中心です。
ですが、ドーナツの中心(肉体に対する操作権があるから?)だと思い込んでいます。
ドーナツの部分が目立ちすぎるから。可能性を主に身体に制限されてきたからです。


真我ではないものの排除とは、この「肉の中心感」の重心を捨てることです。


「一切関係ない」ということが基本認識かもしれません。


質問者 言葉で伝えられた個人的な教えに価値があるのです。


マハルシ もしも何か新しく未知なものなら教えも適切でしょうが、ここでは心を静め、想念から自由であることが教えなのです。


質問者 日々の生活の中にその状態は見られません。


マハルシ 日々の生活と霊的な人生が異なると想像されたとき、問題は起こるのです。

(対話376)


あなたが意識を集中できないのは、パワフルな瞬間とそうでない瞬間があると信じていることが原因です。


犯人:そうでない瞬間がある、と信じている


被害:意識を集中できない


マハルシ あなたは深い眠りの中でも存在していたのです。そのときのあなたと今存在しているあなたは同じ人ですか? 違いますか?


質問者 同じです。


マハルシ 違いは、眠りの中のあなたは機能していなかったということにあります。言うならば、あなたは目覚めのときは思考機能と関わり、眠りのときは思考機能と関わっていなかったということです。
それでは、どちらがあなたの本性でしょうか? 思考と関わっているほうでしょうか、関わっていないほうでしょうか?

(対話520)


マハルシ 「私」という想念が初めに立ち現れ、それからその他のあらゆる想念が生まれます。それらが心というものを構成します。心は対象であり、「私」は主体です。「私」なしに意思がありえるでしょうか? 意思は「私」の中に含まれています。「私」という想念は知性の鞘であり、意思はその一部なのです。
心は想念だけで形作られており、「これ」が対象で、「私」が主体です。

(対話277)


マハルシ これらの疑いはすべて、誤った観点と自分の外側の物事に結果を期待するために起こります。

(対話157)


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ヨーガする人の魂は清浄で
心と感覚を支配し
すべての生物に思いやりがあり
絶え間なく働いても決して仕事に縛られない


神聖な意識の人は
見ても 聞いても 触れても
嗅ぐ 食う 動く 眠る 呼吸等をしても
内心では”私は何も為していない”と観る


話すときも 捨てたり取ったりする時も
また眼を開け閉じするときも
五官がその対象と作用しているのみと観じ
彼は常に超然としているのだ


神はあるレベルでは、すべてのものの材料を構成する物質である。別のレベルでは、さまざまな次元の時間の流れであり、複数の並行宇宙を創り出す時間のゆがみである。また、さらに別のレベルでは、物質を支えている光と呼ばれる振動数だ。そして、すべての中で最も偉大なレベルでは、あなたを今の位置に保っている「何もないもの」、すなわち思考であり、宇宙の永遠性なのだ。


神とは、永遠に続いていく生命全体であり、それは脈打ち、広がり、進化している。それは「在ること」であり、この「在ること」は、これまでにあったものを許容するものであり、いま在るものが広がっていくことであり、これからやってくるものを約束するものだ。それは生命を与える動きであり、特定のゴールや理想に到達するのではなく、思考から光へ、それから物質へと、絶え間なく生命を創造し続けている無限の思考プロセスなのである。神は在るものすべての本質であり、この在るものすべては、つねに変化し続け、創造し続け、広がり続け、存在し続ける「ある動機をもった力」の中に在るのである。


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質問者 私たちはまるで動物のように、果てしなく無益な追求のために走りまわっているようです。いったい出口があるのでしょうか?


マハラジ 多くの道があなたに差しだされてきた。それらはあなたをひと回りさせ、出発点に連れ戻すものだ。まずあなたの問題が、目覚めの状態にしか存在しないことを認識しなさい。それがいかに苦痛に満ちたものであっても、眠りについたとき、あなたはすべて忘れることができるということを認識しなさい。目覚めているとき、あなたは意識している。眠っているとき、あなたはただ生きているだけだ。意識と生命。その両方をあなたは神と呼ぶかもしれない。だがあなたはその両方を超えているのだ。神を超え、存在と非存在を超えている。あなた自身がすべてであり、すべてを超えていると知ることを妨げているのは、記憶に基づいたマインドなのだ。あなたがマインドを信頼するかぎり、それはあなたを支配しつづけるだろう。それと闘ってはいけない。ただ無視しなさい。注目を奪われて、それは速度を落とし、その働きの機構を露わにする。ひとたびその本性と目的を知れば、マインドが想像上の問題をつくり出すことをあなたは許さないだろう。


質問者 すべての問題が想像上のものでないことは確かです。そこには現実の問題もあります。


マハラジ マインドがつくり出さなかった問題などというものがありうるだろうか? 生と死は問題をつくらない。苦痛と快楽は来ては去っていく。体験されたことは忘れられる。達成と逃避の問題をつくり出すのは、好きと嫌いに色づけされた記憶と期待だ。真理と愛が人の真の本性であり、マインドとハートはその表現の手段なのだ。


質問者 どのようにして何を欲しているのか知らないマインドを制御すればよいのでしょうか?


マハラジ それは暗闇のなかで作用することはできない。それが正しく機能するには、気づきの純粋な光が必要なのだ。制御しようとする努力はすべて、マインドを記憶の命令の支配下に置くことになる。記憶は良き召使いだが、悪い主人だ。それは発見を巧妙に妨害するのだ。実在のなかに努力の場はない。主要な問題と、そのほかすべての問題の原因は、身体との自己同一化による利己主義にあるのだ。努力によって利己主義を取り除くことはできない。ただ、原因と結果への明晰な洞察によってのみなされるのだ。努力は互いに相容れない欲望の間に起こる葛藤の徴候だ。それらはあるがままに見られなければならない。そのときにだけ、それらは消え去るのだ。


質問者 そして、何が残るのでしょうか?


マハラジ 変化することのできないもの、それが残る。偉大な平和、深い沈黙、秘められた実在の美が残るのだ。それは言葉によって伝えられない、と同時に、それはあなた自身によって体験されることを待っているのだ。


質問者 人は真我実現にふさわしく、適するようにならなければいけないのでしょうか? 私たちの本性は、その内奥に動物性を潜めているのです。それが克服されるまでは、実在が現れることをどうして期待できるでしょうか?


マハラジ 動物性のことは放っておきなさい。それをそのままにしておくがいい。ただあなたが何なのかを覚えておきなさい。観照者としてのあなたなしには神も動物もありえないということを、日々のあらゆる出来事をきっかけにして思い起こしなさい。あなたは存在するすべての本質と実体の両方なのだと理解しなさい。そしてあなたの理解の中に確固としてとどまりなさい。


質問者 理解で充分なのでしょうか? もっと明確な証拠が必要ではないのでしょうか?


マハラジ 証拠の妥当性について決定するのはあなたの理解なのだ。だが、あなた自身の存在以上に、どのような確実な証拠が必要だと言うのかね? あなたがどこへ行こうと、あなたはあなた自身を見いだすのだ。あなたがどれほど遠くにたどり着いたとしても、あなたはそこにいるのだ。


質問者 明らかに、私は遍在するものでも、永遠なるものでもありません。私は今ここにいるだけです。


マハラジ 充分だ。「ここ」はいたるところにあり、「今」はつねにあるのだ。「私は身体だ」という観念を超えていきなさい。そうすれば、あなたは時間と空間があなたのなかにあり、あなたが時間と空間のなかに在るのではないことを見いだすだろう。ひとたびあなたがこれを理解すれば、真我の実現のための主要な障害は取り除かれるのだ。


質問者 理解を超えた真我の実現とは何でしょうか?


マハラジ 深い密林にたくさんのトラがいる。そして、あなたは丈夫な鉄の檻のなかにいると想像してみなさい。檻によって無事に守られていることを知っているため、あなたはトラたちを恐れなく見ている。つぎに、檻のなかにトラたちがいて、あなたはジャングルのなかをうろつきまわっている。最後に、檻は消え、あなたはトラに乗っているのだ!


質問者 私は最近、ボンベイで行なわれた瞑想セッションのひとつに参加しました。そこで私は参加者が自暴自棄になり、精神錯乱しているのを目にしたのです。なぜ人びとはそのようなことをしに行くのでしょうか?


マハラジ それらはみな、感覚的刺激を探求する人びとを満足させるために落ち着きのないマインドが発案したものだ。それらのいくつかは、抑圧された願望や記憶を吐きだすことで無意識の助けとなる。そしてその程度の解放を与えるのだ。しかし、最終的には、彼は何も変わらないままか、あるいはさらに悪くなることさえあるのだ。


質問者 最近、私はあるヨーギの瞑想体験について書かれた本を読みました。それは幻想や幻聴、色彩や音楽であふれ、たいへん人目を引く内容でした。もっとも華麗な娯楽です! 最後には、それらはすべて消え去り、ただ恐れのない感覚だけが残ったのです。無理もありません。それらすべての体験を無傷で通り抜けてきた人には、何も恐れるものなどないのです! それでも、そのような本が私にとっていったい何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ おそらく、何の役にも立たないだろう、それはあなたの興味を引かなかったのだから。ほかの人は感動させられたかもしれない。人は異なるのだ。だが、誰もが自己の存在という事実に直面させられる。「私は在る」は究極の事実だ。「私は誰か?」はすべての人が答えを見いださなければならない究極の質問なのだ。


質問者 同じ答えでしょうか?


マハラジ 本質においては同じだ。表現は多様だ。
それぞれの探求者は自分に合う方法を受け入れ、あるいは発明し、誠実さと努力とともにそれを自分に適用する。彼は彼の気性や期待にしたがって結果を得、それを言葉の鋳型に鋳込め、システムを築きあげ、伝統を設立し、他者を彼のヨーガの学校に入会させるのだ。それはすべて記憶と想像の上に築きあげられたものだ。そのような学校は、無価値でもなければ必要不可欠でもない。より以上の進歩を可能にするために、進歩へのすべての欲望が放棄される地点まで進歩することができる。そうなれば、すべての学校は放棄され、すべての努力は終わり、孤独と暗闇のなかで無知と恐れを永遠に終焉させる最後の一歩が踏まれるのだ。
真の師は弟子を既成の観念、感情、行為に押しこめようとはしない。その反対に、師はすべての観念や組み込まれた行動様式から自由になる必要性を忍耐強く示すのだ。注意を怠らず、誠実であり、どこであれ人生が彼を連れていくままにしたがい、楽しみも苦しみもせず、ただ理解し、学んでいくように。
正しい師のもとでは、弟子は記憶し服従することではなく、学ぶことを学んでいく。サットサン、すなわち聖者との交際は鋳型にはめるのではなく、解放するのだ。あなたを依存させるすべてに気をつけなさい。いわゆる「師への明け渡し」はほとんどの場合、悲劇でなければ、良くても失望に終わる。幸運にも、誠実な探求者は体験からより賢明になって、巻きこまれる前に自分を危険から救うのだ。


質問者 明け渡しには確かに価値があります。


マハラジ 明け渡しとは利己的関心事を明け渡すことだ。それはできるわけがない。あなたがあなたの真の本性を実現するとき、それは起こるのだ。言葉の上の明け渡しは、たとえ感情をともなっていても、緊張下では失意のうちに終わってしまう。最善の場合でも、それは熱望を表すが、実際的事実ではない。


質問者 『リグ・ヴェーダ』* のなかではアディ・ヨーガ、原初のヨーガについて言及されています。私が理解するには、それは智慧と生命をひとつに結びつけることを意味するプラジニャーとプラーナの結婚から成るものです。あなたなら、それはまたダルマとカルマ、公正さと行為の統合をも意味すると言われるでしょうか?


* 訳注 『リグ・ヴェーダ』 Rig Veda ヒンドゥー教のなかで最古、最高、そしてもっとも神聖なる聖典として知られ、また世界においても最古の宗教書。ヴェーダの神々への讃歌。


マハラジ もし公正さが自己の真の本性との調和を意味し、非利己的な無欲の行為を意味するのであれば、そのとおりだ。
アディ・ヨーガにおいては人生そのものがグルであり、マインドが弟子なのだ。マインドは人生に仕え、それを支配したりしない。人生は自然に努力なしに流れ、マインドは流れをすみやかにするために障害物を取り除くのだ。


質問者 人生はその本性から言って反復的なものではないでしょうか? 人生にしたがっていくことは沈滞に導くのではありませんか?


マハラジ それ自体では、人生は途方もなく創造的なものだ。一粒の種子が、やがて森林となる。マインドは森林官のように、存在の膨大な生命力の衝動を保護し調整しているのだ。


質問者 マインドによる生命への奉仕という見方をすれば、アディ・ヨーガは完全な民主主義です。誰もが彼の最善の能力と知識で人生を生きることに従事し、誰もが同じグルの弟子なのです。


マハラジ あなたの言うとおりかもしれない。可能性としては、おそらくそうだろう。だが、人生が熱望と熱心さをともなって愛され信頼されるまでは、意識のなかの動き、行為のなかの気づきであるヨーガについて語ることは夢想的なものでしかない。


質問者 あるとき、私は岩の合間を流れる渓流を眺めていました。それぞれの岩で、岩の大きさと形にしたがって流れの動きは異なっていました。個人とは皆、単に身体の上を流れる動きであり、同時に生命はひとつであり永遠なのではありませんか?


マハラジ 流れの動きと水は別々のものではない。流れの妨害があなたに水の存在を気づかせたのだ。意識はつねに運動と変化のなかにある。不変の意識といったものはありえない。不変なるものは即座に意識をぬぐい去るだろう。内面、あるいは外面の感覚を奪われた人は意識を失い、あるいは意識と無意識を超えて不死不生の状態のなかへと入っていくだろう。霊魂と物質がであったときにだけ意識は生まれるのだ。


質問者 それらはひとつでしょうか、二つでしょうか?


マハラジ それはあなたが使う言葉によって、ひとつ、二つ、あるいは三つなのだ。調べていくことで三つは二つとなり、二つはひとつとなる。顔と鏡とイメージという直喩で見てみなさい。どの二つをとってみても、その二つを結びつける第三の存在が前提にある。あなたが二つはひとつだと悟るまでは、サーダナ(修練)によって三つを二つとして見るのだ。
あなたが世界に没頭しているかぎり、あなた自身を知ることは不可能だ。あなた自身を知るためには、世界から注意を引き離し、内面へと向けなさい。


質問者 私には世界を破壊することはできません。


マハラジ その必要はない。ただ、あなたが見ているものは、あるがままのものではないということを理解しなさい。現れは調べることによって消え去り、根源的な実在が表層に現れるだろう。逃げだすために家を燃やす必要はない。あなたはただ歩いて外に出るだけだ。家が牢獄となるのは、あなたが自由に行き来できなくなったときだけだ。私は意識から自由に自然に出たり入ったりすることができる。そしてそれゆえ、世界は我が家であって牢獄ではないのだ。


質問者 しかし究極的に、世界は存在するのでしょうか、しないのでしょうか?


マハラジ あなたが見ているものは、ほかでもないあなたの自己なのだ。あなたの好きなようにそれを呼ぶがいい。それが事実を変えることはない。運命(プラーラブダ)のフィルムを通して、あなた自身の光がスクリーン上に絵を描いていく。あなたはそれを鑑賞する人であり、光であり、絵であり、スクリーンでもあるのだ。運命のフィルムさえも自ら選択され、自らに課されたものだ。その精神は障害を乗り越えることを楽しむひとつの競技だ。その努めが困難なほど、真我の実現はより深く広いものとなるのだ。


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私たち(大いなる光の私たちの側にいるエネルギーたち)は、この神の恩寵という概念をできるだけ多くの方法で紹介したいと思いました。
意識の主な部分は、”神の恩寵”と一般に呼ばれるものです。それは”神の大いなる愛”であり、宇宙の根源である神から完全に受け入れられるという体験をすることです。このことを知ってほしいと思います。


至上者(かみ)に知性が帰入せぬ者は
心も統御されず 知性も安定せず
平安の境地は望むべくもない


わたしのこの教えを理解した修行者は





ヴェーダの学習や供犠 苦行
慈善などの行事(報果を求める善行)に心を費やさず





それらを超えた至高の浄土に往く


質問者 どうすれば眠りを打ち破ることができるでしょうか?


マハルシ その活動や結果を意識せずにいなさい。

(対話356)


「どうかアハム・スプラナ(「私─私」の光)についてご説明ください」


マハルシ 眠りの中では「私」は知られていません。目覚めるとともに、「私」は身体、世界、非真我と結びついた形で知覚されます。そのような結びつきを持った「私」がアハム・ヴリッティ(「私」という想念)と呼ばれ、そのアハムが真我だけを表すとき、アハム・スプラナと呼ばれるのです。これはジニャーニ(真我を実現した人)にとって自然なものです。ジニャーニはそれをジニャーナと呼び、バクタはバクティと呼びます。アハム・スプラナは(眠りの状態も含めて)常に存在しているにもかかわらず、知覚されずにいます。それを眠りの中で知ることはできません。それはまず目覚めの状態において認識されなければならないのです。なぜなら、それは三つの状態すべての根底にある自己の本性だからです。
努力は目覚めの状態でのみ為されるべきものです。努力することで、真我は今ここで実現されるのです。実現された後には、真我が目覚め(ジャーグラト)、夢見(スワプナ)、眠り(スシュプティ)に妨げられることなく、常に、絶えず存在していることがわかるでしょう。それゆえ、真我はアカンダーカーラ・ヴリッティ(途切れることのない体験)なのです。
本来のヴリッティは(眠りでは不在なため)短期間のものです。それは(目覚めと夢見のときだけに)限定され、ある方向に向けられた意識なのです。あるいは、それは想念や感覚などを認識することによって分割された絶対意識とも言えるでしょう。
ヴリッティは心の働きですが、途切れることのない意識は心を超越しています。これが解脱した人(ジニャーニ)の自然な、原初の状態です。それは途切れることのない体験です。相対的意識が静まったとき、それはそれ自体を顕わにします。アハム・ヴリッティ(「私」という想念)は途切れるものですが、アハム・スプラナ(「私─私」の光)は途切れることなく永続的なものです。その光は思考が静まったときに輝き出すのです。

(対話307)


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なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。だれかを批判する考えが浮かんだとき、それを否定したり、そんなことはないとごまかしたり、あいつこそが悪いのだと投影したりすることもできます。しかし、それに気づいて、その考えに癒しをもたらすこともできます。人を攻撃する考えを隠すこともできますし、告白することもできます。


教会での告解(こっかい)の儀式は、儀式というもののつねとして、その本来の目的を果たさなくなっています。本来の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。その人はローブを着ている必要もありませんし、なにか権威ある立場にいなければならないこともありません。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちはこれからもあるでしょうから、過ちをおかすたびに、ありがたく思うようにしてください。過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。もしあなたがそれをしていることに気づかなければ、一生それをやりつづけ、それが人生の目的になってしまいます。


むしろ過ちを告白すれば、すべての時間を言い訳にあてる必要がなくなります。自分のごまかしを認めれば、過去という限界に縛りつけられることもなくなります。あらゆる衝突をオープンに認めてください。兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。それはあなたが恐怖心や不正直さ、罪悪感をもたずに生きるための薬なのです。この薬を飲んでください、友よ。前にもわたしはこの薬をさしだしましたが、もう一度、さしだします。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたが兄弟とともに演じている、見せかけ、ふりのゲームのせいです。兄弟よりも自分のほうが倫理的で正しい、ということがありえると、あなたは本気で信じていますか。


あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。兄弟があなたを非難するとき、彼は自分自身をも非難しているのです。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。あなたは革命的な教えを伝えているのです。あなたの告白によって、ほかの人も自分自身の過ちを、あわれみをもって見てよいのだとわかるのですから。


自分の過ちを認める人は、人々への燈台のようなものです。その人は、自分の闇のマントを脱ぎ捨てたのです。そのひとを通じて光が輝きます。その心が、透明で、真実が楽々と流れでるすきとおった通路になっているからです。


兄弟はすぐに、この人は信頼できるとわかり、その手をとろうとします。このような人は真の司祭です。自分自身の罪を宥したので、それを他人の罪にも及ぼすことができます。この人の権威は外部からではなく、内部から来ます。宗教的な権威者と世間で認定されているわけではありません。でもそのもとへ来る人はすべて、この人こそ力のある人だと知り、信頼し、自分を打ち明けます。


これが告解ということの真実です。どんな男でも女でも聴聞司祭になりえます。わたしの名前をかたってあなたがたに伝えられている、いかなるうそをも信じないでください。常識を働かせてください。


もしあなたが、うそを許容できなくて宗教に背を向けてしまったのだとしたら、それを恥じることはありません。ごまかしを教え、自分だけを権威者とし、罪悪感を植えつけるような教会に対しては、わたしも背を向けるでしょう。


そうした偽りの教えを拒否するのは、正しいことです。しかし、聖職者の衣をまとった世俗的な偽善者への怒りがあるからといって、わたしと直接に交流することをやめないでほしいのです。他人に教えられたことすべてを忘れ、自分のハートの中にいまある真実だけに思いをめぐらせてみてください。そのハートの中で、あなたとわたしは出会います。わたしの教えや生涯をあざけるような見かけだおしの建物の中ではなく。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


それによって失うものは、この世のくもりと混乱だけではありませんか。秘密を秘密にしておいて、迷路の中にとどまりますか。それともそれを告白し、暗く曲がりくねった小径(こみち)から抜け出しますか。選ぶのはあなたです。


でも、自分をごまかさないでください。隠蔽や闇の中には救済はありません。救済は、真実の光の中にいる人だれにでも与えられます。その光の中には、恥や罪といった影は残っていることはできません。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。兄弟にむかって打ち明けなさい。そうすればいつか、彼もまたあなたを信じて打ち明けるでしょう。真実を否定したり、それを聞かなかったふりをするのはやめてください。わたしはここで、あなたがたに理解できるようなシンプルな言葉で真理を語ったではありませんか。このさきはあなたしだいです。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。


ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。わたしの中にある光は、あなたの中にもあります。わたしがあなたがたにまさって、神に愛されているわけではありません。兄弟姉妹よ、このことは自分のハートの中でおのずとわかってくるでしょう。どれほど外から教えられたり説かれたりしても、それを信じることはできません。


だからこそ、実践してくださいと、わたしは言います。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。あなたがたは、わたしの言葉だけを通して理解するのではありません。教えたことすべてを、わたしは自分の生涯で示しました。ですから友よ、あなたも同じようにしてください。


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質問者 私はアメリカで生まれました。この一年間は、マディア・プラデーシュにあるアーシュラムに滞在し、ヨーガとそのさまざまな相を研究していました。偉大なシヴァーナンダ・サラスヴァティの弟子をグル(師)とする私たちの師は、モンギュルに滞在しています。私はシュリー・ラマナアシュラムにも滞在していました。ボンベイではゴエンカによって主催されているビルマ式の集中瞑想コースに参加しました。それにもかかわらず、私はいまだ平和を見いだしてはいません。自己制御と日々の規律には改善が見られますが、ただそれだけです。私には何が何によってひき起こされたのか正確には言えません。多くの聖地も訪れてきました。それらはどのように私に影響を与えてきたのかは、私には言えません。


マハラジ 遅かれ早かれ、良い結果が現れるだろう。シュリー・ラマナアシュラムでは何か指導を受けたのだろうか?


質問者 ええ。あるイギリス人が教えてくれました。それから、そこに定住しているジニャーナ・ヨーガを修めるインド人もまたレッスンをしてくれました。


マハラジ あなたの予定は?


質問者 ビザの関係で、アメリカに戻らなければなりません。理学士の学位を取得して自然治癒法を研究し、それを職業にしようと思っています。


マハラジ 間違いなく良い職業だ。


質問者 たとえいかに犠牲を払っても、ヨーガの道を追求していこうとすることに、何らかの危険があるでしょうか?


マハラジ 家が火事で燃えているとき、マッチ棒が危険だろうか? 実在を探求することは、すべての仕事のなかでもっとも危険なものだ。なぜなら、それはあなたの住んでいる世界を破壊するからだ。しかし、もしあなたの動機が真理と生命への愛であるならば、恐れる必要はない。


質問者 私は自分自身のマインドを恐れています。それはとても不安定なのです!


マハラジ あなたのマインドの鏡のなかで、イメージが現れては消えていく。鏡はそのままだ。すべての相違は現れのなかにだけあり、実際はひとつなのだと悟るまで、可動のものから不動のものを、変化するもののなかから不変のものを識別することを学びなさい。神、ブラフマン、母体(プラクリティ)、名前はともかく、この基本的なアイデンティティだけが、すべてはひとつだという真我の実現なのだ。ひとたびあなたが直接体験から生まれた確信とともに「私は世界であり、世界は私自身だ」と言うことができたとき、一方であなたは欲望と恐れから自由であり、もう一方では世界に対する完全な責任があるのだ。人類の愚かな悲しみはあなたの唯一の関心事となるのだ。


質問者 それでは、ジニャーニ(賢者)にさえも問題はあるのですね!


マハラジ そうだ。だが、それはもはや彼の創造したものではない。彼の悲しみは罪の感覚によって毒されたものではないのだ。ほかの人たちのために苦しむことは何も間違ったことではない。あなたがたのキリスト教はこのことを根底に置いているのだ。


質問者 すべての苦しみは自己による創造物なのではありませんか?


マハラジ そのとおりだ。苦しみをつくり出す分離した自己がそこにあるかぎりは。究極的に、そこには罪も、犯罪も、報復もなく、ただ生命の果てしない変容があるだけだとあなたは知るのだ。個人的な「私」が消え去るとき、個人的苦しみも消え去る。大いなる慈悲の悲哀と不必要な苦痛は残るのだ。


質問者 ものごとの成り立ちのなかに何か不必要なものがあるのでしょうか?


マハラジ 必要なものは何もない。不可避なものも何もない。習慣と情熱は盲目にし、惑わせる。慈悲心による気づきが癒し、救いをもたらすのだ。私たちにできることは何もない。私たちにできることは、その本性にしたがってものごとが起こるにまかせるだけだ。


質問者 あなたは完全な受動性を指示されるのでしょうか?


マハラジ 明晰性と慈愛が行為なのだ。愛がたゆむことはない、明晰性が導いていく。あなたが行為について心配する必要はない。マインドとハートの面倒を見るがいい。愚かさと利己主義が唯一の悪なのだ。


質問者 神の名の復唱と瞑想、どちらがより良いのでしょうか?


マハラジ 復唱はあなたの呼吸を安定させる。深く静かな呼吸によって、生命力が改善される。それが脳に影響を与え、マインドの浄化を助け、瞑想にふさわしくするのだ。生命力なしには何もなされない。それゆえ、生命力の維持と増強が重要となるのだ。姿勢と呼吸はヨーガの一部だ。なぜなら、身体は良い健康状態で制御されていなければならないからだ。だが、身体への過度な集中も本来の目的にそむいてしまう。なぜなら、はじめのうちはマインドが第一とされるからだ。マインドがやすらぎ、内なる空間(チダカーシュ)を乱さないとき、身体は新たな意味を得、変容は必要となり、また可能ともなるのだ。


質問者 私はインド中を巡り、多くのグルと出会い、いくつかのヨーガを少しずつ学んできました。このようにすべてからすこしずつ味わうことはいいことでしょうか?


マハラジ いいや。これはただの前置きにすぎない。あなたはあなたの道を見いだす助けをさし出す人に出会うだろう。


質問者 私は自分で選んだグルは真のグルではありえないのではないのかと感じています。真の師であるなら、彼は予期できず、抵抗できない形で現れるはずです。


マハラジ 期待しないことが最善だ。あなたの反応の仕方が決定するのだ。


質問者 私は自分の反応のマスターなのでしょうか?


マハラジ 今、識別し無執着であれば、適切な時期にその実を結ぶだろう。もし根元が健康で水のやり具合も良ければ、果実はかならず甘いものとなるだろう。純粋で、目覚め、準備を整えておきなさい。


質問者 苦行や禁欲主義は役に立つのでしょうか?


マハラジ 人生のあらゆる浮き沈みにであうことは充分な苦行だ。苦難を発明する必要などない。何であれ、人生がもたらすものを明るく受け入れていくことが、あなたに必要な苦行のすべてだ。


質問者 犠牲に関してはどうでしょうか?


マハラジ 誰であれ必要とする人に、進んで喜んで分け与えなさい。自分自身に残酷な試練を与えたりしてはならない。


質問者 明け渡しとは何でしょうか?


マハラジ 来るものを受け入れなさい。


質問者 私は自分の足で立つには弱すぎると感じています。私にはグルと善き人びととの聖なる交友が必要だと感じるのです。マインドの平静は私にとって手の届かないものです。ものごとを起こるがままに受け入れることは私をおびえさせます。アメリカに帰ることを考えるとぞっとするのです。


マハラジ 帰りなさい。そしてあなたに与えられた機会に最善を尽くしなさい。理学士の学位をまず取得しなさい。あなたは自然療法の研究のためにいつでもインドに戻ることができる。


質問者 アメリカでのチャンスについてはよくわかっています。私をおびえさせるのは孤独なのです。


マハラジ あなたには、いつもあなた自身の自己という仲間がいる。孤独を感じる必要はない。それから離れれば、インドにいたとしても孤独を感じるだろう。すべての幸福は自己を喜ばすことから来るのだ。自己を満足させなさい。アメリカに戻ったら、あなたのハートのなかの荘厳なる実在に値しないようなことは何もしてはならない。そうすれば、あなたは幸せだろう。そして幸せでありつづけるだろう。だが、自己を見いださなければならない。そして見いだした後、それとともにとどまるのだ。


質問者 完全に独りであることは何かの助けになるでしょうか?


マハラジ それはあなたの気質にかかっている。あなたはほかの者たちとともに、そしてほかの者たちのために、注意深く友好的に働くかもしれない。そしてあなたを愚鈍にし、マインドの果てしないおしゃべりに翻弄させてしまう孤独のなかよりもより完全に成長するかもしれない。努力によって変化をもたらすことができるなどと想像してはいけない。暴力は、たとえ自分自身に向けられたものでも、苦行や禁欲主義のように実を結ばないものなのだ。


質問者 誰が実現し、誰がしていないのかを見分ける方法はないのでしょうか?


マハラジ 唯一の証明はあなたのなかにある。もしあなたが黄金に変身すれば、それは賢者の石に触れたことのしるしなのだ。その人と一緒にいて、何が起こるかを見てみることだ。ほかの者たちに尋ねてはならない。彼らの師があなたのグルであるとはかぎらない。グルは本質において普遍的かもしれないが、表現においては異なるのだ。彼は自分のアーシュラムのことを心配していたり、貪欲だったり、怒っていたりするように見えるかもしれない。一方、ほかの教師たちは違うかもしれない。


質問者 内面と外面の両方での完璧さを期待するべきではないのでしょうか?


マハラジ 内面においては、そのとおりだ。しかし、外面の完璧さは環境、体の状態、個人的、社会的状態など、無数の要因によるのだ。


質問者 私はジニャーニを探しだすように、そうすれば自己知識を達成する技を彼から学べるだろうと言われました。そして今、その取り組み方自体が間違ったものであり、ジニャーニを認めることはできず、ジニャーナ(自己知識)を適切な方法で獲得することもできないと言われたのです。まったく訳がわかりません!


マハラジ それは実在に関するまったくの誤解によるものだ。あなたのマインドは価値評価することや獲得することに没頭している。そして獲得不可能なものがあなたの認識を永遠に待っていることを認めることはないだろう。あなたが為すべきことは、すべての記憶と期待を放棄することだけだ。ただ、完全に無防備な無の状態のなかで待つがいい。


質問者 誰が放棄をするのでしょうか?


マハラジ 神がするだろう。ただ、放棄される必要があることを見なさい。抵抗してはいけない。あなた自身だと思いこんでいる個人にしがみついてはいけない。あなたがあなた自身を個人だと想像するために、賢者もまたより知識があり、より能力があり、どこか普通とは違う個人だろうと思ってしまうのだ。彼は永遠に意識的で幸福だとあなたは言うかもしれない。だが、それも全体としての真理からは遠くかけ離れたものなのだ。定義や描写を信頼してはいけない。それらはひどく誤った印象を与えてしまうのだ。


質問者 どうすればいいのか、どのようにするのかを言ってもらわないかぎり、迷ってしまいます。


マハラジ ならば迷うがいい。あなたが有能で自信があると感じているかぎり、実在はあなたの手の届かないところにあるのだ。あなたが内なる冒険をひとつの生き方として受け入れないかぎり、発見はあなたに訪れないだろう。


質問者 何の発見でしょうか?


マハラジ あなたの存在の中心の発見だ。それはすべての方向、すべての手段と結果から自由なものだ。


質問者 「すべてに成れ、すべてを知れ、すべてを持て」でしょうか?


マハラジ 「何にもなるな、何も知るな、何も持つな」だ。これが唯一生きる価値のある生き方、唯一手にする価値のある幸福なのだ。


質問者 目的が私の理解を超えたものだということは認めましょう。少なくとも道を示してもらえませんか。


マハラジ あなた自身で道を見いださなければならないのだ。あなた自身で見いださないかぎり、それはあなた自身の道ではないだろう。そして、それはどこへもあなたを導きはしないだろう。誠実にあなたの見いだした真理を生きなさい。理解したわずかなことにしたがって行動しなさい。あなたを導くのはほかの誰かの賢さではなく、あなた自身の誠実さなのだ。


質問者 私は過ちを犯すことを恐れるのです。とても多くのことを試みてきましたが、何にもなりませんでした。


マハラジ あなたはほんのわずかしかあなた自身を捧げていない。単に興味があるだけで、誠実ではないのだ。


質問者 それ以上良い在り方を知らないのです。


マハラジ 少なくともそれくらいは、あなたも知っている。それが表面的であることを知り、あなたの体験に価値を与えることはやめなさい。体験が過ぎしだい忘れなさい。清らかな無我の人生を生きなさい。ただ、それだけだ。


質問者 倫理がそんなに重要でしょうか?


マハラジ 騙してはいけない。傷つけてはいけない──それは重要なことではないかね。何よりも、あなたには内面と外面の調和を要する内なる平和が必要なのだ。あなたの信じることをしなさい。そしてあなたのすることを信じなさい。それ以外のすべては時間とエネルギーの浪費なのだ。


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これまでに私たちがしてきた実習はすべて、あなたがいまこの空間のなかにいることは、まさに「ふさわしい」のだということを、感じてほしいという目的を持っていました。あなた方はそれぞれが、”大いなる全体性”のなかで独自の位置を占めており、それぞれが自分の居場所の適切さを実感することが、人生に喜びをもたらすのです。


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彼らのパワーはこの地球の下の青い空間の深さよりも深く根をはり、彼らの頭は星とともに宇宙に飛びかい、あなたの目にはとても見えません。彼らはあなたを上から愛すると思いますか。彼らの存在は、この全宇宙の創造物を片手で持てるくらい、とてつもなく広大なものです。それでも、彼らは上から、優位の立場から愛するのではなく、自分の全体性をもって愛するのです。あなたの存在も同じくらい広大なのですが、あなたはそれを忘れてしまっています。あなたは自分のことを、このちっぽけな惑星の上を歩いている、ちっぽけな人間だと思っています。でも、本当はそうではありません。あなたの頭も星のあいだにあり、あなたの脚も濃紺の宇宙空間のかなたまで下りています。それほどあなたは広大無辺です。誰もあなたを助けだしたり、救ったりする必要はありません。あなたが救う者であり、あなたは救われた者なのです。


あなたが自分の未解決の問題に直面する勇気を持つと、あなたの心が一挙に大きく開かれ、人間は誰でも同じ問題を抱えているのだ、ということに気づきます。あなた方はみな怖れているのです。それというのも、自分はこの危険に満ちた世界を行く先もわからずにすすんでいる、ちっぽけな存在であると、自分を取りちがえて考えているからです。


これから先、もっとも有益な道具は、自己の限られた意識以外のものを体験したいという願望です。前にも言ったように、人は自分が何であるかということを思いちがいしています。


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質問者 神の力なくしては、何ひとつ為されません。彼なしにはあなたがここに座り、私たちに話すということさえありえなかったでしょう。


マハラジ 疑いなく、すべては神の為す業だ。それが何だというのだろう、私には何も求めるものはないのだ。神が何を私に与え、あるいは取り上げることができるというのだろう? 私のものは私のものだ。そして神が存在しなかったときにも、それは私のものだった。もちろん、それは非常に小さな取るに足らないもの、微々たるものだ。「私は在る」という感覚、存在の事実だ。これは私自身の場であり、誰に与えられたものでもない。この地球は私のものであり、そこに育つものは神のものだ。


質問者 神があなたに地球の借地料を払ったのですか?


マハラジ 神は私の帰依者だ。これらすべては神が私のためにしたことだ。


質問者 あなたを離れて神は存在しないのでしょうか?


マハラジ もちろん存在しえない。「私は在る」が根で、神は樹だ。私が誰を、何のために礼拝しなければならないというのだろう?


質問者 あなたは帰依者なのでしょうか。それとも帰依の対象なのでしょうか?


マハラジ そのどちらでもない。私は帰依そのものだ。


質問者 世界には帰依が欠けています。


マハラジ あなたはいつも世界を改善することに忙しいが、世界があなたによって救われることを待っていると本当に信じているのだろうか?


質問者 世界に対してどれだけのことができるのか、私にはわかりません。私にできることはただ試みることだけです。何かあなたが私にしてほしいと望むことがあるでしょうか?


マハラジ あなたなしで世界が存在するだろうか? あなたは世界についてすべて知っている。だが、あなた自身に関しては何も知らない。あなた自身があなたの仕事の道具なのだ。仕事について考える前に、道具の面倒を見たらどうかね?


質問者 私は待てますが、世界は待つことができないでしょう。


マハラジ 探求しないことで、あなたは世界を待たせている。


質問者 何を待っているのですか?


マハラジ 救ってくれる誰かを待っているのだ。


質問者 神が世界を管理しているのです。神は救うでしょう。


マハラジ それはあなたがそう言うだけだ! 神があなたのところへやってきて、世界はあなたのものではなく、彼の創造物と関心事だと言ったのかね?


質問者 なぜそれが私ひとりの関心事であるべきなのですか?


マハラジ 考えてみなさい。あなたの住む世界をほかに誰が知っているというのかね?


質問者 あなたが、そして皆が知っています。


マハラジ 誰かがあなたの世界の外側から来て、あなたにそう言ったのだろうか? 私自身も、ほかの皆も、あなたの世界のなかで現れては消えていくのだ。私たちは皆あなたのなすがままなのだ。


質問者 そんなひどい話があるでしょうか! あなたが私の世界のなかにいるように、私はあなたの世界のなかに存在しています。


マハラジ 私の世界の証拠をあなたはもっていない。あなたは完全に自分でつくり出した世界のなかに包みこまれているのだ。


質問者 なるほど。まったくそのとおりですが……どうしようもないのですか?


マハラジ あなたの世界の牢獄のなかにある人が現れ、あなたが創造した苦痛に満ちた矛盾の世界は継続も永続もせず、それはただ誤解がもとで現れたのだ、とあなたに言うのだ。彼はあなたに来たときと同じ方法、同じ道を通ってここを出ようと主張している。あなたはあなたが本来何であるのか忘れることによってその牢獄に入った。そして、あなたがあなた自身であると知ることでそこから出るのだ。


質問者 それがどのように世界に影響をあたえるのでしょうか?


マハラジ 世界から自由になってはじめて、世界に対して何かができる。その囚人であるかぎり、それを変えることはできない。それどころか、あなたが何をしてもかえって状況を悪化するだけだ。


質問者 公正さが私を自由にしてくれるでしょう。


マハラジ 公正さは疑うことなくあなたと世界を住みよい場所に、幸福にさえするだろう。だが、それが何になるというのだろうか? そこには実在性がない。永遠には続かないのだ。


質問者 神が助けてくれるでしょう。


マハラジ あなたを助けるには、神があなたの存在を知らなければならない。だが、あなたも、あなたの世界も夢なのだ。夢のなかで、あなたは断末魔の苦しみを味わうかもしれない。誰もそれを知らないし、誰もあなたを助けることはできないのだ。


質問者 では、私の質問も、探求も、研究も何の役にも立たないのですか?


マハラジ それらは眠りを破ろうとする人の活動だ。それらが気づきをもたらす原因にはならないが、その初期の徴候ではある。だが、あなたがすでに答えを知っていることについて、無意味な質問をしてはならない。


質問者 どうすれば真の回答が得られるのでしょうか?


マハラジ 真の質問を尋ねることによって、言葉の上ではなく、あなた自身の光にしたがって生きることに挑むことで得られるのだ。真理のために死をも厭わない人がそれを得るのだ。


質問者 もうひとつの質問です。個人がいます。その個人を知る者がいます。そこには観照者がいます。知る者と観照者は同じなのでしょうか? あるいは分離した状態にあるのでしょうか?


マハラジ 知る者と観照者は別々だろうか、ひとつだろうか? 知る者が知られるものと別のものとして見られたとき、観照者はひとり離れて在る。知られるものと知る者がひとつであるとき、観照者はそれらとひとつになるのだ。


質問者 ジニャーニ(賢者)とは誰なのでしょうか? 観照者でしょうか、それとも至高なるものでしょうか?


マハラジ ジニャーニは至高なるものであり、観照者でもある。彼は存在と気づきの両方だ。意識との関わりにおいて、彼は気づきであり、宇宙との関わりにあっては純粋な存在だ。


質問者 それでは、個人についてはどうでしょう? はじめに現れるのは個人でしょうか、知る者でしょうか?


マハラジ 個人とは非常に小さなものだ。実際には、それはいくつかの要素が混成されたもので、それ自身として存在することはできない。知覚されもしない。それはただ存在しないのだ。それはマインドの影、記憶の総計にすぎない。純粋な存在はマインドの鏡のなかに知るという状態として映る。知られたものは記憶と習慣を根底にして、個人としての形を取るのだ。それはマインドのスクリーンの上に映しだされた知る者の反映、ただの影にすぎない。


質問者 鏡が在り、反射があります。しかし、太陽はどこでしょうか?


マハラジ 至高なるものが太陽だ。


質問者 それは意識しているはずです。


マハラジ それは意識でも、無意識でもない。意識、無意識といった言葉で考えてはいけない。それは生命であり、その両方を含み、また両方を超えている。


質問者 生命は高い知性をもっています。どうして無意識であることができるでしょう?


マハラジ 記憶が中断するとき、あなたはそれを無意識と言う。実際には、意識だけが存在するのだ。すべての生命は意識しており、すべての意識は生きている。


質問者 岩でさえも?


マハラジ 岩でさえも意識し、生きている。


質問者 私には自分で想像できないものの存在を疑う傾向があるのです。


マハラジ 想像したものの存在を疑うほうが、あなたをより賢くするだろう。想像されたものが偽りなのだ。


質問者 想像可能なものはすべて偽りなのでしょうか?


マハラジ 記憶に基づいて想像されたものは偽りだ。未来はまったくの非実在ではない。


質問者 未来のどの部分が真実で、どの部分が偽りでしょうか?


マハラジ 予期されず、予測不可能なものが真実だ。


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