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私だけが存在する。何も私のものはない。他の何ものも私ではない。
私ではない人を私は見ない。私のものでない人はいない。

『マハーバーラタ』第12章788節


マハルシ アハム──「私」はただ一つです。自我は異なります。
「私」は唯一の存在であり、「私」が真理なのです。その後に続く言葉は、すべて二元的感覚を否定するためのものです。

(対話284)



一つの根本的真理を認めなくてはなりません。現在この瞬間、いまの自分に何もつけ加えることも取り除くこともせず、いまあるがままの姿で、自分は神であることを知ることができる、という真理を認めなければなりません。



質問者 私が見るかぎり、あなたはわずかばかりの資産をもち、あらゆる貧困と老いの問題に直面している、誰とも変わらない、ただの貧しい人のようです。


マハラジ 私が大金持ちだとしたら、どんな違いをもたらすというのかね? 私は私だ。ほかの何になれるというのだろう? 私は貧しくもなく、金持ちでもない。私は私自身だ。


質問者 それでも、あなたは喜びと苦痛を体験しています。


マハラジ 私はそれらを意識のなかで体験している。しかし、私は意識でもなければ、その中身でもない。


質問者 あなたは、実存において私たちは等しいと言われました。どうしてあなたの体験は、私たちのものとこうも違うのでしょうか?


マハラジ 私の実際の体験は何も違わない。違いは私の評価と態度にある。私もあなたと同じ世界を見ている。だが、同じように見てはいない。何も神秘的なことはないのだ。誰もが世界をその人自身の観念を通して見ている。あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考えるようにあるのだ。もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分離して現れる。そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。私は世界を私から分離したものとして見てはいない。だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。


質問者 あなたは世界のなかの光の点です。誰もがそうではありません。


マハラジ 私が私自身を私だと知っていること以外、私と他者の間にはどんな違いも絶対にない。私はすべてだ。私は確実にそれを知り、あなたは知らないのだ。


質問者 ですから、私たちはまったく違うのです。


マハラジ いいや、そうではない。違いはマインドのなかにだけある。それも一時的なものだ。私もあなたのようだった。あなたも私のようになる。


質問者 神はもっとも多様な世界を創造しました。


マハラジ 多様性はあなたのなかだけにある。あなた自身をあるがままに見なさい。そうすれば、あなたは世界をひと塊の実在、分割不可能な、描写不可能なものとしてあるがままに見るだろう。あなた自身の創造的力が画像をその上に投影したのだ。あなたの質問はみな、その画像に関係するものだ。


質問者 あるチベット人のヨーギは、神は目的をもって世界を創造し、ある計画にしたがって維持していると書いています。その目的は善であり、計画はもっとも賢明なものです。


マハラジ それらはみな一時的なものだ。私は永遠について語っている。神と宇宙は来ては去っていく。アヴァターラ(神の化身)たちは終わりなき継続性のなかでつぎつぎと現れ、最終的に私たちは源に帰っていく。私はすべての神と彼らの宇宙、過去、現在そして未来の時間を超えた源についてのみ語っているのだ。


質問者 あなたはそれらをみな知っているのでしょうか? それらをみな覚えているのでしょうか?


マハラジ 数人の子供たちが舞台の上で劇を演じているとき、注意を払ったり、覚えていなければならないようなことが何かあるだろうか?


質問者 なぜ世界の半分が女性で、半分は男性なのでしょうか?


マハラジ 彼らの幸福のためだ。非個人性(アヴィヤクタ)は関係性のなかでの幸福のために個人性(ヴィヤクタ)となる。グルの恩寵によって、私は個人性と非個人性を等しい目で見ることができるのだ。私にとって二つはひとつだ。生のなかで、個人性は非個人性のなかに溶け去る。


質問者 どのようにして個人性は非個人性から出現するのでしょうか?


マハラジ 二つはひとつである実在の相にほかならない。ひとつをもうひとつに先んじて語ることは正しくない。これらすべての観念は目覚めの状態に属するのだ。


質問者 何が私を目覚めの状態に連れだすのでしょうか?


マハラジ すべての創造の根底には欲望がある。欲望と想像が互いを促進し、増強しあう。第四の状態(トゥリーヤ)は純粋な観照、無執着の気づきであり、醒めた、世界のない状態だ。それは空間のように、何であれそれが包括しているものに影響されない。身体的、精神的苦痛はそれに達しない。それらは外側の「そこ」にあり、一方、観照はつねに「ここ」にあるのだ。


質問者 実在とは何でしょうか? 主観的なものでしょうか、それとも客観的なものでしょうか? 私には客観的宇宙が実在であり、私の主観的精神は絶えず変化し、はかないものだと考える傾向があります。あなたは内なる主観的状態を実在と主張し、外的な具体的世界の実在を否定しているようです。


マハラジ 主観も客観もともに変化し、はかないものなのだ。それらには何の実在性もない。無常なるもののなかに永遠なるものを見いだしなさい。それはあらゆる体験のなかにある、ひとつの不変の要因だ。


質問者 この不変の要因とは何でしょうか?


マハラジ あなたがそれを見る能力をもつまでは、私がそれにさまざまな名前を与えたり、いろいろな方法で指し示したりしたところで、助けにはならないだろう。視界のかすんだ人は、あなたがいかに彼に見るように促しても、樹の枝の上にいるオウムを見ないだろう。よくても、あなたの示す指を見るくらいだろう。まずあなたの視界を清めることだ。じっと見つめることよりも、どう見るかを学びなさい。そうすればあなたはオウムを見るだろう。見ようとする熱望も必要だ。自己知識には明晰性と真剣さの両方が必要なのだ。あなたにはどんなに小さなことでも、日々の生活のなかで理解したことを誠実に適用することで成熟していくハートとマインドが必要となる。ヨーガには妥協といったものは存在しない。
もしあなたが罪を犯したいのなら、全身全霊で、こそこそせずに罪を犯しなさい。誠実な聖者にとって徳がそうであるように、罪もまた誠実な罪人には良き戒めとなる。その二つが混ざりあった状態がもっとも悲惨なのだ。妥協ほど効果的にあなたを妨げるものはほかにない。なぜなら、それは真剣さの欠如を表し、真剣さなしには何も為しえないからだ。


質問者 私は禁欲生活の価値を認めます。しかし実際には、私はぜいたくばかりしています。快楽を追い、苦痛を避けることは、私のなかにとても深く染みこんでいて、理論上はとても生き生きした私の高い目的意識も、日々の生活に根を下ろしていないのです。私のことを正直ではないと言ったところで助けにはなりません。なぜなら、私はただどうやって正直になればいいのかわからないからです。


マハラジ あなたは正直でも、不正直でもない。精神状態に名前を与えることは、あなたの容認、または否認を表すことぐらいしか役に立たないからだ。問題はあなたのものではない。それはただあなたのマインドの問題なのだ。あなたをあなたのマインドから分離することからはじめなさい。あなたはマインドではなく、その問題もあなたのものではないと思い起こすように堅く決心しなさい。


質問者 私は「私はマインドではない。私はその問題に関わらない」と自分に繰り返し言いつづけるかもしれません。しかし、マインドもその問題もそのまま残るでしょう。だからといって、それは私が充分真剣ではないからだ、もっと真剣になりなさいとは、どうか言わないでください。私は知っていますし、認めもします。ただどうか教えてください。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 少なくともあなたは尋ねている。はじめるには充分だ。熟考し、驚き、道を見いだすことを熱望しなさい。あなた自身を意識し、マインドを見守り、充分な注意を払いなさい。即座の結果を求めてはならない。あなたが気づく範囲内では、どんな結果もないかもしれない。知らぬ間に、あなたの精神状態は変化を遂げ、より慈愛の感情と行為の純粋さが見られるようになるだろう。それらを目的とする必要はない。あなたはそれらの変化を観照するだけだろう。なぜなら、現在のあなたは不注意の結果であり、あなたの変化は気づきの結果だからだ。


質問者 ただ気づくことが、なぜそれほどの違いをもたらすのでしょうか?


マハラジ 今まではあなたの人生は暗く(タマス)、落ち着かない(ラジャス)ものだった。注意力、油断のなさ、気づき、明晰性、元気、活力はみな真の本性(サットヴァ)とひとつであること、統合の現れなのだ。タマスとラジャスを中和し、調和させることはサットヴァの本質なのだ。サットヴァは自己の誠実な僕であり、つねに注意深く、従順だ。


質問者 私は単なる注意を通してそれを知るようになるのでしょうか?


マハラジ 注意を過小評価してはならない。それは関心であり、愛なのだ。知るため、行なうため、発見するため、あるいは創造するためには、それにハートを捧げなければならない。それが注意力を意味する。あらゆる祝福はそこから流れだすのだ。


質問者 あなたは「私は在る」に集中するよう勧めましたが、これもまた一種の注意力なのでしょうか?


マハラジ そのとおりだ。分割されない注意を、あなたの人生のなかのもっとも重要なもの、あなた自身に与えなさい。あなたの個人的な宇宙の中心が、あなたなのだ。中心を知らずに何を知ることができるだろう?


質問者 ですが、どうやって私自身を知ることができるのでしょうか? 私自身を知るには、私自身から離れなければなりません。しかし、私から離れているものは私ではありえません。ですから、私が私として見なしてきたもの以外は、私を知ることはできないのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。鏡の反映にしか自分の顔を見ることができないように、あなたは汚れのない純粋な意識の鏡に映るあなたのイメージしか知ることはできないのだ。


質問者 どのようにしてそのような汚れのない鏡を得ることができるのでしょうか?


マハラジ 言うまでもなく、汚れを取り除くことによってだ。汚れを見て、それを取り除きなさい。古来の教えは完全に有効だ。


質問者 見ることとは何でしょう、取り除くこととは何でしょうか?


マハラジ 完全な鏡の本性とは、あなたには見ることができないということだ。何であれあなたが見ることのできるものは、汚れであらざるをえない。それに背を向け、棄て去りなさい。


質問者 知覚可能なものすべてが汚れなのでしょうか?


マハラジ すべては汚れだ。


質問者 世界全体が汚れなのですか?


マハラジ そのとおりだ。


質問者 何とひどい! では宇宙は何の価値もないのですか?


マハラジ それは途方もない価値をもっている。それを超えていくことによって、あなたはあなた自身を実現するのだ。


質問者 それでは、いったいなぜその存在を現したのですか?


マハラジ それが終わるときにあなたは知るだろう。


質問者 終わりが来るのですか?


マハラジ そうだ。あなたにとっては。


質問者 いつそれが始まるのでしょうか?


マハラジ 今だ。


質問者 いつそれが終わるのでしょうか?


マハラジ 今だ。


質問者 今、終わりませんが?


マハラジ あなたがそうさせないのだ。


質問者 私はそうさせたいのです。


マハラジ あなたはそうしない。あなたの全人生がそれにかかっているからだ。あなたの過去と未来、欲望と恐れ、すべてがその根を世界に下ろしている。世界なしにあなたはどこにいるだろう? あなたは誰だろう?


質問者 しかし、まさにそれこそ、私が見いだしたかったものなのですよ。


マハラジ そしてまさにそれこそ、私があなたに言っていることなのだ。立脚地の彼方を見いだしなさい。そうすればすべては明らかで、容易になる。


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共謀罪


私はこの「共謀」という言葉を、意図的に使っているのです。「共に創造する」という言葉を使うと、あなたは物事の明るい面のことをすぐに考えます。けれども「共謀」と言うと、タバコの煙がもうもうとする薄暗い部屋のなかで、悪事を企んでいる自分たちを想像します。
「神との共謀」というのは、あなたがかつてしたこと、言ったこと、考えたことのすべては、そのエネルギーの一部に、あなたが神と呼ぶもの、”神なる一”を含んでいたという意味です。
神とあなたとが、あなたの人生やあなたの世界をいっしょに創り上げたのだとしたら、どうして罪の意識など持てるでしょうか。あなた一人の力では何もできないのです。


人生は旅です。どこに到着するのかを知る必要はありません。それに、一つのことをするために、別のことをあきらめねばならないと悩む必要もありません。具体的なことを決めるのはあなたの責任ではありません。あなたの責任は、自分の人生を生き生きと充実させ、爆発的に開花させるものを自分のなかに見つけることです。


必要なのは現状の正確な評価であり、自分の人生の何を変えたいのか、そして、その代わりにどんな感覚を持ち込みたいのか、それだけです。


それらを明確にする努力をしないと、あなたは行き詰まってしまうでしょう。


この世で何が起きようとも、それが自分にとって適切なものだと信じられるかぎり、人は勇気を持って直面することができます。


まわりにいる人たちに答えを求めないでください。


求めているものがわかったら、そうしたものを自分が求めているのだということを忘れないようにしてください。そして、自分の内に向かうときには、そうした特性が、自分の内にあるだろうと期待していてください。



分割し、征服する、というのがエゴの本性です。分割のないところには、征服もありえません。あらゆる思考は、ものを分離するか、統合するかどちらかです。考えどうしに差異をたてる思考、人をたがいに区別する思考は、一体性の気づきをくもらせます。人々をたがいに結びつける思考、ある考えを別の考えに結びつけるような思考は、一体性を明らかにします。


考えは、敵になりえます。それを考えた人が敵になるのと同じくらいかんたんなことです。他人を攻撃せずに、その考えだけを攻撃できると思うかもしれませんが、考えを攻撃された場合に、それを個人攻撃と受けとめない人はそうたくさんいません。


人々は、自分の考えと自分を同一視します。だれかと話をする場合には、相手の考えかたをもふくめて知り、それを認めてください。それからあなたが自分の考えを話せば、相手もそれを認めるでしょう。


おたがいの考えかたが競合せずに共存できるまでは、どんなふたりの人もくつろいでいっしょにいることはできません。相手の考えを受けいれることは、たとえその考えに自分は同意できなくても、相手に敬意と信頼をさしのべることになります。


だれかといっしょに平和にいるためには、自分と相手を隔てるものではなく、結びつけるものを見る必要があります。結びつけるものを見てとるなら、たがいの差異をも尊重できます。差異のほうを見てとるなら、その差異を克服しようとあくせくすることになります。


差異を克服しようとしても、たいてい失敗します。それは、差異があるということは健全だからです。おたがいの差異を尊重するかぎり、親密なよい関係を築く可能性を妨げることはありません。


いつでも相手に、自分と違っているためのすきまの場所を残しておいてあげなさい。そうすればあなたも、相手と親密になることを避けようとは思わないでしょう。


自分が受けいれられるためには、相手と同じようにならねばならない、そしてその逆も真だと感じると、あなたは差異を克服する努力をします。


差異はそのままにしておきなさい。あなたはそのままで受けいれられる人ですし、相手もそうです。そうすれば、あなたのハートにも相手のハートにも平和があります。それでいいのです。


自分がいかに相手を、こうあるべきだと信じるイメージどおりに変えようとしているかに気づきはじめてください。また相手がいかにあなたを変えようとしているかにもです。その押したり引いたりを感じてください。それがエゴの世界というものです。


エゴとは宇宙でもっとも不安定なものです。だからこそいつでも、どの側につくかを決めたり、地位や立場によりかかったりするのです。自分自身にもともと信頼を寄せていませんし、スピリットの寛大性をもちあわせてもいません。


エゴは自分自身を憎んでいるので、他のあらゆるものをも憎みます。その傲慢さは見せかけにすぎません。エゴを切り離せば、そのあとに傷口がぽっかり口をあけているのがわかります。


エゴとは、自分が愛されているのを知らないあなたの一部分です。エゴは愛を与えません。与えるほどの愛が自分にあるとは知らないからです。


愛されないもの、愛されえないものが、どうして愛を見いだせるでしょう。これは、この世界をさまよい続けるすべての魂の叫びです。


エゴには、自分が愛をもっていることを教えなければなりません。これはエゴにとっては危険な提案です。エゴは自分に愛があると知った瞬間、エゴであることをやめるからです。エゴはエゴとしては死に、愛として再生します。


だからこそ、多くの人が悟りに抵抗するのがわかりますね。目覚めという考えは、まだ眠りこんでいる人すべてをおびやかすのです。あなたがたはいつも考えます。「目を覚ましてしまったら、もう、わたしはここにはいられないだろう!」


それだからこそ、あなたがたの死の恐怖と目覚めの恐怖は同じなのです。制限のない宇宙的な”自己”は、制限のある仮の自己が死なないかぎり、生まれることがありません。


ですから、どちらにしても、ある意味での死が来るのです。死ぬか、あるいは別種の死である目覚めにいたるかです。


いったん目が覚めれば、死はもはや大事件ではありません。失うべき貴重なアイデンティティなど、もはやないからです。ですから物理的肉体にとどまっているか、そうでないかは重要ではありません。どちらにしても、あなたは現在にいることが必要です。


無意味なアイデンティティをこそぎおとすことは、故郷へ帰るためにはぜったい必要です。自己防御の必要が少なければ少ないほど、あなたは人の役に立てます。そして役に立てれば立てるほど、あなたの経験は祝福に満ちたものになるでしょう。


あなたがたの地上での経験は、自分自身を、兄弟を、神を信頼することを学ぶプロセスです。目覚めの最後の瞬間には、その信頼が完全に花開き、”自己”のこの三つの側面がひとつに溶けあいます。


神のただひとつの計画とは、在ることなのだ。それは、あらゆるものがひとつのものとして振動している状態で、それぞれがまずは思考から始まり、それから思考が物質へと固まりながら振動しているのである。それは、あらゆるものが意識に何かを加えたり、そこから何かを取り出したりして、生命の次の瞬間を表現しながら、その瞬間を延長している状態なのである。存在するあらゆるものは、ほかのすべてと同時に表現され、永遠の中の次の瞬間へと入っていく。もし神が何かを計画することができたとしたら、それによって、これからやって来るすべてのものは制限されてしまうことだろう。


神は善でもなければ、悪でもない。「父」はただ在るだけであり、すべての生命の「在ること」なのだ。そして、単に自分自身を知るために喜びを得るということ自体の喜びのために生きる「今」という瞬間の表現なのだ。そして、この生命の本質には、その一部を「よい─悪い」、「邪悪─神聖」、「完全─不完全」というふうに価値判断を下すことによって、「在るという状態」から別のものに変質する能力はないのである。


神は完全に無限であり、「在ること」というひとつの分割できない全体性なのだ。それゆえ神は、制限された狭い見方で自分自身を見つめることはできないのである。


あなたは永遠の存在であるということ、またこれまでもけっして失敗したことはないということを知りなさい。そして、あなたがこれまでに犯したただひとつの間違いは、間違ったことをしたと信じたことだということを知りなさい。



質問者 私は修練のために、さまざまなヨーガを探索しながら転々と旅をしてきました。そして、いまだにどれが私にとって最適なのか決断のつかないままでいるのです。何か的確な助言をいただければ幸いです。現在、このすべての探求の結果として、私は真実を見いだそうという考えに疲れてしまいました。私にとって、それは無用な、困難なものと見えるのです。人生はあるがままに楽しむべきものであって、それを改善することはまったく無駄に見えます。


マハラジ その満足のなかにとどまりたいのならば、そうすればいい。だが、あなたにできるだろうか? 青春、活力、金銭──それらはすべて、あなたが予期したよりも足早に過ぎ去っていくだろう。そして、それまで避けてきた悲しみがあなたにつきまとうだろう。もしあなたが苦しみを超えたければ、自らそれを出迎えに行き、抱きしめなければならないのだ。あなたの習慣や耽溺を捨て去り、シンプルで目覚めた人生を生きなさい。生きるものを傷つけてはならない。それがヨーガの根本なのだ。実在を見いだすには、日々のもっとも些細な行為においてさえ、あなたは真実でなければならない。真理の探求においては、いかなる欺瞞も許されないのだ。あなたは人生が楽しむべきものだと知ったと言う。今はそうかもしれない。だが、それを楽しむのは誰なのか知っているだろうか?


質問者 実を言えば、私は楽しむ者も楽しまれるものも知りません。私の知っているのは楽しみだけです。


マハラジ まったくそのとおりだ。しかし、楽しみとはマインドの状態だ──それは来ては去っていくものだ。そのはかなさそのものが、それを知覚可能にする。変化しないものを意識することはできない。意識とはすべて、変化の意識なのだ。だが、変化を知覚すること自体が、そこに不変の背景のあることを余儀なくしているのではないだろうか?


質問者 いいえ、そうではありません。以前の状態の記憶と現在の状態である現実との比較が、変化の体験を与えるのです。


マハラジ 記憶されたことと実際に起こっていることの間には、一瞬一瞬において観察することのできる基本的な相違がある。現実が思い出されるといった瞬間はありえないのだ。その二つの間には、単に強烈さだけではない異なった性質がある。現実とはまぎれもないものだ。意志による努力や想像では、その二つを入れ替えることはできない。さて、何が現実の状態にこの特別な質を与えるのだろうか?


質問者 現実は真正です。一方、記憶されたことには多分の不確実性があるのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。だが、なぜだろうか? ほんの一瞬前、記憶されたことは現実であったし、一瞬のうちに現実は記憶となるだろう。何が現実を独特のものにするのだろうか? 明らかに、それはあなたの存在の感覚だ。記憶と期待のなかには観察されている精神的状態という明らかな感覚がある。一方、現実のなかには根源的な現在の存在、そして気づきがそこにあるのだ。


質問者 ええ、理解できます。現実と記憶されたことの間に違いをもたらすのは気づきなのです。人は過去や未来のことを考えますが、人は今に存在しているのです。


マハラジ あなたがどこへ行こうと、今、ここという感覚はつねにあなたとともにあるのだ。それはつまり、あなたは時間と空間に依存していないということだ。時間と空間はあなたのなかにあり、あなたがそれらのなかに在るのではない。時間と空間に限定された身体との自己同一化が、あなたに有限の感覚を与えるのだ。実際には、あなたは無限で永遠なのだ。


質問者 この無限で永遠の自己を、どのようにして知るのでしょうか?


マハラジ あなたが知りたがっている自己、それは何か二番目の自己のようなものだろうか? もちろん、そこにはひとつの自己があるだけだ。そしてあなたがその自己なのだ。あなたである自己、それが唯一存在する自己だ。あなた自身に関する誤った観念を取り除き、放棄しなさい。するとすべての荘厳さとともに、それはそこにある。自己知識を妨げるのはあなたのマインドだけなのだ。


質問者 どうやってマインドを追い払うのでしょうか? そしていったい人間のレベルで、マインドなしの人生が可能なのでしょうか?


マハラジ マインドというようなものはないのだ。そこには観念があって、それらのなかのいくつかは間違ったものなのだ。誤った観念を放棄しなさい。なぜならそれらは偽りであり、あなた自身に関するあなたの見解を妨げるからだ。


質問者 どの観念が誤りで、どの観念が正しいのでしょうか?


マハラジ 普通、自己主張が誤りであり、自己否定が正しいのだ。


質問者 すべてを否定することによって生きていくことはできません!


マハラジ ただ否定によってのみ、人は生きることができるのだ。自己主張は束縛だ。疑うことと否定することがなくてはならない。それは反抗の本質だ。そして反抗することなしに解放はありえないのだ。
そこに探求すべき第二の、あるいは高次の自己というものはない。あなたが最高位の自己なのだ。ただ、あなた自身に関する偽りの観念を捨て去りなさい。あなたは身体、そしてその欲望と恐れではなく、またマインドとその幻想的な観念でもなく、社会があなたに演じるよう強要した個人としての役柄でもないと、信念と理性があなたに告げているのだ。偽物を捨て去りなさい。そうすれば真実はそれ自体で現れるだろう。
あなたはあなた自身を知りたいと言う。あなたがあなた自身なのだ。あなたはあなた以外の何者にもなれない。知ることと在ることは別々だろうか? あなたがマインドをもって知ることは何であれマインドのものであって、あなたではない。あなた自身についてあなたに言えることは「私は在る。私は気づいている。私はそれを愛する」だ。


質問者 私は生きることが苦痛に満ちた状態だと知っています。


マハラジ あなたに生きることはできない。なぜなら、あなたは生命そのものだからだ。あなたが苦しむのではない。あなたがあなた自身だと思いこんでいる個人が苦しむのだ。気づきのなかでそれを消し去りなさい。それは記憶と習慣の束でしかないのだ。偽りに対する気づきからあなたの真の本性に対する気づきに至る間には深い淵がある。ひとたびあなたが純粋な気づきの技を習得すれば、それはたやすく越せるだろう。


質問者 私の知っていることは、私自身を知らないということだけです。


マハラジ 自己を知らないということをどうして知るのだろう? あなたの直接の洞察が、何よりもあなた自身を知っていると告げているのだ。なぜなら、ものの存在を体験するあなたがそこにいないかぎり、何も存在することはできないからだ。あなたは自己を描写できないために、自己を知らないと想像しているのだ。あなたはつねに、「私は在るということを知っている」と言うことができる。そして「私はいない」という表明を偽りとして退けることだろう。だが、何であれ描写できるものはあなた自身ではありえない。そしてあなたで在るものを描写することはできないのだ。あなたは自己定義や自己描写を試みることなしに、あなた自身で在ることによってだけ、自己を知ることができるのだ。あなたが知覚可能、想像可能なものは何ひとつあなたではありえず、何であれ、意識の領域に現れるものは自己ではないとひとたび理解したなら、より深い自己実現への唯一の方法として、すべての自己同一化を断ち切ることだろう。否定することによって、文字どおりあなたは、まさにロケットのように進歩するのだ。あなたが身体のなかにもマインドのなかにも存在せず、しかもその両方に気づいていると知ることは、すでに自己知識なのだ。


質問者 もし私が身体でもマインドでもないなら、どうやってそれらに気づくのでしょうか? どうやって私自身にとってまったく異質な何かを知覚することができるのでしょうか?


マハラジ 「何も私ではない」が第一段階だ。「すべてが私だ」がつぎの段階だ。そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元性のあなたとして残る。今ここで、あなたはそれなのだ。だが、あなたの視野は自己に関する偽りの観念によって妨げられているのだ。


質問者 なるほど、私は在る、私は在った、私は在るだろうということは認めましょう。少なくとも誕生から死に至るまでは。今ここにおける私の存在は疑う余地もありません。しかし、それだけでは充分でないと思うのです。私の人生は、内面と外面との調和から生まれた喜びを欠いているのです。もし私ひとりしか存在せず、世界が単なる投影にすぎないなら、どうして不調和があるのでしょうか?


マハラジ あなたが不調和をつくり出しておいて、それから不平を言うのだ。欲望をもち恐れるとき、そして感情と自己同一化するとき、あなたは不幸と束縛を生みだす。あなたが愛と智慧とともに創造し、そして創造したものに執着しないとき、結果は調和と平和となるのだ。だが、マインドの状態がいかなるものであれ、それはどのようにあなたに影響を及ぼすのだろう? マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは不幸にするのだ。マインドへの隷属に反抗しなさい。あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるためにそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。


質問者 もし私が好き勝手にするなら、私は苦しむことでしょう。


マハラジ それにもかかわらず、あなたは自由なのだ。あなたの行為の結果はあなたの住む社会とその慣習に依存するのだ。


質問者 私は無謀になるかもしれません。


マハラジ 勇気とともに智慧と慈愛、そして行為における能力も現れるだろう。あなたは何をすべきか知るだろう。そして何であれ、あなたがすることは皆にとって良いこととなるだろう。


質問者 私自身のなかにはさまざまな相の自分がいて、争いあっています。私のなかに平和はないのです。どこに自由と勇気が、智慧と慈愛があるのでしょうか? 私の行動は、私が住む深淵をより深めるばかりなのです。


マハラジ それはあなたがあなた自身を何か、あるいは誰かだと見なしているからだ。やめなさい。見なさい。調べなさい。正しい質問を尋ね、正しい結論を得なさい。そしてそれにしたがって行為する勇気をもち、何が起こるか見てみなさい。はじめの段階では、頭の上に屋根が落ちてくるかもしれない。だが、すぐに混乱は晴れ、平和と喜びが現れるだろう。あなたはあなた自身に関して非常に多くのことを知っている。だが、その知っている人をあなたは知らないのだ。知られるものを知る者であるあなたとは誰かを見いだしなさい。たゆむことなく内面を見守りなさい。知覚されたものは知覚者ではありえない、と覚えておくことを覚えておきなさい。あなたが何を見ようと、聞こうと、考えようと、覚えようと──起こることがあなたなのではない。あなたはそれが起こる当人なのだ。「私は在る」という感覚のなかに深く潜っていきなさい。そうすれば、かならず知覚の中心が、世界を照らす光のように普遍的であることを発見するだろう。宇宙のなかで起こることはすべて、沈黙の観照者であるあなたに起こる。その反対に、何であれ為されたことは、普遍的で無尽蔵のエネルギーであるあなたによって為されるのだ。


質問者 人が沈黙の観照者であり、また普遍的エネルギーでもあると聞かされることは、言うまでもなく喜ばしいことです。しかし、どうやって言葉上の表明から直接の知識へと超えていけばいいのでしょうか? 聞くことは知ることではありません。


マハラジ あなたが何かを直接知る前に、言葉を通してではなく知る者を知らなければならないのだ。今まで、あなたはマインドを知る者として見なしてきた。だが、そうではないのだ。マインドはイメージと観念をあなたに詰めこんできた。それは記憶に傷跡を残すのだ。あなたは覚えていることを知識だと思いこんできた。真の知識とはつねに新鮮で、新しく、予期できないものだ。それはあなたの内面から湧きあがってくるのだ。あなたがあなたで在るものを知るとき、あなたはまた、あなたが知るものでも在る。知ることと在ることの間にへだたりはないのだ。


質問者 私にはマインドによってマインドを調べることができるだけです。


マハラジ もちろん、マインドを知るためにマインドを使うがいい。それは完全に正当であり、またマインドを超えていくには最善の準備でもある。在ること、知ること、そして楽しむことはあなた自身のものだ。まず、あなた自身の存在を認識しなさい。それはやさしいことだ。なぜなら「私は在る」という感覚はつねにあなたとともにあるからだ。それから、知られるものから離れた、知る者としてのあなた自身と出会いなさい。ひとたび純粋な存在としてのあなたを知れば、自由の歓喜はあなたのものだ。


質問者 これはどのヨーガなのでしょうか?


マハラジ なぜ気にするのか? あなたをここへ来させたのは、あなたの知る身体とマインドの人生が満たされないものだからだ。あなたはコントロールを通して、また理想に合わせてそれを屈服させようとするかもしれない。あるいはすべての自己同一の結び目を断ち切り、身体とマインドを、あなたとは何の関わりもなく起こる何かとして見るかもしれない。


質問者 コントロールと戒律の道をラージャ・ヨーガ、無執着の道をジニャーナ・ヨーガと呼び、偶像礼拝をバクティ・ヨーガと呼んでいいのでしょうか?


マハラジ もしそれに満足ならば、あなたの好きにするがいい。言葉は差し示すが、説明はしない。私が教える道は、理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。あなたのマインドを理解しなさい。そうすればマインドはあなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。マインドとは誤解するものだ。誤解がその本性そのものなのだ。正しい理解が唯一の治療法だ。あなたがそれをどう呼ぼうとも。理解の道はもっとも原初の、そして最新の治療法なのだ。なぜなら、それはマインドをあるがままに扱うからだ。
何をしようとあなたが変わることはないだろう。なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。いったいどうして変わることを気にするのか? 身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚しなさい。そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろう。あなたの誤解を明らかにし、それを捨て去りなさい。ただそれだけだ。そこには探したり、見いだしたりするものは何もない。なぜなら、何も失われてはいないからだ。リラックスしなさい。そして「私は在る」を見守りなさい。実在はその背後にあるのだ。静かにしなさい。沈黙しなさい。それは現れるだろう。あるいはむしろ、それがあなたをそのなかへと連れていくだろう。


質問者 私は身体とマインドから自由になるべきではないのでしょうか?


マハラジ あなたにはできない。なぜなら、その考え自体があなたを身体とマインドに拘束させるからだ。ただ理解し、無視すればいい。


質問者 私には無視することができません。私は統合されていないのです。


マハラジ あなたが完全に統合され、思考と行動が完全に協調されていると想像してみたところで、それがどのようにあなたを助けるというのだろうか? それがあなたは身体とマインドだという誤解を解くことはないだろう。身体とマインドを「あなたではないもの」として正しく見なさい。ただそれだけだ。


質問者 あなたは私に忘れるために覚えておきなさいと言われるのですか?


マハラジ そうだ。それはそう見える。だが絶望的ではない。あなたにはできる。ただ誠実にはじめなさい。あなたの盲目の手探りは前途にあふれている。あなたの探求そのものが発見なのだ。失敗はありえない。


質問者 統合されていないために、私たちは苦しむのです。


マハラジ 私たちの思考と行為が欲望と恐れに誘発されているかぎり、苦しみは続くだろう。その不毛さと危険性を見なさい。そうすれば、混沌は鎮まるだろう。あなた自身を改善しようと試みてはならない。ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。変化するものは変化しつづける。その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと期待してはならない。それはけっして起こらない。変化という観念自体が偽りとし見られ、放棄されたときにのみ、不変なるものがおのずと現れるのだ。


質問者 私がどこへ行こうと、実在を見ることができるようになる前に、私は深く変わらなければならないと言われてきました。この意図的な、自ら強要した変化がヨーガと呼ばれるものなのです。


マハラジ すべての変化はただマインドに影響を与えるだけだ。あなたであるもので在るには、マインドを超え、自己の存在のなかへと行かなければならない。マインドが何なのかということは重要でない。もしあなたがマインドを永遠に捨て去るならばだが。これもまた、真我の実現なしには不可能だ。


質問者 マインドを放棄することと真我の実現、どちらが先に来るのでしょうか?


マハラジ 真我の実現がかならず先に来る。マインドはマインドによってそれ自体を超えることはできないのだ。それは爆発しなければならない。


質問者 爆発の前に探求はないのでしょうか?


マハラジ 爆発力は実在からやってくるのだ。だが、あなたはマインドをそのときに備えておくように充分教えられている。つぎの機会がやって来るまで、恐れはつねにそれを遅らせることができる。


質問者 私はチャンスがいつもあるものだと思っていました。


マハラジ 論理的にはそのとおりだ。実際は、真我実現のために、すべての必要要因が揃った状況が生じなければならないのだ。このことで落胆することはない。「私は在る」という事実にとどまることが、別のチャンスをすぐにつくり出すだろう。なぜなら、態度が好機を引き寄せるからだ。あなたの知っていることはすべて間接的な知識だ。ただ、「私は在る」だけが直接の、そして証明を必要としないものなのだ。それとともにとどまりなさい。



トンイの撮影の時、イ・ビョンフン監督が主演のハン・ヒョジュに要求したことは一つだけ。誰よりも早く来て、「笑顔で」全スタッフに挨拶すること。
当時23歳のハン・ヒョジュに要求されたそれだけのことが、あれだけの結果につながった一つの要因なのかもしれず、この要求を軽く見ることはできないと思う。他の作品よりも傑出した明るさが画面から出ている気がする。
感謝とかは誰でも口にできる。でも体現する方法を知っていて、それを実際に行動に移「せる」人はそうはいない。n


もしあなたが継続したエゴだとしたら、誕生以来あなたに起こった考えや信念、アイデアや体験、記憶や気づきなどのすべてが脈々とこの瞬間に生きてあふれ返っていなくてはなりません。自分が継続した実体だと思い込もうとすることで、本当に継続しているものが体験できなくなっています。


本当に継続しているものはこれまでもずっとありましたし、いまもあります。それは<我在り>と言うときの”我”です。それはあらゆるものが流れ出る”源”です。それは始まりの前にあり終わりの後にあるもので、意識の本質です。それは純粋な意識そのものです。それが継続するもので、それ以外には何も継続しません。それ以外のものであなたがこの瞬間にもたらすものはすべて、目に見える、継続した有限の人間として自分が存在すると思い込みたいがためにあなたがもたらしているものです。


そうした自己像で自分を縛ってしまわないでください。自分を無力でちっぽけな存在だと信じて、『ああ、人から嫌われたらどうしよう』、『太りすぎじゃないだろうか』、『お金に困ったらどうしよう』などと心配するのをやめてください。あなたのまわりにはいたるところにあなたの本質が実在していて、細胞の一つひとつ、意識のすみずみまで雷鳴のごとく激しい音を立てて流れています。あなたは持っているものを使わずに損をしているのです。でも損をする必要はありません。これまでに話した方法のひとつを使えば、その習慣はやめられます。思考をやめて、いまの瞬間にいましょう。何か特別のことを聞こうとしないで、ただ耳を傾けましょう。見ている物を判断せずに見ましょう。ゆったりとした意識で呼吸しましょう。物事を評価したり選んだり受け入れたり拒否したりすることなく、いまこの瞬間に意識を向けましょう。いまこの瞬間に安らぎ、完全に心を開いて、意識を完全にいまの瞬間に向けていると、それが起きます。純粋な意識がその姿を現します。いまやっても、後でやってもいいですが、どちらにしてもあなたはいずれ実行します。


あらゆるものの中を息づくただひとつの現実があるだけです。それ以外はすべて幻影です。あなたは自分が考えているものとは違います。あなたはいつどう変わるともしれない短い命を、あてもなくおびえながら生きる意識のかけらではありません。あなたは広大無辺の完全に目覚めたすばらしい意識であり、それを充分に体験するのはあなたの持って生まれた権利です。これからのあらゆる瞬間にそのことを完全に完璧に知るようになってほしいというのが、わたしの願いです。


あなたが自分自身と呼んでいるあの慣れ親しんだ感覚、間違って<自分>と呼んでいるあの感覚に気づくように、ここでまたお願いしたいと思います。実際のところ、あの慣れ親しんだ感覚というか、歓喜の絶頂から憂鬱のどん底まで、愛から憎しみにいたるまで、不安から喜びにいたるまで、あらゆる過程に存在する感覚こそがあなたの本質です。あなたは”わたし”を間違って<自分>と呼んでしまったのです。生まれたり消えたりするのは有限の<自分>です。あなたといつもいっしょにいて、朝目覚めた瞬間からもっとも深い夢の瞬間までいるのが”わたし”の本質です。


あなたは”わたし”の本質をいつも感じているのですが、それをいままでは間違った名前で呼んできました。これまであらゆる瞬間に感じてきた感覚があなたが求めているものです。ほかのあらゆるものはその上に反映されます。こうしてここにすわっているときも、常に変わらず存在するのはその純粋な意識です。わかりますか。あなたは自分がすでにそうであるものを求めているのです。あまりに明らかで、不変で、強く、なじみが深いので、それがわからなかったのです。どうか見過ごさないでください。



神ではなく、人間が人間に審判を下すのだ。自分の兄弟たちから表現の自由を奪うために、人間はその創造性の中で善悪のバランスというものを考え出した。宗教の教義や政府の法律にしたがわない者に対する刑罰への恐れは、長い間、さまざまな国家を統治し、支配するための剣となってきた。だが、もしあなた方の言葉で「悪」と呼んでいるものがあるとすれば、それは、ある存在が自分の内面にある神を表現する自由をその人間から奪ってしまうものである。そして、誰かほかの人間に対してそのようなことをするたびに、それは自分自身に対しても同じことをしていることになる。しかも、より深刻な形で同じことをしているのだ。なぜなら、あなたが他人に対して下す審判や、他人に課す制限は、どんなものであろうと、あなた自身の意識の内面においてもひとつの法となるからだ。そしてその法によって、あなた自身も制限され、自分自身に審判を下すことになるのである。


あなたに知ってほしいこと、そしてすべての者に理解してほしいことは、あなた方が「カルマ」と呼んでいるものは、神の法ではないということだ。つまり、カルマはそれを信じている者たちの法なのだ。残念ながら、この教義を信じている者は大勢いて、彼らは「完璧さ」と呼ばれる架空の理解を達成するために、懸命に格闘している。そして彼らは、自分が人生でどんなことをしようと、その代償を支払うために次の人生に戻ってこなければならないと信じているのだ。自分の身に起きることはどんなことでも、「カルマの成就」のせいにしてしまうのである。だがマスターよ、人生の説明としては、これはきわめて不十分なものだ。人生はこの説明を遥かに超えたものである。


カルマの法則は確かにひとつの現実だが、それはその法則を信じる者たちにとってだけ、現実なのだ。法として存在するのは、あなたが自分の王国の中で有効だとしたものだけだ。真に法を与える者は、それぞれの至高の存在である。というのも、それぞれの存在が、真実を受け容れる自我を持っているからだ。そして、その人間がどんなものを真実と呼ぼうと、つまり自分の存在の中でどんなものを法として創造しようと、それはそのとおりになる。したがって、多くの人間が「バランスと完璧さの法則」を自分たちのために法として据えてきたのは、信念や変質した理解を通してである。



質問者 インドの伝統では、グル〔師〕が必要不可欠だと言います。彼は何のために必要不可欠なのでしょうか? 母親は子供に身体を与えるために必要不可欠です。しかし、彼女は魂を与えるわけではありません。彼女の役目は限定されています。グルに関してはどうでしょう? 彼の役目もまた限定されているのでしょうか? もしそうならば、何においてでしょうか? あるいは、彼は一般的に必要不可欠なのでしょうか? それとも絶対的に必要不可欠なのでしょうか?


マハラジ ハートのなかで、平和に、永遠に輝く内奥の光、それが真のグルなのだ。ほかのすべては単に道を指し示すだけだ。


質問者 私は内なる部分には関心がありません。直接道を示してくれる師にだけ関心があるのです。グルなしには、ヨーガは到達しがたいと信じる人びとがいます。彼らは正しいグルをつねに探しつづけ、ひとりの師からほかへと変えていくのです。そんなグルたちに、いったいどんな価値があるというのでしょうか?


マハラジ 彼らは一時的な、時間に拘束されたグルなのだ。あなたは彼らをあらゆる職業のなかに見いだす。何かの知識や技術を獲得するために、彼らを必要とするのだ。


質問者 母親は一生涯のためにだけいます。彼女は誕生にはじまり、死に終わるのです。永遠にいるわけではありません。


マハラジ 同じように、時間に拘束されたグルも永遠にいるわけではない。彼は彼の目的を果たし、つぎの師へと場を明け渡すのだ。それはまったく自然なことであり、それについて非難されるようなことは何もない。


質問者 あらゆる類の知識や技術のためには、別のグルが必要となるのでしょうか?


マハラジ これらの問題においては、外面的なものが一時的であり、内面的なものはその外見と行動においてはつねに新しいが、永久不変だということ以外何の規定もないのだ。


質問者 内側のグルと外側のグルの間には、どのような関係があるのでしょうか?


マハラジ 外側が内側を表現し、内側はしばらくの間、外側を受け入れるのだ。


質問者 努力は誰のものなのでしょうか?


マハラジ もちろん弟子のものだ。外側のグルが指導し、内側のグルが力を送る。油断なくそれに応えていくのが弟子の仕事だ。弟子の意志、知性、エネルギーなしにはグルは無力なのだ。内側のグルはチャンスを得ようとする。愚鈍さと誤った追求が危機をもたらし、弟子は自ら己の苦境に目覚めるのだ。賢い者はショックを待ったりしない。それはひどく粗暴なものでもありうるのだ。


質問者 それは脅しなのでしょうか?


マハラジ 脅しではなく警告だ。内なるグルは非暴力に専心してはいない。愚鈍で堕落した人格を破壊するためには、彼はときおりまったく暴力的になりうる。不幸と死、生と幸福は彼の仕事の道具なのだ。二元性においてだけ、非暴力は統一のための法となるのだ。


質問者 人は自分自身を恐れなければならないのでしょうか?


マハラジ 恐れではない。なぜなら自己とは善良を意味するからだ。だが、それは深刻に受け止められなければならない。それは注意と服従を呼び起こすのだ。聞き入れられないとき、それは説得から強制へと変わる。それはしばらく待つことができるが、否定されてはならないのだ。困難は外側や内側のグルにあるのではない。グルはつねに手に入る。不足しているのは成熟した弟子のほうなのだ。その人に用意ができていなければ、どうすることができようか?


質問者 用意でしょうか、それとも志でしょうか?


マハラジ 両方だ。それは同じことなのだ。インドでは、それはアディカーリと呼ばれている。それは能力と資格があるということを意味している。


質問者 外側のグルは秘伝伝授の儀式(ディクシャ)を授けることができるのでしょうか?


マハラジ 彼はあらゆる類の儀式を授けることができる。しかし、実在への儀式は内面から起こらなければならない。


質問者 誰が究極の儀式を授けるのでしょうか?


マハラジ 自己が授けるのだ。


質問者 私たちは堂々巡りをしているようです。結局、私の知っているのは現在の体験的自己だけです。内面の、あるいは高次の自己とは、説明と奨励のために考えられた概念なのです。私たちはそれを独立した存在のように話していますが、そうではないのです。


マハラジ 外側の自己と内面の自己はともに想像上のものだ。ひとつの棘を抜くために別の刺を必要とするように、あるいは毒を解毒するために別の毒を使うように、「私」という存在への固執が癒されるために、「超─私」という別の観念への固執が必要とされるのだ。すべての断定は否定を呼び起こす。だが、これはまだ第一段階にすぎない。つぎの段階はその両方を超えた彼方へと行くことだ。


質問者 外側のグルが、緊急に自分に対して何かをすべきだという注意を呼び起こすために必要だったことは理解します。また、私のなかの深い変化にとって、どれほどグルが無力かも理解します。しかし、ここであなたは無始、不変、存在の根本、動かぬ約束、確かなる目的地である内なるグルをもたらしたのです。彼はひとつの概念なのでしょうか、それとも実在でしょうか?


マハラジ 彼だけが唯一の実在なのだ。それ以外のすべては、「身体─精神」(デハー─ブッディ)によって時間の上に投げかけられた影にすぎない。もちろん、影でさえ実在に関連している。だが、それ自体では実在とは言えないのだ。


質問者 私の知っている唯一の実在は、私だけです。サッドグル(内なる師)は、私が彼を想う間はそこにいます。彼に実在性を移行することによって、私は何を得るというのでしょうか?


マハラジ 失うことが、あなたの得ることだ。影が影として見られたとき、あなたはそれにしたがうことをやめる。あなたは振り返り、そこにいつもあった太陽をあなたの背後に発見するのだ。


質問者 内側のグルもまた、教えを与えるのでしょうか?


マハラジ 彼は、あなたが永遠、不変、実在─意識─愛であり、内面とすべての現れを超えたものだという確信を与えるのだ。


質問者 確信では不十分です。そこには確実性がなければなりません。


マハラジ まったくそのとおりだ。だが、この場合は確信が勇気の形を取るのだ。恐れは絶対的に消え去る。その恐れのない状態が見間違うことのないほど新しく、しかも自分自身のものとして深く感じられ、否定できないものなのだ。それは愛する我が子のようなものだ。誰に疑うことができるだろう?


質問者 霊的な努力における進歩に関して、私たちは話を聞いています。あなたはどのような類の進歩を思い描いていますか?


マハラジ あなたが進歩を超えていくとき、進歩とは何かを知るだろう。


質問者 何が私たちを進歩させるのでしょうか?


マハラジ 沈黙が主な要因だ。平和と沈黙のなかで、あなたは成長するのだ。


質問者 マインドは絶対的に落ち着きがありません。何がそれを静めるのでしょうか?


マハラジ 師を信頼しなさい。私の例を見てみなさい。私のグルは、「私は在る」という感覚に留意し、ほかの何にも注意を払ってはならないと指導し、私はただそれにしたがったのだ。私は呼吸や瞑想、あるいは聖典の研究などの特定の過程にはしたがわなかった。何が起ころうとも、それから注意を背け、「私は在る」という感覚とともにとどまったのだ。それはあまりにも単純で、粗野にさえ見えるかもしれない。私がそうした理由は、グルが私にそうするように言ったからだ。それでも、それは効果があったのだ! 服従はすべての欲望と恐れに対する強力な解決策なのだ。
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。だが、新たな義務は避けなさい。空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。招かずにやってきたものを拒んではならない。最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な解放の状態に達する。しかも、それはすばらしく実在なのだ。


質問者 真理の探究者が真剣にヨーガを修練するとき、内側のグルは彼を導き助けるのでしょうか、それとも彼自身にまかせ、結果をただ待つだけなのでしょうか?


マハラジ すべてはひとりでに起こる。探求者は何もせず、グルも何もしない。ものごとは起こるように起こる。行為者という感覚が現れた後に、非難や賞賛が割り当てられるのだ。


質問者 何と奇妙なのでしょう! 行為者はかならず行為の起こる前に現れるはずです。


マハラジ それはその反対だ。行為が事実であり、行為者はただの観念なのだ。あなたの言葉そのものが、行為は確定的であり、行為者は疑わしいことを示している。責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認めるほかはない。行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。


質問者 その幻想はどれほど強力なものなのでしょうか?


マハラジ 疑いようもないほどだ。なぜなら、それは実在に基づいているからだ。


質問者 そのなかの何が実在なのでしょう?


マハラジ 識別し、非実在であるすべてを拒絶することによって見いだしなさい。


質問者 霊的努力における内なる自己の役割を良く理解できませんでした。誰が努力をするのでしょうか? 外側の自己でしょうか、内側の自己でしょうか?


マハラジ あなたは努力、内側、外側、自己といった言葉を発明し、それらを実在の上に押しつけようと努めてきた。ものごとは、ただあるがままに起こるのだ。しかし、私たちはそれを私たちの言語構造に沿うように、ひとつのパターンに組みこむことを望むのだ。この習慣があまりにも強いために、私たちは実在を言葉では表現できないものとして否定してしまう傾向にある。言葉は、繰り返されてきた体験の慣例と習慣に関係する、ただの象徴だということを理解しないのだ。


質問者 霊的な本の価値とは何でしょうか?


マハラジ それらは無知を追い払う助けをする。はじめのうちは有用だが、最後には障害となる。人はいつそれを放棄すべきか知らなければならない。


質問者 アートマとサットヴァとの関連性とは何でしょうか?


マハラジ 太陽とその光線のようなものだ。調和と美、理解と愛情はすべて実在の表現なのだ。それは行為のなかの実在性、物質における魂の影響だ。タマスは覆い隠し、ラジャスは歪ませ、サットヴァは調和をもたらす。サットヴァが成長することで、欲望と恐れは終焉するのだ。歪曲していないマインドのなかに真の存在は反映される。物質は改善され、魂は露わにされるのだ。その二つはひとつとして見られる。それらはつねにひとつだった。だが、不完全なマインドはそれを二つとして見ていたのだ。マインドの完成は人間の努めだ。なぜなら物質と魂はマインドのなかでであうものだからだ。


質問者 私は扉の前にいる人のようです。扉は開いていることは知っているのですが、それは欲望と恐れの犬に守られているのです。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 師にしたがい、犬たちに立ち向かいなさい。それらがそこにいないかのようにふるまいなさい。またしても、従順が黄金率なのだ。自由は従順によって勝ち取られるものなのだ。牢獄から逃げだすためには、疑うことなく、解放のために働いている人の指導にしたがわなければならない。


質問者 グルの言葉は、ただ単に聞くだけでは力を及ぼしません。人は信頼とともにそれにしたがわなければなりません。何がそのような信頼をつくり出すのでしょうか?


マハラジ 時節が調えば、信頼はやってくる。すべては時節とともに現れる。グルはつねに分け与える用意がある。ただ受け取る者がいないのだ。


質問者 そうです。シュリー・ラマナ・マハルシは、「師は多くいるが、弟子はどこにいるのか?」と言っていたそうです。


マハラジ 時節を待てば、すべては起こるのだ。皆が為し遂げるだろう。ひとりの魂も失敗することはないだろう。


質問者 真我の実現を知的な理解として受け取ることを、私は非常に恐れているのです。私は知ることなしにそれについて語るかもしれません。または一言も語らずして、それを知っているかもしれないのです。
これらの会話は出版されるそうですが、それは読者にとってどのような影響を与えるのでしょうか?


マハラジ 注意深く、思慮深い読者のなかで、それは成熟し、開花し、果実をもたらすだろう。真理に基づいた言葉は、もし完全に試されるなら、それ自身の力をもつのだ。



安全な場所は二つあるとは言ってないらしい。n


あなたの知性が妄想の迷宮を超えれば、
これまで聞いたこととこれから聞くであろうことすべてに無関心でいられるようになるだろう。

『バガヴァッド・ギーター』第2章52節


質問者 なぜ真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)が必要なのでしょうか?


マハルシ 真我の探求をしなければ、世界の探求(ローカ・ヴィチャーラ)があなたに忍び入るでしょう。明らかなこと(真我)が探求されないまま、存在さえしないもの(世界)を求めることになるのです。

(対話186)



あなたは、意識している以上に、実にたくさんのことを知っているのですから、答えを知らないと言って逃げないでください。今現在すべきことは何かを自分に聞いてください。こうした自分への問いかけは、自分の都合に合わせてするのではなく、アンバランスな因子のプレッシャーを感じているその瞬間にするのです。


幸せへの最大の障害のひとつは、まわりが自分をみじめにするという思いこみです。あなたをみじめにするのは、まわりの世界に対するあなたの反応です。



質問者 インドの伝統では、グル〔師〕が必要不可欠だと言います。彼は何のために必要不可欠なのでしょうか? 母親は子供に身体を与えるために必要不可欠です。しかし、彼女は魂を与えるわけではありません。彼女の役目は限定されています。グルに関してはどうでしょう? 彼の役目もまた限定されているのでしょうか? もしそうならば、何においてでしょうか? あるいは、彼は一般的に必要不可欠なのでしょうか? それとも絶対的に必要不可欠なのでしょうか?


マハラジ ハートのなかで、平和に、永遠に輝く内奥の光、それが真のグルなのだ。ほかのすべては単に道を指し示すだけだ。


質問者 私は内なる部分には関心がありません。直接道を示してくれる師にだけ関心があるのです。グルなしには、ヨーガは到達しがたいと信じる人びとがいます。彼らは正しいグルをつねに探しつづけ、ひとりの師からほかへと変えていくのです。そんなグルたちに、いったいどんな価値があるというのでしょうか?


マハラジ 彼らは一時的な、時間に拘束されたグルなのだ。あなたは彼らをあらゆる職業のなかに見いだす。何かの知識や技術を獲得するために、彼らを必要とするのだ。


質問者 母親は一生涯のためにだけいます。彼女は誕生にはじまり、死に終わるのです。永遠にいるわけではありません。


マハラジ 同じように、時間に拘束されたグルも永遠にいるわけではない。彼は彼の目的を果たし、つぎの師へと場を明け渡すのだ。それはまったく自然なことであり、それについて非難されるようなことは何もない。


質問者 あらゆる類の知識や技術のためには、別のグルが必要となるのでしょうか?


マハラジ これらの問題においては、外面的なものが一時的であり、内面的なものはその外見と行動においてはつねに新しいが、永久不変だということ以外何の規定もないのだ。


質問者 内側のグルと外側のグルの間には、どのような関係があるのでしょうか?


マハラジ 外側が内側を表現し、内側はしばらくの間、外側を受け入れるのだ。


質問者 努力は誰のものなのでしょうか?


マハラジ もちろん弟子のものだ。外側のグルが指導し、内側のグルが力を送る。油断なくそれに応えていくのが弟子の仕事だ。弟子の意志、知性、エネルギーなしにはグルは無力なのだ。内側のグルはチャンスを得ようとする。愚鈍さと誤った追求が危機をもたらし、弟子は自ら己の苦境に目覚めるのだ。賢い者はショックを待ったりしない。それはひどく粗暴なものでもありうるのだ。


質問者 それは脅しなのでしょうか?


マハラジ 脅しではなく警告だ。内なるグルは非暴力に専心してはいない。愚鈍で堕落した人格を破壊するためには、彼はときおりまったく暴力的になりうる。不幸と死、生と幸福は彼の仕事の道具なのだ。二元性においてだけ、非暴力は統一のための法となるのだ。


質問者 人は自分自身を恐れなければならないのでしょうか?


マハラジ 恐れではない。なぜなら自己とは善良を意味するからだ。だが、それは深刻に受け止められなければならない。それは注意と服従を呼び起こすのだ。聞き入れられないとき、それは説得から強制へと変わる。それはしばらく待つことができるが、否定されてはならないのだ。困難は外側や内側のグルにあるのではない。グルはつねに手に入る。不足しているのは成熟した弟子のほうなのだ。その人に用意ができていなければ、どうすることができようか?


質問者 用意でしょうか、それとも志でしょうか?


マハラジ 両方だ。それは同じことなのだ。インドでは、それはアディカーリと呼ばれている。それは能力と資格があるということを意味している。


質問者 外側のグルは秘伝伝授の儀式(ディクシャ)を授けることができるのでしょうか?


マハラジ 彼はあらゆる類の儀式を授けることができる。しかし、実在への儀式は内面から起こらなければならない。


質問者 誰が究極の儀式を授けるのでしょうか?


マハラジ 自己が授けるのだ。


質問者 私たちは堂々巡りをしているようです。結局、私の知っているのは現在の体験的自己だけです。内面の、あるいは高次の自己とは、説明と奨励のために考えられた概念なのです。私たちはそれを独立した存在のように話していますが、そうではないのです。


マハラジ 外側の自己と内面の自己はともに想像上のものだ。ひとつの棘を抜くために別の刺を必要とするように、あるいは毒を解毒するために別の毒を使うように、「私」という存在への固執が癒されるために、「超─私」という別の観念への固執が必要とされるのだ。すべての断定は否定を呼び起こす。だが、これはまだ第一段階にすぎない。つぎの段階はその両方を超えた彼方へと行くことだ。


質問者 外側のグルが、緊急に自分に対して何かをすべきだという注意を呼び起こすために必要だったことは理解します。また、私のなかの深い変化にとって、どれほどグルが無力かも理解します。しかし、ここであなたは無始、不変、存在の根本、動かぬ約束、確かなる目的地である内なるグルをもたらしたのです。彼はひとつの概念なのでしょうか、それとも実在でしょうか?


マハラジ 彼だけが唯一の実在なのだ。それ以外のすべては、「身体─精神」(デハー─ブッディ)によって時間の上に投げかけられた影にすぎない。もちろん、影でさえ実在に関連している。だが、それ自体では実在とは言えないのだ。


質問者 私の知っている唯一の実在は、私だけです。サッドグル(内なる師)は、私が彼を想う間はそこにいます。彼に実在性を移行することによって、私は何を得るというのでしょうか?


マハラジ 失うことが、あなたの得ることだ。影が影として見られたとき、あなたはそれにしたがうことをやめる。あなたは振り返り、そこにいつもあった太陽をあなたの背後に発見するのだ。


質問者 内側のグルもまた、教えを与えるのでしょうか?


マハラジ 彼は、あなたが永遠、不変、実在─意識─愛であり、内面とすべての現れを超えたものだという確信を与えるのだ。


質問者 確信では不十分です。そこには確実性がなければなりません。


マハラジ まったくそのとおりだ。だが、この場合は確信が勇気の形を取るのだ。恐れは絶対的に消え去る。その恐れのない状態が見間違うことのないほど新しく、しかも自分自身のものとして深く感じられ、否定できないものなのだ。それは愛する我が子のようなものだ。誰に疑うことができるだろう?


質問者 霊的な努力における進歩に関して、私たちは話を聞いています。あなたはどのような類の進歩を思い描いていますか?


マハラジ あなたが進歩を超えていくとき、進歩とは何かを知るだろう。


質問者 何が私たちを進歩させるのでしょうか?


マハラジ 沈黙が主な要因だ。平和と沈黙のなかで、あなたは成長するのだ。


質問者 マインドは絶対的に落ち着きがありません。何がそれを静めるのでしょうか?


マハラジ 師を信頼しなさい。私の例を見てみなさい。私のグルは、「私は在る」という感覚に留意し、ほかの何にも注意を払ってはならないと指導し、私はただそれにしたがったのだ。私は呼吸や瞑想、あるいは聖典の研究などの特定の過程にはしたがわなかった。何が起ころうとも、それから注意を背け、「私は在る」という感覚とともにとどまったのだ。それはあまりにも単純で、粗野にさえ見えるかもしれない。私がそうした理由は、グルが私にそうするように言ったからだ。それでも、それは効果があったのだ!服従はすべての欲望と恐れに対する強力な解決策なのだ。
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。だが、新たな義務は避けなさい。空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。招かずにやってきたものを拒んではならない。最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な解放の状態に達する。しかも、それはすばらしく実在なのだ。


質問者 真理の探究者が真剣にヨーガを修練するとき、内側のグルは彼を導き助けるのでしょうか、それとも彼自身にまかせ、結果をただ待つだけなのでしょうか?


マハラジ すべてはひとりでに起こる。探求者は何もせず、グルも何もしない。ものごとは起こるように起こる。行為者という感覚が現れた後に、非難や賞賛が割り当てられるのだ。


質問者 何と奇妙なのでしょう! 行為者はかならず行為の起こる前に現れるはずです。


マハラジ それはその反対だ。行為が事実であり、行為者はただの観念なのだ。あなたの言葉そのものが、行為は確定的であり、行為者は疑わしいことを示している。責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認めるほかはない。行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。


質問者 その幻想はどれほど強力なものなのでしょうか?


マハラジ 疑いようもないほどだ。なぜなら、それは実在に基づいているからだ。


質問者 そのなかの何が実在なのでしょう?


マハラジ 識別し、非実在であるすべてを拒絶することによって見いだしなさい。


質問者 霊的努力における内なる自己の役割を良く理解できませんでした。誰が努力をするのでしょうか? 外側の自己でしょうか、内側の自己でしょうか?


マハラジ あなたは努力、内側、外側、自己といった言葉を発明し、それらを実在の上に押しつけようと努めてきた。ものごとは、ただあるがままに起こるのだ。しかし、私たちはそれを私たちの言語構造に沿うように、ひとつのパターンに組みこむことを望むのだ。この習慣があまりにも強いために、私たちは実在を言葉では表現できないものとして否定してしまう傾向にある。言葉は、繰り返されてきた体験の慣例と習慣に関係する、ただの象徴だということを理解しないのだ。


質問者 霊的な本の価値とは何でしょうか?


マハラジ それらは無知を追い払う助けをする。はじめのうちは有用だが、最後には障害となる。人はいつそれを放棄すべきか知らなければならない。


質問者 アートマとサットヴァとの関連性とは何でしょうか?


マハラジ 太陽とその光線のようなものだ。調和と美、理解と愛情はすべて実在の表現なのだ。それは行為のなかの実在性、物質における魂の影響だ。タマスは覆い隠し、ラジャスは歪ませ、サットヴァは調和をもたらす。サットヴァが成長することで、欲望と恐れは終焉するのだ。歪曲していないマインドのなかに真の存在は反映される。物質は改善され、魂は露わにされるのだ。その二つはひとつとして見られる。それらはつねにひとつだった。だが、不完全なマインドはそれを二つとして見ていたのだ。マインドの完成は人間の努めだ。なぜなら物質と魂はマインドのなかでであうものだからだ。


質問者 私は扉の前にいる人のようです。扉は開いていることは知っているのですが、それは欲望と恐れの犬に守られているのです。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 師にしたがい、犬たちに立ち向かいなさい。それらがそこにいないかのようにふるまいなさい。またしても、従順が黄金率なのだ。自由は従順によって勝ち取られるものなのだ。牢獄から逃げだすためには、疑うことなく、解放のために働いている人の指導にしたがわなければならない。


質問者 グルの言葉は、ただ単に聞くだけでは力を及ぼしません。人は信頼とともにそれにしたがわなければなりません。何がそのような信頼をつくり出すのでしょうか?


マハラジ 時節が調えば、信頼はやってくる。すべては時節とともに現れる。グルはつねに分け与える用意がある。ただ受け取る者がいないのだ。


質問者 そうです。シュリー・ラマナ・マハルシは、「師は多くいるが、弟子はどこにいるのか?」と言っていたそうです。


マハラジ 時節を待てば、すべては起こるのだ。皆が為し遂げるだろう。ひとりの魂も失敗することはないだろう。


質問者 真我の実現を知的な理解として受け取ることを、私は非常に恐れているのです。私は知ることなしにそれについて語るかもしれません。または一言も語らずして、それを知っているかもしれないのです。
これらの会話は出版されるそうですが、それは読者にとってどのような影響を与えるのでしょうか?


マハラジ 注意深く、思慮深い読者のなかで、それは成熟し、開花し、果実をもたらすだろう。真理に基づいた言葉は、もし完全に試されるなら、それ自身の力をもつのだ。



マハルシ 活動や現象が真我から離れて起こるものではないということを悟ったとき、真我は実現されます。


それに注意を与えないことが無知なのです。


質問者 束縛をもたらすのは執着心だけということでしょうか?


マハルシ まったくそのとおり。執着心が束縛なのです。

(対話317)



無条件の愛は、自然にあなたのもとにやってきます。自分自身や他人にあわれみを寄せるのは、あなたの本性なのです。手をのばし、友人を慰めたいと思うのは、あなたにとって自然なことです。気遣ってくれる人たちの愛を受けいれるのは、あなたにとって自然なことです。


どれにも努力はいりません。学習もいりません。


ではなぜ、無条件の愛を経験することが、めったにないのでしょうか。その答えを聞いて、あなたはきっと驚くでしょう。


もともと、あなたがたは神とひとつで、その愛の全能の力を分かちもっていました。あなたにとって不可能はありませんでした。ところが、そのうちに、神から離れたらどうなるだろうという思いが起きました。離れてみると、それは初めての経験でしたから、自信がもてません。疑いが入りこんできて、こう思います。「もし、なにかうまくいかなかったら?」この疑いは、分離の不安にすぎなかったのですが、ほかの多くの恐怖心を呼び起こしてしまいました。その中には、「わたしが事態をめちゃくちゃにしたら、神はお怒りのあまり、わたしを愛してくださらなくなるだろう」というものもありました。この考えが決め手になったのです。


ほどなく罪悪感と、愛に満ちた神から切り離されるという感情が経験されるようになりました。この分離はあなたがたが創りあげて、自分に押しつけたものですが、とてもリアルに感じられます。あなたがたはそれを信じるようになりました。


そのあとであなたがたの創造したものは、その信念の結果です。つまり「神はわたしを愛しておられない。わたしに満足しておられない。わたしは神の愛に値しない」ということです。


そして自分自身の心(マインド)の中でかってに、恩寵から失墜してしまいました。神の愛の全能の力を分かちもっていたのに、その愛を怖れるようになりました。自分自身の創造力を怖れるようになって、それを見えないところへ隠してしまったとも言えます。あなたは創造者であることをやめ、犠牲者になりました。原因であることをやめ、結果になりました。つまり、事実を逆転させてしまったのです。愛を恐ろしいものにしてしまいました。


分離を感じているときには、その分離以前がどんな感覚だったのか、思い出すことはできません。それがあなたがた特有のジレンマのようです。


神へもどる道を見いだすには、一歩一歩足跡を逆にたどって、「分離」は自分が選んだもので、神が選んだのではないと悟ることです。「わたしが、もしこの力を濫用してしまったら」とあなたは考えました。そのせいで、自分の力が恐ろしいものになるような世界を創る方向へ行ってしまいました。あなたはさらに先へ進んでゆき、神があなたの疑いと恐れに答えてくださるのを待たなかったのです。


もし神のお答えを聞いたとしたら、それはたぶん次のようなものでしょう。「おまえは無条件に愛されている。わたしはおまえへの愛をひっこめたことは一度もないのだよ。愛されていることを思い出せば、おまえは愛に満ちたふるまいしかできないだろう」


神のこのお答えを聞いたら、分離されたというあなたがたの夢も終わることでしょう。それは、自分が愛されていないという思いこみを、まっこうから打ち破るものだからです。この思いこみが非現実的な考えのおおもとです。あらゆる犠牲者意識は、この思いこみから生まれます。自分が「愛されるに値しない」と信じていないかぎり、「悪い」ことを考えたり「悪い」ことをしたりはできません。あらゆる攻撃も、このたったひとつの思いこみから来るのです。


アダムとイブも同じように「もし」と考えました。「もし、わたしがこのリンゴを食べ、神様と同じくらいの力を持つようになったら?」ふたりもまた、自分でかってに恐ろしい答えを考えだし、恥ずかしいと思って、神の目から姿を隠そうとしました。あなたがたはいま同じ問いを立てています。おなじリンゴをかじっているのです。あなたがたも、神と隠れんぼをしようとしています。


あなたの犠牲者としての経験を作っているのは、たえまないこの自問自答なのです。自分で創りあげた世界で、あなたは犠牲者であると同時に迫害者でもあります。このふたつの役割をよく調べれば、そのあいだにほとんど違いがないのがわかるでしょう。犠牲者は迫害者を必要とし、逆もまた真です。


自分には愛を与えたり受けとったりする価値がないのでは、と疑ったとき初めて、悪の問題が生じてきました。愛を与え、受けとることこそ、あなたの存在のありかたです。あなたは自分が愛に値しないかもしれないと疑いました。自分だけでなく、この世界のすべてのものがです。そこで、さあ選択です。あなたがなすべき唯一の選択は、「わたしは愛に値するか」という問いに、自分で答えるか、神のお答えを待つかです。


実にかんたんなことです。神に、あなたのもともとの誤った思いこみを正していただくか、この思いこみを真実として受け入れ、その上に自分の人生を築くかです。


リンゴをしゃぶるのをやめるのに、遅すぎることはありません。自分の立てたそもそも誤った問いへの答えは不満足なものでしかありえない、と悟るのに遅すぎるということはありません。神に向きなおって、こう言うのに遅すぎるということはありません。「神よ、わたしの出した答えは、自分の心を恐怖で満たしました。その答えは、人生に悩みと苦労をしか持ちこみませんでした。だからこの答えはきっと誤っているのです。どうか別の答えを探すのを手伝っていただけませんか」


地上でのスピリチュアルな生活は、この問いを口にすることから始まります。どんな宗教を信じているかは関係ありません。社会的地位あるいは経済的状況は関係ありません。自分の誤った信念や思いこみに立ちむかう準備の整う瞬間が、だれの人生にも必ずやってきます。それはあなたの癒しの始まりであり、本来の力と生きる目的の回復となります。


自分自身の疑いを疑うこと、自分自身が否定的な存在であることを否定することが、ターニング・ポイントになります。物質世界への下降の終わりであり、天への上昇の始まりです。それは神とのパートナーシップの更新であり、モーゼ以来の”新たな契約”となります。


自分自身を、またほかの人を、不幸な犠牲者と見ているかぎりは、神のパートナーにはなれません。”新たな契約”はあなたに、神の王国を自分のハートの中に認めることを求めています。それはつまり、神があなたと分離しているという考えを拒否することでもあります。自分が、あるいは兄弟が、愛に値しないという考えを拒否してください。悪とは恐怖心の中で生み出された考えだとして拒否してください。神の力を濫用しうるなどという考えを、拒否してください。


”新たな契約”とは、「もし……したら?」という問いへの、神の答えを受けいれることです。それは自分自身の救済の始まりであり、神の王国を人類が地上に受けいれる第一歩でもあります。


むかし、あなたがたは、神と自分との創造的なパートナーシップを拒否しました。いま、あなたはそれをとりもどす準備ができています。むかし、あなたがたは、自分が神の目からみれば愛に値しないという考えをもてあそびました。いま、あなたは神との永遠の愛の交流をとりもどそうとしています。


神をふたたび人生に受けいれれば、この世界およびそこに住むものとの経験すべては、すっかり変わってしまいます。あなたは近寄ってくるすべての子どもの父親であり、母親であり、近寄ってくる老人の息子、娘となります。友だちの多い人にも孤独な人にも、友だちとなります。自分が愛されていることを覚えている人をも、それを忘れた人をも愛します。


あなたの愛に満ちた存在と神の愛の実践が、必要とされないような場所はありません。すべての場所があなたのやさしい言葉を呼び求めています。あなたが渇きを癒す杯(さかずき)からいっしょに飲むことを、すべてのものが待ち望んでいます。


不幸という夢は、その存在を問いつめ、拒絶したときに、終わっています。あなたが自分の不幸を問いつめるとき、ハートの中にある無条件の愛に目覚めてゆくのです。不幸に甘んじていれば、その経験はさらに度を増してゆき、底まで落ちます。でも底に達すれば、もうたくさんだとわかるでしょう。


だれも他人を、むりやりに目覚めさせることはできません。だれでも、条件つきの愛をやりとりすることの不毛を経験する時がやってきます。分離とコントロールが耐えがたくつらいものになるまでは、そういう愛にしがみついています。どのくらいで耐えられなくなるかは人によって違いますが、だれでもいつかは限界に達します。


ですから、人にお説教するのではなく、ただ愛を及ぼすようにと、わたしは言うのです。それを受けいれる準備のできた人は、あなたについてきて助けを求めるでしょう。まだ準備のできていない人は、あなたとはかかわりなく自分の旅をつづけるでしょう。


「教師」は求められればそれを「教え」ます。愛を願い求める人には、行いで、あるいは言葉で、愛を及ぼします。こうすればそのうち救われると言ったり説いたりして、信じない人をおどしつけたりしません。


救済は、いま、救われたいと願う人すべてに与えられています。ほかの人を批判・判断しないでください。それはあなたの役目ではありません。遅れて神の愛のひざにもどってくる人が、早々ともどった人よりも価値がないとはいえません。


ほんとうのことを言えば、あなたをひきあげるのは神ではありません。わたしでもありません。あなたがあなたをひきあげるのです。自分がいかに愛すべき存在かを思い出し、神の計画のなかでの自分の役割を受けいれることで、自分をひきあげます。


自分の全能性を受けいれるためには、まず神と和解しなくてはなりません。すべての力は神から来るからです。あなたも対等のパートナーとしてそれを分かちもつのですが、神と離れては、その力を行使することはできません。「もし……したら」の夢を見ているさなかでさえ、あなたは神の愛から完全に分離することはできません。その夢の中で苦しみが限界に達すれば、もどることを選ぶでしょう。それはだれでも同じことです。


神の愛の力は、濫用などできません。拒絶し、否定し、隠してしまうことはできるでしょう。しかしあらゆる拒絶、否定、秘めた罪悪感にも限界があります。真実は、ゆがめられるかもしれませんが、完璧に抹消されたり否定されたりすることはありません。どんな暗闇にも一点の光はつねに残っています。その光は、それを見つけたいという望みがわきあがったときには、つねに見つかります。


友よ、あなたは自分の夢の主人公です。闇を夢見たのもあなたなら、光をもたらすのもあなたです。あなたは誘惑者と救済者のひとりふた役です。そのことを、あなたはすでに知っているはずなのですが、あらためて知るようになります。


この自作自演のドラマの中で、あなたのかかえる問題は神との関係のみです。見かけは兄弟とのもめごとのように感じるかもしれませんが、そうではありません。善悪の木は、あなたの心(マインド)の中に生えています。自分がつまらないものだとか、力を誤ったふうに使うとか、あなたが考えているのは、あなたの心の中でだけです。


あなたの答えと神の答えが、ぴったりひとつになるときがやってきます。そのとき善悪の木は、分かちがたい全体である、生命の木になるでしょう。愛はもはやその敵対物をもたず、自由にあらゆる方向へ広がってゆきます。


だれかが近づいてきて、あなたの愛に、また自分の愛に条件をつけようとしたら、あなたはこう言います。「兄弟よ、わたしはその夢を見たけれども、その結果を知った。それは苦しみと死にしかつながらない。どちらにとっても満足はいかない。そんな夢を生みだした、もともとの思いこみをよく調べてみよう。いっしょに考えれば、きっと道が見つかるはずだよ」


地上での自分の目的はなんだろうか、と考えたことがあったとしたら、この前の段落をもう一度読んでください。そうすれば、自分の目的とは、愛の呼びかけを聞いたらつねにそれに応(こた)えることだけだったのだ、と思い出します。あなたにその気があれば、むずかしいことではありません。特別な能力も才能もいりません。どのようにとか、なぜとかは、あなたが目の前に開かれた扉を通りぬければ、愛がみずから取りはからうでしょう。


わたしはあなたがたに、レンガの壁を通りぬけなさいとか、水の上を歩きなさいと言った覚えはありません。扉が開いているのを示し、入る準備ができているかどうか、たずねただけです。あなたも兄弟に対して、それだけをたずねてください。


条件をつけずに愛することのできる人は、結果に執着しません。人は来て、また去ってゆき、あなたにはその理由はけっしてわかりません。いかにも楽々と門を通りぬけそうに見える人が、手前でくるりときびすを返して立ち去っていきます。とうてい門の見える地点まで来るとは思えないような人が、思いもかけない潔(いさぎよ)さでそこをくぐっていきます。


心配をやめてください。だれが来て、だれが去ってゆくかは、あなたの問題ではありません。契約はすべての人のハートの中にあって、神のみが、だれが準備ができているかをご存じです。それは神におまかせし、ただ神とともに働くことに心がけましょう。神の意志を行うとき、人生ははるかにスムーズに流れてゆきます。神を信じるとき、ハートはそのふちまで愛と受容になみなみと満たされ、あふれ出るのです。


こうしてわたしたちは、愛の供給に限りのないことを知るでしょう。それには始まりもなく、終わりもありません。地上のすべての限界は、神の王国がわたしたちのハートの中に建てられるとき、きわまりのない天の愛のなかに溶け去るのです。



質問者 人間と宇宙に関して数多くの理論があります。創造の理論、幻想の理論、夢見の理論等々、数えきれません。どれが本物なのでしょうか?


マハラジ すべて本物で、すべて偽物だ。どれでもあなたの好きなものを選ぶがいい。


質問者 あなたは夢の理論を好んでいるようですが。


マハラジ それらはみな言葉をつなぎ合わせたものだ。ある人はある理論を好み、ほかの人は別のものを好む。理論は正しくも間違ってもいない。それらはただ説明不可能なことを説明しようと試みたものだ。理論が問題なのではなく、それがどのように試されるかが問題なのだ。理論を試すことがそれを価値あるものにする。あなたの好きなどの理論でも実験してみるといい。もし誠実で真剣であれば、実在の達成はあなたのものとなろう。ひとりの生きる存在として、あなたは苦痛に満ちた、やりきれない状況のなかにいる。そして解決法を探している。あなたのいる牢獄のいくつか異なった地図があなたに渡された。どれも本物とは言えない。だが、それらはみないくらかの価値をもってはいる。だが、あなたが本当に真剣ならば、理論ではなく、あなたの真剣さが解放へと導くのだ。


質問者 理論は迷わせるかもしれず、真剣さは盲目にさせるかもしれません。


マハラジ あなたの誠実さがあなたを導くだろう。自由と完成への献身が、あなたにすべての理論やシステムを放棄させるだろう。そしてあなたは智慧と知性、そして愛とともに生きはじめる。理論は出発点としては良いが、いずれ放棄されなければならないものだ。早ければ早いほどいい。


質問者 真我の実現のためには、ヨーガの八段階の修練は必要なく、意志の力のみで充分だと説くヨーギがいます。純粋な意志の力への完全な確信をもって目的に集中するならば、ほかの者たちが何十年もかけて到達することも、努力なしに急速に達成すると言います。


マハラジ 集中力、絶対の確信、純粋な意志! そのような財産があれば、疑いなく瞬時に達成するだろう。このヨーギの説く意志は、ひとつを除いたすべての欲望をぬぐい去った成熟した探求者にとってはいいだろう。つまるところ、意志とは安定したハートとマインドのことなのだ。そのような不動の姿勢で臨めば、達成できないものなど何もない。


質問者 ヨーギが意味していたのは、単に絶え間ない追求と勉学への不動の意志を意味していたのではないと私は感じています。目的への意志が確固であれば、どのような勉学も、研究も必要ないということです。単に意志を持っているという事実が、対象を引きつけるのです。


マハラジ あなたが意志、決心、一途な心、何という名でそれを呼ぼうと、つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。死ぬほど真剣なとき、あなたはあらゆる出来事、あらゆる人生の瞬間を本来の目的に結びつける。ほかのことであなたの時間とエネルギーを浪費したりはしない。あなたは目的に完全に献身する。意志、愛、あるいは誠実さと呼んでもいい。私たちは複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。昨日の仕事を今日取り消し、つねに自分自身に矛盾している。身動きがとれなくなるのも無理はない。ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。


質問者 欲望と運命、どちらがより強力なのでしょうか?


マハラジ 欲望が運命を形づくる。


質問者 そして運命が欲望を形づくります。私の欲望は遺伝と環境、チャンスと偶然、いわゆる運命によって条件づけされているのです。


マハラジ あなたの言うとおりだろう。


質問者 いつ私は望む自由をもてるのでしょうか?


マハラジ たった今、あなたは自由なのだ。あなたが望むことは何だろう? それを望むがいい。


質問者 もちろん、望むことは自由ですが、それに働きかけることは自由ではありません。ほかのものへの衝動が、私を迷わせるのです。たとえ私が容認したものでも、私の欲望は充分強くありません。私が容認しない欲望のほうが強いのです。


マハラジ おそらく、あなたはあなた自身を偽っているのだろう。たぶんあなたが容認する欲望は体裁を保つため表面にとどめておいて、本当の欲望には表現の機会を与えていないのだろう。


質問者 あなたの言うとおりかも知れません。しかし、それもまた別の理論です。事実は、私はすべきだと想うことを自由に望めないと感じ、正しく望んでいるように見えるときには、それにしたがって行為をしないのです。


マハラジ それはみな精神的弱さと、不完全な脳によるものだ。マインドを落ち着け、強化しなさい。そうすればあなたの思考、感情、言葉、行為は、あなたの意志の方向に沿うようになるだろう。


質問者 マインドを統合し、強化することはたやすい仕事ではありません。いったいどのようにはじめればいいのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたがいるところからはじめることができる。あなたは今ここに在る。今ここを離れることはできないのだ。


質問者 ですが、今ここで私は何ができるのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたの存在に気づくことができる。今ここで。


質問者 それだけですか?


マハラジ それだけだ。それ以上何もありはしない。


質問者 夢見の状態と目覚めの状態で、いつも私は自分を意識しています。それは大した助けにはなってはいません。


マハラジ あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。


質問者 どのような新しい要因をもちこめばいいのでしょうか?


マハラジ 出来事に巻きこまれることなく見守る、純粋な観照の姿勢だ。


質問者 それが私に何をするのでしょうか?


マハラジ 弱いマインドは知性と理解の欠如から起こる。それはまた不注意の結果でもある。気づきのために努力することによって、あなたはマインドをひとつにし、それを強力にするのだ。


質問者 私は何が起こっているかには完全に気づいているかも知れませんが、それに影響を与えることはまったく不可能なのです。


マハラジ そうではない。何が起こっているかは、あなたのマインドの投影なのだ。それゆえ、あなたのマインドとその投影に気づいていなさい。弱いマインドにはそれ自身の投影を制御することができない。あなたはあなたが知らないことを制御できないのだ。一方、知識が力を与える。その訓練はとてもシンプルなものだ。自己を制御するために、自己を知りなさい。


質問者 おそらく、私は自分を制御できるようにはなるかもしれません。しかし、世界の混乱を扱うことができるようになるでしょうか?


マハラジ あなたのマインドがつくり出した混乱以外に世界の混乱というものはない。それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを中心に自己創造されるのだ。実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。


質問者 私は自分が喜びへの欲望と苦痛への恐れによって、完全に動機づけされていることを見いだしました。いかに私の欲望が高尚であり、恐れが正当化されたとしても、喜びと苦痛は、その間で私の人生が振動する、二つの極なのです。


マハラジ 苦痛と喜び、恐れと欲望、その両方の源へと行きなさい。観察し、調査し、理解することを試みなさい。


質問者 欲望も恐れも身体的、精神的要因によって起こる感情です。それらはそこにあり、たやすく観察できます。しかし、なぜそれらはそこにあるのでしょうか? なぜ私は喜びを望み、苦痛を恐れるのでしょうか?


マハラジ そこに身体と身体を守るマインドが存在するかぎり、好感と反感は作用するだろう。それらが出来事のなかに現れても、あなたに影響することはない。あなたの留意の焦点は別の場にあり、それに迷わされることはないのだ。


質問者 それでも、それらはそこにあるでしょう。完全に自由になることは不可能なのでしょうか?


マハラジ あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の結果なのだ。普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろう。


質問者 しばしば、人びとは自らの意志で死にます。


マハラジ 選択が死より一層悪いときにかぎってだ。しかし、そのような死ぬ用意も生きる意志と同じ源から流れてくる。その源は生命そのものよりも深いものだ。生きる存在として在るということは、究極の状態ではない。そこには彼方にある、何かはるかに素晴らしい、存在でも非存在でもなく、生命でも非生命でもないものがある。それが時間と空間の限界を超えた純粋な覚醒だ。ひとたびこの「身体─精神」が自己だという幻想が放棄されたならば、死はその恐怖を失い、それは生きることの一部となるのだ。


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