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マハルシ まず、あなたが何なのかを学びなさい。そのためには聖典も学識も要りません。これはシンプルな体験なのです。


「存在」の状態は常に、





今ここに在ります。自分自身を見失って、





あなたは他者に指導を求めています。


自我は立ち現れ、あなたをとらえています。あなた自身をとらえなさい。
それが起こるまでは、賢者は「在る」と言い、愚者は「どこに?」と尋ねるでしょう。

(対話132)


自分が継続した実体だと思い込もうとすることで、本当に継続しているものが体験できなくなっています。


犯人:自分が継続した実体だと「思い込もうとすること」


被害:本当に継続しているものが体験できない


本当に継続している唯一のもの、
それ以外のものであなたがこの瞬間にもたらすものはすべて、目に見える、継続した有限の人間として自分が存在すると「思い込みたい」がためにあなたがもたらしているものです。


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月が天空を舞いながら、神秘的ですばらしいやり方で暗闇を照らすとき、その青白い光の美しさにじっと見入った。われわれの野営地から上がるたき火の炎が夕暮れ時の空を照らすのを見た。野鳥が水面に降りる音や、夜の巣の中で鳥たちが動く音、そして子どもたちの笑い声を聞いた。流れ星やナイチンゲール、葦に降る霜を見つめ、湖面が凍り、別世界のような幻を創り出している湖を観察した。風が吹くにつれて、オリーブの木の葉がエメラルドグリーンから銀色に変わっていくのを見た。


自分であるものすべてを愛することが、なぜ重要なのだろうか? 自分のすべてを愛すれば、あなたはすぐに社会意識を超越するからだ。そのときあなたは、まわりから受け容れられるかどうかというレベルを超越する。…その道にこそ、在るものすべてを知っている状態があるのだ。


自分は神であるすべてを受け容れるに値するのだと感じられるほど自分自身を愛するとき、そして自分が「父」とひとつであるのを知ることを望むとき、あなたはこのすばらしい花を咲かせ始める。…知りたいと望むことによって、「知っている状態」の感情をすべて感じたいと望むことによってである。


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マハラジ 世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。それは在り、しかもそれはない。私が見たいと欲し、それに参加したいと望むかぎり、それはそこに在る。私が気にかけるのをやめるとき、それは溶け去る。それは原因がなく、何の目的にも仕えない。それは私たちが放心しているときに起こる。まったく見たとおりに現れはするが、そこには何の深みも意味もない。ただその傍観者だけが実在なのだ。彼は真我ともアートマとも呼ばれる。真我にとって世界は、それが続くかぎり楽しみ、終われば忘れられてしまう、ただの色鮮やかなショーにすぎない。何であれ、舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、あるいは笑い転げさせようと、つねに彼はそれがただのショーだと知っている。欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。


質問者 世界のなかに浸っている人は、多くの味わいをもっています。彼は泣き、笑い、愛し、そして憎み、切望し、また恐れ、苦しみ、そして楽しみます。無欲で恐れのないジニャーニ、彼の人生はどのようなものなのでしょう? 彼は冷淡で無味乾燥とした高みにひとり超然としているのでしょうか?


マハラジ 彼の境地はそのような寂しいものではない。それは純粋で、原因がなく、稀釈されない至福なのだ。彼は幸福であり、幸福が彼の本質そのものだ。彼はそれを守るために闘うことも、何をする必要もない。幸福は彼にしたがい、身体よりも真実で、マインドよりも身近なのだ。あなたは、原因なしで幸福はありえないと想像している。私から見れば、幸福のために何かに依存することはまったく悲惨なことだ。快楽と苦痛には原因がある。一方、私の境地は私自身のものであり、まったく原因がなく、独立した、疑う余地のないものだ。


質問者 舞台上の劇のようにでしょうか?


マハラジ 劇は作品として書かれ、計画され、稽古されたものだ。世界はただ無から存在のなかへと立ち現れ、無へと帰っていく。


質問者 創造者はいないのでしょうか? 世界は創造される前には、創造神ブラフマーのマインドのなかにあったのではないでしょうか?


マハラジ 私の境地の外にいるかぎり、あなたは創造神、維持神、破壊神をもつだろう。しかし、ひとたび私とともにあるならば、あなたは真我だけを知り、すべてのなかにあなた自身を見るだろう。


質問者 それでも、あなたは世界のなかで機能しています。


マハラジ めまいがするとき、世界はあなたのまわりで輪を描いているかのように見える。手段と目標、仕事と目的という観念に取りつかれて、あなたは私が一見機能しているかのように見るだろう。実際には、私はただ見ているだけだ。何であれ、為されることは舞台上で為されているのだ。喜びと悲しみ、生と死、束縛された人にとって、それらはすべて現実だ。私にとって、それらはすべてショーだ。ショーそのもののように非現実なのだ。
私はあなたのように世界を知覚するかもしれないが、あなたはそのなかにいると信じきっている。ところが、私は世界を広大な意識の広がりのなかの、ひとつの真珠の粒としてしか見ていないのだ。


質問者 私たちは皆年老いていきます。あらゆる痛みや苦痛、弱さ、そして死が近づいてきます。老年は快いものではありません。ジニャーニはひとりの老人としてどう感じるのでしょうか? 彼の内なる自己は彼自身の老衰を見ているのでしょうか?


マハラジ 彼は年を追うにしたがって、もっともっと幸せに、そして平安になっていく。つまるところ、彼は古巣に戻るのだ。目的地に近づいた旅人が、荷物をまとめ、心残りもなく列車を去っていくように。


質問者 明らかにそこには矛盾があります。ジニャーニはすべての変化を超えていると私たちは聞いています。彼の幸福は強くなることも、衰えることもありません。どうして身体的衰弱にもかかわらず、年をとるにつれて彼はより幸福になるのでしょうか?


マハラジ そこに矛盾はない。運命の一巻は終わりを告げようとしている──マインドは嬉しいのだ。身体的存在の霧は晴れようとしている──身体の重荷は日に日に減少していくのだ。


質問者 ジニャーニが病気だとしましょう。彼は風邪をひき、関節のあちこちが痛み、焼けるようです。彼のマインドの状態はどうなのでしょうか?


マハラジ あらゆる感覚は完全な平静さとともに観照される。そこには何の欲望も拒絶もない。それはあるがままであり、彼はそれを愛情のこもった無執着の微笑みとともに見るのだ。


質問者 彼は苦しみに対して超然としているかもしれませんが、それでも、それはそこにあるのです。


マハラジ それはそこにある。だが、それは問題ではない。いかなる状態にいようとも、私はそれをあるがままのマインドの状態として見るのだ。


質問者 痛みは痛みです。あなたはやはり体験するのです。


マハラジ 身体を体験する人は、その苦痛と快楽を体験するだろう。私は身体でも、身体を体験する人でもないのだ。


質問者 では、あなたが二十五歳の青年だとします。あなたの結婚が準備され、行なわれました。そして家庭生活の義務があなたの上にのしかかってきます。あなたはどう感じるでしょうか?


マハラジ たった今、私が感じているようにだ。あなたは私の内的状態が、外的出来事によって形づくられると主張しつづけている。それはただそうではないのだ。何が起ころうと、私は変わらないままだ。私の存在の根底には気づきが、強烈な光の点が在る。この点がその本性によって輝き、空間のなかには画像を、時間のなかには出来事を、努力することなく自発的につくり出す。単にそれに気づいているだけならば、問題はない。しかし、分別心が存在のなかに現れ、区別をつくり出すと、苦痛と快楽が立ち現れる。眠りの間、マインドは停止しているため、苦痛や快楽も停止している。創造の過程は継続するが、注目はされない。マインドは意識のひとつの形であり、意識は生命のひとつの相だ。生命がすべてをつくり出す。しかし、至高なるものはすべてを超えた彼方に在るのだ。


質問者 至高なるものが主人であり、意識は彼の召使いです。


マハラジ 主人は意識のなかにいて、それを超えはしない。意識との関係において、至高なるものは創造と壊滅、具象と抽象、焦点と普遍だ。それはまた、そのどちらでもない。言葉もマインドも、そこには届かないのだ。


質問者 ジニャーニは、とても寂しい存在のように見えます。孤立しているかのようです。


マハラジ 彼はひとりだ。だが、彼はすべてなのだ。彼はあるひとつの存在でさえない。彼はすべての存在の実在なのだ。それでさえもない。いかなる言葉も適さない。彼は彼で在るもの。すべてがそこから成長していく土台なのだ。


質問者 あなたは死を恐れてはいないのでしょうか?


マハラジ 私のグルのグルがどのように死を迎えたか話をしよう。死が近づいていることを皆に告げた後、彼は日々の日常の仕事を続けながら、食事するのをやめた。十一日後、祈りの時間に、彼は歌い、手を元気に叩きながら突然死んだのだ! そのように、二つの瞬間の合間にロウソクが吹き消されるように。誰もが彼の生きたように死ぬ。私は死を恐れてはいない。なぜなら生を恐れていないからだ。私は幸福な生を送り、幸福な死を迎えるだろう。惨めさとは生まれることだ。死ぬことではない。すべてはあなたがどのように見るかにかかっているのだ。


質問者 あなたの境地の証拠はありません。私の知るすべては、あなたが言うことだけです。私が見ているのはとても興味深い老人です。


マハラジ 興味深い老人はあなただ。私はけっして生まれなかった。どうして年をとることができようか? あなたにとって現れる私は、あなたのマインドのなかにだけ存在するのだ。私はそれに関わってはいない。


質問者 たとえ夢であっても、あなたはもっとも特別な夢です。


マハラジ 私はあなたを目覚めさせることのできる夢だ。あなたが目覚めるということ自体のなかに、その証明を得るだろう。


質問者 私が死んだという知らせがあなたに届いたと想像してください。誰かがあなたに「この人を知っていますか? 彼は死んだのですよ」と告げます。あなたはどのような反応をするのでしょうか?


マハラジ あなたが古巣に帰り着いて私は本当に幸せだろう。あなたがこの愚かさから抜けだしたのを見て本当に嬉しい。


質問者 どの愚かさでしょうか?


マハラジ あなたが生まれ、そして死ぬと考えていること、あなたがマインドを誇示する身体であると考えていること、そしてそのようなばかげた話のすべてだ。私の世界では誰も生まれず、誰も死なない。何人かの人は旅を続け、そして帰ってくる。何人かはけっして去ることはない。彼らは夢の国で、それぞれ自らの夢に包まれて旅しているのだ。そこにどんな違いがあるというのだろう? 目を覚ますことだけが重要なのだ。「私は在る」が実在であり、そしてまた愛なのだと知るだけで充分だ。


質問者 私の道はそれほど絶対的なものではありません。それゆえの質問です。西洋の至るところで、人びとは何か真実なるものを探求しています。彼らは物質に関して多くを語る科学に傾倒してきましたが、それはマインドに関してはわずかばかり、自然と意識の目的に関してはまったく触れません。彼らにとって実在は客観的で、観察可能で、直接、あるいは推測による記述可能な外的なものであり、実在の主観的側面については何も知らないのです。実在が在るということ、そしてそれは物質とその限界や歪みから意識が自由になることで見いだせるのだということを、彼らに知らしめるのは非常に重要なことです。世界のほとんどの人びとは、実在を見いだすことができ、しかも意識のなかで体験できるということを知らないのです。彼らが実際に実在を実現した人からその良い知らせを聞くのはたいへん重要なことのように思えます。そのような賢者はつねに存在してきました。そして彼らの証言は貴重なものです。


マハラジ もちろん。真我の実現の福音は、ひとたび聞かれたならば、けっして忘れることのできないものだ。大地にうずくまる種子のように、それは来たるべき季節を待ち、やがて芽吹いて巨大な樹へと生長することだろう。


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本質


目標は、人生が展開するままに人生を生きながら、それぞれの瞬間にそれを体験している自分の部分を意識し、そこに意識を移行することができるということです。
本当を言えば、人はつねにこれを実行しているのです。





<人生を生きる>ということをしている<自分>というものがある、と人は思っています。





でも、そうではありません。
”大いなる源”がすべてをつかさどっているのです。そして”大いなる源”がすべてをつかさどっているのであれば、





自分が何かをしているときに、同時に、”大いなる源”の存在を感じて当然ではありませんか。





”大いなる源”が片方にあり、自分と自分の人生がもう一方にあって、この二つは別のものだという考えは、消し去るべき固定観念です。


いわゆる<神を求める>努力をしつづけるには、自分と神とのあいだにはどんな分離も存在しないのだと確信したい、という飽くなき願いと強い意志と固い決心が必要です。なかでも、神または覚醒、または悟りというものが実在するのだということを確信するためには、実践が必要です。人は自分が”大いなる源”から出て、”大いなる源”をあとにし、今の人生に入ってきたと信じています。私がここで示そうとしているのは、人は一度も”大いなる源”を離れたことがないということです。それは人というものの”本質”なのです。けっして離れたことはないのです。


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あなたは一番になりたいですか。
それとも”大いなる一”でありたいですか。


自分の権利を何としてでも主張したいと思ったなら、こう自問してください。「自分は一番になりたいのか。それとも”大いなる一”でありたいのか」。一番になるか、すべてとひとつになるか、というのが選択肢です。”大いなる自己”の”本質”を感じることができると、何も失うことなく”大いなる一”を選び取ることができます。代わりに<自己正当化>を選んだりしないでください。賢く見られることや、美しくなることや、金持ちになるほうを選んだりしないでください。”大いなる一”を手放して、他のものを選んだりしないでください。現在たとえどんな経験をしているとしても、それが<それ>そのものなのです。


愛と希望と喜びを内にはらんだあなた方の大切な魂が、叡智と思いやりの荘厳な花へと開いていく中で、そして見える見えないにかかわらずあらゆる生命を抱き容れる愛の荘厳な花へと開いていく中で、この天界でのあなた方の人生の日々を通して、私はつねにあなた方全員とともにあるだろう。だが、そのような瞬間よりも、あなたが自分の内面に神を見て、神を理解し、神を知る瞬間のほうが、遥かに、遥かに偉大な瞬間なのである。


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質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


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マハルシ 乙女は一人ひとりの男性に「いいえ」と言い続けますが、ハートが選んだ人の前に来たとき、彼女はうつむいてただ沈黙するのです。


帰依者は真我が示されていないことに対して不平を告げた。


マハルシ あなたは、「あなたはこの身体ではなく心でもない。知性でもなければ自我でもない。あなたに考えられるものは何であれあなたではない。真のあなたが何なのかを見いだしなさい」と言われました。
沈黙は、「質問者自身が見いだされるべき真我である」ということを示していたのです。

(対話620)


「父よ、この状況に対する自分の心を変えたいと思います。どうか、この状況を恐怖心の目を通じてではなく、あなたがごらんになるように見させてください。自分自身とひとしく他の人に対する愛をもって、この状況を見させてください」


兄弟よ、これはめざましい効果のある祈りです。祈りの中にとどまりなさい。その力と平和の中にいなさい。すべての言葉、すべての動き、すべての行為の中に、神の答えを受けとりなさい。





奇蹟は、よろこんで受けいれる準備ができて初めて体験できます。





奇蹟を体験するためには、次の条件が必要です。


1.自分がそれを必要とすることをわかっている。
2.真剣にそれを願い求める。
3.喜んでそれを受けとる。


これら三つがととのえば、奇蹟はあらわれます。


奇蹟をハートに受けいれようと思うなら、それは自分の期待とはちがう形かもしれないということを理解しておいてください。あなたの人生における奇蹟の存在に心を開き、それがみずからをあらわすのを許してください。


神からくる答えだけを、あなたの祈りの答えとしてください。これこれが必要です、と訴えるまでもありません。あなた自身より、神のほうがよくご存じです。そのことを信頼してください。あなたの人生における神の存在に、心を開いてください。前向きに神から学び、神について学ぼうとしてください。


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彼は、自分の全メッセージは「あなたは神である」という一言に集約することができる、と繰り返し強調してきました。


ゼロポイントは、広大なヴォイドの中に潜在的可能性として含まれている未知のものをすべて体験して既知にする、という原初の意図をたずさえています。


「スピリット」はゼロポイントの動的な側面です。それは未知を知り、未知を体験することを望む意志、もしくは意図です。


「魂」はスピリットとは異なります。魂は、内化と進化の旅の中で得られた全ての体験と叡智の記録装置です。


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マハラジ あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさい。あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。


質問者 私たちの基本的な違いは、あなたは真実を知り、私が知っているのは私のマインドの作用だけだということです。それゆえ、あなたの言うことと私の聞くことにはであいがないのです。言葉は同じでも、あなたが言うことは真実であり、私の理解することは偽りです。この私たちの間の隙間をどうやって埋めればよいのでしょうか?


マハラジ これがあなた自身であるという考えを放棄しなさい。そうすれば隙間はなくなるだろう。自分自身を分離していると考えることで、あなたは隙間をつくり出したのだ。隙間を埋める必要はない。ただ、隙間をつくらないことだ。すべてはあなたであり、あなたのものなのだ。そこにはほかに誰もいない。これが事実なのだ。


質問者 何と奇妙な! 同じ言葉自体が、あなたにとっては真実であり、私にとっては偽りなのです。「そこには他に誰もいない」、何と明らかな嘘でしょう!


マハラジ 嘘でも真実でもかまわない。言葉は重要ではないのだ。問題はあなた自身についてあなたが持っている考えなのだ。なぜなら、それがあなたを妨げているからだ。それを捨て去りなさい。


質問者 幼年時代から、私は名前と形に限定されていると考えるように教えられてきたのです。単なる反対の表明だけで、精神的な轍(わだち)を消し去ることはできません。定期的な洗脳が必要でしょう。もし可能であるならば。


マハラジ あなたは洗脳と呼び、私は轍を平らにするためのヨーガと呼ぶ。何度も同じ思考を思いめぐらすように強いられてはならない。進みなさい。


質問者 言うは易く行うは難しです。


マハラジ 子どもみたいなことを言ってはならない。苦しむより変えることのほうが易しいのだ。幼稚さから脱却しなさい。それだけだ。


質問者 そういったことは為されることではなく、起こることです。それらは起こるのです。


マハラジ すべてはつねに起こっている。だが、あなたはそれに用意ができていなければならない。用意のできていることが成熟なのだ。あなたが真理を見ないのは、マインドに用意ができていないからだ。


質問者 もし実在が私の本性ならば、どうして用意ができていないということがありうるのでしょうか?


マハラジ 用意ができていないのは、恐れているからだ。あなたはあなたが何であるかを恐れている。全体性があなたの目的地だ。だが、あなたは自己のアイデンティティを失うのが怖い。これが幼稚さだ。あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついているのだ。すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。それ以外何も存在をもってはいないのだ。これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。


質問者 もちろん、「私は在る」であり、また「私は知る」でもあります。そして、私は誰それであるということを知っており、身体の所有者であり、他の所有者との多様な関係のなかにいるということを知っています。


マハラジ それはすべて、今のなかに持ちこまれた記憶なのだ。


質問者 私が確信できるのは、今あることだけです。過去と未来、記憶と想像、これらは精神的状態です。しかし、それらが私が知るすべてであって、それらは今在るのです。あなたはそれらを放棄するように言いますが、いったいどうやって今を放棄できるのでしょうか?


マハラジ あなたはいやおうなく、つねに未来のなかに進んでいるのだ。


質問者 私は今から今へと進んでいるのです。私はまったく動いてなどいません。他のすべては動いても、私は動きません。


マハラジ 認めよう。だが、あなたのマインドが動いている。現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。マインドを裏表にひっくり返しなさい。動を無視しなさい。そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しかし岩のように確固たるものとして見いだすだろう。


質問者 もしそれが今なら、なぜ私は気づかないのでしょうか?


マハラジ あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。その考えを捨て去りなさい。


質問者 それは私を気づかせてはくれません。


マハラジ 待ちなさい。あなたは同時に壁の両側にいることを望んでいる。それはできる。だが、壁を取り去らなければならないのだ。あるいは壁とその両側はひとつの単一の空間であり、そこに「ここ」と「そこ」という観念は適応しないということを自覚しなさい。


質問者 比喩は何も証明しません。私の不満はひとつ、なぜ私はあなたの見ていることを見ないのでしょう、なぜあなたの言葉は私のなかで真実として響かないのでしょうか? ということです。これくらいは教えてください。ほかのすべては待てます。あなたは賢く、私は愚かです。あなたは見て、私は見ません。どこに私は智慧を見いだせばよいのでしょうか?


マハラジ もしあなたが愚かだということを知っているならば、あなたはまったく愚かではないのだ。


質問者 自分が病気だと知ることがそれを癒さないように、自分を愚かだと知ることは私を賢明にはしません。


マハラジ あなたが病気だと知ることが、健康になることのはじまりではないかね?


質問者 いいえ、違うのです。比べればわかります。仮に、私が生来盲目であって、あなたは物に触れることなしにそれを知ると私にいいます。私は触れなければなりません。私は見るということの意味を知らずに、自分が盲目であることに気づくのです。同様にあなたが主張することを私が理解できないとき、私には何かが欠けているということを知るのです。あなたは私について本当に素晴らしいことを語ります。あなたによれば、私は永遠で、遍在し、全知の、至上の幸福であり、存在するすべての創造者、維持者、破壊者、すべての生命の源、存在の本質、神、そしてあらゆる創造物にとっての最愛の者だということです。あなたは私を究極の実在、すべての存在のゴールとその源と同等だと言います。私はただ無視するだけです。なぜなら、私自身は欲望と恐れの小さな包み、苦しみの泡、暗黒の海中の、意識の一瞬のひらめきだと知っているからです。


マハラジ 苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去った後もあなたは残る。はかないのは苦痛であり、あなたではない。


質問者 すみません。しかし、私にはあなたの見るものが見えないのです。生まれた日から、死ぬ日まで、苦痛と快楽は人生の模様を織り込んでいくでしょう。誕生以前と死後の存在について私は何もわかりません。私はあなたを容認も否定もしません。あなたの言われることは聞きます。ただ私はそれを知らないのです。


マハラジ 今、あなたは意識がある。そうではないかね?


質問者 どうか、以前と以後については聞かないでください。私は今のことだけを知っているのです。


マハラジ それで充分だ。あなたは意識している。それをつかみなさい。あなたが意識していない状態がある。無意識の存在と呼ぶものだ。


質問者 無意識ですか?


マハラジ 意識と無意識はここではあてはまらない。存在は意識のなかにある。本質は意識に依存しない。


質問者 それは虚空でしょうか? 沈黙でしょうか?


マハラジ なぜ言葉巧みになるのかね? 存在は意識に浸透し、そして超越する。客観意識は純粋な意識の一部分であり、それを超えることはないのだ。


質問者 意識でも無意識でもない純粋な存在状態を、どのようにして知るに至ったのですか? すべての知識は意識のなかにのみ存在するのです。マインドの停止といった状態はあるかもしれません。そのとき意識は観照者として現れるのでしょうか?


マハラジ 観照者だけが出来事を記録する。マインドの停止状態では、「私は在る」という感覚さえも消え去る。マインドなしに「私は在る」はないのだ。


質問者 マインドがないということは思考がないということです。思考としての「私は在る」は静まり、存在の感覚である「私は在る」は残ります。


マハラジ マインドとともにすべての体験は静まる。マインドなしには体験者も体験もありえない。


質問者 観照者は残るのでしょうか?


マハラジ 観照者は単に体験の存在と不在を記録するだけだ。それは、それ自体では体験ではないが、「私は観照者だ」という思いが立ち現れたとき、それは体験となる。


質問者 私が知っていることといえば、マインドはときどき作用し、ときどき止まるということです。精神的沈黙の体験を、私はマインドの停止と呼んでいます。


マハラジ それを沈黙、または虚空、あるいは停止とでも呼ぶがいい。事実は体験者、体験すること、体験の三つが不在だということだ。観照のなか、気づきのなかでは、自意識、あれやこれとしての存在の感覚はない。自己同一化されない存在が残るのだ。


質問者 それは無意識の状態なのでしょうか?


マハラジ それは何とでも関係している。それは対極のものだ。それはまた、すべての対極の中間であり、その彼方でもある。それは意識でも無意識でもなく、その中間でもその二つを超えたものでもない。それはそれ自体で在り、体験やその不在といった何かとの関係はない。


質問者 なんと奇妙な! あなたはそれが体験であるかのように話をします。


マハラジ 私がそれについて考えたとき、それは体験になるのだ。


質問者 目に見えない光が花に遮られて色となるように、それは体験となるのでしょうか?


マハラジ そうだ。それは色のなかにあるが、色そのものではない。


質問者 古くからおなじみのナーガールジュナ(竜樹)の四重否定です。これでもなく、それでもない、その両方であり、そのどちらでもない。めまいがしそうです!


マハラジ あなたの困難は、実在を意識の状態と考えることから生じるのだ。あたかも実在が多様な尺度をもった属性か特質かのように、あなたは「これは真実で、あれは真実ではない。そしてこれは部分的に真実で、部分的に偽りだ」と言う傾向がある。


質問者 私ならこう言うでしょう。結局、意識は苦痛をともなったときに問題となるのです。永遠の至福の状態では、質問は起こりません。すべての意識は快楽と苦痛の混合なのです。なぜでしょうか?


マハラジ すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。


質問者 つまり、欲望なしに意識はないということなのでしょうか? では、無意識であることにどのような利点があるのでしょう? もし私が苦痛からの自由のために快楽を差し控えなければならないとしたら、私ならどちらも取っておくでしょう。


マハラジ 苦痛と快楽の彼方に至福があるのだ。


質問者 無意識の至福に何の価値があるのでしょうか?


マハラジ 意識でも無意識でもない、実在だ。


質問者 意識へのあなたの反対理由は何でしょうか?


マハラジ それは重荷なのだ。身体とは重荷だ。感覚、欲望、思考、これらはみな重荷なのだ。すべての意識は葛藤だ。


質問者 実在は真の存在、純粋な意識、無限の至福と描写されています。それが苦痛とどう関わってくるのでしょうか?


マハラジ 苦痛と快楽は起こる。だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによって傷ついている。苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。


質問者 これらはみな疑いなく、たいへん興味深い話です。しかし私のゴールはもっとシンプルなものです。私は人生において、より多くの快楽とより少ない苦痛が欲しいのです。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。


質問者 これらすべてが私にとって何だというのでしょうか?それは私を満足させてはくれません。


マハラジ あなたは誰だろうか? 誰が不満なのだろうか?


質問者 私は苦痛と快楽の人間です。


マハラジ 苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。苦痛と快楽は、至福の海の波の頂きと谷間だ。その底深くには完全な充足があるのだ。


質問者 あなたの体験は本当に不断のものでしょうか?


マハラジ それは時を超えた、不変のものだ。


質問者 私の知っているのは欲望と苦痛への恐れだけなのです。


マハラジ それはあなたが自分自身についてそう考えるだけだ。やめなさい。あなたが習慣をただちに打ち破れないなら、あなたが慣れ親しんできた考え方に注目し、その偽りを見破りなさい。習慣を問いただすことはマインドの義務だ。マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。そして外側にとどまりなさい。


質問者 正直なところ、私にはすべてがマインドによってつくられたという説明が信頼できません。目が手段であるように、マインドもまた手段にすぎません。あなたには知覚されたものが創造されたものだと言えますか?私は窓のなかにではなく、窓を通して世界を見ます。私たちに共通の基盤があるために、あなたの言うことはすべて筋が通って聞こえますが、あなたの基盤が実在のなかにあるのか、マインドのなかにだけあるのか私にはわかりません。ただマインドに映るものとしてとらえることはできます。それがあたにとってどんな意味をもつのか私にはわかりません。


マハラジ あなたがマインドのなかに立場を置くかぎり、あなたは私をマインドのなかに見るだろう。


質問者 言葉は理解するために何と不適切なのでしょう!


マハラジ 言葉なしでは、理解する何がそこにあるというのだろうか? 理解する必要は誤解から起こるのだ。私の言うことは真実でも、あなたにとっては、それはただの理論となってしまう。どうすれば、あなたはそれが真実だと知るようになるだろうか? 聞きなさい、覚え、熟考し、視覚化し、体験しなさい。あなたの日々の生活においてそれを生かしなさい。私に対して忍耐強くありなさい。特に自分自身に対して忍耐強くありなさい。なぜなら、あなたがあなたのただひとつの障害だからだ。道はあなたを通ってあなたを超えていく。特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表してきたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだということがわかるだろう。


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マハルシ 身体は生命意識を持たず、「私」と言うことはできません。真我は非二元的な純粋意識です。それも「私」と言うことはできません。眠りの中では誰も「私」とは言いません。


それでは自我とは何でしょうか?


人は暗闇にいると、そばに何かがいると想像してしまいます。それは何か黒い物体かもしれません。近寄って見ると幽霊は見えず、ただ木やポストのような物体を見間違えただけだということがわかるのです。近づいて見てみなければ、幽霊は彼を脅かしたでしょう。必要なのは、ただよく見ることだけです。そうすれば、幽霊は消え去ります。幽霊は初めからそこにいなかったのです。自我においても同じことです。それは身体と純粋意識の間に介在する実体のない結び目です。それは実在しません。よく見てみないかぎり、それは問題を与え続けるでしょう。

(対話612)


質問者 人は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生に起こるすべては運命づけられ、あらかじめ決められているのでしょうか?


マハルシ 自由意志は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意志は存在するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意志を正しい道に導くように助言しているのです。
自由意志や運命は誰にとって問題となるのか? それを見いだし、その中にとどまりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。


もしあなたが自分を身体と見なすなら、それらは常にあなたを支配するでしょう。
もしあなたが自分を身体と見なさなければ、それらがあなたに影響を与えることはなくなります。


眠りの中では、あなたは身体ではありませんでした。
あなたは今、身体なのでしょうか?

(対話426)


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永遠とも言えるほど長い間、人間が必死に探し求めてきた無限の神秘である、この「神」と呼ばれる宗教像は、いったい何なのだろうか? それは思考であり、思考が思考を受け取る力であり、思考を受け取ることによって、もとの思考が新たな思考になり、それ自身を拡大していくという力のことなのだ。それが神のすべてである。それは思考の総体、つまり至高の生命だ。そして、まさにあなたの存在の内面にこそ、完全に神になる力があるのだ。完全に、だ。もしあなたの脳のすべての部分が開いたなら、あなたはこの瞬間に永遠の果てまでいくことになる。すなわち、あなたは知られていることすべてを知ることになる。あなたは太陽の色、海の深み、風の力、そして地平線の上の星になるのだ。


あなたが神のすべてを知り、神のすべてになることを妨げているのは何だろうか? 「変質した自我」だ。なぜなら、変質した自我は、神そのものであるすべての思考の振動数を受け容れるのを拒絶することによって、神を切り離してしまうからだ。そうすれば、それ自身が傷つくことなく、安全に安心して生きていけるからである。変質した自我が「反キリスト」と呼ばれる理由はまさにここにある。なぜなら、変質した自我はあなたが神の息子であることを否定するからだ。それは、あなたがその思考を受け容れ、自分と「父」はひとつであり、同じものなのだと悟るのを許さない。自分は神聖なる存在であり、不滅の本質であり、永遠を創造する力、さらには死をも創造する力さえ持っているのだということを、あなたが悟るのを許さないのである。


在るものすべてについて、どうすればもっとよく理解することができるのだろうか? 自分がそれを理解していると知ることによってだ。あなたがどう考え、どう語るかが、自分が知ることができる量を決めるのだ。「もっと知りたいと思う」と言ってはならない。それではけっして知ることがないからだ。そして、「もっと知ろうとする」もだめだ。しようとすることで達成されたものは、ひとつもないからだ。「もっと知ることを探求する」でもだめだ。探し求めていても、けっして見つからないからだ。こう言いなさい。「私の存在の主と神から、私は今、この瞬間に知るべきことすべてを知っている。ソービーイット!」と。そして、答えを待つのだ。その時点で、自分が何を知りたいのかに気づいているいないにかかわらず、「私は知っている」という言葉は、その気づきが起こる扉を開いてくれるのだ。あなたが言うべきことは、それだけだ。そうすれば、知識がやって来るのである。


あなたが自分の創造性と人生を制限してしまう方法は、「わからない」と言うこと、あるいは自分にやって来る「知っている状態」を疑うことである。最悪の忌まわしい言葉が「わからない」という言葉だ。憶えておいてほしい。あなたは法を与える者であり、あなたが考え、語ることそのものが法なのだ。あなたが「わからない」と言えば、あなたが知ることはけっしてない。「できない」と言えば、あなたには絶対にできない。「私は『父』の愛に値しない」と言えば、あなたがそれを受け取ることはけっしてない。あなたがそのように語るということは、あなたがそのように思っているということだ。そして、そう思っているならば、その思考のフィーリングはあなたの魂に記録され、魂はその思考プロセスにぴったりと合ったものを現実化するのである。


あなたはコンピューターのようなものだ。あなたは毎日、自分の知識の中に「疑い」を入力している。自分の知識の中に「不足」を入力しているのである。そして、あなたはまさに、自分の知識の中に「わからない」という言葉を入力しているのだ。あなたは自分自身の王国を自ら奪い取っているのである。なぜなら、疑いと制限しか知らないあなたは、自分が思うこと、そして話すことによって、自分自身から生命力を奪い取っているからだ。


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質問者 私はスウェーデンで生まれました。現在はメキシコとアメリカでヨーガを教えています。


マハラジ どこで学んだのかね?


質問者 アメリカに住むインドの聖者(スワミ)からです。


マハラジ それはあなたに何を与えたのだろうか?


質問者 健康と生活の糧です。


マハラジ それはいいことだ。それがあなたの求めるすべてだろうか?


質問者 私が求めているのはマインドの平和です。キリストの名のもとに、いわゆるキリスト教徒がしてきた残酷なことのすべてに嫌気がさしてしまったのです。ある期間、私は宗教なしで過ごしました。それからヨーガに魅せられたのです。


マハラジ あなたが得たものは何だろうか?


質問者 ヨーガの哲学を学んだことが助けになりました。


マハラジ どのような形でそれがあなたを助けたのかね? 何をもってあなたは助けられたと結論を出すのだろうか?


質問者 健康はその明白なしるしです。


マハラジ 健康であることは、疑いなく喜ばしいことだ。その喜びはあなたがヨーガから求めたすべてだろうか?


質問者 健康による喜びはハタ・ヨーガからの報酬です。しかし、概してヨーガはそれ以上をもたらします。


マハラジ ヨーガということで、あなたは何を意味しているのだろう?


質問者 進化、輪廻、カルマ等々、といったインドの教えの全体です。


マハラジ よろしい。あなたは求めていたすべての知識を得た。だが、それによってどのような恩恵を得たのだろう?


質問者 それは私にマインドの平和をくれました。


マハラジ そうだろうか? あなたのマインドは平和だろうか? あなたの探求は終わったのかね?


質問者 いいえ、まだです。


マハラジ そのとおりだ。それに終わりは来ないだろう。なぜなら、マインドの平和というものは存在しないからだ。マインドとは不安、落ち着きのなさそのものなのだ。ヨーガとはマインドの属性ではなく、マインドの状態でもない。


質問者 ある程度の平和はヨーガから引き出せたと思います。


マハラジ 綿密に調べてみなさい。そうすればマインドは騒然としていることがわかるだろう。それはときおり空白状態になるかもしれないが、それもひとときのことで、またいつもの落ち着きのなさに戻る。静かにさせられたマインドというのは平和なマインドではないのだ。あなたはマインドをなだめたいと言うが、マインドをなだめたいその人自身は平和なのだろうか?


質問者 いいえ。私は平和ではありません。私はヨーガの助けを借りているのです。


マハラジ あなたはそこに矛盾を見ないだろうか? もう何年もの間、あなたはマインドの平和を探してきた。それなのにあなたは見つけられなかった。本質的に落ち着きのないものを、平和にさせることはできないからだ。


質問者 ある程度の改善はあります。


マハラジ あなたが見いだしたという平和はとてももろいものだ。ちょっとしたことでそれは砕かれてしまうだろう。あなたの言う平和はただの不安の不在だ。それに本当の価値はない。真の平安は乱されることのないものだ。けっして揺らぐことのないマインドの平安が私にはある、とあなたに言えるだろうか?


質問者 私は努力しています。


マハラジ 努力もまた不安の一形態だ。


質問者 では何が残されているのでしょうか?


マハラジ 自己を安心させる必要はない。自己とは平和そのものであり、安らいでいるのではない。ただマインドにだけ落ち着きがないのだ。マインドが知っているのは、数多くの気分と異なった程度の落ち着きのなさだ。心地よさが優れ、苦痛は劣っていると考えられる。私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。実在にははじまりはない。ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。


質問者 では、何ができるというのでしょうか?


マハラジ ヨーガを通してあなたは知識と体験を蓄積してきた。それは否定できないことだ。だが、それらすべてがあなたにとって何だというのだろう? ヨーガとは統合、結合を意味する。あなたは何を再統合し、再結合したのだろうか?


質問者 わたしは人格を真我に再結合しようと試みているのです。


マハラジ 人格(ヴィヤクティ)は想像の産物にすぎない。自己(ヴィヤクタ)はこの想像の犠牲となっている。あなたではないものを、あなた自身と見なすことが束縛するのだ。個人はそれ自体で独自に存在できない。個人というものが在ると信じ、個人としての存在を意識しているのは自己なのだ。すべての原因なき原因である非顕現(アヴィヤクタ)は、自己(ヴィヤクタ)の彼方に在る。個人を真我と再結合するということさえ正しいとは言えない。なぜなら、個人というものは存在しないからだ。ただ精神的画像が偽りの実在を与えただけだ。何も分割されたものはなく、統合すべきものもない。


質問者 ヨーガは真我の探求とその発見を助けます。


マハラジ あなたが失ったものは見つけることができる。だが、失わなかったものを見つけることはできないのだ。


質問者 何も失っていないのならば、私は悟っていたでしょう。しかし、私は悟ってはいません。私の探求そのものが、何かを失ったことの証拠ではないでしょうか?


マハラジ それはあなたが失ったと信じていることを意味するだけだ。だが、信じているのは誰だろうか? そして何を失ったと信じるのだろう? 誰かあなたのような人を失ったと言えるのだろうか? あなたの探している自己とはいったい何だろうか? 何をあなたは見いだすと期待しているのだろう?


質問者 真の自己知識です。


マハラジ 真の自己知識は知識などではない。それは探求によって、あらゆるところを探すことによって見つけられるような何かではない。それは時間や空間のなかに見いだすものでもない。知識とは記憶にすぎない。思考のパターン、ひとつの精神的習慣にすぎない。これらすべては喜びと苦痛によって動機づけられている。あなたが知識を追求するのは喜びと苦痛によって駆りたてられているからだ。自分自身であるということは、すべての動機を完全に超えている。あなたは、何かの理由からあなた自身になることはできない。あなたはあなた自身なのだ。そしてそれには何の理由も必要ない。


質問者 ヨーガを通して私は平和を見いだすでしょう。


マハラジ 平和があなたを離れて存在するだろうか? あなたは自分自身の体験から話しているのか、それともただ本からだろうか? あなたの本による知識は、初歩の段階では有用だ。だが、じきに直接体験のために捨て去らなければならなくなる。その体験はその本性からして表現不可能なものなのだ。言葉は破壊のためにも用いられる。言葉のイメージが構築され、言葉によってそれは破壊される。あなたは言語的思考によって現在の状態に陥った。あなたは同じ道を通って脱出しなければならないのだ。


質問者 ある程度の内的平和に私は到達したのです。それを破壊するのですか?


マハラジ 到達されたものはふたたび失われるかもしれない。ただ、あなたがけっして失うことのなかった真の平和を実現したときだけ、その平和はあなたとともに残るだろう。それは一度も去ったことはなかったのだ。あなたのもっていないものを探すよりも、あなたがけっして失わなかったものとは何かを見つけなさい。すべてのはじまる以前、すべての終わった後に存在するもの、不死、不生のものだ。身体やマインドの生死に影響されない、不動なる状態、あなたはそれを知覚しなければならない。


質問者 そのような知覚を得る方法は、何でしょうか?


マハラジ 生のなかでは障害を乗り越えずに得ることのできるものはない。真我の明確な知覚を妨げるのは、快楽への欲望と苦痛への恐れなのだ。快楽、苦痛という動機が道を阻んでいる。すべての動機から自由で、何の欲望も立ち現れない状態が自然な状態なのだ。


質問者 そのような欲望をあきらめるには、時間が必要ではありませんか?


マハラジ もしあなたが時間にまかせるならば、何百万年もが必要になろう。欲望をひとつひとつあきらめていくことは、果てしない過程となる。欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。


質問者 欲望と恐れの根は同じ、幸福への切望です。


マハラジ あなたが望む幸福はただの身体的、あるいは精神的満足にすぎない。そのような感覚的、あるいは精神的快楽は真の、絶対の幸福ではない。


質問者 たとえ身体的、精神的健康とともに現れる感覚的、精神的快楽であっても、それらはその根を実在のなかにもっているはずです。


マハラジ それらはその根を想像のなかにもっているのだ。石をもらい、それが非常に貴重なダイヤモンドだと確信させられた人は、それが間違いだったと悟るまではひどく喜ぶことだろう。同様に、真我が知られたとき、快楽はその味を失い、苦痛はその刺を失う。どちらもあるがままに、条件づけの感応、ただの反応、好感と反感、記憶と先入観に基づいたものとして見られるのだ。普通、快楽と苦痛は期待されたとき体験するものだ。それはすべて習得された習慣と確信の問題だ。


質問者 なるほど、快楽は想像上のものかもしれません。しかし苦痛は現実です。


マハラジ 苦痛と快楽はともに手を携えていくものだ。一方からの自由はその両方からの自由を意味する。もし快楽を気にかけなければ、苦痛を恐れることはないだろう。だが、そのどちらでもなく、両方を完全に超えている幸福がある。あなたの知っている幸福は、表現可能で予測できる、言ってみれば客観的なものだ。しかし、客観的なものは、あなたのものではありえない。外的なものと自己を同一視することは悲惨な過ちだ。異なったレベルのものを混同しても、どこにも到達しない。実在は主観、客観を超え、すべてのレベル、あらゆる区別を超えている。もっとも明確なことは、実在は苦痛と快楽の源泉でも、原因でも、根源でもないということだ。それらは存在と非存在を超えた表現不可能な実在そのものからではなく、実在についての無知からやってくるのだ。


質問者 たくさんの師にしたがい、多くの教義を学びましたが、何ひとつ私の望んだものを与えてくれたものはありませんでした。


マハラジ もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望はかならず満たされるだろう。しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めてはならないのだ。もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたなら、あなたがより賢明になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるまで、本来の目的は先延ばしにされるだろう。内側に入っていきなさい。けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。


質問者 しかし、それでも私の欲望と恐れは依然そこにあるのです。


マハラジ それらはあなたの記憶以外のどこにあろう? それらの根は記憶から生じた期待のなかにあるのだと悟りなさい。そうすれば、それらがあなたにつきまとうことはないだろう。


質問者 社会奉仕はきりのない仕事なのだと、よくよく理解しました。なぜなら改善と堕落、進展と退行が肩を並べていくからです。私たちにはそれがあらゆる段階のすべての面にあることがわかります。だとすれば、最後に残るのは何なのでしょうか?


マハラジ 何であれ、あなたが着手した仕事を完成させなさい。状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求めるかぎりは、新しい仕事に手を着けてはならない。まずあなた自身を見いだしなさい。そうすれば、かぎりない祝福が続くだろう。利益を放棄することほど世界に利益をもたらすことはない。もはや損得でものごとを考えない人は、真に非暴力的な人だ。なぜなら、彼はすべての葛藤を超えているからだ。


質問者 そうです。私はつねにアヒンサー(非暴力)の考えに魅了されてきました。


マハラジ 本来、アヒンサーは「傷つけてはならない」という意味だ。善を行うことがはじめに来るのではなく、傷つけるのをやめ、苦しみを加えないということなのだ。他者を喜ばせることがアヒンサーなのではない。


質問者 私は喜ばせることを話していたわけではありません。他者を助けることを思っているのです。


マハラジ 与える価値のある唯一の助けとは、さらなる助けの必要性からの自由にある。繰り返される援助は、まったく助けになっていない。他者が援助の必要性を超える地点にあなたが連れていくまでは、他者を助ける話はしない方がいい。


質問者 どのようにして援助の必要性を超えるのでしょうか? そして人は他者がそうするのを助けることができるのでしょうか?


マハラジ すべての存在は分離と限界のなかにあり、苦痛に満ちていると理解したとき、そして、あなたが純粋な存在として、すべての生命と「ひとつであること」のなかに完成されて生きようとする意志をもったとき、あなたはすべての助けの必要性を超えたのだ。あなたは規範と実例によって、とりわけあなたの存在によって、他者を助けることができる。あなたがもっていないものを与えることはできないし、あなたは、あなたでないものはもっていないのだ。あなたであるものしか与えることはできない。そしてそれは、あなたがかぎりなく与えられるものなのだ。


質問者 しかし、すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当でしょうか?


マハラジ この世界的な快楽の探求の原因が、何かほかにあるだろうか? 幸せな人が幸せを探すだろうか? なんと人びとは落ち着かないのだろう! なんとつねに動きまわっているのだろうか! 彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。


質問者 もし私が自分自身と見なしている個人が幸福になれないのなら、どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 現在のあなたとしての在り方をやめるだけだ。私の言うことは何も残酷なことではない。悪夢から人を目覚めさすことは慈悲だ。あなたは苦痛で苦しんでいるために、ここに来たのだ。そして、私が言えることは、「目覚めなさい。あなた自身を知りなさい。あなた自身で在りなさい」ということだけだ。苦痛の終焉は、快楽のなかにはない。あなたが自分を苦痛も快楽も超えたものだと、超然として屈することなく気づくとき、幸福を追求することはやみ、結果として悲しみも消え去る。なぜなら、苦痛は快楽の後を追い、快楽は容赦なく苦痛に終わるからだ。


質問者 究極の状態では、幸福もありえないのでしょうか?


マハラジ 不幸もまたありえない。ただ自由だけがある。幸福は何かに依存し、やがて消え去る。すべてからの自由は何にも依存せず、失われることはない。不幸からの自由には原因がなく、それゆえ破壊されない。その自由を実現しなさい。


質問者 私は過去の結果として苦しむために生まれたのではないでしょうか? 自由を得ることは本当に可能なのでしょうか? 私は自分の意志で生まれたのでしょうか? 私はただの創造物なのではないでしょうか?


マハラジ 誕生と死は、意識内の一連の出来事のはじまりと終わりにすぎない。分離と限界という観念のために、それらは苦痛となるのだ。苦痛からの一時的な解放を、私たちは快楽と呼ぶ。そして、いわゆる幸福と呼ばれる終わりなき快楽を期待して、私たちは空中に城を築くのだ。それはみな誤解であり、誤用だ。目を覚ましなさい。それらを超えていきなさい。真に生きはじめなさい。


質問者 私の知識はかぎられ、力は取るに足らないのです。


マハラジ 自己は知識と力の両方の源であり、またそれらを超えている。観察可能なものはマインドのなかにある。自己の本性は純粋な気づき、純粋な観照であり、知識の存在や不在に影響されることはない。この身体の誕生と死の外に、あなたの存在を置きなさい。そうすれば、あなたの問題は解決するだろう。それらの問題が存在するのは、あなたは死ぬために生まれてきたと信じているからだ。迷いから覚め、自由になりなさい。あなたは個人ではないのだ。


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共謀罪


私はこの「共謀」という言葉を、意図的に使っているのです。「共に創造する」という言葉を使うと、あなたは物事の明るい面のことをすぐに考えます。けれども「共謀」と言うと、タバコの煙がもうもうとする薄暗い部屋のなかで、悪事を企んでいる自分たちを想像します。
「神との共謀」というのは、あなたがかつてしたこと、言ったこと、考えたことのすべては、そのエネルギーの一部に、あなたが神と呼ぶもの、”神なる一”を含んでいたという意味です。
神とあなたとが、あなたの人生やあなたの世界をいっしょに創り上げたのだとしたら、どうして罪の意識など持てるでしょうか。あなた一人の力では何もできないのです。


(単独犯であるという思い込みが、罪の意識なのかもしれません)


人生は旅です。どこに到着するのかを知る必要はありません。それに、一つのことをするために、別のことをあきらめねばならないと悩む必要もありません。具体的なことを決めるのはあなたの責任ではありません。あなたの責任は、自分の人生を生き生きと充実させ、爆発的に開花させるものを自分のなかに見つけることです。


必要なのは現状の正確な評価であり、自分の人生の何を変えたいのか、そして、その代わりにどんな感覚を持ち込みたいのか、それだけです。


それらを明確にする努力をしないと、あなたは行き詰まってしまうでしょう。


この世で何が起きようとも、それが自分にとって適切なものだと信じられるかぎり、人は勇気を持って直面することができます。


まわりにいる人たちに答えを求めないでください。


求めているものがわかったら、そうしたものを自分が求めているのだということを忘れないようにしてください。そして、自分の内に向かうときには、そうした特性が、自分の内にあるだろうと期待していてください。


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分割し、征服する、というのがエゴの本性です。分割のないところには、征服もありえません。あらゆる思考は、ものを分離するか、統合するかどちらかです。考えどうしに差異をたてる思考、人をたがいに区別する思考は、一体性の気づきをくもらせます。人々をたがいに結びつける思考、ある考えを別の考えに結びつけるような思考は、一体性を明らかにします。


考えは、敵になりえます。それを考えた人が敵になるのと同じくらいかんたんなことです。他人を攻撃せずに、その考えだけを攻撃できると思うかもしれませんが、考えを攻撃された場合に、それを個人攻撃と受けとめない人はそうたくさんいません。


人々は、自分の考えと自分を同一視します。だれかと話をする場合には、相手の考えかたをもふくめて知り、それを認めてください。それからあなたが自分の考えを話せば、相手もそれを認めるでしょう。


おたがいの考えかたが競合せずに共存できるまでは、どんなふたりの人もくつろいでいっしょにいることはできません。相手の考えを受けいれることは、たとえその考えに自分は同意できなくても、相手に敬意と信頼をさしのべることになります。


だれかといっしょに平和にいるためには、自分と相手を隔てるものではなく、結びつけるものを見る必要があります。結びつけるものを見てとるなら、たがいの差異をも尊重できます。差異のほうを見てとるなら、その差異を克服しようとあくせくすることになります。


差異を克服しようとしても、たいてい失敗します。それは、差異があるということは健全だからです。おたがいの差異を尊重するかぎり、親密なよい関係を築く可能性を妨げることはありません。


いつでも相手に、自分と違っているためのすきまの場所を残しておいてあげなさい。そうすればあなたも、相手と親密になることを避けようとは思わないでしょう。


自分が受けいれられるためには、相手と同じようにならねばならない、そしてその逆も真だと感じると、あなたは差異を克服する努力をします。


差異はそのままにしておきなさい。あなたはそのままで受けいれられる人ですし、相手もそうです。そうすれば、あなたのハートにも相手のハートにも平和があります。それでいいのです。


自分がいかに相手を、こうあるべきだと信じるイメージどおりに変えようとしているかに気づきはじめてください。また相手がいかにあなたを変えようとしているかにもです。その押したり引いたりを感じてください。それがエゴの世界というものです。


エゴとは宇宙でもっとも不安定なものです。だからこそいつでも、どの側につくかを決めたり、地位や立場によりかかったりするのです。自分自身にもともと信頼を寄せていませんし、スピリットの寛大性をもちあわせてもいません。


エゴは自分自身を憎んでいるので、他のあらゆるものをも憎みます。その傲慢さは見せかけにすぎません。エゴを切り離せば、そのあとに傷口がぽっかり口をあけているのがわかります。


エゴとは、自分が愛されているのを知らないあなたの一部分です。エゴは愛を与えません。与えるほどの愛が自分にあるとは知らないからです。


愛されないもの、愛されえないものが、どうして愛を見いだせるでしょう。これは、この世界をさまよい続けるすべての魂の叫びです。


エゴには、自分が愛をもっていることを教えなければなりません。これはエゴにとっては危険な提案です。エゴは自分に愛があると知った瞬間、エゴであることをやめるからです。エゴはエゴとしては死に、愛として再生します。


だからこそ、多くの人が悟りに抵抗するのがわかりますね。目覚めという考えは、まだ眠りこんでいる人すべてをおびやかすのです。あなたがたはいつも考えます。「目を覚ましてしまったら、もう、わたしはここにはいられないだろう!」


それだからこそ、あなたがたの死の恐怖と目覚めの恐怖は同じなのです。制限のない宇宙的な”自己”は、制限のある仮の自己が死なないかぎり、生まれることがありません。


ですから、どちらにしても、ある意味での死が来るのです。死ぬか、あるいは別種の死である目覚めにいたるかです。


いったん目が覚めれば、死はもはや大事件ではありません。失うべき貴重なアイデンティティなど、もはやないからです。ですから物理的肉体にとどまっているか、そうでないかは重要ではありません。どちらにしても、あなたは現在にいることが必要です。


無意味なアイデンティティをこそぎおとすことは、故郷へ帰るためにはぜったい必要です。自己防御の必要が少なければ少ないほど、あなたは人の役に立てます。そして役に立てれば立てるほど、あなたの経験は祝福に満ちたものになるでしょう。


あなたがたの地上での経験は、自分自身を、兄弟を、神を信頼することを学ぶプロセスです。目覚めの最後の瞬間には、その信頼が完全に花開き、”自己”のこの三つの側面がひとつに溶けあいます。


神のただひとつの計画とは、在ることなのだ。それは、あらゆるものがひとつのものとして振動している状態で、それぞれがまずは思考から始まり、それから思考が物質へと固まりながら振動しているのである。それは、あらゆるものが意識に何かを加えたり、そこから何かを取り出したりして、生命の次の瞬間を表現しながら、その瞬間を延長している状態なのである。存在するあらゆるものは、ほかのすべてと同時に表現され、永遠の中の次の瞬間へと入っていく。もし神が何かを計画することができたとしたら、それによって、これからやって来るすべてのものは制限されてしまうことだろう。


神は善でもなければ、悪でもない。「父」はただ在るだけであり、すべての生命の「在ること」なのだ。そして、単に自分自身を知るために喜びを得るということ自体の喜びのために生きる「今」という瞬間の表現なのだ。そして、この生命の本質には、その一部を「よい─悪い」、「邪悪─神聖」、「完全─不完全」というふうに価値判断を下すことによって、「在るという状態」から別のものに変質する能力はないのである。


神は完全に無限であり、「在ること」というひとつの分割できない全体性なのだ。それゆえ神は、制限された狭い見方で自分自身を見つめることはできないのである。


あなたは永遠の存在であるということ、またこれまでもけっして失敗したことはないということを知りなさい。そして、あなたがこれまでに犯したただひとつの間違いは、間違ったことをしたと信じたことだということを知りなさい。


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質問者 私は修練のために、さまざまなヨーガを探索しながら転々と旅をしてきました。そして、いまだにどれが私にとって最適なのか決断のつかないままでいるのです。何か的確な助言をいただければ幸いです。現在、このすべての探求の結果として、私は真実を見いだそうという考えに疲れてしまいました。私にとって、それは無用な、困難なものと見えるのです。人生はあるがままに楽しむべきものであって、それを改善することはまったく無駄に見えます。


マハラジ その満足のなかにとどまりたいのならば、そうすればいい。だが、あなたにできるだろうか? 青春、活力、金銭──それらはすべて、あなたが予期したよりも足早に過ぎ去っていくだろう。そして、それまで避けてきた悲しみがあなたにつきまとうだろう。もしあなたが苦しみを超えたければ、自らそれを出迎えに行き、抱きしめなければならないのだ。あなたの習慣や耽溺を捨て去り、シンプルで目覚めた人生を生きなさい。生きるものを傷つけてはならない。それがヨーガの根本なのだ。実在を見いだすには、日々のもっとも些細な行為においてさえ、あなたは真実でなければならない。真理の探求においては、いかなる欺瞞も許されないのだ。あなたは人生が楽しむべきものだと知ったと言う。今はそうかもしれない。だが、それを楽しむのは誰なのか知っているだろうか?


質問者 実を言えば、私は楽しむ者も楽しまれるものも知りません。私の知っているのは楽しみだけです。


マハラジ まったくそのとおりだ。しかし、楽しみとはマインドの状態だ──それは来ては去っていくものだ。そのはかなさそのものが、それを知覚可能にする。変化しないものを意識することはできない。意識とはすべて、変化の意識なのだ。だが、変化を知覚すること自体が、そこに不変の背景のあることを余儀なくしているのではないだろうか?


質問者 いいえ、そうではありません。以前の状態の記憶と現在の状態である現実との比較が、変化の体験を与えるのです。


マハラジ 記憶されたことと実際に起こっていることの間には、一瞬一瞬において観察することのできる基本的な相違がある。現実が思い出されるといった瞬間はありえないのだ。その二つの間には、単に強烈さだけではない異なった性質がある。現実とはまぎれもないものだ。意志による努力や想像では、その二つを入れ替えることはできない。さて、何が現実の状態にこの特別な質を与えるのだろうか?


質問者 現実は真正です。一方、記憶されたことには多分の不確実性があるのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。だが、なぜだろうか? ほんの一瞬前、記憶されたことは現実であったし、一瞬のうちに現実は記憶となるだろう。何が現実を独特のものにするのだろうか? 明らかに、それはあなたの存在の感覚だ。記憶と期待のなかには観察されている精神的状態という明らかな感覚がある。一方、現実のなかには根源的な現在の存在、そして気づきがそこにあるのだ。


質問者 ええ、理解できます。現実と記憶されたことの間に違いをもたらすのは気づきなのです。人は過去や未来のことを考えますが、人は今に存在しているのです。


マハラジ あなたがどこへ行こうと、今、ここという感覚はつねにあなたとともにあるのだ。それはつまり、あなたは時間と空間に依存していないということだ。時間と空間はあなたのなかにあり、あなたがそれらのなかに在るのではない。時間と空間に限定された身体との自己同一化が、あなたに有限の感覚を与えるのだ。実際には、あなたは無限で永遠なのだ。


質問者 この無限で永遠の自己を、どのようにして知るのでしょうか?


マハラジ あなたが知りたがっている自己、それは何か二番目の自己のようなものだろうか? もちろん、そこにはひとつの自己があるだけだ。そしてあなたがその自己なのだ。あなたである自己、それが唯一存在する自己だ。あなた自身に関する誤った観念を取り除き、放棄しなさい。するとすべての荘厳さとともに、それはそこにある。自己知識を妨げるのはあなたのマインドだけなのだ。


質問者 どうやってマインドを追い払うのでしょうか? そしていったい人間のレベルで、マインドなしの人生が可能なのでしょうか?


マハラジ マインドというようなものはないのだ。そこには観念があって、それらのなかのいくつかは間違ったものなのだ。誤った観念を放棄しなさい。なぜならそれらは偽りであり、あなた自身に関するあなたの見解を妨げるからだ。


質問者 どの観念が誤りで、どの観念が正しいのでしょうか?


マハラジ 普通、自己主張が誤りであり、自己否定が正しいのだ。


質問者 すべてを否定することによって生きていくことはできません!


マハラジ ただ否定によってのみ、人は生きることができるのだ。自己主張は束縛だ。疑うことと否定することがなくてはならない。それは反抗の本質だ。そして反抗することなしに解放はありえないのだ。
そこに探求すべき第二の、あるいは高次の自己というものはない。あなたが最高位の自己なのだ。ただ、あなた自身に関する偽りの観念を捨て去りなさい。あなたは身体、そしてその欲望と恐れではなく、またマインドとその幻想的な観念でもなく、社会があなたに演じるよう強要した個人としての役柄でもないと、信念と理性があなたに告げているのだ。偽物を捨て去りなさい。そうすれば真実はそれ自体で現れるだろう。
あなたはあなた自身を知りたいと言う。あなたがあなた自身なのだ。あなたはあなた以外の何者にもなれない。知ることと在ることは別々だろうか? あなたがマインドをもって知ることは何であれマインドのものであって、あなたではない。あなた自身についてあなたに言えることは「私は在る。私は気づいている。私はそれを愛する」だ。


質問者 私は生きることが苦痛に満ちた状態だと知っています。


マハラジ あなたに生きることはできない。なぜなら、あなたは生命そのものだからだ。あなたが苦しむのではない。あなたがあなた自身だと思いこんでいる個人が苦しむのだ。気づきのなかでそれを消し去りなさい。それは記憶と習慣の束でしかないのだ。偽りに対する気づきからあなたの真の本性に対する気づきに至る間には深い淵がある。ひとたびあなたが純粋な気づきの技を習得すれば、それはたやすく越せるだろう。


質問者 私の知っていることは、私自身を知らないということだけです。


マハラジ 自己を知らないということをどうして知るのだろう? あなたの直接の洞察が、何よりもあなた自身を知っていると告げているのだ。なぜなら、ものの存在を体験するあなたがそこにいないかぎり、何も存在することはできないからだ。あなたは自己を描写できないために、自己を知らないと想像しているのだ。あなたはつねに、「私は在るということを知っている」と言うことができる。そして「私はいない」という表明を偽りとして退けることだろう。だが、何であれ描写できるものはあなた自身ではありえない。そしてあなたで在るものを描写することはできないのだ。あなたは自己定義や自己描写を試みることなしに、あなた自身で在ることによってだけ、自己を知ることができるのだ。あなたが知覚可能、想像可能なものは何ひとつあなたではありえず、何であれ、意識の領域に現れるものは自己ではないとひとたび理解したなら、より深い自己実現への唯一の方法として、すべての自己同一化を断ち切ることだろう。否定することによって、文字どおりあなたは、まさにロケットのように進歩するのだ。あなたが身体のなかにもマインドのなかにも存在せず、しかもその両方に気づいていると知ることは、すでに自己知識なのだ。


質問者 もし私が身体でもマインドでもないなら、どうやってそれらに気づくのでしょうか? どうやって私自身にとってまったく異質な何かを知覚することができるのでしょうか?


マハラジ 「何も私ではない」が第一段階だ。「すべてが私だ」がつぎの段階だ。そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元性のあなたとして残る。今ここで、あなたはそれなのだ。だが、あなたの視野は自己に関する偽りの観念によって妨げられているのだ。


質問者 なるほど、私は在る、私は在った、私は在るだろうということは認めましょう。少なくとも誕生から死に至るまでは。今ここにおける私の存在は疑う余地もありません。しかし、それだけでは充分でないと思うのです。私の人生は、内面と外面との調和から生まれた喜びを欠いているのです。もし私ひとりしか存在せず、世界が単なる投影にすぎないなら、どうして不調和があるのでしょうか?


マハラジ あなたが不調和をつくり出しておいて、それから不平を言うのだ。欲望をもち恐れるとき、そして感情と自己同一化するとき、あなたは不幸と束縛を生みだす。あなたが愛と智慧とともに創造し、そして創造したものに執着しないとき、結果は調和と平和となるのだ。だが、マインドの状態がいかなるものであれ、それはどのようにあなたに影響を及ぼすのだろう? マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは不幸にするのだ。マインドへの隷属に反抗しなさい。あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるためにそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。


質問者 もし私が好き勝手にするなら、私は苦しむことでしょう。


マハラジ それにもかかわらず、あなたは自由なのだ。あなたの行為の結果はあなたの住む社会とその慣習に依存するのだ。


質問者 私は無謀になるかもしれません。


マハラジ 勇気とともに智慧と慈愛、そして行為における能力も現れるだろう。あなたは何をすべきか知るだろう。そして何であれ、あなたがすることは皆にとって良いこととなるだろう。


質問者 私自身のなかにはさまざまな相の自分がいて、争いあっています。私のなかに平和はないのです。どこに自由と勇気が、智慧と慈愛があるのでしょうか? 私の行動は、私が住む深淵をより深めるばかりなのです。


マハラジ それはあなたがあなた自身を何か、あるいは誰かだと見なしているからだ。やめなさい。見なさい。調べなさい。正しい質問を尋ね、正しい結論を得なさい。そしてそれにしたがって行為する勇気をもち、何が起こるか見てみなさい。はじめの段階では、頭の上に屋根が落ちてくるかもしれない。だが、すぐに混乱は晴れ、平和と喜びが現れるだろう。あなたはあなた自身に関して非常に多くのことを知っている。だが、その知っている人をあなたは知らないのだ。知られるものを知る者であるあなたとは誰かを見いだしなさい。たゆむことなく内面を見守りなさい。知覚されたものは知覚者ではありえない、と覚えておくことを覚えておきなさい。あなたが何を見ようと、聞こうと、考えようと、覚えようと──起こることがあなたなのではない。あなたはそれが起こる当人なのだ。「私は在る」という感覚のなかに深く潜っていきなさい。そうすれば、かならず知覚の中心が、世界を照らす光のように普遍的であることを発見するだろう。宇宙のなかで起こることはすべて、沈黙の観照者であるあなたに起こる。その反対に、何であれ為されたことは、普遍的で無尽蔵のエネルギーであるあなたによって為されるのだ。


質問者 人が沈黙の観照者であり、また普遍的エネルギーでもあると聞かされることは、言うまでもなく喜ばしいことです。しかし、どうやって言葉上の表明から直接の知識へと超えていけばいいのでしょうか? 聞くことは知ることではありません。


マハラジ あなたが何かを直接知る前に、言葉を通してではなく知る者を知らなければならないのだ。今まで、あなたはマインドを知る者として見なしてきた。だが、そうではないのだ。マインドはイメージと観念をあなたに詰めこんできた。それは記憶に傷跡を残すのだ。あなたは覚えていることを知識だと思いこんできた。真の知識とはつねに新鮮で、新しく、予期できないものだ。それはあなたの内面から湧きあがってくるのだ。あなたがあなたで在るものを知るとき、あなたはまた、あなたが知るものでも在る。知ることと在ることの間にへだたりはないのだ。


質問者 私にはマインドによってマインドを調べることができるだけです。


マハラジ もちろん、マインドを知るためにマインドを使うがいい。それは完全に正当であり、またマインドを超えていくには最善の準備でもある。在ること、知ること、そして楽しむことはあなた自身のものだ。まず、あなた自身の存在を認識しなさい。それはやさしいことだ。なぜなら「私は在る」という感覚はつねにあなたとともにあるからだ。それから、知られるものから離れた、知る者としてのあなた自身と出会いなさい。ひとたび純粋な存在としてのあなたを知れば、自由の歓喜はあなたのものだ。


質問者 これはどのヨーガなのでしょうか?


マハラジ なぜ気にするのか? あなたをここへ来させたのは、あなたの知る身体とマインドの人生が満たされないものだからだ。あなたはコントロールを通して、また理想に合わせてそれを屈服させようとするかもしれない。あるいはすべての自己同一の結び目を断ち切り、身体とマインドを、あなたとは何の関わりもなく起こる何かとして見るかもしれない。


質問者 コントロールと戒律の道をラージャ・ヨーガ、無執着の道をジニャーナ・ヨーガと呼び、偶像礼拝をバクティ・ヨーガと呼んでいいのでしょうか?


マハラジ もしそれに満足ならば、あなたの好きにするがいい。言葉は差し示すが、説明はしない。私が教える道は、理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。あなたのマインドを理解しなさい。そうすればマインドはあなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。マインドとは誤解するものだ。誤解がその本性そのものなのだ。正しい理解が唯一の治療法だ。あなたがそれをどう呼ぼうとも。理解の道はもっとも原初の、そして最新の治療法なのだ。なぜなら、それはマインドをあるがままに扱うからだ。
何をしようとあなたが変わることはないだろう。なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。いったいどうして変わることを気にするのか? 身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚しなさい。そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろう。あなたの誤解を明らかにし、それを捨て去りなさい。ただそれだけだ。そこには探したり、見いだしたりするものは何もない。なぜなら、何も失われてはいないからだ。リラックスしなさい。そして「私は在る」を見守りなさい。実在はその背後にあるのだ。静かにしなさい。沈黙しなさい。それは現れるだろう。あるいはむしろ、それがあなたをそのなかへと連れていくだろう。


質問者 私は身体とマインドから自由になるべきではないのでしょうか?


マハラジ あなたにはできない。なぜなら、その考え自体があなたを身体とマインドに拘束させるからだ。ただ理解し、無視すればいい。


質問者 私には無視することができません。私は統合されていないのです。


マハラジ あなたが完全に統合され、思考と行動が完全に協調されていると想像してみたところで、それがどのようにあなたを助けるというのだろうか? それがあなたは身体とマインドだという誤解を解くことはないだろう。身体とマインドを「あなたではないもの」として正しく見なさい。ただそれだけだ。


質問者 あなたは私に忘れるために覚えておきなさいと言われるのですか?


マハラジ そうだ。それはそう見える。だが絶望的ではない。あなたにはできる。ただ誠実にはじめなさい。あなたの盲目の手探りは前途にあふれている。あなたの探求そのものが発見なのだ。失敗はありえない。


質問者 統合されていないために、私たちは苦しむのです。


マハラジ 私たちの思考と行為が欲望と恐れに誘発されているかぎり、苦しみは続くだろう。その不毛さと危険性を見なさい。そうすれば、混沌は鎮まるだろう。あなた自身を改善しようと試みてはならない。ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。変化するものは変化しつづける。その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと期待してはならない。それはけっして起こらない。変化という観念自体が偽りとし見られ、放棄されたときにのみ、不変なるものがおのずと現れるのだ。


質問者 私がどこへ行こうと、実在を見ることができるようになる前に、私は深く変わらなければならないと言われてきました。この意図的な、自ら強要した変化がヨーガと呼ばれるものなのです。


マハラジ すべての変化はただマインドに影響を与えるだけだ。あなたであるもので在るには、マインドを超え、自己の存在のなかへと行かなければならない。マインドが何なのかということは重要でない。もしあなたがマインドを永遠に捨て去るならばだが。これもまた、真我の実現なしには不可能だ。


質問者 マインドを放棄することと真我の実現、どちらが先に来るのでしょうか?


マハラジ 真我の実現がかならず先に来る。マインドはマインドによってそれ自体を超えることはできないのだ。それは爆発しなければならない。


質問者 爆発の前に探求はないのでしょうか?


マハラジ 爆発力は実在からやってくるのだ。だが、あなたはマインドをそのときに備えておくように充分教えられている。つぎの機会がやって来るまで、恐れはつねにそれを遅らせることができる。


質問者 私はチャンスがいつもあるものだと思っていました。


マハラジ 論理的にはそのとおりだ。実際は、真我実現のために、すべての必要要因が揃った状況が生じなければならないのだ。このことで落胆することはない。「私は在る」という事実にとどまることが、別のチャンスをすぐにつくり出すだろう。なぜなら、態度が好機を引き寄せるからだ。あなたの知っていることはすべて間接的な知識だ。ただ、「私は在る」だけが直接の、そして証明を必要としないものなのだ。それとともにとどまりなさい。


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