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雨乞いの祈りはせずとも、干ばつと調和した


これまでに私たちがしてきた実習はすべて、あなたがいまこの空間のなかにいることは、まさに「ふさわしい」のだということを、感じてほしいという目的を持っていました。あなた方はそれぞれが、”大いなる全体性”のなかで独自の位置を占めており、それぞれが自分の居場所の適切さを実感することが、人生に喜びをもたらすのです。
 

質問者 どうすれば眠りを打ち破ることができるでしょうか?


マハルシ その活動や結果を意識せずにいなさい。

(対話356)


今日の話の中の女性は病気を治そうと努力したのではありませんでした。この点がふつうの癒しの物語と違っている点で、おもしろいと思います。彼女は現時点では治らない病気にかかってしまいました。彼女は自分が治る可能性を信じていなかったので、自分が治るところをイメージできませんでした。それでも彼女は治りました。


雨乞いの祈りはせずとも、干ばつと調和したからです。


病気に関していうと、病気と闘わなければよくなれないと信じている人がたくさんいます。これは抵抗です。病気と闘うイメージを使うと負けます。戦争と同じで、敵と戦えば、どちらかが勝ってどちらかが負けます。こうしたイメージは強い恐怖を呼び起こします。そして恐怖が前面に出れば、調和ははるか後ろに引き下がります。ですから考え方を変える必要があります。


病気とは、体の細胞の中にひっかかって出られなくなったエネルギーだということをまず思い出してください。この出られなくなったエネルギーは、過去の感情や考えや体験の集合体ですので、それを出してやるには別の種類のエネルギーが必要です。一番いいのは、愛と感謝と光、それに清らかなパワーのイメージで細胞を満たしてやることです。別のエネルギーが入ってきてそれが体内を流れている様子に意識を向けるだけでいいのです。いまあるエネルギーを快く受け入れ、それが別の種類のエネルギーに変わるようにそっと導いてあげるわけです。


何物もいっさい無視することなく、あらゆるものに意識を向けるとき、喜びが生まれます。


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彼らのパワーはこの地球の下の青い空間の深さよりも深く根をはり、彼らの頭は星とともに宇宙に飛びかい、あなたの目にはとても見えません。彼らはあなたを上から愛すると思いますか。彼らの存在は、この全宇宙の創造物を片手で持てるくらい、とてつもなく広大なものです。それでも、彼らは上から、優位の立場から愛するのではなく、自分の全体性をもって愛するのです。あなたの存在も同じくらい広大なのですが、あなたはそれを忘れてしまっています。あなたは自分のことを、このちっぽけな惑星の上を歩いている、ちっぽけな人間だと思っています。でも、本当はそうではありません。あなたの頭も星のあいだにあり、あなたの脚も濃紺の宇宙空間のかなたまで下りています。それほどあなたは広大無辺です。誰もあなたを助けだしたり、救ったりする必要はありません。あなたが救う者であり、あなたは救われた者なのです。


あなたが自分の未解決の問題に直面する勇気を持つと、あなたの心が一挙に大きく開かれ、人間は誰でも同じ問題を抱えているのだ、ということに気づきます。あなた方はみな怖れているのです。それというのも、自分はこの危険に満ちた世界を行く先もわからずにすすんでいる、ちっぽけな存在であると、自分を取りちがえて考えているからです。


これから先、もっとも有益な道具は、自己の限られた意識以外のものを体験したいという願望です。前にも言ったように、人は自分が何であるかということを思いちがいしています。


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質問者 神の力なくしては、何ひとつ為されません。彼なしにはあなたがここに座り、私たちに話すということさえありえなかったでしょう。


マハラジ 疑いなく、すべては神の為す業だ。それが何だというのだろう、私には何も求めるものはないのだ。神が何を私に与え、あるいは取り上げることができるというのだろう? 私のものは私のものだ。そして神が存在しなかったときにも、それは私のものだった。もちろん、それは非常に小さな取るに足らないもの、微々たるものだ。「私は在る」という感覚、存在の事実だ。これは私自身の場であり、誰に与えられたものでもない。この地球は私のものであり、そこに育つものは神のものだ。


質問者 神があなたに地球の借地料を払ったのですか?


マハラジ 神は私の帰依者だ。これらすべては神が私のためにしたことだ。


質問者 あなたを離れて神は存在しないのでしょうか?


マハラジ もちろん存在しえない。「私は在る」が根で、神は樹だ。私が誰を、何のために礼拝しなければならないというのだろう?


質問者 あなたは帰依者なのでしょうか。それとも帰依の対象なのでしょうか?


マハラジ そのどちらでもない。私は帰依そのものだ。


質問者 世界には帰依が欠けています。


マハラジ あなたはいつも世界を改善することに忙しいが、世界があなたによって救われることを待っていると本当に信じているのだろうか?


質問者 世界に対してどれだけのことができるのか、私にはわかりません。私にできることはただ試みることだけです。何かあなたが私にしてほしいと望むことがあるでしょうか?


マハラジ あなたなしで世界が存在するだろうか? あなたは世界についてすべて知っている。だが、あなた自身に関しては何も知らない。あなた自身があなたの仕事の道具なのだ。仕事について考える前に、道具の面倒を見たらどうかね?


質問者 私は待てますが、世界は待つことができないでしょう。


マハラジ 探求しないことで、あなたは世界を待たせている。


質問者 何を待っているのですか?


マハラジ 救ってくれる誰かを待っているのだ。


質問者 神が世界を管理しているのです。神は救うでしょう。


マハラジ それはあなたがそう言うだけだ! 神があなたのところへやってきて、世界はあなたのものではなく、彼の創造物と関心事だと言ったのかね?


質問者 なぜそれが私ひとりの関心事であるべきなのですか?


マハラジ 考えてみなさい。あなたの住む世界をほかに誰が知っているというのかね?


質問者 あなたが、そして皆が知っています。


マハラジ 誰かがあなたの世界の外側から来て、あなたにそう言ったのだろうか? 私自身も、ほかの皆も、あなたの世界のなかで現れては消えていくのだ。私たちは皆あなたのなすがままなのだ。


質問者 そんなひどい話があるでしょうか! あなたが私の世界のなかにいるように、私はあなたの世界のなかに存在しています。


マハラジ 私の世界の証拠をあなたはもっていない。あなたは完全に自分でつくり出した世界のなかに包みこまれているのだ。


質問者 なるほど。まったくそのとおりですが……どうしようもないのですか?


マハラジ あなたの世界の牢獄のなかにある人が現れ、あなたが創造した苦痛に満ちた矛盾の世界は継続も永続もせず、それはただ誤解がもとで現れたのだ、とあなたに言うのだ。彼はあなたに来たときと同じ方法、同じ道を通ってここを出ようと主張している。あなたはあなたが本来何であるのか忘れることによってその牢獄に入った。そして、あなたがあなた自身であると知ることでそこから出るのだ。


質問者 それがどのように世界に影響をあたえるのでしょうか?


マハラジ 世界から自由になってはじめて、世界に対して何かができる。その囚人であるかぎり、それを変えることはできない。それどころか、あなたが何をしてもかえって状況を悪化するだけだ。


質問者 公正さが私を自由にしてくれるでしょう。


マハラジ 公正さは疑うことなくあなたと世界を住みよい場所に、幸福にさえするだろう。だが、それが何になるというのだろうか? そこには実在性がない。永遠には続かないのだ。


質問者 神が助けてくれるでしょう。


マハラジ あなたを助けるには、神があなたの存在を知らなければならない。だが、あなたも、あなたの世界も夢なのだ。夢のなかで、あなたは断末魔の苦しみを味わうかもしれない。誰もそれを知らないし、誰もあなたを助けることはできないのだ。


質問者 では、私の質問も、探求も、研究も何の役にも立たないのですか?


マハラジ それらは眠りを破ろうとする人の活動だ。それらが気づきをもたらす原因にはならないが、その初期の徴候ではある。だが、あなたがすでに答えを知っていることについて、無意味な質問をしてはならない。


質問者 どうすれば真の回答が得られるのでしょうか?


マハラジ 真の質問を尋ねることによって、言葉の上ではなく、あなた自身の光にしたがって生きることに挑むことで得られるのだ。真理のために死をも厭わない人がそれを得るのだ。


質問者 もうひとつの質問です。個人がいます。その個人を知る者がいます。そこには観照者がいます。知る者と観照者は同じなのでしょうか? あるいは分離した状態にあるのでしょうか?


マハラジ 知る者と観照者は別々だろうか、ひとつだろうか? 知る者が知られるものと別のものとして見られたとき、観照者はひとり離れて在る。知られるものと知る者がひとつであるとき、観照者はそれらとひとつになるのだ。


質問者 ジニャーニ(賢者)とは誰なのでしょうか? 観照者でしょうか、それとも至高なるものでしょうか?


マハラジ ジニャーニは至高なるものであり、観照者でもある。彼は存在と気づきの両方だ。意識との関わりにおいて、彼は気づきであり、宇宙との関わりにあっては純粋な存在だ。


質問者 それでは、個人についてはどうでしょう? はじめに現れるのは個人でしょうか、知る者でしょうか?


マハラジ 個人とは非常に小さなものだ。実際には、それはいくつかの要素が混成されたもので、それ自身として存在することはできない。知覚されもしない。それはただ存在しないのだ。それはマインドの影、記憶の総計にすぎない。純粋な存在はマインドの鏡のなかに知るという状態として映る。知られたものは記憶と習慣を根底にして、個人としての形を取るのだ。それはマインドのスクリーンの上に映しだされた知る者の反映、ただの影にすぎない。


質問者 鏡が在り、反射があります。しかし、太陽はどこでしょうか?


マハラジ 至高なるものが太陽だ。


質問者 それは意識しているはずです。


マハラジ それは意識でも、無意識でもない。意識、無意識といった言葉で考えてはいけない。それは生命であり、その両方を含み、また両方を超えている。


質問者 生命は高い知性をもっています。どうして無意識であることができるでしょう?


マハラジ 記憶が中断するとき、あなたはそれを無意識と言う。実際には、意識だけが存在するのだ。すべての生命は意識しており、すべての意識は生きている。


質問者 岩でさえも?


マハラジ 岩でさえも意識し、生きている。


質問者 私には自分で想像できないものの存在を疑う傾向があるのです。


マハラジ 想像したものの存在を疑うほうが、あなたをより賢くするだろう。想像されたものが偽りなのだ。


質問者 想像可能なものはすべて偽りなのでしょうか?


マハラジ 記憶に基づいて想像されたものは偽りだ。未来はまったくの非実在ではない。


質問者 未来のどの部分が真実で、どの部分が偽りでしょうか?


マハラジ 予期されず、予測不可能なものが真実だ。


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わが家というのは、心のなかの環境を反映しているにすぎないのだ、ということを忘れないでください。想念や感情、決断や行動で、わが家という、この自分の拡大図を作ってきたのです。


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マハルシ 事実は、神はすべてであり、神から離れて存在するものなど何もないのです。対話270


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マハラジ 世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。それは在り、しかもそれはない。私が見たいと欲し、それに参加したいと望むかぎり、それはそこに在る。私が気にかけるのをやめるとき、それは溶け去る。それは原因がなく、何の目的にも仕えない。それは私たちが放心しているときに起こる。まったく見たとおりに現れはするが、そこには何の深みも意味もない。ただその傍観者だけが実在なのだ。彼は真我ともアートマとも呼ばれる。真我にとって世界は、それが続くかぎり楽しみ、終われば忘れられてしまう、ただの色鮮やかなショーにすぎない。何であれ、舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、あるいは笑い転げさせようと、つねに彼はそれがただのショーだと知っている。欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。


質問者 世界のなかに浸っている人は、多くの味わいをもっています。彼は泣き、笑い、愛し、そして憎み、切望し、また恐れ、苦しみ、そして楽しみます。無欲で恐れのないジニャーニ、彼の人生はどのようなものなのでしょう? 彼は冷淡で無味乾燥とした高みにひとり超然としているのでしょうか?


マハラジ 彼の境地はそのような寂しいものではない。それは純粋で、原因がなく、稀釈されない至福なのだ。彼は幸福であり、幸福が彼の本質そのものだ。彼はそれを守るために闘うことも、何をする必要もない。幸福は彼にしたがい、身体よりも真実で、マインドよりも身近なのだ。あなたは、原因なしで幸福はありえないと想像している。私から見れば、幸福のために何かに依存することはまったく悲惨なことだ。快楽と苦痛には原因がある。一方、私の境地は私自身のものであり、まったく原因がなく、独立した、疑う余地のないものだ。


質問者 舞台上の劇のようにでしょうか?


マハラジ 劇は作品として書かれ、計画され、稽古されたものだ。世界はただ無から存在のなかへと立ち現れ、無へと帰っていく。


質問者 創造者はいないのでしょうか? 世界は創造される前には、創造神ブラフマーのマインドのなかにあったのではないでしょうか?


マハラジ 私の境地の外にいるかぎり、あなたは創造神、維持神、破壊神をもつだろう。しかし、ひとたび私とともにあるならば、あなたは真我だけを知り、すべてのなかにあなた自身を見るだろう。


質問者 それでも、あなたは世界のなかで機能しています。


マハラジ めまいがするとき、世界はあなたのまわりで輪を描いているかのように見える。手段と目標、仕事と目的という観念に取りつかれて、あなたは私が一見機能しているかのように見るだろう。実際には、私はただ見ているだけだ。何であれ、為されることは舞台上で為されているのだ。喜びと悲しみ、生と死、束縛された人にとって、それらはすべて現実だ。私にとって、それらはすべてショーだ。ショーそのもののように非現実なのだ。
私はあなたのように世界を知覚するかもしれないが、あなたはそのなかにいると信じきっている。ところが、私は世界を広大な意識の広がりのなかの、ひとつの真珠の粒としてしか見ていないのだ。


質問者 私たちは皆年老いていきます。あらゆる痛みや苦痛、弱さ、そして死が近づいてきます。老年は快いものではありません。ジニャーニはひとりの老人としてどう感じるのでしょうか? 彼の内なる自己は彼自身の老衰を見ているのでしょうか?


マハラジ 彼は年を追うにしたがって、もっともっと幸せに、そして平安になっていく。つまるところ、彼は古巣に戻るのだ。目的地に近づいた旅人が、荷物をまとめ、心残りもなく列車を去っていくように。


質問者 明らかにそこには矛盾があります。ジニャーニはすべての変化を超えていると私たちは聞いています。彼の幸福は強くなることも、衰えることもありません。どうして身体的衰弱にもかかわらず、年をとるにつれて彼はより幸福になるのでしょうか?


マハラジ そこに矛盾はない。運命の一巻は終わりを告げようとしている──マインドは嬉しいのだ。身体的存在の霧は晴れようとしている──身体の重荷は日に日に減少していくのだ。


質問者 ジニャーニが病気だとしましょう。彼は風邪をひき、関節のあちこちが痛み、焼けるようです。彼のマインドの状態はどうなのでしょうか?


マハラジ あらゆる感覚は完全な平静さとともに観照される。そこには何の欲望も拒絶もない。それはあるがままであり、彼はそれを愛情のこもった無執着の微笑みとともに見るのだ。


質問者 彼は苦しみに対して超然としているかもしれませんが、それでも、それはそこにあるのです。


マハラジ それはそこにある。だが、それは問題ではない。いかなる状態にいようとも、私はそれをあるがままのマインドの状態として見るのだ。


質問者 痛みは痛みです。あなたはやはり体験するのです。


マハラジ 身体を体験する人は、その苦痛と快楽を体験するだろう。私は身体でも、身体を体験する人でもないのだ。


質問者 では、あなたが二十五歳の青年だとします。あなたの結婚が準備され、行なわれました。そして家庭生活の義務があなたの上にのしかかってきます。あなたはどう感じるでしょうか?


マハラジ たった今、私が感じているようにだ。あなたは私の内的状態が、外的出来事によって形づくられると主張しつづけている。それはただそうではないのだ。何が起ころうと、私は変わらないままだ。私の存在の根底には気づきが、強烈な光の点が在る。この点がその本性によって輝き、空間のなかには画像を、時間のなかには出来事を、努力することなく自発的につくり出す。単にそれに気づいているだけならば、問題はない。しかし、分別心が存在のなかに現れ、区別をつくり出すと、苦痛と快楽が立ち現れる。眠りの間、マインドは停止しているため、苦痛や快楽も停止している。創造の過程は継続するが、注目はされない。マインドは意識のひとつの形であり、意識は生命のひとつの相だ。生命がすべてをつくり出す。しかし、至高なるものはすべてを超えた彼方に在るのだ。


質問者 至高なるものが主人であり、意識は彼の召使いです。


マハラジ 主人は意識のなかにいて、それを超えはしない。意識との関係において、至高なるものは創造と壊滅、具象と抽象、焦点と普遍だ。それはまた、そのどちらでもない。言葉もマインドも、そこには届かないのだ。


質問者 ジニャーニは、とても寂しい存在のように見えます。孤立しているかのようです。


マハラジ 彼はひとりだ。だが、彼はすべてなのだ。彼はあるひとつの存在でさえない。彼はすべての存在の実在なのだ。それでさえもない。いかなる言葉も適さない。彼は彼で在るもの。すべてがそこから成長していく土台なのだ。


質問者 あなたは死を恐れてはいないのでしょうか?


マハラジ 私のグルのグルがどのように死を迎えたか話をしよう。死が近づいていることを皆に告げた後、彼は日々の日常の仕事を続けながら、食事するのをやめた。十一日後、祈りの時間に、彼は歌い、手を元気に叩きながら突然死んだのだ! そのように、二つの瞬間の合間にロウソクが吹き消されるように。誰もが彼の生きたように死ぬ。私は死を恐れてはいない。なぜなら生を恐れていないからだ。私は幸福な生を送り、幸福な死を迎えるだろう。惨めさとは生まれることだ。死ぬことではない。すべてはあなたがどのように見るかにかかっているのだ。


質問者 あなたの境地の証拠はありません。私の知るすべては、あなたが言うことだけです。私が見ているのはとても興味深い老人です。


マハラジ 興味深い老人はあなただ。私はけっして生まれなかった。どうして年をとることができようか? あなたにとって現れる私は、あなたのマインドのなかにだけ存在するのだ。私はそれに関わってはいない。


質問者 たとえ夢であっても、あなたはもっとも特別な夢です。


マハラジ 私はあなたを目覚めさせることのできる夢だ。あなたが目覚めるということ自体のなかに、その証明を得るだろう。


質問者 私が死んだという知らせがあなたに届いたと想像してください。誰かがあなたに「この人を知っていますか? 彼は死んだのですよ」と告げます。あなたはどのような反応をするのでしょうか?


マハラジ あなたが古巣に帰り着いて私は本当に幸せだろう。あなたがこの愚かさから抜けだしたのを見て本当に嬉しい。


質問者 どの愚かさでしょうか?


マハラジ あなたが生まれ、そして死ぬと考えていること、あなたがマインドを誇示する身体であると考えていること、そしてそのようなばかげた話のすべてだ。私の世界では誰も生まれず、誰も死なない。何人かの人は旅を続け、そして帰ってくる。何人かはけっして去ることはない。彼らは夢の国で、それぞれ自らの夢に包まれて旅しているのだ。そこにどんな違いがあるというのだろう? 目を覚ますことだけが重要なのだ。「私は在る」が実在であり、そしてまた愛なのだと知るだけで充分だ。


質問者 私の道はそれほど絶対的なものではありません。それゆえの質問です。西洋の至るところで、人びとは何か真実なるものを探求しています。彼らは物質に関して多くを語る科学に傾倒してきましたが、それはマインドに関してはわずかばかり、自然と意識の目的に関してはまったく触れません。彼らにとって実在は客観的で、観察可能で、直接、あるいは推測による記述可能な外的なものであり、実在の主観的側面については何も知らないのです。実在が在るということ、そしてそれは物質とその限界や歪みから意識が自由になることで見いだせるのだということを、彼らに知らしめるのは非常に重要なことです。世界のほとんどの人びとは、実在を見いだすことができ、しかも意識のなかで体験できるということを知らないのです。彼らが実際に実在を実現した人からその良い知らせを聞くのはたいへん重要なことのように思えます。そのような賢者はつねに存在してきました。そして彼らの証言は貴重なものです。


マハラジ もちろん。真我の実現の福音は、ひとたび聞かれたならば、けっして忘れることのできないものだ。大地にうずくまる種子のように、それは来たるべき季節を待ち、やがて芽吹いて巨大な樹へと生長することだろう。


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自分を生き生きと温かい気持ちにさせるものを意識的に思い出すことです。それが希望を与えてくれます。


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あなたは一番になりたいですか。
それとも”大いなる一”でありたいですか。


自分の権利を何としてでも主張したいと思ったなら、こう自問してください。「自分は一番になりたいのか。それとも”大いなる一”でありたいのか」。一番になるか、すべてとひとつになるか、というのが選択肢です。”大いなる自己”の”本質”を感じることができると、何も失うことなく”大いなる一”を選び取ることができます。代わりに<自己正当化>を選んだりしないでください。賢く見られることや、美しくなることや、金持ちになるほうを選んだりしないでください。”大いなる一”を手放して、他のものを選んだりしないでください。現在たとえどんな経験をしているとしても、それが<それ>そのものなのです。


愛と希望と喜びを内にはらんだあなた方の大切な魂が、叡智と思いやりの荘厳な花へと開いていく中で、そして見える見えないにかかわらずあらゆる生命を抱き容れる愛の荘厳な花へと開いていく中で、この天界でのあなた方の人生の日々を通して、私はつねにあなた方全員とともにあるだろう。だが、そのような瞬間よりも、あなたが自分の内面に神を見て、神を理解し、神を知る瞬間のほうが、遥かに、遥かに偉大な瞬間なのである。


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質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


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「もっとやるんだ」、「もっとうまくやれ」、「もっと速くやれ」とマントラは言いますが、そんなに急いでどこに行くというのでしょうか。こうした言葉にせき立てられても、それでもっと速く<神を見つける>ことができるわけではありません。それより役に立つのは、すわって心を静め、リラックスすることです。あれもこれもしなければと思うのをやめて、ただ在ることです。今の自分ではいけないと語りかけてくる内なる声が何なのかを見きわめることです。あなた方の住んでいる世界は、多くの条件づけがなされている世界で、喜びや感動する心、ただ元気でいる幸せなどは、どうもそれだけでは十分でないと教えます。

 
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マハルシ 想念とは無数の過去世において蓄積されたヴァーサナー(心の潜在的傾向、性癖)でしかありません。それを絶滅させることが目標です。ヴァーサナーから自由になった状態が原初の状態、純粋で永遠なる状態なのです。対話80


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質問者 先日、私たちは個人─観照者─絶対なるもの(ヴィヤクティ─ヴィヤクタ─アヴィヤクタ)について討論していました。私が覚えているかぎり絶対のみが実在であり、観照者は時間と空間のなかの与えられた点においてのみ絶対だとあなたは言われました。個人とは観照者の存在によって照らしだされた粗雑、あるいは繊細な有機体です。私はどうやら明確に把握できなかったようです。もう一度それについて討論できるでしょうか?あなたはまた、マハーダーカーシュ、チダーカーシュ、パラマーカーシュという言葉を用いていました。それらは個人、観照者、絶対なるものとどのように関連しているのでしょうか?


マハラジ マハーダーカーシュは自然、存在の大洋、感覚を通して知覚されるすべてを含む物理的空間だ。チダーカーシュは気づきの拡張、時間の精神的空間、知覚と認識だ。パラマーカーシュは時間と空間を超えた実在、無心であり、未分化の無限の可能性、源であり根源、実質であり本質であるもの、物質と意識の両方であり、しかもその両方を超えているものだ。それを知覚することはできない。だが、つねに観照者を観照する者、知覚者を知覚する者、すべての権限の根源と終焉、時間と空間の根底、あらゆる因果関係の連鎖における起源的な原因としてそれを体験することはできるのだ。


質問者 ヴィヤクタ(観照者)とアヴィヤクタ(絶対なるもの)の違いは何でしょうか?


マハラジ  違いはない。それは光と日光のようなものだ。宇宙はあなたに見えない光に満ちている。しかし、その同じ光をあなたは日光として見ているのだ。そして日光が顕わにするものがヴィヤクティ(個人)だ。個人はつねに対象として、観照者は主体として在る。そしてそれらの相互依存の関係は、それらの絶対的な同一性の反映なのだ。あなたはそれらが区別された、分離状態だと想像している。そうではないのだ。それらは同じ意識の静と動であり、それぞれの状態が他方を意識しているのだ。普遍なる意識(チット)のなかで、人は神を知り、神は人を知っている。普遍なる意識のなかで、人は世界を形づくり、世界は人を形づくる。普遍なる意識は連結部、両極端を結ぶ橋、あらゆる経験に均衡と統合をもたらす要因だ。知覚されたものの全体性が物質と呼ばれ、すべての知覚者の全体性が宇宙のマインドと呼ばれる。その二つの同一性は、知覚力と知覚、調和と知性、愛らしさと愛することとしてそれ自体を永遠に再主張していくのだ。


質問者 三つの性質(グナ)であるサットヴァ、ラジャス、タマスは物質のなかにだけあるのでしょうか、それともマインドのなかにもあるのでしょうか?


マハラジ  もちろん、両方にある。なぜなら、その二つは別々ではないからだ。グナを超えているのは絶対なるものだけだ。実際、それらは単なる見解、ただの見方にすぎない。それらはマインドのなかにのみ存在するのだ。マインドを超えれば、すべての区別は止まる。


質問者 宇宙とは感覚がつくり出したものなのでしょうか?


マハラジ  目覚めとともに、あなたが世界を新たに創造するように、宇宙は繰り広げられていく。マインドとその五つの知覚器官、五つの行動器官、五つの意識の伝達手段は記憶、思考、理性、自我として現れるのだ。


* 訳注
五つの知覚器官-聴覚、触覚、味覚、嗅覚、視覚。
五つの行動器官-話すこと、理解すること、動くこと、排泄すること、楽しむこと。
五つの意識の伝達手段-言語器官、運動器官、理解器官、排泄器官、生殖器官。


質問者 科学は大変な進歩を遂げました。私たちの身体やマインドは、祖先のそれよりもはるかにすぐれています。マインドや物質を描写し分析するあなたの伝統的な方法は、もはや有効ではありません。


マハラジ  だが、あなたの科学者たちや科学はどこにあるのかね?それらはあなた自身のマインドのなかに存在するイメージではないだろうか?


質問者 ここに基本的な違いがあるのです!それらは私自身の投影ではありません。それらは私が生まれる以前から存在し、私が死んだ後も存在するでしょう。


マハラジ  もちろん、ひとたび時間と空間を実在として受け入れたならば、あなたは自分自身を短くはかない命を生きるものとして考えるだろう。しかし、それは真実なのだろうか?時間と空間があなたに依存するのだろうか、それともあなたがそれらに依存するのだろうか?身体として在るならば、あなたは空間のなかにいる。マインドとしては、あなたは時間のなかにいるのだ。だが、あなたは単なる身体とマインドなのだろうか?今まで調べたことがあっただろうか?


質問者 私にはその動機も方法もありませんでした。


マハラジ  私はその両方を差しだしているのだ。だが、洞察と識別という実際の仕事はあなたのものだ。


質問者 唯一私が自覚できる動機といえば、私自身の、原因のない永遠の幸福です。では、方法とは何でしょうか?


マハラジ 幸福は主要なものではない。真の、そして有効な動機とは愛なのだ。あなたは人々が苦しむのを見て、最善の援助方法を探す。その答えは明白だ──まず、あなた自身を援助の必要性を超えた地点におきなさい。あなたの態度は純粋な善意、いかなる期待からも自由なものであることを確かめなさい。
単に幸福のみを求める者は、極度の無関心に陥る場合がある。一方、愛はけっして放っておけないのだ。
方法については、ただひとつだけある。あなたがあなた自身──あなたのように現れて見えるあなたと、あるがままであるあなたの両方──を知らなければならないということだ。明晰性と慈愛がともに必要になる。どちらも互いを必要とし、強めあうのだ。


質問者 慈悲は、避けるべき悲しみに満ちた客観的世界の存在を意味しています。


マハラジ  世界は客観的なものではない。そしてその悲しみは避けることのできないものだ。慈悲とは、想像上の原因によって苦しむことの拒否を意味する言葉でもあるのだ。


質問者 もし原因が想像上のものならば、なぜ苦しみは避けられないのでしょうか?


マハラジ  あなたを苦しめるのは、つねに偽物だ。偽りの欲望と恐れ、偽りの価値と観念、偽りの人間関係だ。偽物を放棄しなさい。そうすれば、苦痛から自由になれる。真実は幸せをもたらす。真実は解放するのだ。


質問者 真実は、私は身体のなかに監禁されたマインドだということです。そして、それはとても不幸な真実なのです。


マハラジ  あなたは身体でもなければ、身体のなかにいるのでもない。身体などというものは存在しないのだ。あなたはあなた自身について、ひどい誤解をしてきた。正しく理解するために、調べてみるがいい。


質問者 しかし、私は身体として、身体のなかに生まれてきたのです。そして、身体とともに、身体として死ぬでしょう。


マハラジ  これがあなたの思い違いなのだ。調べなさい。探求し、あなた自身を、そして他者をも疑ってみなさい。真実を見いだすには、あなたの確信に固執してはならないのだ。もしあなたが現下にあるものを疑わなければ、けっして究極に到達することはできないだろう。あなたが生まれ、そして死ぬという概念は不条理だ。論理的にも体験的にも矛盾しているのだ。


質問者 わかりました。私が身体だと主張するのはもうやめましょう。あなたの要点はここにあるのです。しかし今ここであなたと話しているように、私は身体のなかにいます──明らかに。身体は私ではないかもしれません。しかし、それは私のものです。


マハラジ  宇宙全体が絶え間なくあなたの存在に貢献している。それゆえ、宇宙があなたの身体なのだ。その意味では、私も同意しよう。


質問者 身体は私に深く影響を与えます。多くの意味において、身体は私の運命なのです。私の反応、運命や恐れ──生来のものであれ、後天的なものであれ、それらはすべて身体を根底としています。わずかな量の酒や薬物や何かで、すべてが変わってしまいます。薬物が抜けきるまでは、私は別人となってしまうのです。


マハラジ  これらすべては、あなたが身体だと考えることによって起こるのだ。真我を見いだしなさい。そうすれば、薬物さえあなたに影響を与えることはできないだろう。


質問者 あなたは喫煙しますか?


マハラジ  私の身体はいくつかの習慣を保っている。それは死に至るまで続いていくかもしれない。それらには何の害もないのだ。


質問者 あなたは肉を食べますか?


マハラジ  私は肉を食べる人たちのなかで生まれた。そして私の子供たちは肉を食べている。私もほんの少し食べるが、気にするほどのことではない。


質問者 肉食は、殺すことを意味します。


マハラジ  いかにも。私は終始一貫していることを主張したことはない。あなたは絶対的な一貫性が可能だと思っている。例えを示して証明してみなさい。自分自身で実践していないことを説いてはいけない。
生まれてきたという観念についての話に戻るが、あなたは、両親があなたに語ってきた懐妊や妊娠、そして誕生、幼児、子供、十代の若者と続いていく話に固執しているのだ。「私は身体ではない」という観念の助けを借りて、「私は身体だ」という考えを取り去りなさい。確かにそれもまた一つの観念ではある。それに疑いはない。仕事がすんだら捨て去られるもののように扱うがいい。実際には、身体というものは存在しないのに、「私は身体だ」という観念は身体に実在性を与えてしまう。それはただマインドの状態にすぎないのだ。あなたは好きなだけ多くの、多種多様な身体をもつことができる。ただ、あなたが何を求めているのかを絶えず覚えておきなさい。そして、それと一致しないものは受け入れてはならない。


質問者 私はまるで、箱のなかの箱のなかの箱のようです。外側の箱は身体としてあり、その内側の箱には、内在する魂がいるのです。その外側の箱を取り去ると、つぎの箱は身体で、そのつぎは魂です。それは無限の連続なのです。かぎりなく箱を開けていくと、最後に残るものが究極の魂なのでしょうか?


マハラジ もしあなたが身体をもつならば、魂ももたねばならないだろう。そうだとすれば、あなたの一組の箱の直喩もあてはまるだろう。しかし、今ここで、あなたの身体と魂を通して純粋な普遍なる意識(チット)の光、覚醒が輝いているのだ。それを確固としてつかみなさい。覚醒なしには、身体は一秒さえも生きることができない。身体のなかには、エネルギー、愛情、知性の流れが存在する。それが身体を導き、維持し、活力を与えるのだ。その流れを発見し、それとともに在りなさい。
もちろん、これらすべては言葉の例えにすぎない。言葉は橋を架けることもできれば、障害にもなりうる。あなたの身体の繊維を織り成す生命の気を見いだし、それとともに在りなさい。それが身体のもつ唯一の本質なのだ。


質問者 死後、生命の気には何が起こるのでしょうか?


マハラジ  それは時間を超えている。誕生と死は時間のなかの点にすぎない。生命はその無数の綾を永遠に織り成していく。織り込んでいくことは時間のなかにあるが、生命そのものは永遠だ。あなたがその表現にどんな名前と形を与えようとも、それは大海のように、けっして変化せず、つねに変化しつづけていくのだ。


質問者 あなたの言われることはすべて、美しく、得心がいくものです。それでもなお、この奇妙で異質な、しばしば敵意に満ちた危険な世界のなかに、個人として在るという感覚は消えません。個人として時間と空間のなかに限定されながら、どのようにして私はその反対である、何も特定化されていない、非個人化され、普遍化された気づきとしての真我を実現できるというのでしょうか?


マハラジ  あなたはあなたではないものをあなただと主張し、本来のあなたであるものを否定している。あなたはすべての個人的な歪曲から自由である気づきの純粋な認識の原理を忘れているのだ。あなたが普遍なる意識(チット)の実在を認めないかぎり、あなた自身を知ることはけっしてないだろう。


質問者 私はどうすればよいのでしょうか?私にはあなたが見ているように、私自身を見ることはできません。おそらく、私が間違っていて、あなたが正しいのかもしれません。しかし、どのようにして私の感じている私自身として在ることをやめることができるというのでしょうか?


マハラジ  自分自身を乞食だと信じきっている王子を、決定的に確信させる方法はただひとつしかない。彼に王子としてふるまうようにさせるのだ。そうして何が起こるかを見てみなさい。私の言ったことが、あたかも真実であるようにふるまってみなさい。そして実際に何が起こるか判断するがいい。私が求めるのは、第一歩を踏みだすために必要なわずかな信頼だけだ。体験とともに、確信がやってくる。そうすれば、あなたは私をもう必要としないだろう。私はあなたが何なのか知っている。だから、私はあなたに伝えているのだ。しばらくの間、私を信頼してほしい。


質問者 今ここに在るため、私には身体とその感覚が必要です。理解するためには、マインドが必要なのです。


マハラジ  身体とマインドは単なる無知、誤解の兆候にすぎないのだ。あなたが身体もマインドも超え、時間と空間も超え、「どこで」、「いつ」、「どのように」をも超えた、純粋な気づきとしてあるかのごとくふるまいなさい。それに思いをめぐらしなさい。その真実性を受け入れることを学びなさい。いつまでも反対したり、拒否したりしてはならない。少なくとも、心を開きなさい。ヨーガ(探求)とは外面が内面に従うことなのだ。あなたのマインドと身体に、すべてでありすべてを超えた実在を表現させなさい。議論することによってではなく、為すことによってあなたは達成するのだ。


質問者 どうか私の最初の質問に戻らせてください。個人として在るという過ちの原因はどこにあるのでしょうか?


マハラジ  絶対なるものは時間よりも優位を占める。まず、気づきが最初に現れる。一組の記憶と精神的習慣が注意を引きつけ、気づきがそこに焦点を集中させると、突然個人が出現するのだ。気づきの輝きを取り去ってみなさい。眠りにつくか、気絶すると、個人は消滅してしまう。ヴィヤクティ(個人)はかすかにゆらめき、ヴィヤクタ(気づき)はすべての時間と空間を内包する。アヴィヤクタ(絶対なるもの)は──在るのだ。


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異質な二つの文化がある場合、それぞれが、自分の文化の方が優れていると感じる傾向がつねにあります。優越感というのは、愛の存在をほとんど不可能にします。この二つの文化のあいだには、理解やコミュニケーションがほとんど存在しません。ということは、愛の心が生む叡智がそこにはないということです。
ところが戦争のような極限状況にあっても、愛の心を動かすことはできます。なぜなら双方とも、基本的に同じ恐怖と混迷のなかにあるからです。そこに愛の生まれるチャンスがあります。相手も自分と同じ恐怖に直面しているのだとわかって、固定観念を捨て、心の理解を通しておたがいと向き合うチャンスが生まれます。


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マハルシ 身体は生命意識を持たず、「私」と言うことはできません。真我は非二元的な純粋意識です。それも「私」と言うことはできません。眠りの中では誰も「私」とは言いません。


それでは自我とは何でしょうか?


人は暗闇にいると、そばに何かがいると想像してしまいます。それは何か黒い物体かもしれません。近寄って見ると幽霊は見えず、ただ木やポストのような物体を見間違えただけだということがわかるのです。近づいて見てみなければ、幽霊は彼を脅かしたでしょう。必要なのは、ただよく見ることだけです。そうすれば、幽霊は消え去ります。幽霊は初めからそこにいなかったのです。自我においても同じことです。それは身体と純粋意識の間に介在する実体のない結び目です。それは実在しません。よく見てみないかぎり、それは問題を与え続けるでしょう。

(対話612)


質問者 人は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生に起こるすべては運命づけられ、あらかじめ決められているのでしょうか?


マハルシ 自由意志は個人性との関連の中にその領域を保っています。個人性が存続するかぎり自由意志は存在するでしょう。すべての聖典はこの事実に基づいたうえで、自由意志を正しい道に導くように助言しているのです。
自由意志や運命は誰にとって問題となるのか? それを見いだし、その中にとどまりなさい。そうすれば、その二つは超越されるでしょう。


もしあなたが自分を身体と見なすなら、それらは常にあなたを支配するでしょう。
もしあなたが自分を身体と見なさなければ、それらがあなたに影響を与えることはなくなります。


眠りの中では、あなたは身体ではありませんでした。
あなたは今、身体なのでしょうか?

(対話426)


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質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


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