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第三のヒロシマ前夜36


人生を変える必要はありません。何か小さな一つの原因が何か小さな一つの結果を生むわけではありません。AがBになり、BがCになるというような直線型思考を何とか打ち破ろう、と私はつねに努力しています。人間は直線型の体験の産物ではないのです。あなた方は意識の爆発であり、ものごとは一瞬たりとも休みなく動いています。ものごとはつねに変化しているのですから、そのまま変化するにまかせてください。神を見つけるために、外の世界を変えたり何かをしたりする必要はありません。


ただ覚えておいてほしいのは、人生で起きることはすべて、人々の心の奥深くに孤独があることを思い出させるために生じているのだ、ということです。変えなければならないのは外の世界だと思っているうちは、そうした問題は一生なくならないでしょう。外の世界はどうでもいいとか、外の世界には問題がない、と言っているわけではありません。私は単に、外の世界は第二義的なものだと言っているのです。確かにそこには悩みや苦しみがあります。けれどもどんなにその悩みや苦しみが深刻なものであっても、自分は神を怒らせるようなことを何かしたので、こんな苦しみという罰を受けているのではないか、という怖れに比べたら、それほど深刻ではありません。


欲しいと思っているものが何であれ、それはあなたが本当に望んでいることのカムフラージュにすぎません。カムフラージュは第二義的なものだということを覚えておいてください。


だからといって、自分の人生に関心を払うなとか、自分に必要な物を求めるなと言っているのではありません。それらをすべて認めた上で、自分の真の目的は何なのかを忘れないように、ということです。すると、問題と答えは一体なので、”大いなる光”が輝きはじめ、自分のなかにパワーがみなぎりはじめます。やがて、そのすばらしく穏やかな静けさのなかに、あるやさしい感覚がたえず存在するのに気づくでしょう。それに注意を払ってください。その継続的感覚こそが神なのです。第二義的なものから離れ、魂の根源的な叫びのなかに深く身を置いてください。そして”大いなる故郷”へ帰ってください。



あなた方は、それぞれが美しい存在であると同時に、一人ひとりが異なっている。なぜなら、一人ひとりが、自分独自の意図的かつ創造的な目的を持ちながら表現している神だからだ。


あなた方のすべてが、かつては小さな思考、輝く光であったが、その光が、神が永遠に動き続け、絶え間なく存在し続けていくための継続性そのものになったのである。探求のためのさらに偉大な世界を建設するために、多大な配慮とたくさんの実験を通して、あなた方は物質、あるいは「凝固した思考」でできた化身をつくり上げた。この化身によって、あなた方はそれまでとは別の存在の天界において、表現できるようになったのだ。こうしてあなたは、神と呼ばれる思考のすべてのパターンを探求できたのである。


あなた方のすべてが、自分の創造的な知性の力を「見せる」ために、「見せる天界」と呼ばれる生命のこのレベルにいるのだ。


神とは、思考の中のより高い振動数であるだけでなく、物質と呼ばれる最も濃密で、最も振動数が低い思考でもあるのだ。


自分の思考プロセスのすべてを理解するためには(つまりあなたであるすべて、あなた自身である神のすべてを抱き容れるためには)、この天界も含めたすべての存在の天界で生きることができるほどの、適応力と自己愛を持たなければならない。


この旅は、神であるすべてのものの中で神を知るということを、その目的にしてきた。すなわち、思考から光へ、エレクトラムの分裂へ、物質へ、そしてこの天界へと。あなた方全員が、このような旅をしてきたのだ。これは偉大なだけでなく、かなり勇気のあることでもあるが、この旅には少しばかりのリスクがともなう。偉大なる不死の自己を変容させてこの物質の天界に入ってくることによって、自分のアイデンティティーを見失い、生存というものに完全にとらわれてしまう可能性が高いからだ。



質問者 私たちはサティア・サイババ* のアーシュラムにある期間滞在していました。また、ティルヴァンナーマライのラマナシュラマムでも2カ月ほど過ごしました。今、私たちはアメリカへ帰国の途上なのです。


* 訳注 サティア・サイババ Satya Sai Baba
(1926-)アーンドラ・プラディーシュ州の村プッターパルティに生まれる。マハーラーシュトラ州の偉大な聖者シルディ・サイババの化身であると自ら名乗る。砂糖菓子や花、聖灰を物質化し、遠く離れた弟子の想念を読みとるといった奇跡を行なう世界的に有名なグル。


マハラジ  インドがあなたに何らかの変化をもたらしただろうか?


質問者 私たちは重荷を降ろしたかのように感じています。シュリー・サティヤ・サイババは、すべてを彼に明け渡し、ただ日々をできるかぎり公正に生きるようにと言われました。「正しく在りなさい。あとは私にまかせなさい」と彼は言いました。


マハラジ  シュリー・ラマナアシュラムでは何をしていたのかね?


質問者 私たちは師から授かったマントラを復唱しつづていました。また瞑想もしました。考えることや勉強することはほとんどなく、ただ、静かにしているよう心がけていただけです。私たちはバクティ(帰依)の道を行く者で、哲学はむしろ知らないのです。私たちには考えなければならないことはさほどなく、ただグルを信頼し、人生を生きていくだけです。


マハラジ  バクタ(帰依者)の多くは、すべてがうまくいっている間はグルを信頼する。しかし、問題が起こると彼らは落ちこみ、ほかの師を探しに行くのだ。


質問者 そうです。その危険性については警告されました。私たちは厳しい状況もやさしい状況とともに受け入れていこうと思っています。「すべては恩寵だ」という感情が非常に強くなければなりません。ひとりのサードゥ(修行僧)が東に向かって歩いていると、その方向から強風が吹いてきました。サードゥはただくるりと向きを変えて、西に歩き出したのです。私たちもグルによって与えられた環境に私たち自身を合わせながら、そのように生きたいと願っています。


マハラジ  ただ生命だけがある。生命を生きる人は誰もいないのだ。


質問者 それは私たちも理解します。それでもなお、私たちは、ただ生きるのではなく、自分たちの人生を生きようとしてしまうのです。未来のために計画を立ててしまうことは、私たちにとって根深い習慣なのです。


マハラジ  あなたが計画を立てようと立てまいと、人生は続いていくのだ。だがその人生において、マインドのなかに小さな渦巻きが現れる。それは幻想にふけり、それ自体が人生を支配し、コントロールしていると想像するのだ。
生命そのものは無欲だ。だが、偽りの自己はそれが快く続いてほしい。そのため、それはつねに自己の継続を守ることに没頭しているのだ。生命は恐れず、自由だ。あなたが出来事に影響を与えているという考えをもっているかぎり、解放はあなたのものではない。行為者という観念、自分が出来事の原因であるという観念自体が束縛なのだ。


質問者 どうすれば、私たちは為す者と為されることという二元性を克服できるのでしょうか?


マハラジ  生命を無限で、分割不可能な、つねに存在し、つねに活動的なものとして黙想しなさい。あなたがそれとひとつであると悟るまで。それは難しくなどない。なぜなら、あなたはただ自分の自然な状態に戻るだけだからだ。
すべては内側から現れ、あなたの住む世界があなたの上に投影されているのではなく、あなたによって投影されているとひとたび自覚すれば、恐れは終焉するのだ。この自覚なしに、あなたはあなた自身を外界の身体、マインド、社会、国家、人類、そして神や至高なるものといったものとさえ同一化してしまう。だが、それらはみな恐れからの逃避なのだ。あなたが住む小さな世界の責任を完全に受け入れ、その創造、維持、破壊の過程を見守るときにだけ、あなたはあなた自身の想像による束縛から自由になるのだ。


質問者 どうして私は自分自身をそんなにも不幸だと想像してしまうのでしょうか?


マハラジ  ただの習慣からなのだ。あなたの考え方や感じ方を変えなさい。それらを再検討し、詳細に調べてみなさい。あなたは不注意によって束縛される。注意が解放するのだ。あなたはあまりにも多くのことを当然のこととして受け取ってきた。疑いはじめなさい。もっとも明らかなことは、もっとも疑わしいのだ。あなた自身にこのように問いかけてみるといい。「私は本当に生まれたのだろうか?」「私とは本当にこれなのだろうか?」「私が存在すると、どのようにして知るのだろうか?」「誰が私の親なのだろうか?」「彼らが私を創造したのか、それとも私が彼らを創造したのだろうか?」「私自身に関して言われたことを、すべて信じなければならないのだろうか?」「私とは誰なのか?」と。あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつぎこんできた。今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。事実、破壊することはたやすい。なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。すべては「私は在る」という想念にかかっている。それを徹底的に調べるがいい。それはあらゆる困難の根底に存在している。それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。実在は皮の内側にも外側にもある。しかし、皮そのものは実在ではないのだ。この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。


質問者 どうすれば「私」という感覚から自由になれるのでしょうか?


マハラジ  もしあなたがそれから自由になりたいのなら「私」という感覚と向き合わなければならない。あなたが明確にそれを見て完全に理解するまで、それが作用しているときや、落ち着いているときを見守りなさい。それがどのようにはじまり、どのように停止し、何を欲しがり、どのようにそれを得るのかを見なさい。結局、すべてのヨーガは、その源が何であれ、性質が何であれ、目的はただひとつだ。分離された存在という不幸から、広大な美しい絵の中の無意味な点としての存在から、あなたを救い出すことにあるのだ。
あなたが苦しむのは、あなた自身を実在から疎外したからだ。そして今、あなたはこの疎外感からの逃避を探し求めている。あなた自身の強迫観念から逃げることはできない。ただ、それを育むのをやめることができるだけだ。
「私は在る」は偽りだからこそ、それは存続を願う。実在は存続する必要がない──それ自身、破壊不可能なことを知っているからだ。それは形態とその表現の破壊に無関心なのだ。「私は在る」を強調し安定させようと、私たちはありとあらゆることをするが──すべては無駄に終わってしまう。なぜなら、「私は在る」は瞬間から瞬間へと再構築されていくものだからだ。それは絶え間ない仕事なのだ。そして唯一の革新的な解決法は、「私はあれであり、これである」という分離した感覚を永遠に消し去ることだ。存在は残る。だが、自己存在ではない。


質問者 私には明確な霊的野心があります。それを満たすために努力しなければならないのではありませんか?


マハラジ  いかなる野心も霊的なものではありえない。すべての野心は「私は在る」のためのものなのだ。もしあなたが本当の進展を遂げたいのなら、すべての個人的な達成という考えは、あきらめなければならない。いわゆるヨーギの野心というものは、実にばかげたものだ。男性の女性に対する欲望は、永遠の個人的な至福を渇望することに比べれば純真なものだ。マインドとは詐欺師なのだ。より敬虔に見えるほど、裏切りはさらに悪いものとなるだろう。


質問者 ひっきりなしに、人びとは世間の悩みごとをかかえてあなたのもとへやってきます。あなたはいったいどのようにして、彼らに何を言うかを知るのでしょうか?


マハラジ  ただその瞬間、私のマインドに現れたことを告げるだけだ。私には人びとに対応するための企画化された手順といったものはない。


質問者 あなたはあなた自身に確信をもっています。しかし、私のもとに人びとが来るとき、どのようにして私の助言が正しいものだと確信できるのでしょうか?


マハラジ  あなたがどの状態のなかにいるのか、どのレベルで話しているのかを見なさい。もしあなたがマインドから話しているなら、間違っているかもしれない。あなたの精神的習慣が停止しており、状況への完全な洞察から話しているのならば、あなたの助言は本物の返答かもしれない。要点は、あなたも、あなたの前にいる人も、ともに単なる身体ではないと完全に気づいていることだ。もしあなたの気づきが明晰で完全ならば、間違いはありえない。


警告あり


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第三のヒロシマ前夜35


─ 道 ─
覚醒は過程ではなく、意思の問題です。


自分が想像できる最高の意識に自分のすべてをゆだねることは、自分のパワー(他人に害を与えず、その人を最大限に生かす行動として現れる、強さや広がりを持った内なる感覚)を捨てることではありません。なぜなら、自分のすべてをゆだねるというのは、自分のパワーと「相手」のパワーとが混ざり合うことだからです。本当は、別々に見えるこれらのパワーは常につながっているのです。あらゆる神なるエネルギーは、すべてをゆだねる行為などがなくとも、はじめからひとつに結びついているのです。


「自分をゆだねる」とは、自分のパワーを誰かに手わたすことではなく、パワーを合わせるということなのです。そうすると、自分が弱くなるのではなく、反対に自分のなかに、はかりしれないほどのパワーがみなぎってくるのが感じられます。人が真の神なるエネルギーに触れた場合は、パワーがドーッとあふれてくることでわかります。



あなたがこれまでに考えたあらゆること、つまりこれまでに空想したあらゆることや、これまでに語ったあらゆることは、もうすでに起こったか、これから起こるのを待っているのだ。そうでなければ、いったいどうやってすべては創造されると思うのか? 思考によって創造されるのである。思考は真に生命を与える者であり、けっして死ぬことはなく、けっして破壊されることもない。そして、あなたは思考を使って、自分自身のことを思うことによって自分に生命をもたらしてきた。というのも、思考は、あなたを神のマインドに結びつけるものだからだ。


もう長い間、さまざまな存在が、謎かけや歌や書物を通して、この真実をあなた方に教えようとしてきた。だが、あなた方のほとんどがこれに気づくことを拒んできた。自分の人生に対する責任という重荷が自分の肩にのしかかってくることを望む者が、ほとんどいなかったからだ。しかし、あなたが考えることはすべて、つまり自分や「父」や人生に対してあなたが持っている態度はすべて、そのとおりになる、というのがこの世界の法則なのだ。あなたが考えることが、最も下劣で醜悪なことであろうと、この上なくすばらしいことであろうと、それらはそのとおりになるのだ。というのも、その違いを知るのはあなただけだからだ。「父」が知るのは生命だけである。それゆえ、あなたは自分が語るとおりのものを得るのだ。あなたは、あなたが考えるとおりのものなのだ。「自分はこうである」と結論を下すものが、あなたなのである。


自分が劣っていると考えれば考えるほど、あなたは実際にそうなっていく。自分にはあまり知性がないと思えば思うほど、あなたはさらに愚かになっていく。自分はあまり美しくはないと考えれば考えるほど、あなたはさらに醜くなっていく。自分は貧しいと思えば思うほど、あなたはどんどんみじめになっていくが、それはあなたが自分でそう定めたからなのだ。


神の愛がどれほど偉大であるか、熟考してみてほしい。その愛によって、あなたは自分の望むどんなものにでもなれ、自分が望むどんなものでも自分で創造することができるのだ。しかも、その愛はあなたに対してけっして価値判断を下さないのである。



マハラジ あなたは床に座っても大丈夫かね? クッションは必要ないかね? 何か尋ねたいことはないだろうか? 尋ねる必要があるというわけではない。静かにしているだけでもいいのだ。在るためには、ただ在ることが重要だ。何を尋ねる必要も、する必要もない。そのような、一見怠惰な時間の過ごし方はインドでは高く評価されているのだ。つまりしばらくの間、あなたは「つぎは何か?」という考えに取りつかれることから解放されるのだ。あなたが急がず不安から自由なとき、マインドは静かになり、沈黙のなかでふだん認識するには微妙で繊細すぎるほどの何かが聞こえてくるかもしれない。マインドは見るために開いていて静かでなければならない。私たちがここで試みていることは、何が実在なのかを理解するために、マインドに正しい状態をもたらすことなのだ。


質問者 どのようにして心配を断ち切ればいいのでしょうか?


マハラジ 心配について心配する必要はない。ただ在りなさい。静かにしようとしなくてもいいのだ。「静かに在る」ということを成し遂げるべき仕事にしてはいけない。「静かに在る」ことについて落ち着きを失ってはいけない。「幸福である」ことについて惨めになってはいけない。ただ、あなたが在るということに気づいていなさい。そして気づきつづけなさい。「はい。私は気づいています。つぎは何でしょうか?」と言ってはならない。「私は在る」のなかに「つぎ」はない。それは時間を超えた状態なのだ。


質問者 それが時間を超えた状態なら、いずれにせよ、それは自らを明らかにするでしょう。


マハラジ あなたは永遠に、あなたであるものだ。だがそれを知り、それにしたがって行為しないかぎり、あなたにとって何の役に立つだろう? あなたの乞食の鉢は純金でできているかもしれない。それでも、それを知らないかぎりあなたは貧者なのだ。あなたは自分の内なる価値を知り、信頼し、欲望と恐れを日々捨て去っていくことで、それを表現していかなければならないのだ。


質問者 もし私が私自身を知れば、欲望や恐れはなくなるのでしょうか?


マハラジ 新たな視野にもかかわらず、しばらくの間は既知なる過去への切望と未知なる未来への恐れという精神的習慣が続くことだろう。それらがただのマインドにすぎないと知ったとき、あなたはそれらを超えていくことができる。あなた自身に関してあらゆる類の観念を持っているかぎり、あなたはあなた自身をそれらの観念を通して知るのだ。あなたをあるがままに知るには、すべての観念を捨て去らなければならない。純粋な水の味を想像することはできない。すべての味を放棄することによってのみ、それを発見することができるのだ。
現在の生き方に興味を持っているかぎり、あなたはそれを放棄しないだろう。なじみのあることにしがみついているかぎり、発見は訪れないだろう。人生の計り知れない悲しみを完全に自覚し、それに対して抵抗するときにのみ、出口は見いだされるのだ。


質問者 今こそ私には、インドの永遠なる生命の秘密がこの存在の次元にあると理解できます。インドはつねにその保管者であったのです。


マハラジ それは開かれた秘密であり、そこにはつねにそれを分かちあう用意のある人びとがいたのだ。教師は数多くいるが、恐れのない弟子はまれだ。


質問者 私には学ぶ用意があります。


マハラジ 言葉を学ぶだけでは充分ではない。あなたは理論を知っているかもしれない。だが非個人として、存在の無条件の中心、愛と至福としてのあなた自身による実際の体験なしには、単なる言語上の知識は不毛なのだ。


質問者 それでは、どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 在ることを試みなさい。ただ在りなさい。重要な言葉は「試みること」だ。一日のなかで、充分な時間を静かに座ることに当てなさい。ただ人格と、その耽溺や妄想を超えていくように試みなさい。どのようにするかを尋ねてはならない。それは説明できないのだ。ただ、成功するまで試みなさい。もっとも重要なことは誠実さ、真剣さだ。あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざりしていなければならないのだ。そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の必要性を見なさい。この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。
結局、人生のあらゆる瞬間においてあなたはあるがままのあなたなのだ。だが、けっしてそれを意識したことがなかった。おそらく眠りから目覚める瞬間を除いては。あなたに必要なことは存在に気づくことだけなのだ。言葉としての表明ではなく、ひとつの常在の事実として。本来のあなたである気づきが、あるがままのあなたへと目を開かせるだろう。それはとてもシンプルなことだ。最初にあなた自身との絶え間ない接触を確立しなさい。すべての祝福は自己覚醒のなかへと注がれる。観察の中心として在ることからはじめなさい。あなたの認識範囲を熟考し、そして行為における愛の中心へと成長していきなさい。「私は在る」はまったく自然に、努力の跡もなく偉大な樹へと生長する小さな種子なのだ。


質問者 私は自分のなかに多くの悪があることがわかります。それを変えるべきではないでしょうか?


マハラジ 悪とは不注意の影なのだ。自己覚醒の光のなかで悪は枯れ果て、落ちていくだろう。
他者への依存はすべて不毛なことだ。なぜなら、他者が与えるものは、他者によって取り去られるからだ。初めからあなた自身のものだけが、最後まであなた自身のものとして残るのだ。内なる導き手だけを受け入れなさい。そしてすべての記憶を捨て去りなさい。なぜなら、それらはあなたを惑わせるからだ。たとえ、あなたがまったく方法や手段について無知であったとしても、静かにしていなさい。そして内側を見なさい。導きはかならずやってくる。つぎの一歩がどうあるべきかを知らないまま、取り残されることはけっしてないだろう。問題は、あなたがそれを避けるかも知れないことだ。グルは、彼の体験と成功からあなたに勇気を与えるためにそこにいる。だが、あなた自身の気づきと努力を通して発見したことだけが、あなたにとって永久に役立つだろう。
何であれあなたが知覚するものは、あなたのものではないということを覚えていなさい。外側から来るものには何の価値もないのだ。あなた自身の感覚と理解だけが有意義であり、ものごとを明らかにするのだ。聞いたり読んだりした言葉はマインドのなかにイメージをつくり出すだけだ。だが、あなたは精神的イメージではない。あなたはイメージの背後とその彼方にある行為と知覚を可能にする力なのだ。


質問者 どうやら、あなたは私にエゴイズムといっていいほど利己主義になれと助言しているようです。私はほかの人びとに興味をもつことさえ許されないのでしょうか?


マハラジ あなたの他者への興味が利己的、自己中心的、自分思考なのだ。あなたは個人としての他者に興味があるのではない。ただ彼らがあなた自身のイメージを豊かに高めるかぎり興味をもつのだ。そして究極的な利己主義とは、自己の身体の保護、維持、そして繁殖だけを気にすることだ。身体ということで、私はあなたの名前と形に関するすべて──あなたの家族、部族、国、人種などを意味している。自己の名前と形に執着することは利己主義なのだ。自分が身体でもマインドでもないと知っている人は、利己的ではありえない。なぜなら、彼は利己的になるための何ものももってはいないからだ。あるいは、彼は出会うすべての人のために、等しく「利己的」であるとも言えるだろう。すべての人の幸福が彼自身のものなのだ。「私は世界だ。世界は私自身だ」という感覚はまったく自然になり、ひとたびそれが確立されたら、けっして利己的であることはない。利己的であることとは、部分が全体に対して欲望し、獲得し、蓄積することを意味しているのだ。


質問者 人は多くの所有物、遺産相続、結婚、あるいは単に幸運から裕福であるかもしれません。


マハラジ もしあなたがそれにしがみつかなければ、それらは取り去られてしまうだろう。


質問者 現在の状態においてあなたはほかの人を個人として愛することができますか?


マハラジ 私がほかの人だ。ほかの人が私なのだ。名前と形において私たちは異なっている。だが、そこに分離はない。存在の根本において、私たちはひとつなのだ。


質問者 人びとの間に愛があるときはいつでもそうなのではありませんか?


マハラジ そうだ。だが、彼らはそれを意識してはいない。彼らは魅力を感じるが、その理由を知らないのだ。


質問者 どうして愛は選択するのでしょうか?


マハラジ 愛は選択しない。欲望が選択するのだ。愛のなかに他者はいない。利己主義の中心がもはやないとき、すべての快楽への欲望と苦痛への恐れはやむ。人はもはや幸福であることに興味を持たなくなる。幸福を超えたところに、純粋で強烈な、無尽蔵のエネルギー、永久に枯渇することのない源から与えることの歓喜があるのだ。


質問者 私は善と悪の問題をまず解決するべきではないでしょうか?


マハラジ 人びとは快いことを善とみなし、苦しいことを悪と見なすのだ。


質問者 ええ、私たち普通の人びとにとってはそのとおりです。しかし、あなたが統合されたレベルから見たときはどうでしょう? あなたにとっては何が善で何が悪なのでしょうか?


マハラジ 苦しみを増長することが悪であり、それを取り除くことは善だ。


質問者 では、苦しみそのものは善ではないと言われるのですね? 苦しみを正しく、高尚なものとして考えている宗教がありますが。


マハラジ カルマ、あるいは運命は有益な法則の表現だ。普遍的なものは均衡、調和、統一に向かう傾向がある。あらゆる瞬間において、何であれ起こっていることは最善のためのものだ。それは苦しいもの、あるいは醜いもの、苦渋に満ち、無意味なものかもしれない。それでも、過去と未来のことを考えれば、それは破滅的な状況からの出口として最善のものなのだ。


質問者 人は自分自身の罪だけのために苦しむのでしょうか?


マハラジ 人は自分自身が何であると考えるかにしたがって苦しむ。あなたが人類とひとつであると感じるならば、あなたは人類とともに苦しむのだ。


質問者 では、宇宙とひとつだと主張しているあなたにとって、時間的にも空間的にも苦しみはかぎりないものなのです!


マハラジ 在ることとは苦しむことなのだ。自己同一化の輪が狭いほど、欲望と恐れによって生じた苦しみはより激しいものとなるのだ。


質問者 キリスト教は苦しみを、浄化し気高くするものとして受け入れています。一方、ヒンドゥー教はそれを毛嫌いしているようです。


マハラジ キリスト教は言葉を構成するひとつの方式であり、ヒンドゥー教はまた別の方式なのだ。実在は言葉の背後に、そしてその彼方にある。それは伝達不可能でありながら直接体験され、マインドに爆発的影響を及ぼすものなのだ。他に何も望むものがないとき、実在は容易に手に入る。非実在は想像によって創造され、欲望によって永続されるのだ。


質問者 必要とされ、善である苦しみというものはないのでしょうか?


マハラジ 偶然に、あるいは不意に起こる苦痛は一時的であり、避けることができない。たとえ最善を考慮した上であっても、意図的に加えられた苦痛は、無意味であり残酷なものだ。


質問者 あなたなら犯罪を罰することはないのでしょうか?


マハラジ 罰は合法化された犯罪でしかない。報復よりも防止をもとに築かれた社会では、犯罪は非常にまれなのだ。不健全なマインドと身体によって起こったようないくつかの例外は、医学的に扱われることだろう。


質問者 どうやら、あなたは宗教を無用だと考えているようですね。


マハラジ 宗教とは何だろうか? 空に浮かぶひとつの雲だ。私は無数の言葉で織りなされた雲のなかにではなく、空のなかに住んでいる。無用な言葉を取り去りなさい。すると何が残るだろうか? 真理が残る。私の家は不変なるもののなかにある。それは対極同士がつねに調和され、統合された状態にある。人びとはそのような状態の実際の体験や、その障害について、そしてひとたび知覚されればそれを意識内に確立する技について学ぶためにここへやってくるのだ。そうすることによって、生きることと理解との間に衝突が起こらないように。その状態自体はマインドを超えており、習う必要はない。マインドは障害に焦点を合わせることができるだけだ。障害を障害として見ることは効果のあることだ。なぜなら、マインドがマインドに働きかけているからだ。
ことの起源からはじめなさい。「あなたは在る」という事実に注意を払いなさい。「私はいない」と言えるときはないのだ。あなたに言えることは、「私は覚えていない」ということだけだ。記憶がいかに頼りにならないものか、あなたも知っているだろう。些細な個人的関心事に没頭して、あなたはあなたが何なのかを忘れてしまったのだ。既知なるものを消し去ることで、失われた記憶を取り戻すように試みなさい。何が起こるのかをあなたに伝えることはできない。またそれは望ましいことではない。期待が幻想を生みだすからだ。内なる探求においては、予期せぬことが起こることは不可避だ。発見は、かならずすべての想像を超えたものなのだ。生まれたばかりの子どもに、誕生した後の人生を知ることができないようなものだ。なぜなら、マインドのなかにそれを形づくるための確かな画像が何もないからだ。同じようにマインドは、「これではない、あれでもない」という否定の言語による以外に、非実在の言語をもって実在について考えることは不可能なのだ。非実在を実在と受け入れることが障害であり、偽りを偽りとして見て、それを放棄することが実在を存在のなかにもたらすのだ。明晰性とかぎりない愛、完全に恐れのない状態。今、これらは単なる言葉、色彩のないただの輪郭、こうありうるというヒントでしかない。あなたは手術の結果、目の見えるようになることを期待している盲目の人のようなものだ。もしあなたが手術を避けさえしなければ! 私が在る状態では、言葉はまったく重要なものではない。また、そこには言葉への耽溺などない。ただ、事実だけが重要なのだ。


質問者 言葉なくして宗教はありえません。


マハラジ 記録された宗教は単なる無用な言葉の山にすぎない。宗教はその真実の顔を行為のなかで、沈黙の行為のなかで示すのだ。人が何を信じているかを知るには、彼の行為を見守るがいい。大半の人びとにとっては、身体とマインドに仕えることが彼らの宗教なのだ。彼らは宗教的理念をもっているかもしれない。だが、それにしたがって行為することはない。彼らはその理念をもてあそぶかもしれない。そして、しばしば非常にその理念を好んでいるかもしれない。それでも、それにしたがって行為することはないだろう。


質問者 言葉は意思伝達のために必要とされます。


マハラジ 確かに、情報の伝達のためには必要だ。だが、人びとの間の真の伝達は言語によるものではない。関係性を確立し維持していくには、直接行動によって表された感情豊かな気づきが要求されるからだ。あなたが何を言うかではなく、何をするかが重要なのだ。言葉はマインドによって作られ、マインドのレベルにおいてのみ意味を持つ。あなたには「パン」という言葉を食べることも、それによって生きることもできない。それは単に概念を伝えるだけなのだ。それは実際に食べることによって意味を獲得する。それと同じ感覚で私はあなたに「普通の状態とは言語上のものではない」と言っているのだ。それは賢明なる愛が行為のなかで表現されたものだとも言えよう。だが、あなたがその豊かさと美を自ら体験しないかぎり、言葉では言い表せないのだ。
言葉にはそれ自体のかぎられた有益性がある。だが、言葉に制限を与えてこなかったことが、私たちを崩壊の淵へと追いやったのだ。私たちの高尚な考えは、不名誉な行為によって絶妙に相殺されてきた。私たちは神、真理、愛について語る。だが、直接の体験の代わりに定義を蓄えてきた。行為を広め、そして深めていく代わりに、定義づけに忙しかったのだ。そして定義できることを、私たちは知っていると想像してきたのだ。


質問者 どのようにして言葉を通さずに体験を伝えることができるのでしょう?


マハラジ 体験は言葉で伝えることができない。それは行為とともに表されるのだ。体験のなかに強烈に在る人は、確信と勇気をまわりに放っている。ほかの人たちも行為し、行為から生まれた体験を得ていくのだ。言語上の教えは、マインドがマインド自体とその蓄積してきたものを取り除き、空にするのを助けるのだ。
一切の外的なものに価値がなくなり、ハートにそのすべてを放棄する用意があるとき、ひとつの霊的な成熟のレベルに到達されたのだ。そのときこそ実在はチャンスを得、それをしっかりとつかむ。もし遅れがあるとしたら、マインドが見ること、あるいは捨て去ることを望まないことが原因なのだ。


質問者 私たちはそれほどまでに孤独なのでしょうか?


マハラジ いいや、そうではない。もっている者たちは与えることができる。そして、そのような与える者たちは多くいる。世界自体が、誠実な犠牲的行為によって支えられている最高の贈り物なのだ。だが賢明で、謙虚な、受け取るにふさわしい人たちはまれだ。「求めよ。さらば与えられん」は永遠の法則なのだ。
あなたはとても多くの言葉を学び、とても多くの言葉を話してきた。あなたはすべてを知っている。だが、あなた自身を知らないのだ。なぜなら、自己が言葉を通して知られることはないからだ。ただ直接の洞察だけが自己を露わにする。内側を見なさい。内側を探求するのだ。


質問者 言葉を放棄するのは本当に難しいことです。私たちの精神的人生は、ひとつの絶え間ない言葉の流れなのです。


マハラジ それはやさしいとか難しいという問題ではない。あなたに選択権はない。試みるか、試みないか。それはあなたにかかっているのだ。


質問者 私は何度も試み、そして失敗してきたのです。


マハラジ もう一度、試みなさい。あなたが試み続けるなら、何かが起こるだろう。試みなければ、あなたは立ち往生するだけだ。あなたはすべての正しい言葉を知り、聖典を引用し、討論において優秀であるかもしれない。しかしそれでも、ただの薄っぺらな人間のままだ。あるいはあなたは目立たない、謙虚な、取るに足りない人かもしれない。それでも愛に満ちた優しさと、深い知恵に輝いているかもしれないのだ。


警告あり



第三のヒロシマ前夜34


フィオラによれば昨年末2017年12月19日に大きい警告として戦争が始まると言われ、2018年新年早々には米軍は北に空爆するという話だったがはずれていた。それどころかトランプ大統領は軍事行動をしたくないかのような発言まで出し始めている。ところがフィオラからは新年が明けてからも(有事の?)被害者数が増し続けていると言われ、それがどういう意味なのか掴めないでいる。トランプは演技なのか? 北を撃つことの大義名分と奇襲のタイミングを整えようとしているのか、それとも本気で中東のために北を放置したくなったのか? もやもやする。


森羅万象いかなる処にもわたしを見
わたしのなかに森羅万象を見る人を
わたしは必ず見ている
彼は常にわたしと共にある

バガヴァッド・ギーター 第6章30節


肉体の目:自分に起こる感情的な反応などを含めてありのままに見ること
思考の目:自分の感情や思考が外界に投影されたもの、自分独自の観点
霊性の目:


思考のレベルで、誰が正しいのかを決めることはできません。ただ言えることは、人はその人でしかあり得ない、ということです。
裁かずに、自己の「投影」に気づいていてください。


霊性の目は時間と距離を超越し、影響を与えます。


マハルシ あなたは純粋意識なのです。グリハスタ・ダルマも世界も純粋意識の上に現れた単なる現象にすぎず、それは影響を受けることなくとどまります。


疑いが誰にとって起こるのかを見なさい。疑う者とは誰でしょうか? 考える者とは誰でしょうか? それは自我です。それをとらえなさい。
自我がどこから立ち現れるのかを見いだしなさい。それが純粋意識なのです。


「私は実現できるだろうか?」という疑いや、「私はまだ実現していない」という感覚自体が障害なのです。

(対話251)


マハルシ ヨーギーは脳の中枢、あるいは千の花弁の蓮と呼ばれるサハスラーラに達することを最重要視しています。
事実は、身体は心の中に存在し、心は脳をその座としています。
その源に直接向かいなさい。借り物の源泉に依存してはならないのです。


集中とは一つのことを考えることではありません。その反対に、それは私たちの真の本性のヴィジョンを妨げるすべての想念を取り除くことなのです。

(対話398)


質問者 どうすればアートマンを見いだせるでしょうか?


マハルシ アートマンの探究ということはありえません。真我ではないものだけが探究の対象となり、それを排除することだけが可能なのです。

(対話78)


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。



愛と希望と喜びを内にはらんだあなた方の大切な魂が、叡智と思いやりの荘厳な花へと開いていく中で、そして見える見えないにかかわらずあらゆる生命を抱き容れる愛の荘厳な花へと開いていく中で、この天界でのあなた方の人生の日々を通して、私はつねにあなた方全員とともにあるだろう。だが、そのような瞬間よりも、あなたが自分の内面に神を見て、神を理解し、神を知る瞬間のほうが、遥かに、遥かに偉大な瞬間なのである。


さて、これまで私は、考えられる限りのあらゆる言い方で、何度も何度も繰り返し、あなたが知り得る最も偉大な真実を語ってきた。その真実とは、「あなたは神である」ということだ。



質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。



第三のヒロシマ前夜33


今年の10大リスク ユーラシアグループ
① China loves a vacuum(力の空白を歓迎する中国)
② Accidents(偶発的な惨事)
③ Global tech cold war(米中ハイテク冷戦)
④ Mexico(メキシコ)
⑤ US-Iran relations(米イラン関係)
⑥ The erosion of institutions(空洞化する体制)
⑦ Protectionism 2.0(進化する保護主義)
以前であれば、保護主義とは輸入関税をかける、数量制限をするといった単純な手口がほとんどであった。それがだんだん巧妙になり、政府補助金や現地部品の調達要請、さらにはハイテク製品のデータを政府に提出させる、といった新手法が使われるようになっている。
⑧ United Kingdom(英国)
⑨ Identity politics in southern Asia(南アジアのアイデンティティ・ポリティクス)
⑩ Africa’s security(アフリカの安全)

Red Herrings: Trump White House, Eurozone, Venezuela(リスクもどき:トランプ政権、ユーロ圏、ベネズエラ)



意見が異なる。金王朝を放置すると、不正義の平和すら維持できなくなる危惧がある。この金王朝の質的な違いを、米国が冷静に見てくれることを望んでいる。己の手を汚さず、誰かの死を望む立場は卑怯極まりないが、それでも北のSLBM体制完成までの時間的猶予がない今は米国の攻撃力に頼るしかない。何度も君主論の「自軍しか頼れないのがこれでわかっただろう?」という言葉がよぎる。後悔しても遅い。


トランプ大統領が北と融和するという判断はまだ早い。気が気ではないがまだ早い。北朝鮮、中国、不愉快な言動の目立つロシア、平和主義の日本はいつのまにか敵だらけになった。それは認めるしかない。慰安婦問題は日本外務省の大失敗だと思う。そもそも謝罪の仕方としておかしかったし、韓国の契約後の反応も現実的に想定できていなかった。結果がこうなった以上、外務省が悪い。韓国の悪さは(日本の被害を最小限にする方策に)関係ないのだ。日本の風評被害が広がり続ける巨大な穴が結果的に開いてしまった。安倍総理は韓国の要求を突っぱねたが、この場合何が勝ちで、何が負けなのかよくよく考えたのかと疑問に思う。気分が塞がるニュースが多い。唯一マトモだと感じたのは、ロブスターを不必要に苦しめないために気絶させてから調理しようという外国の最高裁の判断だった。私もデトックスしたい。


表現の自由は、(政権が恣意的に規定する公益に反するなら)認められない。


自民党 憲法改正草案(2012年)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、
保障する。



前項の規定にかかわらず、
公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、
並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。



検閲は、してはならない。
通信の秘密は、侵してはならない。



自分の望みを物質世界で実現することがじょうずな人は、現実的な目標をたて、状況に応じて柔軟に対応していくことを学んでいます。


柔軟性ということの意味を知りたいなら、風のなかの若木をごらんなさい。幹は細くもろくても、すばらしい強靭さと耐久性をもっています。それは木が風にさからうのではなく、それに合わせて動くからです。


あることの起きる条件が整っていれば、たいした努力なしに実現します。条件が整っていなければ、たいへんな努力をしても実りません。風とともに動くには、現在の条件に対する敏感さがいります。休んで英気をたくわえるときがあり、エネルギッシュに前進するときがあっていいのです。


いつ動き、いつ動くべきでないかは、常識と直感の問題です。抽象的な思考だけでは、ほんとうにものごとを感じとることはできません。抽象思考は、感情の敏感さと結びつくべきです。


ものごとを正確に見極めるには、外的な状況がどんなふうで、どう動いているかだけでなく、自分がその状況にどんな感情を投影しているかも見極めねばなりません。内的現実、外的現実のどちらも視野にいれます。


内的現実が外的現実のそれを決定するのだ、という人がいます。逆だという人もいます。どちらも真実です。ニワトリは、卵がなければ存在しないし、逆もまた真です。原因と結果は直線的に結ばれるものでもないし、こうなればこうなる、と次々ドミノ倒しのようにつながっていくものでもありません。それは同時にあらわれます。本質は円環的なのです。原因が結果を決めるだけでなく、結果も原因を決めます。


「ニワトリか卵か、どちらが先か」という問いに対する答えは、どちらでもあるし、どちらでもない、ということです。ニワトリと卵は同時存在です。「Aか、さもなければAでないか」という問いはすべて同じように答えられます。そうでなければ、その答えはまちがっています。


”至高のリアリティ”とは、AでなければBであるというような二極性の枠ではとらえられません。それは内なる主観的現実と、外なる客観的現実の両方を含み、また両者の自発的な相互作用を含んでいます。


”至高のリアリティ”は、全的な受容、全的な降伏、全的なすべてを受けいれる愛の産物です。そこにふくまれないものはありません。


木が根こそぎひきぬかれ、川に流されたとしても、そこに悲劇はありません。木と川のあいだには、なんの差異もないからです。


”至高のリアリティ”の流れと対照的に、世の中には”抵抗”というものがあり、これがさまざまの条件づけを生みだします。弁別、比較、評価判断が起き、自然の流れが妨げられます。


”至高のリアリティ”の本質は「イエス」と言うことです。それにはもともと陶酔と熱狂がそなわっています。それは、あらゆるものごとを吸収同化します。それは目に見えるようになった幸福です。すべての人、すべてのものを、自分自身とみなすからです。


”抵抗”はつねに「ノー」と言います。それは本来、葛藤や努力をともなっています。あらゆるものに反対しますので、不幸の具現化ともいえます。抵抗がないとき不幸はありません。不幸はつねに、なんらかの条件に対して抵抗します。不幸は、これは良いという解釈、あるいは悪いという解釈の上に立っています。不幸の根とは、執着、こだわりです。


さて、わたしはあらゆる執着を捨てなさいと言っているわけではありません。友よ、それは現実的に達成できるゴールとはいえないでしょう。ただ、自分の執着、ものごとの感じかた、良い悪いという解釈方法に気づきはじめてください。あなたが自分の幸福をいかに条件つきのものにしているかに、気づいてほしいと求めているのです。


無条件というものを理解したければ、風に身をゆする木を見なさい。あれ以上の比喩はありません。木は深く根をはり、がっしりと枝をひろげています。足もとは確固とし、上のほうは柔軟です。それは力強さと、ゆだね、あけわたすことのシンボルです。


柔軟性を人生のあらゆる状況において発揮することによって、あなたもまた同じような力強さを発達させることができます。背筋をのばして立ち、この瞬間に根ざしていてください。自分の欲しているものを知り、しかし、それらをむりやりに求めるのではなく、人生の流れがおのずとそれをかなえてくれることを知りなさい。あなたの欲しいものを、ある方法で手に入れるということに執着してはなりません。それは、不必要な抵抗をもたらします。


風とともに動くのです。人生はダンスです。動きであり、持続です。


あなたの選択は簡潔です。ダンスできるか、できないか。
ダンスをしないことに決めても、ダンスフロアから追い出されるわけではありません。ダンスはあなたのまわりで、くりひろげられ続けています。ダンスは続き、あなたもその一部です。


あらゆる条件は、無条件という状態に対して開かれています。ただ自分をオープンにして、この瞬間の中にいれば、神の腕の中に抱きとめられるでしょう。しかし一瞬でも抵抗すれば、自分で作り出した不必要なもつれに絡まってしまいます。


人間は条件つきの現実(リアリティ)から自由になることはできません。なぜなら、条件つきの現実は、人間の意識が創造したものだからです。自分の創造物から逃げようとするのをやめてください。ただ受けいれるのです。木が風を受けいれるように。あなたの聖性は、完全に人間らしくあること、
自分や他人の欠乏や欲求を完全に受けいれる態勢になることのなかにあります。
深いあわれみの気持ちは、自分を感情的体験から切り離してしまうのでなく、完全にその体験に参加することによってのみ持つことができます。


「ここは苦しみの場所だ、あるいは喜びの場所だ」とは言わないでください。あなたの体験を、実際とはべつのものに仕立てあげないでください。解釈から遠ざかりなさい。解釈は、人生のどちらかいっぽうの極をだけ受けいれるよう、うながすのです。


この世界でのわたしの経験も、あなたがたと同じでした。わたしはあなたがたと同じように、人生のダンスの中へ入ってゆき、理解と受容のなかで成長し、条件づけられた愛から、条件なき愛の経験へと移行してゆきました。愛する兄弟姉妹よ、あなたがたが感じたり経験したりしたもので、わたしが味わわなかったものはありません。わたしはあらゆる欲望と恐怖心を知っています。それらすべてを通りぬけたからです。


わたしもあなたと同じ程度のダンサーです。わたしはそこに参加し学びたいと、喜びいさんで願っただけです。わたしがあなたがたに求めるものも、それだけです。喜びいさんでおこなってください。参加してください。触れ、触れられてください。そのためにこそ、あなたがたはここにいます。


ハートは開くとき、愛に満たされています。奇蹟は、開いているハートに、そしてコントロールしたい、知りたいという欲求をあけわたした心(マインド)に、自然にやってきます。


神の一部であるあなたに、神が供給をさしひかえることはありえません。あなたを分離した別存在として見ることはありません。親が子どもを見るように、ゆるぎない愛と関心をもってあなたを見守ります。


たったいま、この瞬間に、あなたは救われます。覚えておきなさい、友よ。たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい。
「わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」


もし答えが「イエス」なら、あなたはハートに”聖なる存在”のぬくもりを感じます。答えが「ノー」なら、あなたの意識がその”聖なる存在”のことを思い出させ、あなたをそちらへつれてゆきます。


いま現在の瞬間に対してオープンになれると、心と経験の中にある”聖なる存在”に気づく回数も多くなります。この拡大した意識の内部で、あなたという個人の目的も明らかになり、自分と他人にとって最善のことをするにはどうすればよいか、その道も見えてくるでしょう。


ある環境が、あなたの目の前にあらわれてきます。見かけは混乱したものかもしれませんが、あなたはもう、判断をくだすことはありません。あなた自身にも他人にも、もはや不備な点は見いだせません。いまここにある状況に全面的に身をあけわたすようになり、ベストをつくし、自己放棄の力強さのなかにゆったり安らぎます。あなたは結果をますます神の手にゆだねるようになり、贈り物はつねに受けとるにふさわしいものだということがわかります。あなたの贈り物は、つねに十分なものです。


そのときあなたは、わたしのまことの姿を見るでしょう。わたしはそれを確信し、大きな喜びをもって、その瞬間を待ちのぞみます。それは真理の瞬間だからです。それは分離の終わりです。それはあらゆる苦しみの終わりです。


質問者 マインドの最高の力は、理解、知性、そして洞察です。人は三つの身体をもっています。粗大身、微細身、原因身* (プラーナ、マナ、カラナ)です。粗大身は彼の存在を反映し、微細身は知識を、原因身は喜びに満ちた創造性を反映します。もちろん、これらは意識のなかで形成されたものです。しかし、それらは各々の特質をもって、分離しているように見えます。知性(ブッディ)はマインドのなかでの知的能力の反映です。それがマインドを知識あるものにするのです。知性がより優れるほど、知識はより広く、深く、真正になります。ものごとや人を知ること、そして自己を知ることは、すべて知性の機能なのです。最後のものがもっとも重要で、前の二つを含んでいます。自分自身や世界を誤って理解することは、不正な考えや欲望をもたらし、それがまた束縛となります。自己への正しい理解が、幻想である束縛からの解放に欠かせません。これらすべてを理論としては理解できるのですが、実際問題となると、私は状況や人びとへの対応に失敗し、私の不適切な反応が束縛をさらに加えるばかりなのです。人生は私の鈍く、遅い思考にはあまりにも速く進みます。古い習慣がすでに繰り返された後で私は理解するのですが、遅すぎるのです。


* 訳注 粗大身、微細身、原因身
粗大身はストゥーラ・シャリーラと呼ばれ、一番外側の身体、肉体を表す。微細身はスークシュマ・シャリーラと呼ばれ、知的な働きをする身体を表す。原因身はカーラナ・シャリーラと呼ばれ、内面的な身体を表す。ヒンドゥー教の教義においては、これら三つの身体をトリ・シャリーラと呼んでいる。


マハラジ それでは、あなたの問題とは何かね?


質問者 私には知性だけではなく、人生で起こる出来事に即座に対応できる能力が必要なのです。そしてそれが完全に自発的でないかぎり、即座とは言えません。どうすれば、そのような自発性を達成できるのでしょうか?


マハラジ 太陽を引きつけるために鏡にできることは何もない。それはただ輝きつづけるだけだ。マインドが用意できしだい、太陽はそのなかで輝くのだ。


質問者 その光は、真我のものでしょうか、あるいはマインドのものでしょうか?


マハラジ 両方だ。光はそれ自身原因をもたず、変化もしない。マインドが動き、変化するにしたがって、それは色づけされる。それは非常に映画に似ている。光はフィルムのなかにはないが、フィルムが光に色づけをし、それを遮ることによってあたかも動いているように見せるのだ。


質問者 あなたは今、完全な状態に在るのでしょうか?


マハラジ 完全とはマインドが純粋なときの状態だ。状態が純粋であろうと、不純であろうと、何であれ、私はマインドを超えている。気づきが私の本性なのだ。究極的には、私は存在も非存在も超えている。


質問者 あなたの状態に到達するには瞑想が役立つのでしょうか?


マハラジ 瞑想はあなたの束縛を見いだし、それらを緩め、解き、自由にする。もはや何にも執着しなくなったとき、あなたの分の仕事は終わったのだ。残りはあなたのために自然に為される。


質問者 誰によってでしょうか?


マハラジ あなたのマインドを探求させ、ハートが真理を求めるよう促す地点まであなたを連れてきた、その同じ力によってだ。その同じ力があなたを生きさせているのだ。それを生命、あるいは至高なるものと呼ぶがいい。


質問者 同じ力がやがて私を殺すのです。


マハラジ あなたは誕生のとき、存在していなかっただろうか? 死が訪れるときも、存在しているのではないだろうか? つねに存在するその人を見つけだしなさい。そうすれば、あなたの自発的で完全な反応に関する問題も解決するだろう。


質問者 永遠を実現することと、つねに変化しつづける出来事への努力を要しない適切な反応は、二つの異なった別々の問題です。あなたはどうやらその二つをひとつにまとめてしまったようですが、何があなたをそうさせるのですか?


マハラジ 永遠を実現することは永遠、全体、宇宙、そしてそれらを含むすべてになることだ。すべての出来事は全体性の作用であり表現だ。それは根本的に全体との調和のなかに在る。全体性からのすべての反応は正しく、努力なく、即座のものでなくてはならない。さもなければ、正しくはありえない。遅れた反応は誤った反応なのだ。思考、感情、そして行為はひとつにならなければならず、また状況の求めに応じて、同時でなければならない。


質問者 どうすればそうなるのでしょうか?


マハラジ もうすでに言ったはずだ。あなたの誕生時に存在し、あなたの死を観照するその人を見いだしなさい。


質問者 私の父と母でしょうか?


マハラジ そうだ。あなたの父、母、あなたの存在の源だ。問題を解くには、その源にたどり着かなければならない。真我の探求と冷静沈着さという普遍的解決法による問題解決においてのみ、正しい回答が見いだせるのだ。



第三のヒロシマ前夜32


トランプ大統領に関して予想外のことがあった。
1、当初思ったより北朝鮮に適切(破壊をちらつかせて)に対応していること
2、北朝鮮問題が解決しないうちにエルサレム問題を発生させた謎
3、南北会談中は軍事攻撃しないと発言してしまったこと
1は嬉しい誤算だった。私は日本にとっての最善は北のSLBMが複数揃う前に軍事攻撃に踏み切ることだと思っている。
2は正気を疑った。
3は演技なら拍手するが、本気なら1に賭けていた期待が粉々だ。日本は独自に北朝鮮と中国に対する長期対応(具体的には核武装とそのための外交)を迫られる。
いま北に軍事攻撃を仕掛けるということは言うまでもなく最悪級に被害者が出るだろう。だが本当の最悪は、SLBMが複数実戦配備されるまで北を放置することだと思う。
配備されたら、もう状況は動かせない。
日本人を守るのが不確かになるだけではなく、北の被害者を助けることはできなくなり、世界大戦の火種を内在させ、韓国は崩壊する可能性がある。
中国を止めることにも大きなマイナスだ。


マハルシ 何であれ自我が消え去った後に為された行為がアカルマ(無為、無活動)です。

(対話375)



イエシュアは、ただ愛したのだ。それこそが、人類に対する偉大ですばらしい彼の贈り物だった。そして彼は、その愛の源は自分の内面に宿る「父」であり、それはすべての人々の内面に宿る「父」とまったく同じである、ということをはっきりと公言していたのである。すべての人類を抱き容れることができるほどの自由と力をイエシュアに与えたのは、自分と「父」がひとつであり、同じものであることを知っていたという事実である。



質問者 あなたは、数多くの自称グルがいるが、真のグルは非常にまれだと言われました。自らを真我を実現したと想像している多くのジニャーニ(知者)がいます。しかし、彼らがもっているのは本からの知識と高い自己評価だけです。ときおり、彼らは人びとに感銘を与え、魅了し、弟子を引きつけます。そして役に立たない修練によって彼らの時間を浪費させるのです。何年かたって弟子が自分自身を評価したとき、何の変化もなかったことを見いだし、彼が師に不平を訴えると、努力が足りないのだという通常の叱責を受けるのです。責任は弟子のハートの愛と信頼の欠如にあると非難されます。ところが実際には弟子を受け入れ、彼らの希望を向上させようとしないグルのほうに責任があるのです。そのようなグルからどうやって自分を守るのでしょうか?


マハラジ なぜそれほどまで他者に関心をもつのかね? グルが誰であろうとも、もし彼が良き信仰のもとに行為し、純粋なハートをもっているなら、弟子たちに何の害も与えることはないだろう。もし何の進展も見られないのなら、過失は弟子のほうにあるのだ。彼らの怠惰と自己制御の欠如がそれだ。一方、もし弟子が誠実で、サーダナ(修練)に対して知的で、熱心に取り組んでいるなら、彼はもっと遠くへ彼を連れていける、より適格な師にかならず出会うことになる。あなたの質問は三つの偽りの仮定から出てきたものだ。そのひとつ目は、人は他者との関わりを必要とするということ。二つ目は、人はほかの人を評価できるということ。三つ目は、弟子の進歩はグルの仕事であり、責任であるということだ。実際には、グルの役割とはただ指導し、勇気づけることだけなのだ。弟子は完全に彼自身に責任があるのだ。


質問者 私たちはグルへの完全な明け渡しがあれば充分であり、残りはグルがするだろうと聞いてきました。


マハラジ もちろん、完全な明け渡しがあれば、自己の過去、現在、未来と、身体的、そして霊的安全性や地位に関するすべての完全な放棄があれば、豊かな愛と美にあふれた新たな人生の夜明けはやってくる。そうすればグルは重要ではない。なぜなら、弟子は自己を守る殻を破ったからだ。完全な自己放棄そのものが解放なのだ。


質問者 弟子と師の両方が不適切な場合は何が起こるのでしょうか?


マハラジ 長期にわたってみれば、すべては適切になるだろう。結局、双方の真我は、しばらくの間彼らが演じたコメディーによる影響を受けはしないのだ。すぐに彼らは冷静になり、成熟し、関係性のより高いレベルへと移行していくだろう。


質問者 あるいは、彼らは別れていくでしょう。


マハラジ そうだ。彼らは別れるかもしれない。結局、いかなる関係性も永遠ではないのだ。二元性は一時的な状態だ。


質問者 私があなたに出会ったのは偶然であり、別の偶然によって私たちは別れ、けっしてふたたび出会うことはないのでしょうか? あるいは、あなたとの出会いはある宇宙的なパターンの一部分であり、私たちの人生の偉大なドラマの一コマなのでしょうか?


マハラジ 実在は意味深く、意味深いことが実在と関係するのだ。もし私たちの関係が私とあなたにとって意味深いものであれば、それは偶然ではありえない。過去がそうであるように、未来もまた現在に影響をあたえるのだ。


質問者 誰が真の聖者であり、誰がそうではないのかを、どうしたら見極めることができるのでしょうか?


マハラジ 人のハートへの明晰な洞察をもたないかぎり、あなたに見極めることはできない。外見はあてにならないのだ。明白に見るためには、あなたのマインドが純粋で無執着でなければならない。自分自身を知らないかぎり、どうして他者を知ることができるだろう? そして、あなた自身を知るとき、あなたが他者なのだ。
しばらく他者のことは後回しにして、まず自分自身を調べなさい。あなたが何なのか、誰なのか、どうして生まれることになったのか、今、何をなぜしているのか、あなたはどこへ行くのか、あなたの人生と死、そして未来にはどのような意味と目的があるのか? あなたに過去があるのか、未来があるのか? あなたの全存在が幸福と平和のために闘っているというのに、どうして苦しみと悲しみのなかに生きるようになったのか? これらのことが重要な問題であり、最初に留意しなければならないことだ。あなたには、誰がジニャーニであり、誰がそうではないのかを見つけだす時間もなければ、必要もないのだ。


質問者 私は正しくグルを選択しなければなりません。


マハラジ 正しい人でありなさい。そうすれば正しいグルがかならずあなたを探しだすだろう。


質問者 あなたは私の質問に答えていません。どのようにして正しいグルを見いだすのでしょうか?


マハラジ だが、私は質問に答えたのだ。グルを探してはならない。考えさえしてはならない。あなたの目的をあなたのグルとしなさい。結局のところ、グルとは終焉そのものではなく、終焉への道なのだ。あなたにとって重要なのは彼ではなく、何を彼から期待するかだ。さて、あなたは何を期待しているのだろうか?


質問者 彼の恩寵によって、幸福に、力強く、平和になることです。


マハラジ なんという野望だろう! どうして時間と空間に限定された単なる「身体─精神」であり、誕生と死の狭間で苦痛に喘いでいるひとりの個人が幸福になれるというのだろうか? 個人が現れるその条件自体が幸福を不可能にしているのだ。平和、力、幸福。これらはけっして個人的な状態ではない。誰も「私の平和」「私の力」と言うことはできない。なぜなら、「私のもの」とは除外を暗示しているからだ。それはこわれやすく、はかないものなのだ。


質問者 私が知っているのは、私の条件づけられた存在だけで、ほかには何もありません。


マハラジ もちろん、そうとは言えない。深い眠りのなかでは、あなたは条件づけられていなかったのだ。どんなにあなたは喜んで、進んで眠りにつくことか、どんなに眠りのなかで平安で、自由で、幸福であることか!


質問者 私はそのことをまったく知らないのです。


マハラジ それを否定的に表現してみなさい。あなたが眠っているとき、そこには苦痛も、束縛も、落ち着きのなさもないのだ。


質問者 私にはその要点が理解できます。目覚めている間、私は私が在ることを知っています。しかし、私は幸福ではありません。眠りのなかで、私は在り、幸福です。しかし、それを私は知らないのです。私に必要なことは、私が自由で、幸福だと知ることなのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。今、深く内側に入っていきなさい。目覚めた眠りと言える状態のなかへ入っていきなさい。世界に気づくのではなく、自分自身に気づいている状態のなかへと入っていきなさい。その状態のなかで、あなたは疑いの余地もなく、存在の根底では自由で幸福なのだと知るだろう。唯一の困難は、あなたが体験に耽溺し、記憶を大切そうに抱えていることだ。実際には、その反対なのだ。思い出されたことは、けっして実在ではなく、実在は今あるのだ。


質問者 言葉の上ではすべて理解できますが、私自身の一部分にならないのです。それはマインドのなかで見られるための絵としてとどまるのです。その絵に命を与えるのはグルの役目ではないのでしょうか?


マハラジ またしてもその反対なのだ。絵は生きている。死んでいるのはマインドなのだ。マインドが言葉とイメージでできているように、マインドのなかのあらゆる反映もまたそうなのだ。それは言語化することで実在を覆い隠しておいて、それから不平を言うのだ。あなたはあなたに奇跡を起こすためにグルが必要だと言う。あなたは言葉で戯れているだけだ。ロウソクと炎のように、グルと弟子はひとつの単一体なのだ。弟子が誠実でないかぎり、彼を弟子と呼ぶことはできない。グルがまったくの愛であり、献身的でないかぎり、彼をグルと呼ぶことはできない。偽りではなく、ただ実在だけが実在を生みだすことができるのだ。


質問者 私には、わたしが偽りであることがわかります。誰が私を真実にしてくれるのでしょうか?


マハラジ あなたが言ったその言葉自体がそれをするだろう。「私には、私が偽りであることがわかる」というその言葉が、あなたの解放に必要な全てを含んでいるのだ。それについて熟考しなさい。そのなかへと深く入っていきなさい。その根源まで行きなさい。それが働きだすだろう。力は人のなかにではなく、言葉のなかにあるのだ。


質問者 私はあなたを完全に理解していません。一方では、あなたはグルが必要だと言い、他方ではグルは助言だけを与え、努力は私のものだと言います。どうか、はっきりおっしゃってください。グルなしに、真我は実現できるのでしょうか、それとも、真のグルを見いだすことは本質的なことなのでしょうか?


マハラジ それ以上に本質的なことは、真の弟子を見つけることだ。私を信じなさい。真の弟子は非常にまれなのだ。なぜなら、自己を見いだすことによって、すぐさま彼はグルの必要性を超えるからだ。あなたの得た助言が知識からのものなのか、それとも有効な体験からなのかを見定めようとすることで時間を浪費してはならない。ただ誠実に助言にしたがうがいい。もしほかのグルが必要なら、人生があなたにもたらすだろう。あるいは、人生はあなたから外側の導きすべてを奪い取り、あなた自身の光にあなたを置き去りにするかもしれない。個人としてのグルではなく、教えが重要だと理解することは非常に重要なことなのだ。
あなたを笑わせたり、泣かせたりするような手紙を受け取ったとしよう。あなたを笑わせたり、泣かせたりするのは郵便配達人ではない。グルはあなたの真我に関する良き知らせを告げ、そこへの帰り道を示すだけだ。だが、メッセージはひとつだけだ。「あなたとして在りなさい」というものだ。あるいは違う言い方をすれば、あなたが真我を実現するまでは、誰が真のグルかを知ることはできないのだ。あなたが実現したとき、すべてのグルたちがあなたの実現に貢献したのだと知ることだろう。あなたの真我の実現が、グルが本物だったことを証明する。それゆえ、彼をあるがままに受け入れなさい。彼が言うことを、熱意と誠実さをもって行ないなさい。そして、もし何かが間違っているようなら、あなたのハートが警告することを信頼しなさい。もし疑いが起こったなら、それと闘ってはいけない。疑いのないことを手放してはいけない。そして疑わしいことは放っておくがいい。


質問者 私にはグルがいて、彼のことをとても愛しています。しかし、彼が私の本当のグルかどうか、私にはわかりません。


マハラジ あなた自身を見守りなさい。もしあなたが変わっていき、成長していくなら、あなたは正しい人を見いだしたのだ。彼は美しいかもしれないし、醜いかもしれない。快いかも、不快かもしれない。あなたを褒めるかも、叱るかもしれない。内的な成長以外は何ひとつ問題ではないのだ。もしそうでないのなら、彼は多分あなたの友人かもしれない。だが、あなたのグルではないのだ。


質問者 私が学歴のある西洋人と出会い、グルや彼の教えについて語ると、彼は、「そんな無意味なことを教える人は狂っているに違いない」と言うのです。彼に何といえばいいのでしょうか?


マハラジ  彼を彼自身に直面させるがいい。彼がどれほど彼自身について知らないかを見せるがいい。いかに彼が彼自身についてのもっとも馬鹿げた表明を神聖な真理と見なしているかを。彼は身体であり、生まれ、そして死に、両親をもち、義務をもっていると人から言われてきた。彼はほかの者たちが学ぶことを学び、ほかの者たちが恐れることを恐れているのだ。完全に、記憶によって生き、習慣によって行動する、伝統と社会の創造物なのだ。彼は彼自身の真の関心について無知で、偽りの目的を追求し、つねに欲求不満をつのらせている。彼の生と死は無意味で苦痛に満ち、そこに出口はないかのようだ。それから彼に言うがいい。出口は彼の手の届くところにあるのだと。それは別の一式の観念に転向するのではなく、一切の観念と生き方のパターンから解放されることだ。グルや弟子については、語ってはならない。このような考え方は彼のためにふさわしくない。内なる道が彼のものだ。彼は内なる衝動によって突き動かされ、内なる光によって導かれてきたのだ。彼が反抗するように誘いなさい。そうすれば反応するだろう。誰それが賢者であり、グルとして受け入れられるなどと、彼に印象づけることはやめなさい。彼は彼自身を信頼しないかぎり、他者を信頼することもできないのだ。そして確信は体験とともにやってくるだろう。


質問者 何と奇妙なのでしょうか! 私にはグルなしの人生など考えられません。


マハラジ それは気質の問題なのだ。あなたもまた正しいのだ。あなたにとっては、神を讃えて歌うことで充分だ。真我の実現への欲望をもつことさえ、サーダナ(修練)をすることさえ必要ない。神の名前があなたに必要なすべての食事なのだ。それによって生きるがいい。


質問者 このわずかばかりの言葉の絶え間ない繰り返しは、ある種の狂気ではありませんか?


マハラジ それは狂気だ。だが、意図された狂気なのだ。すべての繰り返しはタマス(受動性)だ。だが、神の名を復唱することは、その高い目的ゆえにサットヴァ─タマスなのだ。サットヴァ(純粋性)の存在ゆえにタマスは尽き果て、そして完全な冷静さ、無執着、放棄、超然、普遍性の形を取るだろう。タマスは確固たる土台となり、その上に統合された人生が生きられるのだ。


質問者 不変なるもの──それは死ぬのでしょうか?


マハラジ 変わりゆくものが死ぬのだ。不変なるものは生きも死にもしない。それは生と死の永遠の観照者なのだ。それが死ぬとは言えない。なぜなら、それは気づいているからだ。それが生きているとも言えない。なぜなら、それは変化しないからだ。それはテープ・レコーダーのようなものだ。すべてひとりで記録し、再生する。あなたはただ聞くだけだ。同じように、私はあなたに話していることも含めた起こることすべてを見守っている。話をしているのは私ではなく、マインドのなかに言葉が現れ、それから、それらが語られているのを聞くのだ。


質問者 誰もがそうなのではありませんか?


マハラジ 誰が違うと言ったかね? だが、あなたはあなたが考え、あなたが話すと主張するのだ。一方、私にとっては、そこに考えることと話すことがあるだけだ。


質問者 二つの考慮すべきことがあります。私がグルを見つけたか、あるいは見つけていないかです。それぞれの場合、するべき正しいこととは何なのでしょうか?


マハラジ あなたはけっしてグルなしでいることはない。なぜなら、彼は永遠にあなたのハートのなかに存在しているからだ。ときどき、彼は彼自身を母、妻、教師として具現させ、あなたの人生の高揚と改善の要因としてあなたのもとにやってくる。あるいは彼は公正さと完成への内なる衝動としてとどまるかもしれない。あなたがするべきことは、彼にしたがい、彼の言うことを為すだけだ。彼があなたにしてほしいことはシンプルだ。自己覚醒、自己制御、自己放棄を学ぶことだ。それは厳しく見えるかもしれない。だが、もしあなたが誠実ならば、それはたやすい。そして、もしあなたが誠実でなければ、まったく不可能だ。誠実さが必要であり、またそれで充分だ。すべては誠実さに道を譲るのだ。


質問者 何が人を誠実にするのでしょうか?


マハラジ 慈悲が誠実さの土台だ。あなたと他者に対する慈悲、あなた自身と他者の苦しみから生まれた慈悲だ。


質問者 誠実になるために私は苦しまなければならないのでしょうか?


マハラジ もしあなたが感じやすく、仏陀がしたように他者の苦しみに反応するなら、その必要はない。だが、もしあなたが冷淡で哀れみがないなら、あなた自身の苦しみがあなたに避けがたい質問を尋ねるようにさせるだろう。


質問者 私は自分自身が苦しんでいることに気づいています。しかし、充分ではありません。人生は不快なものですが、耐えられないほどではないのです。私のわずかな快楽は小さな苦痛の埋め合わせをし、全体的に見て、私は私の知っている人たちよりも暮らし向きがいいのです。私の状況が不確実なものだということは知っています。災難がいつ襲いかかっても不思議はないからです。危機が私を真理への道へ導くのを待つべきなのでしょうか?


マハラジ あなたの状況がいかに壊れやすいかを見た瞬間、あなたはすでに注意しているのだ。だから気づいていなさい。注意を払い、尋ね、調べ、マインドと身体の過ちを発見し、それらを放棄しなさい。


質問者 そのエネルギーはどこから来るのでしょうか? 私は燃えさかる家のなかで麻痺した人のようです。


マハラジ 麻痺している人でさえ、ときには自分の足が危険に直面していることに気づくのだ! だが、あなたは麻痺していない。ただ想像しているだけだ。第一歩を踏みだしなさい。そうすればあなたは進んでいくだろう。


質問者 私はあまりにも強く身体にしがみついているため、「私が身体だ」という観念をあきらめることができません。身体が存続するかぎり、それは私にしがみつくでしょう。生きている間は、真我実現は不可能だと主張する人びとがいます。私は彼らに同意したい気分なのです。


マハラジ あなたは賛成、あるいは反対する前に、どうして身体という観念自体を調べないのだろうか? マインドは身体のなかに現れるのだろうか、それとも、マインドのなかに身体が現れるのだろうか? もちろん、そこには「私は身体だ」と考えるマインドがなければならない。マインドなしの身体は「私の身体」ではありえない。マインドが停止しているとき、「私は身体だ」という観念は必ず不在だ。マインドが思考と感情に深く没頭しているときもまた、それは不在なのだ。ひとたびあなたが、身体はマインドに依存し、マインドは意識に依存し、意識は気づきに依存していることを、そしてその反対ではないことを自覚すれば、死が訪れるまで真我の実現を待つというあなたの疑問に答えられたのだ。まず、あなたが「私は身体だ」という観念から自由にならなければならず、それから真我を実現するのではない。それは間違いなくその反対だ。真実を知らないから、あなたは偽りにしがみつくのだ。完全性ではなく、誠実さが真我の実現の必須条件なのだ。徳や力は真我の実現とともに現れる。それ以前ではないのだ。



いますぐ状況を変えなければなりません。設問に対する答え方が違うのです。あなたは分母ですか、分子ですか? 警告しているとおり、予想される被害者数が増大し続けています。Fiora


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