今日の伊勢白山道さんの納豆の記事はすばらしかったです。
フィオラは糸を身につける纏(まとい)だと言っていました。
糸とは意図。人間の限られた意図ではありません。
(天に満ちる)御意図という糸です。ぐるぐる巻きになって、蚕のようになって、人はそれぞれ発酵するときがくるんでしょうか。
御意図でぐるぐる巻きになるには、「きっかけ」があるんですね。
それまでは、人間の意図がすべてだと思いあがっているときが誰にだってあるんじゃないでしょうか。n050015

火の七日間 100秒に対処しなければならないのは現実
残り100秒となった終末時計のことを軽視する意見は溢れていますが、昭和の初めの頃に後の日本の姿を想像できていた人が何人いたか考えてみれば
火種が火になるのは一瞬で、そのときには悪い夢でも見ているような気になるはずです。
火種の種類が二次大戦のときよりも多いことも昭和初期とかぶる今のうちから冷静に見なければなりません。n

あってはならない感情はない
鬼(の仮面)と同化する人はいるけれど、誰もにその可能性があるけれど、
鬼(の仮面)を見つめ、それと自分との距離を見つめていることが大切だと感じます。
自分のなかの鬼を見つめる人は「距離」を自覚できます。
鬼を見ようとしない人が「(責任に無自覚な)真の意味でアブナイ人」なのだと思います。
何よりもまず、己にも、己の感情にも居場所を与え、認めることが大切ではないでしょうか。n

シナリオのすべての側面に神がいます
生前に自分と自分の属する霊団が共同で立案した計画書(人生の台本)は寿命のそのときまでに何を(神のために)「体験する」かを環境因子だけ選択したものです。
環境因子だけ選ぶというのは、父親と母親の精神構造とほんとう(魂)の計画は掴んだ上で彼らを自分の親として生前に選択するものの、いざ誕生後に彼らが「虐待」を行うようになるかどうかはまったく決まっていないということです。それを決めるのは親側のたったいまの意思決定です。大体どういうパターンを辿りやすい人かは事前にわかっていますが、最高を選ぶか、最悪を選ぶか、その中間の混合か、(登場は予定されていた)役者の実際の演技は日々変動します。
スーパーコンピューターも真っ青の計算が可能なのは、向こうでは1ページ目と4635ページ目が同時に並行的に理解できるからです。1ページ分の読解労力で、本の全体像が頭に入るのです。そういう意味で、時間とはパーティション(区切られた区画)の中でのみの物事の見え方のことです。
向こうでは知覚力は脳の力、脳力に制限されることがありません。n
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Fiora & nobody