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現在の126代天皇陛下のこと
私はそれまで皇室のことを何とも思っていなかったのですが(日本に必要だとは思っていましたが)、令和のことをフィオラに説明されるうちに考えが180度変わりました。
今上(きんじょう)天皇陛下は日本が革新を迎える最後のチャンスであるこの令和において、要になる役職だそうです。逆に上皇陛下のことは何も言及されていません。
国民には説明されていない、明かされていない役割を伝統的に継いでいらっしゃるのかもしれません。
霊的な力がまったく働いていない状態で、世界最長の皇室が続くのも不自然です。
要は今上天皇陛下ですが、現在の「皇室」全体も重要だそうです。
どういう理由があっても守護しないと、日本の未来は真っ暗になるようです。それもあって極限まで中国を警戒しています。
イタリア人のフィオラがそういうのですから、多分そうなんだろうとそのまま受け取っています。
日本国を昔々につくりあげた最初の時点で、向こう側との取り決めなども大いに含んだ制度だったのかもしれませんね。n140028






日本古典の中で老若男女を問わず誰も知っている作品といえば「平家物語」。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」という有名なフレーズを学校で暗記させられた人も多いはずです。単に古典作品としてだけでなく組織興亡の写し絵として読まれることも多くなった「平家物語」ですが、「ハブ(中心軸)」「光と闇」といった概念を使って一歩深く読み解くと、現代社会を生き抜くヒントの宝庫となります。


「平家物語」は、鎌倉時代に成立したとされる軍記物。元々武士階級だった平家ですが、平忠盛が寺社を寄進したことを契機に昇殿を許され繁栄への階段を駆けのぼります。後継者・清盛は着々と天皇家との姻戚関係を結び、国家の人事権をほしいままにするまでに。最初は平家の力を利用していた後白河法皇は、平家の増長ぶりに怒りクーデターを起こしますが失敗し、最終的には幽閉されます。天下をわがものにしたかに見えた平家一門ですが、清盛の病死によって坂を転がり落ちるように没落していきます。そこには、繁栄への驕り、源氏勢力台頭の軽視、天地自然の流れの見誤りがありました。平家は、京を追われ、浮草のように西国や瀬戸内海を漂い、やがて壇ノ浦へと追い詰められ、源氏との最後の海戦を挑むのでした。


平家の栄華と没落のすべてを描きつくした「平家物語」ですが、平家一門や彼らと対立する人々が、一族や組織の存亡を賭けてしのぎを削る姿には、「人間関係の築き方」「組織興亡の分かれ道」「失敗から学ぶべきこと」等々…今を生き抜く上で貴重な教訓にあふれています。また、興亡を分けるのは、天の利、地の利、時の利など、さまざまな要因を見定めることが重要だということも教えてくれます。


なぜ平家は短期間に歴史の表舞台へと躍り出ることができたのか。貴族階級を中心に安定した秩序を保ってきた平安期だが、天皇家、宗教界、武士階級、庶民階級と、各勢力が著しく力を蓄え、力の均衡が崩れつつあった。「平家物語」を読み進めていくと、各勢力すべてをつなぐハブ(中心軸)の位置を平家がになおうとしていたことがわかる。彼らは各勢力の中心を占め全体を動かす主導権を握ることで勢力を拡大していったのだ。平家がその際に利用したのは貴族がもちえなかった「闇の力」だった。


各勢力のハブとして繁栄を築いた平家。しかし、絶頂にあるおごりから、自らこの関係を崩していく。福原遷都だ。勢力均衡の要の役割を切断してしまうことで、平家は自分たちを支えた「闇の力」を失っていく。逆に、源氏は、地の利、天の利を見事に使いこなし、富士川の戦いでは戦わずして平家を追い払うことに成功する。かつて平家を有利にした「闇の力」は、いまや源氏のものとなった。遷都の失敗を悟った平家一門は再び京に戻るが、追い打ちをかけるようにリーダーの平清盛が病死する。


『平家物語』には物語の異なるバージョンが多く存在し、それらは大きく「語り本系」と「読み本系」の二系統に分かれます。現在、私たちが主に目にするのは語り本系の『平家物語』で、盲目の琵琶法師(びわほうし)が琵琶を弾きながら人々に「語って聴かせた」物語の系統です。物語を目で読むのではなく、耳で聴く。これは『平家物語』の大きな特徴です。聴き手にはさまざまな階層の人たちがいましたが、中世から近世にかけて、主な聴き手は武士でした。


能という芸能は『平家物語』から多大な影響を受けています。能の演目には、『敦盛』『俊寛』『巴』『八島』など、『平家物語』に材を取ったものが八十曲以上もありますし、能を大成した世阿弥(ぜあみ)は、『平家物語』は文章がすばらしいので、源平の名将を主人公とする能を書くときには「平家の物語のままに書くべし」と言っています。さらに、『平家物語』と能は、戦いで命を落とした人や、この世に思いを残して死んでいった人の霊を鎮魂するという、共通の役割を持つ芸能でもあります。


実感したのは、「鎮魂」の意味についてです。それまで「鎮魂」と言うと、平家の人々などの死者の魂を慰めるだけだと思っていました。しかし、それは生きている私たちの魂をも鎮めるものだったのです。


以前、ある心理学者が言っていましたが、普段は思い出さないような過去をそのままにしておくと、あるときその思い出が自分に押し寄せて自分の人生を駄目にすることがあるそうです。たとえば、突然やる気がなくなったり、急に仕事を辞めたくなったり。私たちは、いまを生きるために過去の自分をどんどん切り捨てています。切って、捨てて、殺した自分がいる。その切った自分、捨てた自分が、能を観ているときにふっと出てくるのです。その衝撃が激しすぎる場合に、おそらく起きていることが不可能になって、寝てしまいます。よく言われる、能を観ると眠くなるという現象が起こる。その場合は寝てしまっていいと思うのです。そして、目が覚めると不思議とスッキリしている。これは、切り捨てた自分の魂が鎮められたのではないか。これこそ現代における鎮魂なのではないのか。現代人が能を観る意味のひとつがそこにある、そう思いました。


おそらく、中世以降に『平家物語』を聴いていた武将たちは、自らも人を殺してきた。そして平家の物語を聴きながら、平家の死者が、自分が殺した敵に重なり、さらには切って捨てた自分の過去とも重なり、心の中でその霊を鎮魂したのではないか。能を観ながら私はそう思ったのです。


『平家物語』で描かれる組織衰退のキーワードのひとつは「驕り(おごり)」です。なぜ人は驕ってしまうのか。なぜそれが組織衰亡につながるのか。



衰亡の方程式


新たな勢力として京を脅かす木曾義仲。平家一門は、宗盛の判断で、京を捨て瀬戸内海を漂う流浪の民と化す。一方、入京した義仲は礼儀や教養が一切なく他勢力の信頼が全く得られない。部下たちの乱暴狼藉も重なり人心は義仲から離れていく。後白河法皇は新たなハブとして源頼朝を征夷大将軍に任命、義仲討伐を果たさせる。義仲と平家の衰亡は、合わせ鏡のように組織が衰亡していく原因を炙り出していく。


いい人だけど判断力ゼロの上司。その場その場で態度を変える調子のいい人。肝心な時に取り乱したり逃げたりで終始かっこわるい人。有能だけど突っ走りすぎちゃう人・・・。
いるいる! って大盛り上がり間違いなしです。


一の谷、屋島の戦いと次々に敗退し、平家一門は最後の決戦上、壇ノ浦へと追い詰められる。そこでは個々の人々の最期が克明に描かれる。八歳の若さにして悲劇の死を遂げる安徳天皇、優柔不断と親子の情愛により生捕にされた宗盛父子、全てを俯瞰し洞察していたが何もできず「見るべき程の事は見つ」といって自害する知盛。それぞれの最期は、平家一門の中に必要だったが生かすことができなかった大事なものを浮き彫りにする。そして「平家物語」は、そんな死者たちの姿を克明に描くことで彼らの魂を鎮めようとする物語だということも見えてくる。


安田さんの語りの特徴は、一言でいうと、「リズム」と「身体性」。安田さんの語りの流れの中に身をゆだねていると、音や触感、映像といったものが、受け手の身体性を通じて立ち上がってくる。もちろん概念的な解説もしてくださっているのですが、こうした特徴ゆえに、聞いている人の脳内に登場人物たちの生き生きとした姿が動き出し、「語りの空間」「想像の空間」が立ち上がっていきます。


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