
いつか死ぬのは変わらないです。みんな平等です。
でも平等じゃないのは、そのときが訪れたときに、ふと振り返ってみて、
いままでの一日一日に、一人一人に、一つ一つの顔に、道端に落ちている何かに、どういう想いを向けてきたかの通算が平等ではないです。
機会は平等だったけれども、結果に平等はありません。それは自業自得です。
誤魔化しなんて効くわけないです。
そんなに高性能のカメラや集音器、ドローンが存在することを教える教育機関なんてないですから。
後で知らされ、後で思い出すんです。
全部撮影されていたことを。
一日一日に向けた想いや、一人一人に向けた想いが、他ならぬ自分の選択だったことを。
別のことを選べたかどうか自問自答してみればすぐに明らかになるのは、選択の主体は自分だったので、人や環境のせいにはできないということです。
雑という言葉がありますが、
世界がよくできてることに気づかないのは、
自分の目や注意が雑なんです。生きている内に気づかないとこれらは無意味です。
私はよく覚えているんですが、フィオラに
「なんでアンタ今日生きていることを神に感謝したいと自分から思えないの?」と言われました。はぁ? と思って、なんでってなんでだろう? 自分でもなぜ感謝したいと思えないのかはよくわからなかったです。
一つ一つの選択権がどれほどありがたいことか、実感が少なかったからだといまは思います。
生きていられることが、いつ死ぬかわからないぐらいの状態で明日を迎えられることのありがたさに気づいていないからです。
大切な人にありがとうございましたという機会、心の底からごめんなさいという機会がどれほどありがたいか実感していないからです。
それは自分が雑だということなんです。n150026

1974年に日本でアニメーション化され、今なお圧倒的な人気を誇る「アルプスの少女ハイジ」。スイスの作家、ヨハンナ・シュピリ(1827 – 1901)が1880年に執筆した児童文学の傑作ですが、日本ではアニメ作品があまりにも有名であるが故に、原作に触れる機会が著しく少ないといわれています。ところが、原作には、かつて傭兵として殺人も犯したことがあるおじいさんの心の闇、成長したハイジが発する宗教的ともいえる奥深い思想、クララの医師クラッセンの深い喪失体験と再生など、アニメ作品では割愛された、優れて文学的な要素がたくさん盛り込まれています。
孤児となり叔母デーテに育てられたハイジは、やっかいばらいのようにしてアルムの山小屋にひきこもるおじいさんの元へあずけられます。暗い過去をもち人間嫌いとなり果てていたおじいさんは、当初こそ心を閉ざしていましたが、天真爛漫に明るさをふりまくハイジに魅了され心をほどいていきます。しかし蜜月は長くは続きませんでした。デーテの身勝手によってハイジはフランクフルトに連れ去られ、おじいさんから引き離されてしまいます。足の不自由な良家の少女クララ・ゼーゼマンの話し相手を申しつかるハイジは、彼女と友情を育んでいきますが、執事ロッテンマイヤーの厳しい躾やアルムの大自然とはかけ離れた過酷な都市の環境は、やがてハイジを心の病へと追い込んでいきます。果たしてハイジの運命は?
人は「心の闇」とどう向き合っていけばよいのか、人間にとって本当の豊かさとは何か、真の家族のあり方とはどんなものなのか……といった人間誰しもがぶつかる問題を、あらためて深く考えさせてくれるのがこの作品なのです。
心の中に深い闇を抱え、アルムの山小屋にひきこもるおじいさんの元にあずけられることになったハイジ。最初は心を閉ざしていたおじいさんだったが、ハイジの天真爛漫さに触れ少しずつ心をほどいていく。ハイジ自身も大自然の中で、瑞々しい感受性を育んでいく。その成長物語には、「子どもの眼を失ってしまった大人たち」に対するメッセージとして、子どもがもつ豊かな可能性やそれを育む大自然の豊かさを訴えるシュピリの深い思想性がうかがえる。

山で幸せに暮らしていたハイジだが、叔母デーテの身勝手さからフランクフルトに連れ去られてしまう。ハイジを待っていたのは足が不自由なお金持ちの娘クララ。病弱な彼女のよき友人となるよう申しつけられるハイジだったが、執事の厳しい躾や都市の過酷な環境は、豊かな心をもったハイジをがんじがらめにし、追い詰めていく。その一方でハイジはクララのおばあさんに文字や文化の素晴らしさを教えてもらう。ハイジは、都市文明から、厳しい抑圧と新たな豊かさという二つの影響を被る。そこには文明と自然がもつ光と影を見つめぬいたシュピリの深い思索が反映している。
アニメでハイジのおじいさんが飼っているセントバーナード犬のヨーゼフは、原作にはまったく出てきません。アニメでは親切で人当たりのいい男の子のペーターは、原作ではちょっと欲張りだったり嫉妬深い一面を持っています。また、あとで詳しく見ますが、クララの車椅子が壊れてしまうエピソードも、原作とアニメとではまるで違います。口うるさい家政婦のロッテンマイヤーさんは、原作ではアニメのようにクララと一緒に山にはやって来ませんし、クララを診るお医者さんはアニメでは影の薄い存在ですが、原作の後半では重要な役割を担っています。
おじいさんの過去についても、アニメでは「大きな声じゃ言えないけど、若いときには人を殺したっていうじゃないか……」と、第一話に村人の噂話で一言触れられるだけで、あまり印象には残りません。ところが原作では、おじいさんの暗い過去が、冒頭から詳しく語られているのです。さらに、原作では大切な主題となっている宗教的なテーマ、暴力的なシーンは、ともにアニメからは周到に排除されています。
そして、アニメを見てわたしが何よりギャップを感じるのは、ハイジもペーターも最後まで外見がまったく変化しないところです。原作では五年の月日が経って、ハイジは五歳から十歳になり、ペーターも十一歳から十六歳まで成長するのに、アニメではずっと同じ服を着て、背は全然伸びないし、相変わらず裸足で歩いている(テレビアニメでは致し方ないところなのでしょうけれど……)。
肝心のスイスではこのアニメは放送されませんでした。「スイスインフォ」というインターネット・サイトの記事によると、長年スイス国営テレビでドイツ語放送局の文化部門を率いた人が、その理由をこう語っています。「日本アニメでは現実が美化されており、スイスの視聴者が持つイメージや習慣、体験からずいぶんかけ離れていたため、このシリーズは拒否されるかもしれないと考えた」。また、いかにも「スイスの典型的なイメージ」であるセントバーナード犬の登場や、「大きな目をした、いつも同じ表情のハイジも批判の対象」となったといいます。
日本で最初にこの作品を翻訳したのは、作家の野上弥生子です。一九二〇年(大正九)に家庭讀物刊行會から『ハイヂ』という題で刊行されました。英語からの重訳でしたが、一九三四年(昭和九)には『アルプスの山の娘(ハイヂ)』と改題され、岩波文庫から再刊されて多くの読者を得ます。
ちなみに、そのころに出版されたちょっと変わった翻訳に、一九二五年(大正十四)の山本憲美訳『楓物語』があります。野上訳と同様に英語からの重訳ですが、この本では舞台はヨーロッパのまま、登場人物の名前だけが日本風に変えられているのです。なんとハイジは楓、ペーターは辨太、クララは本間久良子、ロッテンマイヤーさんは古井さん、デーテ叔母さんは伊達さん……といった具合。

心の病へと追い込まれたハイジ。その症状を見抜いたのはクララの医師クラッセンだった。これ以上、都市文明の檻に彼女を閉じ込めておけば取り返しのつかないことになる。医師の助言により山へ帰れることなるハイジ。厳しい試練を乗り越えたハイジは、自分が大自然から学んだこと、そして文明から学んだことを見事に自分の中に融和させ、心の闇をかかえたおじいさんや、喪失感を抱えて山を訪れた医師クラッセン、ペーターのおばあさんらを再生へと導いていく。
クララが立つシーンは拍子抜けするほどあっさりとしたものですし、ペーターは素朴でのびやかな少年とは程遠く、無学でいじわる。クララの主治医であるクラッセン先生は準主役?と思うほど重要な立ち位置を占めています。
医師クラッセンの助言により、健康を取り戻すためアルムの山を訪れることになるクララ。大自然とハイジに導かれるように彼女は再び歩く力を取り戻していく。だが、その一方でハイジの友人ペーターの嫉妬心や暴力性も描かれていく。人間が再生していくためには一筋縄ではいかないプロセスがあるのだ。そして、やがて老いや死を迎えねばならないおじいさんに対して、医師は、自分もハイジの養父になり一緒に育ていこうと呼びかける。ここには、作者シュピリが提示する新たな家族像も込められている。
個人的に最も印象に残ったのは、やはり医師のクラッセン先生でした。妻や子供を亡くして深い喪失感を抱いているクラッセン先生の姿が、山でのハイジとの対話で浮かび上がってくるシーンは胸がしめつけられるようでした。そのクラッセン先生が、山の美しい自然、おじいさんとの友情、ハイジの優しさに触れながら再生していく姿は、アニメーションだけでは感じることができなかった深い感動を与えてくれました。更には、ラストで幼いハイジのこれからを支えるために、自分自身が養父になることを告げるクラッセン先生の姿には、血がつながらなくても築くことができる新しい家族像をかいまみることもできます。
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