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既知と未知があります。
人はいつ未知に触れているのでしょうか。5分前? 2年前? いま? 4か月後?
既知にも差があります。物知りな人もいるし、知識量は少ないのに物凄く的確で頼れる人もいます。
広大な未知という無尽蔵の空間の中に鉛筆で小さな丸を描き入れ、その丸を既知と呼びます。
その丸の中にあることは知識として知りえます。
一人一人にその既知の丸があります。
でもその丸の中身よりも一人一人において大きな違いとなるのは、
「未知に対する態度」です。
それは今日一日だけでも大きな差となって現れています。
既知を規定するのは、「未知との関係」です。
逆に未知の出口の数や手段を規定するのは、「既知との関係」ではないでしょうか。
(でも忘れちゃいけないのは「数と手段」に過ぎないということなんです)
両方とも人が抱える大切な要素です。
話を戻しますが、
人はいつ未知に触れているか? という問いはそういう意味で重要だと思うんです。答えのほうはそれほど重要ではありません。この質問を深く問いかけていくと、今日の捉え方が変わっていきます。だんだん変遷していきます。
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星々を背景にその人の人生で出会った登場人物が浮かび上がるのは、意外とここで起こっていることの真実に近いのかもしれません。
何を学ばせたいかという指導陣営の考え方もあるでしょうが、人生から『何を学ぶ』かは自分が決めている、決めることができるというのが与えられた機会の本質ではないでしょうか。n






ピエトレルチーナのピオ(San Pio da Pietrelcina、Padre Pio da Pietrelcina、1887年5月25日 - 1968年9月23日)は、イタリア生まれのカプチン会の司祭。聖痕や病者の治癒や予言、リジューのテレーズの崇敬者で有名。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって1999年に列福され、2002年に列聖された。出生名はフランチェスコ・フォルジョーネ(Francesco Forgione)。一般に聖ピオ神父または聖パードレ・ピオとして知られている。


青少年期
フランチェスコ・フォルジョーネは、グラージオ・マリオ・フォルジョーネ(1860年 - 1946年)とマリア・ジュゼッパ・デ・ヌンツィオ・フォルジョーネ(1859年 - 1929年)の子として、1887年5月25日に南イタリアカンパニア州の農村ピエトレルチーナに生まれた。両親は貧しい農民であり、フランチェスコは7人兄弟の4番目であった。生誕翌日、近所の城壁の上に建つサンタ・アナ教会で洗礼を受けた。後年この教会でフランチェスコはミサの侍者となった。サンタ・アナ教会の修復工事は、その後米国のピオ神父財団(コネチカット州クロムウェル)によって行われた。兄弟は、長男ミケーレと3人の妹、フェリチータ 、ペッレグリーナ、のちにビルギッタ会の修道女となったグラツィアである。他に幼くして亡くなった2人の兄弟がおり、フランチェスコという洗礼名は、この2人のうちの1人の名前と同じである。5歳になった時、既にフランチェスコはその全ての人生を神に捧げる決意をしていた。更にフランチェスコは自分自身に苦行を課すために、石畳の上で石を枕にして寝て、母親にたしなめられたという。10歳になるまでフランチェスコは農夫として働き、家族が所有していた羊の群れの世話をしていた。それはフランチェスコの教育をいくらか遅らせることになった。


ピエトレルチーナは非常に敬虔な町で、聖者の祝日は一年を通して祝われていた。宗教はフォルジョーネ一家に深い影響を与えた。一家は毎日ミサに出席し、毎晩ロザリオの祈りを欠かさなかった。また、カルメル山の聖母に敬意を表して1週間のうち3日は肉を食べなかった。フランチェスコの両親と祖父母は読み書きが出来なかったものの、聖書を暗記して、その物語を子供たちに語り聞かせた。子供の頃からフランチェスコはイエス、聖母マリア、守護天使が見えて会話することができた、と母親は語っている。そして幼いフランチェスコは、他の人も同じようにそれができると思っていた。


若いフランチェスコは、天国の幻視や法悦を体験したことがあると述べている。公立学校を3年で修了した1879年に、フランチェスコは当時地方に赴いて寄付を集めていた若いカプチン修会士カミッロの話を聞き、修道士の生活に引きつけられた。フランチェスコが修道士になりたいと両親に告げると、息子がカプチン修道士会に入る資格があるかどうか確かめるために、両親はピエトレルチーナの北方21kmにあるモルコーネ (Morcone)まで出掛けた。修道士会はフランチェスコを受け入れることに興味を示したが、そのためには更なる学歴が必要だった。


フランチェスコの父親は息子に教育を与えるために、家庭教師を雇わなくてはならなかった。そこでその資金を得るためにアメリカへ出稼ぎに行った。そうすればフランチェスコがカプチン修道会に入る必要条件を満たすことができる。この間にフランチェスコは、1899年9月27日に堅信礼を受けた。フランチェスコは個人教授を受け、規定の入会条件を得たので、1903年1月6日、15歳でモルコーネにあるカプチン会修練所の志願者になった。同年1月22日, 修練者になり、清貧、従順、貞潔の誓願をたて、ピエトレルチーナの守護聖人である聖ピオ5世教皇にちなんで、ピオ修道士という名で呼ばれることになった。


聖職
ピオ修道士は牛車で聖アッシジのフランチェスコ修道院に赴いた。そこで聖職につくための6年間の学習を始め、成長期を教団の中で過ごした。1904年1月に仮誓願を立てた後、カンポバッソ県サンテリーア・ア・ピアニージの後期中等学校に入学、その後サン・マルコ・ラ・カートラの学校で哲学を修め、フォッジャ県のセッラカプリオーラで神学を学んだ。1907年1月27日に終生誓願を立てる。1910年8月10日、ピオ神父は、ベネヴェントの大聖堂で大司教から司祭に叙階され、同月14日、天使の聖マリア教区教会で初ミサを捧げた。


1910年9月7日、ピオ神父が祈りを捧げていると、イエスと聖母マリアが現れて、神父に聖痕を与えた。医者は当惑し、その傷を恥ずかしく思った神父が主に祈ると、傷は治癒した。1911年10月末、ヴェナフロに派遣される。同年11月28日、神父の親友ドレ・アゴスティーノは、医者からピオ神父の病状が思わしくないことを知らされる。45度の高熱で体温計が壊れてしまうほどだった。神父は肺炎を患っており、健康状態が不安定なので、カプチン修道会士を続けることを条件に、1916年前半までピエトレルチーナの家族の元で過ごすことが許された。故郷に戻ったピオ神父はそこで人々の為にミサをあげ、学校で教鞭をとった。


1916年9月4日, ピオ神父はサン・ジョヴァンニ・ロトンドのガルガノ山にある農村伝導教団・聖母マリアの恩寵カプチン会修道院(Our Lady of Grace Capuchin Friary)で活動するように命じられた。当時その修道院の修道士はピオ神父を含め7人だった。兵役を除いて、ピオ神父は生涯のほとんどをサン・ジョヴァンニ・ロトンドで暮らすことになる。熱心なクリスチャンとして黙想を重んじていたピオ神父は、「本の研究を通して人は神を捜し、黙想によって人は神を見出す。」と語った。片時も神父はロザリオを手放すことはなかった。「ロザリオは武器だ。祈りは神の心を開く鍵だ。」(聖ピオ神父)


第一次世界大戦が始まった時、この修道院から4人の修道士が兵役に選ばれた。当時のピオ神父は、神学校で教師を勤める傍ら、霊的指導者として働いていた。もう一人の修道士が徴兵されたとき、ピオ神父はその代理として修道院を統括することになったが、1917年8月にピオ神父も徴兵された。イタリア医療隊第100中隊第4小隊に配属されたものの、健康がすぐれず、10月中旬から1918年3月まで入院した。退院後はサン・ジョヴァンニ・ロトンドに戻り、ピエトレルチーナのサンタマリア・デッリ・アンジェリ(天使の聖マリア教会)で働くよう命じられた。後に奇跡の修道者としての評判が高まると、サン・ジョヴァンニ・ロトンドの修道院に戻された。兵役は合計すると182日だった。


霊的指導者としてピオ神父は、多くの人々を霊的な子と考え、霊的な導きを与えた。ピオ神父による霊的成長のための5つのルールとは即ち、毎週の懺悔, 毎日の聖体拝領, 霊的読書, 黙想、良心の糾明だった。


ピオ神父は、懺悔を毎週することは、部屋の掃除を毎週するのと同じことだと例えていた。そして1日に2度の黙想と自省の実行を勧めていた。朝、1日に向き合う準備として1度、そして、夜に反省としてもう1度。 神学の実際的な応用についてのアドバイスは、神父の有名な言葉にほぼ要約されている。“Pray, hope, and don't worry.”(祈りなさい、希望を持ちなさい、そして心配しないでください。)あらゆる事物に神の働きを認めて、何にもまして神の意志に従って行動することを望むように、神父はキリスト教徒に説いた。


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