忍者ブログ






人間には二種類いて、
1、神は何らかの計算間違いをしているかもしれない、だとしたら現状は…
2、神は一切の計算間違いをしていないかもしれない、だとしたら現状は…
異なる人生観を採用しています。
2番はどんな局面でも凄く強いのですが、なぜならそれが事実だからです。
人間の延長で神を考えると少しくらい計算間違いがありそうですが、神は人間とは全然違うので、間違いはありません。
どういう意味で「間違いがない」かを知るのは後になりますが、生きている間は2番に全賭けしたほうが良いです。私は自分の経験上そう信じています。
盲目的であっても2番を試しに採用して、人生の困難な局面でしがみつくように頼りにすれば、自分を正す灯台の光になります。
2番の採用は、自分の現状の受容と肯定につながります。
言葉で口にするのは簡単ですが、これはとても大きなことです。
つらくなればなるほど、
フィオラがヨブ記の時代だと呼ぶような事態が来るなら尚更のこと
(ヨブは1番を採用して苦しんでいました)
2番が役に立ちます。試すだけの価値はきっとあります。
n180012



「人間にとって戦争とは何か?」という根源的な問いに対して、人類学の視点から答えを出そうとした一冊の本があります。「戦争論」。「ユネスコ国際平和文学賞」を受賞し、国際的に大きな反響を巻き起こしたこの著作は、フランスの高名な社会学者・人類学者ロジェ・カイヨワが(1913 - 1978)が「人類は戦争という現象とどう向き合うべきか」を世に問うた戦争論の名著です。


「戦争論」が書かれた1950~60年代は、米ソの冷戦が激化。第二次世界大戦の惨禍を味わった多くの人々が恒久平和を希求する一方で、国家間のエゴが対立しあい、軍備拡張や戦費の増大がとめどなく進んでいました。巨大な歴史の流れの中では、戦争を回避し平和を維持することは不可能なのかという絶望感も漂っていました。そんな中、戦争の歴史に新たな光をあて、これまでなぜ人類が戦争を避けることができなかったかを徹底的に分析したのが「戦争論」です。そこには、「なぜ戦争が国民全体を巻き込むような存在になったのか」「戦争と国家と産業はどのようにしてつながるようになったのか」といった多岐にわたる考察がなされており、単なる理想論を超えたカイヨワの深い洞察がうかがわれます。


人類は戦争を避けることはできないのか? カイヨワはその根源的な課題に向き合うために歴史を遡る。近代的戦争の起源は、「貴族の戦争」から「国民の戦争」へと本質を変えた「ナポレオン戦争」にあった。それは、騎士階級や傭兵ではなく、自由のために自ら戦争に参加する「国民」に支えられた戦争。これにより従来王家の財政に制約されていた戦争手段の調達は人的、物的に国家財政の枠まで広げられる。その結果、政治の一手段にすぎなかった戦争を、原理的には国家の破綻に至るまで遂行することが可能になる。


第一次世界大戦は、さらに戦争の様態を一変させる。それは国民の生活世界全体を巻き込む「総力戦」だ。そこでは、産業は挙げて軍需工場や兵站基地と化し、日常の私的な活動は国家によって制約され、情報管理とイデオロギー統制によって人間の内面すらも体制に組み込まれ、戦線は空間となって社会全体に浸透する。この事態をカイヨワは「全体戦争」と呼んだ。これ以降、国家は戦争を前提として形成されることになる。


フランスの人類学者・社会学者であるロジェ・カイヨワの『戦争論』は、第二次世界大戦の直後に書き始められました。まずこの本の第二部にあたる「戦争の眩暈(めまい)」が一九五一年に発表され、それから第一部となる「戦争と国家の発達」が書き継がれて、約十年の月日をかけてまとめられ、一九六三年に刊行されました。


第二次世界大戦は、破滅的な「世界戦争」で、文字通り世界が一つの戦争に吞み込まれました。各国が戦争に持てる最大の力や物資や人員をつぎ込んで、破壊と殺戮の規模は際限なく広がりました。ついには原子爆弾という殲滅兵器までが開発され、使用されます。兵員も市民も含めて、全世界でおよそ五千万人が亡くなり、アメリカ以外では多くの都市が破壊されました。この二度目の世界戦争終結後には、第一次世界大戦のときにすでに語られていた「文明の没落」が、ついに実現してしまったのではないか、というムードが漂いました。未来の崩壊と引きかえにやっと終わったかのような戦争、それがどうして起こったのか、「文明」を目指していったい人間はこれまで何をやってきたのか、それが深刻に問われたのです。


それと同時に、もう一度この世界に新しい秩序をつくっていこうという、国家を超えた政治の動きも始まります。国際連合(国連)という組織ができ、二度と大きな戦争を引き起こさないための国家間の仕組みをつくろうとします。ただし戦争は先進国だけでなく後発の途上国からも起こるから、それを防ぐためにそれぞれの国の社会も豊かにしていかなければならない。そのためにはまず教育が必要だということで、世界の国々の教育を振興し文化を豊かにする目的で、ユネスコという国連の機関もつくられます。


カイヨワは、もともと二十世紀初頭におこったシュルレアリスム(超現実主義)の芸術運動から出発して、「遊び」や「祭り」といった、それまで人間に役立つとは思われていなかった、むしろ無駄だとさえ思われていたことの重要さに注目し、そこを立脚点としてさまざまな考察を続けた人です。第二次世界大戦中、カイヨワは南米のアルゼンチンにいました。大西洋の反対側からヨーロッパの戦禍を見ていたのです。そして戦後の四八年から、世界の平和づくりの拠点として発足したばかりのユネスコに勤めます。そこで思索を重ねながら、ユネスコの教育・文化振興にそれまでとは違う新しい考えを注入していこうとしたのでしょう。


というのも、「戦争の終わり」は純然たる平和の回復になったのではなく、その「平和」は破滅の核戦争の予兆に曇った、「棚上げされた平和」だったからです。あるいは、恐怖で「凍結された戦争」だったのかもしれません。「戦後」はすぐに「冷戦」の状況に入ります。人間は懲りずにまた戦争をする姿勢を崩さない。これはほとんど人間の性(さが)なのではないか。カイヨワは、一般的な政治的考察や歴史的考察ではなく、人間とその社会の本質に、どうしようもない「戦争への傾き」があると考え、それを見つめて、人類の行方を考えようとしました。


戦争を全般的に考察し、それについて論じる本は、クラウゼヴィッツの『戦争論』(一八三二〜三四)という古典をはじめとして、西洋近代以降、つまりフランス革命以降の近代国家体制が成立してから、折あるごとに書かれるようになりました。それらは国家間戦争という枠組みを前提にして、戦争をする国家や軍人の立場から、技術的にいかにそれを成功させるか、またなぜ失敗したか、あるいは政治的にいかに回避するか、といった議論が一般的でした。ところがカイヨワは、それとは違った形で、「人間にとって戦争とは何か」という問題に真正面から取り組みました。なぜなら、二十世紀の戦争は「世界戦争」であり、あらゆる人びとの生存を巻き込む人類的な体験だったからです。もはや戦争は単に国家の問題でもなく、また軍人や政治家だけの問題でもなく、われわれ万人にとっての、あるいは人類にとっての問題だと考えたのです。


ですからカイヨワは、軍事的な戦略や国家の政策の善し悪し、あるいは人間の善悪の問題としてではなく、人類学者・社会学者の視点から戦争を考えました。集団としての人間の「あり方の問題」として、人間とはこういうものなのだと、いったん受け止める。そして戦争を、総じて人間の文明そのものと不可分の事象として扱います。そのようにして書かれた本が『戦争論』なのです。


「世界戦争」時代の人間の生存の条件を突き詰めて考えた人たちでした。彼らの作品には、思考と文学の表現の境がなくなっていくという特徴があります。それは極限体験について書こうとしているからです。そこにはもはや生死の境すらもなく、知的な経験の限界領域において人は何を言うことができるのか、という課題との格闘がありました。真っ暗闇の中で、それでもこの世界にはトクトクと脈打つ何かがある。それは見ようとしても見えず、触れてみなければ分からない。そうした極限の思考体験を、わたしはかつて「夜の鼓動にふれる」という言葉で表現しました。


戦争を支えているのはシステムだけではない。カイヨワは人類学的な視点から「戦争に惹きつけられてしまう人間本性」にメスを入れる。兵士の一人ひとりが一個の砲弾や機械部品と同じように消費される戦争。しかしその状況を積極的に引き受けることで新たな人間の価値を見出そうとする思想が現れる。過酷な塹壕戦を戦い抜いたエルンスト・ユンガーは「人間自身が一種の武器となり一種の精密機械となって、壮大な秩序の支配する全体の中で決められた地位を占めること」を戦争は要求するという。その要求を受け入れるとき人間は自己を超えた真の偉大さを獲得し自らの運命に合致した自由を見出すというのだ。その「恍惚」や「陶酔」は、人間が古来惹かれ続けてきた「聖なるものの顕現」としての「祭り」の体験と酷似する。


カイヨワは、冒頭で、
「戦争が人間の心と精神とを如何にひきつけ恍惚とさせるかを研究した」と書いています。
戦争にひきつけられる? 恍惚とする!?
ちょっと驚きませんか?
さらにこんなことも。
戦争は、「人を魅惑する」「本能に満足を与える」
「世界に若さと活気と真実を与え」「新しい時代を開く」のだと。
そもそも、人は戦争に「傾いている」と言っているのです。
恐ろしいけれど、否定できない気がするのは私だけでしょうか。
世界中のあちこちで戦争が絶えないのは周知のとおり、
報道のほとんどは、意地悪や争いごと。
我が家をみたって、兄妹げんかに親子げんか、夫婦げんか、
つまらないことでの小競り合いばかり(笑)
平和とは理想に過ぎないのかも、と思ってしまいます。
でも、ここから始まるのだ! とも思うのです。
人は戦争に傾いている生き物で、平和の達成は最も難しいミッションだと自覚することから。
事実を把握すれば、的確な対策に近づくこともできるでしょう!
自分たちには戦争したがる習性があると悟ること。
いま傾いていってないか? と常に問い、ブレーキをかけること。
そしてカイヨワの言う「教育」をコツコツと続けていくこと。


必死で育てた子どもが肉片となって飛び散る…
想像することさえ耐えがたい。
私は毎夜、子どもの寝顔を見ながら切に願います。
明日もすこやかでありますように。
そして、寿命を全うして幸せに死ねますようにと。


コンピュータ、人工衛星、そして核兵器の登場によって戦争が人間の知的能力をはるかに凌駕する事態を迎えた現代。戦争が歯止めがきかない自走システムと化す中、カイヨワは無力感に打ちひしがれながらもその僅かな可能性を「教育」に託す。西谷修さんはカイヨワの課題を引き継ぎ、「諸国家の共存」や「人間の共同性の確保」を目指した新たな枠組みを考えなければならないという。それにはカイヨワが試みたような「戦争」や「国家」についての原理的・存在論的考察が欠かせない。その上で、人類を惹きつけてやまない戦争の本質や、人間の本能、思考の枠組みを冷徹に見極め、政治や権力に利用されない方法を模索しなければならない。


各論に限っていうと、バタイユやフロイトほどは深い論考にはなっていないのですが、逆にそれだからこそ、一般の人に近づきやすいとも感じました。


カイヨワは、「人びとの生活全体が組みかえられてしまうのも、遠い先のことではなかった。敵に対して、できるだけ有効で致命的な潜在的打撃を加えるために、政治、経済、科学の分野にまたがる、全般的な施策が実行された」と述べています。特に「生活全体の組みかえ」「政治、経済、科学の分野にまたがる全般的施策」という言葉によって、「テロとの戦争」以降に生じる、IT技術を駆使した徹底的な監視社会化、戦争のアウトソーシング化、セキュリティ国家体制の構築を暗示するような分析をしていて驚きます。科学技術分野にも深い知見をもっていたカイヨワは、おそらく「生活全体の組みかえ」という言葉で、急速な科学技術の進歩によってもたらされる、生活世界全般を厳しく管理する社会を予見していたのではないでしょうか?



もう一つ悩んだのは、最後に示す処方箋です。これだけ戦争の恐ろしさについて徹底的に分析したカイヨワは、そのあげくに、その抑止策として「教育」の一言しか語っていません。いったいこの言葉の裏側にあるものは具体的に何なのか? 番組を締めくくるにあたっては、この点も深読みしなければならないと考えました。
これについてもカイヨワはいくつかヒントになるような言葉を残しています。たとえば「たえず人間を押しつぶそうと脅かすこの根源的な諸力を緩和し、さらにはそれを人間的なものとするためには、(中略)明晰な思考と堅固な意志と巧みな技とを与えることによって、不釣り合いに巨大なものとなった諸々の力を、柔軟に制御できるようにすることであろう」と。戦争へ向かわせるさまざまな力を柔軟に制御できるようにするための「明晰な思考」「堅固な意志」「巧みな技」。西谷さんは、ご自身の解釈として、これらを保証するものとして「人権」という概念を提示してくれました。
「人権」といっても、「人権派弁護士」「人権教育」といった言葉でイメージされるような、生易しいものではありません。それは、アウシュヴィッツやヒロシマ・ナガサキといった過酷な経験を経て、人類が血みどろになってつかみ取ってきた「統制的な理念」です。


「世界が合理的にIT化され、徹底的に計算され、管理されて、たとえ人間が遺伝子情報に還元されたとしても、いまを生きるわたしたち一人ひとりが、血の通ったこの生身で生きているというそのことです。ハイテク化されていくヴァーチャルな世界に、『わたしには血が通っているのだ』と表明し、その潮流にブレーキをのようにつっかい棒を差し込むことが、わたしたちに残された可能性ではないでしょうか?」


「答えがすぐに出なくても、答えをこれから作っていく足場を作る。それが『考えるということ』の一番重要な役割だと思います」


PR
08 2025/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody
忍者ブログ [PR]