
いま直霊(なおひ)の手をとる
年代は若人 → 老人を繰り返し、
高慢から絶望までのすべてを繰り返し、
男も女も繰り返し、
その繰り返しの中心軸は一度も変わることがありませんでした。
人と環境のせいにしたとき、人の目は曇り、黒い霧にまかれ、直霊の囁きを聞き逃します。
ここはカモフラージュの世界。
つねに「主眼はそこじゃないのかも?」と自分に言い聞かせなければ道を見失います。
ありがたいと思っていないんじゃなくて、
ありがたいと気づいていないんです。
主眼に、気づいていないんです。
n190014
悪から善を学んでほしい。
善から悪を学んでほしい。
善悪から中庸を学んでほしい。
透き通るように透明になったら神への讃歌を捧げてほしい。
その理由がわからなくても
最高のかたちで待つことはできる。
理由がわからなくたって
最高のかたちで待つことはできる。n

――今回はアナウンサー役ということで、どんな役作りをしたんですか?
夏頃から週に1回ぐらいのペースでアナウンスレッスンを受けました。NHKのアナウンサー・中川緑さんとマンツーマンで1日約2時間。実際に新人アナウンサーの方が練習する短い原稿を読んで声の出し方や間の取り方など、細かく指導していただきました。
ニュース原稿というのは、ただ読んでいるだけではダメなんです。きちんと内容を把握して正しく伝えることが大事。特に緊急報道の場合は、アナウンサーの言葉一つで人の命が左右されてしまう場面がたくさん出てくるので、句読点の位置などにも気を付けながら読んでいくということを学びました。
――実際にアナウンス原稿を読んでみて難しいと思ったところは?
声のトーンです。どの行も上から同じトーンで声を出すのが基本なんですけど、私の場合は2行目から一つトーンが下がってしまうクセがあるみたいで。これが自分の耳では分からなくて。下がっていることを指摘されて何回も練習しました。それと“東京”という言葉のアクセントや発音も難しかったです。
――NHKのニュースセンターも見学されたそうですね?
NHKの方は毎晩緊急報道の訓練をされていて、その様子を見学させていただきました。本当に地震が発生したのかなと思うぐらいの緊張感があって、見ているだけで恐怖を感じました。あのリアリティーはすごい。
劇中では、あの緊迫した状況の中で、私が美香として刻一刻と変わる様子を伝えなきゃいけないと思ったら責任というものが重くのしかかってきましたし、あらためて怖さも感じてまた泣いてしまいました。
でも、脚本を読んだだけでは分からない緊迫感を自分の目で見ることができたのは役作りをする上で参考になったと思います。
――撮影中、印象に残っていることはありますか?
毎日がヤマ場のシーンの連続。撮影期間は11日ぐらいだったんですけど、かなりハードな日々でした。撮影はほぼ順撮りということもあって、重い場面を撮っていくうちに物語の世界と同じようにスタッフの皆さんもどんどん疲れが溜まっていって、リアルに大変な状況になっていくんです。
どこかずっと気が張っている状態。私もよく眠れなくて、寝たと思ってもすぐ目が覚めてしまうことが多かったです。
――撮影の合間に共演者の方たちと「もし、本当に地震が起きたらどうしたらいいのか」という対策法を話し合ったりしたことは?
それはよく話していました。必ずしも家で被災するとは限らないですし、以前は何かあったらまずは家に帰ろうと家族で約束していたんですけど、それは群衆雪崩を引き起こす要因にもなるから控えた方がいいということを知って。
何が一番いいのか、命を守るためにはどうすればいいのか。みんなで考えたんですけど、なかなか答えが見つからないんです。

戦後文学のトップランナーであり続け、ノーベル賞を受賞するなど世界文学の旗手としても注目を集める作家・大江健三郎(1935-)。「現代社会の病理」「魂の救済」「現代人が失ってしまった神話的想像力」といった普遍的なテーマを描き続ける作品群は、今も多くの人たちに読み続けられています。しかし、その特異な文体や難解な思想から読み通すのが非常に困難な作家といわれることもあります。
「燃えあがる緑の木」は、執筆当時、大江自身によって「最後の小説」と位置付けられた集大成ともいうべき作品。一人の「救い主」の誕生、そして、彼を中心とした「教会」創生の物語です。舞台は大江の故郷でもある「四国の谷の森」。主人公・隆は、様々な挫折を経て「魂のことをしたい」と願うようになり谷へ向かいます。そこで古くからの伝承を語り継ぐ「オーバー」という長老に出会い特別な教育を受ける。やがてこの村のリーダーだった「ギー兄さん」の後継者に指名され、悩みながらもその使命を引き継ぐことになります。独特な治癒能力を得て隆は新たな「ギー兄さん」となり、村人たちの病や心を癒していきます。ところが、その行為は「いかがわしいもの」として糾弾の的に。様々な受難を受けながらも「燃えあがる緑の木」教会が設立され、既存の宗教にない「祈り」や「福音書」を生み出し、多くの人たちの魂を救済していきます。しかし、マスコミや反対派からの激しい攻撃や内部分裂をきっかけとして、大きな悲劇が到来してしまいます。そのプロセスには果たしてどんな意味が込められているのでしょうか?
作家の小野正嗣さんは、この作品が、大江が自らの知性と体験の全てを傾けて、既成の宗教によらない、現代社会における「祈り」「魂の救済」の可能性を描こうとしたものだといいます。
「燃えあがる緑の木」は、一人の「救い主」の誕生、そして、彼を中心とした「教会」創生の物語である。舞台は大江の故郷でもある「四国の谷の森」。主人公・隆は、様々な挫折を経て「魂のことをしたい」と願うようになり谷へ向かう。そこで古くからの伝承を語り継ぐ「オーバー」という長老に出会い特別な教育を受ける。やがてこの村のリーダーだった「ギー兄さん」の後継者に指名され、悩みながらもその使命を引き継ぐことに。それはこの村に潜在する「神話の力」を自らが体現することでもあった。大江が描く新たなギー兄さんの姿には、現代人が失ってしまった「辺境」や「神話」がもつ豊かな力が漲っている。
独特な治癒能力を得た新しい「ギー兄さん」は、村人たちの病や心を癒していく。だが同時にそれは「いかがわしいもの」として糾弾の的に。ギー兄さんは反対者に殴打され深く傷つく。しかし、その受難はかえって一部の人たちの心をとらえ「燃えあがる緑の木」教会が設立。ギー兄さんに寄り添い支え続ける両性具有のサッチャン、父親である「総領事」、最初は糾弾者の一人だった亀井さんなど、多くの人たちが集い始める。彼らの協力を得ながら、古今の文学や宗教書の引用からなる「新たな福音書」や新しい形の「祈り」が生み出されていく。そのプロセスには、大江が人生を賭けて続けてきた世界文学との対話の成果が縦横に生かされている。
障害を持った息子との共生と、作家自身の故郷の四国の森のなかの土地の神話や伝承という二つの主題が、作品ごとにていねいに深められています。そこにそのつど、作家にとって大切な詩人や小説家の作品の深い読解が重ねられます。そうやって作家の壮大にして繊細な想像力は、毎回、さまざまな驚くべき出来事にしるしづけられた物語を、すみずみまで丹念に練り上げられた文体を駆使して展開していくのです。そしてこのような書き方――ナラティヴの手法――が確立されて、豊かに繁っていく時期、それを僕は大江作品の後期と呼びたいと思います。
今回、取り上げる『燃えあがる緑の木』は、その後期の作品のなかでもっとも重要な作品のひとつであり、大江健三郎という作家の代表作といっても過言ではない作品だと思います。
そこで作家は「魂のこと」に取り組んでいます。人間の魂は死後どうなるのか、人間にとって「祈り」とはどのような行為なのか、ということが、「救い主」とされた「ギー兄さん」という男性の受難に満ちた生涯を通して語られます。そしてそれを語るのは、彼をそばから支えた特殊な身体的な特徴を持つ「サッチャン」という女性です。
作家は毎回、みずからの切実な問題意識に呼応してくれるような詩人を必要とするのですが、『燃えあがる緑の木』において、四国の森のなかの土地に生まれ、幼いころから樹木を愛したこの作家に寄り添うのは、アイルランドの詩人イェーツです。「燃えあがる緑の木」という神秘的なイメージ自体が、イェーツの詩に喚起されたものです。「梢(こずえ)の枝から半ばはすべてきらめく炎であり/半ばはすべて緑の/露に濡れた豊かな茂りである一本の樹木」は、この作品において何を象徴しているのでしょうか?

大江健三郎という作家は、障害を持つ息子との共生を大きな主題としていると書きました。そのことは作家自身もくり返し公言しています。作品を解釈する際に、もっぱら作家の現実の人生で起きた出来事に関連づけて理解しようとする伝記的なアプローチを多用するのは慎むべきだと思います。しかし大江健三郎は、彼自身が現実生活をフィクション化し、そうやってできた小説が今度は現実生活に深い影響を及ぼすという書き方を長いあいだ続けてきた人です。
そのせいか、小説のさまざまなところから、目を凝らせば、たがいを必要とし支えあう作家と息子が見えてくるように思えるのです。そのような僕の読解は、ややナイーブに過ぎるところがあるかもしれませんが、後期の大江の作品を読むたびに、僕の魂を揺り動かすのは、そのような父(そして家族)と息子の姿なのです。障害のある息子はひとりでは生きていけないかもしれません。しかし、そのような人がそばにいることで父は大きな贈り物をもらっているのです。困難な状況を生きる息子に手を差し伸べる父は、息子を支えるという機会を与えられているのです。ケアを与えられていると思われる人も、ケアを与える側と同じくらい、いやそれ以上に多くのものを与えている。人間が二人、つまり複数いることの意味はそこにあるのかもしれません。
信仰のない者は、何に対して、どのように祈ることができるのか。『燃えあがる緑の木』は、悩み苦しみながらも、そのような問いにまっすぐ向かいあった人物たちの、つまりは作家自身の魂の軌跡でもあるのです。
ギー兄さんによる独自な説教や祈りによって多くの人たちを集め安定した基盤を築いたかに見えた「燃えあがる緑の木」教会だが、ギー兄さんの父親である「総領事」の病死やその葬儀を経てゆらぎを見せ始める。ギー兄さんは、これからのヴィジョンを示すべき説教の場で、突然うずくまるように倒れこんでしまう。その弱さに失望したサッチャンは、ギー兄さんの元を去ることを決意。行き場のなくなったサッチャンは、自らを傷つけるかのごとく性的な放蕩を繰り返す。大江の描く「救い主」や「教会」は、既存の宗教に比べて圧倒的に脆弱で、時にその脆さを露呈してしまう。それは何を意味しているのか。
ギー兄さんは反対派によって両膝を砕かれるという更なる受難に遭遇。だが彼は逆に「傷つけないこと」を生きる原理とする力強い存在へと変貌する。一方でマスコミや反対派からの攻撃を受け続ける教会では、組織防衛を強化しようとするグループと村出身の教会員の間で対立が激化。そんな教会に対してギー兄さんは決別を宣言、原点に戻るべく巡礼へと旅立つ。だがその途上で再び迫害を受け命を落とす。「根拠地か巡礼か」「組織か個か」という二極に引き裂かれながらもその矛盾を引き受け、特定の宗教によらない「祈り」を求め続けるギー兄さんの姿は大江本人の営みとも重なる。
あらためて読み返してみると、最初に私を虜にした「燃えあがる緑の木」のイメージは、実は、物語全体のテーマを見事に凝縮し象徴しています。世界は、異質なものや矛盾するものたちがぶつかり合いながらも、共存しているからこそ美しいのです。
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