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人はドミノ倒しのように連鎖的に倒れてきます。
その根本は全員一緒で、
「(私は神に)愛される資格がない、(神の下には)戻れないかもしれない」という魂の根源の恐怖をこの世の現象にかぶせてそういう問題で恐怖していると錯覚してしまうからです。
そうやって連鎖的に倒れてきた人を止められるのは、同じ人の手だけです。
そこには「見えない人」の手も含まれています。
目撃されたりすることは少ないですが、彼らがいるからこそ、みんな今日をこの状態で迎えられています。
もしも誰かが自殺を考えているようなことを少しでも口にしたら、なりふり構わず周囲の全員が全力で、全身全霊で引き止めねばなりません。そこに理屈はありません。
「見えない人」たち、関係者全員が心配して手を差し伸べています。手は伸びているのに気づかないことが多いです。
いま悩んでいる人はそもそも(そういう手を)見ようとしていないからです。
視野が万全の状態より百分の1、千分の1など極端に狭まっています。
だからこそ、全員リレーでなんとか注意を引くしかありません。
ここにいていいと、本人が本人に言えなくなっている場合は周囲で察知した者が言うしかないんです。
困った時はお互い様というのは綺麗事でもなんでもなくて、ただの事実です。
誰かが誰かを支えているから、そして支えてきたから今日があります。n200111



日本が欧米列強に肩を並べようと近代化に邁進していた明治時代。しかし「哲学」という言葉が翻訳されたばかりの日本では、およそ自分たち独自の哲学を構築できるなど思いもよらないことでした。そんな時代に、禅などの東洋思想や西洋の最新思潮と格闘しながら、日本だけのオリジナルの哲学を独力で築き上げようとした人がいました。西田幾多郎(1870-1945)。彼のデビュー作にして代表作が「善の研究」です。


西田は、近代の西洋哲学が確立させた、認識する主体/認識される客体という二元論を乗りこえるべく、「純粋経験」という概念を考案しました。主体と客体は抽象化の産物にすぎず、実際に我々にもともと与えらえた直接的な経験には、主体も客体もありません。たとえば私たちが音楽に聞き入っているときには、「主体」が「対象としての音楽」を把握しているのではなく、主客未分の純粋な経験がまず根源にあるといいます。そこからさまざまな判断や抽象化を経て、主/客の図式ができあがるのです。経験の根源である「純粋経験」に立ちもどらなければ、真理は見えてこないと西田はいいます。


この立場から世界を見つめなおすと、「善/悪」「一/多」「愛/知」「生/死」といった様々なに二項対立は、一見矛盾しているようにみえて、実は「一なるもの」の側面であり、「働き」であることがわかります。西田哲学は、合理主義的な世界観が見失ってしまった、私たちが本来もっている豊かな経験を取り戻すために、非常に有効な手立てを与えてくれるのです。


認識する主体/認識される対象という二元論によって構築されてきた西洋哲学。それを乗り超えるために格闘してきた西田幾多郎は、「愛」という独自の概念で、「知」のあり方を根本から問い直す。冷たく対象を突き放すのではなく、あえて対象に飛び込み没入していくことで対象の本質をつかみとる作用を「愛」と呼び、「知」の中にその作用を取り戻そうというのだ。


旧来多くの倫理学は、善と悪を外在的な基準から位置づけ判断してきた。しかし、西田が東洋思想から練り上げていった独自の哲学では、善は人間の中に「可能性」として伏在しており、いかにしてそれを開花させていくかが重要であるという。そのためには、主体/客体という敷居を超えて、「他者のことを我がこととしてとらえる」視座が必要であり、真にその境地に立てたときに、「人格」が実現される。それこそが善なのである。


西田幾多郎(一八七〇~一九四五)は、激動の時代に生まれ、激動の時代に亡くなりました。誕生は明治維新から二年後です。日清、日露戦争を経て、第一次世界大戦を経験し、第二次世界大戦が終わるふた月ほど前に亡くなりました。価値観がまったく定まらない時代にあって西田は、日本語による「哲学」という新しい「価値」を作り出そうとします。


現代では「価値」という言葉にもあまり重みがなくなってきました。しかし「価値」は、今回取り上げる『善の研究』(一九一一年刊行)を読み解く一つの「鍵」となる言葉でもあるのです。「善」とは何かを論じた第三編の第四章は、「価値的研究」と題されていて、この章を西田は次の一節で終えています。


実在の完全なる説明は、単に如何にして存在するかの説明のみではなく何のために存在するかを説明せねばならぬ。


真の「価値」を明らかにし、一人でも多くの人にその道を切り拓くこと、それが、『善の研究』によって西田が試みたことです。


『善の研究』が刊行される四年前、西田は、愛娘幽子を喪っています。そのことにふれて書いた「我が子の死」と題する作品があるのですが、ここに西田哲学の秘密を照らし出してくれる、次のような文章があります。


誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡て浅薄である、虚偽である、至誠は相見て相言う能わざる所に存するのである。我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。(『西田幾多郎随筆集』岩波文庫)


自分の心の中にある、言葉にならない「おもい」を知り、それはほかの人の心にもあることを知らねばならないのではないでしょうか。いった言葉によって理解し、反論するだけでなく、言葉を超えたところで分かり合う道を模索することができるのではないでしょうか。自分の心を見えない涙が流れることがあるように、他者の心にも、そうした不可視な涙が流れていることを深く認識しなければならないのではないでしょうか。


「愛」や「善」といった概念を、主観と客観に二分しない独自の思考法から再定義していく西田哲学。その根幹を支えるのが「純粋経験」という特異な概念だ。たとえば、音楽を聴くという体験は音源から伝わる空気の振動を感覚器官がとらえるという物質過程ではなく、主体も客体も分離される以前のあるがままの経験が何にも先立って存在する。これを「純粋経験」という。この立場から世界を見つめると、私たちが「実在」とみなしてきたものは、単なる抽象的な物体ではなく、世界の根底でうごめている「一なるもの」の「働き」としてとらえ直されるという。



「善の研究」をベースにして西田はさらに自らの哲学を発展させてゆく。そんな彼が晩年にたどり着いたのが「絶対矛盾的自己同一」という概念だった。主観と客観、善と悪、一と多といった一見対立する者同士が実は相補的であり、根源においては同一であるというこの考え方は、自らの子供と死別するという実体験を通して獲得したものだと若松さんはいう。生と死は一見矛盾しながらも、その対立を超えて一つにつながっているものだという西田の直観がこの思想を生んだのだ。


西田の「純粋経験」という言葉を聞いて、見たままに描くデッサンを習った頃を思い出しました。デッサンは 描き方は教わりますが 結局は、自分だけが発見をしたかもしれないこの事実や美しさをそのまま伝えたいと思えたものがどれだけあるかによって、その時の描き起こす意欲と画力と表現力が断然変わったものでした。


井筒俊彦をやるにしても、柳宗悦をやるにしても、まずは、その源流ともいえる西田の哲学を最初にやったほうがよいというのが若松さんのご意見でした。
その際に、今回の番組でも紹介した、最終章から逆順に読んでいく…という方法も教えていただきました。西田が強靭な思考力で歩みぬいた過程は、問いの繰り返しであり常人には歩みがたい。けれども結論部分を実感的に読むのは意外にも容易で、頂上から降りていくように読み進めると、自ずと西田自身の言葉が語りだしてくると若松さんはいいます。


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