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与えられているものを自己解釈している


どんな物語でも登場人物それぞれの人生観は異なります。根本的には与えられているものは「同じ(潜在的可能性などと呼ばれている無限の可能性)」なんですが、それに対する解釈が「無限」にあります。
その解釈がそのまま創造行為となります。
修道僧の末弟アリョーシャが神をこういうもの(これをたとえばアルファベットのFとする)だと想像すると、彼の想像が100%正しかった場合、
神=F
なので
F以外のものが存在するのはなぜか? 誰がF以外をつくったのか?
となります。
神=F は正しいのですが、同時に
神=F以外 も成立していなければ神ではないわけです。
これを突き詰めると、
神=全員の想像を同時に矛盾なく成立させるもの、かつ全員の想像以外の可能性すべてを網羅するもの
となります。
論理的な遊びに見えて、これが本当に成立しているのが神の姿です。
(言葉で正確に表現すると「成立し、同時に成立していないのが神の姿」となります)
概念遊びではありません。
神はどんな概念でもなく、どんな概念をも可能にする存在です。
まわりくどくなりましたが、
一人一人の人生は「コレ(あらゆることを可能にする存在)」によって、
どのような人生観、どのような創造行為をしても良いと自由を与えられています。
やった(想った)ことの結果が返ってくることと(当然です)、
目的地を定める責任が誰に帰するか、最初に熟慮したほうがよいこと(重要です)を別にすれば、
とても平等で公平なシステムです。
ここに神の目的、神の人に対するプレゼント(贈り物、現在)が何だったのか、
すべてが詰まっています。
最上の愛は、自由にさせることだったのであり、
自由をしっかりと受け止めることは、それらを与えてくださっている神(唯一の存在理由)にかえっていくことでもあります。n210041



世界文学史上の最高傑作のひとつとの呼び声も高い「カラマーゾフの兄弟」。ロシアの文豪・フョードル・ドストエフスキー(1821- 1881)の代表作です。ドストエフスキーが人生の集大成として執筆したともいえるこの名著を、現代の視点から読み解くことで、「生きるとは何か」「善と悪とは何か」「本当の意味での魂の救いとは何か」といった、人生の根本的な問題を深く考えていきます。


好色で老獪な田舎地主フョードル・カラマーゾフには三人の息子がいました。激情的で熱血漢の長男ドミートリー、冷徹な知性を持つ無神論者の次男イワン、心優しき修道僧の末弟アリョーシャ。そしてフョードルが産ませた私生児と噂される使用人のスメルジャコフも。父とドミートリーの間に起こった財産相続問題を話し合うために三兄弟が集結しましたが、ゾシマ長老の仲裁にもかかわらず決裂。更に問題をややこしくしているのは、父とドミートリーがグルーシェニカという妖艶な女性を取り合っていたことでした。解決に奔走するアリョーシャは「信仰のゆらぎ」に直面しながらも少しずつ成長していきます。ところが、そんなある日、父フョードルが自宅で殺されます。果たして「父殺し」の犯人は? その究明のプロセスの中で、人類にとって根源的な問題が浮き彫りにされていきます。



老獪な田舎地主フョードル・カラマーゾフの三人の息子、熱血漢の長男ドミートリー、無神論者の次男イワン、修道僧の末弟アリョーシャ。財産相続問題を話し合うため三兄弟が集結したがゾシマ長老の仲裁にもかかわらず決裂。問題をややこしくしているのは父とドミートリーがグルーシェニカという妖艶な女性を取り合っていたことだった。果たしてこの問題の行方は? 彼ら登場人物は、母親の違い、性格の設定などによって、人間がもっている普遍的な問題が浮かび上がるように巧妙に設計されている。


問題解決のために町中を奔走するアリョーシャ。そんな彼にイワンは、絶対的な悪が存在する以上「神が創ったこの世界は認めない」と議論を投げかけ「人間は所詮自由の重荷に耐えられずパンを授けてくれる相手にひれ伏すだけだ」と告げる。追い打ちをかけるように尊敬する師ゾシマ長老が死亡。その死に直面したアリョーシャは信仰上の激しい揺らぎにさらされる。


『カラマーゾフの兄弟』は、十九世紀ロシアの文豪フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーが、五十九年の生涯の最後に書き上げた長編小説です。


『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たちは、みな例外なく桁外れの生命力とある種のプライドの持ち主です。どんなに貧しい人々のなかにも傲慢さと自信、言い換えれば「誇り」があります。



信仰のゆらぎに直面し絶望しかけたアリョーシャは、ドミートリ―を翻弄しているかに見えたグルーシェニカに出会い、はからずも彼女の中に純粋な魂を見出す。その後、棺の傍らでゾシマ長老の夢をみたアリョーシャは歓喜に満たされ、何かに打たれたように大地と口づけをする。一方、狂おしいまでに金と欲望に翻弄され続けていたドミートリ―だが、彼の情熱にほだされたグルーシェニカとついに互いの愛を確かめ合うのだった。彼らの姿には、善悪の矛盾に引き裂かれつつも、決して失われることのない生命の輝きがある。


ついに殺されるカラマーゾフ兄弟の父親フョードル。いったい彼を殺したのは誰か?真っ先に疑われ逮捕されたのが、日頃から「父殺し」を公言していた長兄ドミートリー。裁判での弁明も空しく彼はシベリア流刑に処せられる。しかし、実際に彼を殺したのは使用人のスメルジャコフだった。しかも彼は、イワンの「神も不死もなければ全ては許される」という無神論にそそのかされて実行しただけだと言いイワンも共犯だという。イワンは彼の言葉によって自分自身の隠された欲望に気づいて狂気へと追い込まれる。ドストエフスキーはこの「父殺し」のテーマで何を表現しようとしたのか?


あとで聞くと、ゾシマ長老の生涯は誰もがぶつかる挫折ポイントだそうで、通称「ゾシマ超え」といわれているとのこと。


イギリスのEU離脱、極右勢力の台頭、移民問題の深刻化…そんな状況がここ数年、世を席捲し始めました。「分断」という言葉がキーワードのように語られ始めました。同じ国にいながらにして人々が分断されている…あるいは、隣り合った国同士でも恐るべき溝が両者を分断し始めた。こうした分断は乗り越えられないのか? そんな思いにとらわれていたときに一番に頭に浮かんできたのが「カラマーゾフの兄弟」でした。この物語は、私にとっては、「引き裂かれた魂が苦難や悲しみを通して再び結び合う物語」。今こそ、「カラマーゾフの兄弟」にヒントを得る時期ではないのか。


アリョーシャにとっては「ゾシマ長老の死」という最も深い悲しみの中で、魂の再生が訪れます。ドミートリーも「父殺しの罪を問われる」という最も苦しい状況の中で、魂の再生が訪れます。それらは、いずれも「夢」という自分の奥深くから湧き上がる魂の力といったものがきっかけとなります。そして、アリョーシャの場合は「自分というちっぽけな殻を遥かに超えた、大地、星空といった大いなるものとの一体化」といった形で「救い」がもたらされます。ドミートリーの場合は、自分の傲慢さや罪への気づきから、あらゆる存在がもつ罪深さ、原罪性といったものへの深い自覚へとつながり、やがてそれは「罪を通しての浄化」とでもいうべき「救い」をもたらします。


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