私はいま人々はものすごく将来(霊的に人生などより長期間の将来)を分けるための重要地点にいるとフィオラの言動などから信じているんです。
行き先(進行方向)が違う列車がたくさんありまして、
巨大なプラットフォーム上で駅弁が売られ、人々が悲喜こもごも会話をします。
それでもどの列車に乗るかは「懐の切符」に書かれているんです。
いまから切符の交換が間に合うのかとか、そういうことはわかりません。
フィオラは昨年まででもう間に合う時期は過ぎたと言っていました。
一部の人たちが2020年3月20日(ちょうど明日)まで切符の交換はぎりぎりあると主張されているのも伺いました。
”コロナをばらまいてやる男”さんは亡くなりましたね。
”相模原殺傷事件の犯人”には死刑判決が出ました。
自分が死ぬんだったら、他の人も道連れにしてやるという心根を体現した人たちは、いまごろどこに向かっているんでしょうか。
”東海道新幹線殺傷事件で女性をかばったあの方”はいまどこにいらっしゃるのでしょうか。n190010

新型コロナかどうかを検査するかどうかはもうやめよう
[治療方針に影響を与えない検査]はやめるときの決断のときがくるかもしれない。
そういうフェーズが来る可能性がある
自宅待機に切り替える時がドイツのように来るかもしれない
みんなが不安だからという理由で検査をするのは間違いだということは確かだ。
なぜなら、そもそも検査は間違えるものだからだ。検査が陰性であればウイルスに感染していないというのは神話である。
検査が治った証明にならないのであれば、検査をする必要はない。むしろ症状がよくなって元気になったら退院して、その後数週間は自宅待機としたほうが合理的だ。
フタをあけてみないとわからない。今言えるのは、「これが効く」という、確証のある治療法がないということだけだ。
どこの国でもパニックや非科学的な衝動は起きる。

ドコモは5Gのスポットを公表しましたね。
たとえばスカイツリーや羽田空港が入っているので、稼働後の人間の健康状態を注視したほうが良さそうです。
その周辺で新型コロナの致死率が大きく変わるようになってきたら、深刻に考えなければなりません。n

なぜ、人間が二本足の姿で、この物質界に生まれるようになったのか、そして、再生という生まれ変わりを繰り返す中で、複雑化し苦悩を深めていったのか。 それに伴い、幽質界という死後の世界の下層部が増大し、私達を取り巻く霊的環境が、著しく悪化したこと、物質界に神体という特別な霊的身体を持って生まれた6名のキリストのこと、更には、守護霊・指導霊・補助霊の誕生の経緯、悪魔の正体などについて、分かりやすく説明されています。 そして、何よりも大切なのは、この危機的な状況を打破するために、私達に出来る唯一の方法について述べられていることだと思います。
(以下、ネタバレを含みますので、未読の方は読み飛ばしてください) この著書のタイトルの『二本足の霊魂』は、人類のことを指しているのですが、どうも読みながら、人間を二本足と呼ぶことへの違和感が、念頭を離れませんでした。四つ足などの名称は、動物などの獣を表す時に用いられるのが一般的です。その名称が、人間を指すために用いられている理由が、本書に描かれている二本足の霊魂の歴史を読み進めるうちに、納得させられました。 もともとは、死後の世界である幽質界の中でも、高級な世界から地上に降りてきた人類でしたが、いつしか元の世界のことなど忘れて、科学文明なるものを信奉するようになり、地上の世界を楽園とするべく、自然環境や生態系を作り変えて来ました。 生まれて死ぬまで一度も神を求めず、知らないうちに下層の霊魂と二人三脚の人生を歩んでいる現代人。他の生命体より忌み嫌われ、死後下層の世界に落ちていく人が、あとを立たないようになってしまった哀れな人類。 そんな姿と成り果てた二本足の霊魂とは、高級な霊的生命体であった人類と呼べるのだろうか?もはや別の生命体なのではないだろうか? 生命の実を食べた人類、知恵の実を食べた人類。そして、地上生活を経験したことにより、新たに生まれた二本足の霊魂とは、物質界の身体の動物性に飲み込まれてしまった、獣の人類と呼ぶべき、忌むべき存在なのではないだろうか。 その人類を称して「二本足」と。 さまざまな矛盾を抱えた今の人類と、人類と関わってきた他の生命体の苦しみは計り知れず、そこに至った経緯を理解すれば、その救済の困難さに、頭を抱えてしまいます。 しかし、本書の後半では、そうした全ての生命体の救済を考えておられる、霊質界の高貴な霊魂方と、そして受肉した神たる6名のキリストの姿が描かれます。 人類、そして他の生命体の苦しみが終わる未来は、確かに存在します。 しかし、人類がその未来を選択するか否かは、この真実を知る読者一人ひとりの意思にかかっています。 最後に、読者のみなさんに願うことがあります。 どうか。どうか、神を求めてください。 人を酔わせる甘い言葉に惑わされず、真実の神の姿を知ろうとしてください。
死んで幽質の世界に行き、そして、『再生』すると、知っていたつもりだった。 事実は、そんなに簡単なものではない、と知ることになった。 この世でもあの世でも、助けを求める人を人達を救おうと、動こうとする霊魂の存在がいる。そういう存在は、私達に関われば関わるほどに傷つき、穢れる。そうして、「この世」と連動してあの世である幽質の世界も、どんどん変化している。その変化する原因となっているのが、私達、人間であったこと。 どう歯止めをかけるのだ? 自分だけの問題ではなく、多くの霊的存在を巻き込みながら生きている、という意味を重く受け止めざるをえない本だと思った。
<人類の始祖アダムとエバは、蛇にだまされて神から禁じられていた木の実を食べて楽園を追放された、そして苦しみを背負うようになった>という創世記3章のアダムの堕落物語が本当に意味するところは、一体、何であったのかを本書は明らかにしてくれると思います。 人類の地上への誕生のプロセスについては、『神体』においても、一部触れられておりましたが、本書は、今まで誰も知ることができなかった人類の地上への誕生の秘密の全貌、それにともなう罪や苦しみの発生、その後の再生による苦悩の深化と複雑化、それを救わんとなさる神霊、キリスト、高級霊魂方の懸命のお働きについて、詳しく述べられています。
人は自ら願い、自由を捨てて、幽質界から地上に下りた。自らが選択した事をも忘れ、地上の苦悩を背負うように成った。その苦しみは想像以上に大きかった。何度もの再生を繰り返し、複数の過去世の辛い経験を意識の奥に潜在させるように成った。更に、あの世では、幽質界へ地上の競争原理を持ち込んで、他の霊魂を攻撃する者が多数、現れた。それによって、地上よりも遥かに苦悩が深い、争いばかりの、事実上の地獄とも言える世界が出現した。そうした、世界に入る事だけは避けなればならない。それは、救いの無い、永遠の苦しみの世界に入る事を意味している。そうした世界に入らない為、霊的な真実、霊的な技法が示された。しかし、現代は、目の前にそれが有っても、敢えて無視をする。あの世も霊魂も無いと言う人達まで現れるように成った。その結果は、自分自身で受け入れるしかない。とは言え、人には自由意志が与えられている。
水波霊魂学では、人は猿の進化で有りながら、猿の進化としての二本足で歩く肉体が完成した時、本来、幽質界に住んでいた、人間の霊魂が、次から次へと二本足の肉体へ、進入していったとされています。 故に、進化論、創造論、そのどちらにも偏りません。
本書、『二本足の霊魂』では、「二本足の人間は霊魂の世界の癌細胞になった。二本足の人間の霊魂は、幽質界をどんどん苦悩の世界に変えていった。そして、いわゆる地獄まで作り、物質界にまで進出した。」と述べられています。それで、地上を経て幽質界に戻った我々は、皮肉を込めて「二本足」と呼ばれるようになってしまっているようです。
守護霊や指導霊、補助霊が一人一人についています。
今後、どれほど医療、科学、AIの分野が発達していっても、物質のみを研究していては何の答えも出ないでしょう。 むしろ苦しみは増えていくだけであろうと容易に想像できます。 そして、人類の未来を変えていくためには、我々はどうすべきか。
どうやら物質世界が出来てから、霊的な世界にとどまる霊魂と、自ら望んで物質世界に降りていった霊魂(私たち)に分かれたらしく、地上に降りた側の人間たちが大混乱を巻き起こしていく様子が描かれていて、勉強になりました。 再生(生まれ変わり)、霊的な世界の階層、キリストの救済事業、守護霊制度、下層の霊魂の活動などを、時系列で時代背景を詳しく説明してくれているのも興味が湧きます。 例えば、再生の成り立ちについて。 再生の仕組みは複雑過ぎて、今までの霊界通信では大まかな概要を伝えられる感じでしたが(類魂の中の1人がカルマ清算の為に再生を決意して生まれてくる、など)、この本では更に掘り下げて、下の階層の人間はいがみ合ってて余裕がなく、中間の層の人間達は再び地上生活なんてまっぴらごめんと関わりたがらず、でも誰かが再生しないと他の生命体が人間の身体に入るかもしれないので、致し方なく霊質界の高貴な霊魂たちの決定で、上質界に住む霊魂たちが、自己犠牲の精神で自分の一部を地上に再生させた
二本足の霊魂の悍ましさには、ただただショックです。 それが自分自身なのですから尚更ですが、それこそ変えられない現実なのです。
人間は、二本足である、これは言うまでもないことですが、霊魂は、二本足であるとは 限らないのです。いや、二本足である方が不思議なのです。 本来、幽質の世界にすむ霊的生命体であった人間が物質の世界に降りて、物質の身体を 身にまとったために、二本の足と二本の手を持つことを余儀なくされたということです。 ですから、この「二本足の霊魂」という言葉が意味することは、肯定的なものではなく、 「ガン細胞」で言い表されるような大変ネガティブなニュアンスを持つものなのです。 本書は、なぜ、人間はがん細胞のごとしなのか? どうして、そこまで人間は他のすべて の生命体から嫌われるのか? その知られざる訳を初めて明かしてくれるとともに、 なぜ、そのような愚かな人間を、キリストや高貴な霊魂方が見捨てることなく、どこまでも 救いの手を差し伸べようとなさるかを明らかにしてくれる稀有の書だと思います。
一般的に知られている守護霊とは違う、本当の意味での守護霊。苦悩する人類を救おうと立ち上がった霊魂達がどのようにして活動を始めたのか?そしてそれを支持した存在は?そう言ったことも記してあります。
読む前と後 ずいぶんこれからの人生感が変わりました
人間は猿が進化した体に最初に降りる前は、固定的な足などなく、自由だったのである。物理界に降りて他界し、また自由に形を変えることができる存在になったにも関わらず、二本足のまま生活することを人間は選んだ。 それはどうしてなのか、合わせてどのような問題が発生していたのか。それが現在の人間たちの惨憺たる状況に、どう繋がって行ったのか。これらを正確な筆致で描き出した、奇跡のドキュメンタリー歴史物語である。 対象の時代は神話の時代から我々の時代までである。霊魂の視点において、この長きに渡った人間を取り巻く時代のうねりが描かれている。 実のところ、いつもの著者のスタンスでもあるが、心が晴れるようなエンターテインメント性はない。さらに言えば、本著は著しく人間の不甲斐なさを暴きだすため、一般の読者はおそらく目を覆い、度々本書を投げ出し、悲痛な気持ちに陥ることになるであろう。しかし、物語性、シンプルでわかりやすい筆致、周到な構成などから、投げ出した当著をすぐにまた手に取り、結局は読み進めてしまうという、引き込まれるようなどうしようもない魅力が、本著にはある。これも霊媒としての氏の非凡な才能に帰するのであろう。 ではなぜこの書籍を投げ出したくなるのであろうか。それはその衝撃性の大きさからである。恐らく水波氏の元で技法を修している方々であっても、ご自分の子どもが大人に近くなるまではなかなか読ませられないのではないかと思ってしまう。ずば抜けてインパクトが高い。読者は願うであろう、この作品が真実でなく、著者が練りに練った上で出された創作歴史物語であって欲しいと。しかし、水波氏は語る。自分はただ富士の神とキリストを信じているだけで、何も知らないと。つまりこれは創作ではない。特定の霊魂からの主張を、いつもながらの霊媒の仕事として、現代の日本語に翻訳したものということになる。 あらゆる宗教談義は、まずこの書籍から始めなければいけないのではないか。こう言っては何であるが、この書籍の見地から言えば、伝統、振興問わず、世の宗教のピントがいかにずれているかが分かる。 人間が初めて経験した物理界での生活は悲惨なものであった。男は、女は、子どもは、老人は、未開の地、未開の社会でどのように生きざるをえなかったか。村から生まれた人間社会が少しずつ発展する裏で、壮絶なまでにもがき苦しみ、恨み合い、追い詰められる。いくら頑張っても、その悲惨な循環に囚われて脱することが困難である。このような宿命下にあるこの世の人間には、私は個人的にはとても罪は求められない。 しかしこの著を読了すると、そのような人間である我々に、あきらかに罪があると了解せざるを得ない。この著は人間の罪を、物語の上で理解させる名著であると言える。 幸いにもこの書を読む機会に辿り着き、読んでしまった人は、自分の中で何かが変わることを感じるのであろう。 また、この書籍の魅力はその物語性だけではない。自分自身がいまだ垣間見ることのできない、霊魂の世界、霊魂の社会のありさまが分かる。つまり、霊魂学に付随する知識も多数得られることも述べておく。ただし、いくつか氏の書籍に親しんでおり、霊魂学についての基本知識がある人向けである。 例えば興味深かったのは、霊的な事実として有名な守護霊、指導霊、補助霊という存在がいかに誕生したのかと言う件である。たまに不運な事故や失敗があったときに、守護霊が弱かったからだ、などと何の引け目もなく口にしていた人たちは、思わず青ざめるであろう。指導霊が何のためにその人を指導しているのかも、恐らくはほとんどの霊魂ファンは勘違いしている。

第1回は「学問のすゝめ」が書かれた時代背景を知り、福沢がなぜ「学問」を重んじたかを探る。福沢が執筆を始めた明治5年は廃藩置県の翌年。全国で200万人の武士が一斉に“失業者”となった社会で、福沢が切り札と考えたのが「学問」、特に『人間普通日用に近き実学』だった。全編に流れる「学問」への信頼と敬意から、福沢の目指した理想を読み解く。
明治維新はヨーロッパの市民革命と異なり士族主導で行われたため、時代は変わっても“官尊民卑”は大きく変わらなかった。福沢は当時の国民の態度を『日本にはただ政府ありて、いまだ国民あらずといふも可なり』と一喝。政府を恐れず頼ることもない逞しい社会を国民が築くことで、国全体を変えていくことも可能であると説いた。国民と政府が両立して、初めて国家を整備し充実できると考えた福沢の思想の斬新さに迫る。
「学問のすゝめ」において福沢が「学問」と並び繰り返しその重要性に言及したのが「独立」という概念だ。福沢はまず、自分自身の独立をはかり、さらに他人の独立を助け、社会の進歩に貢献することで、人は真の独立者となることができると考えた。『一身独立して一国独立する』という言葉に表れるように、人々が私利私欲で小さくまとまることを戒め、常に大きな視野を忘れなかった、福沢の唱えた新しい生き方を深める。
最終回は、いま「学問のすゝめ」の精神をどう社会にいかすかを、ゲストを交えて対談。現在、日本は東日本大震災によって、政治も経済も社会も危機的状況に直面している。そんな中で私たちは何を心の中に持って生きればいいのか。福沢が遺した珠玉の言葉を味わいながら、「学問のすゝめ」が投げかける現代社会へのメッセージについて徹底的に語り合う。
賢人と愚人との別は、 学ぶと学ばざるとによりて出来(でき)るものなり。
(賢い人と愚かな人との違いは、 学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。)
初編より
日本にはただ政府ありて、 未(いま)だ国民あらずといふも可(か)なり。
(日本には政府はあるが、 いまだ国民がいない、といってもいいだろう。)
第4編より
世間の事物、進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。
(世の中の物事は、進歩しない者は必ず退歩する。 退歩しない者は、必ず進歩する。)
第5編より
人生活発の気力は、物に接せざれば生じ難し。
(人生を活発に生きる気力は、物事に接していないと生まれにくい。)
第13編より
人にして人を毛嫌ひするなかれ。
(人間のくせに、人間を毛嫌いするのはよろしくない。)
第17編より
PR
HN:
Fiora & nobody