
新型コロナと「水」
違和感というか、なぜフィオラが水水言っていたのかいまになって別の意味を疑うようになってきました。
もしかしてこのウィルスは薬を一切飲んではいけなくて、「水」しか飲んではいけないという意味なのかと。
自宅待機にしていた(特に治療をしていなかった)ドイツの致死率が異常に低い割に、医療崩壊中のイタリアの致死率は今日で8.3%、死者は2,978人です。8日前の12日には6.2%で驚いていたのですからわずか一週間でこれです。
この二極化はなんなのか。
いま複数の治療薬の方向性が期待されています。
しかしもしフィオラが「悲劇三部作」とわざわざ言うことに意味があったとするなら、このウィルスがあと二段階大きく変異する可能性も視野に入れたほうがよい気がしてきました。
いま薬を飲まずに、「水」だけで対応したほうがいいともしかして言っているのか非常に気になります。n200008

【コメント返信】
〇〇〇〇さん、コメントありがとうございます。
ご質問としては
歪んだ流れに乗ってしまったらこの先どうなると考えるか?
また、歪んだ流れの進行方向に救いはあるのだろうか?
でよろしいでしょうか。
フィオラも「本線」と「別の線」とすべてが二つの路線に別れていくと言っていまして、昨年のある時点で「本線」に戻っていなかったすべての人を、「別の線」として振り分けてしまったと言っていました。御意図の計画における【移転】の候補者からも一斉に外したそうです。
この別の線をおっしゃるような「歪んだ流れ」として言わせていただくと、地球上ではみな肉体を持っているので今後に大きな意味での変わりはないと思います。
肉体を持っているかぎり全員巻き込まれることばかりですから、それは平等です。
運・不運的には多少の違いが生まれても、物理的には微々たるものです。
変わりが出てくるのは、死後でして、
本線にいないということは、元々の霊団に帰還できるかがまずわかりません。
死後の世界である「向こう側」は相当汚(荒)れているらしいので、変な霊の階層に閉じ込められるとネチネチ攻撃されるのかもしれません。
そして御意図で進められていると言われる大きな計画によって、
全員別の転生をさせられる可能性があります。
そのときに本線の人間たちと同じ場所に連れていかれることは原理的にないそうなんです。
もう一度地球と同じ失敗をするわけにはいかないので、混ぜることはないと。
現状の地球がたとえば3.5次元だとすると、今度の星は3次元に落とすようなことが以前はよく言われていました。そうすると、また縄文時代や戦国時代をやり直す羽目になるのかもしれないです。
30年くらい前は、高級霊と目される意識存在たちがそう言っていたんです。
ところがいま令和の時代になって雰囲気が変わってきまして、
もしかすると新地球移転のときに、もう宇宙全体の足を引っ張るような不確定要素を入れたくないので、一斉にリセット(一切の記憶を削除して、別生物につくりかえてしまう)する可能性があると言われるようになったんです。
つまり、人間が人間以外の生物に作り替えられる可能性があると言われるようになりました。
それが犬猫のような生物なのかどうかすら一切わからないんです。
新しい星の環境、そして宇宙全体の霊的階層構造における位置付けがわからないからです。
ですので、唯一の(人間的)安全策は、
とにかくなんとしても「本線」に戻ることだったんです。
歪んだ流れに救いはあるか? と言われましたら、
神が実在する以上、救いはいつも必ずあります。
ありますが、その「救い」が、人間の視点から見て、別生物に生まれ変わってやり直すよう言われることだったら、はいそうですかと受け入れにくいわけです。
私だったらなんですが、
なんとしても「歪んでないほうの流れ」にいま戻ろうとします。
そのおっしゃっていた基本的に変更不可と言うお話をされた方は、
本来の流れに戻る方策は何もおっしゃっていなかったのですか?
正直、いまならまだ間に合うんじゃないでしょうか。
私ならそう判断します。
参考になるかはわかりませんが、
フィオラが「本線に戻って、もう間に合わなくなるから」と極め付きの警告をしたのは
2018年の8月でした。
2019年の4月には、まだ変更可能だけれどそれは助けてくれる霊たちの努力によるものだからくれぐれも勘違いしないようにと言われました。
そして
2019年の8月には、「事実上締め切られた」と。
でも例外を言っていたんです。
それは
【自分から問題意識を持っている人間ならばまだ動ける】ということでした。
こう言っていました。
自動券売機(切符を手に入れるシステム)が停止してしまったことに
「自分で気づくような者たちだけを例外として」締め切られたと考えてと。
そして、日本の126代天皇陛下の即位礼正殿の儀(10月22日)が来る前に自分の覚悟や、心構えを整えて示すように言われていました。
私はお話を伺っていて、あなたの場合はその「(自動券売機の停止に自分で気づいたような)例外」にあたるのではないかと感じました。
的外れかもしれませんが、私とフィオラは事実そういう会話を昨年していたということでご理解ください。n
もしこれを〇〇さんも読まれているようでしたら、もしかしたら気づかれたかもしれませんが、私はあなたもその例外に該当するのではないかと少し思っています。
いろいろ考えられ、以前のことが6年越しで突然気になり始めたのは昨年「秋頃」と伺いましたので、偶然が重なるようにも感じているんです。n

死後、下の世界に落ちて苦しまないようにするためには、この世で生きているうちに、神様を信じ、幽体という死後に使用する身体の、性質を上げるように、努力する必要があるとのことです。
冷静に考えてみれば、肉体の束縛が無くなり、可変的な幽体を表面の身体として、言葉を使わず、念によるやり取りや、念による創造を中心とする世界では、当たり前なわけですね。
つい、人間は、あの世も霊魂も神様も、自分の都合の良いように主観的に見てしまい、解釈してしまいがちですが、結局、それは人間の思い込みでしか無かった訳です。
善い行いをすれば天国に行けると言うのは、間違いらしい。死後の行先を決めるのは、その人の身体(幽体)が健康かどうか。この本では、幽体が不健全な為に、下の世界に入ってしまった人達の実例がたくさん載っています。 死んだら楽になれるなんて、簡単に思わない方がいいです。
地上の事情同様、あの世の事情も複雑なんですね。
何より、地上にいる間にしなければならない事
犯罪を犯すほど悪いことはしていないので悪人ではない というのは世の多くの人が思うことですが、この考えもズレているようです。加えて死後の世界は善し悪しで裁かれるというものでもないようです。
生前の生き方や、信仰の有り無し、その内容によっても死後の行き先が大きく異なるようです。
現世での生き方は、その後の魂としての人生にとっても、大変大切であることには変わりない。そしてそれは社会的(あるいは宗教的とも言って良いとも思われるが)通念とは著しく隔たっていた。
あの世は全く逃げ場とはならなかった。そして今考えなくてもよいことでもなかった。むしろ準備ができていない人には、迫り来る脅威である。従って、あなたは決して安全であるとは言えない。
イエス・キリストが霊的世界で成長を続け、キリスト教徒のみならず、全人類を救済するために、他の5名のキリストと称される存在と共に、高級指導霊団の中心的存在として活動を続ける姿が描かれています。
この感動を言い表せる言葉が見つかりませんが、それは、この世に存在する、あらゆる芸術によってもたらされる感動をも、超えたものだと言っても過言ではないでしょう。
何故、イエス師は「神は愛だ」と説かれたか、それは「真の神も愛も、肉体が表現できるものではないから」に他なりません。 多くの家族に恵まれ、その中を必死に取り持とうと頑張ってらっしゃる方々には申し訳ありませんが、それは動物的な愛に他ならないのです。 犬やネコと同じどころか、下手に知能が発達しているだけにそれを真の愛だと錯覚しているだけに過ぎない。 そこに神の愛は無い。 キリスト教徒の方々が勘違いされているのはここだと思いました。 非常に道徳的な愛を説かれますが、実はそのキレイ事の裏はただの「動物愛」でした。 何故ならばそれらは肉体があって初めて表現できるものだからです。 神の愛はそうではない
安易にご利益を求めるのでなく、霊的な事柄を知ってもらい、人間に霊的に正しく成長してもらいたい、 そんな龍たちの真剣な思い、 龍の迫力ある怒りや悲しみ、愛の一端が書籍の端々からどんどん伝わってくるのです。
どんなに善人で愛深き人格者であっても、幽体の健康と活力を高めるための対策をとる必要があるらしく、それは善人でも肉体の健康を維持するためには、適切な栄養摂取な ど、必要なことがあるのと同じことらしい。
人は、地上の世界に於いて、地位や資産、環境や考え方等が似たものが集うようになっています。そして今度は、臨終後の死後の世界へ入った幽体は、その幽体の質が、同じものが集うようになっているそうです。 この世においても死後の世界においても、人間の幸不幸を決めるのは、この幽体の健康と活力の度合いなのである。
指導霊は、人間よりもはるかに高級で、人間を指導するためにいる霊魂ですが 指導霊から見えず、まったく手が出せない人間になってしまっては 指導してもらえません。
興味深いと感じたのは、瞑想の種類や目的に関係なく、霊魂との関わりが発生する点です。 守護霊など高級な存在との接点はプラスであり、素晴らしいですが、実際には霊的にマイナスな存在と縁がつきやすいようです。
『どんなに高貴な身体でも、この世に生まれた人間の霊体です。 表面の心が新しい知識や情報を得てくれないと、本来の知性が発揮出来ないらしいのです。』
宗教的な教えを学び、善行・愛他行等を実践しても、それは肉体の脳の表面的な心の問題であって、霊的な進歩にはつながらないとのことであった。 それでは、霊的に進歩するためには何が必要なのかというと、神伝の法という特別な修行法により、この世では肉体と重なっている幽体という霊的身体を成長させることなのだそうだ。
この世で善行や愛行に励んでも、その善や愛が霊的世界の価値基準と合致したものとは限らないし、心の波長が上がって人格が高まっても、それが肉体に付随する意識であれば、死後の世界では通用しないらしい。
つまり、この世でいくら善人として生きても、人格者になっても、それだけで幽体の健康状態が良くなったり、幽体が成長する、すなわち霊的に向上するというわけではないようなのである。 そして、幽体の健康状態が悪かったり、幽体の成長が不十分だと、幽体が健康で強い幽体オーラを放つ霊魂が生活する上層の幽質界には入れず、幽体が不健康でその活力の弱い霊魂が生活する下層世界へ入ってしまうようだ。

9月は、仏教の創始者・ブッダが語った言葉をまとめたとされる「ダンマパダ」(邦訳「真理のことば」)を取りあげる。釈迦族の王子だったブッダは、成長するにつれ、人の生、老、病、死について、深く考えるようになった。そして29歳の時に、家族を捨てて出家、修業しながら深い思索に励んだ。悟りを開いた時、ブッダは、自らが考えた真理を人々に語る。それが最初の説法とされる「ダンマパダ」191番である。ブッダは、人生は、老いや病など、苦しみの連続であるが、心のあり方を見直せば、苦しみを克服することが出来ると説いた。第1回では、ブッダが見抜いた「人生」と「苦」の本質に迫る。
人間は、現実と希望とのギャップに常に苦しむものだとブッダは説いた。人には生存への欲求があり、世の中が自分にとって都合の良い状態であることを願っている。しかしその願いがかなわないと知る時、人は正常な判断力を失い、「あの人は私に意地悪をしている」などと、根拠なく思いこむことがある。ブッダはこうした状態を「無明」と称した。第2回では、「無明」から生まれる「うらみ」について学ぶ。
人は様々なものに執着して生きている。しかし執着が過度に強くなると、家族や財産といった、本来幸せをもたらすはずのものも、自分の思い通りにならないことにいらだち、苦しみを感じてしまう。ブッダは、自分勝手な執着をいましめるとともに、自分の教えについても、過度に執着してはならないと説いた。そして、自分を救えるのはあくまでも自分自身であり、自分の心を正しく鍛えることによって、心の平安を得ることが出来るとした。第3回では、依存ではなく、心の自立を説いたブッダの思想について考える。
ブッダは、人の心がどのように変化するかを、因果関係に基づいて論理的に分析した。そして瞑想によって集中して考え、自分の心の状態がどうなっているか、きちんと把握することが悟りへの道であるとした。最終回では、大阪大学大学院の教授で認知脳科学を研究している藤田一郎さんを招く。人間の脳は、物事をどのように認識しているのか、ブッダの教えを脳科学の面から検証する。そして今シリーズの講師役・佐々木閑教授とともに、「真理のことば」が、現代に生きる私たちに発しているメッセージについて語り合う。
他人の間違いに目を向けるな。 他人がした事、しなかった事に目を向けるな。 ただ自分がやった事、やらなかった事だけを見つめよ。
(50)
怒らないことによって怒りに打ち勝て。 善いことによって善からぬことに打ち勝て。 布施することによって物惜しみに打ち勝て。 真実によって嘘つきに打ち勝て。
(223)
頭髪が白くなることで長老になるのではない。 ただ年をとっただけの人は「むなしい老人」と言われる。
(260)
恐怖にかられた人々は、 山に、林に、園地に樹木に霊域にと、 様々な場所に救いを求めようとする。 しかしそれは安穏な救済所ではない。 それは最上の救済所ではない。 そのような救済所へ来たところで、 すべての苦しみから逃れることなどできないのだ。
(188・189)
自分自身の救済者は自分自身である。 他の誰が救ってくれようか。 自分を正しく制御してはじめて、 人は得難い救済者を手に入れるのだ。
(160)
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Fiora & nobody