

トシさん、
おっしゃるとおりですね。
毒はあっていいと思うんです。
毒がまわっていることに気づける位置にいられることが大切なのかもですよね。
二本足の霊魂、レビューにあまりにインパクトがあったので私も実際に読んでみたいのですけどまだ叶っていません。
フィオラが何度も見るように言っていたこの動画に、
霊による霊に対する攻撃のシーンがあり、
彼らが「神」という言葉を聞くだけで熱湯を浴びせられたように苦しむ姿が描写されています。
彼らの階層は「神と言葉にすら聞くことのない世界」である証拠だと感じました。
そして攻撃性や、嗜虐心だけは残っているんです。
ここに落ちた霊は、生前いったいどのような態度だったんでしょうか。
態度だけでなく、
「(神が定めた)法則により下層(神と聞くことすらないその世界)に引っ張られた原因はなんだったのか?」
この著者のように幽質体だと見る方がいるわけですね。
でもここはもっと深くこの現象(棲み分け)を熟慮すべきです。
無神論がどのくらい危険なのかを、わたしたちは正確には知りません。
昨日彼岸花の群生を載せましたが、あれは地獄の風景に近いらしいんです。
彼らが向こう側で絶望すると、変えるチャンスは「転生」だけです。
あの花の花言葉が転生なんですね。
地獄に咲く花・彼岸花は、彼岸(この世)に一縷の望みを託した者たちの願いなのかもしれないと思ったんです。
地上におけるイジメの構造は、おそらくこの地獄霊の一時的憑依の構造に近いのだろうと私は思うんです。
彼らの精神は「神」と聞くのが嫌なんです。
ですが転生した今回の人生では、その態度を改めなければ刑務所より酷い階層に逆戻りですから、変化を起こそうとするんです。
それをまた地獄で苦しみ続けている霊たちが引っ張ります。地上に影響を与えています。
一言「神」と聞くことさえ嫌ということは、
向こう側の下層というのは「神に背を向けた世界」、
光の届かない(自主的に背を向けた)世界であり、そういう霊だけの連鎖なんです。
いま地上で生きている人間がほんとうに恐れるべきなのは、死後この下層に引っ張り込まれてお馬鹿な喧嘩をしている間に、
上位階層主導の「御意図の計画」により一斉にリセットされることではないかと私は想像しているんですね。
フィオラとフィオラの上司にあたる階層の方々が、
「間に合わない」と口にするのは、状況はそんなに甘くないことを示しています。
とりとめのない話ですみません、
二本足の霊魂でもしトシさんに芽生えた感想があればぜひまた教えてください。n

明治時代の俳人・歌人・国語学研究家である正岡子規の随筆。1901(明治34)年に「日本」に164回にわたり掲載された。寝返りを打つこともできない病状にありながら、毎日墨汁一滴分、1行から20行の文章を書き続けたもの。すべての楽しみがなくなり、今や飲食の楽しみも半減したとぼやく日もあれば、一人の歌人の作品を執拗に批判する日が続くこともある。病さえ客観視し、「写生」する子規の強靱さが感じられる。
本書『墨汁一滴』は、正岡子規が亡くなる前年の明治三十四年(1901年)1月16日から同年7月2日まで164回にわたって新聞『日本』に連載されたものである。 病魔の痛みに耐えながら此の間たった4回休んだのみと、本書の解説で粟津則雄氏が記していたから、子規という人は驚くべき胆力の人であったことを知ることができる。 先に読んだ漱石の『漱石日記』や『漱石・子規往復書簡集』などに触発されて評者は本書を手にしたのである。 他書と併読したのは、子規が病魔に苦しむ姿を目の前で見るような錯覚さえ覚えるような客観視した文章上手により、ページを繰る手が鈍ってしまうからであった。 この前年から漱石が英国留学中であり、漱石から届いたロンドン便りを子規がどのように読んでいたか評者は興味があった。 だが、子規は漱石が送った書簡を本書でたった一度だけ記述していたのみであったから意外であった。 下にその記述を・・・内に引用します。 ・・・漱石が倫敦の場末の下宿屋にくすぶって居ると、下宿屋の上さんが、お前トンネルといふ字を知っているかだの、ストロー(藁)といふ字の意味を知っているか、などと問われるのでさすがの文学士も返答にに困るさうだ。この頃伯林の灌仏会に滔々として独逸語で演説した文学士なんかにくらべると倫敦の日本人はよほど不景気と見える。・・・(P128) 子規は、『日本』紙上に、留学先により文部省が給付金の差があるようなことを皮肉っているようにも読めるが、なんだか漱石が気の毒のように思ってしまった。 だが、子規は下のようなことも本書で記述している。 「我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。<中略>これを思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にあるべき。古の蜀山一九は果たして如何なる人なりしか知らず。俳句界第一の滑稽家として世に知られたる一茶は必ずまじめくさりたる人にてありしなるべし。・・・(P13) 評者は、何年か前に藤沢周平氏の小説『一茶』を思い出したのだが、たしかに一茶は頑固で筋を通すところのあるような人であったように、藤沢周平氏が描いていたような記憶である。 本書で子規は、徹底して模倣や剽窃した俳句を糾弾しているし、相手が幸田露伴だろうが批判の矛先を収めるようなこのない人であった。 子規は、文学世界に生きた人であり、その分野で他の追随を許さぬ孤高の才能の人であったことに異を唱えるひとはいないだろう。 が、広く人間世界を俯瞰することに苦手の人だったところなどが、漱石と異なるように評者には思えてならないよう感じながら本書を読み終えたのです。
漱石の坊ちゃんも出だしが面白いが、この本はもっと痛快だ。読者を笑わせるすべをよく知っている。大学の期末(?)試験に落ちた時の言い訳は、横腹が痛くなるほど笑えた。明るい笑いの欲しい人はぜひ読んだらよいと思う。仰臥漫録に書かれた死をまじかにした人がこのような文が書けるとは驚きである。子規の精神の強さに驚嘆する。これらの本を並行して読むのも良いであろう。
病床の子規が横たえた目で詠んだ歌が特に印象に残りました。その数首を携帯に入力して、しばしば出先で読んでいます。死を意識した人の素直な感情が感じられてグッと来るものがあります。
寝返りを打つこともできない病状にありながら、毎日墨汁一滴分、一行から二十行の文章をエネルギッシュに書き続けた正岡子規。 すべての楽しみがなくなり、今や飲食の楽しみも半減したとぼやく日もあれば、一人の歌人の作品を執拗に批判する日が続くこともある。小論文あり、本業の俳句を何句も書きためる日もあり。病床から見える景色を写生したような随筆も子規らしい。晩年の日常の正岡子規をとても身近に感じる。 ちなみに、私は「坂の上の雲」を第3巻まで読み、第三巻のはじめで正岡子規が逝き、登場しなくなった寂しさからこの本を「坂雲」と併行して読み進めた。根岸に保存されている子規庵を訪ねると、この「墨汁一滴」の世界に出会えることも書き添えておく。
「墨汁一滴」は、新聞「日本」に明治34年1月から7月まで、 164回にわたって掲載された。死の前年のことである。 すでに当時の子規は歩くことさえままならず、結核からくる脊椎カリエスの苦痛に 日々さいなまれていた。 しかしこの随筆には、もちろん死や苦痛に関する記述はあるにしても、 それらに対して大仰に悲しんだり怒ったりすることなく、 むしろ客観的に観察しているようなところさえある。 このあと書かれた「病牀六尺」。 まさに病牀六尺から動けぬことが、子規の旺盛な観察心や好奇心を刺激しているようにさえ思える。 「墨汁一滴」では、俳句のこと短歌のことなど、 時に鋭い口調で書いたかと思うと、 まだ元気だった頃の思い出が書かれたりと、縦横無尽。 病さえ客観視し、「写生」する子規の強靱さを見るのは私だけだろうか。 巻末の粟津則雄の解説が秀逸。 俳句をやっている人はぜひ、また子規という人間に興味がある人もぜひ 読んでほしい1冊である。

新渡戸は、義と勇、礼や仁など、様々な武士道の徳目について解説している。新渡戸は、特に大事なものは、義と勇であり、流されずに正義を守る勇気を持つ者こそが、真の武士だと記した。また武士が目指すべき究極の目標として、忠義をあげた。新渡戸は、忠義を守ることによって名誉を得ることが、武士の到達点であるとした。つまり武士にとって、忠義とは、他人から強制されるものではなく、自己実現のあり方だったのである。第1回は、日本人の心の源流に流れる、正義感について考える。
武士は責任を取るときに切腹した。新渡戸は「腹は魂と愛情が宿る場所」だと記している。日本人は腹に魂があると考えてきた。切腹とは、真心を示す意味もあったのである。一方で切腹は、人の死を軽んじる傾向を生んだ。また部下に詰め腹を切らせ、責任の所在を曖昧にしてしまうこともあった。新渡戸は武士の勇気をたたえるとともに、陥りがちな欠点も指摘、「いたずらに死を選ぶことは卑怯であり、真の名誉は天命を成就すること」と記した。第2回では、日本人の責任感について見つめる。
外国人にとって、日本人の行動には謎が多く、誤解を生じやすい。新渡戸が生きた時代、外国人の間では「日本人が苦しい時にほほ笑むのは鈍感だからだ」という指摘すらあるほどだった。そこで新渡戸は、武士にとって、感情をむき出しにすることは、礼に反し、勇気のない行為にあたると解説。苦しい時のほほ笑みは、自分の心の平衡を保つための手段なのだと記した。第3回では、日本人の忍耐力の秘密と、謎の行動の意味について考える。
新渡戸は、武士道の長所を述べるだけでなく、短所も的確に指摘した。新渡戸の武士道に対する思いとは、何だったのだろうか。最終回では、元国連事務次長の明石康さんを招く。明石さんはこれまで、国際協調につとめた新渡戸に大きな関心を寄せてきた。明石さんは、グローバル化が進む中、日本人の原点を見つめ直したいという思いが、今の武士道の人気につながっていると考えてきた。今なお私達の精神に影響を与えている武士道。その光と影について考える。
サムライにとって、 卑怯な行動や不正な行動ほど恥ずべきものはない。
(第三章 義-あるいは正義について)
武士道は、 われわれの良心を主君の奴隷となすべきことを要求しなかった。
(第九章 忠義)
武士道は経済とは正反対のものである。 それは貧しさを誇る。
(第十章 武士の教育)
心の奥底の思いや感情—特に宗教的なもの—を 雄弁に述べ立てることは、 日本人の間では、それは深遠でもなく、 誠実でもないことの疑いないしるしだと受け取られた。
(第十一章 克己)
女がその夫、家庭そして家族のために身を捨てることは、 男が主君と国のために身を捨てるのと同様、 自発的かつみごとになされた。
(第十四章 女性の教育と地位)
「武士の一分」という言葉がありますが、どういう意味なのでしょうか?
武士の問題を考えるうえで、私は、「義」と並んで、「一分」という言葉で表現される倫理観をとても重要なものだと考えています。「義」とは、人として、武士として踏み行うべき道。つまり武士の道徳として論理的に要請される規範です。これに対して、「一分」とは何よりも、「この自分の気持ちがすまない」という個人の心の動き、やむにやまれぬ感情、面目といった、道徳的というよりもっと個人の心に即した内面的規範です。そして、この規範は、外部に対してはこの上なく強固な「名誉意識」として表われ、「一分立つためには、何が何でもやりとおす」という武士の行動を規定する原動力となるのです。そしてそれは、武士としての生き方に直結してきます。 ですから、赤穂浪士の行動も、「上野介を生かしていては自分の一分が立たない」という内面的規範・名誉意識によってなされたと言えます。主君浅野内匠頭に対する忠義も、服従の強制という論理的規範ではなく、それぞれの個人の名誉意識から生まれた結びつきと考えるのがよいと思うのです。 上野介を討って「一分」を通した以上、そしてそれが、すでに下した幕府の裁定を実力で覆すという大罪である以上、赤穂浪士の面々は、斬罪になることを当然覚悟していました。だから、幕閣が悩んだ末に「切腹」という寛大な処置を下したことは、彼らにとって掛け値なしにありがたいことでした。一分を貫いたうえに、名誉まで与えられたのだから、当然です。世論は、本懐をとげ従容として死につく彼らを惜しみました。
山本先生が「武士らしい武士」と思う人物はいますか?
宝暦三年(一七五三)、幕府は薩摩藩に、木曽・長良・揖斐の三川分流工事の普請手伝いを命じました。暴れ川として知られる木曽水系治水を抜本的に解決しようという大工事です。その総責任者として、藩士を率いて現地に詰めたのが平田でした。 もともと難工事のうえ、期間中二度にわたって洪水が起きるなどで、薩摩藩の出費はかさむばかり、結局最終的には薩摩は四十万両近い工費をかけることになります。しかし、さらに問題だったのは、期間中、監督に当たっていた薩摩藩士から切腹する者が続出したことです。宝暦四年四月の二名、つづく三ヵ月で三十五名、さらに十四名と、連鎖反応のように切腹者が相次ぎ、工事終了までに、じつに五十一名もの切腹者を出しました。原因は、監視役の幕府役人との軋轢ではなかったかといわれています。 工事は宝暦五年(一七五五)三月末に終了し、五月には幕府目付・勘定吟味役による検分も終わり、目付牧野伊織は「いづれも出精故、御普請丈夫に出来致し、御見分も御滞りなく相済み、一段之儀」と、平田をねぎらいました。 そして翌日朝、宿舎で平田は自刃して果てます。今回の工費に関するいっさいの責任を負っての切腹でした。残念なことをしたものですが、しかしこのとき、平田に別の選択肢があったでしょうか。薩摩に帰れば、難工事を完遂した英雄になるかもしれない。逆に、予算超過や犠牲者続出の責任を問われる可能性もあるだろう。しかし、そんなことは自分のことだ。そもそも、あれだけの部下たちを死なせて、自分だけ国に帰っていいのか、帰る資格があるのか……こんなふうに思いをめぐらせ、そして、彼は自分のなすべきことを決断したのでしょう。すべてをおさめる唯一の手段は切腹だ――と。 切腹の前夜に認めた書状が残っています。自らのことにはまったくふれず、事実だけを淡々と書いているその書状には、感動を禁じえません。責任をとるということの静かなすごみがここにはあります。真に武士らしい武士とは、彼のような存在を言うのでしょう。
PR
HN:
Fiora & nobody