こんばんは。了解しました。
”S”について
ああいった”S”に関する内容を書いてから既に7、8年たっているわけですので、それを踏まえた上での現在の私の考え方を書きますね。
この世は”海”のようなものなんです。
浜辺で触れる水も同じ海なんですが、浅いだけ、表層なだけです。
この地球における人間体験は、物理的な肉体に関するやりとりが主だった要素なので、常に浅い階層で活動する浮き輪を身体にくくりつけているようなものです。
ですから瞑想して深いところまで降りた人も、30分後には日常のことで怒鳴り合っているわけです。放っておくとぷかぷか浮かんできてしまいます。
それが悪いと言っているわけではありません。
私たちは意識の深さをいつも「選んで」いて、肉体活動圏であるこの世では放置していると「浮かぶ」という自然な生理現象があるということです。
Sというのは、この海のことを指しているのは基本中の基本です。
ただ同じ海でも、深さがそれぞれの人で違うので、
深い人は「この人は深いことを指しているのかも?」と判断するし、
浅い人は「そんな深みのないもの、人生で意味ないよね?」と思っています。
最も深い階層に侵入していくと、
神仏の階層に近づいていきます。
宇宙の中心、お釈迦様の入っていった(良心神の)中心、
万物の根源、「神」の領域です。
神界=深海ですね。
Sはラマナ・マハルシの定義では
この深層に「個人が入っていくための”一歩手前の”領域」であり、
振動を直に感じる「スプラナ」です。
わたしたちは実は全員「揺れている」ので、その「揺れ」を感じるようになってくると
海を下方向に「潜っている」ときの体感に近づいているということなんです。
最も深い層ではないが、
深層一歩手前の、個人が非個人化する大切な象徴的現象に溢れた階層です。
ここからすごく勘違いが多いことなんですが、
わたしたちは
個人なんです。
そして同時に非個人なんです。
両方の性質を持っていて、
両方の計画を併せもっています。
個人としての人生の台本もあり、
課題もあり、
霊団(類魂)としてのより広義の自分の台本と価値観もあります。
霊団のものは自己と自己の所属する団のメンバーが経験した「複数の人生」を貫通する課題とバランスについて台本が描かれています。
さらに、個人性とまったく関わりのない
神的な気質(自我がない・自己がない・すべての人が同時に愛しいほどの大歓喜の根源状態)も深層に隠れています。
個人であり(浅い海)
非個人である(深い海=少なくとも自分が思っていたような個人ではなかったと自覚できるくらいの深度)
これは海の中に一瞬現れた
「泡」のようなものです。
泡ははじけて、自分が海だったといつか気づきます。
いつか気づくまで、泡の状態を全力で楽しむだけです。
泡には泡の誇りがあるし、やりたいことがあります。
それを神は自愛(慈愛)の目で見てくださっているのであって、
泡なんか意味ないよ、とは欠片も考えていません。
Sとは表現の仕方を変えれば、
”個人であると見なす習慣をやめることに成功した”人たちの態度のことです。
私たちは単なる個人ではありません。
間違いなく個人なのですが、少なくとも「(想っているような)単なる個人ではない」という事実があります。
この事実に基づいて、
”私は単なる個人だ”と自己に想念を投げる習慣をやめることに成功した = これがSなんです。
以前コメントで
このSを仕事中「どうやって」維持するのか?
という質問をいただいたことがありました。
それが既にその人の想念を投げる習慣を示しています。
仕事をしているのははたして
「単なる個人なのか?」
それとも
「単なる個人と見なす習慣をやめたまま」仕事をしていくことが可能なのか?
単なる個人と見なす習慣をやめることに成功していなければ、
成果・評価・努力・根性・侮辱・衝突からは
まず絶対にと言っていいくらい、逃げられません。
繰り返します。
・私たちは個人です。
・私たちは非個人です。
・同じ海だが深さの違う階層を同時に持っているだけです。
・最も深い中心に神がいらっしゃるので、絶望は、ありません。
それなのに、
★ふだん仕事をする悲喜こもごもの自分とは、「単なる個人」であると見なす習慣をやめることに成功していない
場合は、人生のすべては
単なる個人が漕ぐカヌーになります。
自分が単なる個人なので、他のカヌーと衝突し、その漕ぎ手と喧嘩になります。
自分が単なる個人なのだから、
相手もそうだろうと見なすからです。
相手に神性を見ることはできません。
自分に神性を見ることができないからです。
評価されなければ平静ではいられません。
自分が、一生懸命、「漕いだ」からです。
私が、漕いだのに!! ということです。
Sとは、
ありとあらゆる衝突の唯一の原因である
★「私はきっと単なる個人に違いない、と今日も明日もその次の日も見なし続けるという習慣をやめることに成功していない」人へのアンチテーゼなんですね。n062228
”S”について
ああいった”S”に関する内容を書いてから既に7、8年たっているわけですので、それを踏まえた上での現在の私の考え方を書きますね。
この世は”海”のようなものなんです。
浜辺で触れる水も同じ海なんですが、浅いだけ、表層なだけです。
この地球における人間体験は、物理的な肉体に関するやりとりが主だった要素なので、常に浅い階層で活動する浮き輪を身体にくくりつけているようなものです。
ですから瞑想して深いところまで降りた人も、30分後には日常のことで怒鳴り合っているわけです。放っておくとぷかぷか浮かんできてしまいます。
それが悪いと言っているわけではありません。
私たちは意識の深さをいつも「選んで」いて、肉体活動圏であるこの世では放置していると「浮かぶ」という自然な生理現象があるということです。
Sというのは、この海のことを指しているのは基本中の基本です。
ただ同じ海でも、深さがそれぞれの人で違うので、
深い人は「この人は深いことを指しているのかも?」と判断するし、
浅い人は「そんな深みのないもの、人生で意味ないよね?」と思っています。
最も深い階層に侵入していくと、
神仏の階層に近づいていきます。
宇宙の中心、お釈迦様の入っていった(良心神の)中心、
万物の根源、「神」の領域です。
神界=深海ですね。
Sはラマナ・マハルシの定義では
この深層に「個人が入っていくための”一歩手前の”領域」であり、
振動を直に感じる「スプラナ」です。
わたしたちは実は全員「揺れている」ので、その「揺れ」を感じるようになってくると
海を下方向に「潜っている」ときの体感に近づいているということなんです。
最も深い層ではないが、
深層一歩手前の、個人が非個人化する大切な象徴的現象に溢れた階層です。
ここからすごく勘違いが多いことなんですが、
わたしたちは
個人なんです。
そして同時に非個人なんです。
両方の性質を持っていて、
両方の計画を併せもっています。
個人としての人生の台本もあり、
課題もあり、
霊団(類魂)としてのより広義の自分の台本と価値観もあります。
霊団のものは自己と自己の所属する団のメンバーが経験した「複数の人生」を貫通する課題とバランスについて台本が描かれています。
さらに、個人性とまったく関わりのない
神的な気質(自我がない・自己がない・すべての人が同時に愛しいほどの大歓喜の根源状態)も深層に隠れています。
個人であり(浅い海)
非個人である(深い海=少なくとも自分が思っていたような個人ではなかったと自覚できるくらいの深度)
これは海の中に一瞬現れた
「泡」のようなものです。
泡ははじけて、自分が海だったといつか気づきます。
いつか気づくまで、泡の状態を全力で楽しむだけです。
泡には泡の誇りがあるし、やりたいことがあります。
それを神は自愛(慈愛)の目で見てくださっているのであって、
泡なんか意味ないよ、とは欠片も考えていません。
Sとは表現の仕方を変えれば、
”個人であると見なす習慣をやめることに成功した”人たちの態度のことです。
私たちは単なる個人ではありません。
間違いなく個人なのですが、少なくとも「(想っているような)単なる個人ではない」という事実があります。
この事実に基づいて、
”私は単なる個人だ”と自己に想念を投げる習慣をやめることに成功した = これがSなんです。
以前コメントで
このSを仕事中「どうやって」維持するのか?
という質問をいただいたことがありました。
それが既にその人の想念を投げる習慣を示しています。
仕事をしているのははたして
「単なる個人なのか?」
それとも
「単なる個人と見なす習慣をやめたまま」仕事をしていくことが可能なのか?
単なる個人と見なす習慣をやめることに成功していなければ、
成果・評価・努力・根性・侮辱・衝突からは
まず絶対にと言っていいくらい、逃げられません。
繰り返します。
・私たちは個人です。
・私たちは非個人です。
・同じ海だが深さの違う階層を同時に持っているだけです。
・最も深い中心に神がいらっしゃるので、絶望は、ありません。
それなのに、
★ふだん仕事をする悲喜こもごもの自分とは、「単なる個人」であると見なす習慣をやめることに成功していない
場合は、人生のすべては
単なる個人が漕ぐカヌーになります。
自分が単なる個人なので、他のカヌーと衝突し、その漕ぎ手と喧嘩になります。
自分が単なる個人なのだから、
相手もそうだろうと見なすからです。
相手に神性を見ることはできません。
自分に神性を見ることができないからです。
評価されなければ平静ではいられません。
自分が、一生懸命、「漕いだ」からです。
私が、漕いだのに!! ということです。
Sとは、
ありとあらゆる衝突の唯一の原因である
★「私はきっと単なる個人に違いない、と今日も明日もその次の日も見なし続けるという習慣をやめることに成功していない」人へのアンチテーゼなんですね。n062228
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