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こんばんは。どういたしまして。
skさん、昨日までの説明は一度区切りますね。
まずskさんの疑問について考えてみますね。
>一つまだよく分からないのが、肉体の意識(個別の意識)と全体の意識が重なって存在している?
意識が玉ねぎのように重なって存在しているということですが、それは現実に肉眼で見えている周りの人達はもちろん、動植物その他あらゆる物質(ウイルスや無機物も?)にも個別の意識があって、それが重なって存在しているということでしょうか。。
→ 1枚のキャンバス(気づきの海)があって、そこに複数の国家を描いたとします。地図のような絵ですね。
国境線があり、国家Aは自国とそれ以外をその線で分けています。
人間だったら、肉体の皮膚一枚を国境線としてその外は 自分ではない としているわけですね。
その皮膚の外は、物理的な痛みが自分の脳に発生しないですから、合理的です。
少なくとも生存のためには適切な境界線と言えます。
私がskさんにお歳暮でハムを贈ったとして、送った私側の気持ちと、受け取ったskさん側の気持ちも境界線があって分けられています。
それが皮膚一枚の線であるかどうかはわからないものの、私とskさんの間のどこかの地点で、相手の気持ちがわからない 意識の境界線 があります。
キャンバスは一枚です。← これはしっかりとわかる真実です。
国境線は無数にあります。
それらの線は、意識が自己認識する範囲に描かれていると一般的には言えそうです。
ウイルスや無機物が(意識として? )どう感じているかはわかりませんが、ウイルスも無機物も気づかれていますので、キャンバス上の動きであることは間違いありません。落ちる落ち葉のようなものです。
肉体に宿った人間は自己意識を持ちます。それはその肉体によって定義され、限定されます。
肉体が死亡した時点でも意識が続いていた場合、その意識が自己認識する範囲が新しい境界線になります。
境界線は変動するかもしれません。
キャンバスは変わりません。どんな自己認識も可能にするものだからです。
ですから意識とは二義的で、境界線に依存して変動し続ける不安定なものです。
キャンバスは不動です。
>肉体=私と認識しているのは、人間は確実にそうですが、猿やその他の哺乳類にもある程度はそういう認識がありそうな感じがします。それ以外の存在、例えば蟻には、個別の意識があるけど私という認識はないから、私が何かをやっているという感覚もなく、ただ全体の意のままに動されているだけという感じでしょうか。
→ 蟻や蜂や魚は幾何学的な造形もありますので、全体の意のままに動かされている側面がありそうですよね。でも鮭の射精の瞬間などを見ると、
エクスタシーの表情が人間的で、自己意識のままに精いっぱい生きている存在でもありそうです。
ですから私はなんとなく
人間と変わらない生命体で、個別に精いっぱい頑張っていて、でも本能に葛藤し、全体の意識にもコントロールされている気がします。
個我と全体意識のハイブリッド である点は人間と変わらないのではないでしょうか。
>本当は人間も全体の意のままに動かされているだけなのに、自分がやっていると勘違いしているだけということでしょうか…
→ 全体の意のままに動かされているだけということはないと思います。自分で選べる範囲はたくさんありますから。でも、鮭が生まれた川に統計的にはほとんど戻るように、プログラムされた存在であることも間違いなさそうですよね。
>自分は今まで、意識=全ての存在を可能にするもの=スクリーン=神、という感覚で捉えていましたが、ちょっと違うのかなと思いました。
→ 私はその世界観がちょっと違っていて、
無限の可能性 = 全てを可能にするもの = スクリーン(バックライト付き)
神 = スクリーンとしての神 or 映像としての神
バックライトというのが 意識 のことです。神という言葉はイメージが色々でむずかしいんですよね。
>映画のスクリーンは一枚でも映写機(意識)は何台もあるみたいな感じでしょうか。意識とは何なのか、少し勘違いしているかもしれません。
→ 意識とは何なんでしょうね。唯一のキャンバスの上で、
確認された動き でしょうか。
動きだとするなら、無数ですね。一般的には、その身体の主のことですし。意識とは何なのか、一人一人認識が違いそうです。
>私がどこにいるのか? 確かに、私の実態は脳の中にもどこにもない気がします。が、自分が考えてこの文章を書いている感覚があり、これから買い物に行ってアレとコレを買わなければと考えている自分もいます。実態はないけど、この思考が自分だと思っている気がします。そして肉体の感覚を感じているのが自分だと思っています。
→ おっしゃることはよくわかるんですが、
今この瞬間 「私」 を見つけてください。できますか? の回答にはなっていないですね。
この質問への回答は、今この瞬間「私」を
見つけた!
見つからない!
このどちらかです。
失礼ながら、たぶんここですね。ここが最大の問題点だと思います。
シンプルに見ていただくだけです。
5秒後も30分前も関係ありません。
いま 「私」 をシンプルに見て主観的な意識の中で発見できるかやってみてほしいんです。
見つからない! と言わせたいんですが、ただ言っていただいてもダメなんです。
skさんがご自分で見て、「私」をどうしても発見できず 見つからない! と叫ばないとダメなんです。
文章は書けます。文章を書く主体であることも否定しません。
買い物の予定も立てられますし、主体的に買い物する人物なのも確かです。
でも、今この瞬間skさんがどんなに全力で探しても
そのプレイヤー感覚の 「私」 は見つからないですよね?
その「見つからない!」が一言出たら、その精神のまま止まることができます。
そうするとskさんをいま日常的に悩ませている思考が止まります。
そうしているうちに意識が変わり始めます。
くどい説明で申し訳ありません。以上です。n040027
こんばんは。どういたしまして。
skさん、昨日までの説明は一度区切りますね。
まずskさんの疑問について考えてみますね。
>一つまだよく分からないのが、肉体の意識(個別の意識)と全体の意識が重なって存在している?
意識が玉ねぎのように重なって存在しているということですが、それは現実に肉眼で見えている周りの人達はもちろん、動植物その他あらゆる物質(ウイルスや無機物も?)にも個別の意識があって、それが重なって存在しているということでしょうか。。
→ 1枚のキャンバス(気づきの海)があって、そこに複数の国家を描いたとします。地図のような絵ですね。
国境線があり、国家Aは自国とそれ以外をその線で分けています。
人間だったら、肉体の皮膚一枚を国境線としてその外は 自分ではない としているわけですね。
その皮膚の外は、物理的な痛みが自分の脳に発生しないですから、合理的です。
少なくとも生存のためには適切な境界線と言えます。
私がskさんにお歳暮でハムを贈ったとして、送った私側の気持ちと、受け取ったskさん側の気持ちも境界線があって分けられています。
それが皮膚一枚の線であるかどうかはわからないものの、私とskさんの間のどこかの地点で、相手の気持ちがわからない 意識の境界線 があります。
キャンバスは一枚です。← これはしっかりとわかる真実です。
国境線は無数にあります。
それらの線は、意識が自己認識する範囲に描かれていると一般的には言えそうです。
ウイルスや無機物が(意識として? )どう感じているかはわかりませんが、ウイルスも無機物も気づかれていますので、キャンバス上の動きであることは間違いありません。落ちる落ち葉のようなものです。
肉体に宿った人間は自己意識を持ちます。それはその肉体によって定義され、限定されます。
肉体が死亡した時点でも意識が続いていた場合、その意識が自己認識する範囲が新しい境界線になります。
境界線は変動するかもしれません。
キャンバスは変わりません。どんな自己認識も可能にするものだからです。
ですから意識とは二義的で、境界線に依存して変動し続ける不安定なものです。
キャンバスは不動です。
>肉体=私と認識しているのは、人間は確実にそうですが、猿やその他の哺乳類にもある程度はそういう認識がありそうな感じがします。それ以外の存在、例えば蟻には、個別の意識があるけど私という認識はないから、私が何かをやっているという感覚もなく、ただ全体の意のままに動されているだけという感じでしょうか。
→ 蟻や蜂や魚は幾何学的な造形もありますので、全体の意のままに動かされている側面がありそうですよね。でも鮭の射精の瞬間などを見ると、
エクスタシーの表情が人間的で、自己意識のままに精いっぱい生きている存在でもありそうです。
ですから私はなんとなく
人間と変わらない生命体で、個別に精いっぱい頑張っていて、でも本能に葛藤し、全体の意識にもコントロールされている気がします。
個我と全体意識のハイブリッド である点は人間と変わらないのではないでしょうか。
>本当は人間も全体の意のままに動かされているだけなのに、自分がやっていると勘違いしているだけということでしょうか…
→ 全体の意のままに動かされているだけということはないと思います。自分で選べる範囲はたくさんありますから。でも、鮭が生まれた川に統計的にはほとんど戻るように、プログラムされた存在であることも間違いなさそうですよね。
>自分は今まで、意識=全ての存在を可能にするもの=スクリーン=神、という感覚で捉えていましたが、ちょっと違うのかなと思いました。
→ 私はその世界観がちょっと違っていて、
無限の可能性 = 全てを可能にするもの = スクリーン(バックライト付き)
神 = スクリーンとしての神 or 映像としての神
バックライトというのが 意識 のことです。神という言葉はイメージが色々でむずかしいんですよね。
>映画のスクリーンは一枚でも映写機(意識)は何台もあるみたいな感じでしょうか。意識とは何なのか、少し勘違いしているかもしれません。
→ 意識とは何なんでしょうね。唯一のキャンバスの上で、
確認された動き でしょうか。
動きだとするなら、無数ですね。一般的には、その身体の主のことですし。意識とは何なのか、一人一人認識が違いそうです。
>私がどこにいるのか? 確かに、私の実態は脳の中にもどこにもない気がします。が、自分が考えてこの文章を書いている感覚があり、これから買い物に行ってアレとコレを買わなければと考えている自分もいます。実態はないけど、この思考が自分だと思っている気がします。そして肉体の感覚を感じているのが自分だと思っています。
→ おっしゃることはよくわかるんですが、
今この瞬間 「私」 を見つけてください。できますか? の回答にはなっていないですね。
この質問への回答は、今この瞬間「私」を
見つけた!
見つからない!
このどちらかです。
失礼ながら、たぶんここですね。ここが最大の問題点だと思います。
シンプルに見ていただくだけです。
5秒後も30分前も関係ありません。
いま 「私」 をシンプルに見て主観的な意識の中で発見できるかやってみてほしいんです。
見つからない! と言わせたいんですが、ただ言っていただいてもダメなんです。
skさんがご自分で見て、「私」をどうしても発見できず 見つからない! と叫ばないとダメなんです。
文章は書けます。文章を書く主体であることも否定しません。
買い物の予定も立てられますし、主体的に買い物する人物なのも確かです。
でも、今この瞬間skさんがどんなに全力で探しても
そのプレイヤー感覚の 「私」 は見つからないですよね?
その「見つからない!」が一言出たら、その精神のまま止まることができます。
そうするとskさんをいま日常的に悩ませている思考が止まります。
そうしているうちに意識が変わり始めます。
くどい説明で申し訳ありません。以上です。n040027
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