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トシさん、こんばんは。こちらこそ読んでくださってありがとうございます。あまり最近書けてなくてごめんなさい。
人間稼業は光で、フィオラのよく使った用語の陰(オン)も光で、愛という使い古された言葉も光そのものの感覚のことです。
つまりすべて光で、それも圧倒的な光です。
闇を感じる時というのは怖れがある時で、根源は「私だけ」神に帰還できないかもしれないという迷子の恐怖です。
その恐怖を感じている方を傍から見て、愚かだと思うでしょうか。
いいえ、みんな同じ恐怖を感じているから誰も愚かだなんて思わないはずです。わかりすぎるくらいその恐怖がよくわかるから。
人にマウントをとるのも、「私だけ」迷子で帰れないかもと強く感じているからにすぎません。
闇って輪郭線みたいですよね。

他人との境目や心の傷との境目を「怖れの線」で描いています。
周囲の闇が、断絶であり、光を遠ざけている距離です。
この距離を生み出しているのは、日々の自分なんですよね。
つまり
他人にかこつけて、世間にかこつけて、
自分の中に内在する大いなる何か との距離を自分で決めていることに無自覚であるということです。
自分のことも他人のことも暖かい目で見れないということは、神との距離が開いているということで、
怖れ(思い込み迷子)の闇が周囲を覆っているということかもしれません。n




無住心(むじゅうしん) Non-Abiding Mind
『金剛般若経』の中の「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」という言葉に拠る。これは、「まさに住する所無くして、しかもその心を生ず」と読み、「いかなる対象にもとどまることのないまま、心を生じるままに任す」を意味する。禅の六祖慧能はこの言葉を師から聞いた瞬間に大悟した(『六祖壇経』)。大珠慧海は『頓悟要門』の中で、「善悪、有無、内外、中間にとどまらず、空にも不空にも、定にも不定にもとどまらない心を無住心という。無住心とは仏心なり」と説いている。


質問者 意識と気づき、どちらが先に現れるのでしょうか?


マハラジ 気づきがそこにひとつの対象物をもったとき意識となる。対象はつねに変わっていく。意識のなかには運動がある。気づき自体は、運動も時間もない今ここにあるのだ。



あなたの視点を叡智の視点に変えなさい


質問者 どうすれば想念を互いに伝達し合えるでしょうか?


マハルシ それはそこに「二」という概念があるときだけ可能です。


想念は立ち現れるため、私たちはそれが生じる元となる何かが存在すると推測し、それを心と呼ぶのです。


あなたの視点が外交的だったため、真我の視野を失い、ヴィジョンも外的なものになったのです。外側の物事の中に真我を見いだすことはできません。

(対話238)




あなたが人々を神という本来の地位に戻し、何をしていようとも、彼らは自分の内なる神のために生きていることを知るとき(これは、あなたが自分の内なる神のために生きているのと同じだが)、あなたはすべての人々を愛することを学ぶことができる。彼らの表現がどんなものであろうと、これまでの存在ではじめて、あなたは本当の意味で彼らを愛することができるのだ。というのも、あなたの愛は価値判断によって制限されたり、抑制されたりするものではないからだ。そして、これがまさに、キリスト、すなわち「神として生きる人間」の内面の在り方なのである。




質問者 先日、私はあなたに二通りの成長の方法、放棄と悦楽(ヨーガとボーガ)について尋ねました。その違いはさほどのものではありませんでした。ヨーギは楽しむために放棄し、ボーギは放棄するために楽しむのです。ヨーギはまず放棄をし、ボーギはまず楽しみます。


マハラジ それが何だというのだね? ヨーガのことはヨーギにボーガのことはボーギにまかせておくがいい。


質問者 私にはボーガの道のほうがより良いように見えます。ヨーギは熟しきらないマンゴーのように、未熟なまま木から切り離され、かごのなかに熟すまで保たれます。風通し悪く、加熱されて、熟しはしますが本当の味と香りは失われてしまうのです。木に残ったマンゴーは完全なサイズで、色、甘さなど、あらゆる喜びをともなって成長します。それでも、どういうわけかヨーギはあらゆる称賛を受け、ボーギは非難を受けます。私の目にはボーギのほうがよりよく映るのです。


マハラジ 何があなたにそう言わせるのだろうか?


質問者 私は多くのヨーギたちと、彼らの途方もない努力を見てきました。たとえ彼らが真我を実現したときでも、何かそこには苦く、厳しいものがあります。彼らは一見、多くの時を三昧(ざんまい)状態のなかで過ごしているようですが、いざ話をすると聖典の引用をするばかりです。そのようなジニャーニ(知者)たちは、もっとも良いところで、完成されていても周囲にわずかな芳香を放つ小さな花のようです。森林のように豊かで、多彩であり、巨大な、動きにあふれる世界をもった何人かの人たちがいます。その違いには何らかの理由があるはずです。


マハラジ あなたはすでに言ったではないか。あなたによればヨーガにおいて人は発育を妨げられ、ボーガにおいて育成するのだと。


質問者 そうではありませんか? ヨーギは人生を恐れ、平和を探し求めます。一方、ボーギは冒険的精神いっぱいに前進するのです。ヨーギは理想に束縛され、一方、ボーギはつねに探検する用意があります。


マハラジ それは多くを望むか、わずかで満足するかという問題だ。ヨーギは野心的だが、ボーギは単に冒険的だ。あなたのボーギはより豊かで、もっと興味深いように見える。だが、実際はそうではないのだ。ヨーギは鋭いナイフの刃先のように、狭く局限される。深く、ためらいなく、数多くの偽りの層を誤ることなく貫くために、彼はそうあらねばならないのだ。ボーギはたくさんの祭壇を崇拝する。ヨーギはただひとつ、彼の真我のみに仕えるのだ。
ヨーギをボーギに対立させるのは、まったく無駄なことだ。外面へ向かう道(プラヴリッティ)は、かならず内面への道(ニヴリッティ)に先行するものだ。判定を下したり、採点したりすることはばかげている。すべてが究極の完成に貢献しているのだ。ある人びとは、実在には三つの層があると言っている。真理、智慧、至福だ。真理を求める者はヨーギとなる。智慧を求める者はジニャーニに、幸福を求める者は行動の人となる。


質問者 私たちは非二元性の至福についての話を聞きました。


マハラジ 非二元性の至福は大いなる平和の本性なのだ。喜びと苦痛は正当、非正当といった行為の結果だ。


質問者 何がその違いを生みだすのでしょうか?


マハラジ 違いは与えることと、つかみ取ることにある。どの道を行こうとも最後にはみなひとつとなる。


質問者 もしゴールに違いがないのなら、なぜ多様な道に区別をもうけるのでしょうか?


マハラジ 各人がそれぞれの自然な本性にしたがって行動するがいい。いかなる場合であっても究極の目的に仕えることだろう。あなたの識別や分類はまったく正しい。だが私にとって、それらは存在しない。何の根拠がなくとも、夢の記述は詳細で正確かもしれない。同じように、あなたの区別分類もまた、憶測に合わせたものにほかならない。ある概念からはじめて、異なった衣装をつけた同じ概念で終えただけだ。


質問者 あなたはどのようにものごとを見るのでしょうか?


マハラジ 私にとっては、ひとつとすべては同じだ。同じ意識(チット)が存在(サット)と至福(アーナンダ)として現れる。動のなかの意識が至福であり、不動の意識が存在だ。


質問者 それでも、あなたは動と不動の区別をつけています。


マハラジ 無区別は沈黙のなかで語る。言葉は区別をともなうからだ。非顕現(ニルグナ)は名前をもたない。すべての名前は顕現(サグナ)に属するからだ。言葉を超えた何かを表現するために、言葉で争うのは無意味なことだ。意識(チダーナンダ)は魂(プルシャ)であり、意識は物質(プラクリティ)でもある。不完全な魂が物質で、完全な物質が魂なのだ。はじまりがそうであるように、終わりもまたそうなのだ。すべてはひとつだ。
すべての分割はマインド(チッタ)のなかにあり、実在(チット)のなかに分割はない。運動と休息はマインドの状態であり、互いに対極なしには存在できないのだ。それ自体では、何も動かず、何も休息しない。絶対的存在を精神的構造に帰属させることは悲惨な過ちだ。それ自体では、何ひとつ存在しないのだ。


質問者 あなたは休息を至高の状態と同一化しているようですが。


マハラジ マインドの状態(チダラム)としての休息があり、存在の状態(アートマラム)としての休息がある。前者は来ては去っていく。一方、真の休息は行為の本質そのものだ。あいにく、言語は精神的道具であるため、対立のなかでしか使うことができない。


質問者 観照者としてのあなたは働いているのでしょうか、休息しているのでしょうか?


マハラジ 観照は体験であり、休息は体験からの自由だ。


質問者 大海のなかで、波のざわめきが深海の静けさと共存するように、それらは共存できないのでしょうか?


マハラジ マインドを超えたところに体験はない。体験とは二元的状態だ。実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成ることを分離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろう。実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割不可能だからだ。そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちらも「私は在る」という感覚のなかに立ち現れる。これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを逃すことになる。


質問者 存在の感覚は体験によってのみ生じるのでしょうか?偉大な真言(マハー・ヴァーキャー)、「タット・サット」(我はそれなり)は単なる思考の様式なのでしょうか?


マハラジ 何であれ、語られたことは言葉にすぎない。何であれ、考えられたことは思考にすぎない。真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ。マハー・ヴァーキャーは真実だが、あなたの観念は偽りだ。なぜなら、すべての観念(カルパナ)は偽りだからだ。


質問者 「我はそれなり」という信念も偽りなのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。信念とは精神的状態だからだ。「それ」のなかに「私は在る」はない。「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、「それ」は光を奪われる。しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダーナンダ)が訪れる。そして至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって束縛がはじまるのだ。


質問者 日々の生活のなかで、あなたはつねに実在の状態を意識しているのでしょうか?


マハラジ 意識もしなければ、無意識でもない。私に信念は必要ない。私は勇気を生きる。生命の愛である勇気が私の本質だ。私には記憶や不安がない。私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。自己描写にふけったりもしない。「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラーマスミ」(我は至高なるものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。私には無として在る勇気がある。そして世界をあるがままに、無として見るのだ。シンプルに聞こえるだろう? 試してみなさい!


質問者 しかし、何があなたに勇気を与えたのでしょうか?


マハラジ あなたの見方は何と倒錯しているのだろう。勇気は与えられる必要のあるものだろうか? あなたの質問は不安が正常で、勇気は異常だということを暗示している。それは反対なのだ。不安と期待は想像から生まれる。私はその両方から自由だ。私はシンプルな存在だ。何に寄りかかる必要もないのだ。
あなたがあなた自身を知らないかぎり、存在があなたにとって何になるというのだろう? あなたのままで幸福であるには、あなた自身を知らなければならないのだ。
在ることは、知ることとして輝く。愛のなかの暖かさ、それを知ることだ。それはみなひとつだ。あなたの分離を想像しておいて、疑問に頭を悩ませている。公式に関わりすぎてはならない。純粋な存在は描写できないものなのだ。


質問者 それを知ることができ、楽しむことができないかぎり、私にとっては何の意味もありません。それはまず、私の体験の一部となるべきです。


マハラジ あなたは実在を体験のレベルまで引き下げているのだ。どうして実在が体験に依存できるというのだろう? 実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。体験は、つまりマインドの状態なのだ。一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。


質問者 またもや私は混乱しています! 在ることは知ることから分離しているのでしょうか?


マハラジ 分離は見かけだけだ。夢が夢見る人から離れてはいないように、知ることも在ることから離れてはいない。夢は夢見る人であり、知識は知る人なのだ。区別は単に言葉の上にあるだけだ。


質問者 私には今、サット(存在)とチット(意識)がひとつだとわかります。しかし、アーナンダ(至福)はどうでしょうか? 存在と意識はつねに一緒です。しかし、至福はごくまれに、瞬間ひらめくだけです。


マハラジ 存在の静かな状態が至福なのだ。乱された状態が世界として現れる。非二元性のなかには至福がある。二元性のなかには体験がある。来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。至福とは知られるものではない。人はつねに至福なのだ。しかし、けっして至福に満ちているのではない。至福とはひとつの属性ではないのだ。


質問者 もうひとつ質問があります。あるヨーギたちは目標を達成しますが、ほかの人たちの役には立ってはいません。彼らは知らないのか、あるいは分かちあうことができないのです。もっているものを分かちあうことのできる人たちは、ほかの人びとに教えを授けます。違いはどこにあるのでしょうか?


マハラジ 何の違いもない。あなたのアプローチが間違っているのだ。助けるべきほかの人びとはいない。ある裕福な人は全財産を彼の家族に投げ出し、乞食に与える一枚の貨幣さえもない。賢者(ジニャーニ)も彼のすべての力と所有物を捨て去り、何も、文字どおり何も彼について言えることはないのだ。彼は誰も助けることはできない。なぜなら、彼がすべての人だからだ。彼がその貧しい人であり、その貧困なのだ。彼が泥棒であり、また盗みなのだ。彼はそれらと分かたれてはいない。どうして彼に助けることができるだろうか? 世界から分離していると考えている人に世界を助けさせればいい。


質問者 それでも二元性はあり、悲しみはあり、助けの必要はあります。それを夢として放棄することでは何も達成されません。


マハラジ ただひとつ助けとなること、それは夢から目覚めることだ。


質問者 それには目覚めた人が必要とされます。


マハラジ その人もまた夢のなかにいる。目覚めた人が終焉のはじまりを意味している。永遠の夢などないのだ。


質問者 たとえ、それにはじまりがないとしてもでしょうか?


マハラジ すべてはあなたとともにはじまるのだ。何かほかにはじまりのないものがあるだろうか?


質問者 私は誕生とともにはじまりました。


マハラジ それはあなたが聞いた話だ。そうではないかね? あなたははじまりを見たのかね?


質問者 私はたった今、はじまりました。それ以外はすべて記憶です。


マハラジ まったくそのとおりだ。はじまりなきものは永遠にはじまる。同じように私は永遠に与え続ける。なぜなら私は何ももっていないからだ。無として在り、何ももたず、自分自身のために何も蓄えないことは、最高の寛容さなのだ。


質問者 自己への関心は残っていないのでしょうか?


マハラジ もちろん、私は自己への関心をもっている。しかし、すべてが自己なのだ。実際それは、尽きることのない普遍的な善意の形をとっている。あなたはそれをすべてに行きわたり、すべてを救済する愛と呼ぶかもしれない。そのような愛は、行動しているという感覚をもたないにもかかわらず、最高に活動的なのだ。

質問者 私とは三つの相のもとに考えられる、とあなたは言いました。個人(ヴィヤクティ)、超個人(ヴィヤクタ)、非個人(アヴィヤクタ)です。アヴィヤクタは普遍的で純粋な真の「私」です。ヴィヤクタは「私は在る」としての意識の反映です。ヴィヤクティは身体の、そして生命の過程の全体性です。狭く制限された現在、超個人は時間と空間の両方において個人に気づいています。ひとりの個人だけではなく、カルマ(因果関係)の糸に通された長い一連の個人たちです。超個人は本質的には観照者であり、同時に蓄積された経験の残留、記憶の所在地、連結する輪(スートラアートマ)でもあります。それは人生が構築し、誕生から誕生へと形づくっていく人格です。普遍的なる非個人はすべての名前と形を超え、意識と人格を超えた、純粋な自己意識の存在なのです。私はあなたの見解を正しく表したでしょうか?


マハラジ マインドのレベルでは、そのとおりだ。知的レベルを超えた彼方では、言葉は適用しない。


質問者 個人が精神的構成観念、一式の記憶と習慣のための集合名詞だということは私にも理解できます。しかし、それに対して個人が現れる、観照の中心も精神的なものでしょうか?


マハラジ 色彩にはそれを現すひとつの面が必要なように、個人には自分自身と同一化するための基盤である身体が必要だ。それがどのような色であっても、色を見るという行為が色に依存することはない。色を見るためには目が必要だ。色はたくさんあるが、目はひとつだ。個人とは色のなかの光、また目のなかの光のようなものだ。それにもかかわらず、単一で、分割不可能であり、その顕現のなか以外では知覚不可能なものだ。不可知ではないが、知覚不可能であり、非客観的で、分離不可能なものだ。物質的でも精神的でもなく、客観的でも主観的でもない。それは物質の根本であり、意識の源だ。単なる生と死を超えて、それはすべてを含み、すべてを除いた生命だ。そのなかでは誕生が死であり、死が誕生なのだ。


質問者 あなたが話す絶対なるものとは実在のものでしょうか、それとも私たちの無知を包み込むための単なる理論なのでしょうか?


マハラジ その両方だ。マインドにとってはひとつの理論であり、それ自体においてはひとつの実在だ。それは自発的で全面的な偽りの拒絶において実在なのだ。光がその存在自体によって暗闇を破壊するように、絶対なるものは想像を破壊する。すべての知識を無知の一形態として見ることが、それ自体実在の動きなのだ。観照者は個人ではない。そこにそのためのひとつの基盤、ひとつの身体、ひとつの有機的組織があるときに個人は立ち現れる。そのなかで、絶対なるものは気づきとして反映され、純粋な気づきは自己覚醒となる。そこに自己が存在するとき、自己覚醒が観照者だ。そこに観照する自己がいないとき、観照もない。それはすべてまったくシンプルだ。個人の存在がことを複雑にしてしまうのだ。永久に分離した個人というものはないことを理解しなさい。そうすればすべては明白になる。気づき─精神─物質、それらは動と不動という二つの相と、不活発性、エネルギー、調和という三つの属性をもったひとつの実在なのだ。


質問者 現在、東パキスタンに苦難と流血が起こっています。あなたはそれをどのように見ますか?それはあなたにとってどのように現れ、あなたはどう反応するのでしょうか?


マハラジ 純粋な意識のなかでは、けっして何も起こらない。


質問者 どうか、その形而上学的高みから降りてきてください! 苦しんでいる人びとにとって、彼自身以外、誰も彼の苦難に気づく人はいないと言われることが何の役に立つというのでしょう? すべてを幻想として退けることは、傷ついた人に屈辱を加えるようなものです。東パキスタンのベンガル人は事実であり、彼らの苦難も事実です。どうか、それを存在しないかのように扱わないでください!あなたは新聞を読んでいるのです。人びとがそれについて話しているのを聞いているはずです。知らなかったとは言えません。さあ、この出来事に対してあなたはどのような態度を取るのでしょうか?


マハラジ 態度はない。何も起こってはいないのだ。


質問者 あなたの目の前で、暴動がある日起こるかもしれません。おそらく、人びとは殺しあっているでしょう。明らかに、何も起こってはいないと言って、距離をおいて超然としているわけにはいきません。


マハラジ 私は距離をおくなどと、一度も言っていない。あなたは私が争いのなかに飛びこんでいって誰かを助け、殺されてしまうのを見るかもしれない。それでも、私にとっては何も起こらなかったのだ。
巨大な建物が崩壊するところを想像してみなさい。いくつかの部屋は破壊され、いくつかはそのままだ。だが空間について、破壊された、破壊されないといったことが言えるだろうか? 被害に遭ったのは、そこに住んでいた人びとと建築物だけだ。空間自体には何も起こらなかった。同様に、形態が崩れ去り、名称がぬぐい去られても、生命には何も起こらないのだ。金細工師は新しい装飾品をつくるために古いものを溶解する。ときおり、良質の金は質の悪いものと一緒になる。彼はそれを巧みに処理する。なぜなら、金自体は失われていないことを、彼は知っているからだ。


質問者 私が反感を感じるのは死ではなく、死に方です。


マハラジ 死は自然なものだ。死に方とは人のつくり出したものだ。分離が恐怖と攻撃を生じさせ、それがまた暴力を生みだす原因となる。人のつくり出した分離を取り除きなさい。そうすれば、人びとが互いに殺しあうというすべての憎悪はかならず終わる。しかし実際には、殺すことも死ぬこともない。真実は死なない。偽りはけっして生きたことがない。あなたのマインドを正しなさい。そうすれば、すべては正される。世界はひとつであり、人類はひとつだと知るとき、あなたはそれにしたがって行動するだろう。しかし、まずあなたが感じ、考え、生きる道に留意しなければならない。あなた自身のなかに秩序がなければ、世界に秩序はありえない。
実際には、何も起こらない。マインドのスクリーン上に、運命はかつて投影された記憶の画像を永遠に映しだす。そのようにして幻想はそれ自体を絶え間なく再生していくのだ。無知によって遮られた光である画像は来ては去っていく。光を見なさい。そして画像は無視するのだ。


質問者 何と無感覚なものの見方でしょう! 人びとが殺しあっているというのに、あなたはここで画像について話しているのですよ。


マハラジ ではあなた自身、行って殺されるがいい。もしそれがあなたのするべきことだと考えるならば。あるいは行って殺すがいい。もしそれがあなたの義務だと感じるならば。だが、それは悪を消滅させる道ではない。悪とはマインドの病の悪臭だ。あなたのマインドを癒しなさい。そうすれば、マインドは歪んだ醜い画像を投影するのをやめるだろう。


質問者 あなたの言われることは理解できます。しかし、私には感情的に受け入れることができません。この単なる人生の観念論的見解は、私に深い不快感を与えます。私には永久に夢の状態にいる自分を考えることができないのです。


マハラジ どうやってはかない身体によって生じた状態のなかに永久にいることができるだろうか?誤解はあなたが身体だという観念に基づいているのだ。その観念を調べてみなさい。その生来の矛盾を見てみなさい。あなたの現存在は火花のシャワーのようなものだ。それぞれの火花は一秒ももたず、シャワー自体は一、二分しかもたないものだと認識しなさい。もちろん、はじまりが終わりであるものが、その中間をもつことはありえない。実在は一時的ではありえない。それは永遠だ。しかし、永遠は期間ではないのだ。


質問者 私の住む世界が現実の世界ではないということは認めます。しかし、そこには私が歪んだ絵として見ている現実の世界があるはずです。歪みは私の身体、あるいはマインドの傷によるものかもしれません。しかし、あなたが現実の世界は存在せず、ただマインドのなかの夢の世界があるだけだと言うとき、私にはそれを受け入れられないのです。すべての存在の恐怖は、私が身体をもつためだと信じることができたなら、と願います。自殺することがその出口なのです。


マハラジ 自分のものであれ他人のものであれ、観念に注意を払っているかぎり、あなたは困難に陥るだろう。しかし、もしあなたがすべての教え、すべての本、すべての言葉で表されたものを無視し、あなた自身のなかに深く潜りこみ、あなた自身を見いだしたならば、これのみがあなたのすべての問題を解決するだろう。そして、それはあなたがあらゆる状況を完全に統御できるようにするだろう。なぜなら、あなたは状況についての自分の観念に支配されないからだ。例えば、あなたが魅力的な女性とともにいるとしよう。彼女のことを想い、それが性的な状況をつくり出す。問題は生じて、あなたは禁欲の、あるいは快楽の本を探しだす。もしあなたが赤ん坊だったら、ふたりとも裸でいても何の問題も起こらない。ただ、あなたが身体だという考えをやめてみるがいい。そうすれば愛とセックスという問題は意味を失うだろう。すべての制限の感覚が去るとともに、恐れ、苦痛、快楽の探求、すべてがやむ。ただ気づきだけが残るのだ。




人間は、心の傷に直面することなど、とてもつらくてできないと怖れ、感情を感じることを避けながら一生を終えます。ところが、実際には、あなたはすでに傷を負っているのです。ただ、その傷を超えたところにある、もっと大きな自分の存在を感じていないだけです。それを感じれば、そこにはエネルギーの動きが生じます。ところが、そこにあるのはエネルギーの動きなのだという真理を見ようとせずに、マイナス極への振れを怖れるという幻影に生きる限り、身動きがとれなくなってしまいます。感情は、自分のなかの動いている部分ですから、止まれません。感情は生まれたり、消えたりします。自分と静かに向かいあって、このことを自分で発見する必要があります。


出来事に対する自分なりの解釈やいわゆる<事実>だけを述べ、相手も同じように解釈と事実のみを語った場合、そのふたつが融合することはけっしてありません。なぜなら何が起きたかについてふたりの人間が同意することはあり得ないからです。同じ出来事を別々の観点から見ているので、ふたりの意見が一致することはありません。ですから出来事だけに目を向けないで、出来事の裏にある感情に耳を傾けてください。そこに痛みが存在します。相手の怖れが理解できると、人は自分にも怖れがあることを知っているので、相手に同情できます。誰かとうまくいっていなかったら、その人とふたりだけで静かに話してごらんなさい。問題となっている出来事の事実関係をほじくり返したりしないで、心の底にある自分の気持ちを伝え、相手の反応を待ってみましょう。


人間を”大いなる故郷”に連れ戻すために、神はあらゆることを利用します。神は人間が創ったものはどんなものでも利用しながら、すべては”大いなる一”なのだということを人間が理解して、地球がひとつになる──そのためにどのような愛が必要なのかを示すわけです。それが、この神の実験の目的です。どうやってそこに到達するかは、あなたが選ぶことです。これがいかにすばらしいことであるか、充分に理解してほしいと思います。


別の言葉で言えば、人生がどんなにつらくてひどいみじめなものであっても、これと同じ基本法則があてはまるということです。あなたの心や頭のなかでどんな感情が起こり、どんな争いが起こっていても、あなたの行動がどんなものであっても、内なる神はそれぞれの瞬間を利用することができます。ただ、神にまかせるのだという気持ちを持っていなくてはなりません。そして神にそうするように頼むのです。




体の死は、眠りに入るのに似ている。スピリットが魂を呼びよせると、魂は「シール」、あるいは「チャクラ」と呼ばれている体の中のエネルギー・センターを通りながら上昇していく。魂とは記憶であるが、それは、頭の中心に位置する最後のシールである第七シール、すなわち脳下垂体と呼ばれる部分を通って体の細胞組織から離れていく。魂がここを通過するとき、しばしば風の音を聞きながらトンネルを通過するような感じとして体験される。トンネルの向こうに見える光が、あなたの存在の光、あなたの存在のスピリットである。魂が体を離れると、体はその役目を終え、その存在は自由な「魂としての自分」になる。これはほんの一瞬の間に起きることで、痛みはまったくない。


死の瞬間、すべては光り出し、恐ろしいほど明るくなってくる。なぜなら、この天界から去る瞬間、あなたは物質の濃密さから抜け出し、光の存在に戻るからだ。そこでのあなたは強力なマインドと感情だけの存在で、光の体があなたの体となる。そして、自分の光の体を通して受け容れた思考によって、その電気的な状態が変わるのである。そこからは、あなたは七つの天界のうちのひとつに行くことになる。あなたがどの天界に行くかは、この天界にいたときに感情的に表現されていた態度によって決まるのである。


「気づき」あるいは「意識の理解レベル」にも、七つの段階がある。その七つの理解とは、「生殖と生存」、「恐れと苦痛」、「力」、「感じる愛」、「表現する愛」、「すべての生命の中に見える神」、そして「私は神である」だ。


この天界、この天国は、「見せる天界」と呼ばれている。なぜならここでは、自分の創造的な力、そして感情という形で表現している自分のどんな態度であろうと、それらを物質の中に見ることができるからだ。この天界は、七つの中でただひとつ、暗闇がその上をおおっている天界であり、光の音楽を耳にできないただひとつの天界でもある。ここに生まれてくる存在たちは、偉大なる「知っている状態」から生まれてきながらも、結局は、社会意識のプログラミングを受けて「何も知らない状態」へと追いやられてしまうのだ。それがここで起こることである。そして、この天界で先に進むのがしばしば非常に困難なのも、やはりこのためである。


あなた方のこの時代は終わりを迎えようとしている。それは「肉体の時代」であった。新しい時代はすでに地平線上にその姿を見せつつある。それは「光の時代」、「純粋なスピリットの時代」、「神の時代」と呼ばれるものだ。すべては平等であり、天の王国はつねに自分の中にあったのだということを人間が知っている時代である。「光の時代」は、人間を無限の思考へと、そしてただ在ることの愛と喜びと自由という崇高な王国へと連れ戻してくれるだろう。この新しい王国そのものになる者たちは、人間の中でも将軍や暴君たちではなく、平和の布告者であり、制限というよどみを超えてこのように言う者たちだ。「私は神であり、自分が見るものすべてを愛する。なぜなら、私は自分が見るものすべてであり、私は自分であるものを愛しているからだ」と。この理解に到るそれぞれの者は、自らのたったひとつの光によって、意識全体を上昇させることになる。そして、あなた方は叡智という真珠で豊かに満たされ、ひとりずつ無限の状態へと戻っていくのだ。そしてその叡智によって、あなた方はそれから先の永遠の中で、さらに賢く創造していくことができるのである。


自分は神であるすべてを受け容れるに値するのだと感じられるほど自分自身を愛するとき、そして自分が「父」とひとつであるのを知ることを望むとき、あなたはこのすばらしい花を咲かせ始める。これが、神のマインドの中にあるすべての思考を受け取るために、あなたが自分の脳の力を開く方法なのだ。つまり、知りたいと望むことによって、そしてその「知っている状態」の感情をすべて感じたいと望むことによってである。




質問者 幸運にも、全人生において私は聖者との交わりをもってきました。それは真我の実現のために充分でしょうか?


マハラジ それは、あなたがそれから何をつくり出すかによる。


質問者 サットサン(聖者との交わり)のなかで起こる解放への働きは自動的なものだと聞きました。川が人を入り江まで運ぶように、善き人びとの深遠な沈黙の影響が私を実在へと導くのです。


マハラジ それは川まであなたを連れていくだろう。しかし、川を渡るのはあなた自身なのだ。自由への意志なしには、自由を獲得することも維持することもできない。解放に向かってあなたは努力しなければならない。最小限あなたにできることは、入念に障害の覆いを取り除くだけだ。もしあなたが平和を求めるのなら、努力しなければならない。ただ静かにしているだけでは、平和は得られないだろう。


質問者 子供はただ成長します。彼は成長のための計画を立てません。パターンももってはいませんし、こちらの手、あちらの足というように、部分的に成長するわけでもありません。彼は完全な形で、無意識のうちに成長するのです。


マハラジ なぜなら、彼は想像から自由だからだ。あなたもまたそのように成長することができる。しかし、記憶や期待から生まれた予測や計画に熱中してはならないのだ。未来に関心がないこと、それがジニャーニ(賢者)の独自性のひとつなのだ。あなたの未来への関心は苦痛への恐れと、快楽への欲望によるものだ。ジニャーニにとってはすべてが至福だ。彼は何が来ようとも幸せなのだ。


質問者 ジニャーニでさえ惨めになるような、多くのことがかならずあるはずです。


マハラジ ジニャーニは困難に遭遇するかもしれない。しかし、それが彼を苦しめることはない。子供を誕生から成人まで育て上げることは困難な仕事かもしれない。しかし、母親にとっては苦難の思い出も喜びなのだ。世界には何の間違いもない。誤りはあなたの見方にあるのだ。あなたを惑わせるのは、あなた自身の想像だ。想像なしには世界もない。あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。あなたが知覚している世界は意識でできている。あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。あなたは永遠に続く時間だ。あなたはそれに生命を与える愛なのだ。想像と執着を切り落としなさい。すると、何が残るだろうか?


質問者 世界が残り、私が残ります。


マハラジ そのとおりだ。だが、あなたが欲望と恐れのスクリーンを通して見ず、あるがままに見るとき、何と違うことだろう。


質問者 実在と幻想、智慧と無知、聖人と罪人、これらすべての区別は何のためにあるのでしょうか?誰もが幸福を探し求めています。誰もが必死になって努力をしています。誰もがヨーギであり、彼の人生は智慧の学校なのです。各人が各々の方法で、必要な教訓を学んでいるのです。社会はある者たちを認め、ほかを否認します。どこでも、いつのときにでも適応する法則というものはないのです。


マハラジ 私の世界では、愛が唯一の法則だ。私は愛を求めず、ただ与えるだけだ。それが私の本性なのだ。


質問者 あなたはパターンにしたがって毎日を生きています。朝には瞑想のクラス、講話と討論を定期的にもっています。一日に二度、礼拝(プージャ)があり、夕方には宗教的な献歌(バジャン)があります。あなたは一日の課程を綿密に固守しているようです。


マハラジ 私の見るかぎり、礼拝や献歌に関しては、私が干渉する理由はない。一般的な日課は、私がともに生活するようになった人びとや、話を聞きに来る人たちの要望に応えたものだ。彼らは働いている人たちで、多くの義務があり、時間の調整は彼らの都合に合わせている。いくつかの繰り返し課程は避けられない。動物や植物でさえ、彼らの時間割をもっているのだ。


質問者 そうです。私たちは生命すべてに規則的な順序を見ます。誰がその秩序を維持しているのでしょうか?そこには法をしき、秩序を守らせる内なる支配者がいるのでしょうか?


マハラジ すべてはその本性にしたがって動くのだ。どこに警察の必要があるだろう?あらゆる行動は反応を生み出し、それが行動を中立化させ、バランスを取る。すべては起こる。だが、そこには絶え間ない取り消しがある。そして最後には、あたかも何も起こらなかったかのようになるのだ。


質問者 最終的な調和で私をなだめようとしないでください。勘定は合っても、損失は私のものなのです。


マハラジ 見ていなさい。最後にあなたは支出を正当化するに充分なだけの利益を得るかもしれないのだ。


質問者 私には長い過去があり、しばしばその多くの出来事が偶然起こったのか、それともひとつの計画によるものなのかと不思議に思うのです。私が生まれる以前に、生きるべき人生のパターンが定められているのでしょうか?もしそうならば、誰がその計画をつくり、誰がそれを強制したのでしょうか?そこに逸脱や誤りはありうるのでしょうか?ある人は、運命は変えられないもので、あらゆる瞬間があらかじめ決定されていると言います。ほかの人たちは、純粋な偶然がすべてを決定するのだと言います。


マハラジ あなたの好きなように受け取るがいい。人生のなかにひとつのパターンを判別することはできるだろうし、単なる偶然の連鎖を見ることもできる。説明とはマインドを喜ばすためにあるのだ。それらが真実である必要はない。実在は定義不可能であり、描写不可能なものだ。


質問者 あなたは私の質問を避けています!私はあなたがどう見ているのかが知りたいのです。私たちは、どこを見ても信じがたいほどの知性と美を見いだします。どうして私に宇宙が無形で混沌としていると信じることができるでしょうか?あなたの世界、あなたが住んでいる世界は無形かもしれませんが、混沌としている必要はないはずです。


マハラジ 客観的な世界には構造があり、秩序をもち、美しいものだ。誰もそれを否定できない。だが構造と様式は、そこに強制と拘束があることを暗示しているのだ。私の世界は絶対的に自由だ。そのなかのすべてが自己決定するのだ。それゆえ、私はすべてがひとりでに起こると言いつづけているのだ。私の世界にも秩序がある。しかし、それは外側から押しつけられたものではない。それはその永遠性によって自発的に即座に起こるのだ。完全性は未来にあるのではない。それは今在るのだ。


質問者 あなたの世界は私の世界に影響を与えますか?


マハラジ 今という一点においてだけだ。それは一時的な存在、つかの間の実在の感覚をそれに与えるのだ。完全な気づきのなかでその接点は確立される。それには努力を要しない非自意識の注意力が必要なのだ。


質問者 注意とはマインドの態度なのではありませんか?


マハラジ そうだ。マインドが実在を熱望しているとき、それは注意を与えるのだ。あなたの世界には何の間違いもない。あなた自身がそれから分離していると考えることが無秩序を生みだす。利己主義がすべての悪の源なのだ。


質問者 私の質問に戻ります。私が生まれる前に、内なる自己が人生を詳細にわたって決定するのでしょうか、それとも完全に偶然のものであって、遺伝と環境のなすがままなのでしょうか?


マハラジ 父親と母親を選択し、つぎの生をどのように生きるかを決定したと宣言する者たちが知っているかもしれない。私自身に関して言えば、私はけっして生まれてこなかったのだ。


質問者 あなたが私の前に座って質問に答えているのを私は見ていますよ。


マハラジ あなたの見ているのは身体だけだ。もちろん、それは生まれてきたし、死ぬだろう。


質問者 私に興味があるのはこの「身体─精神」の人生の物語です。それはあなたによって定められたのでしょうか、それとも誰かほかの人によるのでしょうか、あるいはそれは偶然起こったのでしょうか?


マハラジ あなたの質問自体に策略がある。私は身体と宇宙の間に区別をつけはしない。それぞれが互いの原因であり、互いは真実においてひとつなのだ。だが、私はそのすべての外にいる。私はけっして生まれてこなかったと言っているときに、なぜ私がつぎの生のためにどのような準備をしてきたかといった質問をするのだろうか?あなたが想像を展開させることを許した瞬間、それはただちに宇宙を紡ぎだすのだ。それはあなたが想像するようなものではまったくない。そして、私はあなたの想像には拘束されないのだ。


質問者 命ある身体を育て、維持するには、知性とエネルギーが要求されます。それらはどこから来るのでしょうか?


マハラジ そこには想像があるだけだ。知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされてしまった。あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなってしまったのだ。想像が豊かな創造力であることに疑いはない。宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のなかにあり、実際には存在しないのだ。


質問者 最近私が読んだ記事に、幼年期に残酷に扱われた少女の話があります。彼女はひどく身体を傷つけられ、不具にされ、完全に周囲から疎外されて孤児院で育ってきました。この少女はもの静かで従順ですが、完全に無関心なのです。子供たちの面倒を見ていた尼僧のひとりは、少女は知的障害ではなく、ただ引きこもり、無反応なだけなのだと確信しました。ひとりの精神分析医が治療を頼まれ、一週間に一度面会し、二年間にわたって孤立の壁を打ち破ろうと試みました。彼女は従順で行儀正しいのですが、医師に注意を向けませんでした。彼は彼女におもちゃの家を与えました。移動可能な家具や部屋、父親や母親、そして子供たちの姿の人形を添えて。それが彼女の反応を引き起こし、興味をもたらしました。ある日、古傷が回想され、よみがえり、表層に呼び起こされたのです。次第に彼女は回復し、何度かの手術によって顔と身体は正常な状態に戻りました。そして彼女は有能で、魅力的な若い女性へと成長したのです。それは医師にとって五年以上の歳月を要しました。しかし、仕事は為されたのです。彼は真のグルです!彼は何の条件も押しつけず、用意や適性についても話しませんでした。信頼も希望もなしに、ただ心からの愛をもって何度も何度も試みたのです。


マハラジ そうだ。それがグルの本性なのだ。彼はけっしてあきらめない。しかし、成功するためには、彼はあまり強い抵抗を受けてはならないのだ。疑いや不服従は遅れを余儀なくしてしまう。自信と従順さを与えることで、彼は弟子のなかに革新的な変化をもたらすことができる。グルの深い洞察と弟子の誠実さ、その両方が必要とされるのだ。彼女の状態がどのようなものであろうと、あなたの話のなかの少女は、人びとの誠実さの欠如に苦しんだのだ。もっとも難しいのが知的な人びとだ。彼らは多くを語るばかりで誠実ではないからだ。
あなたが真我の実現と呼ぶものは自然なことだ。あなたの用意が調ったとき、グルは待っている。サーダナ(修練)は努力を要しないものだ。あなたと師の関係性が正しいとき、あなたは成長する。何よりも、彼を信頼することだ。彼があなたを惑わすことはないのだ。


質問者 たとえ、彼が明らかに間違ったことをするように要求したときも信頼すべきでしょうか?


マハラジ そうしなさい。ひとりの隠遁者(サンニャーシン)がグルから結婚をするようにと言われた。彼はそれに従い、苦渋を味わった。しかし、彼の四人の子供たちは皆、マハーラーシュトラ州のもっとも偉大な聖者や賢者となったのだ。何であれあなたのグルから来るものは、喜びとともに受け取りなさい。そうすれば、あなたは努力することなく完成へと成長するだろう。


質問者 師よ、何か欲しいものや望みがありますか?何かあなたのためにできることがあるでしょうか?


マハラジ 私のもっていない何を与えることができるというのだろうか?物質的なものは満足をもたらすために必要だ。だが、私は私自身に満足しているのだ。ほかに何が必要だというのだろう?


質問者 もちろん、空腹のときには食べ物が、病気のときには薬が必要です。


マハラジ 空腹が食べ物を、病気が薬をもたらすのだ。それはすべて自然の仕事だ。


質問者 もしあなたにとって必要だと私が信じるものをもってきたならば、あなたは受け取るでしょうか?


マハラジ あなたに差しださせたその愛が、私をして受け取らせるだろう。


質問者 もし誰かが美しいアーシュラムを建設すると願い出たならどうしますか?


マハラジ 彼にぜひそうさせるがいい。富を使い、何百もの人を雇い、何千人に食事を供させるがいい。


質問者 それは欲望ではないのでしょうか?


マハラジ まったくそうではない。私は彼に適切に、中途半端ではなく、惜しむことなくするように頼むだけだ。私の欲望ではなく、彼が彼自身の欲望を満たしているのだ。彼に成功させ、人や神々のあいだで名を挙げさせるがいい。


質問者 しかし、あなたはそれを望んでいるのでしょうか?


マハラジ 私はそれを望んではいない。


質問者 あなたはそれを受け入れるのでしょうか?


マハラジ 私には必要ないのだ。


質問者 あなたはそのなかに住むでしょうか?


マハラジ もし強要されたならば。


質問者 何があなたを強要するのでしょうか?


マハラジ 光を探し求めている人たちの愛だ。


質問者 ええ。あなたの言われることがわかります。ところで、どうすれば私はサマーディ(三昧状態)に入れるのでしょうか?


マハラジ もしあなたが正しい状態にいれば、何であれ見るものがあなたをサマーディに引き入れるだろう。結局、サマーディは特別な状態ではないのだ。マインドが強烈に興味をもっているとき、それは興味の対象とひとつになる。見る者と見られるものは、見ることのなかでひとつとなり、聞く者と聞かれるものは、聞くことのなかでひとつとなり、愛する者と愛されるものは、愛することのなかでひとつとなる。あらゆる体験がサマーディの根底となるのだ。


質問者 あなたはつねにサマーディに在るのでしょうか?


マハラジ もちろん、そうではない。サマーディは、要するにマインドの状態なのだ。私はすべての体験を超え、サマーディさえも超えている。私は偉大な貪り食う者、破壊者だ。何であれ私が触れるものは虚空(アーカーシュ)のなかへと消え去るのだ。


質問者 私は真我実現のためにサマーディが必要なのです。


マハラジ あなたはあなたに必要な真我実現のすべてを手にしている。だが、それを信頼していないのだ。勇気をもちなさい。あなた自身を信頼しなさい。行き、話し、行為しなさい。それ自体が証明する機会を与えるがいい。ほとんど気がつかないほどの真我の実現が起こるかもしれない。だが、とにかくそれには確信が必要なのだ。変わったにもかかわらず、それに気づかないでいる。そのような劇的ではない場合のほうが、しばしば、もっとも信頼のおけるものなのだ。


質問者 人は自分が真我を実現したと信じたり、誤解したりすることができるのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。「私は真我を実現した」という考えそのものが過ちだ。自然な状態のなかには、「私はこれだ」、「私はあれだ」といった考えはないのだ。
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