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悪意











8月は毛色を変えます。
自己満足の世界ですが、新型コロナとサル痘への「おまじない」に集中してみようと思います。
現段階ではケンタウロスやサル痘、今後の変異型の本当の威力は見通せない状況です。
おまじないであっても、ないよりあったほうが良いと思う時が来るかもしれません。
これらのおまじないはすべてフィオラが発言したものです。


2022年8月20日
一般人を巻き込む悪意。
こどもを巻き込む悪意。
代表者を暗殺してしまおうとする悪意。
精神をすりつぶす奴隷労働のような悪意。
いまも地球上は悪意に満ちています。
地球の悪意ではなく、地表に住まわせてもらっている人類の悪意です。
この悪意は昔からありましたが、そこに「技術」が組み合わさって、新しい計画が生まれます。
原爆を広島と長崎で実際に使用してしまったように、その日は突然訪れます。


一般人はこう思います。
そんなに酷いことをする人間がいるはずがない。
こどもを巻き込むなんて、正気の沙汰ではないし、あるわけがない。
あるわけがないという予測はどうでもいいのです。


万が一に備える選択肢しかありません。
911は防げませんでした。でも備えていなかったら被害はもっと拡大していた可能性が高いです。
わたしたちは現状わかるかぎりのことから万が一に備えるしかないのです。
それが個人であっても同じです。
家族が巻き込まれるのですから。
いつも満足に機能してきた政府ばかりだったわけではありません。


たとえば悪い可能性を一つ考えてみます。


先日透明人間が恐ろしいと書きました。
一番恐ろしい、圧倒的多人数を攻略する方法は


毒殺


です。効果は不可逆なもので、短くて数年、できれば10年ほどで死亡する計画をベストと判断するのではないでしょうか。因果関係が不明瞭になり、「責められにくく」なります。
さらに服毒で死亡したと思わせず、


自然発生した感染症によって死亡した なら猶更都合が良いです。


この状況を生むために、人間の心理を逆手にとった誘導を多用するはずです。
私だったらスケープゴートは三重四重にするまで計画を実行しません。
真犯人は存在すら悟られないように地下に潜っている状況で、身代わりを四重に用意している可能性が高いだろうと思います。


最終局面の感染症は用意すらしなくてもいいかもしれません。
次の感染症で全滅するほど


自然免疫を破壊する装置 を服毒させれば良いのです。


これは単なる悪い可能性の一つです。
万が一の気持ち悪い悪意の可能性に備えて対策する場合、
この現状で


こどもたちにワクチンを打つ でしょうか。
打たなくても被害は軽微であること はほぼ間違いありません。統計上明らかです。
日本で既に8割が接種してしまった現状では、残る希望はこどもたちだけ(29歳以下は26%)です。


こどもたちには絶対に打たない が普通のバランス感覚です。


安易に打たせようとする者たちは、わざと、か、
よく考えていないだけなのです。


唯一の被爆国である日本は、世界で一番悪意の存在を直接的に知る国家の一つのはずです。
よく考えていないだけなのです。
よく考えていない専門家を利用し、
よく考えていないマスコミを手足のように動かし、
よく考えていない民衆に疑問を持たせないような流れを生み出し続けています。


日本の国土を傷つけず・核汚染せずに欲しい正体不明の仮想勢力は
(もしそんなものがあるとすればの思考実験です)
毒を使用する可能性が高いです。
自分の仕業だとわからない方法である大前提さえ守れれば、敵国の国民だけを殺害する技術を日々喉から手が出るほど欲しがっているはずです。n200101


2022年8月19日
動画の上の〇十字のところに懸案のキーワードを書きます。
ここしばらくは 悪意 です。
悪意に満ちた計画が国内外問わず複数動いているのかもしれません。
悪意という文字が消えない内は、悪意が氾濫している状況です。
誰の悪意かはあまり気にしていも仕方ありません。
悪意は悪意です。
個人としても悪意の接近に留意していただきたい状況です。
一例ですが、こどもの未来を守るために安全性の確認されたお薬を打つか、飲むかしてみませんかと言われたらどう判断するか。言う人は笑顔で、善人には見えます。本物の善人の手を利用する背後の悪意もありえます。
人間には、悪意は、あります。言い換えるなら無知と怖れがあります。人間以外の存在なら、人間には理解できない悪意もありえると柔軟に考えても良いと思います。
言い換えれば 悪意マシマシ はいつでもありえるのです。
そのとき気づく者も、気づかない者も同時にいます。それが社会の特徴で、いままでだってそうでした。大抵の場合、マスコミとともに踊る者は騙される側でした。n190520


2022年8月18日
基本的に、ものの見方は自己責任です。
騙されたことが後に判明してから、他人のせいだと騒ぎ出す人は、そもそも状況を整理して責任をとろうとはしていなかったことになります。
流されていては大事な人を守れないこともあります。
油断は忍び寄ります。
油断をもっともよく封じることができる人は、内在する油断をいつも見極めようとしています。
異なる情報を集めようとしています。
新しい技術の可能性と限界を知ろうとしています。
そういう人は自分と人間の愚かさや弱さを本当の意味で知ろうとしている人です。
愚かさや弱さまで知ろうとする人は
ぜんぶ知ろうとしているタイプだから隙がないのだと思っています。
油断を遠ざけ、大事な人を守れる人は
普段からその兆候が顕れているということです。n172332


2022年8月17日
伯山カレンという番組大好きだったんです。終了してしまったいまでも時々ネットで見ています。
伯山さんも好き、カレンさんも好きです。n162257


2022年8月16日
ちあきなおみさんの頃は輪郭のはっきりした曲が多かったような。
いまはエモい曲が多いのですよね。n160216



物理マスクとはかぎらない


光のマスクをイメージする方法もあります。マスクとは言っても、額から首まで覆って、第三の眼と喉のチャクラを防御するようなフェイスシールドを使用するようフィオラから指示されました。
球体で自分を覆うことも汎用性の高い方法ですが、別途「光のマスク」を重ね掛けしてみることもできます。
ちなみに私は感染リスクの高そうな場面では
個人指定 → トキの排出 → 球体で覆う → 光のマスクを3回重ね掛け → 排出(全身) → 光のマスク3回
ケンタウロスの登場以後はこの手順で全身を覆うことを数秒でやるようにしています。



お湯を沸かして 3つの容器に注ぎます。どんな容器でも構いませんが、できれば同形のものを使い、△型に接触させてください。
その時に3つの湯気で家をまるまる覆う1つの球体を想像します。球体の色は何色でも可です。


次の日、冷めた水を容器を指で洗いながら半分ほど排出します。半分の水は容器の底に残します。残る分量は指で念入りに洗った後、自然に残る分量がベストです。
この際に3つの容器を洗いながら、家を覆う1つの球体の内部の汚れを排出しているように想像します。
沸かしたお湯を補充します。一つ一つ容器からほんの少し溢れるまで注ぎます。


これを日々繰り返します。


この家で寝泊まりする限り、外から持ち込んだウイルスは速やかに排出され、家は球体によって守られます。
離れた場所に暮らす方や家を対象に含めても構いません。
球体を離れた場所に複数想像しても良いですし、個人と住居の双方にかけても良いです。
ただし自分以外の個人指定は生年月日とフルネームを正しく指定してください。
住所も自宅以外なら正確に指定してください。


重要なおまじないなので、やってみる方はこれをおまじないの主力として続けてください。
コロナ禍が終わるか、ご自身で必要性を感じなくなるまで続けていただければと思います。


※この3つの容器は元々
1、最初の神(天照太御神あまてらすおほみかみ や 国常立尊くにのとこたちのみこと ではなく、根源の神の中の神)
2、肉体のルーツとなったご先祖霊ご一同様
3、霊のルーツとなった現所属霊団ご一同様
に捧げるものですが、このおまじないでは簡易にするために詳細の指定は省きました。



トキが頭上から舞い降り、頭のてっぺんから黒いゴミ袋をひとつ引きずり出して
真上に飛び去って行きます。
この黒いゴミ袋には、排出すべきものがまとめられて入っています。
自分以外の家族や大切な人を指定する際は 生年月日とフルネーム を指定してからトキにゴミ収集してもらってください。


新型コロナを治すには





生命の水(体内の総体としての水)を


生命(せいめい)の水
人の体内には必要な分量の水が残るようになっています。不要な分はつねに尿として排出され、必要分の水が不足していれば身体は自動的に水を求めるようにできていますから。輸血のできない外科手術を想像してみればわかりますが、一定量の水を失うことは即ち生命維持が不可能になることを意味しますので、生命(いのち)とはこの「生命維持に必要な一個の総体としての水」が維持されていることです。生命(せいめい)の水、が生命(いのち)そのものです。
一個の容器に注がれた水、がつねに補給と排出を繰り返し、生命活動のすべてを循環しながら支えています。今回のウイルス騒ぎで人が死亡するケースは、ウイルスが水に侵入したからではなく、この水の循環そのものが停止したからです。なぜ停止したのでしょうか。
それは水の番人の二人(肺でも腎臓でもなく、肉体の臓器ではない)が「(侵入したウイルス込みで生命を維持するための)指示」を待ったまま停止してしまったからです。
普段からあなたは生命の水にどのような想いを抱き、扱っているでしょうか。
爪や髪を意識して伸ばしていないように、生命の水は顕在意識のおかげで循環しているわけではありません。もっと本能的に重要な部分を占めている深層の意識の指示で循環しています。しかし、顕在意識の声、あなたの声は普段から届いています。
主の御心のままに、いまあなたの水は循環しています。
これからどのようなウイルスが何度形を変えて侵入してきたとしても、あなたの(生命を維持している)水はただ一つです。Fiora20200307


※できれば日頃から 生命の水 という一個の水の総体に感謝して生きていることが望ましいです。水を飲むたびに、今後のあらゆるウイルス感染症に対抗できるのはいま生命を支えてくれている生命の水であることを想うことができます。





生命の水の番人(緑の布のような衣装を着た二人組のダンサー)に
彼らが優雅に力強く踊り狂う姿を幻視しながら


感染してどう感じているのか正直な気持ちを伝え、
今後もこの身体で生きます(対象が家族であっても同様にイメージします)、
対応をお願いします、と依頼します。


もしも、体調が著しく悪い場合、悪化しそうな場合は、
『リヴァイアサン』と呼びながら、生命の水の中にどんな病状にも打ち勝てる龍がいることを思い出します。
ただしイメージは緑のダンサー二人の踊りのままで、名称だけリヴァイアサンと呼びかけます。
持続感染で後遺症が残っているような方(残りそうな方)も、一度リヴァイアサンに頼んだほうがよいかもしれません。


最後に、こちらの願望がどうであれ、最終結果は主の御心のままに…と結びます。
結びながら





このかたちのレンズフレアが上昇していくところを視ます。
明確に太陽が昇り輝いたところを視たら、そのまま眠ってください。
(主の御心のままに…と言いながら〇に十字の太陽を視て完了です)


BA.2.75 ケンタウロスもサル痘も


感染時も治癒時も


これが 半霊半物質 であることを思い出してください。
溶けるように 現れ 溶けるように 消えます。




病気の一部になるか、あるいは治療の一部になるかです。


感情は体験すれば、消えます。感情に抵抗すればするほど、消えずに抑圧されて残ります。
怒り、怖れ、つらさ、悲しみ、いらだち、絶望などは有害なものではありません。その感情が良いか悪いかは、あなたがそれを受け入れるか、拒絶するかで決まるのです。


何をしているかを聞かれて、それぞれが「暮らしを立てている」「最高の石切りの仕事をしている」「教会を建てている」と答えた。第三の男こそマネジャーである。
何のために石を切っているのか。


まだ行っていなかったとして、かつ今知っていることをすべて知っていたとして、今これを始めるかを問わなければならない。答えがノーであるならば、次の反応は、それでは何を行うかでなければならない。


あなたの人生に起こるすべての出来事は、明確な深い意味と目的を持っています。
自分が行うこと、経験することのすべてが、自己に対する理解を深めるプロセスの一部となります。
あなたのなかにある「神を見つけたい、”大いなる故郷”へ帰りたい」と切望する気持ちは、神から切り離された自分というものがあって、神を見つけるためには、どこかへ行ったり、何かをしたりしなければならないとまだ信じている、そういう部分の自分なのです。
人生のいいものすべてが欲しいと人は言います。欲しがらないで、すべてになってください。あなたは、自分が求めるものそのものなのです。そこに達するために越えなくてはならない障害は何もありません。ただしその境地に達するには、自分は神から分離した存在であるという考えを捨てなければなりません。
体験そのもののなかに”神の本質”が含まれています。悟りとか、神を見つけるということの神秘は、まさにこの点にあります。
何も私は、むずかしくてつらいことをしなさいと言っているのではありません。
体験のなかに含まれているものに気づいてほしいのです。
人がそれに気づくのを邪魔する些細なことが山ほど存在するので、注意してください。人を堂々めぐりさせるのは、じつにこうしたつまらない事柄です。
「あれが欲しかったのに」
「もっと私に関心を払って」
「気持ちを傷つけられたわ」
こうした無意味なことが無数にあります。けれどもそれらの背後に隠れているのは、値段のつけようもないほどみごとな真珠であり、永遠に光り輝く”大いなる光”であり、尽きることのない慈悲であり、自分の”存在”のすばらしい神秘の実感なのです。


脳は頭蓋のなかにある。だが、精神はない。


「唯一の偉大な真実」は存在する。究極の現実はある。だが、その現実とはかかわりなく、いつもあなたがたの選択どおりになる。なぜなら、究極の現実とは、あなたがたが神聖な被造物で、自分が経験を創り出してそれを体験しているということだから。


真実とはとても簡単です。どんなに小さな子供にも理解することができ、守ることができるものです。
ものごとが複雑にこんがらがってしまった時は、できるだけ早く、単純さを取り戻す努力をしましょう。あなたがいつも静かで、良い聞き手にならなければならないのはそのためです。


自己憐憫にとらわれ、それに浸り切ります。もう万事休すです。
そうです。すべてうまくいっているから神の助けを借りないで、一人で行こうとすると、私はいつもそうなりました。
(中略)
「自分を非難しないこと。自己批判をしないこと。自分を許し、先に進みなさい。しなければならないことはいくらでもあります」
失敗した時はいつもこの教えを使用しました。
(中略)
修養を常に続けて、神といつもつながっている感覚を保つようにして下さい。


「今まで自分は、主導権を発揮することのできない、現実の次元ばかりに気を取られていて、主導権を握っている自分の側、自分の内側に無頓着だった」とその矛盾に自ら気づいたとき、私たちは、主導権のある内を変革して、結果として外が変わるという態度を示してゆくことができるようになるのです。


人間社会において、唯一確実なものは変化である。自らを変革できない組織は(略)


決定の基礎となった仮定を現実に照らして継続的に検証していくために、決定そのものの中にフィードバックを講じておかなければならない。決定を行うのは人である。人は、間違いを犯す。


他人をあれこれと判断しないこと。他人の値踏みもしないこと。人の噂話もしないこと。
あの人はどうのこうのといつまでも考えないこと。
そのような想像や考えをできるかぎり少なくすること。


真実ばかりではなく、真実をどう思っているかを隠さねばならない場合が多い。事実は正反対でも、そう言ってはならないことを知らねばならない。


その後振り返ってみて、ホーはあらためて、チーズ・ステーションCのチーズは一夜にして消えてしまったわけではないことを悟った。チーズはどんどん少なくなり、残りもしだいに古びて、もうおいしくなくなっていた。
彼は気づかなかったが、しだいにカビてきていたのかもしれない。


Q. すると、最も高次の信頼とは、「信じる必要がない」ことなんですか?
A. そのとおり。
Q. でも、どうすれば、あなたに何も望まず、要求もせずにすむようになれますか?
A. すでに自分のものだと気づくことによって。あなたは、必要なものはすべてもっている。
Q. でも、すでにもっているのなら、どうして必要だなんて思うんでしょう?
A. すでにもっていることを知らないから、認識の問題だよ。


哲学者ばかりが哲学をするわけではなく、どんな職業のどんな年齢の方であっても、人生の毎日の中で哲学をやっているのです。
(中略)
人間は、もう一人の自分を持っています。神性とか仏性とか呼ばれているものがそれです。人生の最終の目的は、そういうもう一人の自分、つまり神さまの前に立った時に、堂々と顔を上げていられるだけの自分自身になることだと思うのです。
ですから、〈即是道場(そくぜどうじょう)〉ということで、自分の体の赴くところ、トイレに入ることから、仕事場、家庭の中、とにかく自分の体が行くところは、すべて教会であり、お寺なのです。教会やお寺、神社へ行った時、あるいは仏壇の前に座っている時にだけ清い気持ちになっても仕方がないのです。自分が非常に清められたような気分になった状態を、いつでもコンスタントに保っていられるようにするということを、発想の転換によって行ってゆく、ということが修行なのです。
(中略)
毎日の生活の中で、灰皿ひとつ、お花ひとつに対する、ものの考え方といったことが、修行のひとつひとつとなるのです。


地獄、極楽はあの世にばかりあるのではありません。
我々人間の胸三寸(むなさんずん)の中にあるのです。


監視者は、私のもの(=「私」という観念)の本質である、という関係が理解されなければ、(「私」という観念と監視者との間の同一性についての)理解はない。


行為の結果は、無明と欲望とを原因としており、無常である。


明白性や不明白性は、対象・主体などとは異なる監視者にのみ属するのであって、対象・主体などの各々に属するのではない。


解脱とは状態の変化である、と主張する人にとっては、解脱は作られたものである。それゆえに、その解脱は不安定なものである。


内我は、「それ自体で認識される」と同義語である「それ自体を知識根拠としている」、と認められるべきである。われわれの見解によれば、自分自身のアートマンの直観は、「私」という観念が止息したときに確立する。


無明のために、アートマンとは別のものの見であり、身体の中にあり、身体と同じ大きさであり、水に映る月などのように、身体の属性をもつもののように見做される。


「私は認識主体であり、認識対象ではない。常に清浄であり、解脱している」と識別する観念もまた、統覚機能に属している。その観念は認識対象であり、滅するものであるから。


アルジュナよ 見たいものは何でもわが体の中に見よ
現在見たいもの 将来見たくなるもの
動くものも動かぬものも
渾然としてわが内に一体であることを見届けよ


私が愛し、仕えているこの神は、それを通してすべての神秘がなされるものであり、生命全体の絶え間ない継続性である。生命の王国のこの絶え間ない継続性は、永遠に続いていくものであり、そこでは「今」という瞬間だけが存在する。


二つの意見が対立する場合、両者は互いに自分のほうに理があると信じている。しかし、理はつねに公正であり、二つの顔をもつことはあり得ない。こうした微妙な状況に置かれた場合も、良識を用いれば慎重に対処することができる。すなわち、自分の判断を少し緩め、他人の判断を考慮に入れながら、こちらの見解に不確かな点がないかどうか考えてみるのがよい。
このとき、こちらの想像力は相手の立場にまで及ぶことになる。


明智(みょうち)とは、アートマンとブラフマンとは同一であるという理解であり、無明(むみょう)とは、アートマンとブラフマンとは異なっているという理解である。


わかる必要はないのだ。わからなければならないのは自分自身の真実であって、誰かの真実ではない。それさえわかれば、すべてが理解できる。誰かの言葉が真実かどうかは、どうでもよくなる。その言葉が、自分の真実に導いてくれさえすればいい。


しなければならないことは何もなく、ただ存在のしかたがあるだけだ。
そして、存在のしかたとしては、「ひとつであること」があるだけだ。


自分は何者か? 自分は何者か? 自分は何者か?
そして、わたしはどんな存在であることを選ぶのか?
これが唯一の重要な疑問であり、あなたがたの魂が人生を使って、一瞬一瞬に決めていることだ。
見いだそうとしているのではない。決めている。人生は発見のプロセスではなく、創造のプロセスだから。
すべての行為とは、自己を定義する行為だから。
神はすべての瞬間に自己を創造し、自己を体験するプロセスにいる。あなたがたがここでしていることも同じだ。
そして、あなたがたは真の自分を経験するために、自分でないものを経験するという行為を利用している。


アインシュタインの理論で真に革命的なことは「空間、時間の座標系には独立した物理的実在としての客観的重要性がある」という考え方を放棄した点だ。


仏教の根本義は対象界を超越することです。


すでにあなたの中に息づいている平安に気づくならば、あなたには、あなたのすべての努力、人間関係、あなたの人生のあらゆる局面において、その土台を信頼するという選択肢が与えられます。


苦しみの根底には、無知があります。私の言う「無知」とは、自分の真の姿をないがしろにし、代わりに、ある問題、ある苦しみと自分を同一視するということです。限界のないあなたの真の姿を無視し、永遠不滅の神性の存在を無視し、存在そのものをないがしろにすることが、終わりのない苦しみの根本原因です。終わりのない苦しみは、あなたが、幸福、真理、自由などと考えるものを、あなたという存在とは別のものとして捉えることから生まれます。


あなたがそれを「する」のではない。それは何か、常にそこに在るものだ。


想念も、想像も、努力もない場所を見いださなければならない。


受容や拒絶をするには「私」が必要とされる。そこに「私」という想念がないかぎり、受容も拒絶もありえない。これが「私」が存在できない場所なのだ。


優越など存在しないと気づくことだ。わたしたちが一体なら優越などはありえない。自分が自分に優越するはずがないからだ。


予期せぬことを重視しなければならない。ところが、報告システムのほとんどが予期せぬことを無視するようになっている。この間違いを直すことはできる。


誤りは真我と身体を同一視することにあります。


個人、神、そして束縛という三つの実体があります。そのような三位はどの宗教にも共通のものです。心が機能しているかぎり、それらも実在性を持つでしょう。


最も気高く、すぐれた考えを体験する場を与えてくれる価値観に従いなさい。


あなたに起こること、あるいはあなたを通して起こることで、自分の最高の善のためにならないことは何もない。


「私は何ものかである」という信念や感情は、無知、つまり、体験の真の性質を無視することを前提として生まれます。これは架空の立場です。
私たちは何ものでもない、つまり物事ではなく、開かれていて、空で、輝く気づきの現存であると知っている立場は、叡智と啓示の立場です。
そして私たちこそが、目に見えるすべての物事の要素、心、体、世界のすべてのあらわれの要素であると知っている立場は、愛、純粋な親密さの立場であり、ここにおいては内側の自己も、外側の対象物、他者、世界も存在しません。
私たちにはこの三つ、「私は何ものかである」、「私は何ものでもない」、「私はすべてである」という三つの選択肢しかありません。そして、あらゆる瞬間、私たちは選びたい立場を選ぶことができます。


質問者 瞑想はプラティーカム(イメージ、象徴)があれば容易なのですが、真我探究にはプラティーカムがありません。


マハルシ 深い眠りの状態を考えてごらんなさい。あなたはそのとき存在していました。そこにどんなプラティーカムがあったでしょうか? ですから、プラティーカムがなくとも真我を実現することはできるのです。

(対話482)


質問者 アートマ・サークシャートカーラ(真我実現)とは何でしょうか?


マハルシ あなたはアートマン(真我)であり、サークシャート(今ここにある直接体験)でもあるのです。そのどこにカーラ(実現)が必要でしょうか? この質問は、あなたが自分を真我ではないと考えていることを表しています。


この質問の根底には、あなたが自分自身を粗大な身体と同一視しているという事実があるのです。


今、あなたは自分自身を身体だと見なしています。そして自分の周りに物事を見るように、真我も目で見たいと考えているのです。習慣はそのように影響を与えるものです。


アートマ・サークシャートカーラとはアナートマ・ニラーサナ(真我ではないものの放棄)なのです。

(対話565)


マハルシ 束縛は外側にはないのです。それゆえ、解放を求めるための外的な救済策は必要ありません。
そのようなことを考えて束縛されるか、考えるのをやめて自由になるかは、あなたの能力の内にあるのです。


質問者 それでも、考えなしでいることは容易ではありません。


マハルシ





考えを止める必要はありません。





ただ想念の源だけを思いなさい。
ただ想念の源だけを探して、
ただ想念の源だけを見いだしなさい。

(対話524)


ものごとを正確に見極めるには、外的な状況がどんなふうで、どう動いているかだけでなく、自分がその状況にどんな感情を投影しているかも見極めねばなりません。内的現実、外的現実のどちらも視野にいれます。


問題は、あなたが何かを知らないということではありません。
問題は、何か見つけなくてはならない、あるいはこの瞬間以外に何か必要なものがある、とあなたが考えていることなのです。


それはこうあるべきだということもないし、うまくいったからといってくりかえすべきでもありません。それはあなたの学びの成果ではありません。それは、あなたが無条件の心と、生き生きとしたかかわりをもったからです。


マハルシ 立ち現れた「私」も、いずれは沈みゆきます。それが個人の「私」、あるいは「私」という観念です。





立ち現れたことのないものは、沈みゆくこともありません。





それはただ存在しています。そして永遠に存在し続けるのです。それが普遍かつ完全な「私」真我実現です。


自分が嫌だと思うものが人であれ、状況であれ、何であれ、あなたがそれを見たり考えたり想像したりできるということは、それがあなたの中にもあるということです。あなたの中になければ、あなたはそれを見たり、それについて考えたり想像したりできないからです。何かに嫌悪感を感じたら、それが自分のグリッドの中にあって、自分はそれから逃げ出さないで体験する必要があるのだと気づくと、嫌悪感は自然になくなります。


一つの根本的真理を認めなくてはなりません。現在この瞬間、いまの自分に何もつけ加えることも取り除くこともせず、いまあるがままの姿で、自分は神であることを知ることができる、という真理を認めなければなりません。


自分に正直な人であれば、他人から傷つけられることは何度も何度も起こることである、と認められるはずです。人生の基本的真実を心の奥深くで理解すると、他人からまた傷つけられるのではないかと心配する必要がなくなります。そしてその真実とは、「あなたの人生に関わるすべての人、世界中すべての人は心の平安を求めている」ということです。他人を傷つけてしまったり、他人から傷つけられたりしたときにも、その行為は決して意図的なものではない、ということが理解できると、心の平安を求めることの助けになります。


本質的には、誰も他人を傷つけようなどと意図していないのだということが理解できますか。人は憎しみや悪意や悔恨から他人を傷つけるのではありません。無知と怖れから人を傷つけるのです。


質問者 気づきの訓練とはどのようなものでしょうか?


マハラジ 訓練の必要はない。気づきはつねにあなたとともにある。あなたが外面に対して与える注意を、内面に向けるだけだ。何も新しく、特別な周囲の気づきが必要なわけではない。


凡庸な精神
凡庸さの要因の一つは達成しよう、結果を持とう、成功しようとする衝動ではないだろうか? そしてわれわれが創造的になることを欲するとき、われわれは依然としてものごとを浅薄に扱っているのではないだろうか? 私は【これ】だ、そしてそれを私は【それ】に変えようと欲する、それゆえ私はいかにしてと尋ねる。しかし創造性が、何か追求されるべきもの、達成されるべき結果であるとき、精神はそれをそれ自身の状態へと引き下げてしまったのだ。われわれはこの過程を理解しなければならないのであって、凡庸さを何かほかのものに変えようと試みてはならない。


両方に気づくこと
単に部分的に鋭敏であることは、麻痺していることである。美を受け入れて、醜に逆らうことは、何の感受性も持たないことである。沈黙を歓迎して、騒音を拒むことは、全的ではないことだ。鋭敏であることは、沈黙と騒音のうちの一方を追い求めて他方に逆らうことなく、両方に気づくことである。それは、自己矛盾なしにあること、全的であることなのである。


自分の経験を正直によく見てみれば、自分の時間のほとんどを、ある状況を避けるか、”抵抗する”ために使っているのがわかります。それを避けようとすればするほど、そういう状況が数多く起きてくるのは当然です。逃避と否定からは何も学べないからです。


目の前にある今の状況に立ちむかい、責任をとろうとするとき、初めてその状況に意味をもってかかわることができます。恐怖心に直面し、対決することが、プロセスの第一歩です。


あなたは自分がこの世界にいるのは、有意義でかっこうのよいことをあれこれ達成するためだと思っているでしょうが、それはあなたのエゴが人々に認められようとして叫んでいるにすぎません。あなたがここにいるのは、何かをなしとげるためではなく、自分や他人について抱いているまちがった観念や信念をゼロにもどすためです。


あなたの心や経験のなかの混沌や混乱はすべて、完全にいま現在にいて、現在にのみ注意を向けることで乗りこえられます。これこそ奇跡的な真実です。


神がすべてであり、すべては一つなのだとしたら、普遍的な深い”愛”の感情が存在し、「相手」がいなくでも、それを感じることができるはずです。何をしているときにも、これが真実であると固く信じて、”大いなる愛”の感覚を探し求め、それを待ち望んでください。それを感じることができると、自分にパワーが戻ってきます。そうなるとあなたは、”大いなる愛”のパワーがある、自分の「存在」の中心にいることになるのです。


そのために必要なのは、そうした愛を自分は当然感じるだろうという「期待感」です。


マハラジ マインドを超えたところに体験はない。体験とは二元的状態だ。実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成ることを分離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろう。実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割不可能だからだ。そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちらも「私は在る」という感覚のなかに立ち現れる。これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを逃すことになる。


最終的な責任はあなた方にあります。悩みや苦しみをなくす方法が存在し、それがいまここにあるということを忘れないようにしてください。


モード(様態)


マハルシ 眠り、夢見、目覚めは、真我の前を通り過ぎてゆく様態でしかありません。それらはあなたが気づいていようといまいと、自動的に移り変わっていきます。ジニャーニの境地では、目覚め、サマーディ、眠り、夢見の状態が彼の中で移り過ぎてゆきます。それはちょうど牛車に乗った旅人が、牛が動いているときも、立ち止まっているときも、くびきをはずして休んでいるときも、気づかずに眠っているのと同じ状態です。

(対話313)


マハルシ 真我の真の本性は「平和」として在ることだと言われています。もしその「平和」が見いだせないとしても、その「見いだせない」ということは一つの想念でしかなく、真我とは相容れないものです。
瞑想をするのは、このような真我と相容れない想念を取り払うためです。それゆえ、想念は立ち現れたそのときその場で静められなければなりません。いつであれ想念が起こったときは、その波にさらわれてはなりません。真我を忘れると身体に気づくようになります。しかし真我を忘れることができるでしょうか? 真我として在りながら、忘れることができるでしょうか? もしそうであれば、そこには忘れる自分と忘れられる自分の二人がいるはずです。それは馬鹿げています。





それゆえ、真我は憂鬱ではなく、不完全でもありません。真我は常に幸福です。それに反する感情はただの想念にすぎず、それ自体は何の力も持っていないのです。





想念から自由になりなさい。

(対話462)


マハルシ この詩節の真の意義は、アートマンだけをとらえ、そこから道を踏み外さないことです。


問題が起こるのは、自分自身以外のものが存在するときです。「アートマンは唯一存在する一者である」ということを真に理解すれば、他者もなく恐れの原因もなくなるでしょう。


真我に心をとどめ、行為者という感覚なしに、自然に行為しなさい。そうすれば、行為の結果があなたに影響することはないだろう。


「真我の内に在る」ことが『ギーター』の教えの大要であり、精髄なのです。

(対話58)


神とは絶対的幸福である


あなたが悩みを持たず、素直で明るい意識だったら、いまよりずっとおもしろくて魅力的な人間になるかもしれませんよ。神の覚醒意識を望むというのは、非常に深いところに根ざした欲求です。あなたが勝者の意識を持たず、望みどおりの人生を手に入れるという意識を持っていないのだったら、覚醒意識を手に入れるという問題においても、やはりそれを「得る」ことはできないでしょう。そういう人は、「求める人」で終わってしまいます。勝者のみが「見つける人」になれるからです。意識の転換が必要です。


自分が感じたいと思っている、新しい感覚について話すようにしてください。人生のすばらしさや価値や”大いなる光”を、自分の人生のなかに探すようにしてください。そして、それ以外のものにはあまり注意を払わないことです。自分のすべてを受け入れるという生き方を、ますます熱心に実践するようにしてください。そのために必要なことは、何でもしてください。


この勉強を始めたときに言ったことですが、神は地を這う虫には興味がないのです。神は、生き生きと元気にあふれ、パワフルで拡がりゆく意識に興味があるのです。だからといって、そういう人はけっして気分が沈んだりしないという意味ではありません。どんな感情も抑えつけず、自分の望むことに意識を集中してください。”神意識”と最も調和している人々は、前向きで生き生きとしていて、強じんな明るさと優しい心を持っています。そうした人たちは、よいことも悪いことも、自分は何でもすることができることを知っていながら、そういうなかで罪の意識を捨てて、代わりに”大いなる光”と”幸せ”と神を選ぶことに精神を集中しているのです。


マハルシ ほとんどの人が、「多数の個人が存在する」という論点に立っています。
人は自分を自我と同一視し、「自分のような存在が他にも数多く存在するに違いない」と議論します。


ある人が夢の中で大勢の個人を見たとします。目を覚ました後でも、その人は夢の中で見た大勢の個人が実際に存在すると信じて、彼らについて尋ねたりするでしょうか?


ここに水の入った容器がいくつかあり、その中に月が映っていると想像してください。それぞれの容器に映った月のイメージはみな違ったものですし、本物の月のイメージもまた違ったものです。もし容器の一つが床に落ちてこなごなになれば、その中の月の反映も消え去るでしょう。しかしその反映の消滅が本物の月に影響を与えることはありませんし、他の容器の中の反映も影響を受けません。これは個人が解脱に達するのと似ています。ただその人だけが解脱するのです。


多様性を支持する二元論の学派(ドヴァイタ)は、このことについて非二元論の学派(アドヴァイタ)に反論します。「真我が単一なら、一人が解脱すればすべての魂が解脱するはずなのに、実際はそうではない。それゆえ、アドヴァイタ学派は間違っている」と。


この議論の欠点は、「真我本来の光」と「真我の光の反映」とが取り違えられているところにあります。自我、世界、個人は、すべて個人のヴァーサナー(心の潜在的傾向)ゆえに現れ、ヴァーサナーが消え去れば、個人が見ていた幻影も消え去ります。つまり一つの容器が壊れたとき、その反映も消え去るのです。


実際のところ、真我が束縛されたことなど一度もなく、それゆえ解放もありません。
あらゆる問題は自我にとってのみ存在するのです。

(対話571)


月は空にある。私はそれに叫びかけ、唾を吐きかけることもできる。私はそれを礼拝し、花を投げかけ、賛歌を歌うこともできる。私の行為によって月は影響を受けただろうか? いいやまったく受けなかった。それはただ輝きつづけるばかりだ。私たちが良いふるまいをしようと悪いふるまいをしようと、喧嘩をしようと瞑想をしようと、月は何の影響も受けない。それは空についても同じことだ。私たちは空の中に座っている。四つの壁の中には空がある。私たちは瞑想しているかもしれない。あるいは何か他のことをしているかもしれない。私たちが何をしようと、あるいはしなかろうと、空は影響されないままだ。私たちが存在しようと不在であろうと、空にとっては何の違いもない。これが四つの壁の中にある空間なのだ。


あなたはすべての物事が現れては消え去るその空なのだ。物事があなたなのではない。あなたは世界の活動にも無活動にも影響されない。物事が存在しようと不在だろうと、あなたにとっては何の違いもない。あなたは常に空なのだ。


もしあなたが継続したエゴだとしたら、誕生以来あなたに起こった考えや信念、アイデアや体験、記憶や気づきなどのすべてが脈々とこの瞬間に生きてあふれ返っていなくてはなりません。自分が継続した実体だと思い込もうとすることで、本当に継続しているものが体験できなくなっています。


本当に継続しているものはこれまでもずっとありましたし、いまもあります。それは<我在り>と言うときの”我”です。それはあらゆるものが流れ出る”源”です。それは始まりの前にあり終わりの後にあるもので、意識の本質です。それは純粋な意識そのものです。それが継続するもので、それ以外には何も継続しません。
それ以外のものであなたがこの瞬間にもたらすものはすべて、目に見える、継続した有限の人間として自分が存在すると思い込みたいがためにあなたがもたらしているものです。


あらゆるものの中を息づくただひとつの現実があるだけです。それ以外はすべて幻影です。あなたは自分が考えているものとは違います。あなたはいつどう変わるともしれない短い命を、あてもなくおびえながら生きる意識のかけらではありません。あなたは広大無辺の完全に目覚めたすばらしい意識であり、それを充分に体験するのはあなたの持って生まれた権利です。これからのあらゆる瞬間にそのことを完全に完璧に知るようになってほしいというのが、わたしの願いです。


あなたが自分自身と呼んでいるあの慣れ親しんだ感覚、間違って<自分>と呼んでいるあの感覚に気づくように、ここでまたお願いしたいと思います。実際のところ、あの慣れ親しんだ感覚というか、歓喜の絶頂から憂鬱のどん底まで、愛から憎しみにいたるまで、不安から喜びにいたるまで、あらゆる過程に存在する感覚こそがあなたの本質です。あなたは”わたし”を間違って<自分>と呼んでしまったのです。生まれたり消えたりするのは有限の<自分>です。あなたといつもいっしょにいて、朝目覚めた瞬間からもっとも深い夢の瞬間までいるのが”わたし”の本質です。


あなたは”わたし”の本質をいつも感じているのですが、それをいままでは間違った名前で呼んできました。これまであらゆる瞬間に感じてきた感覚があなたが求めているものです。ほかのあらゆるものはその上に反映されます。こうしてここにすわっているときも、常に変わらず存在するのはその純粋な意識です。わかりますか。あなたは自分がすでにそうであるものを求めているのです。あまりに明らかで、不変で、強く、なじみが深いので、それがわからなかったのです。どうか見過ごさないでください。


森羅万象いかなる処にもわたしを見
わたしのなかに森羅万象を見る人を
わたしは必ず見ている
彼は常にわたしと共にある

バガヴァッド・ギーター 第6章30節


質問者 私の年齢でもハタ・ヨーガを遂げることはできるでしょうか?


マハルシ なぜそのようなことを考えなければならないのですか? あなたは真我があなたの外側に存在すると考えるため、それを求めて努力するのです。しかしあなたは常に存在しているのではないでしょうか? なぜ自分自身を離れて、外側にある何かを追い求めるのでしょうか?

(対話619)


マハルシ あなたは純粋意識なのです。グリハスタ・ダルマも世界も純粋意識の上に現れた単なる現象にすぎず、それは影響を受けることなくとどまります。


疑いが誰にとって起こるのかを見なさい。疑う者とは誰でしょうか? 考える者とは誰でしょうか? それは自我です。それをとらえなさい。
自我がどこから立ち現れるのかを見いだしなさい。それが純粋意識なのです。


「私は実現できるだろうか?」という疑いや、「私はまだ実現していない」という感覚自体が障害なのです。

(対話251)


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。


あなたが自分の未解決の問題に直面する勇気を持つと、あなたの心が一挙に大きく開かれ、人間は誰でも同じ問題を抱えているのだ、ということに気づきます。あなた方はみな怖れているのです。それというのも、自分はこの危険に満ちた世界を行く先もわからずにすすんでいる、ちっぽけな存在であると、自分を取りちがえて考えているからです。


これから先、もっとも有益な道具は、自己の限られた意識以外のものを体験したいという願望です。前にも言ったように、人は自分が何であるかということを思いちがいしています。


自身の傷に対して自分で愛を与えるという責任をとらないうちは、攻撃──防御、罪悪──非難という悪循環から抜け出ることはできません。怒り、傷つけられたという思い、裏切られた感じ、それらはあたかも正当なように見えますが、おたがいのいさかいの火に油を注ぐだけでなく、自分は愛されないし、愛する能力もない、という無意識の信念をたえず強めていきます。


自分自身がどれほど自己を憎悪しているかに気づく必要があります。鏡をのぞいて、そこに自分の信じていることがそっくり映っているのがわかるまでは、まずは日々出会うすべての兄弟姉妹を鏡として、自分が自分をどう見ているのかを知ることができます。この実践は特にむずかしくはありませんが、天国への最短距離というわけではありません。自分の見ているものは、よその人への教訓なのだと考えがちだからです。


「悪事をふたつ重ねても、ひとつの善事にはならぬ」という言い回しを聞いたことがありますか。これこそ、わたしの教えの中心にあるものです。あらゆる悪事は、正しいやりかたで修正されなければなりません。それ以外の修正方法は、攻撃となります。


無住心(むじゅうしん) Non-Abiding Mind
『金剛般若経』の中の「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」という言葉に拠る。これは、「まさに住する所無くして、しかもその心を生ず」と読み、「いかなる対象にもとどまることのないまま、心を生じるままに任す」を意味する。禅の六祖慧能はこの言葉を師から聞いた瞬間に大悟した(『六祖壇経』)。大珠慧海は『頓悟要門』の中で、「善悪、有無、内外、中間にとどまらず、空にも不空にも、定にも不定にもとどまらない心を無住心という。無住心とは仏心なり」と説いている。





天界を地上におろすのはあなたです。そのために何をしていますか?
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