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リシが手を振ってバーソロミューの注意を引くと、「ダライ・ラマは同じ魂が何度も生まれ変わってきているのですか」と質問した。


「何百万という仏教徒にとって、そうした考えは自分たちの宗教観とぴったり合います。というのも、非常に慈愛深い信頼できるパワーを持つものがいつも戻ってきてくれることを意味するからです。そういう見方もできます。しかしもっとも高いレベルから言うと、不可能なことです。仏陀自身が、いくつもの人生を渡り歩く魂というものは存在しないと言っています。もう少し正確な言い方をすれば、先に亡くなったダライ・ラマの一部が今回の人生でダライ・ラマ十四世と呼ばれる有限の姿を取ることを選び、残りの膨大な部分はいま現在、ほかの次元に存在しています。
ひとつの小さな魂がこの人生からあの人生へと渡り歩くというのは非常に狭い概念です。実際はそれよりはるかにすばらしいです。ダライ・ラマの一片が、教えや指導者としてのパワー、自分が演じることになっている役割の自覚などをたずさえて地球に戻ってきますが、それよりはるかに大きな部分があって、いろいろなことをしています。ついでに言うと、あなた方の大部分もいろいろなことをしているのですが、あなた方はそのことを忘れています。あなた方はいくつもの次元で豊かに生きていて、別のすばらしい潜在的可能性を通して現実を創造しています。ダライ・ラマはこの無限の可能性についてよく知っているのですが、あなた方は忘れることを選んだというわけです」


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ここにいる誰もが、本当は幸せな人生を送っているのだ。人々がそのことに気づかないのは、彼らの幸せの理想像というものが、小さな妖精ティンカーベルのように、あちこちと動きまわりながら、いろいろなものを青やラベンダー色やピンク色に変えていく道化師のようになることだからだ。


ここにいる誰もが幸せなのだ。なぜなら、誰もが自分の意志にしたがいながら、まさに自分自身がやりたいことをやっているからだ。病気になることを望んでいる者たちは、病気になっている。不幸になりたい者たちは、実際に不幸になっている。それは、彼らがそうなりたいからであり、そうなることによって自分が幸せになれるからだ。もしあなたが誰かを無理やり笑わせようとすれば、その人間はあなたの前で泣き崩れてしまうことだろう。


ここにいる誰もが、いろいろな表現をしながら、生きることを楽しんでいるのである。もしそうしていなければ、一瞬のうちに彼らは死んでしまうだろう。そして、それぞれのときがやって来ると、彼らは死ぬ。自分は必ず死ぬと思っているからだ。マスターよ、ある日あなたは、喜びと、ただ在ることの平安の中で、自分のまわりのあらゆる人々を見ながら気づくだろう。彼らがどのように表現していようとも、彼らはみな限りなく幸せなのだということに。


「今」という瞬間は、いつでも未踏の領域である。「今」とは、何でも許される瞬間である。あなたはその未踏の瞬間を、自分の態度によって、自分の定めたとおりのものにするのだ。あなたは不機嫌で、苦痛と悲しみに満ちた、みじめな自分になることもできるわけだが、それはまったくその瞬間にできることだ。あるいは、次の瞬間には自分の態度を変えて、美しくて、自由で、魅惑的で、幸せな、喜びに満ちあふれた自分になることもできるが、それもその瞬間にできることだ。さらに次の瞬間には、前の二つの瞬間にまったく影響されることなく、陰うつになったり、聡明になったり、献身的になったり、後悔する人間になったりすることもでき、自分が望むどんなものにでもなれるのだ。


あなたは第七の理解に向かって進んでいる。その理解とは、すべてのものの中にある神を知っているということだ。


今日でも、あなた方のほとんどは、自分が神であること、そして自分の中にすべてを知り、すべてになる力があることをいまだに知らない。だからこそ、あなた方は教師や宗教やほかのあらゆる者に自分の人生を支配させ、自分に代わって彼らに真実を解釈してもらっているのだ。あなた方の時間でもう長い間語られてきた単純な真実、すなわち「『父』と天の王国は、本当はあなたの中にあるのだ」という単純な真実が、他人の理解によって複雑でわかりにくいものになってしまうのをあなた方は許しているのである。これよりも偉大な真実があるだろうか?だが、それがわからないあなた方の多くは、神とつながり、覚醒するためには、教義や何らかの「形式的なもの」、つまり儀式や祈りやチャンティングや断食や瞑想といったものが不可欠だといまだに思っている。だが、こういったことをすればするほど、あなたは自分の魂に、自分はまだ自分がなろうとしているものではないこと、そして自分はまだ神の愛や自分が求めている理解から遠く離れていることを、さらに強く確信させることになるのだ。


さまざまな儀式を行い、教義にしたがうことも間違ってはいない。だが、そういったものが完全に正しいと感じられることもけっしてない。なぜなら、あなたの内なる声、すなわち神はこう言ってくるからだ。「あなたはすでに、あなたが到達しようと奮闘しているものになっているのだ」と。


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質問者 私とは三つの相のもとに考えられる、とあなたは言いました。個人(ヴィヤクティ)、超個人(ヴィヤクタ)、非個人(アヴィヤクタ)です。アヴィヤクタは普遍的で純粋な真の「私」です。ヴィヤクタは「私は在る」としての意識の反映です。ヴィヤクティは身体の、そして生命の過程の全体性です。狭く制限された現在、超個人は時間と空間の両方において個人に気づいています。ひとりの個人だけではなく、カルマ(因果関係)の糸に通された長い一連の個人たちです。超個人は本質的には観照者であり、同時に蓄積された経験の残留、記憶の所在地、連結する輪(スートラアートマ)でもあります。それは人生が構築し、誕生から誕生へと形づくっていく人格です。普遍的なる非個人はすべての名前と形を超え、意識と人格を超えた、純粋な自己意識の存在なのです。私はあなたの見解を正しく表したでしょうか?


マハラジ マインドのレベルでは、そのとおりだ。知的レベルを超えた彼方では、言葉は適用しない。


質問者 個人が精神的構成観念、一式の記憶と習慣のための集合名詞だということは私にも理解できます。しかし、それに対して個人が現れる、観照の中心も精神的なものでしょうか?


マハラジ 色彩にはそれを現すひとつの面が必要なように、個人には自分自身と同一化するための基盤である身体が必要だ。それがどのような色であっても、色を見るという行為が色に依存することはない。色を見るためには目が必要だ。色はたくさんあるが、目はひとつだ。個人とは色のなかの光、また目のなかの光のようなものだ。それにもかかわらず、単一で、分割不可能であり、その顕現のなか以外では知覚不可能なものだ。不可知ではないが、知覚不可能であり、非客観的で、分離不可能なものだ。物質的でも精神的でもなく、客観的でも主観的でもない。それは物質の根本であり、意識の源だ。単なる生と死を超えて、それはすべてを含み、すべてを除いた生命だ。そのなかでは誕生が死であり、死が誕生なのだ。


質問者 あなたが話す絶対なるものとは実在のものでしょうか、それとも私たちの無知を包み込むための単なる理論なのでしょうか?


マハラジ その両方だ。マインドにとってはひとつの理論であり、それ自体においてはひとつの実在だ。それは自発的で全面的な偽りの拒絶において実在なのだ。光がその存在自体によって暗闇を破壊するように、絶対なるものは想像を破壊する。すべての知識を無知の一形態として見ることが、それ自体実在の動きなのだ。観照者は個人ではない。そこにそのためのひとつの基盤、ひとつの身体、ひとつの有機的組織があるときに個人は立ち現れる。そのなかで、絶対なるものは気づきとして反映され、純粋な気づきは自己覚醒となる。そこに自己が存在するとき、自己覚醒が観照者だ。そこに観照する自己がいないとき、観照もない。それはすべてまったくシンプルだ。個人の存在がことを複雑にしてしまうのだ。永久に分離した個人というものはないことを理解しなさい。そうすればすべては明白になる。気づき─精神─物質、それらは動と不動という二つの相と、不活発性、エネルギー、調和という三つの属性をもったひとつの実在なのだ。


質問者 意識と気づき、どちらが先に現れるのでしょうか?


マハラジ 気づきがそこにひとつの対象物をもったとき意識となる。対象はつねに変わっていく。意識のなかには運動がある。気づき自体は、運動も時間もない今ここにあるのだ。


質問者 現在、東パキスタンに苦難と流血が起こっています。あなたはそれをどのように見ますか?それはあなたにとってどのように現れ、あなたはどう反応するのでしょうか?


マハラジ 純粋な意識のなかでは、けっして何も起こらない。


質問者 どうか、その形而上学的高みから降りてきてください!苦しんでいる人びとにとって、彼自身以外、誰も彼の苦難に気づく人はいないと言われることが何の役に立つというのでしょう?すべてを幻想として退けることは、傷ついた人に屈辱を加えるようなものです。東パキスタンのベンガル人は事実であり、彼らの苦難も事実です。どうか、それを存在しないかのように扱わないでください!あなたは新聞を読んでいるのです。人びとがそれについて話しているのを聞いているはずです。知らなかったとは言えません。さあ、この出来事に対してあなたはどのような態度を取るのでしょうか?


マハラジ 態度はない。何も起こってはいないのだ。


質問者 あなたの目の前で、暴動がある日起こるかもしれません。おそらく、人びとは殺しあっているでしょう。明らかに、何も起こってはいないと言って、距離をおいて超然としているわけにはいきません。


マハラジ 私は距離をおくなどと、一度も言っていない。あなたは私が争いのなかに飛びこんでいって誰かを助け、殺されてしまうのを見るかもしれない。それでも、私にとっては何も起こらなかったのだ。
巨大な建物が崩壊するところを想像してみなさい。いくつかの部屋は破壊され、いくつかはそのままだ。だが空間について、破壊された、破壊されないといったことが言えるだろうか?被害に遭ったのは、そこに住んでいた人びとと建築物だけだ。空間自体には何も起こらなかった。同様に、形態が崩れ去り、名称がぬぐい去られても、生命には何も起こらないのだ。金細工師は新しい装飾品をつくるために古いものを溶解する。ときおり、良質の金は質の悪いものと一緒になる。彼はそれを巧みに処理する。なぜなら、金自体は失われていないことを、彼は知っているからだ。


質問者 私が反感を感じるのは死ではなく、死に方です。


マハラジ 死は自然なものだ。死に方とは人のつくり出したものだ。分離が恐怖と攻撃を生じさせ、それがまた暴力を生みだす原因となる。人のつくり出した分離を取り除きなさい。そうすれば、人びとが互いに殺しあうというすべての憎悪はかならず終わる。しかし実際には、殺すことも死ぬこともない。真実は死なない。偽りはけっして生きたことがない。あなたのマインドを正しなさい。そうすれば、すべては正される。世界はひとつであり、人類はひとつだと知るとき、あなたはそれにしたがって行動するだろう。しかし、まずあなたが感じ、考え、生きる道に留意しなければならない。あなた自身のなかに秩序がなければ、世界に秩序はありえない。
実際には、何も起こらない。マインドのスクリーン上に、運命はかつて投影された記憶の画像を永遠に映しだす。そのようにして幻想はそれ自体を絶え間なく再生していくのだ。無知によって遮られた光である画像は来ては去っていく。光を見なさい。そして画像は無視するのだ。


質問者 何と無感覚なものの見方でしょう!人びとが殺しあっているというのに、あなたはここで画像について話しているのですよ。


マハラジ ではあなた自身、行って殺されるがいい。もしそれがあなたのするべきことだと考えるならば。あるいは行って殺すがいい。もしそれがあなたの義務だと感じるならば。だが、それは悪を消滅させる道ではない。悪とはマインドの病の悪臭だ。あなたのマインドを癒しなさい。そうすれば、マインドは歪んだ醜い画像を投影するのをやめるだろう。


質問者 あなたの言われることは理解できます。しかし、私には感情的に受け入れることができません。この単なる人生の観念論的見解は、私に深い不快感を与えます。私には永久に夢の状態にいる自分を考えることができないのです。


マハラジ どうやってはかない身体によって生じた状態のなかに永久にいることができるだろうか?誤解はあなたが身体だという観念に基づいているのだ。その観念を調べてみなさい。その生来の矛盾を見てみなさい。あなたの現存在は火花のシャワーのようなものだ。それぞれの火花は一秒ももたず、シャワー自体は一、二分しかもたないものだと認識しなさい。もちろん、はじまりが終わりであるものが、その中間をもつことはありえない。実在は一時的ではありえない。それは永遠だ。しかし、永遠は期間ではないのだ。


質問者 私の住む世界が現実の世界ではないということは認めます。しかし、そこには私が歪んだ絵として見ている現実の世界があるはずです。歪みは私の身体、あるいはマインドの傷によるものかもしれません。しかし、あなたが現実の世界は存在せず、ただマインドのなかの夢の世界があるだけだと言うとき、私にはそれを受け入れられないのです。すべての存在の恐怖は、私が身体をもつためだと信じることができたなら、と願います。自殺することがその出口なのです。


マハラジ 自分のものであれ他人のものであれ、観念に注意を払っているかぎり、あなたは困難に陥るだろう。しかし、もしあなたがすべての教え、すべての本、すべての言葉で表されたものを無視し、あなた自身のなかに深く潜りこみ、あなた自身を見いだしたならば、これのみがあなたのすべての問題を解決するだろう。そして、それはあなたがあらゆる状況を完全に統御できるようにするだろう。なぜなら、あなたは状況についての自分の観念に支配されないからだ。例えば、あなたが魅力的な女性とともにいるとしよう。彼女のことを想い、それが性的な状況をつくり出す。問題は生じて、あなたは禁欲の、あるいは快楽の本を探しだす。もしあなたが赤ん坊だったら、ふたりとも裸でいても何の問題も起こらない。ただ、あなたが身体だという考えをやめてみるがいい。そうすれば愛とセックスという問題は意味を失うだろう。すべての制限の感覚が去るとともに、恐れ、苦痛、快楽の探求、すべてがやむ。ただ気づきだけが残るのだ。


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Fiora & nobody