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今日の話の中の女性は病気を治そうと努力したのではありませんでした。この点がふつうの癒しの物語と違っている点で、おもしろいと思います。彼女は現時点では治らない病気にかかってしまいました。彼女は自分が治る可能性を信じていなかったので、自分が治るところをイメージできませんでした。それでも彼女は治りました。


雨乞いの祈りはせずとも、干ばつと調和したからです。


病気に関していうと、病気と闘わなければよくなれないと信じている人がたくさんいます。これは抵抗です。病気と闘うイメージを使うと負けます。戦争と同じで、敵と戦えば、どちらかが勝ってどちらかが負けます。こうしたイメージは強い恐怖を呼び起こします。そして恐怖が前面に出れば、調和ははるか後ろに引き下がります。ですから考え方を変える必要があります。


病気とは、体の細胞の中にひっかかって出られなくなったエネルギーだということをまず思い出してください。この出られなくなったエネルギーは、過去の感情や考えや体験の集合体ですので、それを出してやるには別の種類のエネルギーが必要です。一番いいのは、愛と感謝と光、それに清らかなパワーのイメージで細胞を満たしてやることです。別のエネルギーが入ってきてそれが体内を流れている様子に意識を向けるだけでいいのです。いまあるエネルギーを快く受け入れ、それが別の種類のエネルギーに変わるようにそっと導いてあげるわけです。


何物もいっさい無視することなく、あらゆるものに意識を向けるとき、喜びが生まれます。


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人間が、自分は卑しい罪人であり、「父」は自分の外にいるのだという教えを受け容れたとき、人間は自分を神から完全に切り離してしまった。そしてこの理解、この信念の受容こそが、人間を繰り返し化身に戻らせている原因なのだ。


ふたたびこのことを言うが、神はあなたの中にいるのだ。あなたのあらゆる生において、神はずっとそこに存在していたのであり、あなたはすでに神なのだ。なぜなら、神とは、あなたの存在の内奥に宿る神聖なる創造的知性のことであり、その愛によってあなたに制限を体験させ、そしてその同じ愛によって、あなたをふたたび無限の状態へと戻してくれる本質だからである。


自分の存在の内面において、自分は卑しい存在なのだと「知っている状態」になったのとまったく同じように、あなたが今、自分は神なのだと自分の存在の内面で知れば、あなたは自分のすべてにおいて神になる。純粋な思考である「第七のレベルの理解」と呼ばれるもの、すなわち「ただ在る」という究極の状態(これはあなた自身があらゆるものの究極の力である状態だが)に戻るためには、「父」が自分の内面に宿っていることをただ知るだけでいいのだ。なぜなら、あなたの存在の魂の中には、自分が神であるという記憶が宿っているからだ。その記憶はあなたの魂の中で眠っている状態にあり、あなたによって認められ、あなたによって実際に現実として体験されるように、待機しているのである。そうなるのは、知ることによってだ。自分は神なのだとあなたが知るとき、その「確信」のフィーリングが、自分の「知っている状態」が真実であることをあなたに教えてくれる体験と理解を創り出す。その「知っている状態」をあなたに与えることのできる者は、誰もいない。あなただけが、自分自身の思考プロセスと感情的な在り方を通して、その理解を達成することができるのだ。


もう一度言うが、自分の本来の姿でいること以外、この天界であなたが成しとげなければならないことは何もない。なぜなら、自分が神であることを「知っている状態」は、ただ在る状態において達成されるからだ。というのも、神とは「存在性」、つまり「存在すること」であるからだ。それはすべての生命の「在ること」である。ただ在る状態でいる、つまりあなたがどんな表現をしていようと、単純に自分本来の姿でいることを自分に許している状態でいるということは、「父」とまったく同じようになるということである。そして、それを達成するには、ほんの一瞬しかかからない。ほんの一瞬の間に実現するのである。


神とは、この「今」という瞬間のことだ。無限とは、この「今」という瞬間のことである。「永遠なる神」になるということは、この「今」という永遠の中にのみ生きるということだ。というのも、神はそのようにして生きているからだ。ただ在る状態でいなさい。そうすれば、あなたはすべての生命の「在ること」、その絶え間ない継続性とひとつになり、あなたの体も自らを上昇させてその継続性そのものになっていく。


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質問者 ここには何人かの聖者の写真があります。彼らはあなたの霊的系統の歴代の師たちだと聞きました。彼らは誰なのでしょうか。また、どのようにしてそれははじまったのでしょうか?


マハラジ 私たちは「九人の師(ナヴナート)」と呼ばれている。伝説では、私たちの最初の師はダッタートレーヤ* だと伝えられている。彼はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三代神の偉大なる化身だ。この「九人の師」でさえも神話なのだ。


訳注*  ダッタートレーヤ Dattaatreya
ヴェーダの教え以前の時代の聖者。特にアドヴァイタ・ヴェーダーンタの教義の代表格である『アヴァドゥータ・ギーター』、『ジーヴァンムクタ・ギーター』、『トリプラ・ラハーシャ』の著者として知られる。ヒンドゥー教三大神の化身であり、ダッタートレーヤ・サンプラダーヤの創始者。


質問者 彼らの教えの独自性とは何なのでしょうか?


マハラジ  そのシンプルさにある。理論においても、実践においても。


質問者 人はどのようにしてナヴナートになるのでしょうか?秘伝伝授によってでしょうか、あるいは継承によってでしょうか?


マハラジ  どちらでもない。ナヴナート・パランパラ、すなわち九人の師の伝統は、川の流れのように実在の大洋に流れ着き、誰であれそれに溶け入った人が伝えていくのだ。


質問者 それは同じ伝統に属す、生きた師からの容認を暗示しているのでしょうか?


マハラジ  「私は在る」という感覚にマインドの焦点を合わせるサーダナ(修練)を重ねてきた者たちは、同じサーダナを継承してきたほかの人びと関係していると感じるかもしれない。そして彼らの間に生まれた密接な親近感を、自らをナヴナートと呼ぶことによって表すのかもしれない。それは彼らに確立した伝統に所属する喜びを与えるのだ。


質問者 所属することによって、彼らは何らかの恩恵を受けるのでしょうか?


マハラジ サットサン、「聖者たちとの交わり」の輪が時を経るにしたがって広がっていくのだ。


質問者 それによって、彼らは所属しなければ閉ざされたであろう力と恩寵の源を占有するのでしょうか?


マハラジ  力と恩寵は求める者たちに、そしてすべての人に開かれている。自分自身に特定の名前を与えることは何の助けにもならない。何であれ好きな名で自分を呼ぶがいい。あなたが真剣にあなた自身を覚えることをマインドにとどめているかぎり、自己知識にとっての蓄積された障害はかならず一掃されるだろう。


質問者 もし私があなたの教えを気に入り、指導を受ければ、私をナヴナートと呼ぶことができるのでしょうか?


マハラジ 言葉に耽溺したあなたのマインドをそれで喜ばすがいい!名前があなたを変えることはないのだ。せいぜいそれはあなたに正しくふるまうよう思い出させる程度だろう。グルと弟子の継承というものはある。弟子は師と入れ替わり、より多くの弟子たちを養成し、このようにして系統は維持されていく。しかし、伝統の継承は非形式的な、任意のものだ。それは家系の名前のようなものだ。ただ、ここでの家系は霊的なものなのだ。


質問者 サンプラダーヤに加わるには、あなたは真我を実現しなければならないのでしょうか?


マハラジ  ナヴナート・サンプラダーヤは単なる伝統のひとつ、教えと修練の方法のひとつにすぎない。それが意識のレベルを表すわけではないのだ。もしあなたがナヴナート・サンプラダーヤの師をあなたのグルとして受け入れれば、あなたは彼のサンプラダーヤに加わるのだ。普通あなたは、彼から見られること、触れられること、あるいはひとつの言葉として、また、ときには生き生きとした夢として、あるいは強烈な思い出としての彼の恩寵のしるしを受ける。ときには弟子のふるまいと人格の意味深い急速な変化が、恩寵の唯一のしるしであることもある。


質問者 私はあなたを知り、定期的にあなたに会うようになって、もう何年にもなります。あなたへの想いが私を離れたことはけっしてありません。それは私をあなたのサンプラダーヤに加わったことにするのでしょうか?


マハラジ  あなたの帰属は、あなた自身の感情と確信の問題だ。結局、それはまったく言語上の形式的なものだ。実際には、グルも弟子もなく、理論も修練もない。無知も解脱もまたないのだ。すべてはあなたが自己を何と見なすかにかかってくる。あなた自身を正しく知りなさい。自己知識に代わるものはないのだ。


質問者 自己を正しく知ることで、どのような証明を私は得るのでしょうか?


マハラジ  証明の必要はない。その体験は唯一無二の、まぎれもない明白なものだ。障害がある地点まで取り除かれたとき、悟りはあなたに突然開かれるだろう。それは極度に張りつめた縄が、ぷっつり切れるようなものだ。縄を縒ることがあなたの仕事だ。縄の切れる瞬間はかならずやってくる。それを遅らせることはできても、妨げることはできないのだ。


質問者 私はあなたが因果関係を否定されたことに混乱させられています。それはつまり、世界がありのままであることは、誰の責任でもないということでしょうか?


マハラジ  責任という概念は、あなたのマインドのなかにある。あなたは起こることすべてに対して何か、あるいは誰かが完全な責任を取らなければならないと考えている。多様な宇宙と単独の原因との間には、ある矛盾がある。二つのうちのどちらかが偽りに違いない。あるいはどちらともだ。私が見るかぎりでは、それはすべて白昼夢だ。概念のなかに実在はない。事実は、宇宙もその原因も、あなたなしで存在のなかに現れることはできなかっただろうということだ。


質問者 私には自分が創造物なのか、それとも宇宙の創造主なのかを見てとることができません。


マハラジ  「私は在る」が変わらぬ事実だ。一方、「私は創造された」はひとつの観念だ。神も宇宙もあなたのもとへやってきて、彼らがあなたを創造したと伝えはしなかった。因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、そして「創造者は誰なのか?」と不思議がるのだ。マインド自体が創造者だ。これさえもまた完全な真実ではない。なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。マインドと世界はひとつだ。あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。


質問者 世界はマインドの外にあるのでしょうか、それともその彼方にあるのでしょうか?


マハラジ  すべての時間と空間はマインドのなかにある。どこにマインドを超えた世界を位置づけるというだろうか?マインドには多くのレベルがあり、それぞれがそれ自身の解釈を投影する。それでも、すべてはマインドのなかにあり、マインドによって創造されたものなのだ。


質問者 罪に対するあなたの態度はどのようなものでしょうか?あなたは罪人を、内面または外面の法則を破った誰かをどう見ますか?あなたは彼に変わってほしいと願うでしょうか、あるいは、ただ彼を哀れむだけでしょうか?または、罪を犯したゆえに無視するのでしょうか?


マハラジ  私はどのような罪も罪人も知らない。あなたの区別や評価が私を拘束することもない。誰もがその人の本性にしたがってふるまうのだ。それはどうすることもできないことであり、遺憾に思う必要もないのだ。


質問者 他者が苦しむでしょう。


マハラジ  生命は生命を食べることによって生きている。自然のなかでは、その過程は強制的なものだ。社会においては、それは任意のものだ。犠牲なしに生命はありえない。罪人は犠牲になることを拒む、そして死を招く。それはただ、あるがままであり、非難や哀れみの理由にはならないのだ。


質問者 もちろん、ある人が罪に深く染まっているのを見るとき、あなたは少なくとも哀れみを感じることでしょう。


マハラジ  そうだ。私はその人を私だと感じ、彼の罪は私の罪だと感じるのだ。


質問者 そのとおりです。そして、それからどうするのでしょう?


マハラジ  私が彼とひとつになることによって、彼も私とひとつになる。それは意識的な過程ではない。まったくひとりでに起こるのだ。私たちのどちらも、どうすることもできない。起こらなければならない変化が、とにかく起こるのだ。今ここで自己がひとつであることを知るだけで充分だ。自己のマインドのなかを熱心に、秩序立てて調査することがヨーガなのだ。


質問者 罪によってつくり出された運命の連鎖についてはどう見られますか?


マハラジ  罪の母である無知が溶け去ったとき、運命である、再び罪を犯そうとする脅迫的欲求もまたやむのだ。


質問者 そこには報復があるはずです。


マハラジ  無知が終焉するとともに、すべては終わりを告げる。そのとき、ものごとはあるがままに見られ、そしてそれは善なのだ。


質問者 もし法を破る者、罪人があなたの前に現れ、あなたの恩寵を請うとしたら、あなたはどう反応するでしょうか?


マハラジ  彼は彼の望む者を得るだろう。


質問者 非常に悪い人でもあなたの恩寵を得るのでしょうか?


マハラジ 私は誰も悪い人を知らない。私はただ私自身を知っているだけだ。私はいかなる聖者も罪人も知らない。ただ生きる存在を見るだけだ。私は恩寵を施したりはしない。私には与えるものは何もないし、拒むものもない。あなたたちは等しい量をすでにもっているのだ。ただあなたの豊かさに気づきなさい。そしてそれらを充分利用するがいい。私からの恩寵を必要だと想像するかぎり、あなたは私の家の戸口でそれを乞うことになるのだ。
私があなたから恩寵を乞うことはけっしてない。私たちは分離してなどいない。実在は共有のものだ。


質問者 ある母親があなたに悲痛な話をもってやってきます。彼女のひとり息子が麻薬とセックスに溺れ、状況はより一層悪化するばかりです。彼女はあなたの恩寵を求めています。あなたはどう対処されますか?


マハラジ  おそらく私は、彼女にすべては良くなるだろうと私自身が伝えているのを聞くことだろう。


質問者 ただそれだけですか?


マハラジ  それだけだ。それ以上何をあなたは期待するというのだろうか?


質問者 しかし、彼女の息子は変わるのでしょうか?


マハラジ  変わるかもしれない、変わらないかもしれない。


質問者 あなたのまわりに集まった人びとや、あなたを何年も知ってきた人びとは、あなたが「それはすべて良くなるだろう」と言ったとき、つねにあなたの言ったようになるのだと、皆口をそろえて話しています。


マハラジ  あなたは同様に、母親の想いが子供を救ったのだと言えるだろう。なぜなら、すべてに無数の原因があるからだ。


質問者 自分自身のために何ひとつ望まない人は全能だと聞きました。宇宙全体は彼の思いどおりだというのです。


マハラジ  もしあなたがそう信じるならば、それにしたがって行動するがいい。個人的な欲望をすべて放棄しなさい。そして蓄えられた力を、世界を変えるために使うがいい。


質問者 すべての仏陀たちやリシ(見者)たちは、世界を変えることに成功しませんでした。


マハラジ  世界は変わることに身をゆだねはしない。それはその本性からして苦痛に満ち、はかないものなのだ。それをあるがままに見るがいい。そしてあなた自身からすべての欲望と恐れをぬぐい去りなさい。世界があなたを捕らえ、縛りつけなくなったとき、それは美と喜びの住処となる。世界のなかで幸福となれるのは、あなたがそれから自由になったときだけだ。


質問者 何が正しく何が間違いなのでしょうか?


マハラジ  一般的には、苦しみを生じさせることが間違いで、苦しみを取り除くことが正しい。身体とマインドには限界があり、それゆえ傷つきやすい。それらが保護を必要とすることが恐れを生みだすのだ。それらと自己同一化するかぎり、あなたが苦しむのは避けられない。あなたの非依存性を自覚し、幸せでありなさい。あなたに言おう。これが幸福の秘密なのだ。あなたの幸せがものごとや人びとに依存すると信じることは、自己の真の本性に関するあなたの無知によるものなのだ。自己知識を除いては、幸せとなるために必要なものは何もないと知ることが智慧なのだ。


質問者 存在と欲望、どちらが先に現れるのでしょうか?


マハラジ  意識のなかに存在が立ち現れるとともに、あなたが何であるか、また何に成るべきかという観念も立ち現れる。これが欲望と行動を生み、何かに成るという過程がはじまるのだ。成ることには、明らかにはじまりも終わりもない。なぜなら、それは毎瞬毎瞬、新たにはじまるからだ。創造と欲望が停止したとき、成ることはやみ、あれやこれとして在ることは純粋な存在へと溶け去る。それは表現することのできない、ただ体験することだけが可能なものだ。
世界があなたにとって、それほどにも圧倒的に現実のものとして現れるのは、あなたがそれについてつねに考えているからだ。それについて考えるのをやめてみなさい。そうすれば、それは霧のなかに消えていくだろう。忘れる必要はない。欲望と恐れが終焉したとき、束縛もまた終わりを告げるだろう。私たちが人格や気性と呼ぶ、好き嫌いのパターンに感情的に巻きこまれること、それが束縛をつくり出すのだ。


質問者 欲望も恐れもなければ、どのような行動の動機があるというのでしょうか?


マハラジ  何もない。あなたが生命の愛、正義、美を充分な動機と考えないかぎりは。
欲望と恐れからの自由を恐れてはならない。それはあなたの知っているすべてとはまったく違った、より一層強烈で興味深い人生を生きることを可能にさせる。まさしく、すべてを失うことによって、あなたはすべてを得るのだ。


質問者 あなたの霊的系統をリシ・ダッタートレーヤからたどっていくとすれば、あなたとあなたの先師たちは皆、リシの化身だと信じてよいのでしょうか?


マハラジ  何であれあなたの好きなように信じるがいい。そして、もしあなたの信じるところにしたがって行動するならば、その結果を得ることだろう。しかし、私にとってそれは何の重要性もない。私は私だ。そして、私にとってはこれで充分なのだ。私にはいかに高名な人物と出会っても、自己同一化したいという欲望はない。また、神話を実在のものと見なすべき必要も感じない。私が唯一興味を持つのは無知と、無知からの解放だけだ。厳密な意味においてのグルの役割とは、弟子のマインドとハートのなかの無知を追い払うことだ。ひとたび弟子が理解したなら、決意を固めるのは彼にかかっている。誰もほかの者のために行為することはできないのだ。そして、もし彼が正しく行為をしなかったなら、それは彼がまだ理解をしていなかったという意味にすぎない。そしてグルの仕事はまだ終わっていないということなのだ。


質問者 いくつかの絶望的な場合もありうるのでしょうか?


マハラジ  絶望的な人はひとりもいない。障害は乗り越えられるものだ。生が修繕しなければ、死が終焉させるだろう。しかしグルに失敗はありえない。


質問者 何があなたに確信を与えるのでしょうか?


マハラジ  師と弟子の内なる実在はひとつであり、マインドの救済と解放というひとつの目的に向かってともに働いている。それに失敗はありえないのだ。彼らの行く手を遮る大きな岩そのものから、彼らは橋を築きあげる。意識は存在の全体ではないのだ。そこには弟子がより協調的な別のレベルも存在し、グルはすべてのレベルに精通している。そして、彼のエネルギーと忍耐は無尽蔵なのだ。


質問者 あなたは、私が夢を見つづけていて、今が目覚めるべき好機なのだと言いつづけています。しかし、私の夢のなかに現れ、私のもとにやってきながら、どうしてマハラジは私を目覚めさせることに成功してこなかったのでしょうか?あなたはそれを思い出させ、目覚めへと駆りたててきました。しかし夢は続くばかりです。


マハラジ  それはつまり、あなたは夢を見ているということを、本当に理解してはいなかったからだ。実在と非実在を混同すること──これが束縛の本質だ。あなたの現状では、ただ「私は在る」だけが実在に帰するものだ。「何として」、あるいは「どのように私は在る」は、運命、あるいは偶然から押しつけられた幻想なのだ。


質問者 夢はいつはじまったのでしょうか?


マハラジ  それにははじまりがないように見える。しかし、事実はたった今だ。一瞬一瞬、あなたはそれを再生しているのだ。しかし、あなたは見ない。なぜなら、あなたはその夢が続いてほしいからだ。いかなる代価を支払ってでも、真剣にその夢が終わってほしいと一心に願う日がやってくるだろう。その代価とは、無執着と冷静さ、その夢自体への興味を失うことだ。


質問者 何と私は絶望的なのでしょう。存在の夢が続くかぎりは、それが続いてほしいと思いますし、私がそれの続くことを望むかぎり、それは続いていくでしょう。


マハラジ  それが続くように望むことは、避けられないわけではない。あなた自身の状態を明瞭に見なさい。あなたの明晰性そのものがあなたを解放させるだろう。


質問者 私があなたとともにいるかぎりは、あなたの言うことはみなとても明らかなのですが、あなたから離れたとたん、私は落ち着きを失い、不安を抱えてうろつきまわるのです。


マハラジ  私から離れる必要はない、少なくともマインドのなかでだけは。だが、あなたのマインドは世界の幸福を追求しているのだ!


質問者 世界は困難に満ちています。私のマインドがそれでいっぱいなのも不思議はありません。


マハラジ  世界にかつて困難のなかったときがあっただろうか?あなたが個人としてあること自体、他者への暴力に依存しているのだ。あなたの身体自体が、死と死者に満ちた戦場なのだ。存在していくこと自体が暴力を含むことを暗示するのだ。


質問者 ひとつの身体としてあることでは、そのとおりです。ひとりの人間としての存在では断固違います。なぜなら、人類にとって非暴力は生命の法則であり、暴力の死だからです。


マハラジ  自然のなかに非暴力というものはない。


質問者 神と自然は人類ではありませんし、人道にかなう必要もありません。私の関心は人間だけです。人間的であるためには慈悲深くあることは絶対的なことです。


マハラジ  防御すべき自我を抱えているかぎり、暴力的にならざるをえないことが、あなたには理解できるだろうか?


質問者 理解できます。真に人間としてあるかぎり、私は無私にならなければなりません。私が利己的であるかぎり、私は人間以下、ただ人間のように見えるだけです。


マハラジ  それでは、私たちは皆人間以下であって、ほんのわずかの人だけが人間だということだ。わずかであろうと、多かろうと、私たちを人間的にするのは「明晰性」と「慈愛」だ。人間以下、人間のように見える者たちは、タマス(受動性)とラジャス(活動性)に支配され、人間はサットヴァ(純粋性)によって支配されている。明晰性と慈愛は、マインドと行為に影響を与えるサットヴァなのだ。だが、実在はサットヴァさえも超えている。私があなたを知って以来、あなたはつねに世界の救済を追求しているようだ。どれほどの助けをあなたはしたのだろうか?


質問者 まったくだめです。世界も私も変わっていません。しかし、世界は苦しんでいます。そして私もそれとともに苦しむのです。苦しみに対して闘うことは自然な反応です。文明と文化、哲学や宗教は、ほかでもない苦しみに対する抵抗なのです。悪と悪の終焉、それこそあなたが挺身していることではないでしょうか?あなたはそれを無知と呼ぶかもしれませんが、それは同じことです。


マハラジ  言葉が重要なのではなく、あなたが今どのような状態にあるかも重要ではない。名前と形は絶え間なく変化していく。あなた自身が、変化の絶えないマインドの不変の観照者であることを知りなさい。それで充分だ。


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