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マハルシ 何であれ自我が消え去った後に為された行為がアカルマ(無為、無活動)です。

(対話375)


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イエシュアは、ただ愛したのだ。それこそが、人類に対する偉大ですばらしい彼の贈り物だった。そして彼は、その愛の源は自分の内面に宿る「父」であり、それはすべての人々の内面に宿る「父」とまったく同じである、ということをはっきりと公言していたのである。すべての人類を抱き容れることができるほどの自由と力をイエシュアに与えたのは、自分と「父」がひとつであり、同じものであることを知っていたという事実である。


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質問者 あなたは、数多くの自称グルがいるが、真のグルは非常にまれだと言われました。自らを真我を実現したと想像している多くのジニャーニ(知者)がいます。しかし、彼らがもっているのは本からの知識と高い自己評価だけです。ときおり、彼らは人びとに感銘を与え、魅了し、弟子を引きつけます。そして役に立たない修練によって彼らの時間を浪費させるのです。何年かたって弟子が自分自身を評価したとき、何の変化もなかったことを見いだし、彼が師に不平を訴えると、努力が足りないのだという通常の叱責を受けるのです。責任は弟子のハートの愛と信頼の欠如にあると非難されます。ところが実際には弟子を受け入れ、彼らの希望を向上させようとしないグルのほうに責任があるのです。そのようなグルからどうやって自分を守るのでしょうか?


マハラジ なぜそれほどまで他者に関心をもつのかね? グルが誰であろうとも、もし彼が良き信仰のもとに行為し、純粋なハートをもっているなら、弟子たちに何の害も与えることはないだろう。もし何の進展も見られないのなら、過失は弟子のほうにあるのだ。彼らの怠惰と自己制御の欠如がそれだ。一方、もし弟子が誠実で、サーダナ(修練)に対して知的で、熱心に取り組んでいるなら、彼はもっと遠くへ彼を連れていける、より適格な師にかならず出会うことになる。あなたの質問は三つの偽りの仮定から出てきたものだ。そのひとつ目は、人は他者との関わりを必要とするということ。二つ目は、人はほかの人を評価できるということ。三つ目は、弟子の進歩はグルの仕事であり、責任であるということだ。実際には、グルの役割とはただ指導し、勇気づけることだけなのだ。弟子は完全に彼自身に責任があるのだ。


質問者 私たちはグルへの完全な明け渡しがあれば充分であり、残りはグルがするだろうと聞いてきました。


マハラジ もちろん、完全な明け渡しがあれば、自己の過去、現在、未来と、身体的、そして霊的安全性や地位に関するすべての完全な放棄があれば、豊かな愛と美にあふれた新たな人生の夜明けはやってくる。そうすればグルは重要ではない。なぜなら、弟子は自己を守る殻を破ったからだ。完全な自己放棄そのものが解放なのだ。


質問者 弟子と師の両方が不適切な場合は何が起こるのでしょうか?


マハラジ 長期にわたってみれば、すべては適切になるだろう。結局、双方の真我は、しばらくの間彼らが演じたコメディーによる影響を受けはしないのだ。すぐに彼らは冷静になり、成熟し、関係性のより高いレベルへと移行していくだろう。


質問者 あるいは、彼らは別れていくでしょう。


マハラジ そうだ。彼らは別れるかもしれない。結局、いかなる関係性も永遠ではないのだ。二元性は一時的な状態だ。


質問者 私があなたに出会ったのは偶然であり、別の偶然によって私たちは別れ、けっしてふたたび出会うことはないのでしょうか? あるいは、あなたとの出会いはある宇宙的なパターンの一部分であり、私たちの人生の偉大なドラマの一コマなのでしょうか?


マハラジ 実在は意味深く、意味深いことが実在と関係するのだ。もし私たちの関係が私とあなたにとって意味深いものであれば、それは偶然ではありえない。過去がそうであるように、未来もまた現在に影響をあたえるのだ。


質問者 誰が真の聖者であり、誰がそうではないのかを、どうしたら見極めることができるのでしょうか?


マハラジ 人のハートへの明晰な洞察をもたないかぎり、あなたに見極めることはできない。外見はあてにならないのだ。明白に見るためには、あなたのマインドが純粋で無執着でなければならない。自分自身を知らないかぎり、どうして他者を知ることができるだろう? そして、あなた自身を知るとき、あなたが他者なのだ。
しばらく他者のことは後回しにして、まず自分自身を調べなさい。あなたが何なのか、誰なのか、どうして生まれることになったのか、今、何をなぜしているのか、あなたはどこへ行くのか、あなたの人生と死、そして未来にはどのような意味と目的があるのか? あなたに過去があるのか、未来があるのか? あなたの全存在が幸福と平和のために闘っているというのに、どうして苦しみと悲しみのなかに生きるようになったのか? これらのことが重要な問題であり、最初に留意しなければならないことだ。あなたには、誰がジニャーニであり、誰がそうではないのかを見つけだす時間もなければ、必要もないのだ。


質問者 私は正しくグルを選択しなければなりません。


マハラジ 正しい人でありなさい。そうすれば正しいグルがかならずあなたを探しだすだろう。


質問者 あなたは私の質問に答えていません。どのようにして正しいグルを見いだすのでしょうか?


マハラジ だが、私は質問に答えたのだ。グルを探してはならない。考えさえしてはならない。あなたの目的をあなたのグルとしなさい。結局のところ、グルとは終焉そのものではなく、終焉への道なのだ。あなたにとって重要なのは彼ではなく、何を彼から期待するかだ。さて、あなたは何を期待しているのだろうか?


質問者 彼の恩寵によって、幸福に、力強く、平和になることです。


マハラジ なんという野望だろう! どうして時間と空間に限定された単なる「身体─精神」であり、誕生と死の狭間で苦痛に喘いでいるひとりの個人が幸福になれるというのだろうか? 個人が現れるその条件自体が幸福を不可能にしているのだ。平和、力、幸福。これらはけっして個人的な状態ではない。誰も「私の平和」「私の力」と言うことはできない。なぜなら、「私のもの」とは除外を暗示しているからだ。それはこわれやすく、はかないものなのだ。


質問者 私が知っているのは、私の条件づけられた存在だけで、ほかには何もありません。


マハラジ もちろん、そうとは言えない。深い眠りのなかでは、あなたは条件づけられていなかったのだ。どんなにあなたは喜んで、進んで眠りにつくことか、どんなに眠りのなかで平安で、自由で、幸福であることか!


質問者 私はそのことをまったく知らないのです。


マハラジ それを否定的に表現してみなさい。あなたが眠っているとき、そこには苦痛も、束縛も、落ち着きのなさもないのだ。


質問者 私にはその要点が理解できます。目覚めている間、私は私が在ることを知っています。しかし、私は幸福ではありません。眠りのなかで、私は在り、幸福です。しかし、それを私は知らないのです。私に必要なことは、私が自由で、幸福だと知ることなのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。今、深く内側に入っていきなさい。目覚めた眠りと言える状態のなかへ入っていきなさい。世界に気づくのではなく、自分自身に気づいている状態のなかへと入っていきなさい。その状態のなかで、あなたは疑いの余地もなく、存在の根底では自由で幸福なのだと知るだろう。唯一の困難は、あなたが体験に耽溺し、記憶を大切そうに抱えていることだ。実際には、その反対なのだ。思い出されたことは、けっして実在ではなく、実在は今あるのだ。


質問者 言葉の上ではすべて理解できますが、私自身の一部分にならないのです。それはマインドのなかで見られるための絵としてとどまるのです。その絵に命を与えるのはグルの役目ではないのでしょうか?


マハラジ またしてもその反対なのだ。絵は生きている。死んでいるのはマインドなのだ。マインドが言葉とイメージでできているように、マインドのなかのあらゆる反映もまたそうなのだ。それは言語化することで実在を覆い隠しておいて、それから不平を言うのだ。あなたはあなたに奇跡を起こすためにグルが必要だと言う。あなたは言葉で戯れているだけだ。ロウソクと炎のように、グルと弟子はひとつの単一体なのだ。弟子が誠実でないかぎり、彼を弟子と呼ぶことはできない。グルがまったくの愛であり、献身的でないかぎり、彼をグルと呼ぶことはできない。偽りではなく、ただ実在だけが実在を生みだすことができるのだ。


質問者 私には、わたしが偽りであることがわかります。誰が私を真実にしてくれるのでしょうか?


マハラジ あなたが言ったその言葉自体がそれをするだろう。「私には、私が偽りであることがわかる」というその言葉が、あなたの解放に必要な全てを含んでいるのだ。それについて熟考しなさい。そのなかへと深く入っていきなさい。その根源まで行きなさい。それが働きだすだろう。力は人のなかにではなく、言葉のなかにあるのだ。


質問者 私はあなたを完全に理解していません。一方では、あなたはグルが必要だと言い、他方ではグルは助言だけを与え、努力は私のものだと言います。どうか、はっきりおっしゃってください。グルなしに、真我は実現できるのでしょうか、それとも、真のグルを見いだすことは本質的なことなのでしょうか?


マハラジ それ以上に本質的なことは、真の弟子を見つけることだ。私を信じなさい。真の弟子は非常にまれなのだ。なぜなら、自己を見いだすことによって、すぐさま彼はグルの必要性を超えるからだ。あなたの得た助言が知識からのものなのか、それとも有効な体験からなのかを見定めようとすることで時間を浪費してはならない。ただ誠実に助言にしたがうがいい。もしほかのグルが必要なら、人生があなたにもたらすだろう。あるいは、人生はあなたから外側の導きすべてを奪い取り、あなた自身の光にあなたを置き去りにするかもしれない。個人としてのグルではなく、教えが重要だと理解することは非常に重要なことなのだ。
あなたを笑わせたり、泣かせたりするような手紙を受け取ったとしよう。あなたを笑わせたり、泣かせたりするのは郵便配達人ではない。グルはあなたの真我に関する良き知らせを告げ、そこへの帰り道を示すだけだ。だが、メッセージはひとつだけだ。「あなたとして在りなさい」というものだ。あるいは違う言い方をすれば、あなたが真我を実現するまでは、誰が真のグルかを知ることはできないのだ。あなたが実現したとき、すべてのグルたちがあなたの実現に貢献したのだと知ることだろう。あなたの真我の実現が、グルが本物だったことを証明する。それゆえ、彼をあるがままに受け入れなさい。彼が言うことを、熱意と誠実さをもって行ないなさい。そして、もし何かが間違っているようなら、あなたのハートが警告することを信頼しなさい。もし疑いが起こったなら、それと闘ってはいけない。疑いのないことを手放してはいけない。そして疑わしいことは放っておくがいい。


質問者 私にはグルがいて、彼のことをとても愛しています。しかし、彼が私の本当のグルかどうか、私にはわかりません。


マハラジ あなた自身を見守りなさい。もしあなたが変わっていき、成長していくなら、あなたは正しい人を見いだしたのだ。彼は美しいかもしれないし、醜いかもしれない。快いかも、不快かもしれない。あなたを褒めるかも、叱るかもしれない。内的な成長以外は何ひとつ問題ではないのだ。もしそうでないのなら、彼は多分あなたの友人かもしれない。だが、あなたのグルではないのだ。


質問者 私が学歴のある西洋人と出会い、グルや彼の教えについて語ると、彼は、「そんな無意味なことを教える人は狂っているに違いない」と言うのです。彼に何といえばいいのでしょうか?


マハラジ  彼を彼自身に直面させるがいい。彼がどれほど彼自身について知らないかを見せるがいい。いかに彼が彼自身についてのもっとも馬鹿げた表明を神聖な真理と見なしているかを。彼は身体であり、生まれ、そして死に、両親をもち、義務をもっていると人から言われてきた。彼はほかの者たちが学ぶことを学び、ほかの者たちが恐れることを恐れているのだ。完全に、記憶によって生き、習慣によって行動する、伝統と社会の創造物なのだ。彼は彼自身の真の関心について無知で、偽りの目的を追求し、つねに欲求不満をつのらせている。彼の生と死は無意味で苦痛に満ち、そこに出口はないかのようだ。それから彼に言うがいい。出口は彼の手の届くところにあるのだと。それは別の一式の観念に転向するのではなく、一切の観念と生き方のパターンから解放されることだ。グルや弟子については、語ってはならない。このような考え方は彼のためにふさわしくない。内なる道が彼のものだ。彼は内なる衝動によって突き動かされ、内なる光によって導かれてきたのだ。彼が反抗するように誘いなさい。そうすれば反応するだろう。誰それが賢者であり、グルとして受け入れられるなどと、彼に印象づけることはやめなさい。彼は彼自身を信頼しないかぎり、他者を信頼することもできないのだ。そして確信は体験とともにやってくるだろう。


質問者 何と奇妙なのでしょうか! 私にはグルなしの人生など考えられません。


マハラジ それは気質の問題なのだ。あなたもまた正しいのだ。あなたにとっては、神を讃えて歌うことで充分だ。真我の実現への欲望をもつことさえ、サーダナ(修練)をすることさえ必要ない。神の名前があなたに必要なすべての食事なのだ。それによって生きるがいい。


質問者 このわずかばかりの言葉の絶え間ない繰り返しは、ある種の狂気ではありませんか?


マハラジ それは狂気だ。だが、意図された狂気なのだ。すべての繰り返しはタマス(受動性)だ。だが、神の名を復唱することは、その高い目的ゆえにサットヴァ─タマスなのだ。サットヴァ(純粋性)の存在ゆえにタマスは尽き果て、そして完全な冷静さ、無執着、放棄、超然、普遍性の形を取るだろう。タマスは確固たる土台となり、その上に統合された人生が生きられるのだ。


質問者 不変なるもの──それは死ぬのでしょうか?


マハラジ 変わりゆくものが死ぬのだ。不変なるものは生きも死にもしない。それは生と死の永遠の観照者なのだ。それが死ぬとは言えない。なぜなら、それは気づいているからだ。それが生きているとも言えない。なぜなら、それは変化しないからだ。それはテープ・レコーダーのようなものだ。すべてひとりで記録し、再生する。あなたはただ聞くだけだ。同じように、私はあなたに話していることも含めた起こることすべてを見守っている。話をしているのは私ではなく、マインドのなかに言葉が現れ、それから、それらが語られているのを聞くのだ。


質問者 誰もがそうなのではありませんか?


マハラジ 誰が違うと言ったかね? だが、あなたはあなたが考え、あなたが話すと主張するのだ。一方、私にとっては、そこに考えることと話すことがあるだけだ。


質問者 二つの考慮すべきことがあります。私がグルを見つけたか、あるいは見つけていないかです。それぞれの場合、するべき正しいこととは何なのでしょうか?


マハラジ あなたはけっしてグルなしでいることはない。なぜなら、彼は永遠にあなたのハートのなかに存在しているからだ。ときどき、彼は彼自身を母、妻、教師として具現させ、あなたの人生の高揚と改善の要因としてあなたのもとにやってくる。あるいは彼は公正さと完成への内なる衝動としてとどまるかもしれない。あなたがするべきことは、彼にしたがい、彼の言うことを為すだけだ。彼があなたにしてほしいことはシンプルだ。自己覚醒、自己制御、自己放棄を学ぶことだ。それは厳しく見えるかもしれない。だが、もしあなたが誠実ならば、それはたやすい。そして、もしあなたが誠実でなければ、まったく不可能だ。誠実さが必要であり、またそれで充分だ。すべては誠実さに道を譲るのだ。


質問者 何が人を誠実にするのでしょうか?


マハラジ 慈悲が誠実さの土台だ。あなたと他者に対する慈悲、あなた自身と他者の苦しみから生まれた慈悲だ。


質問者 誠実になるために私は苦しまなければならないのでしょうか?


マハラジ もしあなたが感じやすく、仏陀がしたように他者の苦しみに反応するなら、その必要はない。だが、もしあなたが冷淡で哀れみがないなら、あなた自身の苦しみがあなたに避けがたい質問を尋ねるようにさせるだろう。


質問者 私は自分自身が苦しんでいることに気づいています。しかし、充分ではありません。人生は不快なものですが、耐えられないほどではないのです。私のわずかな快楽は小さな苦痛の埋め合わせをし、全体的に見て、私は私の知っている人たちよりも暮らし向きがいいのです。私の状況が不確実なものだということは知っています。災難がいつ襲いかかっても不思議はないからです。危機が私を真理への道へ導くのを待つべきなのでしょうか?


マハラジ あなたの状況がいかに壊れやすいかを見た瞬間、あなたはすでに注意しているのだ。だから気づいていなさい。注意を払い、尋ね、調べ、マインドと身体の過ちを発見し、それらを放棄しなさい。


質問者 そのエネルギーはどこから来るのでしょうか? 私は燃えさかる家のなかで麻痺した人のようです。


マハラジ 麻痺している人でさえ、ときには自分の足が危険に直面していることに気づくのだ! だが、あなたは麻痺していない。ただ想像しているだけだ。第一歩を踏みだしなさい。そうすればあなたは進んでいくだろう。


質問者 私はあまりにも強く身体にしがみついているため、「私が身体だ」という観念をあきらめることができません。身体が存続するかぎり、それは私にしがみつくでしょう。生きている間は、真我実現は不可能だと主張する人びとがいます。私は彼らに同意したい気分なのです。


マハラジ あなたは賛成、あるいは反対する前に、どうして身体という観念自体を調べないのだろうか? マインドは身体のなかに現れるのだろうか、それとも、マインドのなかに身体が現れるのだろうか? もちろん、そこには「私は身体だ」と考えるマインドがなければならない。マインドなしの身体は「私の身体」ではありえない。マインドが停止しているとき、「私は身体だ」という観念は必ず不在だ。マインドが思考と感情に深く没頭しているときもまた、それは不在なのだ。ひとたびあなたが、身体はマインドに依存し、マインドは意識に依存し、意識は気づきに依存していることを、そしてその反対ではないことを自覚すれば、死が訪れるまで真我の実現を待つというあなたの疑問に答えられたのだ。まず、あなたが「私は身体だ」という観念から自由にならなければならず、それから真我を実現するのではない。それは間違いなくその反対だ。真実を知らないから、あなたは偽りにしがみつくのだ。完全性ではなく、誠実さが真我の実現の必須条件なのだ。徳や力は真我の実現とともに現れる。それ以前ではないのだ。


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