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マハルシ まずあなた自身を見なさい。あなたの中に存在しないものが外側に現れることはありえないのです。


すべての聖典は、意識が二つあるのかどうかを調べる目的だけのためにあります。


違いは見ること、視野にあるのです。この違いは、あなたが自分を体験から分離した見る者だと想像するために生じます。

(対話199)


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戻るためには、「父」が自分の内面に宿っていることをただ知るだけでいいのだ。なぜなら、あなたの存在の魂の中には、自分が神であるという記憶が宿っているからだ。


自分は神なのだとあなたが知るとき、その「確信」のフィーリングが、自分の「知っている状態」が真実であることをあなたに教えてくれる体験と理解を創り出す。


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質問者 あなたの真我の実現がどのように起こったのか、尋ねてもよいでしょうか?


マハラジ どうしたものか、私の場合それはとても簡単で、やさしいものだった。私のグルが亡くなる寸前に私に告げたのだ。「私を信じなさい。あなたは至高の実在なのだ。私の言葉を疑ってはならない。不信感をもってはならない。私は真実を伝えているのだ。それに基づいて行動しなさい」と。私には彼の言葉を忘れることができなかった。そして忘れないことで、私は真我を実現したのだ。


質問者 しかし、実際にあなたは何をしたのでしょうか?


マハラジ 何も特別なことはしなかった。私は私の人生を生き、商売に励み、家族の面倒を見、時間の許すかぎり、私のグルと彼の言葉を覚えていたのだ。じきに彼は逝き、私は記憶に頼ることしかできなかった。それで充分だったのだ。


質問者 それはグルの恩寵と力だったに違いありません。


マハラジ 彼の言葉は真実だった。だからそれは実現されたのだ。真実の言葉はつねに実現される。私のグルは何もしなかった。彼の言葉が働きかけたのだ。なぜなら、それらは真実だったからだ。何であれ、私のしたことは願わず、求めずして内側から起こったものだ。


質問者 グルは自ら関わることなしに、一連の変化を起こしたということでしょうか?


マハラジ あなたの好きなように表現するがいい。ものごとは起こるように起こるのだ。なぜ、どうしてなのかを誰が言えるだろうか? 私は何ひとつ意図的にしなかった。手放そうという熱望、ひとりになること、内側へと向かうこと、すべてはひとりでに起こったのだ。


質問者 あなたはまったく何の努力もしなかったのでしょうか?


マハラジ 何ひとつしなかった。私は真我を実現しようと苦悩していたわけでさえない。彼は私に「あなたは至高なるものだ」と告げ、そして死んだのだ。私にはただ彼を疑うことができなかった。それ以外はすべてひとりでに起こっていった。私は変わりつづけていく私を見ていた。ただそれだけだ。実のところ、私は驚いている。しかし、彼の言葉を立証したいという熱望が湧いてきたのだ。私には彼が嘘をついているはずがないというあまりにも強い確信があったため、彼の言葉の完全な意味を実現するか、そうでなければ死ぬしかないと感じたのだ。私の決意は強固なものだったが、何をすべきか知らなかった。私は何時間も彼のことと彼が確約した言葉を想い、議論することなく、ただ彼の言った言葉を覚えていたのだ。


質問者 そして、何があなたに起こったのでしょうか? どのようにしてあなたが至高なるものだと知るに至ったのでしょうか?


マハラジ 誰かがそれを伝えにきたわけではない。内面でそう言われたのを聞いたわけでもない。事実、努力をしたのは、ほんのはじめのころだけだ。私は光を見たり、声を聞いたり、神々に出会ったり、彼らと話しをしたりという奇妙な体験を通り抜けてきた。ひとたびグルが私に「あなたは至高の実在だ」と言ったとき以来、幻想や超越状態を体験することはなくなり、とても静かに、そしてシンプルになった。私は欲望をもつことや知ろうとすることがだんだんなくなっていき、最後にはまったくの驚きとともに、「私は何も知らない。私は何も欲しくない」と言うまでに至ったのだ。


質問者 あなたは本当に欲望と知識から解放されたのでしょうか、それともグルによって与えられたイメージにしたがってジニャーニ(賢者)を人格化したのでしょうか?


マハラジ いかなるイメージも与えられなかったし、私自身ももっていなかった。グルは何かを期待するようにとは一切言わなかったのだ。


質問者 今以上のことがあなたに起こるかもしれないのでしょうか? あなたの旅は終焉したのでしょうか?


マハラジ そこにはけっしていかなる旅もなかったのだ。私は、つねに私であったままの私なのだ。


質問者 あなたが到達したという至高の実在とは何だったのでしょうか?


マハラジ 私はもはや騙されない。それだけだ。私は世界をつくり出し、そこに住んでいた──もはやそうすることはないのだ。


質問者 それでは、あなたはどこに住んでいるというのでしょうか?


マハラジ 存在と非存在を超えた、意識を超えた空のなかだ。この空はまた充満してもいるのだ。私を哀れんではいけない。それは、「私は私の仕事を終えた。もう何もするべきことはない」と言う人のようなものだ。


質問者 あなたは真我の実現の確かな日時を伝えています。それはつまり、その日に何かが起こったということでしょうか? 何が起こったのでしょうか?


マハラジ マインドが出来事をつくり出すのをやめたのだ。遥かなる昔からの絶え間ない探求が終焉したのだ。私は何も望まず、何も期待せず、何ひとつ私のものとして受け取らなかった。そこに闘おうとする「私」は残っていなかった。ただの「私は在る」さえも消え去ったのだ。もうひとつ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。以前、私は多くのことに確信をもっていた。今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。私が知らないということ自体、すべての知識は無知なるものだという事実の知識なのだ。「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。「私は生まれた」という考えを例にとってみなさい。あなたはそれを真実だと受け取っているかもしれない。そうではないのだ。あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死をまぬがれない者となる。映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。よく見てみなさい。すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存在するのだ。
意識のかぎりない広がりのなかに、ひとつの光が現れる。小さな点は急速に動き、紙の上にペンで形を描くように思考、感情、概念、観念を描きだす。その描きだすインクが記憶だ。あなたはその小さな点であり、あなたの動きによって世界はつねに再創造されていくのだ。動くのをやめなさい。すると世界はなくなるだろう。内側を見なさい。すると身体のなかの広大な光の反映は、「私は在る」という感覚としての小さな光の点だと見いだすだろう。ただ光だけがあり、それ以外のすべては現れにすぎないのだ。


質問者 あなたはその光を知っているのでしょうか? それを見たのでしょうか?


マハラジ マインドにとってそれは暗闇として現れる。それはその反映を通してだけ知ることができる。日の光以外はすべて日の光のなかで見られるのだ。


質問者 私たちのマインドは同じものだと理解していいのでしょうか?


マハラジ どうしてそうありえよう? あなたは記憶によって織り込まれ、欲望と恐れによってひとつに束ねられた、あなた自身の個人的なマインドをもっているのだ。私は自分自身のマインドというものをもっていない。私が知る必要のあることは、宇宙が私に食べるものを与えるように私のもとへ運んでくるのだ。


質問者 あなたは知りたいことをすべて知っているのですか?


マハラジ 私にとって知りたいことは何もない。だが、知る必要のあることは知ることになるのだ。


質問者 この知識はあなたの内側からやってくるのでしょうか、それとも外側から来るのでしょうか?


マハラジ その表現は当てはまらない。私の内側は外側であり、私の外側は内側なのだ。必要な知識をあなたから得るかもしれない。だが、あなたは私から離れていないのだ。


質問者 第四の状態と呼ばれるトゥリーヤとは何でしょうか?


マハラジ 世界を描きだす光の点がトゥリーヤだ。光そのものとなることがトゥリーヤーティータだ。だが、実在がこれほど間近にあるというときに、そのような名称が何になるというのだろうか?


質問者 あなたの状態に進展はあるのでしょうか? あなたが昨日の自分を今日の自分と比較したとき、変化や進展が見られるのでしょうか? あなたの実在の見解はより広く、深くなっていくのでしょうか?


マハラジ 実在は不動のものだ。それにもかかわらず、絶え間ない変化のなかにある。それは力強い川のようなものだ。それは流れていくが、しかも永遠にそこにある。流れていくのは、川とその川床と両岸ではなく、水だ。同じようにサットヴァ・グナ、普遍的調和の質はタマスとラジャス、暗闇と絶望に対して戯れる。サットヴァのなかには、つねに変化と進展がある。ラジャスのなかには、つねに変化と後退がある。一方、タマスは混沌を代表する。三つのグナ(質)は永遠に互いに対抗して戯れあう。それは事実であり、そこに事実との不和はありえないのだ。


質問者 私はつねにタマスとともに愚鈍になり、ラジャスとともに絶望するのでしょうか? サットヴァはどうでしょうか?


マハラジ サットヴァはあなたの真の本性の輝きだ。あなたはつねにそれをマインドの彼方に見いだすことができる。だが、あなたが世界を望むならば、三つのグナを分離不可能で、本質的にひとつである物質─エネルギー─生命として受け容れなければならない。時間と空間のなかには、誕生と死、進歩、後退、また進歩、ふたたび後退といった、一見、はじまりも終わりもないような永遠の流れがある。永遠不変で身体もマインドもない気づきが至福なのだ。


質問者 あなたによれば、すべてが意識の状態なのだと私は理解しました。世界はもので満ちています。砂の一粒はものであり、惑星もものです。それらはどのように関係しているのでしょうか?


マハラジ 意識の届かないところから物質ははじまる。ものとは私たちが理解してこなかった存在のひとつの形態だ。それは変化しない。それはつねに同じで、それ自体として、何か奇妙な異質なものとしてそこにあるように見える。もちろん、それは意識のなかに在る。だが、一見不変に見える外観ゆえに、外側にあるように見えるのだ。ものの根本は記憶のなかにある。記憶なしに認識はないからだ。創造─維持─破壊すなわちブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ。これが永遠の過程だ。すべてのものごとはそれに支配されているのだ。


質問者 そこからの脱出はありえないのでしょうか?


マハラジ 私はほかでもない脱出だけを示しているのだ。ひとつが三つを含んでいることを理解しなさい。そしてあなたこそがそのひとつなのだ。そうすれば、あなたは輪廻から解放されるだろう。


質問者 そのとき、何が私の意識に起こるのでしょう?


マハラジ 創造の段階の後に、探求、そして熟考の段階が来る。そして最終的に放棄と忘却の段階となる。意識は残るが、潜在的な、静かな状態なのだ。


質問者 アイデンティティの状態は残るのでしょうか?


マハラジ アイデンティティの状態は実在のなかで固有のものであり、けっして消え去ることはない。しかし、アイデンティティとは一時的な個人(ヴィヤクティ)でも、カルマによって束縛された人格(ヴィヤクタ)でもないのだ。それはすべての自己同一化が偽りとして放棄されたときに残るものだ。純粋な意識、そこにある、またはありうるすべての存在の感覚だ。意識ははじめ純粋で、終わりもまた純粋なままだ。その中間において、創造の根本である想像によって汚されてしまうのだ。意識はつねに同じ状態で残る。それをあるがままに知ることが真我の実現であり、永遠の平和なのだ。


質問者 「私は在る」という感覚は実在なのでしょうか、非実在なのでしょうか?


マハラジ その両方だ。私たちが、「私はこれだ。私はあれだ」と言うとき、それは非実在であり、「私はこれでもなく、あれでもない」と言うときそれは実在なのだ。
知る者は知られるものとともに来ては去り、一時的なものだ。だが、知らないということを知り、記憶と期待から自由なそれは永遠なのだ。


質問者 「私は在る」自体が観照者なのでしょうか、それともそれらは別々なのでしょうか?


マハラジ ひとつがないときには、もうひとつもない。しかし、それらはひとつではない。それは花とその色彩のようなものだ。花なしには色彩もない。色彩なしには──花が見られることもないままだ。その彼方には、花と接触することで色彩を生みだす光がある。あなたの真の本性は純粋な光だけであり、知覚者と知覚されるものは、ともに来ては去っていくだけだ。その両方を可能にし、また可能にしないもの、それがあなたの真の存在なのだ。それは「これやあれ」としての存在ではなく、存在と非存在の純粋な気づきなのだ。気づきがそれ自体に向かったとき、その感覚は「知らない」というものだ。それが外側に向いたとき、知ることの可能なものが現れる。「私は私自身を知っている」と言うことは言葉の上で矛盾がある。なぜなら、「知られる」ことが「私自身」であることはできないからだ。


質問者 もし自己がつねに知られざるものならば、真我の実現のなかでは何が実現されるのでしょうか?


マハラジ 知られることは私、あるいは私のものではありえない、ということを知ること自体、充分な解放だ。一式の記憶と習慣との自己同一化からの自由、存在の無限な広がりに対する驚愕、その無尽蔵の創造力と完全な超越、意識のあらゆる状態が錯覚であり、一時的であることの認識から生まれた絶対的な恐れのなさ──それらは深く、かぎりない源から湧き出るものだ。源を源として、現れを現れとして知ること、自己を唯一の源として知ることが真我の実現なのだ。


質問者 観照者はどちらの側にあるのでしょう? 実在でしょうか、非実在でしょうか?


マハラジ 誰も「私は観照者だ」と言うことはできない。「私は在る」はつねに観照されているものだ。冷静な気づきの状態が観照意識、「鏡のマインド」だ。それは対象物とともに現れては消えるものであり、それゆえ完全に実在とは言えない。対象物が何であれ、それは変わらず残る。それゆえそれは実在だとも言えるのだ。それは実在と非実在の両方の質をもっているため、その二つに架ける橋なのだ。


質問者 もしすべてが「私は在る」にだけ起こるのなら、もし「私は在る」が知る者と知られるものと知識そのものであるなら、観照者がすることとは何なのでしょうか、それが何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ それは何もしない。そして何の役にも立たないのだ。


質問者 それでは、なぜ私たちはそれについて話すのでしょうか?


マハラジ なぜなら、それはそこに在るからだ。橋は渡すというひとつの役目を果たすだけだ。あなたは橋の上に家を建てたりはしない。「私は在る」はものごとを見るが、観照者はそれらを見通すだけだ。それはそれらを非実在で一時的なものとして、ありのままに見る。「私ではなく、私のものではない」と言うことが観照者の役目なのだ。


質問者 観照者とは、非顕現(ニルグナ)が表現された顕現(サグナ)なのでしょうか?


マハラジ 非顕現は表現されない。顕現されたものには非顕現を表現することはできないのだ。


質問者 それでは、なぜ私たちはそれについて語るのでしょうか?


マハラジ なぜなら、そこが私の誕生の地だからだ。


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