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完全さは、あなたが真実を話すとき、人を感心させようという願いを捨てるとき、いつわりの自尊心を放棄するときに、ひとりでに、また楽に達成されるものなのです。
自分を修正し、正しくしてくださいと願うものは、それを受けとるでしょう。それはその人が他人より良い人間であったからではなく、ただそれを願い求めたからです。
自分の過ちを認める準備のできていない人たちを、悪いと判断しないでください。ただ自分の過ちを認め、あとは神におまかせします。
あなたの経験を人と分かちあってください。でも、押しつけてはいけません。あなたには、ほかの人が何を必要としているかわからないのですし、それはあなたが知らなくてよいことです。
兄弟の中にある善を思い出してください。あなた自身の中の善を思い出してください。どんな恐怖心や判断の気持ちがわきおこっても、その場で溶かし去ってください。自分の過ちを認め、他人の過ちに寛大になりなさい。


人を裁くかわりに、自分が<思考の目>を持っていることに気づいてください。そして世界や人生やものごとを自分がどのように見たり考えたりしているのか、詳しく観察するのです。人と話すときには、自分が何を言っているのかに注意を払ってください。何かを主張し、自分が<正しい>ことを相手に納得させようとしている──そうした自分の言葉によく耳を傾けてください。自分らしく振るまい、自分の考えを述べ、したいことをしてください。ただ、どうか自分の言葉に耳を傾けてください。そして自分の考えのもとになっている固定観念は何なのか、自分自身に問いかけてください。
話しているときに、人は自分のこうした固定観念にあまり注意を払っていません。ですから自分の話す言葉をよく聞いて、「この考えはどこから来たのだろうか。こうであるべきだと誰から教わったのだろうか」と自問してみてください。固定観念を手元に持ってきて、よく調べてみるのです。そうすれば、その考えがどのようにして生まれたのか、どのようにして自分の考えになったのか、が理解できるようになるでしょう。


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生命からの分離と、「不完全」と呼ばれる理解は、何かがほかのものよりも偉大であるとみなしたときにのみ生じるものである。だが、生命という現実の中では、何かがほかのものより偉大であったり劣っていたりすることはない。すべてのものはただ在るだけであって、「在ること」という平等性の中にあるのだ。それゆえ、すべてのものは「完全な状態」、もっと適切な言い方をすれば、「在るという状態」、「ただ存在するという状態」にある。何かをその本当の姿である「在ること」という完全性よりも劣っているとみなすのは、態度という集合的な思考だけなのだ。


さて、最大の分離は、あなた方が人間という化身に入ったときに起こった。その時点までは、あなた方は自分をすべてのものから分離させ始めてはいたが、それでもまだ自分が神であること、そして自分の存在が不死であることを知っていたのである。だが、あなた方が自分を化身のレベルまで下げ、細胞物質という現実を体験し始めたとき、空腹や寒さや生存といった肉体的機能にとらわれてしまったのだ。つまりそれは、自分がなった化身を維持するための苦労のことである。こうして、あなたは細胞物質と結びついたわけだが、細胞物質は、それが創造されたときに、それ自体が生存していけるようにプログラムされていた。偉大なる不死の存在と、自らの構造を生き延びさせようとする物質的機構との結婚は、「ただ在る」というあなたの自我の状態を大きく変質させた。これが「知識の木」、すなわち「変質した自我」の誕生である。そして、あなたの変質した自我をさらに強め、自分は神であり、不死であり、すべての生命とひとつであることを「知っている状態」をさらに変質させたのは、この天界での恐れや競争や嫉妬といったさまざまな感情の体験であったが、それらの感情は魂に記録され、細胞構造の中にプログラムされていったのである。


神々が最終的に自分たちを男と女という形に変え、自分たちがほかの創造物よりも賢くなり、ほかの創造物から逃げられるようになることにすべての意識を集中したとき、神々は変質した生の状態に入ってしまった。皮肉だったのは、自分たちを餌食にする動物からは逃げられたとしても、自分たちの意識を支配し始めていた生存に関わるさまざまな態度からは逃げられなかったことだ。生存に関わる態度と死に対する恐怖が、結局は神々の体を衰えさせてしまったのである。というのも、ある存在がどんなものを恐れていようと、その存在は恐れているものそのものになっていくからだ。


残念なことに、「すべての生命と一体である」という理解は、創造物をデザインしていく過程で、「より偉大である」、「すぐれている」といった思考と競争を通してすでに失われ始めていた。


マスターよ、このことを言っておきたい。すべてのものと一体である状態は、本当にわずか一瞬、わずか一息しか離れていないのだ。自分の存在の奥深くで、もはやいかなるものとも自分を切り離したくないと望むとき、あなたはもはや切り離された存在ではなくなる。すべての思考から自分を切り離してきたのは、あなたの態度、制限された考え方、変質したアイデンティティーにほかならない。


マスターよ、自分であるものを愛しなさい。それを愛するのだ。自分が永遠の存在であり、自分は神なのだと知りなさい。ただそれを知るのだ。それを感じ、その思考を抱き容れなさい。多くの時代を通してあなたを守ってきた本能という遺産が、自分は死すべき人間ではなく、まさに不死の存在であり、自分は限られた人間ではなく、まさに限りない神なのだという「知っている状態」に出会ったとき、あなたの魂はこの限りない思考をあなたの化身の全細胞に伝え、それによって細胞は歓喜することだろう。そうなれば、あなたの体は、その中に宿る偉大なる神の無限の思考に喜んでしたがうようになる。そして、これまであなたの体は、本能的な生存のために不安や用心深さを保持してきたのだから、今や体がその細胞の中に無限の神を宿し、体中の物質が「神なる自分」のすべてと整合した状態へと統一されるときがきているのだ。


マハルシ この詩節の真の意義は、アートマンだけをとらえ、そこから道を踏み外さないことです。


問題が起こるのは、自分自身以外のものが存在するときです。「アートマンは唯一存在する一者である」ということを真に理解すれば、他者もなく恐れの原因もなくなるでしょう。


真我に心をとどめ、行為者という感覚なしに、自然に行為しなさい。そうすれば、行為の結果があなたに影響することはないだろう。


「真我の内に在る」ことが『ギーター』の教えの大要であり、精髄なのです。

(対話58)


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質問者 賢者の日々のマインドの状態とはどのようなものでしょうか? 彼はどのように見、聞き、食べ、飲み、目覚め、働き、そして休むのでしょうか? 彼の境地が私たちのものと異なるという証拠は何でしょうか? いわゆる実現したと言われる人びとの証言以外に、客観的に彼らの状態を証明する方法はありません。何か観察可能な違いが彼らの生理学的な、そして神経反応、物質代謝、または脳波、あるいは心身相関の構造のなかにあるのでしょうか?


マハラジ あなたは違いを見つけるかもしれないし、見つけないかもしれない。すべてはあなたの観察の能力にかかっている。しかしながら、客観的な違いがもっとも重要なものではない。問題は彼らの見地と彼らの態度にある。それは超然として、冷静で、完全に無執着で在ることだ。


質問者 ジニャーニの子供が死んだとき、彼は悲しみを感じるのでしょうか? 彼は苦しまないのでしょうか?


マハラジ 彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。出来事自体が重要なのではない。だが、生きていようと死んでいようと、身体のなかにいようと外にいようと、彼は苦しむ人たちに対して慈悲に満ちている。やはり、彼の本性は愛と慈悲なのだ。彼はすべての生命とひとつであり、行為のなかでひとつであることが愛なのだ。


質問者 人びとは死をとても恐れています。


マハラジ ジニャーニに恐れるものは何もない。だが彼は恐れている人を憐れむ。つまるところ、生まれること、生きること、そして死ぬことは自然なことだ。恐れることは自然ではない。もちろん、起きていることに注意は払われる。


質問者 あなたが病気だと想像してください。医師が、あなたの病状は深刻なもので、あと二、三日しかもたないだろうと言ったとします。あなたの最初の反応は何でしょうか?


マハラジ 無反応だ。線香の火に燃えつきるときが来ることが自然なように、身体が死ぬのは自然なことだ。それはまったく重要な問題ではない。重要なことは、私は身体でもマインドでもないということだ。私は在る。


質問者 あなたの家族は絶望するでしょう。彼らに何と伝えるのでしょうか?


マハラジ よく言われることだ。恐れてはならない。人生は続いていく。神があなたたちを守るだろう。私たちはすぐにまた一緒になるだろう、といったことだ。だが、私にとってこの動揺全体は無意味なものだ。なぜなら、私は生きるとか死ぬといった想像をする実体ではないからだ。私はけっして生まれなかった。私に死ぬことはできないのだ。私には覚えることも忘れることもない。


質問者 死者への祈りはどうなるのですか?


マハラジ もちろん、死者への祈りを捧げるがいい。それはとても彼らの意にかなうだろう。彼らは嬉しく思う。ジニャーニはあなたがたの祈りを必要としていない。彼自身があなたがたの祈りへの応えなのだ。


質問者 死の後、ジニャーニはどのように旅立っていくのでしょう?


マハラジ ジニャーニはすでに死んでいる。あなたは彼にもう一度死ぬことを期待するのかね?


質問者 もちろん、身体の崩壊はジニャーニにとっても重要な出来事に違いありません。


マハラジ ジニャーニに重要な出来事というものはない。誰かが最高の目的を成就したときを除いては。そのときだけは、彼のハートも喜ぶ。それ以外のすべてに対して彼は関心がない。宇宙全体が彼の身体であり、すべての生命は彼の生命なのだ。都会でひとつの電球が切れたとき、それがネットワーク全体に影響を与えることはない。同じようにひとつの身体の死が全体に影響を与えることはないのだ。


質問者 特定の存在は、全体にとって問題ではないかもしれませんが、特定の存在にとっては問題です。全体とは抽象的なものですが、特定の存在は具体的なものであり、現実です。


マハラジ それはあなたがそう言うだけだ。私にとってはその反対だ。全体が現実で、部分は来ては去るものだ。特定の存在は誕生、再誕生し、名前と形を変えていく。ジニャーニは、その変化を可能にする不変の実在なのだ。しかし、彼はあなたに確信を与えることはできない。それはあなた自身の体験とともにやってこなければならないのだ。私にとってはすべてがひとつであり、すべてが同等だ。


質問者 罪と徳はひとつであり、同じものなのでしょうか?


マハラジ それらはみな人間のつくり出した価値だ。それらが私にどんな意味をもつというのだろう? 結果的に幸福をもたらすなら、それは徳だ。結果的に不幸をもたらすものは罪だ。どちらもマインドの状態だ。私の境地はマインドの状態ではないのだ。


質問者 私たちは見るということの意味を理解できずにいる盲人のようです。


マハラジ あなたの好きなように言うがいい。


質問者 沈黙の修練は、サーダナとして効果的なものでしょうか?


マハラジ 何であれあなたが悟りを得るためにすることは、あなたを悟りへと近づける。何であれあなたが悟りを覚えることなしにする行為は、あなたを悟りから遠ざける。だが、なぜそう事を複雑にするのかね? ただ、あなたはすべてのものごとや思考を超えているということを覚えておきなさい。あなたが成りたいもの、あなたはすでにそれなのだ。ただ、それを心にとどめておきなさい。


質問者 あなたの言うことは聞いていますが、私には信じられないのです。


マハラジ 私もまた同じ立場にいたのだ。だが、私はグルを信頼し、彼はそれが正しいことを証明した。もしできるならば、私を信頼しなさい。私の言うことを心にとどめておきなさい。何も望んではならない。なぜなら、あなたは何ひとつ欠いてはいないからだ。探すということ自体が見つけるということを妨げるのだ。


質問者 あなたは本当にすべてのことに無関心なようですね!


マハラジ 私は無関心なのではない。公平なのだ。私には、私と私のものへの選り好みがないのだ。かごいっぱいの土とかごいっぱいの宝石はどちらも不要なものだ。生と死はどちらも同じことだ。


質問者 公平さがあなたを無関心にするのです。


マハラジ その反対に、慈悲と愛が私の核だ。すべての偏愛を離れ、愛することに自由なのだ。


質問者 仏陀は、悟りの概念は非常に重要なものだと言いました。ほとんどの人たちは、悟りのために努力している人たちがいることはもちろん、そのようなものがあるということさえ知らずに生きています。ひとたび、彼らがそれについて耳にしたなら、けっして絶えることのない種子がまかれたのです。それゆえ、彼は毎年八カ月間、彼の比丘(ビク)たちに絶え間なく教えを説くように送りだしたのです。


マハラジ 「人は食物、衣服、住居、知識、愛情を与えることができるが、最上の贈り物は悟りの福音だ」と私のグルはよく言ったものだった。あなたの言うとおりだ。悟りは最上の贈り物だ。ひとたび、それを得たら、誰もそれをあなたから取り上げることはできない。


質問者 もし西洋であなたがこのように話したら、人びとはあなたを狂人だと思うでしょう。


マハラジ もちろん、彼らはそう思うだろう! 無知なる人びとにとって、彼らに理解できないことはすべて狂気なのだ。それが何だというのだろう? 彼らは彼らのままであればいい。私が私であることに何の益もなく、彼らが彼らであることに何の過ちもない。至高の実在は無数の方法でそれ自身を顕現する。果てしない数の名前と形がある。同じ海のなかにすべては立ち現れ、すべては溶けあう。すべての源はひとつだ。原因と結果を探し求めることはマインドの娯楽にすぎない。存在するもの、それは愛すべきものだ。愛は結果ではなく、存在の基盤そのものだ。どこへ行こうと、あなたは存在と意識と愛を見いだすだろう。いったいどうして、何のために選り好みをするのだろうか?


質問者 洪水や地震のような自然災害が、何千何百万人もの命を奪うことがあっても、私を悩ましはしません。しかし、ひとりの人間が人の手によって死ぬとき、私は途方もなく悲しみます。不可避のものにはそれ自体の威厳があります。しかし、殺すことは避けることができるものです。そしてそれゆえ、醜く恐ろしいものなのです。


マハラジ すべては起こるように起こるのだ。自然なものであれ、人為的なものであれ、災難は起こる。怖がる必要はないのだ。


質問者 原因なしに何かがありうるのでしょうか?


マハラジ すべての出来事のなかに宇宙全体が反映されている。究極的な原因の由来を調べることは不可能だ。因果律の概念自体はただの考え方にすぎない。原因のない存在の出現を想像することはできない。しかしながら、それが因果関係の存在を証明するわけではないのだ。


質問者 自然にはマインドがありません。それゆえ、責任はありません。しかし、人にはマインドがあります。なぜ人のマインドはそれほどまで邪悪なのでしょうか?


マハラジ 邪悪さの原因もまた遺伝や環境などの自然なものだ。あなたは性急に非難しすぎる。他者について思い煩うことはやめなさい。あなた自身のマインドを最初に扱いなさい。あなたのマインドもまた、自然の一部分であることを自覚すれば、二元性は消え去る。


質問者 私には計り知れない不思議としか言えません。マインドがどうして自然の一部分でありうるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、自然はマインドのなかにあるからだ。マインドなしで自然がどこにあるだろうか?


質問者 もし自然がマインドのなかに在り、マインドが私自身のものならば、私は自然を制御できるはずですが、それは事実ではありません。私の制御を超えた力が、私の行動を決定するのです。


マハラジ 観照の姿勢を発達させなさい。そうすれば、あなたは無執着が制御をもたらすということを自らの体験をもって見いだすだろう。観照している状態は完全な力をもっている。そこには何も受動的なことはないのだ。


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