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ももち


なにか惹かれるところのあるアイドルだった。ももちありがとう。



月が天空を舞いながら、神秘的ですばらしいやり方で暗闇を照らすとき、その青白い光の美しさにじっと見入った。われわれの野営地から上がるたき火の炎が夕暮れ時の空を照らすのを見た。野鳥が水面に降りる音や、夜の巣の中で鳥たちが動く音、そして子どもたちの笑い声を聞いた。流れ星やナイチンゲール、葦に降る霜を見つめ、湖面が凍り、別世界のような幻を創り出している湖を観察した。風が吹くにつれて、オリーブの木の葉がエメラルドグリーンから銀色に変わっていくのを見た。


自分であるものすべてを愛することが、なぜ重要なのだろうか? 自分のすべてを愛すれば、あなたはすぐに社会意識を超越するからだ。そのときあなたは、まわりから受け容れられるかどうかというレベルを超越する。…その道にこそ、在るものすべてを知っている状態があるのだ。


自分は神であるすべてを受け容れるに値するのだと感じられるほど自分自身を愛するとき、そして自分が「父」とひとつであるのを知ることを望むとき、あなたはこのすばらしい花を咲かせ始める。…知りたいと望むことによって、「知っている状態」の感情をすべて感じたいと望むことによってである。



マハラジ 世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。それは在り、しかもそれはない。私が見たいと欲し、それに参加したいと望むかぎり、それはそこに在る。私が気にかけるのをやめるとき、それは溶け去る。それは原因がなく、何の目的にも仕えない。それは私たちが放心しているときに起こる。まったく見たとおりに現れはするが、そこには何の深みも意味もない。ただその傍観者だけが実在なのだ。彼は真我ともアートマとも呼ばれる。真我にとって世界は、それが続くかぎり楽しみ、終われば忘れられてしまう、ただの色鮮やかなショーにすぎない。何であれ、舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、あるいは笑い転げさせようと、つねに彼はそれがただのショーだと知っている。欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。


質問者 世界のなかに浸っている人は、多くの味わいをもっています。彼は泣き、笑い、愛し、そして憎み、切望し、また恐れ、苦しみ、そして楽しみます。無欲で恐れのないジニャーニ、彼の人生はどのようなものなのでしょう? 彼は冷淡で無味乾燥とした高みにひとり超然としているのでしょうか?


マハラジ 彼の境地はそのような寂しいものではない。それは純粋で、原因がなく、稀釈されない至福なのだ。彼は幸福であり、幸福が彼の本質そのものだ。彼はそれを守るために闘うことも、何をする必要もない。幸福は彼にしたがい、身体よりも真実で、マインドよりも身近なのだ。あなたは、原因なしで幸福はありえないと想像している。私から見れば、幸福のために何かに依存することはまったく悲惨なことだ。快楽と苦痛には原因がある。一方、私の境地は私自身のものであり、まったく原因がなく、独立した、疑う余地のないものだ。


質問者 舞台上の劇のようにでしょうか?


マハラジ 劇は作品として書かれ、計画され、稽古されたものだ。世界はただ無から存在のなかへと立ち現れ、無へと帰っていく。


質問者 創造者はいないのでしょうか? 世界は創造される前には、創造神ブラフマーのマインドのなかにあったのではないでしょうか?


マハラジ 私の境地の外にいるかぎり、あなたは創造神、維持神、破壊神をもつだろう。しかし、ひとたび私とともにあるならば、あなたは真我だけを知り、すべてのなかにあなた自身を見るだろう。


質問者 それでも、あなたは世界のなかで機能しています。


マハラジ めまいがするとき、世界はあなたのまわりで輪を描いているかのように見える。手段と目標、仕事と目的という観念に取りつかれて、あなたは私が一見機能しているかのように見るだろう。実際には、私はただ見ているだけだ。何であれ、為されることは舞台上で為されているのだ。喜びと悲しみ、生と死、束縛された人にとって、それらはすべて現実だ。私にとって、それらはすべてショーだ。ショーそのもののように非現実なのだ。
私はあなたのように世界を知覚するかもしれないが、あなたはそのなかにいると信じきっている。ところが、私は世界を広大な意識の広がりのなかの、ひとつの真珠の粒としてしか見ていないのだ。


質問者 私たちは皆年老いていきます。あらゆる痛みや苦痛、弱さ、そして死が近づいてきます。老年は快いものではありません。ジニャーニはひとりの老人としてどう感じるのでしょうか? 彼の内なる自己は彼自身の老衰を見ているのでしょうか?


マハラジ 彼は年を追うにしたがって、もっともっと幸せに、そして平安になっていく。つまるところ、彼は古巣に戻るのだ。目的地に近づいた旅人が、荷物をまとめ、心残りもなく列車を去っていくように。


質問者 明らかにそこには矛盾があります。ジニャーニはすべての変化を超えていると私たちは聞いています。彼の幸福は強くなることも、衰えることもありません。どうして身体的衰弱にもかかわらず、年をとるにつれて彼はより幸福になるのでしょうか?


マハラジ そこに矛盾はない。運命の一巻は終わりを告げようとしている──マインドは嬉しいのだ。身体的存在の霧は晴れようとしている──身体の重荷は日に日に減少していくのだ。


質問者 ジニャーニが病気だとしましょう。彼は風邪をひき、関節のあちこちが痛み、焼けるようです。彼のマインドの状態はどうなのでしょうか?


マハラジ あらゆる感覚は完全な平静さとともに観照される。そこには何の欲望も拒絶もない。それはあるがままであり、彼はそれを愛情のこもった無執着の微笑みとともに見るのだ。


質問者 彼は苦しみに対して超然としているかもしれませんが、それでも、それはそこにあるのです。


マハラジ それはそこにある。だが、それは問題ではない。いかなる状態にいようとも、私はそれをあるがままのマインドの状態として見るのだ。


質問者 痛みは痛みです。あなたはやはり体験するのです。


マハラジ 身体を体験する人は、その苦痛と快楽を体験するだろう。私は身体でも、身体を体験する人でもないのだ。


質問者 では、あなたが二十五歳の青年だとします。あなたの結婚が準備され、行なわれました。そして家庭生活の義務があなたの上にのしかかってきます。あなたはどう感じるでしょうか?


マハラジ たった今、私が感じているようにだ。あなたは私の内的状態が、外的出来事によって形づくられると主張しつづけている。それはただそうではないのだ。何が起ころうと、私は変わらないままだ。私の存在の根底には気づきが、強烈な光の点が在る。この点がその本性によって輝き、空間のなかには画像を、時間のなかには出来事を、努力することなく自発的につくり出す。単にそれに気づいているだけならば、問題はない。しかし、分別心が存在のなかに現れ、区別をつくり出すと、苦痛と快楽が立ち現れる。眠りの間、マインドは停止しているため、苦痛や快楽も停止している。創造の過程は継続するが、注目はされない。マインドは意識のひとつの形であり、意識は生命のひとつの相だ。生命がすべてをつくり出す。しかし、至高なるものはすべてを超えた彼方に在るのだ。


質問者 至高なるものが主人であり、意識は彼の召使いです。


マハラジ 主人は意識のなかにいて、それを超えはしない。意識との関係において、至高なるものは創造と壊滅、具象と抽象、焦点と普遍だ。それはまた、そのどちらでもない。言葉もマインドも、そこには届かないのだ。


質問者 ジニャーニは、とても寂しい存在のように見えます。孤立しているかのようです。


マハラジ 彼はひとりだ。だが、彼はすべてなのだ。彼はあるひとつの存在でさえない。彼はすべての存在の実在なのだ。それでさえもない。いかなる言葉も適さない。彼は彼で在るもの。すべてがそこから成長していく土台なのだ。


質問者 あなたは死を恐れてはいないのでしょうか?


マハラジ 私のグルのグルがどのように死を迎えたか話をしよう。死が近づいていることを皆に告げた後、彼は日々の日常の仕事を続けながら、食事するのをやめた。十一日後、祈りの時間に、彼は歌い、手を元気に叩きながら突然死んだのだ! そのように、二つの瞬間の合間にロウソクが吹き消されるように。誰もが彼の生きたように死ぬ。私は死を恐れてはいない。なぜなら生を恐れていないからだ。私は幸福な生を送り、幸福な死を迎えるだろう。惨めさとは生まれることだ。死ぬことではない。すべてはあなたがどのように見るかにかかっているのだ。


質問者 あなたの境地の証拠はありません。私の知るすべては、あなたが言うことだけです。私が見ているのはとても興味深い老人です。


マハラジ 興味深い老人はあなただ。私はけっして生まれなかった。どうして年をとることができようか? あなたにとって現れる私は、あなたのマインドのなかにだけ存在するのだ。私はそれに関わってはいない。


質問者 たとえ夢であっても、あなたはもっとも特別な夢です。


マハラジ 私はあなたを目覚めさせることのできる夢だ。あなたが目覚めるということ自体のなかに、その証明を得るだろう。


質問者 私が死んだという知らせがあなたに届いたと想像してください。誰かがあなたに「この人を知っていますか? 彼は死んだのですよ」と告げます。あなたはどのような反応をするのでしょうか?


マハラジ あなたが古巣に帰り着いて私は本当に幸せだろう。あなたがこの愚かさから抜けだしたのを見て本当に嬉しい。


質問者 どの愚かさでしょうか?


マハラジ あなたが生まれ、そして死ぬと考えていること、あなたがマインドを誇示する身体であると考えていること、そしてそのようなばかげた話のすべてだ。私の世界では誰も生まれず、誰も死なない。何人かの人は旅を続け、そして帰ってくる。何人かはけっして去ることはない。彼らは夢の国で、それぞれ自らの夢に包まれて旅しているのだ。そこにどんな違いがあるというのだろう? 目を覚ますことだけが重要なのだ。「私は在る」が実在であり、そしてまた愛なのだと知るだけで充分だ。


質問者 私の道はそれほど絶対的なものではありません。それゆえの質問です。西洋の至るところで、人びとは何か真実なるものを探求しています。彼らは物質に関して多くを語る科学に傾倒してきましたが、それはマインドに関してはわずかばかり、自然と意識の目的に関してはまったく触れません。彼らにとって実在は客観的で、観察可能で、直接、あるいは推測による記述可能な外的なものであり、実在の主観的側面については何も知らないのです。実在が在るということ、そしてそれは物質とその限界や歪みから意識が自由になることで見いだせるのだということを、彼らに知らしめるのは非常に重要なことです。世界のほとんどの人びとは、実在を見いだすことができ、しかも意識のなかで体験できるということを知らないのです。彼らが実際に実在を実現した人からその良い知らせを聞くのはたいへん重要なことのように思えます。そのような賢者はつねに存在してきました。そして彼らの証言は貴重なものです。


マハラジ もちろん。真我の実現の福音は、ひとたび聞かれたならば、けっして忘れることのできないものだ。大地にうずくまる種子のように、それは来たるべき季節を待ち、やがて芽吹いて巨大な樹へと生長することだろう。


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