画像1
愛というのは単なる想念ではありません。愛とは肉体感覚です。それは肉体のなかにある動きであり、外で何が起きていようとも、すばらしい温かさと安心感を生み出すものです。それぞれの肉体に独自の感覚があり、独自の調和があり、独自の本質が備わっています。地球界で肉体を使って実験しようとあなた方が最初に決めたとき、神の愛の存在を感じるという深い喜びも、ともに肉体で感じようと決めたのです。それには、まず自分の肉体のなかにいなくてはなりません。体のなかにある<いのち>を感じることがいかに大切であるかが理解できるようになると、人はそれを感じる方法を見つけようとします。そのひとつは音楽を利用する方法です。大好きな音楽にしばらく耳を傾けてください。その音楽を体のなかで感じましょう。音楽を聴きながら、どんな感情が沸き起こってくるかに注意を払ってください。誰か他の人のことや、他の出来事が心に浮かんできたら、ただその事実を認めるだけにして、そこに心をとどめないでください。心に何が浮かんできても、とにかく、ただそこに<いて>ください。


だまされないでください。道程を複雑なものにすればするほど、すでに存在する愛を感じられるようになるまでに、長い時間がかかります。深い愛を体験した瞬間は誰でも持っています。相手や自分を批判したり、おたがいのあいだに相違があると思い込んだり、優越感や劣等感を感じたりしはじめると、こうした瞬間はたちまち砕け散ってしまいます。分離意識が現れたときに、愛の感覚は消滅するようです。愛の感覚に何が起きたのでしょうか。


二人のあいだにある、深いレベルでの相似性に気づくわけです。あらゆる魂は一つのものです。あなたはこの瞬間、分離というものが存在しない状態を体験したわけです。人と人との出会いは、可能性に気づく機会をもたらすものです。つまり、<自分のなかに価値を見いだしてくれて、これからの人生をともに過ごそうと思ってくれる、その結果、自分がほんとうに誰なのかを見つけるチャンスを与えてくれる、そんな人がこの世に一人ぐらいいるかもしれない>その可能性が生まれたことに気づく機会なのです。これが最高の恋愛に対する的確な定義です。


ところがある日、いつのまにか自分の心に批判の目が芽生えます。この時点では、まだ何も言葉に出しては言っていません。けれどもこの最初の小さな批判が生まれた瞬間から、一つのパターンが始まり、それ以後ずっと続くのです。もちろん、相手も同じことをしています。こういうわけで、非常に初期の段階に、こうした分離意識が生じます。そしてそのパターンを壊すものが現れないかぎり、それは持続していきます。けれども、新しい恋愛の強烈なエネルギーがあふれ出ているときには、この執拗に批判しつづける小さなエゴの声が途絶えてしまうようです。この点を忘れないでください。なぜなら、そこに希望があるからです。つまり、自分の心に愛がはじめて芽生えたときにどう感じたか、を思い出すことによって、エゴの声を黙らせることができるということです。ところがほとんどの人は、昔の気持ちをふたたび見つけようとするかわりに、そうした気持ちを起こさせてくれる別の相手を探そうとします。


最初の段階で自然にあふれ出てきた情熱というのは、自分のなかに”大いなる光”があるという感覚なのです。その”大いなる光”はつねに存在しています。歴史的にも文化的にも、”大いなる光”に点火する力はほかの人間にあると人々は思ってきました。<恋に落ち>たときに人がするのは、自分のなかにいつもあった愛の炎をともすことにすぎません。人々は、点火するには相手の人間が必要だと思い込んでしまいました。自分の恋愛や結婚をよく検討してみると、相手の人間を愛しているというよりも、愛し愛されるという感覚を自分は愛しているのだということに気づくでしょう。


まず、真理を思い出すことから始めます。
その真理とは”大いなる光”に点火するのは自分だ、ということです。


画像2
永遠とも言えるほど長い間、人間が必死に探し求めてきた無限の神秘である、この「神」と呼ばれる宗教像は、いったい何なのだろうか? それは思考であり、思考が思考を受け取る力であり、思考を受け取ることによって、もとの思考が新たな思考になり、それ自身を拡大していくという力のことなのだ。それが神のすべてである。それは思考の総体、つまり至高の生命だ。そして、まさにあなたの存在の内面にこそ、完全に神になる力があるのだ。完全に、だ。もしあなたの脳のすべての部分が開いたなら、あなたはこの瞬間に永遠の果てまでいくことになる。すなわち、あなたは知られていることすべてを知ることになる。あなたは太陽の色、海の深み、風の力、そして地平線の上の星になるのだ。


あなたが神のすべてを知り、神のすべてになることを妨げているのは何だろうか? 「変質した自我」だ。なぜなら、変質した自我は、神そのものであるすべての思考の振動数を受け容れるのを拒絶することによって、神を切り離してしまうからだ。そうすれば、それ自身が傷つくことなく、安全に安心して生きていけるからである。変質した自我が「反キリスト」と呼ばれる理由はまさにここにある。なぜなら、変質した自我はあなたが神の息子であることを否定するからだ。それは、あなたがその思考を受け容れ、自分と「父」はひとつであり、同じものなのだと悟るのを許さない。自分は神聖なる存在であり、不滅の本質であり、永遠を創造する力、さらには死をも創造する力さえ持っているのだということを、あなたが悟るのを許さないのである。


在るものすべてについて、どうすればもっとよく理解することができるのだろうか? 自分がそれを理解していると知ることによってだ。あなたがどう考え、どう語るかが、自分が知ることができる量を決めるのだ。「もっと知りたいと思う」と言ってはならない。それではけっして知ることがないからだ。そして、「もっと知ろうとする」もだめだ。しようとすることで達成されたものは、ひとつもないからだ。「もっと知ることを探求する」でもだめだ。探し求めていても、けっして見つからないからだ。こう言いなさい。「私の存在の主と神から、私は今、この瞬間に知るべきことすべてを知っている。ソービーイット!」と。そして、答えを待つのだ。その時点で、自分が何を知りたいのかに気づいているいないにかかわらず、「私は知っている」という言葉は、その気づきが起こる扉を開いてくれるのだ。あなたが言うべきことは、それだけだ。そうすれば、知識がやって来るのである。


あなたが自分の創造性と人生を制限してしまう方法は、「わからない」と言うこと、あるいは自分にやって来る「知っている状態」を疑うことである。最悪の忌まわしい言葉が「わからない」という言葉だ。憶えておいてほしい。あなたは法を与える者であり、あなたが考え、語ることそのものが法なのだ。あなたが「わからない」と言えば、あなたが知ることはけっしてない。「できない」と言えば、あなたには絶対にできない。「私は『父』の愛に値しない」と言えば、あなたがそれを受け取ることはけっしてない。あなたがそのように語るということは、あなたがそのように思っているということだ。そして、そう思っているならば、その思考のフィーリングはあなたの魂に記録され、魂はその思考プロセスにぴったりと合ったものを現実化するのである。


あなたはコンピューターのようなものだ。あなたは毎日、自分の知識の中に「疑い」を入力している。自分の知識の中に「不足」を入力しているのである。そして、あなたはまさに、自分の知識の中に「わからない」という言葉を入力しているのだ。あなたは自分自身の王国を自ら奪い取っているのである。なぜなら、疑いと制限しか知らないあなたは、自分が思うこと、そして話すことによって、自分自身から生命力を奪い取っているからだ。


愛と希望と喜びを内にはらんだあなた方の大切な魂が、叡智と思いやりの荘厳な花へと開いていく中で、そして見える見えないにかかわらずあらゆる生命を抱き容れる愛の荘厳な花へと開いていく中で、この天界でのあなた方の人生の日々を通して、私はつねにあなた方全員とともにあるだろう。だが、そのような瞬間よりも、あなたが自分の内面に神を見て、神を理解し、神を知る瞬間のほうが、遥かに、遥かに偉大な瞬間なのである。


さて、これまで私は、考えられる限りのあらゆる言い方で、何度も何度も繰り返し、あなたが知り得る最も偉大な真実を語ってきた。その真実とは、「あなたは神である」ということだ。


画像7
質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


02 2024/03 04
S M T W T F S
29 30
31
HN:
Fiora & nobody