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自分の人生と国際政治の解


国際政治の解はわからない。どうすればよいのか、よかったのか、わからない。
でも自分の人生は、思いやりや、共感や、勇気がなかったことには後悔しか残らなかった。


人とトラブルになった後は、
何よりも「自分がその人たちを許せない」「自分が(気づいていないが自分を)許せない」というモンスターのような何かの存在感、異物感が人生の隅々まで圧迫した。
そのとき、神の存在は置き去りになっていた。


鍵付きの通路に入ることができず、その通路には鍵付きの部屋が無数に並んでいる。
おそらくその鍵は、「ゆるすこと」が関係していると思う。
傲慢な自我の「ゆるす」ではなくて、神の配置の背景まで含む「共感してゆるくする」。
個人的な経験では、愛という言葉はむずかしい。
共感、がいつもその通路だった。相手の立場に共感すること。その人たちも皆、無敵で慈愛の中心である神がついていることも。つまり学習ガイドラインは信用に足るということ。どんな人にも安心を見るのは、神が背景にいるからであって、どんな人にも心配を見るときは、私が神を忘れていた。


フィオラに「その人の涙を知ろうとしないで勝手に裁くのですか?」と最初に言われたとき、結構電撃が走った。私は嫌いな相手を(それが自分自身であっても)知ろうなんて思ったことがなかったから。


「愛と涙は同じものです、無知と叡智は同じものです、あなたにわかりますか?」と言われ、
どんなときも「神を信じていてください。あと素直でいてください」と釘を刺された。


神を信じ、素直でいるなら、認めざるを得なかった。
ほぼ全ての項目で、私が間違っていた。
神の御心を知ろうとしなかったのは、沿おうとしていなかったのは、常に私の側だった。
でもそれは聖職者のイメージみたいな、お堅い話でもなんでもない。
神はいつも共にいて、共感を、思いやりを尊ぶ。だから自他の区別なくそうして、ということらしい。これがなかなか絶妙で、自分側と他人側の両方に共感がないと、異物感は除けないのだ。nobody


マハルシ 聖典には次のような言葉が見られます。
「語ることなく語られた言葉」
「真理を示され永遠の静寂にとどまる」
語られることのない言葉とはどういうことでしょうか? それはただ沈黙なのです。それはプラナヴァ(聖音オーム)、あるいはマハーヴァーキャ(偉大な確言)です。それらは「言葉」とも呼ばれています。

(対話185)


質問者 実現しようと試みる必要もないのですか?


マハルシ その必要はありません。心の静寂あるいは平和が実現です。真我が存在しない瞬間などないのです。





そこに疑い、あるいは実現していないという感覚があるかぎり、そのような考えを取り除くよう試みなければなりません。





想念は真我を非真我と同一視することによって起こります。非真我が消え去れば、後に残るのは真我だけです。





空間をつくり出すには、そこにあったものを取り除くだけで十分です。新たに空間を運んでくる必要はありません。


(略)


真我を見るために、他の真我を必要とすることはありません。





ある女性が首にかけていたネックレスを失ったと思い込み、探し回っていました。そして友人から自分の首にかかっていることを教えられたのです。ネックレスを失ったという感覚、探している間の不安、発見したときの喜びは、すべて彼女が自分でつくり出したものです。


同様に、真我はあなたが探求しようとしまいと、常にそこに在ります。その女性が失ったネックレスを取り戻したと感じたように、無知を取り除き、偽りの自己同一化を止めることが、常に今ここに存在する真我を明らかにするのです。


(略)


すべての疑いは自分自身の内で解かなければなりません。いかに言葉を費やそうとも満足は得られません。考える者をとらえなさい。考える者がとらえられていないときにのみ、事物は外側に現れ、そして心に疑いが起こるのです。

(対話245)


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あなたはこれまで、自分自身の罪悪感と恐怖心のまじりこんだ愛をあなたに注いだ人たちから、いわば条件つきの愛を学んできました。それがあなたのモデルでした。恥じるにはおよびません。そうなのだな、と気づけばよいのです。


あなたは子供時代からずっと、人が好意的な反応を示したときだけ、自分には価値がある、というふうな自己評価のしかたを条件づけられてきました。自分の価値は、外部のものによって確立されると学んできました。それは基本的な誤りで、これまでのあなたの人生全般にわたってずっといすわってきたものです。


すべての”侵害・押しつけ”に気づき、それに付随した感情を解放しなければなりません。そうすることによって、あらゆる傷ついた存在は、条件つきの愛から、条件なき愛の経験へと移行していきます。


癒しのプロセスにおいて、あなたは生物的両親からは受けとったことのない無条件の愛を、自分にそそぐことを学びます。このプロセスであなたは生まれかわり、外部の権威者ではなく、自分の内なる”愛の源”を親として育まれます。


あなたの内部の傷ついた存在に愛をそそぐには、まず他人の反応の上に自分の価値をおく、という考え方を逆転させなければなりません。ゆっくりと、あなたはいま、ここで、そのままの自分自身をまるごと条件ぬきで認め、尊重するよう、自分を訓練しなおしてください。あなた以外のだれもこれを肩代わりできません。


魂はみな、この自己尊重の問題ととりくもうとして、この物理的経験のなかに入ってくるのです。しかしこの世界にそう長くも滞在しないうちから、本来もっている愛する能力に条件が押しつけられ、他人をもその経験にまきこんでいきます。この条件をゼロにもどすことが、なによりもたいせつです。


もし魂が、自分は物理世界の経験の犠牲者だったと信じながらこの世界を去ってゆくと、その信念を矯正するために、またここへひきもどされることになります。


しかし、もし魂が、自分の価値は自分の心(マインド)と経験の外部のいかなるものにも人にもかかわりがない、という真実に目覚めれば、その魂は”愛の源”にみずからをおくことになり、虐待の夢から覚めることでしょう。


虐待から目覚めるというのは、自分がそのままでは愛されない、という幻想を拒絶することです。自分自身に無条件の愛をあげることで、愛を実践してください。


まことの愛は、変わることがありません。それはあらわれる形とは無関係に存在します。この永遠かつ遍在する、形なき愛の”源”は、あなたの内側にあります。そこにこそ信頼をおくべきです。いったん”愛”がハートに確立されれば、二度と幸福を外側に探す必要はなくなります。


人生には、人がやってきて、また去っていきます。あなたを大事にしてくれる人もいるでしょう。不親切な人もいるでしょう。あなたは愛を受けいれます。もしくは、愛の欠如を、その実態、つまり傷ついた人が救いを求める叫びとして受けいれてください。あなたがそうしたように自分の内側に愛の”源”を探すよう、人にも勧めてください。なぜなら、その人たちのこまごました問題はあなたに解決できるものではないとよくわかるからです。その人たちの人生の悲劇は、本人が進んでハートと心の中をのぞきこもうとしないかぎり、手のつけようがありませんから。


無条件に愛する人は、自分の自由にも、他人の自由にも制限をもうけません。愛をむりに保とうとはしません。


愛という行為には、複雑なところはこれっぽっちもありません。ただ、愛を出し惜しみはじめたときに複雑になっていって、やがてその人が与えるものは愛ではなくなります。


自分自身を愛している人は、ひとりになることがこわくありません。ひとりでいるということは、自分をさらに深く愛し、受けいれるひとつの機会だからです。ただ呼吸をつづけ、経験の一歩を踏み出すごとに愛を広げてゆくだけでよいのです。


愛は、対等なものどうしのあいだにしか存在できません。愛は、内側の深いところで、自分を愛し尊重することを知ったものどうしのあいだにしか存在できません。


あなたの旅の行先はもう保証ずみです。わたしがいまいるところに、あなたも来るのです。そのときには、あなたは”愛”こそ自分なのだと、すみずみまで確実に知ることでしょう。”愛”はあなたの中で生まれたり死んだりしたことはありません。それはあなたと切り離せません。それこそあなたのほんとうのアイデンティティなのです。


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質問者 あなたはあなたを取り巻く環境をまったく意識していないと言われましたが、私たちにとって、あなたは非常に注意深く、活動的に見えます。あなたが記憶の跡を残さない、一種の催眠状態にあるとは信じられません。それどころか、あなたの記憶は非常に優れているように見えます。あなたにとって世界が存在しないというあなたの主張をどう理解すればいいのでしょうか?


マハラジ すべては焦点の問題だ。あなたの焦点は世界に当てられており、私の焦点は実在に当てられている。世界は昼間の月のようなものだ。太陽が照れば、月はほとんど目に映らない。あるいは、あなたがどのようにものを食べるか見てみなさい。口のなかに食べ物がある間はそれを意識しているが、ひとたび飲みこんでしまえばもはや関心をもたない。消化されるまでマインドにとどめていたら、厄介なことになるだろう。マインドは普通停止しているべきであり、絶え間ない活動は病的状態なのだ。私が知っているのは、宇宙はひとりでに、それ自身で動いているということだ。それ以外に何を知る必要があるだろう?


質問者 では、ジニャーニ(賢者)は彼自身が注意を向けたときだけ何をしているのかを知り、そうでなければ煩わされることなく、ただ行為するということなのですね。


マハラジ たいていの人は身体を意識していない。彼らは感覚や感情や思考を意識しているが、それらでさえ、ひとたび執着を離れれば意識の中心から去り、自発的に、努力なく起こる。


質問者 それでは、意識の中心には何があるのでしょうか?


マハラジ それは名前も形も与えることのできないものだ。なぜなら、それは何の特質ももたず、意識を超えたものだからだ。意識のなかにありながら、意識を超えた点とも言える。紙のなかにあるひとつの穴が、紙のなかにありながら、しかも紙に属さないように、至高の状態は意識の中心そのものでありながら、しかも意識を超越している。それはマインドのなかの開かれた穴から光が氾濫しているようなものだ。その開かれた穴は、光とさえ呼ぶこともできない。それはただ開かれたるものなのだ。


質問者 その開かれたるものこそ、空、不在なのですね。


マハラジ そのとおりだ。マインドの観点からすれば、それは気づきの光が精神的空間に入っていくために開かれたものだ。光そのものとしては、固体の、岩石のように濃密な、均質で不変であり、名前や形といった精神的パターンから自由な、純粋な気づきの塊とでも言うほかないだろう。


質問者 精神的空間と至高なるものの所在には、何らかの関連があるのでしょうか?


マハラジ 至高なるものがマインドに存在を与える。マインドが身体に存在を与えるのだ。


質問者 そしてその彼方には?


マハラジ 例えば、長寿の技をマスターし、寿齢千歳を超えた尊ぶべきヨーガの導師が、私のもとにその技を教えにきたとしよう。私は彼の偉業を讃えて、誠実に敬うだろう。だが、私が彼に言えることといえば、「長生きがいったい何になるというのか?」ということだけだ。私は時を超えて在る。どれほど寿命が長くなろうと、それはほんの一瞬の夢にすぎないのだ。同じように、私はあらゆる属性をも超越している。それらは私のなかで、現れては消えていく。しかし、それが私を言い表すことはできない。宇宙は特質やそれらの相違を基底とした名前と形であり、私はその彼方に在る。世界は私が在るゆえに存在する。だが、私は世界ではない。


質問者 しかし、あなたは世界のなかに生きているのですよ!


マハラジ それはあなたが言っていることだ! この身体とマインドを含めた世界の存在は知っている。だが、私はそれらを他のマインドや身体以上に「私のもの」とは考えてはいない。それらは時間と空間のなかにある。だが、私は時間と空間を超えて在るのだ。


質問者 すべてがあなたの光のなかに存在するのなら、あなたは世界の創造者ではないのですか?


マハラジ 私はその潜在的可能性でも、実現性でも、現実でもない。私の光のなかで、世界は太陽光線のなかを舞うほこりのように現れては去っていく。光はその微小片を照らすだろうが、それに依存することはない。またそれを創造もしない。それを知っているとさえ言えないのだ。


質問者 私はあなたに質問し、あなたは答えています。あなたはその質問や答えを意識しているのでしょうか?


マハラジ 実際には、私は聞いても答えてもいない。出来事の世界のなかで、質問が起こり、答えが起こる。何も私には起こらない。すべてはただ起こるのだ。


質問者 そして、あなたは観照者なのでしょうか?


マハラジ 観照者とはどういう意味だろうか? ただの知識にすぎない。雨が降り、そして今、雨はやんだ。私は濡れないままだ。雨が降ったのは知っている。だが、私は影響されない。ただ、雨を観照しただけだ。


質問者 完全に悟りを得た人、自然に至高の状態に在る人もまた、食べたり、飲んだりするように見えますが、彼はそれに気づいているのでしょうか?


マハラジ 意識がそのなかで起こる宇宙意識は、意識のエーテルと呼ばれる。意識の対象物すべてが宇宙を構成している。それら両方を支え、そして超えて在るのが至高の状態、完全な静寂と沈黙の状態だ。誰であれ、そこに行けば消え去る。言葉やマインドで到達することはできない。あなたはそれを神、パラブラフマンあるいは至高の実在と名づけるかもしれない。しかし、それらはマインドによって与えられた名前だ。それは、名前も内容もなく、努力もなくして自然な状態、存在も非存在も超えたものだ。


質問者 それでも、人は意識にとどまるのでしょうか?


マハラジ 宇宙がマインドの身体であるように、意識は至高なるものの身体だ。至高なるものは意識しないが、それが意識を発現させるのだ。


質問者 私の日々の活動は、その多くが習慣によって自動的に行なわれています。広範囲の活動に気づいてはいても、一瞬一瞬、詳細にわたってではありません。私の意識がより広く深くなるにしたがって、細部への関心は退き、広範囲の方向へと私を開いてくれます。ジニャーニにも、少なからずそういったことが起こるのでしょうか?


マハラジ 意識のレベルでは、そうだ。至高の状態においては、そうではない。至高の状態は分割不可能で、完全にひとつであり、ひと塊の実在なのだ。それを知るためのただひとつの方法は、それになること、それとして在ることだ。マインドはそれに到達できない。それを知覚するために感覚器官は必要ない。それを知るためにマインドは必要ないのだ。


質問者 神はこうして世界を動かしているのですね。


マハラジ 神は世界を動かしてはいない。


質問者 それでは、誰がそれをしているのですか?


マハラジ 誰もしてはいない。すべてはひとりでに起こるのだ。あなたが質問をし、あなたが答えを供給している。そして質問するとき、あなたは答えを知っている。すべては意識のなかの戯れなのだ。すべての分割は幻想だ。あなたが知ることのできるのは偽物だけだ。真我に、あなた自身がならなければならないのだ。


質問者 観照されている意識があり、観照している意識があります。二番目のものが至高なるものなのでしょうか?


マハラジ 二つのものがある。個人と観照者つまり観察者だ。それらをひとつとして見て、それを超えたとき、あなたは至高の状態にある。それは知覚不可能だ。なぜなら、それが知覚を可能にするものだからだ。それは存在と非存在を超越している。それは鏡でも鏡のなかのイメージでもない。時を超えた実在、信じがたいほど堅固で、確固たるもの、それがそれである。


質問者 ジニャーニは観照者なのでしょうか、それとも至高なるものなのでしょうか?


マハラジ もちろん至高なるものだ。だが、彼は普遍的観照者でもある。


質問者 しかし、彼は個人としても在るのでしょうか?


マハラジ あなたが自分自身を個人だと信じるならば、いたるところに個人を見る。実際には、個人というものは存在しない。あるのは記憶と習慣の脈絡だけだ。真我を実現した瞬間、個人は消え去る。アイデンティティは残る。だが、アイデンティティは個人ではない。それは実在そのもののなかに本来備わっている。個人はそれ自身のなかに存在をもっていない。それは観照者のマインドに映った「私は在る」という感覚であり、また、存在のひとつの様式なのだ。


質問者 至高なるものは意識しているのでしょうか?


マハラジ 私の経験では、それは意識してもいず、無意識でもない。


質問者 プラジニャーナム ブラフマ。このプラジニャーとは何でしょうか?


マハラジ それは生命そのものの非─自意識的知識だ。


質問者 それは生命力、生命のエネルギー、生気なのでしょうか?


マハラジ エネルギーがはじめに現れる。すべてはエネルギーが形をとったものだからだ。意識は目覚めの状態においてもっとも差異が認められる。夢見においてはより少ない。眠りにおいてはさらに少ない。第四の状態では均質だ。それを超えると、表現不可能な、単一の実在、それがジニャーニの生きる世界なのだ。


質問者 私は手を切ってしまったのですが、それは治りました。いったい何の力によって治ったのでしょう?


マハラジ 生命の力によってだ。


質問者 その力とは何なのでしょうか?


マハラジ それは意識だ。すべては意識なのだ。


質問者 意識の源泉は何でしょうか?


マハラジ 意識そのものがすべての源なのだ。


質問者 意識なしに生命はありうるでしょうか?


マハラジ いいや。生命なしには意識もありえない。それらはひとつだ。しかし実際には、究極なるものだけが存在する。それ以外は名前と形があるだけだ。あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、至高なるものは、あなたにとって非存在のものとしてしか映らないだろう。名前と形は実態のない空虚な殻(から)にすぎず、実在は名前も形もない純粋な生命のエネルギーと意識の光だと理解したとき、あなたは実在の深い静寂に浸り、平和の内に在ることだろう。


質問者 もし時間と空間がただの幻想で、あなたはそれらを超えているというのなら、今のニューヨークがどのような天気なのか言ってください。暑いですか、それとも雨ですか?


マハラジ どうして私にそれが言えよう? そういったことには特別な訓練が必要だ。そうでなければ、ニューヨークに行くがいい。私が時間と空間を超越していることは確かかも知れないが、ある一定の時間と空間において、思いのままに自分の所在を選定することはできない。興味もなければ特別なヨーガのトレーニングをする理由もない。ニューヨークという名前を今耳にしたが、私にとってはただの言葉にすぎない。原子のひとつひとつがこの宇宙と同じほど複雑な宇宙かもしれない。そのすべてを私が知らねばならないかね? 確かにできる、もし訓練するならば。


質問者 ニューヨークの天候について尋ねたことで、私はどこで間違いを犯したのでしょうか?


マハラジ 世界とマインドはともに存在の状態だ。至高なるものとは、ある状態ではない。それはすべての状態に遍在しているが、何かほかの状態ではない。至高なるものはまったく原因がなく、独立し、それ自身において完成している。時間も空間も、マインドも物質も超越したものなのだ。


質問者 何をもって至高なるものを認識するのでしょうか?


マハラジ それが何の痕跡も残さないということが要点なのだ。何によっても認識することはできない。あらゆるしるしや手がかりの探求をあきらめることによって、直接に見られなければならない。すべての名前と形が放棄されたとき、実在が残る。あなたがそれを探す必要はない。複数性と多様性はただのマインドの戯れだ。実在はひとつだ。


質問者 もし実在が何の証拠も残さないのなら、それについて話すことさえできません。


マハラジ それは在る。それを否定することはできない。それは深遠な、神秘を超えた神秘なのだ。だが、それは在る。それ以外のすべてはただ起こるだけだ。


質問者 それは未知なるものなのでしょうか?


マハラジ 未知も既知もともに超えている。しかし、私なら未知よりも既知と呼ぶだろう。なぜなら、いつであれ何かが知られたとき、知られたものは実在だからだ。


質問者 沈黙は実在の特質なのでしょうか?


マハラジ それもまたマインドのものだ。すべての状態と条件はマインドに属する。


質問者 サマーディとは何でしょうか?


マハラジ 意識を使わないことがサマーディだ。ただマインドに触れないのだ。身体からもマインドからも何も求めないことだ。


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