観測がもし正しければ、2016年2月5日と6月15日にすべての日本人の魂と霊体に衝撃が走ったはずで、何かあったか自己チェックはできる。私は2016年新暦1月の中旬以降は妙な気配を感じて仕方なかった。地震と同じで、あちら側の地殻変動はもう一つの身体側には感じると思う。昨年気づけばよかったのだけれど、事の大きさがそのときはわからなかった。大きな意味だったのかもしれないというのはなぜか今年後半になって意識の中に大きくなってきた。レーザー光線のように身体や思想や何やかやを「全員」に対して表からも裏からも精査していると言われていたのを今になって思い出している。私が原爆(か同規模以上の新型爆弾)の光景を見せられているのは2016年8月21日だ。地上に悪事がまったくないなら、平和は保たれる。だから悪事に満ちるこの今の地上において平和を幻想するのは賢明ではないと思う。護ってあげる、責任はこちらでかぶるから安心してね、という都合のよいメッセージは受けてない。私は個人的に死刑制度には反対だった。社会がどんな混乱に陥ってもそういう争いはすべきでないと思っていた。でもそれは北朝鮮の独裁者のような真正の「問題」に対しては違うと感じるようになった。人の人権を侵害しない範囲において人権があるのであって、人権を守るということは、大規模な人権侵害には対処しなければならないということだと感じるようになった。以前の私の考えが浅かった。


あなた方が地球界にやってきたのは、あらゆる感情を経験し、これらの感情をマスターできるようになるためです。自分がどう反応するか、どの想念を引き寄せるか、どんな行動を自分の人生に生みだすのかを、自分で選ぶことができるという事実に気づくことによって、感情をマスターできるようになります。そして、ここで私が言いたいのは、あなたが引き寄せている想念のほとんどは、


自分にはどこかいけないところがある、
自分は愛されるべき人間ではない、
愛されるには何かをしなければならない、


という信念に根ざしているということです。この否定的傾向を変えるために、新しいマントラを熱心にくり返し唱えることを毎日実行してください。このマントラは今まであなたが考えもしなかったもので、「私は自分を愛しています」というものです。


静かにすわって「私は自分を愛しています」と心から信じて唱えると、自分のなかで何かが起きるのを感じることも当然できます。そして、温かさを感じはじめるはずです。心のなかには本当に「炎」があるのです。愛によって点火されるチャクラがそれです。こうしたことのすべては真実です。自分に対する愛の感情にひたることによって、温かさを生みだすことができます。B



過去、広島と長崎の被害についてはさまざまな研究がなされてきた。それらの中から、1951年に日米合同調査団が報告した広島(核爆弾は16kt)の調査結果をもとに、仮に国会議事堂上空で核爆弾が爆発した場合の被害を想定した。


■爆風・衝撃波:爆弾が気化して急速に火球が膨張すると秒速数百メートルの衝撃波が発生し、爆心地に近ければ人間はもちろん、車ごと吹き飛ばされ、列車は脱線する。屋内にいて衝撃波に吹き飛ばされなくても、ビルの外壁、ガラスが大破するため、それらが人体を襲う。


■火災:広島では熱戦で可燃物が発火し、広範囲で火災が発生した。2キロメートル以内は大規模火災が発生する。


■地下:広島では爆心地から500メートルの地点にいた人がたまたま地下にいたため、助かった。Jアラートが鳴った場合、近くに地下街、地下鉄があれば退避するのがよい。


■首相官邸:現在、分厚いコンクリートに覆われた建物は少ない。首都中枢では外壁が厚い建造物は国会議事堂くらいだろう。首相官邸の地上部分はガラス張りの外観通り脆弱で、霞ヶ関の省庁も同様。壊滅的被害を受ける。


■交通網:広島とは比較にならないほど自動車が増えた現代の東京は可燃物だらけ。首都高はじめ、主要幹線道路は炎上する自動車で麻痺する。爆心地から1.0キロメートル以内の高速道路橋梁の多くは崩壊する。


■放射線:爆発時に爆風や熱風を直接受けなくても、致死量の放射線を浴びると死に至る。広島では爆心地から1~1.5キロメートルの範囲で推定被曝線量が1500~2000ミリシーベルトだった(現在、一般の人は1年間の被曝線量が1ミリシーベルト以下に法律で定められている)。被爆1週間後には白血球が減少し、多くの人が3~6週間後に死亡した。


■病院:爆心地周辺の病院は壊滅する。被爆者たちの救護は郊外の病院に頼らざるを得ない。


■死の灰:爆発からしばらくすると、上空に舞った放射性物質が地上に降下してくる。いわゆる「死の灰」だ。これらに曝露されると、長期に亘って癌や白血病など「原爆症」に苦しめられる。風向きによるが、仮に南西の風が吹いていれば、遠く茨城県、栃木県にまで及ぶ可能性がある。


当時の広島と現在の東京では人口密度も、建造物の強度や密度も異なるため、実際に生じる被害とは異なる部分があるだろうが、どちらも平地が多く、被害の広がりは似たイメージになるだろう。くろい・ぶんたろう/SAPIO2017年11・12月号



自分が王になるまで王の苦しみはけっしてわからない。そして、王は召使いになるまで自分の召使いの謙虚さをけっして知ることはない。また、信心深い女は、妾の立場になるまで妾の苦労はわからない。そして、妾の立場にある女は、信心深い女になるまでその価値判断を知ることはない。したがって、美徳にあふれた人生への道は、あらゆるものを内包するものなのだ。それは、人間の意識の中で創造されたあらゆる性質、あらゆる状況の幻を内包している。これこそが、最も賢く、最も高貴な存在たちが、人類の冒険が創り出したすべての状況を生きてきている理由である。彼らは売春婦であり、聖職者であった。彼らは、グルであり農民であり、殺人者であり殺された者であり、征服者であり征服された者であり、子どもであり親であったのだ。


あなたにもわかるはずだが、あなたが他人を非難するのは、自分の中の受け容れることのできない側面を他人の中に見つけるからにすぎない。もしあなたがすべての状況をすでに生き、そのすべてを安らかに受け容れることができているならば、あらゆる人間を理解し、価値判断なしに彼らをそのままでいさせてあげるのは簡単なことである。なぜなら、あなたはすでに彼らになったことがあり、彼らに価値判断を下せば、自分自身に価値判断を下していることになるのを知っているからだ。そのとき、あなたは真の思いやりという美徳を得たのであり、深い愛があなたの魂の中に存在するのである。そのときあなたは、まさにひとりのキリストだ。なぜならあなたは、さまざまな制限の中にいる愛すべき兄弟たちを、理解し、愛し、許すことになるからだ。


「父」のすべてをそのまま愛する、そのすべてになるということは、「父」であるものすべてを愛することだ。そして、「父」であるものすべてとは、あなたのまわりにいる愛すべき兄弟たちのことである。どのように見えようと、あなたが自分の現実の中で神であるように、彼らもまた彼らの現実の中で神なのである。



マハラジ  あなたはどこから、何のために来たのかね?


質問者 私はアメリカから来ました。そして、私の友人はアイルランドから来ました。私は6カ月前に来て、アーシュラムからアーシュラムへと旅してきました。私の友人はひとりで来たのです。


マハラジ  あなたは何を見てきたのだろうか?


質問者 私はシュリー・ラマナアシュラムにいました。またリシケーシも訪れました。シュリー・ラマナ・マハルシについてのあなたの意見をうかがえるでしょうか?


マハラジ  私たちはともに、同じ原初の状態のなかにいる。しかし、あなたはマハルシの何を知っているのかね?あなたはあなた自身を名前と身体だと見なしている。だから、あなたの知覚するものすべては名前と身体なのだ。


質問者 もしあなたがマハルシに出会うならば、何が起こるでしょうか?


マハラジ  おそらく、私たちはまったく幸せに感じるだろう。二、三の言葉を交わしさえするかもしれない。


質問者 しかし、彼はあなたを解脱した人として認識するでしょうか?


マハラジ  もちろんだ。人が人を認識するように、ジニャーニはジニャーニを認識するのだ。あなたはあなたが体験したことのないものを賞賛することはできない。あなたはあなた自身であると考えているものだ。だが、あなたはあなたが体験していないものをあなた自身として考えることはできないのだ。


質問者 技師になるためには工学を学ばなければなりません。神となるためには何を学ばなければならないのでしょうか?


マハラジ  あなたはすべてを忘れなければならない。神はすべての欲望と知識の終焉なのだ。


質問者 あなたは、単に神になろうとする欲望を放棄することで、私が神になると言われるのでしょうか?


マハラジ  すべての欲望が放棄されなければならない。なぜなら欲望を持つことで、あなたはあなたの欲望の形を取るからだ。何の欲望も残っていないとき、あなたは自然な状態へと戻るのだ。


質問者 私が完成に到達したということを、どうやって知るのでしょうか?


マハラジ  完成を知ることはできない。あなたは未完成だけを知ることができるのだ。知識が存在するには、そこに分離と調和がなければならない。あなたはあなたではないものを知ることができる。だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。それは偽りを偽りとして見るというものだ。しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。


質問者 ヴェーダーンタのマーヤー、幻想の概念は、顕現にあてはめられます。それゆえ、私たちの顕現の知識は信頼できません。しかし、非顕現の知識は信頼できるはずです。


マハラジ  非顕現の知識といったものはない。それは不可知だ。知ることができるのは現実のものだけなのだ。


質問者 どうして、知る者が知られないまま残るのでしょう?


マハラジ  知る者は知られるものを知っている。あなたは知る者を知っているだろうか?誰が知る者を知る者なのだろうか?あなたは非顕現を知りたいと言う。あなたは顕現を知っていると言えるだろうか?


質問者 私はものごとと概念を、そしてそれらの関係を知っています。それらの総計が私のすべての経験なのです。


マハラジ  すべて?


質問者 ええ、すべての現実の体験です。現実に起こらなかったことを知ることができないのは認めます。


マハラジ  もし顕現がすべての現実体験と体験者の総計であるなら、その合計のどれほどをあなたが知っていると言うのだろう?


質問者 私自身に関係する感覚的な体験のいくらかです。


マハラジ  それでさえもない。あなたはあなたが反応することだけを知っている。誰が何に反応するかを知ってはいない。あなたは、「私は在る」に接触することであなたの存在を知るのだ。「私はこれだ」「私はあれだ」は想像なのだ。


質問者 私は顕現を知っています。なぜなら、私はそれに参加しているからです。そのなかでの私の部分はたいへん小さいものであり、それは認めます。それでも、それはその全体性と同じほど現実なのです。そして、もっと重要なことは、私がそれに意味を与えるということです。私なしには、世界は暗く沈黙しているのです。


マハラジ  ホタルが世界を照らすというのかね!あなたが世界に意味を与えるのではない。あなたはそれを見いだすのだ。あなた自身のなかに深く潜っていきなさい。そしてすべての意味があふれだす源を見いだしなさい。間違いなく、意味を与えることができるのは表面的なマインドではないのだ。


質問者 何が私を限定し、表面的にしてしまうのでしょうか?


マハラジ  全体は開いていて、手に入るものだ。だが、あなたはそれを手にしない。あなたは自分自身だと考えている小さな個人に執着している。あなたの欲望はかぎられていて、野望は取るに足らないものだ。結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう?知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。全体としてのあなた自身を知りなさい。


質問者 ひとつの点が、どのように宇宙を包含できるというのでしょうか?


マハラジ  ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。許容量に欠けることはない。自己限定だけが唯一の問題なのだ。しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかもすべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。


質問者 私はインドにヨーガの教師を探しに来たのです。いまだに私は探しています。


マハラジ  どの類のヨーガをあなたは学びたいのだろうか?獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか?


質問者 それらは最終的には同じ結果になるのではないでしょうか?


マハラジ  どうして同じでありうるだろう?一方は隷属させ、他方は解放する。動機がもっとも重要なのだ。自由は放棄を通してもたらされる。すべての所有は束縛なのだ。


質問者 私が力強さと勇気をもってつかむものを、なぜ放棄しなければならないのでしょうか?そして、もし私が強さをもっていなければ、どうして放棄できるでしょう?私にはこの放棄の必要性が理解できません。私が何かを欲しいとき、どうしてそれを追求すべきではないのでしょうか?放棄は弱者のためのものです。


マハラジ  もしあなたが放棄する智慧と力をもっていないのなら、ただあなたの所有物を見てみなさい。ただ見るという行為がそれらを焼き尽くすだろう。もしあなたがマインドの外側に立つことができるなら、じきに所有物と欲望を放棄することがもっとも明白な分別ある行為だと知ることだろう。
あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。利己的になることはあなたを弱くする。あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若く、経験不足だからだ。例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。結局、すべては最善の結果をもたらす。なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。


質問者 どのようにして無欲を訓練すればいいのでしょう?


マハラジ  訓練の必要はない。放棄という行為さえ必要ない。ただ、あなたのマインドをそらしなさい。それだけだ。欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。


質問者 それだけですか?


マハラジ  そうだ。それだけだ。欲望や恐れが何であれ、それにとどまっていてはならない。自分で試みてみなさい。ときおり、あなたは忘れてしまうかもしれない。だが、それは問題ではない。すべての欲望と恐れを追い払うまで、すべての反応が自動的になるまで試みることだ。


質問者 人はどのようにして感情なしに生きていくことができるのでしょうか?


マハラジ  あなたは欲しいだけすべての感情をもつことができる。だが、引き起こされた感情の反応に注意しなさい。完全に自己決定し、外面からではなく、内面から導かれなさい。
より良いものを確保するために、ひとつのものをあきらめるのは本当の放棄ではない。あきらめなさい。なぜなら、あなたはそれが無価値であることを理解するからだ。放棄していくにしたがって、あなたは自然に知性と、力と、無尽蔵の愛と、喜びのなかに成長していく自分を見いだすだろう。


質問者 なぜ、それほどまでにすべての欲望と恐れを放棄することが強調されるのでしょうか?それらは自然なものではないのでしょうか?


マハラジ  それらは自然なものではない。完全にマインドによって作られたものだ。あなたに必要なものは何もないということを知るために、すべてを放棄しなければならないのだ。あなたが必要とするものは非実在であり、あなたの努力は無意味だ。あなたは所有物があなたを守ると想像している。実際は、それらがあなたを傷つきやすくするのだ。あなた自身が「あれ」や「これ」として指し示すことができるすべてから離れたものであることを自覚しなさい。あなたは感覚的体験や言語的解釈によって到達することのできないものだ。それから立ち去りなさい。人格化を拒否しなさい。


質問者 あなたの話を聞いた後、私は何をすればよいのでしょうか?


マハラジ  聞くことだけでは本当の助けにならないだろう。それを心にとどめ、熟考し、私が語っていることを私に語らせようとするマインドの状態を理解しようとしてみなさい。私は真理から話している。両手を開き、受け取りなさい。あなたはあなたが考えているものではないのだ。私が保証しよう。あなたがもっているあなた自身のイメージは記憶によってつくられたまったく偶然の産物なのだ。


質問者 私は私のカルマの結果です。


マハラジ  一見、あなたであるように見えるもの、それはあなたではない。カルマは、あなたが繰り返し学んできたひとつの言葉にすぎない。あなたはけっして今まで、そしてこれからもひとりの個人ではないのだ。あなた自身を個人だと考えることを拒絶しなさい。自分が誰それだということを疑わないかぎり、希望はもてない。あなたが目を開くことを拒むとき、何を見せられるというのだろう?


質問者 カルマとは、私を完成へと衝き動かす神秘の力だと私は思っています。


マハラジ  それは人びとがあなたに言ったことだ。あなたはすでに今ここで完成している。完成することができるようなものはあなたではない。あなたはあなた自身ではないものをあなただと想像しているのだ。やめなさい。重要なのは停止そのものであって、あなたが何をやめようとするかではないのだ。


質問者 カルマが私に、私であるものに成るよう駆りたてたのではありませんか?


マハラジ  何も駆りたててはいない。あなたはあなただと信じるものだ。信じるのを止めなさい。


質問者 ここで、あなたは座り、私に話しています。あなたにそれを強いるのはカルマです。


マハラジ  何ひとつ、私に強いるものはない。私はする必要のあることをするだけだ。だが、あなたはたくさんの不必要なことをする。調べることを拒むことがカルマをつくり出すのだ。あなた自身の苦しみに無関心であることが、それを永続させるのだ。


質問者 それは本当です。この無関心に終止符を打つことができるのは何でしょうか?


マハラジ  無執着、あるいは慈悲の波が内面から衝動として起こらなければならない。


質問者 この衝動に私の方から出会いに行くことができるでしょうか?


マハラジ  もちろんだ。あなた自身の状態を見てみなさい。世界の状態を見てみるがいい。


質問者 私たちはカルマ、輪廻、進化、ヨーガ、師と弟子についての話を聞いてきました。これらすべての知識をどうすればいいのでしょう?


マハラジ  すべてを捨て去っていくがいい。忘れるのだ。概念や信念の重荷を捨て去って、先へと進んでいきなさい。すべての言語的構造、すべての相対的真実、すべての実体的な対象物を放棄しなさい。絶対なるものは、絶対的な献身によってだけ到達できるのだ。半端な気持ちではいけない。


質問者 私は何か絶対的な真実からはじめなければなりません。そのような何かがあるでしょうか?


マハラジ  ある。それが「私は在る」という感覚だ。それからはじめなさい。


質問者 それ以外の何も真実ではないのでしょうか?


マハラジ  ほかのすべては真実でもなければ、偽りでもない。それが現れると真実のように見え、否定されるとそれは消え去るのだ。一時的なものは神秘的だ。


質問者 私は実在は神秘的なのだと思っていました。


マハラジ  どうしてそうありうるだろう。実在はシンプルで、オープンで、明らかで、優しく、美しく、そして喜ばしいものだ。それは矛盾からの完全な自由なのだ。それはつねに新しく、つねに新鮮で、かぎりなく創造的だ。存在と非存在、生と死、すべての区別がそのなかで溶けあっている。


質問者 すべてが偽りだということは認めます。しかし、それが私のマインドを消し去ることができるでしょうか?


マハラジ  マインドとはそれが考えていることなのだ。マインドを真実にするために、真実を考えなさい。


質問者 もしものごとの形が単なる現れでしかないなら、実際には、それらは何なのでしょうか?


マハラジ  実際には、知覚だけがある。知覚する者と知覚されるものは観念であり、知覚しているという事実は現実のものだ。


質問者 絶対なるものはどこから来るのでしょうか?


マハラジ 絶対なるものは知覚の誕生する場所だ。それが知覚を可能にするのだ。
しかし、分析のしすぎはあなたをどこへ導きもしない。あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の核心がある。あなたはそれを行為のなかでだけ知ることができる。日常生活のなかで、それを表現しなさい。そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。
マインドの真正な機能とは、あなたに何が存在しないのかを伝えることだ。だが、もしあなたが明確な知識を望むなら、マインドを超えた彼方へ行かなければならない。


質問者 すべての宇宙のなかには、ただひとつでも価値あるものがあるのでしょうか?


マハラジ  ある。愛の力だ。


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