第三のヒロシマ前夜13


最近、柳原可奈子のショップ店員のネタと、宮原知子の蝶々夫人の完成度が高くてびっくりした。柳原の方は恐ろしいほどだった。


一人ひとりが問題集
止揚(しよう、独: aufheben, アウフヘーベン)という言葉があるが、
・あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。
・矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。
魂が揚げられるように、神とともに、神の用意された舞台で、魂を止揚する過程で全体に寄与することが「流れ」なのだと思う。
鮭が川に帰るのと変わらない。鮭は帰ろうと思っているのではなく、帰る流れの中にある。そして個別の鮭にとっては、生きた意味は、いわゆる人生というのは、一人ひとり異なる止揚にあった、というかいま、今日「魂を揚げよ」と突きつけられている気がする。
一人ひとりが抱える問題はその人にしかわからないが、その人がそれに直面することを望んでいるのは、背景込みの大きな存在、流れなのだと思う。


地獄について
私が地獄について採用している考えは、1番奥底が
1、地獄(永遠に苦しめられる)は存在しない
であり、2番目のより浅い相対的な階層では
2、現代人は地獄を警戒しなければならない(付き合うものに注意しなければならない)
という矛盾するものだ。
深層では、絶対的な世界では、地獄など存在しないし、魔もいない。神がいるというのはそういうことだし、そこに不完全性が少しでもあったら、今日まで「神」など信仰され続けてはいない。
ところが浅い階層では、魔がいて、地獄は、あるらしいのだ。
その魔というのは、人類が想像したりできるようなレベルの存在ではなく、歴史的にも人類史とはまったく無関係なルーツをもち、圧倒的、ある意味神話に近い存在らしい。
最初は、意識存在が飛び越えるべきハードルとして「全体の進化に役割」をもつ世界(これが地球限定なのかわからない)の機能の一部だったらしいのだが、なぜかその「枠から外れて」しまい、地獄という監獄を後追いで造らなければならなくなった。
人類は本来ここまで「悪」ではなかったのだが、現在のテロリズムや拷問、残酷な想念は、そちらから流れてきて、本来の霊性の成長という枠組みを妨害してしまっている。
現代人だろうと何だろうと、
「(原因が何であろうとその)被害状況」は知る必要があると思っている。被害状況によっては、対策も変わるからだ。


三千世界の大立替を予告した大本教の出口王仁三郎聖師によって、人は「霊止(ヒト)」のことであるとの説が出されました。現在、出口王仁三郎聖師の大本教霊学で何等かの学びを得た人達の間では、人は「霊止(ヒト)」の意味であるという考え方は成り立っていると思われます。「霊」の字に「ヒ」とする呼び方があるからです。


人=霊止(ヒト) 人は肉体に霊を止めている物


この「霊」の漢字は知られているのですが、あまり知られていない「同字」が存在しています。ほとんどの人は見られたことはないと思います。PCでは第四水準漢字に所属していますので、新しい機種ならば出て来る漢字ですが、第四水準だと出て来ない機種もあるかと思いますので画像として示します。雨の漢字の下に示し申すの「神」の字があるのです。雨は「あめ」と発音するので解るように「天(あめ)」をも意味します。


人は誰しもこの世を去れば霊魂となって【霊界】へと帰ります。本来は【天(あめ)から降りた身(魂)】なので、天に帰るのが【責務】なのです。しかし、この世で自分が為した行為によって「天に帰れなく」なったりします。
そうした一つが【黄泉国(よみのくに)】で、この「黄泉国」からこの世に出ることは【黄泉帰り(甦り・蘇り)】ともします。
この天に帰れなくなった時、地獄に落ちる。あるいは地獄に落ちるほどでもないが天にも帰れないで天国と地獄の中間と言うべき【中有界】などに留まっていると、現界に差し戻しとなる【輪廻転生】の中に入ってしまいます。


そこに「示し申すの雨(あめ)の神」と「並の雨(あめ)で示す霊」とがあるとなります。大本教から【本守護神】が出されました。この本守護神とは各自の魂の【御親神】であり、天に在る自分の【天津神】でもあるのです。
全ての人の魂は、その霊的段階を遡っていけば誰しも御親神の【天津神】に到達はするのです。大本教霊学の真髄は、その【本守護神】の存在を世に知らしめたことです。


自分は〇〇の神様が好きだとか、惹かれるというようなたわいの無い話ではなく、自己の魂の【源】の存在です。自分の魂は如何なる神から出たのであろうか?。そのルーツを探すことが、正守護神・本守護神につながる道なのです。人には肉体のルーツと魂のルーツが存在しているのです。肉体は死ねば終わりですが、魂は半永遠性を持っていると言えます。


人は神に【似せられし者】と言われるように
人は【神の容器】ともなるのです
ですから、人は霊止(ヒト)でもあるのです


しかし、それは肉体人間のことではないのです。私達の肉体の中に宿る【霊魂】の本質が神であったからなのです。ですから、人の魂は【神の世界に戻る】ことが可能となっているのです。


ここに、大本教で説かれた
【人は神の子・神の宮】の神の宮が出るのです


日本では神社で神として祭られている存在は、神界の高級霊もあれば、蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊のみならず、過去の人として出た存在も神として祭られています。ただ、それれは人々が神霊として祭っただけで、本来の神霊でない場合もあります。
日本で使われる「神」には、「上(かみ)」たる存在を含め、守護の「守(かみ)」、頭たる「頭(かみ)」たる存在も含まれて来ます。
いくら日本の朝廷が神社の神霊に「正一位」などの称号を贈ったとしても、神でも無い人間天皇の朝廷が贈った神号など神界では別に意味をもなさないのです。


人間が贈った称号や名誉は、人の身であるこの世では価値はあれども 神霊世界に戻れば、その人はこの世で何を成したかが問われる


ある宗教団体をバックボーンにした某国会議員さんは大臣を勤めたことから国からの勲章を辞退して、自分が欲しいのは国が下さる勲章ではなくて、「神からの勲章」だと言われました。人間がくれる勲章にいかほどの価値があるかです。霊界に渡って、この世の【勲章】を見せびらかせることは出来ないのです。
あの世に持って行けるのは、この世の勲章や地位や名誉や財ではなくて、その人がどれほどこの世で他の人の為に社会の為に役立ったかの功績の章なのです。


古来より、健全な心に正しき神が宿ると言われて来ました。 人を罵ったり悪口を言っているでは、その人には健全な神など宿ってはいないのです。


人は「霊止(ひと)」である為に、常に霊の【憑依】を受けます。


それらの憑依はその人の【表意】として表に出て来ます。


スピリチュアルの世界ではまったくなされていないものの一つとして、【サニワ(審神)】があります。
霊学の分野では「サニワ」に「審神とか審神者」の漢字を当てていますが、辞書でサニワを調べたら、この「審神とか審神者」の漢字は出て来ません。これは明治以降の新宗教からとされています。
元は神霊を霊媒者に降ろして神託を聞く清められた庭の【清庭(さやにわ)】の意味なのですが、実際に霊降ろしをすれば、霊媒者に降りて来る霊は必ずしも本来の神霊ではなくて、俗に言われる蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊と言われるような神霊とか、本来の霊界に渡ってない不浄仏霊とか霊界にウロウロしている愉快犯霊等が出す言葉に惑わされてしまうことから、それを吟味する「審判をする人」から審神とか審神者の漢字が当てられて来たようです。


自分には霊が見えるで、神社などに参拝して出て来た霊が名乗る神名に疑いを持つ霊感者はまずないでしょう。で、その神霊が言う言葉を真に受けてしまいます。
それに対して「サニワ(審神)」者は、見える霊の姿形からではなく、その神霊が告げて来る言葉の内容に何かおかしいところがないか?。と聞いていて、ここは何かおかしいと思うとその神霊に質問をして行きます。その質問で高い神名を名乗る霊を追い込むので、かなりの博学が要求されます。


聖書に、「龍神とは霊界で年老いた蛇霊」とあるように、相手は霊界において長い時間をいますので、歴史的なことを聞くことはあまり意味がありません。それよりも、その高い神名を名乗る霊の【心の持ち方】に関して、詰問を加えるなのです。それは大本教神諭に、【世に出ておられた神々の心の持ち方が悪かった】とあるように、その神霊が如何なる【心の持ち方】をしているかです。心の持ち方が悪かったら、〇〇大神と名乗ろうと臆すること無く突っ込むのです。
また、対峙している霊の力が強いと、その霊の攻撃を受けてしまいますので、自分に霊的防御能力が無いと、その霊に殺される場合もありますので、誰でも彼でもサニワ(審神)が出来るではないのです。命がけとなります。


相手がいくら高級神霊と名乗っていても、サニワ(審神)の権限として質問することが許されるのです。その時、相手が高級な神霊の名を語る霊であつてもサニワ(審神)者として言葉を出すと、そのサニワ(審神)者のきつい言葉は【神の剣】ともなって行くのです。
私達が出す言葉が【神の剣】とも成るは、ヨハネ黙示録には言葉が剣になると書かれていますが、ほとんどの霊感者レベルではその実態は知られていないのです。
このサニワ(審神)者のことがあまり世に知られていないのは、サニワ(審神)には非常に優秀な【霊媒者】を必要とするからです。世に霊が見えると言う方はかなりあるでしょうが、優秀な「霊媒」が出来る方は非常に数が少ないからです。まして神霊降ろしともなればその霊媒者の魂の格が高くないと勤まりません。霊能者の間では優秀な霊媒者は取り合いになるぐらいなのです。


サニワ(審神)において、スピリチュアルで盛んに言われる宇宙からのメッセージも、本物は一つも無いともされます。スピリチュアルの宇宙語とされる言葉にしても、言語学者を動員したところ、今は使われていない古代の異国の言葉で蛇霊の仕業とサニワされた事例も存在しています。今の人類の姿をしていない太古の霊も存在するのです。 ただ、それらは人には遙かなる古代からの霊が憑依して来ているなのです。聖書における人類の祖とされるアダムとイヴを唆した蛇霊の教えにも意味があるのです。肉体は滅びても、霊魂は生きている証明論にはなるわけです。


今の世に住む私達にしても、その本質は【霊魂】を持った者であり、この世を去れば霊世界に戻るなのです。


すなわち、私達は【霊止(ひと)】なのです


人にはどれほどの霊が懸かっているかとなりますと、諸説あります。私が2番目の師匠の元でサニワ(審神)をしている時、その人の本来の魂を表に出すにあたっては、その人に憑いている俗に言う背後霊とか憑依霊を次々と除去して行かなければなりませんでした。


人はそうした憑依している霊の総意たる「表意」の元で行動しています


少しばかり霊能力が備わっていると過信して、その人の外側に居る憑依霊でその人を判断すると大きな過ちに入ります。その本体の中心たる霊は、そうした霊達の奥に存在するからです。 こうした憑依霊の数は霊能者をしている人ほど多く、かなり名が知られた某霊能者の方は自分には三千体の霊が背後に従事していると公言されていました。その三千体の霊はその霊能者の正守護神(自己の前世で神霊に昇格)が管轄しているでした。
私の最初の師匠が竹生島に参拝した時、神社か寺院のどちらの管長さんだったのかは解りませんが、その師匠と同行していた優秀な霊媒者に、【あの女性は何者です。こんな人は見たことがない。少なくとも一万五千体の霊が憑いている】と言われたそうです。


霊的世界の戦いは、自分の背後に霊の数が備わっていないと戦えないがある


私はその話をその師匠と同行していた霊媒者の方から聞いて、その管長さんの霊能力に感心しました。スピリチュアルではそうした霊の数が読み切れない人が大多数だからです。
例えば、軍隊で言えば師団長クラスならば部下は1万人から2万人などと持つでしょう。連隊長ならば2千人ぐらい持つでしょう。大隊長ならば600人ぐらいは持つでしょう。中隊長ならば200から100人ぐらいは持つでしょう。小隊長ならば数十人程度は持つでしょう。 軍隊であれぱ、それらは将官とか佐官とか尉官とかの軍隊の階級で決まります。神の世界にも階級があるのです。行者の世界ではそれらは「天使の階級」とも言い。自分に憑いている霊の数が少ないと、その人の霊界での階級はあまり高くもないとなるのです。ただ、霊界でも管理部門になりますと部下は少なくても階級が高いとなります。自分に天使長が降りて来るで、その天使長に数名の部下しかいないとなれば眉唾物となりかねないのです。


霊能者としての実力を知る上で、その人に憑依している霊の数を言い当てるがあります。それが解らないで、その人の背後に憑いている霊の一つや二つを見て言う霊能力では、まったく見当違いのことを言うことになってしまうからです。
自分に白狐霊を数体とか数十体従えている古狐が憑いているとしても、膨大な背後霊団を持つ人の存在を見るなど不可能となります。


私自身が驚いたのは近辺の職業霊能者の方に私の最初の師匠の名を出すと、どなたもあの先生ならば間違いがないと太鼓判をおされましたが、SNSの世界では自分は特別の霊能者だと過信している方が多く、その師匠も黒狐にされたりします。
いくら霊的世界は【騙し合い】が横行している世界と言えども、数十体とか数百体の霊の憑依では、その人の前に出て来た神霊は本物ですかとなるのです。 また、数十体程度の霊の憑依でのびてしまうでは、とても本物と呼ばれる霊能者の段階には進めません。


いくら自分には〇〇の神様が出て来ると言っても、その神名を乗る霊が何十万何万の部下を従えて出て来るのと、数体程度しか従えていないとでは、同じ神とは言えないのです。霊がよく見えると霊界での力を持った霊と出会うのは次元が違っているのです。


単にその人に【憑依(表意)】している霊の言葉に惑わされてはいけない


人の表意(憑依)ではなくて、その人の本質(魂)を知る



あなたが悟りの境地に達していないのは、本当はすでに悟っているのに、そのことに気づかないようにしているからです。あなたがそうすることを選ぶのは、何も邪悪な動機があるからではなく、神と分離した物質界で、自分自身が創造しているものにたえず魅了されているからにすぎません。


自分の幸不幸はただ一つのことにかかっている──つまり、自分が神の一部であると感じられるかどうか、ということです。そのことを思い出す機会を自分に与えてください。



質問者 人間と宇宙に関しての数多くの理論があります。創造の理論、幻想の理論、夢見の理論等々、数えきれません。どれが本物なのでしょうか?


マハラジ すべて本物で、すべて偽物だ。どれでもあなたの好きなものを選ぶがいい。


質問者 あなたは夢の理論を好んでいるようですが。


マハラジ それらはみな言葉をつなぎ合わせたものだ。ある人はある理論を好み、ほかの人は別のものを好む。理論は正しくも間違ってもいない。それらはただ説明不可能なことを説明しようと試みたものだ。理論が問題なのではなく、それがどのように試されるかが問題なのだ。理論を試すことがそれを価値あるものにする。あなたの好きなどの理論でも実験してみるといい。もし誠実で真剣であれば、実在の達成はあなたのものとなろう。ひとりの生きる存在として、あなたは苦痛に満ちた、やりきれない状況のなかにいる。そして解決法を探している。あなたのいる牢獄のいくつか異なった地図があなたに渡された。どれも本物とは言えない。だが、それらはみないくらかの価値をもってはいる。ただ、あなたが本当に真剣ならば。理論ではなく、あなたの真剣さが解放へと導くのだ。


質問者 理論は迷わせるかもしれず、真剣さは盲目にさせるかもしれません。


マハラジ あなたの誠実さがあなたを導くだろう。自由と完成への献身が、あなたにすべての理論やシステムを放棄させるだろう。そしてあなたは智慧と知性、そして愛とともに生きはじめる。理論は出発点としては良いが、いずれ放棄されなければならないものだ。早ければ早いほどいい。


質問者 真我の実現のためには、ヨーガの八段階の修練は必要なく、意志の力のみで充分だと説くヨーギがいます。純粋な意志の力への完全な確信をもって目的に集中するならば、ほかの者たちが何十年もかけて到達することも、努力なしに急速に達成すると言います。


マハラジ 集中力、絶対の確信、純粋な意志! そのような財産があれば、疑いなく瞬時に達成するだろう。このヨーギの説く意志は、ひとつを除いたすべての欲望をぬぐい去った成熟した探求者にとってはいいだろう。つまるところ、意志とは安定したハートとマインドのことなのだ。そのような不動の姿勢で望めば、達成できないものなど何もない。


質問者 ヨーギが意味していたのは、単に絶え間ない追求と勉学への不動の意志を意味していたのではないと私は感じています。目的への意志が確固であれば、どのような勉学も、研究も必要ないということです。単に意志をもっているという事実が、対象を引きつけるのです。


マハラジ あなたが意志、決心、一途な心、何という名でそれを呼ぼうと、つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。死ぬほど真剣なとき、あなたはあらゆる出来事、あらゆる人生の瞬間を本来の目的に結びつける。ほかのことであなたの時間とエネルギーを浪費したりはしない。あなたは目的に完全に献身する。意志、愛、あるいは誠実さと呼んでもいい。私たちは複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。昨日の仕事を今日取り消し、つねに自分自身に矛盾している。身動きがとれなくなるのも無理はない。ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。


質問者 欲望と運命、どちらがより強力なのでしょうか?


マハラジ 欲望が運命を形づくる。


質問者 そして運命が欲望を形づくります。私の欲望は遺伝と環境、チャンスと偶然、いわゆる運命によって条件づけされているのです。


マハラジ あなたの言うとおりだろう。


質問者 いつ私は望む自由をもてるのでしょうか?


マハラジ たった今、あなたは自由なのだ。あなたが望むことは何だろう? それを望むがいい。


質問者 もちろん、望むことは自由ですが、それに働きかけることは自由ではありません。ほかのものへの衝動が、私を迷わせるのです。たとえ私が容認したものでも、私の欲望は充分強くありません。私が容認しない欲望のほうが強いのです。


マハラジ おそらく、あなたはあなた自身を偽っているのだろう。たぶんあなたが容認する欲望は体裁を保つため表面にとどめておいて、本当の欲望には表現の機会を与えていないのだろう。


質問者 あなたの言うとおりかもしれません。しかし、それもまた別の理論です。事実は、私はすべきだと想うことを自由に望めないと感じ、正しく望んでいるように見えるときには、それにしたがって行為をしないのです。


マハラジ それはみな精神的弱さと、不完全な脳によるものだ。マインドを落ち着け、強化しなさい。そうすればあなたの思考、感情、言葉、行為は、あなたの意志の方向に沿うようになるだろう。


質問者 マインドを統合し、強化することはたやすい仕事ではありません。いったいどのようにはじめればいいのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたがいるところからはじめることができる。あなたは今ここに在る。今ここを離れることはできないのだ。


質問者 ですが、今ここで私は何ができるのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたの存在に気づくことができる。今ここで。


質問者 それだけですか?


マハラジ それだけだ。それ以上何もありはしない。


質問者 夢見の状態と目覚めの状態で、いつも私は自分を意識しています。それは大した助けにはなってはいません。


マハラジ あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。


質問者 どのような新しい要因をもちこめばいいのでしょうか?


マハラジ 出来事に巻きこまれることなく見守る、純粋な観照の姿勢だ。


質問者 それが私に何をするのでしょうか?


マハラジ 弱いマインドは知性と理解の欠如から起こる。それはまた不注意の結果でもある。気づきのために努力することによって、あなたはマインドをひとつにし、それを強力にするのだ。


質問者 私は何が起こっているかには完全に気づいているかも知れませんが、それに影響を与えることはまったく不可能なのです。


マハラジ そうではない。何が起こっているかは、あなたのマインドの投影なのだ。それゆえ、あなたのマインドとその投影に気づいていなさい。弱いマインドにはそれ自身の投影を制御することができない。あなたはあなたが知らないことを制御できないのだ。一方、知識が力を与える。その訓練はとてもシンプルなものだ。自己を制御するために、自己を知りなさい。


質問者 おそらく、私は自分を制御できるようにはなるかもしれません。しかし、世界の混乱を扱うことができるようになるでしょうか?


マハラジ あなたのマインドがつくり出した混乱以外に、世界の混乱というものはない。それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを中心に自己創造されるのだ。実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。


質問者 私は、自分が喜びへの欲望と苦痛への恐れによって、完全に動機づけされていることを見いだしました。いかに私の欲望が高尚であり、恐れが正当化されたとしても、喜びと苦痛は、その間で私の人生が振動する、二つの極なのです。


マハラジ 苦痛と喜び、恐れと欲望、その両方の源へと行きなさい。観察し、調査し、理解することを試みなさい。


質問者 欲望も恐れも身体的、精神的要因によって起こる感情です。それらはそこにあり、たやすく観察できます。しかし、なぜそれらはそこにあるのでしょうか? なぜ私は喜びを望み、苦痛を恐れるのでしょうか?


マハラジ そこに身体と身体を守るマインドが存在するかぎり、好感と反感は作用するだろう。それらが出来事のなかに現れても、あなたに影響することはない。あなたの留意の焦点は別の場にあり、それに迷わされることはないのだ。


質問者 それでも、それらはそこにあるでしょう。完全に自由になることは不可能なのでしょうか?


マハラジ あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の結果なのだ。普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろう。


質問者 しばしば、人びとは自らの意志で死にます。


マハラジ 選択が死より一層悪いときにかぎってだ。しかし、そのような死ぬ用意も生きる意志と同じ源から流れてくる。その源は生命そのものよりも深いものだ。生きる存在として在るということは、究極の状態ではない。その彼方には、何かはるかに素晴らしい、存在でも非存在でもなく、生命でも非生命でもないものがある。それが時間と空間の限界を超えた純粋な覚醒だ。ひとたびこの「身体─精神」が自己だという幻想が放棄されたならば、死はその恐怖を失い、それは生きることの一部となるのだ。


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