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第三のヒロシマ前夜48


人間は、
暇になって考える時間が増えると、
ろくなことがないのだ。
あれこれ、
よからぬことを考え出すからだ。


自分を否定したり、
気分が変わる人が増えたのは、
考える時間が増えたことと
連動しているのかもしれない。


大きく感情に揺れる人は、
それと反対の感情にも
大きく揺れる。
私自身は、自分を
肯定でも否定でもないところに、
いつも置いている気がする。


自己否定、自己肯定に限らず、
私は一つだけ(片方だけ)の感情に
そもそも大きく揺れるということがないのだ。
自己否定でもなければ、
自己肯定でもない。
そんな「第三の場所」を
私はいつも探り続けてきた。


私は、希望と絶望、
自信と不信、
迷いと確信、
恐れと安心といった
「相反する感情の間」に、
自分をいつも置くようにしてきた。


感情を、
タテ軸・ヨコ軸のある座標空間で
表すとすれば、
プラスでもマイナスでもない「ゼロ」
になる場がある。


このゼロにある感情とは、
どのようなものなのか。
ゼロということは、
いかなる感情も生まれてこない空(くう)
のような場所なのか。
悟りの境地のようなものなのか。


おそらくそれは、
様々な種類の
「相反する感情」の間を
全て重ねることで
出現する場なのだと思う。


ただ、そこは
もはや感情が支配する世界ではなく、
純粋に感覚的な領域と
言ってもいいかもしれない。
私は、そのゼロの地点を
「ニュートラルな感覚」
の世界と呼んでいる。


いわゆる本当の意味での
自然体というのは、
このニュートラルな感覚を
足場に置いて、
初めて生まれるものだと思う。


怒りにしろ、悲しみにしろ、
希望にしろ、絶望にしろ、
感情というものは基本、
どこか力み(りきみ)が入っているものだ。


こうした感情から、
それらが持っている力みを取ると、
相反する感情の間、
つまりゼロに立つことができる。


勝ってやろうとか、
ヤバイぞとかいったような
気負いも不安もなく、
ただゼロの場に
ひたすら
立ち続けていたような気がする。


ゼロの地点、
ニュートラルな感覚には、
一切の感情が消えてしまっているようで、
同時に、
全ての感情の芽が
かすかに動いているような
不思議な感触がある。


それを言葉にするのは
極めて難しいが、
確かに言えるのは、
意識の感覚が
「ニュートラルなゼロ領域」
に入った時、
自分でも信じられないような
常識はずれの強さと
エネルギーが出てくるということだ。


ふだんから、
相反する感情の間に立つ
(相反する感情の上位に立つ)ことを
習慣的にやっておけば、
ニュートラルな感覚のギアは、
きっと入りやすいはずである。

桜井章一


すべての芽がかすかに動いているような、不思議な感触。n


マハルシ ヨーギーは脳の中枢、あるいは千の花弁の蓮と呼ばれるサハスラーラに達することを最重要視しています。
事実は、身体は心の中に存在し、心は脳をその座としています。
その源に直接向かいなさい。借り物の源泉に依存してはならないのです。


集中とは一つのことを考えることではありません。その反対に、それは私たちの真の本性のヴィジョンを妨げるすべての想念を取り除くことなのです。

(対話398)


質問者 どうすればアートマンを見いだせるでしょうか?


マハルシ アートマンの探究ということはありえません。真我ではないものだけが探究の対象となり、それを排除することだけが可能なのです。

(対話78)


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。


あなたの意識が集中するものが、あなたの現実となります。こうしてつねに自分の内面に向かうことをしないと、あなたは外側の世界のたえず変化する揺れ動きに、くり返しとらわれてしまうことでしょう。そして、自分とは目に見えるもの、つまり、肉体であり、苦しみや悲しみや老化や死をまぬがれないのだと信じつづけることでしょう。けれども、このどれも真実ではありません。肉体は確かにありますが、あなたは肉体ではないのです。あなたは肉体のなかにある意識の”光”なのです。これが真理かどうか、自分で探究してください。



人にでも状況にでも注意を向けるためには、自分自身が自分のそばに、そして人のそばに、状況のすぐそばにいなければなりません。そばにいる、つまりその場に存在すると、自分の予定表をもつことができなくなります。自分がこうするだろうとか、人がこうするだろうとか、状況がたぶんこうなっていくだろうとか仮定していれば、その瞬間に十二分な注意をはらうということができません。注意をはらうためには、心(マインド)がオープンであることが必要です。オープンな心、つまり判断もせず期待もしない心をもつことです。


もうひとつ重要なのは、ハートのほうもオープンにすることで、そのためには自分自身と他人とに対するあたたかい共感、そして過去のできごとへの寛大な宥しが必要です。オープンなハートをもつということは、相手に対等に接すること、共通の地盤を探すこと、そこでみつけられるかぎりの親密さと交流に対して自分を開いている、ということです。


愛への扉は、心とハートの開閉にしたがって開閉します。閉まっているときは、辛抱強くそして寛大であってください。さもないと二度と開かなくなるでしょう。


愛の存在にだけでなく、不在にも敏感であってほしいものです。不在を感じたら、耳を澄ませ、ハートをやわらげましょう。他人と分離している、と感じたら、微妙な判断や評価をしていないか探してみましょう。


分離や判断の経験は、すべて愛の存在に対して自分を開くための機会となります。知的な作業としては、固定観念や正当化から自分を遠ざけてください。感情面では、分離の結果、つまり自分の苦痛、他人の苦痛を感じてみてください。


判断から受容への移行、分離から同調への移行こそ、ヒーリングの真髄です。この移行ができないときには、「マインド・身体」領域において、「不快感=病気」への条件がととのっています。


あなたがたはみんな、この不快感から快感、閉鎖からオープン、不信から信頼への移行を学ぶ必要があります。”防御的”姿勢を”受容的”姿勢に変えることで、平和を実現することができ、また”排除的”な考えを”包含的”考えに変えることで、人間関係に調和をつくりだすことができます。


ヒーラーあるいは奇蹟を行う人になるということは、葛藤や争いから、また罪悪感から、判断や非難から、本来自由であれるはずの自分の能力を受けいれることです。この自分の中の能力を受けいれれば、わたしと同じように人生に奇蹟を起こすことができるでしょう。


何度もくりかえすように、あなたがたにはできるのです。ヒーリングは可能なだけでなく、必要なものです。だれでも自分の感じた傷や不公正さを癒し、奇蹟の力の証人になれます。ヒーリングということが、ここでのあなたの唯一の目的です。そのことに早く気づけば気づくほどよいでしょう。


どうか、あらゆる正統的なスピリチュアルな修行は、自分自身への愛と受容を養うことから始まるのを思い起こしてください。自分自身を愛することができないうちは、他人を愛そうとしないでください。それはできない相談です。


あなたのカンにさわることばかりしでかす人が人生に入ってきたら、その人を無理に愛そうとはしないでください。でも、衝突もしないでください。非難したり、あげつらったりして、敵視しないでください。ただ相手が自分のカンにさわっていることを認め、自分のフィーリングとともにいる時間をとってください。


あなたがひとりのとき、感じていることは、あなたの中だけの問題だということを改めて言っておきましょう。他人は、あなたの感情と関係ありません。自分の感じていることの責任を他人に押しつけるようなあらゆる考えを、切り離してください。


そして自分の感情とともにいて、自分自身に言うのです。「わたしのこの感情は、自分の中にあって自分が非難している面を示している。自分のあらゆる面を受けいれることを学びたい。わたしの中のすべての傷ついた部分に、愛をもたらすことを学びたい」


そうすると、あなたはほんものの変容の地点にきます。愛を自分のハートにもたらす準備ができました。


これを何度も何度も練習し、自分自身に対して辛抱強くあってください。兄弟姉妹やまわりの世界を愛そうとするのは、自分のハートに愛を持ちこめるようになってからにしてください。むりに外部を愛そうとしても、失敗し、自分をもっと責めるようになるでしょう。


自分自身にたっぷりの同情をもってください。小さな一歩から進みます。自分自身の思考と感情を癒すことから始めます。あなたが自分の批判的な考えや分離の感情を癒すたびに、宇宙の中のすべての心とハートがそれを感じます。あなたのヒーリングはあなただけではなく、全存在に及ぶのです。


あなたが平和になれば、世界の平和はすでに内在するものとなります。あなたに他人に対する責任があるとしたら、このことだけです。つまりあなたが自分のハートと心に平和をもたらすことです。


そんなアドバイスは利己的で無責任だと考える人がいるかもしれません。そういう人は、幸福を見いだすためには世界を救わねばならぬ、と信じています。その受けとめ方はまちがっています。自分がまず幸福感を見いださないかぎり、世界は救われません。


理解しがたいかもしれませんが、これが真実です。いまあなたが幸福でないなら、あなたはけっして幸福を見いだせません。ですから、もしいま自分が幸福でないとしたら、未来に幸福を探そうとするのをやめ、自分の注意を現在の瞬間に向けてください。そこにこそ、あなたの幸福があるのですから。


オープンなハート、オープンな心は、愛の存在へと扉を開きます。扉が閉まっていても、扉はあなたにむかって、開けてくれ、と呼びかけます。批判的な気分で他人と分離しているように感じるときも、愛が内部からあなたに呼びかけます。


わたしがすでに説いたように、あなたがたが何度聖域に入ることを拒んだとしても、扉はたたきさえすれば開かれるのです。わたしはまた、こうも言いました。「求めよ、さらば与えられん」でも、あなたがたは信じようとしませんでした。あなたがたは、だれかがあなたの罪や、優柔不断な態度や、しぶとい反抗の回数を数えあげていると思いこんでいるようですが、それは真実ではありません。数えあげているのは、あなたがただけです。


兄弟よ、あなたに言います。「数えあげるのをやめよ。言い訳をするのをやめよ。扉が閉ざされているふりをするのをやめよ。わたしは戸口に立っている。手をのばし、わたしの手をとりなさい。そうすれば、わたしとあなたとで扉を開け、ともに通りぬけることができるだろう」


わたしは無条件の愛への扉です。あなたがそこを通りぬければ、あなたもまた扉になるのです。



マハラジ あなたは床に座っても大丈夫かね? クッションは必要ないかね? 何か尋ねたいことはないだろうか? 尋ねる必要があるというわけではない。静かにしているだけでもいいのだ。在るためには、ただ在ることが重要だ。何を尋ねる必要も、する必要もない。そのような、一見怠惰な時間の過ごし方はインドでは高く評価されているのだ。つまりしばらくの間、あなたは「つぎは何か?」という考えに取りつかれることから解放されるのだ。あなたが急がず不安から自由なとき、マインドは静かになり、沈黙のなかでふだん認識するには微妙で繊細すぎるほどの何かが聞こえてくるかもしれない。マインドは見るために開いていて静かでなければならない。私たちがここで試みていることは、何が実在なのかを理解するために、マインドに正しい状態をもたらすことなのだ。


質問者 どのようにして心配を断ち切ればいいのでしょうか?


マハラジ 心配について心配する必要はない。ただ在りなさい。静かにしようとしなくてもいいのだ。「静かに在る」ということを成し遂げるべき仕事にしてはいけない。「静かに在る」ことについて落ち着きを失ってはいけない。「幸福である」ことについて惨めになってはいけない。ただ、あなたが在るということに気づいていなさい。そして気づきつづけなさい。「はい。私は気づいています。つぎは何でしょうか?」と言ってはならない。「私は在る」のなかに「つぎ」はない。それは時間を超えた状態なのだ。


質問者 それが時間を超えた状態なら、いずれにせよ、それは自らを明らかにするでしょう。


マハラジ あなたは永遠に、あなたであるものだ。だがそれを知り、それにしたがって行為しないかぎり、あなたにとって何の役に立つだろう? あなたの乞食の鉢は純金でできているかもしれない。それでも、それを知らないかぎりあなたは貧者なのだ。あなたは自分の内なる価値を知り、信頼し、欲望と恐れを日々捨て去っていくことで、それを表現していかなければならないのだ。


質問者 もし私が私自身を知れば、欲望や恐れはなくなるのでしょうか?


マハラジ 新たな視野にもかかわらず、しばらくの間は既知なる過去への切望と未知なる未来への恐れという精神的習慣が続くことだろう。それらがただのマインドにすぎないと知ったとき、あなたはそれらを超えていくことができる。あなた自身に関してあらゆる類の観念を持っているかぎり、あなたはあなた自身をそれらの観念を通して知るのだ。あなたをあるがままに知るには、すべての観念を捨て去らなければならない。純粋な水の味を想像することはできない。すべての味を放棄することによってのみ、それを発見することができるのだ。
現在の生き方に興味を持っているかぎり、あなたはそれを放棄しないだろう。なじみのあることにしがみついているかぎり、発見は訪れないだろう。人生の計り知れない悲しみを完全に自覚し、それに対して抵抗するときにのみ、出口は見いだされるのだ。


質問者 今こそ私には、インドの永遠なる生命の秘密がこの存在の次元にあると理解できます。インドはつねにその保管者であったのです。


マハラジ それは開かれた秘密であり、そこにはつねにそれを分かちあう用意のある人びとがいたのだ。教師は数多くいるが、恐れのない弟子はまれだ。


質問者 私には学ぶ用意があります。


マハラジ 言葉を学ぶだけでは充分ではない。あなたは理論を知っているかもしれない。だが非個人として、存在の無条件の中心、愛と至福としてのあなた自身による実際の体験なしには、単なる言語上の知識は不毛なのだ。


質問者 それでは、どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 在ることを試みなさい。ただ在りなさい。重要な言葉は「試みること」だ。一日のなかで、充分な時間を静かに座ることに当てなさい。ただ人格と、その耽溺や妄想を超えていくように試みなさい。どのようにするかを尋ねてはならない。それは説明できないのだ。ただ、成功するまで試みなさい。もっとも重要なことは誠実さ、真剣さだ。あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざりしていなければならないのだ。そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の必要性を見なさい。この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。
結局、人生のあらゆる瞬間においてあなたはあるがままのあなたなのだ。だが、けっしてそれを意識したことがなかった。おそらく眠りから目覚める瞬間を除いては。あなたに必要なことは存在に気づくことだけなのだ。言葉としての表明ではなく、ひとつの常在の事実として。本来のあなたである気づきが、あるがままのあなたへと目を開かせるだろう。それはとてもシンプルなことだ。最初にあなた自身との絶え間ない接触を確立しなさい。すべての祝福は自己覚醒のなかへと注がれる。観察の中心として在ることからはじめなさい。あなたの認識範囲を熟考し、そして行為における愛の中心へと成長していきなさい。「私は在る」はまったく自然に、努力の跡もなく偉大な樹へと生長する小さな種子なのだ。


質問者 私は自分のなかに多くの悪があることがわかります。それを変えるべきではないでしょうか?


マハラジ 悪とは不注意の影なのだ。自己覚醒の光のなかで悪は枯れ果て、落ちていくだろう。
他者への依存はすべて不毛なことだ。なぜなら、他者が与えるものは、他者によって取り去られるからだ。初めからあなた自身のものだけが、最後まであなた自身のものとして残るのだ。内なる導き手だけを受け入れなさい。そしてすべての記憶を捨て去りなさい。なぜなら、それらはあなたを惑わせるからだ。たとえ、あなたがまったく方法や手段について無知であったとしても、静かにしていなさい。そして内側を見なさい。導きはかならずやってくる。つぎの一歩がどうあるべきかを知らないまま、取り残されることはけっしてないだろう。問題は、あなたがそれを避けるかも知れないことだ。グルは、彼の体験と成功からあなたに勇気を与えるためにそこにいる。だが、あなた自身の気づきと努力を通して発見したことだけが、あなたにとって永久に役立つだろう。
何であれあなたが知覚するものは、あなたのものではないということを覚えていなさい。外側から来るものには何の価値もないのだ。あなた自身の感覚と理解だけが有意義であり、ものごとを明らかにするのだ。聞いたり読んだりした言葉はマインドのなかにイメージをつくり出すだけだ。だが、あなたは精神的イメージではない。あなたはイメージの背後とその彼方にある行為と知覚を可能にする力なのだ。


質問者 どうやら、あなたは私にエゴイズムといっていいほど利己主義になれと助言しているようです。私はほかの人びとに興味をもつことさえ許されないのでしょうか?


マハラジ あなたの他者への興味が利己的、自己中心的、自分思考なのだ。あなたは個人としての他者に興味があるのではない。ただ彼らがあなた自身のイメージを豊かに高めるかぎり興味をもつのだ。そして究極的な利己主義とは、自己の身体の保護、維持、そして繁殖だけを気にすることだ。身体ということで、私はあなたの名前と形に関するすべて──あなたの家族、部族、国、人種などを意味している。自己の名前と形に執着することは利己主義なのだ。自分が身体でもマインドでもないと知っている人は、利己的ではありえない。なぜなら、彼は利己的になるための何ものももってはいないからだ。あるいは、彼は出会うすべての人のために、等しく「利己的」であるとも言えるだろう。すべての人の幸福が彼自身のものなのだ。「私は世界だ。世界は私自身だ」という感覚はまったく自然になり、ひとたびそれが確立されたら、けっして利己的であることはない。利己的であることとは、部分が全体に対して欲望し、獲得し、蓄積することを意味しているのだ。


質問者 人は多くの所有物、遺産相続、結婚、あるいは単に幸運から裕福であるかもしれません。


マハラジ もしあなたがそれにしがみつかなければ、それらは取り去られてしまうだろう。


質問者 現在の状態においてあなたはほかの人を個人として愛することができますか?


マハラジ 私がほかの人だ。ほかの人が私なのだ。名前と形において私たちは異なっている。だが、そこに分離はない。存在の根本において、私たちはひとつなのだ。


質問者 人びとの間に愛があるときはいつでもそうなのではありませんか?


マハラジ そうだ。だが、彼らはそれを意識してはいない。彼らは魅力を感じるが、その理由を知らないのだ。


質問者 どうして愛は選択するのでしょうか?


マハラジ 愛は選択しない。欲望が選択するのだ。愛のなかに他者はいない。利己主義の中心がもはやないとき、すべての快楽への欲望と苦痛への恐れはやむ。人はもはや幸福であることに興味を持たなくなる。幸福を超えたところに、純粋で強烈な、無尽蔵のエネルギー、永久に枯渇することのない源から与えることの歓喜があるのだ。


質問者 私は善と悪の問題をまず解決するべきではないでしょうか?


マハラジ 人びとは快いことを善とみなし、苦しいことを悪と見なすのだ。


質問者 ええ、私たち普通の人びとにとってはそのとおりです。しかし、あなたが統合されたレベルから見たときはどうでしょう?あなたにとっては何が善で何が悪なのでしょうか?


マハラジ 苦しみを増長することが悪であり、それを取り除くことは善だ。


質問者 では、苦しみそのものは善ではないと言われるのですね?苦しみを正しく、高尚なものとして考えている宗教がありますが。


マハラジ カルマ、あるいは運命は有益な法則の表現だ。普遍的なものは均衡、調和、統一に向かう傾向がある。あらゆる瞬間において、何であれ起こっていることは最善のためのものだ。それは苦しいもの、あるいは醜いもの、苦渋に満ち、無意味なものかもしれない。それでも、過去と未来のことを考えれば、それは破滅的な状況からの出口として最善のものなのだ。


質問者 人は自分自身の罪だけのために苦しむのでしょうか?


マハラジ 人は自分自身が何であると考えるかにしたがって苦しむ。あなたが人類とひとつであると感じるならば、あなたは人類とともに苦しむのだ。


質問者 では、宇宙とひとつだと主張しているあなたにとって、時間的にも空間的にも苦しみはかぎりないものなのです!


マハラジ 在ることとは苦しむことなのだ。自己同一化の輪が狭いほど、欲望と恐れによって生じた苦しみはより激しいものとなるのだ。


質問者 キリスト教は苦しみを、浄化し気高くするものとして受け入れています。一方、ヒンドゥー教はそれを毛嫌いしているようです。


マハラジ キリスト教は言葉を構成するひとつの方式であり、ヒンドゥー教はまた別の方式なのだ。実在は言葉の背後に、そしてその彼方にある。それは伝達不可能でありながら直接体験され、マインドに爆発的影響を及ぼすものなのだ。他に何も望むものがないとき、実在は容易に手に入る。非実在は想像によって創造され、欲望によって永続されるのだ。


質問者 必要とされ、善である苦しみというものはないのでしょうか?


マハラジ 偶然に、あるいは不意に起こる苦痛は一時的であり、避けることができない。たとえ最善を考慮した上であっても、意図的に加えられた苦痛は、無意味であり残酷なものだ。


質問者 あなたなら犯罪を罰することはないのでしょうか?


マハラジ 罰は合法化された犯罪でしかない。報復よりも防止をもとに築かれた社会では、犯罪は非常にまれなのだ。不健全なマインドと身体によって起こったようないくつかの例外は、医学的に扱われることだろう。


質問者 どうやら、あなたは宗教を無用だと考えているようですね。


マハラジ 宗教とは何だろうか? 空に浮かぶひとつの雲だ。私は無数の言葉で織りなされた雲のなかにではなく、空のなかに住んでいる。無用な言葉を取り去りなさい。すると何が残るだろうか? 真理が残る。私の家は不変なるもののなかにある。それは対極同士がつねに調和され、統合された状態にある。人びとはそのような状態の実際の体験や、その障害について、そしてひとたび知覚されればそれを意識内に確立する技について学ぶためにここへやってくるのだ。そうすることによって、生きることと理解との間に衝突が起こらないように。その状態自体はマインドを超えており、習う必要はない。マインドは障害に焦点を合わせることができるだけだ。障害を障害として見ることは効果のあることだ。なぜなら、マインドがマインドに働きかけているからだ。
ことの起源からはじめなさい。「あなたは在る」という事実に注意を払いなさい。「私はいない」と言えるときはないのだ。あなたに言えることは、「私は覚えていない」ということだけだ。記憶がいかに頼りにならないものか、あなたも知っているだろう。些細な個人的関心事に没頭して、あなたはあなたが何なのかを忘れてしまったのだ。既知なるものを消し去ることで、失われた記憶を取り戻すように試みなさい。何が起こるのかをあなたに伝えることはできない。またそれは望ましいことではない。期待が幻想を生みだすからだ。内なる探求においては、予期せぬことが起こることは不可避だ。発見は、かならずすべての想像を超えたものなのだ。生まれたばかりの子どもに、誕生した後の人生を知ることができないようなものだ。なぜなら、マインドのなかにそれを形づくるための確かな画像が何もないからだ。同じようにマインドは、「これではない、あれでもない」という否定の言語による以外に、非実在の言語をもって実在について考えることは不可能なのだ。非実在を実在と受け入れることが障害であり、偽りを偽りとして見て、それを放棄することが実在を存在のなかにもたらすのだ。明晰性とかぎりない愛、完全に恐れのない状態。今、これらは単なる言葉、色彩のないただの輪郭、こうありうるというヒントでしかない。あなたは手術の結果、目の見えるようになることを期待している盲目の人のようなものだ。もしあなたが手術を避けさえしなければ! 私が在る状態では、言葉はまったく重要なものではない。また、そこには言葉への耽溺などない。ただ、事実だけが重要なのだ。


質問者 言葉なくして宗教はありえません。


マハラジ 記録された宗教は単なる無用な言葉の山にすぎない。宗教はその真実の顔を行為のなかで、沈黙の行為のなかで示すのだ。人が何を信じているかを知るには、彼の行為を見守るがいい。大半の人びとにとっては、身体とマインドに仕えることが彼らの宗教なのだ。彼らは宗教的理念をもっているかもしれない。だが、それにしたがって行為することはない。彼らはその理念をもてあそぶかもしれない。そして、しばしば非常にその理念を好んでいるかもしれない。それでも、それにしたがって行為することはないだろう。


質問者 言葉は意思伝達のために必要とされます。


マハラジ 確かに、情報の伝達のためには必要だ。だが、人びとの間の真の伝達は言語によるものではない。関係性を確立し維持していくには、直接行動によって表された感情豊かな気づきが要求されるからだ。あなたが何を言うかではなく、何をするかが重要なのだ。言葉はマインドによって作られ、マインドのレベルにおいてのみ意味を持つ。あなたには「パン」という言葉を食べることも、それによって生きることもできない。それは単に概念を伝えるだけなのだ。それは実際に食べることによって意味を獲得する。それと同じ感覚で私はあなたに「普通の状態とは言語上のものではない」と言っているのだ。それは賢明なる愛が行為のなかで表現されたものだとも言えよう。だが、あなたがその豊かさと美を自ら体験しないかぎり、言葉では言い表せないのだ。
言葉にはそれ自体のかぎられた有益性がある。だが、言葉に制限を与えてこなかったことが、私たちを崩壊の淵へと追いやったのだ。私たちの高尚な考えは、不名誉な行為によって絶妙に相殺されてきた。私たちは神、真理、愛について語る。だが、直接の体験の代わりに定義を蓄えてきた。行為を広め、そして深めていく代わりに、定義づけに忙しかったのだ。そして定義できることを、私たちは知っていると想像してきたのだ。


質問者 どのようにして言葉を通さずに体験を伝えることができるのでしょう?


マハラジ 体験は言葉で伝えることができない。それは行為とともに表されるのだ。体験のなかに強烈に在る人は、確信と勇気をまわりに放っている。ほかの人たちも行為し、行為から生まれた体験を得ていくのだ。言語上の教えは、マインドがマインド自体とその蓄積してきたものを取り除き、空にするのを助けるのだ。
一切の外的なものに価値がなくなり、ハートにそのすべてを放棄する用意があるとき、ひとつの霊的な成熟のレベルに到達されたのだ。そのときこそ実在はチャンスを得、それをしっかりとつかむ。もし遅れがあるとしたら、マインドが見ること、あるいは捨て去ることを望まないことが原因なのだ。


質問者 私たちはそれほどまでに孤独なのでしょうか?


マハラジ いいや、そうではない。もっている者たちは与えることができる。そして、そのような与える者たちは多くいる。世界自体が、誠実な犠牲的行為によって支えられている最高の贈り物なのだ。だが賢明で、謙虚な、受け取るにふさわしい人たちはまれだ。「求めよ。さらば与えられん」は永遠の法則なのだ。
あなたはとても多くの言葉を学び、とても多くの言葉を話してきた。あなたはすべてを知っている。だが、あなた自身を知らないのだ。なぜなら、自己が言葉を通して知られることはないからだ。ただ直接の洞察だけが自己を露わにする。内側を見なさい。内側を探求するのだ。


質問者 言葉を放棄するのは本当に難しいことです。私たちの精神的人生は、ひとつの絶え間ない言葉の流れなのです。


マハラジ それはやさしいとか難しいという問題ではない。あなたに選択権はない。試みるか、試みないか。それはあなたにかかっているのだ。


質問者 私は何度も試み、そして失敗してきたのです。


マハラジ もう一度、試みなさい。あなたが試み続けるなら、何かが起こるだろう。試みなければ、あなたは立ち往生するだけだ。あなたはすべての正しい言葉を知り、聖典を引用し、討論において優秀であるかもしれない。しかしそれでも、ただの薄っぺらな人間のままだ。あるいはあなたは目立たない、謙虚な、取るに足りない人かもしれない。それでも愛に満ちた優しさと、深い知恵に輝いているかもしれないのだ。


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