記憶と継続。とつぜん石原さとみが見える。n


もしあなたが継続したエゴだとしたら、誕生以来あなたに起こった考えや信念、アイデアや体験、記憶や気づきなどのすべてが脈々とこの瞬間に生きてあふれ返っていなくてはなりません。自分が継続した実体だと思い込もうとすることで、本当に継続しているものが体験できなくなっています。


本当に継続しているものはこれまでもずっとありましたし、いまもあります。それは<我在り>と言うときの”我”です。それはあらゆるものが流れ出る”源”です。それは始まりの前にあり終わりの後にあるもので、意識の本質です。それは純粋な意識そのものです。それが継続するもので、それ以外には何も継続しません。それ以外のものであなたがこの瞬間にもたらすものはすべて、目に見える、継続した有限の人間として自分が存在すると思い込みたいがためにあなたがもたらしているものです。


そうした自己像で自分を縛ってしまわないでください。自分を無力でちっぽけな存在だと信じて、『ああ、人から嫌われたらどうしよう』、『太りすぎじゃないだろうか』、『お金に困ったらどうしよう』などと心配するのをやめてください。あなたのまわりにはいたるところにあなたの本質が実在していて、細胞の一つひとつ、意識のすみずみまで雷鳴のごとく激しい音を立てて流れています。あなたは持っているものを使わずに損をしているのです。でも損をする必要はありません。これまでに話した方法のひとつを使えば、その習慣はやめられます。思考をやめて、いまの瞬間にいましょう。何か特別のことを聞こうとしないで、ただ耳を傾けましょう。見ている物を判断せずに見ましょう。ゆったりとした意識で呼吸しましょう。物事を評価したり選んだり受け入れたり拒否したりすることなく、いまこの瞬間に意識を向けましょう。いまこの瞬間に安らぎ、完全に心を開いて、意識を完全にいまの瞬間に向けていると、それが起きます。純粋な意識がその姿を現します。いまやっても、後でやってもいいですが、どちらにしてもあなたはいずれ実行します。


あらゆるものの中を息づくただひとつの現実があるだけです。それ以外はすべて幻影です。あなたは自分が考えているものとは違います。あなたはいつどう変わるともしれない短い命を、あてもなくおびえながら生きる意識のかけらではありません。あなたは広大無辺の完全に目覚めたすばらしい意識であり、それを充分に体験するのはあなたの持って生まれた権利です。これからのあらゆる瞬間にそのことを完全に完璧に知るようになってほしいというのが、わたしの願いです。


あなたが自分自身と呼んでいるあの慣れ親しんだ感覚、間違って<自分>と呼んでいるあの感覚に気づくように、ここでまたお願いしたいと思います。実際のところ、あの慣れ親しんだ感覚というか、歓喜の絶頂から憂鬱のどん底まで、愛から憎しみにいたるまで、不安から喜びにいたるまで、あらゆる過程に存在する感覚こそがあなたの本質です。あなたは”わたし”を間違って<自分>と呼んでしまったのです。生まれたり消えたりするのは有限の<自分>です。あなたといつもいっしょにいて、朝目覚めた瞬間からもっとも深い夢の瞬間までいるのが”わたし”の本質です。


あなたは”わたし”の本質をいつも感じているのですが、それをいままでは間違った名前で呼んできました。これまであらゆる瞬間に感じてきた感覚があなたが求めているものです。ほかのあらゆるものはその上に反映されます。こうしてここにすわっているときも、常に変わらず存在するのはその純粋な意識です。わかりますか。あなたは自分がすでにそうであるものを求めているのです。あまりに明らかで、不変で、強く、なじみが深いので、それがわからなかったのです。どうか見過ごさないでください。



神ではなく、人間が人間に審判を下すのだ。自分の兄弟たちから表現の自由を奪うために、人間はその創造性の中で善悪のバランスというものを考え出した。宗教の教義や政府の法律にしたがわない者に対する刑罰への恐れは、長い間、さまざまな国家を統治し、支配するための剣となってきた。だが、もしあなた方の言葉で「悪」と呼んでいるものがあるとすれば、それは、ある存在が自分の内面にある神を表現する自由をその人間から奪ってしまうものである。そして、誰かほかの人間に対してそのようなことをするたびに、それは自分自身に対しても同じことをしていることになる。しかも、より深刻な形で同じことをしているのだ。なぜなら、あなたが他人に対して下す審判や、他人に課す制限は、どんなものであろうと、あなた自身の意識の内面においてもひとつの法となるからだ。そしてその法によって、あなた自身も制限され、自分自身に審判を下すことになるのである。


あなたに知ってほしいこと、そしてすべての者に理解してほしいことは、あなた方が「カルマ」と呼んでいるものは、神の法ではないということだ。つまり、カルマはそれを信じている者たちの法なのだ。残念ながら、この教義を信じている者は大勢いて、彼らは「完璧さ」と呼ばれる架空の理解を達成するために、懸命に格闘している。そして彼らは、自分が人生でどんなことをしようと、その代償を支払うために次の人生に戻ってこなければならないと信じているのだ。自分の身に起きることはどんなことでも、「カルマの成就」のせいにしてしまうのである。だがマスターよ、人生の説明としては、これはきわめて不十分なものだ。人生はこの説明を遥かに超えたものである。


カルマの法則は確かにひとつの現実だが、それはその法則を信じる者たちにとってだけ、現実なのだ。法として存在するのは、あなたが自分の王国の中で有効だとしたものだけだ。真に法を与える者は、それぞれの至高の存在である。というのも、それぞれの存在が、真実を受け容れる自我を持っているからだ。そして、その人間がどんなものを真実と呼ぼうと、つまり自分の存在の中でどんなものを法として創造しようと、それはそのとおりになる。したがって、多くの人間が「バランスと完璧さの法則」を自分たちのために法として据えてきたのは、信念や変質した理解を通してである。



質問者 インドの伝統では、グル〔師〕が必要不可欠だと言います。彼は何のために必要不可欠なのでしょうか? 母親は子供に身体を与えるために必要不可欠です。しかし、彼女は魂を与えるわけではありません。彼女の役目は限定されています。グルに関してはどうでしょう? 彼の役目もまた限定されているのでしょうか? もしそうならば、何においてでしょうか? あるいは、彼は一般的に必要不可欠なのでしょうか? それとも絶対的に必要不可欠なのでしょうか?


マハラジ ハートのなかで、平和に、永遠に輝く内奥の光、それが真のグルなのだ。ほかのすべては単に道を指し示すだけだ。


質問者 私は内なる部分には関心がありません。直接道を示してくれる師にだけ関心があるのです。グルなしには、ヨーガは到達しがたいと信じる人びとがいます。彼らは正しいグルをつねに探しつづけ、ひとりの師からほかへと変えていくのです。そんなグルたちに、いったいどんな価値があるというのでしょうか?


マハラジ 彼らは一時的な、時間に拘束されたグルなのだ。あなたは彼らをあらゆる職業のなかに見いだす。何かの知識や技術を獲得するために、彼らを必要とするのだ。


質問者 母親は一生涯のためにだけいます。彼女は誕生にはじまり、死に終わるのです。永遠にいるわけではありません。


マハラジ 同じように、時間に拘束されたグルも永遠にいるわけではない。彼は彼の目的を果たし、つぎの師へと場を明け渡すのだ。それはまったく自然なことであり、それについて非難されるようなことは何もない。


質問者 あらゆる類の知識や技術のためには、別のグルが必要となるのでしょうか?


マハラジ これらの問題においては、外面的なものが一時的であり、内面的なものはその外見と行動においてはつねに新しいが、永久不変だということ以外何の規定もないのだ。


質問者 内側のグルと外側のグルの間には、どのような関係があるのでしょうか?


マハラジ 外側が内側を表現し、内側はしばらくの間、外側を受け入れるのだ。


質問者 努力は誰のものなのでしょうか?


マハラジ もちろん弟子のものだ。外側のグルが指導し、内側のグルが力を送る。油断なくそれに応えていくのが弟子の仕事だ。弟子の意志、知性、エネルギーなしにはグルは無力なのだ。内側のグルはチャンスを得ようとする。愚鈍さと誤った追求が危機をもたらし、弟子は自ら己の苦境に目覚めるのだ。賢い者はショックを待ったりしない。それはひどく粗暴なものでもありうるのだ。


質問者 それは脅しなのでしょうか?


マハラジ 脅しではなく警告だ。内なるグルは非暴力に専心してはいない。愚鈍で堕落した人格を破壊するためには、彼はときおりまったく暴力的になりうる。不幸と死、生と幸福は彼の仕事の道具なのだ。二元性においてだけ、非暴力は統一のための法となるのだ。


質問者 人は自分自身を恐れなければならないのでしょうか?


マハラジ 恐れではない。なぜなら自己とは善良を意味するからだ。だが、それは深刻に受け止められなければならない。それは注意と服従を呼び起こすのだ。聞き入れられないとき、それは説得から強制へと変わる。それはしばらく待つことができるが、否定されてはならないのだ。困難は外側や内側のグルにあるのではない。グルはつねに手に入る。不足しているのは成熟した弟子のほうなのだ。その人に用意ができていなければ、どうすることができようか?


質問者 用意でしょうか、それとも志でしょうか?


マハラジ 両方だ。それは同じことなのだ。インドでは、それはアディカーリと呼ばれている。それは能力と資格があるということを意味している。


質問者 外側のグルは秘伝伝授の儀式(ディクシャ)を授けることができるのでしょうか?


マハラジ 彼はあらゆる類の儀式を授けることができる。しかし、実在への儀式は内面から起こらなければならない。


質問者 誰が究極の儀式を授けるのでしょうか?


マハラジ 自己が授けるのだ。


質問者 私たちは堂々巡りをしているようです。結局、私の知っているのは現在の体験的自己だけです。内面の、あるいは高次の自己とは、説明と奨励のために考えられた概念なのです。私たちはそれを独立した存在のように話していますが、そうではないのです。


マハラジ 外側の自己と内面の自己はともに想像上のものだ。ひとつの棘を抜くために別の刺を必要とするように、あるいは毒を解毒するために別の毒を使うように、「私」という存在への固執が癒されるために、「超─私」という別の観念への固執が必要とされるのだ。すべての断定は否定を呼び起こす。だが、これはまだ第一段階にすぎない。つぎの段階はその両方を超えた彼方へと行くことだ。


質問者 外側のグルが、緊急に自分に対して何かをすべきだという注意を呼び起こすために必要だったことは理解します。また、私のなかの深い変化にとって、どれほどグルが無力かも理解します。しかし、ここであなたは無始、不変、存在の根本、動かぬ約束、確かなる目的地である内なるグルをもたらしたのです。彼はひとつの概念なのでしょうか、それとも実在でしょうか?


マハラジ 彼だけが唯一の実在なのだ。それ以外のすべては、「身体─精神」(デハー─ブッディ)によって時間の上に投げかけられた影にすぎない。もちろん、影でさえ実在に関連している。だが、それ自体では実在とは言えないのだ。


質問者 私の知っている唯一の実在は、私だけです。サッドグル(内なる師)は、私が彼を想う間はそこにいます。彼に実在性を移行することによって、私は何を得るというのでしょうか?


マハラジ 失うことが、あなたの得ることだ。影が影として見られたとき、あなたはそれにしたがうことをやめる。あなたは振り返り、そこにいつもあった太陽をあなたの背後に発見するのだ。


質問者 内側のグルもまた、教えを与えるのでしょうか?


マハラジ 彼は、あなたが永遠、不変、実在─意識─愛であり、内面とすべての現れを超えたものだという確信を与えるのだ。


質問者 確信では不十分です。そこには確実性がなければなりません。


マハラジ まったくそのとおりだ。だが、この場合は確信が勇気の形を取るのだ。恐れは絶対的に消え去る。その恐れのない状態が見間違うことのないほど新しく、しかも自分自身のものとして深く感じられ、否定できないものなのだ。それは愛する我が子のようなものだ。誰に疑うことができるだろう?


質問者 霊的な努力における進歩に関して、私たちは話を聞いています。あなたはどのような類の進歩を思い描いていますか?


マハラジ あなたが進歩を超えていくとき、進歩とは何かを知るだろう。


質問者 何が私たちを進歩させるのでしょうか?


マハラジ 沈黙が主な要因だ。平和と沈黙のなかで、あなたは成長するのだ。


質問者 マインドは絶対的に落ち着きがありません。何がそれを静めるのでしょうか?


マハラジ 師を信頼しなさい。私の例を見てみなさい。私のグルは、「私は在る」という感覚に留意し、ほかの何にも注意を払ってはならないと指導し、私はただそれにしたがったのだ。私は呼吸や瞑想、あるいは聖典の研究などの特定の過程にはしたがわなかった。何が起ころうとも、それから注意を背け、「私は在る」という感覚とともにとどまったのだ。それはあまりにも単純で、粗野にさえ見えるかもしれない。私がそうした理由は、グルが私にそうするように言ったからだ。それでも、それは効果があったのだ!服従はすべての欲望と恐れに対する強力な解決策なのだ。
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。だが、新たな義務は避けなさい。空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。招かずにやってきたものを拒んではならない。最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な解放の状態に達する。しかも、それはすばらしく実在なのだ。


質問者 真理の探究者が真剣にヨーガを修練するとき、内側のグルは彼を導き助けるのでしょうか、それとも彼自身にまかせ、結果をただ待つだけなのでしょうか?


マハラジ すべてはひとりでに起こる。探求者は何もせず、グルも何もしない。ものごとは起こるように起こる。行為者という感覚が現れた後に、非難や賞賛が割り当てられるのだ。


質問者 何と奇妙なのでしょう! 行為者はかならず行為の起こる前に現れるはずです。


マハラジ それはその反対だ。行為が事実であり、行為者はただの観念なのだ。あなたの言葉そのものが、行為は確定的であり、行為者は疑わしいことを示している。責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認めるほかはない。行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。


質問者 その幻想はどれほど強力なものなのでしょうか?


マハラジ 疑いようもないほどだ。なぜなら、それは実在に基づいているからだ。


質問者 そのなかの何が実在なのでしょう?


マハラジ 識別し、非実在であるすべてを拒絶することによって見いだしなさい。


質問者 霊的努力における内なる自己の役割を良く理解できませんでした。誰が努力をするのでしょうか? 外側の自己でしょうか、内側の自己でしょうか?


マハラジ あなたは努力、内側、外側、自己といった言葉を発明し、それらを実在の上に押しつけようと努めてきた。ものごとは、ただあるがままに起こるのだ。しかし、私たちはそれを私たちの言語構造に沿うように、ひとつのパターンに組みこむことを望むのだ。この習慣があまりにも強いために、私たちは実在を言葉では表現できないものとして否定してしまう傾向にある。言葉は、繰り返されてきた体験の慣例と習慣に関係する、ただの象徴だということを理解しないのだ。


質問者 霊的な本の価値とは何でしょうか?


マハラジ それらは無知を追い払う助けをする。はじめのうちは有用だが、最後には障害となる。人はいつそれを放棄すべきか知らなければならない。


質問者 アートマとサットヴァとの関連性とは何でしょうか?


マハラジ 太陽とその光線のようなものだ。調和と美、理解と愛情はすべて実在の表現なのだ。それは行為のなかの実在性、物質における魂の影響だ。タマスは覆い隠し、ラジャスは歪ませ、サットヴァは調和をもたらす。サットヴァが成長することで、欲望と恐れは終焉するのだ。歪曲していないマインドのなかに真の存在は反映される。物質は改善され、魂は露わにされるのだ。その二つはひとつとして見られる。それらはつねにひとつだった。だが、不完全なマインドはそれを二つとして見ていたのだ。マインドの完成は人間の努めだ。なぜなら物質と魂はマインドのなかでであうものだからだ。


質問者 私は扉の前にいる人のようです。扉は開いていることは知っているのですが、それは欲望と恐れの犬に守られているのです。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 師にしたがい、犬たちに立ち向かいなさい。それらがそこにいないかのようにふるまいなさい。またしても、従順が黄金率なのだ。自由は従順によって勝ち取られるものなのだ。牢獄から逃げだすためには、疑うことなく、解放のために働いている人の指導にしたがわなければならない。


質問者 グルの言葉は、ただ単に聞くだけでは力を及ぼしません。人は信頼とともにそれにしたがわなければなりません。何がそのような信頼をつくり出すのでしょうか?


マハラジ 時節が調えば、信頼はやってくる。すべては時節とともに現れる。グルはつねに分け与える用意がある。ただ受け取る者がいないのだ。


質問者 そうです。シュリー・ラマナ・マハルシは、「師は多くいるが、弟子はどこにいるのか?」と言っていたそうです。


マハラジ 時節を待てば、すべては起こるのだ。皆が為し遂げるだろう。ひとりの魂も失敗することはないだろう。


質問者 真我の実現を知的な理解として受け取ることを、私は非常に恐れているのです。私は知ることなしにそれについて語るかもしれません。または一言も語らずして、それを知っているかもしれないのです。
これらの会話は出版されるそうですが、それは読者にとってどのような影響を与えるのでしょうか?


マハラジ 注意深く、思慮深い読者のなかで、それは成熟し、開花し、果実をもたらすだろう。真理に基づいた言葉は、もし完全に試されるなら、それ自身の力をもつのだ。


02 2024/03 04
S M T W T F S
30
31
HN:
Fiora & nobody