なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。


告解の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。


兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。


実践してください。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。


誰かに腹を立てたり、人生そのものに嫌気がさしたりしたとき、そう感じるのはかまいませんが、一見原因らしく見えるものは、じつは真の原因ではないのだ、ということを覚えていてください。怒ったり寂しかったり不安になったりしている本当の理由は、あなたが思っている理由とは別のものです。まったくちがいます。人生という物質界のなかで、望むものを手にできないのではないかという不安よりも、もっともっと深刻な不安、もっと強烈な怖れがそこにはあるのです。


人の持つ不安がどんなに強烈なものであったとしても、神からあまりにも遠くかけ離れてしまって、自分はもう神のところへ戻れないのではないか、という不安に比べると、そうした不安はものの数ではありません。自分は神のところに行けるほどの価値がないのではないか、という巨大な怖れを人は持っています。これは圧倒的な力を持った無意識の怖れであり、誰のなかにもあるものです。どうかそれに目を向けてください。


忘れないでほしいのは、怖れとともにその解決法も姿を現すということです。それらは表裏一体をなしています。自分のなかに魂のうずき──”大いなる故郷”へ帰りたい、心の平安を得たい、愛が欲しい、怖れをなくしたい──こうした気持ちがあることを認め、それを感じるようにしてください。それは魂の奥深くから送り出されてきた叫びです。


自分と自分以外のものをつねに分断するエゴの動きの枠外に出ると、魂の叫びや苦痛そのもののなかに、じつはすばらしい解決がひそんでいたことを発見します。それらはいっしょに現れます。不安を感じることを怖れないでください。あまりに長いあいだ思考の世界に生きてきたので、自分が生き生きとダイナミックに存在する神であるという体験をしていないのだ、ということに気づいてください。あなたは純粋な目覚めた意識なのです。


拉致解決ないなら安倍氏は米と決別しようが北への支援拒否を
2018/06/11 16:00


米朝首脳会談が終わると、「拉致の安倍」は正念場に立たされる。安倍晋三・首相の政治経歴の中で“勲章”といえるのが拉致問題での対応だ。


小泉政権時代の2002年、官房副長官として平壌での日朝首脳会談に同行した安倍氏は、北から一時帰国させた5人の拉致被害者を「返すべきではない」と主張し、北への強硬な外交姿勢が国民の大きな共感を呼んだ。


その功績で保守層の強い支持を得たことで2006年に首相の座に就き、2012年に再登板すると、「拉致被害者は私の内閣で最後の1人まで救出する」「拉致の解決がなければ北朝鮮との国交正常化はありえない」、そう国民に誓った。


拉致解決は安倍氏の政治家としてのレゾンデートルであり、だからこそ、米朝会談が日程にのぼると自ら拉致被害者家族に何度も面会して解決への努力を約束した。


しかし、トランプ大統領が金正恩氏と和解すれば、首相は重大な決断を迫られる。保守派の国際政治学者・藤井厳喜氏が日本にとっても、安倍首相にとっても「最悪のシナリオ」をこう予告する。


「トランプがもし米朝首脳会談で拉致問題に言及しても、金正恩が応じるとは思えない。それでも、核ミサイル交渉が進展すれば、米国は拉致問題が解決していなくても日本に経済支援の実行を求める可能性が高い。『拉致の解決がなければ北朝鮮との国交正常化はありえない』と誓った安倍首相は、拉致問題の解決をいったん棚上げして日本外交の基本である米国との協調を選ぶか、あくまで政治信条を貫いてトランプに『北への支援はできない』とNOを突きつけるかの板挟みになる」


保守派は安倍氏の決断を期待を持って注視している。藤井氏はこう見る。


「ここで安倍首相が弱腰を見せれば、金正恩氏に舐められて拉致被害者の全員帰国など望めない。それ以上に、拉致問題を政治的に利用してきたという批判にさらされ、被害者家族も失望する。拉致の安倍が本物であることを国民に示すためにも、安倍首相はトランプと決別することになろうと、『これだけは米国の頼みでも譲れない。日本は北が拉致被害者全員を返すまで、1か国でも経済制裁を続けて経済支援は一切行なわない』と必ず言ってくれるはずです」


戦前、列強による日本包囲網の中で国際連盟に乗り込んだ松岡洋右外相は、有名な脱退演説を残して席を立った。


「アメリカ人には、たとえ脅かされても、自分の立場が正しい場合には道を譲ったりしてはならない。対等な立場を欲するものは、対等な立場で望まなければならない」


しかし、いまや対米協調は国益と深く結びついている。安倍首相がどう決断するか。その答えは間もなく国民の前に明らかになる。

※週刊ポスト2018年6月22日号



私はよく、「どうすればこの『止めた(stopped)』状態に留まることができますか?」と訊かれます。


でも「止める」というのはある状態を指しているのではありません。


沈黙(silence)、静寂(stillness)も然りです。


これは非常に重要な違いです。


あなたには頭の中を比較的落ち着いた状態にできますし、身体をリラックスした状態にすることもできます。


けれども私がここで言っている静寂とは、本質的に決して動かないものなのです。


それはいつでも「止まって」います。


すべての理性活動、行動は、この決して動かない静けさの中に現れ、存在し、そして再び消えていきます。


すべての状態には、始まりがあり、経過があり、そして終わりがあります。


それは、幸福だったり悲しかったり、非日常的だったり日常的だったり、高揚していたり沈滞していたりします。


けれども、状態とは無関係の存在、それがすなわちじっとして動かない静寂です。


意識とはすなわち静寂です(Awareness is stillness)。


そしてあなたはすでに、この静寂なのです。


あなたの理性は、理性の活動について、またはどうすれば活動を止められるかについて、忙しく考えているかもしれません。


でもそれはみな、どんな状態でもない存在、つまり静寂そのものの中で起きています。


決して変化しない静寂、それが、意識的に繰り返すことのできるものであるとか、あなたにうまくできなかったりするものであるとか、そういった考えをあなたの頭の中から追出すことができれば、静止したもの、存在そのものが、つまりあなた自身であるということがついにあなたにはわかるはずです。


静止「したい」という衝動は理性の活動から来るものであり、理性の活動は、静止の中で起きているのだということに気づいてください。


この静けさは、死んでいるのでも空っぽなのでもありません。


それは意識(consciousness)そのものであり、気づき(awareness)そのものなのです。


そしてあなたがそのawarenessです。


「静止しなくてはいけない、静止していよう、どうして自分は静止することができないのだろう?」という思考、それを観察し、経験しているのは、この静寂そのものです。



歴史が予見する"北朝鮮はまた必ず裏切る"
朝鮮半島「コウモリ外交」のDNA


米中ロの間を渡り歩く北朝鮮
『イソップ寓話』の中に、「卑怯なコウモリ」という一話があります。かつて、獣の一族と鳥の一族が戦争をしていました。両者の戦いを見ていたコウモリは、獣の一族が優勢な時、彼らに「私は全身に毛が生えているので、獣の仲間です」と言いました。鳥の一族が優勢になると、コウモリは彼らに「私は羽があるので、鳥の仲間です」と言いました。


『イソップ寓話』は紀元前6世紀に、ギリシアのアイソーポス(英語読み:イソップ)という人物によって編纂されました。こうした寓話には、時代を超越した普遍の真理が隠されているものです。


北朝鮮の外交はまさに、イソップのコウモリと同じです。北朝鮮は中国との連携を強め、ペンス副大統領を罵倒するなど、アメリカを揺さぶっていました。トランプ大統領が5月24日、米朝首脳会談を中止すると発表すると、突如態度を変えて、「トランプ大統領を内心高く評価してきた」などと言い、今度はアメリカに抱き付いてきたのです。


その一方で、5月31日、ロシアのラブロフ外相との会談で、金正恩委員長は「(アメリカの)覇権主義に対抗して、(ロシアの)指導部と綿密に意見交換していきたい」と述べ、プーチン大統領を持ち上げました。


反故にされるとわかっている「合意」
6月12日の米朝首脳会談やそれ以降の会談で、どんな合意がなされようとも、北朝鮮はお得意の「コウモリ外交」で、また手のひらを返し、約束を破ることは間違いありません。北朝鮮との外交において大切なのは、「どのような合意をするか」ではなく、合意が破られた後、軍事オプションも含めて、「どのように制裁するか」ということです。アメリカが多少の妥協をして、何らかの合意をしたとしても、どうせその合意は紙屑になるだけのこと。「トランプ大統領が妥協するかどうか」を詮索すること自体、無意味です。


ボルトン補佐官をはじめとするトランプ政権の強硬派の面々は、「卑怯なコウモリ」が裏切ることを前提にして、その首をどのように斬るかということを考えていると思います。それが彼らの最大の役割だからです。もし、それができないのならば、トランプ政権はオバマ政権と同様に、歴史に汚名を残すことでしょう。


19世紀末李氏朝鮮の「コウモリ外交」
とはいえ北朝鮮には、「コウモリ」を演じているという自覚がありません。なぜならば、それは歴史的に培ってきた彼らのDNAであり、体に染み付いた自然の習性であるからです。


19世紀後半の李氏朝鮮時代に閔妃(びんひ)という人物がいました。彼女は王妃でしたが、夫の高宗に代わり、実権を掌握していました。


中国の歴代王朝は、朝鮮を属国にしていました。閔妃の時代の清(しん)も同様です。閔妃は宗主国の清にすり寄る一方、明治維新後の日本にも接近しました。日本を後ろ楯にすることで、清を揺さぶることができると考えたのです。


日本は閔妃の「コウモリ外交」を知りながら、惜しみなく朝鮮に資金を援助し、技術開発を支援しました。また、日本人の教官が派遣され、近代式の軍隊を創設して軍事教練を施したりもしました。


清は日本に対抗するため、朝鮮への駐在軍を増強し、朝鮮支配を強化します。この時、清の駐在軍を指揮していたのが、若き日の袁世凱でした。袁世凱らの軍勢は朝鮮で略奪・強姦を繰り返し、暴虐の限りを尽くします。こうして清の支配が強まると、閔妃は日本を裏切り、清にすり寄りはじめました。


しかし、この時、日本は閔妃を非難しませんでした。当時の対朝鮮外交の責任者であった井上馨は、閔妃の「コウモリ外交」を、属国ゆえの悲哀として憐れんだのです。


国の創始者が「事大主義」を国是に
清と日本の両勢力が朝鮮半島でぶつかった結果、ついに戦争が始まります。これが日清戦争(1894~1895年)です。閔妃をはじめ、朝鮮の廷臣の誰もが「日本が大国の清に勝てるわけがない」と考え、清にますます追従しました。


しかし、日本が優勢になると、閔妃は清を裏切り、親清派の廷臣を切り捨て、親日派の廷臣を登用し、日本にすり寄りました。その一方で、閔妃はロシアにもすり寄りはじめ、日本の影響力を削ごうとします。ロシアが三国干渉に成功し、日本が清に遼東半島を返還すると、閔妃はロシアへの依存を強めていきます。ここに、閔妃の「コウモリ外交」が極まりました。最終的に閔妃は内乱に巻き込まれ、暗殺されます(*注)。


朝鮮半島は岩盤地質の山岳に覆われ、土地の痩せた貧弱な地域です。肥沃な中国大陸の東の果てに付随する半島国家として、中国など強い勢力に隷属するしかなかったのです。それが朝鮮の悲しい宿命でした。


この隷属は「事大主義」と呼ばれます。李氏朝鮮の創始者の李成桂(イ・ソンゲ)は「小をもって大に事(つか)ふるは保国の道」と言い残しています。これは『孟子』の「以小事大」からとったもので、大国の中国に事(つか)えることが肝要とする儒教の考え方で、李氏朝鮮の国是となり、代々受け継がれていきました。


そのときどきに力を持つ者にすり寄り、状況が変わればすり寄る相手を乗り換えることは、「事大主義」という名のもと、儒教によって大義名分を与えられた立派な倫理規範であるのです。長きにわたる属国としての歴史の中で受け継がれた彼らの価値観は、「コウモリ」的な振る舞いを悪しきものとするわれわれの価値観とは異なります。


トランプの「ディール」の真の意味
トランプ大統領は6月1日、北朝鮮の金正恩委員長の右腕とされる金英哲(キム・ヨンチョル)党副委員長とホワイトハウスで会談しました。この会談で、トランプ大統領は「非核化はゆっくりで良い」と伝えたことを明らかにしました。その上で、「最大限の圧力(制裁)に変更はなく、現状のままだ。しかし、どこかの時点でディールをしたいと思う」と述べ、北朝鮮の主張する「段階的非核化」を受け入れる可能性に言及しました。


CVID(完全で検証可能かつ不可逆的な非核化)が達成される前に、「圧力をディールする」というのは明らかに妥協です。トランプ大統領のこの発言には、多くの人ががっかりしました。


しかし、トランプ大統領が妥協をしたからと言って、大した問題ではありません。そもそも、CVIDを達成するには、5年かかるという専門家もいれば、15年かかるという専門家もいます。たとえCVIDを追及したとしても、時間稼ぎをされるだけのこと。CVIDであろうが、「段階的非核化」であろうが、「卑怯なコウモリ」は結局、裏切るのです。


そのことをトランプ政権はよく理解しており、次に裏切った時が「卑怯なコウモリ」の首が飛ぶタイミングでしょう。北朝鮮の背後にいる中国の存在を睨みながら、アメリカは今、諜報力・外交力・軍事力などありとあらゆる力を使っています。


日本も「裏切り」を前提とした対応を
トランプ政権にも色々と策略があるのでしょうが、日本の立場からすれば、「首斬り」はできるだけ早い方が望ましい。ただ、トランプ大統領は日本のために動いているのではなく、アメリカのために動いていることを忘れてはなりません。


アメリカの利益と日本の利益が常に一致するわけではないことをきちんとふまえ、日本はアメリカにただ追従するのではなく、「拉致、核、ミサイルの包括的な解決がなければ、北朝鮮支援はしない」という従来の方針を維持するべきです。解決があいまいなまま資金援助を要請されたとしても、キッパリと断らなくてはなりません。


(*注)誰が閔妃暗殺の首謀者だったのかというかことについては、大院君首謀説、三浦梧楼首謀説など諸説あります。史料に乏しく、はっきりとしたことはわかりません。よく教科書や概説書では、「三浦梧楼によって暗殺された」と断定されていますが、根拠不十分である限り、そのような断定は不当であると考えます。

政治・社会 2018.6.10 宇山 卓栄
PRESIDENT Online


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