卑怯の線は自分が越えている。他人が越えさせたことはない。


これが卑怯の線か、妥協の線か、合法の線か、線には種類がありますが、共通する要素は、自分だけが線を越える選択をしていて、他人はその選択を決定する力をまったく持っていないことを自覚している場合と、自覚していない場合に分かれるということです。n0039


さらに言うと
100%の可能性(存在)に真摯に向き合っている人は少ないです。どこか未知を軽視する態度こそが一般の風潮ではないでしょうか。既知だけを組み立てることが頼りになる骨格なのではありません。そう思ってしまうのは、怠け心とか、浅さではないかと思います。語られる未知の周辺には怪しい人と怪しいスポット多いですけどね。n


既知は100%ではないが向こう側と足すと
既知がたいへん甘く見積もって50%だとして、人によっては残り分の未知の50%をわざとこじつけで埋めようとしたり、ヒステリックに絶望したり、残り50%は無の世界だ! という人もいます。それも立派な一つの考え方なので自由です。
少なくともこじつけるよりは、わからないものはわからないとするほうが誠実です。主観的な経験に基づいて発言している人だって、主観は証拠じゃないよというツッコミには耐えられません。客観的な証拠を出したとしても散々に言われます。UFOの証拠映像はなぜあれほど軽く扱われるのでしょうか。それはUFOが車のように一台でも手に触れる状態で目の前に現れたことがないからです。人は映像や音声くらいではもう何も信じません。セクハラ発言の録音もねつ造や陰謀の可能性があると堂々と主張されます。ねつ造できる技術があるから、仕方ないんですね。
人は見たいものを見ています。逆も真なり、見たくないものは決して見ようとしません。そうするため、好きなようにふるまうための場ですから、ふるまいは人権を侵害しない限りにおいて自由であり、(視点の)多様性を推奨する社会こそ健全です。個人もその態度に倣うべきです。いったい何が言いたいのか。既知は未知と合わせると100%、存在になるということです。その存在に対して観念だけを声高に主張する愚かさに、客観的に気づいていたいんです。n


マハルシ ラーマとラクシュマナはシーターを捜し求めて森の中をさ迷っていました。ラーマは悲嘆にくれていたのです。


ちょうどそのとき、シヴァとパールヴァティーが近くを通りかかりました。シヴァはラーマに敬意を捧げ、そして歩き去りました。パールヴァティーは驚いて、「なぜ宇宙の主であり、すべての生きとし生けるものから崇拝されるあなたが、妻を見失ったくらいのことで悲嘆にくれ、みすぼらしく混乱しながら苦悩を抱えてうろつき回っているただの人間でしかないラーマに敬意を捧げなければならないのですか?」と尋ねました。するとシヴァは答えました。「ラーマはただ状況にしたがって普通の人間が行為するだろうことを演じているだけなのだ。だが実際は、彼はヴィシュヌ神の化身であって、敬意を受けるに値するお方なのだよ。もし望むなら、お前が彼をテストしてみるがいい」


パールヴァティーは状況を深く考慮したうえでシーターに変身すると、嘆き悲しみながらシーターの名を呼んでいるラーマの目の前に姿を現しました。彼はシーターの姿で現れたパールヴァティーを見ると微笑んで尋ねました。「パールヴァティー、どうしてここにいるのですか? シャンブ(シヴァ神の別名)はどこです? なぜまたシーターの姿でここに?」。パールヴァティーは赤面しながら、彼をテストしに来たことと、シヴァがラーマに敬意を捧げた理由を知りたかったことを告白しました。


ラーマは答えました。「私たちはみなシヴァの一側面でしかないのです。目に見えるときは彼を礼拝し、目に見えないときは彼のことを想い続けているのです」

(対話218)


神とは絶対的幸福である


あなたが悩みを持たず、素直で明るい意識だったら、いまよりずっとおもしろくて魅力的な人間になるかもしれませんよ。神の覚醒意識を望むというのは、非常に深いところに根ざした欲求です。あなたが勝者の意識を持たず、望みどおりの人生を手に入れるという意識を持っていないのだったら、覚醒意識を手に入れるという問題においても、やはりそれを「得る」ことはできないでしょう。そういう人は、「求める人」で終わってしまいます。勝者のみが「見つける人」になれるからです。意識の転換が必要です。


自分が感じたいと思っている、新しい感覚について話すようにしてください。人生のすばらしさや価値や”大いなる光”を、自分の人生のなかに探すようにしてください。そして、それ以外のものにはあまり注意を払わないことです。自分のすべてを受け入れるという生き方を、ますます熱心に実践するようにしてください。そのために必要なことは、何でもしてください。


この勉強を始めたときに言ったことですが、神は地を這う虫には興味がないのです。神は、生き生きと元気にあふれ、パワフルで拡がりゆく意識に興味があるのです。だからといって、そういう人はけっして気分が沈んだりしないという意味ではありません。どんな感情も抑えつけず、自分の望むことに意識を集中してください。”神意識”と最も調和している人々は、前向きで生き生きとしていて、強じんな明るさと優しい心を持っています。そうした人たちは、よいことも悪いことも、自分は何でもすることができることを知っていながら、そういうなかで罪の意識を捨てて、代わりに”大いなる光”と”幸せ”と神を選ぶことに精神を集中しているのです。




質問者 アートマ・サークシャートカーラ(真我実現)とは何でしょうか?


マハルシ あなたはアートマン(真我)であり、サークシャート(今ここにある直接体験)でもあるのです。そのどこにカーラ(実現)が必要でしょうか? この質問は、あなたが自分を真我ではないと考えていることを表しています。


この質問の根底には、あなたが自分自身を粗大な身体と同一視しているという事実があるのです。


今、あなたは自分自身を身体だと見なしています。そして自分の周りに物事を見るように、真我も目で見たいと考えているのです。習慣はそのように影響を与えるものです。


アートマ・サークシャートカーラとは





アナートマ・ニラーサナ(真我ではないものの放棄)





なのです。

(対話565)


マハルシ ほとんどの人が、「多数の個人が存在する」という論点に立っています。
人は自分を自我と同一視し、「自分のような存在が他にも数多く存在するに違いない」と議論します。


ある人が夢の中で大勢の個人を見たとします。目を覚ました後でも、その人は夢の中で見た大勢の個人が実際に存在すると信じて、彼らについて尋ねたりするでしょうか?


ここに水の入った容器がいくつかあり、その中に月が映っていると想像してください。それぞれの容器に映った月のイメージはみな違ったものですし、本物の月のイメージもまた違ったものです。もし容器の一つが床に落ちてこなごなになれば、その中の月の反映も消え去るでしょう。しかしその反映の消滅が本物の月に影響を与えることはありませんし、他の容器の中の反映も影響を受けません。これは個人が解脱に達するのと似ています。ただその人だけが解脱するのです。


多様性を支持する二元論の学派(ドヴァイタ)は、このことについて非二元論の学派(アドヴァイタ)に反論します。「真我が単一なら、一人が解脱すればすべての魂が解脱するはずなのに、実際はそうではない。それゆえ、アドヴァイタ学派は間違っている」と。


この議論の欠点は、「真我本来の光」と「真我の光の反映」とが取り違えられているところにあります。自我、世界、個人は、すべて個人のヴァーサナー(心の潜在的傾向)ゆえに現れ、ヴァーサナーが消え去れば、個人が見ていた幻影も消え去ります。つまり一つの容器が壊れたとき、その反映も消え去るのです。


実際のところ、真我が束縛されたことなど一度もなく、それゆえ解放もありません。
あらゆる問題は自我にとってのみ存在するのです。

(対話571)



マハラジ 世界を知覚する者は、世界以前に存在するのだろうか、あるいは、彼は世界とともに存在を現すのだろうか?


質問者 何と奇妙な質問でしょうか? なぜあなたはそんな質問をされるのですか?


マハラジ あなたがその正しい解答を知らないかぎり、平和を見いだすことはできないからだ。


質問者 私が朝目覚めるとき、世界はすでにそこにあって私を待っています。もちろん、世界が先に存在のなかに現れ、私はずっと後になって、もっとも早くて私が誕生したときに現れます。世界と私の間では、身体が媒介となります。身体なしでは私も世界も存在しないでしょう。


マハラジ 身体はあなたのマインドのなかに現れ、マインドはあなたの意識の内容なのだ。あなたはあなたを変えることなしに永遠に変化しつづける意識の流れの不動の観照者だ。あなたの不変性があまりにも明白なため、それに気づかないだけだ。あなた自身をよく見てみなさい。そうすれば、それらすべての誤解や誤った観念は溶け去るだろう。魚が水のなかに生き、水なしでは生きられないように、全宇宙もあなたのなかに在り、あなたなしでは在りえないのだ。


質問者 それは私たちが神と呼ぶものです。


マハラジ 神はあなたのマインドのなかの概念にすぎない。あなたは事実だ。あなたが知っているたったひとつ確かなことは、「ここに今、私は在る」ということだ。「ここと今」を取り除きなさい。「私は在る」が確固として残る。世界は記憶のなかに存在する。記憶は意識のなかに現れる。意識は気づきのなかに存在し、気づきは存在の水面上の光の反映なのだ。


質問者 それでも、まだ私にとってはその反対の、「私は世界のなかに在る」ということがあまりにも明白であり、どうして世界が私のなかにあるのか理解できません。


マハラジ 「私は世界であり、世界は私だ」と言うことさえ無知のしるしだ。しかし、人生において、世界との自己同一化を確信するとき、無知を破壊し、完全に焼き尽くそうとする力が湧き上がってくるのだ。


質問者 無知の観照者は、無知から分離しているのでしょうか? 「私は無知だ」ということは無知の一部分ではないでしょうか?


マハラジ もちろん。私が偽りなく言えることは、「私は在る」だけだ。それ以外はすべて推測だ。しかし、推測が習慣になってしまったのだ。考えることと見ることといったあらゆる習慣を打ち破りなさい。「私は在る」という感覚が顕現の根本的な原因だ。それを自己、神、実在、あるいはほかの名で呼んでもいい。「私は在る」は世界のなかにある。しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。水面に踊る月は、水のなかに見られる。だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。


質問者 それでも、まだ私は要点を逃しているようです。私がそのなかで生き、動き、存在する世界が私自身の創造、私自身の投影、私の想像だということは認めます。未知の世界、あるがままの世界、「絶対的物質」の世界、その物質が何であれ。映画のスクリーンが、その上に投影された画像とはまったく似ていないように、私自身が創造した世界は究極の、実在の世界とはまったく似ていないものかもしれません。それにもかかわらず、絶対の世界は私にまったく依存せず存在しているのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。あなたのマインドがその上に相対的な非実在の世界を投影してきた絶対的実在の世界は、あなたに依存していない。その単純な理由とは、それがあなた自身だからだ。


質問者 そこに言葉の矛盾はありませんか? どうして非依存性が自己同一性を証明できるのでしょうか?


マハラジ 変化の動きを調べてみなさい。そうすればわかるだろう。あなたが不動である間、変わることのできるものはあなたに依存しないと言える。だが不変なるものは、何であれそれ以外の不変であるものとひとつなのだ。なぜなら、二元性は相互作用を暗示し、相互作用は変化を意味するからだ。言い換えれば、絶対的に物質的なものと絶対的に霊的なもの、完全に客観的なものと完全に主観的なものは、実体においても本質においても等しいということだ。


質問者 三次元画像のように、光がそれ自身のスクリーンなのですね。


マハラジ どんな比較もあてはまるだろう。理解すべき主要な点は、あなたがあなた自身の上に欲望と恐れの記憶をもととした、想像の世界を投影したということだ。そして、そのなかにあなた自身を監禁したのだ。その魔法を解いて自由になりなさい。


質問者 どのようにして魔法を解けばいいのでしょうか?


マハラジ 思考と行為において、あなたの非依存性を主張しなさい。結局、すべてはあなたが見、聞き、考え、感じることが現実だと確信するあなた自身の信念にかかっているのだ。なぜあなたの信念を疑わないのか? この世界が意識のスクリーン上に、あなたによって描かれたものだということは疑いないのだ。そして、それは完全にあなたの個人的な世界だ。たとえ世界のなかにあろうとも、あなたの「私は在る」という感覚だけが、世界に属さないものだ。どのような理論や想像による努力によっても、「私は在る」を「私はいない」に変えることはできない。あなたの存在を否定すること自体が、あなたの存在を主張している。ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、あなたはそれから自由だ。あなた自身の想像のなかにしか存在しない世界から自由になる必要はない! いかにその絵が美しくとも、あるいは醜くとも、それはあなたが描いたものであり、あなたはそれに束縛されないのだ。誰もあなたにそれを押しつけてはいないということを悟りなさい。それは想像を現実と見なす習慣によるものなのだ。想像を想像として見なさい。そして恐れから自由になるがいい。
このカーペットの色は光によってもたらされたものだが、光がその色ではないように、世界もあなたによって現れたが、あなたが世界なのではない。
世界を創造し維持するものを、あなたは神、あるいは神の摂理と呼ぶかもしれない。しかし究極的には、あなたが神の存在の証明なのだ。その反対ではない。なぜなら、神についてのどんな質問をする前にも、尋ねるあなたがそこにいなければならないからだ。


質問者 神は時間のなかでの体験です。しかし、体験者は時間を超えています。


マハラジ 体験者でさえも二次的なものだ。根源は無限なる意識の広がりだ。存在してきた、存在する、存在するだろうすべての計り知れない可能性なのだ。何であれあなたが目にするとき、それは存在の究極を見ているのだ。だが、あなたは雲や樹を見ていると想像してしまう。
想像なしに見ること、歪みなしに聞くことを学びなさい。それがすべてだ。本質的に無名無形のものに、名前や形が属すると考えることはやめなさい。あらゆる知覚の形態は主観的なものであり、見たことや聞いたこと、触れたものやにおいをかいだもの、感じたことや思ったこと、期待したことや想像したことは、すべて実在のなかではなく、マインドのなかにあるのだと悟りなさい。そうすれば、あなたは平安を体験し、恐れから自由になるだろう。
「私は在る」という感覚さえも、純粋な光と存在の感覚から成るのだ。「在る」なしでも「私」はそこに在る。同様に、純粋な光もあなたが「私」と言おうと言うまいと、そこに在るのだ。その純粋な光に気づきなさい。そうすれば、けっしてそれを失うことはない。存在のなかの存在性、意識のなかの気づき、すべての体験への関心、それは描写不可能でありながら、完全に入手可能なものだ。なぜならそれ以外には何も存在しないからだ。


質問者 あなたは実在について、すべてに遍在し、常在、永遠、全知であり、すべてにエネルギーを与える第一の要因だと直接の体験から語っています。実在についての討論をまったく拒絶するほかの師たちもいます。彼らは、実在はマインドを超え、すべての討論は非実在の巣窟であるマインドの領域にある、と言っています。彼らのアプローチは否定的なものです。非実在を正確に示すことで、それ自体を超えて実在にたどり着くのです。


マハラジ 違いは言葉の上にしかない。結局のところ、私が実在を語るとき、それは非実在ではないもの、空間も時間もなく、原因もない、無始無窮のものとして描写する。つまりは同じことなのだ。荷車が進んでいくかぎり、それを押すか引くかは問題ではない。あるときには実在に引きつけられ、別のときには偽りに対して反発を感じる。それらはただ気分が交互に入れ替わっただけだ。完全な自由に向かうためには、どちらも必要なものだ。あなたはある道を選び、あるいは別の道を選ぶ。だが、それぞれのときにそれが正しい道となる。ただ全身全霊で行きなさい。疑いやためらいに時間を費やしてはならない。多くの種類の食べ物が子供の成長にとって必要だ。だが、食べるという行為は同じだ。理論的には、すべてのアプローチが正しい。実際には、与えられた時において、あなたはひとつの道を進むだけだ。もし本当に見いだしたいならば、遅かれ早かれひとつの場所だけを掘り進まなければならないことを発見するに違いない。それが内面なのだ。
身体もマインドも、あなたが探し求めているものを与えてくれはしない。あなたの探求はあなた自身を知り、あなた自身であること。そして、それとともにやってくる大いなる平安だ。


質問者 すべてのアプローチには、かならず何らかの有益な効力があるはずです。


マハラジ どの場合にもその価値は、あなたを内面の探求の必要性へと導くことにある。さまざまなアプローチに遊び興じるのは、誰か特別な存在として在るという幻想を放棄することを恐れた、内側に入ることへの抵抗かもしれない。水を探すために小さな穴を至るところに掘ったりはしない。ただ、一カ所を深く掘りつづけるだけだ。同様に、あなた自身を見いだすためには自己を探求しなければならない。あなたが世界の光だと悟ったとき、あなたはその愛だということも悟るだろう。知ることが愛すること、愛することが知ることなのだ。
すべての愛情のなかで、自己への愛が最初に来るものだ。世界へのあなたの愛は、あなた自身へのあなたの愛の反映なのだ。世界はあなた自身の創造なのだから。光と愛は非個人的なものだ。しかし、それらはあなたのマインドのなかで、知ることと自己の幸せを想うこととして映る。私たちはいつも私たち自身に対して親しく在る。だが、いつも賢明だとは言えない。ヨーギとは智慧と善意が手を取りあっている人だ。
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Fiora & nobody