想念の星


この世は、天と地、左右、上下、男女、+-、さなる陰陽全て調和してこそ循環す。
宇宙には目に見える世界と見えぬ世界存在す。
人間の身体は地球と同じ小宇宙なり。
人間の肉体にも目に見える世界、見えぬ世界あり。
人の心や感情、喜び、悲しみ、恨み、嫉妬も全て目にみえぬ世界。
地球も人間と同じ構造の生命体なり。
神は人間に肉体与える理由の一つは物質による文明をつくるため。そは肉体持たぬ神にはできぬことならん。
その文明は人が真に幸せとなり魂の向上へと繋がるものでなくてはならぬ。
魂の向上、カルマの解消は想念のみの世界では難しき。
肉体は魂の修行のために与えられるものでもあり。
神は人間の意識できぬあの世とこの世をつなぎ魂を行き来させ、さらに神のみぞ知る多くの御仕組みをつくられ人間の魂を守らんとさるる。
大元の神は人間の知恵全てをあわせても、文明の力をどれだけ駆使するもかなわぬ緻密なる宇宙の御仕組みをつくられたり。
なれどさなる神の御慈愛にも気づげず神に感謝もなし。
神の子たる人間の役割果たせぬもの増えるのみ。
地球は人間が信じようが信じまいが、想念の星。
人間のその心とは異なるやも知れねども、確かに心ありなん。
人間の想念美しきて清き魂の人間が一人でも増えゆかば、この地球に今起こらんとする大きな改革をくい止めることができるやもしれぬ。
そんな奇跡が起こることを、神は節にのぞまるるなり。
人よ気づけよ、この三次元世界にも、見えない世界が一緒に存在することを。
その見えない存在に人は助けられ生きらるることを。


種々の九分九厘の教えを統合して「九つ花」に咲く一輪を入れれば、創造神の教えが見えて来る
2019.10.19 Saturday - 00:00 - by ○○公園


私は大本教神諭(正式には大本神諭)の解説に特化して来ました。それは世間的な言えば一つの宗教団体の教えに偏向しているという考え方にはなります。しかし、私は霊界を見聞をして来て、霊の言葉には非常に嘘が多いを味わいました。


確かに、貴方は昨日誰々と出会っていましたねとか何を食べましたねという様な類いの段階であれば霊は的中させて来ます。そうした世俗的な話に関しては、霊は人の行動はよく見えているです。そうした神霊の前で【嘘】を出しても見破られてしまいます。私は神霊の前では【嘘】は通じないと言います。


人は自分が喋ってもいない事を言い当てられてしまいますと驚いてしまいます。それが高い霊等と錯覚に入ります。だが、この日本がどうなるのか?。人類はどうなるのか?。そうした段階になると見事なほど外れます。ある意味、スピリチュアルの限界です。


未だ来ない未来を予言するのと、起きた事を言い当てるは別


人類や社会に起きる出来事の予言は高級霊でないと出来ない


私はこの違いは何だろうかと探っていて、霊の世界とは【横】に広がるだけではなく、【縦】に【次元】と呼ばれ【階層】でも成り立っているということです。


仏教では【三千世界】が説かれますが、これは三千個の世界があるという意味ではありません。一番上の階に千の世界が存在し、その千の一つの社会の下にまた千の世界が存在して来る。それは100万個の社会の世界です。その100万個の世界の一つにまた千の世界が存在するで、10億個の世界が存在するが三千世界です。しかし宇宙全体では10億個の社会では済まないでしょう。そうした意味では神は語りきれません。


その三千世界を第一天国、第二天国、第三天国論に当てはめますと、10億人が第三天国階に居ても、第二天国階に行くのは100万人。第一天国階に行くのは千人なのです。計算上では第三天国界に100万人居ても、第一天国階に行けるだけの者はたった一人程度となります。仏教は実に狭き門の存在を説いたと言わざる得ません。ただ、霊能者は三千世界的なことは言わずに【次元階】で説いているのです。人数の割合ではなく、個々の魂が次元を上がるです。


霊が見えるとか、霊と会話するだけでは下の霊世界との交流であり、霊の世界の存在証明にはつながりますが、それで自分が高い次元界と交流しているではないのです。


インターネットなどに、霊からの伝達としてどこどこに地震が来ます。そうした予告がかなりなされています。しかし、ほとんど外れて行きます。当たることそのものが珍しいなのです。だが、大本教の出口王仁三郎聖師の予言は的中していた事実は歪めません。東日本大震災も事前に言われた方が数名はありました。霊界では事前にそうした天災も事前に解るのですが、霊界との関わりの能力の問題になるのです。


その方を守護している守護神霊さんの存在が高ければ高いほど、そうした神霊の予言も当たって来るです。


あるブログ主さんから、その方の御祭神からと言って○月○日にどこどこに大地震が起きると神様が言われています。世間に広めてください。そうしたメールが幾度か送られて来ましたが、その当日には何も起きない。なのに性懲りも無く、△月△日に東海沖大地震が起きると神様が言っておられます。無論、それは当たりません。


その方の守護神が言われる御神示で当たった試しがない。あまりにも当たらない予言の神示の連発に、御本人に注意申し上げたところ、【自分の力が未熟で至らない為に神様の神示が外れてしまいました。】と詫びを入れて来られるのです。それは一見すれば謙虚に見えますが、自分の力が未熟であるならば、それ相応の神霊しか自分には関わっていないと認識されていなのです。


それは自分が未熟だとか至らないから神様の神示が外れると言う問題ではないのです。それはその神霊の名乗りに自分が騙されているということに、いくら経っても本人が気づけていないのです。その神霊の言葉に踊らされているなのです。


巷で自分が創造神だ。救世主だと称しておられる方を100人集めれば、その100人が100人とも、自分以外にそうした名乗りをしている者は全て蛇や狐や狸や猫の霊に騙されている者だの合戦になります。そうした名乗りをする霊能者の背後は蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊だということは誰もが解っているのです。


そこにあるのは、常に自分だけは騙されていない者だが、他のそうした名乗り者は騙されているで、そこから一歩も抜けられないがあります。トドメのフミと呼ばれる謎の神示に、日月神示も九分九厘とありますが、世に出回っている神示にしても完全なものは一つも存在していません。


巷には自分に宇宙連合○○○○司令官等が降りて来ると言われる方達も多いのですが、この手の宇宙司令官話は西暦1999年当時は非常に多かったのです。だが、1999年には何も起きなかったことにより、この手のブログはほとんど消えました。皆、自分は霊に騙されていたと解って、そうした活動をしなくなったのです。


霊界は存在しないでなく、霊が発信する内容に嘘が多い


為に、死後の世界の霊界等は「嘘」だと言って霊界否定に走ると行き過ぎなのです。大本教の出口王仁三郎聖師の予言は個人の幸福の話ではなくて、この地球がこの社会がどうなるかを予言して的中させて来られたなのです。ここを読み違えてはいけないなのです。それだけの神霊が存在していたなのです。


自分が未熟で至らないから神様の神示が外れるのではなく、自分が未熟で至らないから、自分は高級神霊とは本当は関われていないなのです。その霊が名乗っている神霊名が本当かどうかを本人自身が見抜けていないなのです。


何度か書きましたが、霊界では集団霊による俺々詐欺集団が存在して来ます。その中で天照大御神役とか大国主命役などの役割分担がなされて来ます。ですから自分には霊能力があると誇っていても簡単に欺されてしまいます。と言うよりも自分になまじ霊能力があると欺されてしまうなのです。


ですから、世に霊が見えるとか聞こえるという段階の者が千人居ても、本物の霊能者と呼ばれる存在は一人しか出ないとされているのです。


私の神霊界修行のお世話をしてくださった豊受姫は阪神淡路大震災や普賢岳爆発などを事前に告げられる御神霊でしたが、そうではない豊受姫と名乗る霊を担いでおられる方から、私がお世話になった豊受姫は「黒狐」だと言われました。その方はその豊受姫と称する霊が本物だと認識してしまったなのです。逆に私から見ると、それは「大野狐」霊が支配する霊集団達なのです。だが、そうしたことを言い出せば中傷合戦になるだけなのです。


ただ、そうした霊には特徴がありまして、世に書かれた本は信じるな。自分達の言うことだけを信じろで、本当か嘘かを知る学びすら否定するなのです。その本に書かれている内容が本当か嘘かを判断することすらさせないなのです。


はっきり言えば、私がお世話になった豊受姫が【黒狐】の存在であろうが無かろうが、阪神淡路大震災などを事前に告げて当てる御神霊と、そうした事が何も言えないし、言い当てられてないのに自分は高い神霊と称している霊のどちらの神霊の言葉に【証拠】があるかなのです。


大本教は世に邪教として国家弾圧を受けましたが、しかし出口王仁三郎聖師を通じて出された予言は当たっていたなのです。


大本教と呼ばれる宗教が起きて、その後に岡本天明氏の【日月神示(ひふみ)】が出され、【九分九厘】の言葉が盛んに説かれました。九分九厘の教えとは肝心要の一厘が入っていない教えのことです。 謎の神示ですが、インターネット上に【金神の艮の文(トドメノフミ)】なるものが出回っています。これを読むと内容が非常によく出来ているとは解ります。


この金神の艮の文(トドメノフミ)に


神はこれまで言わなんだ、何が何とて言わなんだ。


一厘隠しは神隠し。一厘伏(ふ)せねば立ちゆかん、これまでの世ぞ立ちゆかん。


されど時節ぞ来たからは一厘伏せては立ちゆかん、これからの世ぞ立ちゆかん。


ゆえに一厘明かすぞよ、これより一厘明かすぞよ。


神信心、無くばこれまで治まらん、これまでの世ぞ治まらん。


されどこれより神信心、超えねば世の中治まらん、これからの世ぞ治まらん、ここに一厘秘(ひ)めたぞよ。


あらゆる教えは九分九厘、どなたの尊き教えとて一厘隠して九分九厘、一厘隠しはカミ隠し。


---中略---


これまでの日月神示も九分九厘、何が何とてわからずや、なれどおかしやおかしやと一厘伏せて申したら、あんなものぞと思いきや、一厘の蓋(ふた)ぞ開けたれば、これはおかしやおもしろや、やれ、おもしろや、おもしろや。


目の開く者ぞ現われん、されどこれにて日が昇る。


日月の書(ふみ)にも日が昇り何が何やらわからずに文字見るどころか書さえも手に取る事さえかなわずに足から手から錆の噴く哀れ悲しき人々ぞどっと出るぞと申すぞよ。


---中略---


金神前より伏せていた一厘の事を申すのぞ。


上と下とのど真ん中、右と左のど真ん中、腹の中心ど真ん中、腹帯(はらおび)締しめて下されや。


こことこことの真ん中にそれぞれ神が降りるのぞ。


人それぞれの真ん中にこの度、神々舞い降りて、人なる肉身に鎮まりて三千世界ぞ建て直す。


世の建て替えとぶち潰し同時に起こると申すぞよ。


どちらに出るかその沙汰は金神次第と申すぞよ。


金神のご沙汰次第と申すぞよ。


---中略---


同じ米でも大違い、一厘違いの米と米。


同じ人でも大違い、一厘違いの人と人。


一厘有ると無いのでは別ものなりぞと申すぞよ。


---中略---


この「金神の艮の文(トドメノフミ)」には【一厘】が何であるかは書いてありますが、その一厘は大本教と同じで【ス(主)神】となっています。それではやはり【九分九厘】としか言えません。


しかし、ヒントは書いてあります。【上と下とのど真ん中、右と左のど真ん中】です。


また、


叱りて分れる事ならば、きつく叱りてやるなれど、説いて分れる事ならば、つらつら説いてやるなれど、この事だけはどうしても、押しても引いても揺すりても、わかれる道理と違うから、ここ一厘は人任せ、人間任せと申すぞよ。


この事わかれる方々が出る程、道は別れ道、分れと申せど別れ道、わかれる人々増えたならわからん人々増えるぞと、道は二手に別れると、金神言う事、わかれるか。


理屈にて、わかる、わからん別にして、神が有るやら、有らぬやら、これまで続いた無駄話、この一厘にもケリの付く、分れ道ぞと申すぞよ。


経(たて)と緯(よこ)とが結ばれん、形を字にして十の字の、その真ん中のど真ん中、ここの話のわかられる、お人と成りて下されや、まことごころが芯に有る、お人となりて下されや。


経と緯との結び目は経から見てもここにして、緯から見てもここにして、どちらもここしかごさんせん。


こことこことの結び目が、こころなりやと申したら、まことごころと申したら、神の心のわかられる人達、わからん人達が二手にお別れする時ぞ。


ここで一断ちいたすぞよ。神から見ればこの話、わかれ話と申すぞよ。


ここの話のわかられぬ者に御用は務まらん、ここらでここにケリ付けて出直す時ぞとなりたので、こことこことのど真ん中、心の事にちと触れて、どちらも心を残さずに、心残りはいたさずに、わかれ話をいたすぞよ。


一厘は人間任せと申すぞよ、神は人間創造(つく)する時、あれこれ苦心したなれど、それはどうこう言わんから、恩着せがましく言わんから、分りてほしいは唯(ただ)一厘、こころ一厘、ここ一厘、ここの一厘知る事ぞ。


人が言おうが言うまいが、これしか無いぞと思うもの、人がやろうがやるまいが、わしはこれぞと思うもの、芯から湧くもの出づるもの、溢れ溢れる真のもの、その出所が心ぞよ。 bb 経と緯、こことこことの結び目の芯から出(い)ずる、真心(まごころ)に神の住む人、住めぬ人、別れ行くぞと申すぞよ、分れ行くぞと申すぞよ。


旨(むね)に一厘有る無しで分れ行くぞと申すぞよ。


中途半端は無くなりて二筋できると思すぞよ。


この度だけは何とても、どうでもこうでも二筋の道になるぞと申すぞよ。


---後略。----


牛頭虎敷(パンツ)の【牛頭天王(牛虎金神)】の祇園精舎を守護神とするお釈迦様の本当の悟りは埋没していた為に、大本教からウシトラ金神と「みろく神」の仕組みが世に出されました。だが、日本では牛頭天王は素戔嗚尊だと混同されています。そこに一度、素戔嗚尊で【スの神】論を出す必要はあったなのです。そこに、大本教に出た変性女子(ス神の素戔嗚尊の魂)の演技はニセ者だがありました。


どの教えも【九分九厘】なのですが、それらの種々の【九分九厘】の教えを学び、そこに大本教神諭予告、【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を入れてくだされば、それらの九分九厘の教えにも意味があったと解って来ます。


この仕組みは、スピリチュアルで【愛】などと言っているような人には、あまりにも桁外れの仕組みで解らないでしょう。理解不能とも言えるでしょう。愛では【一厘とは】がそもそも何かが解らないからです。


今を助けて貰えても、未来の世が地獄であるなら悲惨


魂の永遠性が解らないと、今の世で未来への道を誤る



改革の時


改革の時。
己に何ができるかと悩みても行動せずば何にもならず。
普通の平凡なる生活の中で己のやれる事から始めればよからん。
今まで神仏に手を合わせた事無きなれば、心を込めて手を合わせ祈り捧げよ。
この日の本の民に気づきありて、世界の平和へ繋がりゆくことを心を込めて祈り捧げるべし。
人との関係、縁を粗末に扱い生きし者ならば、はじめは一人から始めるがよけれ。
己の心を開きて歩み寄り、一人ずつなりとも縁を結びゆけよ。
食をないがしろに生きし者ならば、まずは一品だけでも自らの手を加え、国の食材、土地の食材を食する事から始めればよからん。
家の掃除をないがしろに生きし者ならば、はじめは一部屋にてもよからん。綺麗に拭きあげ、季節の花一輪飾れよ。
日常の生活、平凡な生活の中にこそ己を高める教えあり。
日々の同じ事の繰り返しの中に己を高める教えあり。
今、何をなせしかと悩み、ただ恐れるばかりではならぬ。
一歩でもよからん。
己のできる事から手をつけるべし。始めるべし。



最後の願い


神からの多くの伝え、教えは、今この時の立て替え立て直しの準備のためならん。
人は大量生産、大量消費によって、大切なるものを忘れ去る。
神の恵みの自然。他の生命体との共存忘れ、循環狂わせる。
便利さ追求しすぎ、かえりて不自由なることをいまだ気づかぬ。
便利さは豊かさに繋がらぬを人はいまだに悟れぬなり。
金さえあれば、何でも手に入る物質社会なるは、我欲、金銭欲ただに煽りて、欲にまみれん。
なれど、いかに金持ちたるとて自然を操ることはできぬ。
自然の驚異の前には人は為す術なし。
今の日本の経済も世界の経済も根は全て腐りて、今にも倒れんとす。
金とて価値無くなれば、役に立たぬなり。
人の価値は心、魂にあるを人よ、そろそろ気づけよ。
神は日本に四季の恵み与えらるる。
旬の野菜は栄養も薬効も素晴しく、冬には冬の寒さ乗り切る力湧くなり。
なれど、人は知恵あるがゆえ、野菜は全ての季節に全ての野菜を作り、結果野菜の命は失われん。
神が作らるる様々なる生き物、それぞれにお役目ありて神の御意図あり。
今や神の領域にまで入らんとする、人間の傲慢さ命まで作りださんとす。
そこに神の御意図無きを人は思い知るべし。
太古の昔に沈みし大陸あり。
今も伝えらるる、「ムー」「アトランティス」なり。
現在の地球の急迫の原因は人間にあるなれど、過去の崩壊と今の地球の現象とは異なれり。
人には知り得ぬ原理なれど、そこに一つの教訓はありなん。
神の御意図から外れしはいずれ崩壊、破滅せん。
その教訓忘るるなかれよ。
人の乱れし波動、悪しき波動は地軸までも既に狂わす。
人は地球の温暖化を危惧し、騒ぎもするが、それより恐ろしきは地軸の狂いなり。
人よ。今すぐに心改め、己を浄化せよ。
今の地球の混乱は避けられぬ乱れなれば、今の世いかなる天災に襲われるやもしれぬ。
経済も危うし。
何が起きるか分からぬ世なり。
今まで人が経験なき混乱起こるやもしれぬ。
なれど慌てず超えてゆけよ。
さなる混乱の時こそ、神は人間の真価を問わるるなり。
辛く困難の時あれど、地球の危機を乗り越えて、進化を共にする魂となれよ。
日本の民は世界を平和へと導く役割を持つなれば早きに目覚め、気付きて神の助けとなれよ。
既に立て分けの現象は始まりておるなれど、神は最後の最後のその時まで人の気付きを待ち続けらるる。
次第に残る魂、消える魂はっきりとわかるなれど、途中気づきて反省あらば、いつでも戻れよ。神のもとに。
神は伝えたきことは全て伝えしものなり。
後は人の気付き、浄化を待つのみ。



人生の一日一日に目的があります。


たいていの壁はまるで閉じたまぶたみたいだ。


神からプレゼント(贈り物)が欲しいと思っている人じゃダメ。放置される。
神に捧げるためにプレゼント(現在)が与えられていることを神に心の底から感謝している人のみが神へのプレゼント(送り者)となります。わずかな違いに見えますが、人生の諸問題の手触りが変わるほどの断層があります。一方はプレゼントが欲しい。もう一方はプレゼント「である」ことに感謝しています。n


神はどこか遠くに住んでいるわけでもありません。神はここにいるのです。





どんな方法を用いてでも、あらゆるものは神なのだということを覚えていられるならば、





自分の悩みの本質がはっきりと見えてきます。約束します。


人間が、自分は卑しい罪人であり、「父」は自分の外にいるのだという教えを受け容れたとき、人間は自分を神から完全に切り離してしまった。そしてこの理解、この信念の受容こそが、人間を繰り返し化身に戻らせている原因なのだ。


マハルシ 問題は「自分は限定されている」と考えるために起こります。その考えは誤りです。そして





その誤りを自覚する





ことはできるのです。

(対話63)


「わが魂よ、主を讃えよ(Lobe den Herrn, meine Seele)」(詩篇103)
「幸いかな、主を畏れる者(Wohl dem, der den Herrn furchtet)」(詩篇112)


過去から学び、
今日のために生き、
未来に対して希望をもつ。
大切なことは、
何も疑問を持たない状態に
陥らないことである。


こんなはずじゃなかったのに
という考えは捨てなさい。
こんなはずなのだから。


過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


他人の過失を見る必要はありません。
他人のした事と、しなかった事を見るのではなく
自分がした事と、しなかった事だけを見るようにしなさい。


告解の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。


誰かに腹を立てたり、人生そのものに嫌気がさしたりしたとき、そう感じるのはかまいませんが、一見原因らしく見えるものは、じつは真の原因ではないのだ、ということを覚えていてください。怒ったり寂しかったり不安になったりしている本当の理由は、あなたが思っている理由とは別のものです。まったくちがいます。人生という物質界のなかで、望むものを手にできないのではないかという不安よりも、もっともっと深刻な不安、もっと強烈な怖れがそこにはあるのです。


人の持つ不安がどんなに強烈なものであったとしても、神からあまりにも遠くかけ離れてしまって、自分はもう神のところへ戻れないのではないか、という不安に比べると、そうした不安はものの数ではありません。自分は神のところに行けるほどの価値がないのではないか、という巨大な怖れを人は持っています。これは圧倒的な力を持った無意識の怖れであり、誰のなかにもあるものです。どうかそれに目を向けてください。


質問者 私の年齢でもハタ・ヨーガを遂げることはできるでしょうか?


マハルシ なぜそのようなことを考えなければならないのですか? あなたは真我があなたの外側に存在すると考えるため、それを求めて努力するのです。しかしあなたは常に存在しているのではないでしょうか? なぜ自分自身を離れて、外側にある何かを追い求めるのでしょうか?

(対話619)


マハルシ いつであれ、どこであれ、一人ひとりが見ているのは、ただ自分の真我だけです。彼は世界や神を、自分の在り方にしたがって見ているのです。
ダルマプトラ(ユディシュティラ)は世界中の人々が何かしらの徳を持ち、何かしらの理由で自分自身よりも優れているのだと考えました。一方、ドゥルヨーダナにとって、この世はたった一人の善人さえいないところに見えたのです。
それぞれが自分自身の本性を映し出しているのです。

(対話531)


あなたは世界のなかに平和と調和を求めながら、あなた自身のなかにそれをもつことは拒んでいるのだ。


自心の外に浄土なし


魂には眼がある。
それによってのみ
真理を見ることができる。


「あなたは自我ではない。実在を実現しなさい」と言われたにもかかわらず、なぜまだ自我と自分自身を同一視するのでしょうか? それはちょうど「薬を飲むときに猿のことを考えてはならない」という諺のようなもので、不可能なことです。普通の人々にも同じことが起こります。実在について教えられたのに、なぜ「私はシヴァである」や「私はブラフマンである」に瞑想し続けるのでしょう? その真の意義を見極め、理解しなければなりません。単に言葉を繰り返したり、それについて考えたりするだけではだめなのです。
実在とはただ自我を失うことです。

(対話146)


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。


マハルシ あなたがどの場所に、どのように置かれているかということに何の意味があるでしょう?
重要なのは、「心が常に源にとどまっていなければならない」ということです。内面にないものが外面に現れるということはありません。すべては心だからです。心が活動的であれば、たとえ隠遁していても市場にいるのと同じです。目を閉じることは何の助けにもなりません。心の目を閉じなさい。そうすれば、すべてはうまくいくでしょう。世界はあなたの外側にはないのです。心正しき人は、行為する以前に計画を立てたりはしません。なぜでしょうか? なぜなら、私たちをこの世界に送り込んだ神には、神自身の計画があるからです。そしてその計画は必ず成就されることになるのです。

(対話542)


自分が嫌っている相手や感情を本当に知ると、嫌悪感はなくなります。自分を怖がらせるものや自分にはとても対処できないと思う状況に人は嫌悪感を抱くのです。恐怖を感じる状況をみずから体験しないですむためには、その状況にまつわる心理を感じ取り、理解しようとする意志をもてばいいのです。また、自分とその状況とは何の関係もないのだ、そうした嫌悪したくなる状況を現在演じている人間と自分とのあいだにははっきりとした区別があるのだ、という非現実的な思いこみをなくせばいいのです。その人たちが演じてくれていることに感謝しましょう。おかげで、あなたは彼らという鏡の中に自分自身を見る機会をあたえられ、みずからそれを直接体験せずにすんでいるわけです。
どういう形であれ、あなたがほかの人に同情したり、共感したりするとき、あなたはもはやその相手から分離されてはいません。


前にも言いましたが、自分が嫌だと思うものが人であれ、状況であれ、何であれ、あなたがそれを見たり考えたり想像したりできるということは、それがあなたの中にもあるということです。あなたの中になければ、あなたはそれを見たり、それについて考えたり想像したりできないからです。何かに嫌悪感を感じたら、それが自分のグリッドの中にあって、自分はそれから逃げ出さないで体験する必要があるのだと気づくと、嫌悪感は自然になくなります。


砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ


道は千載不滅だよ。 いかなる大敵でも、 道には勝てぬ。


どんな教師の指示にしたがうのでもなく、自分自身でいることだ。なぜなら、あなたの「神なる自己」についてあなたに教えることができる者など、誰もいないからだ。つまり、彼らが教えることができるのは、彼らの「神なる自己」のことだけなのだ。自分の運命を成就するためには、本当の自分、あなた独自の自分にならなくてはならない。ほかの人間の生き方にしたがって生きようとすれば、あなたはけっして本当の自分にはなれない。あなたが誰なのか、そしてあなたの内面に宿るこの炎は何なのかを理解するただひとつの道は、自分自身の感情的な理解という真実を通してなのだ。
自分であるものをひたすら愛し、自分の内なる神に耳を傾けなさい。その神は、とてもかすかな声で語りかけてくる。


マハルシ 二元性と欲望の根本は外側へと向かう心です。
人は仕事を遂行する間、高次の力に自分自身を明け渡し、そのことを常に心に刻みこんで、けっして忘れてはなりません。そうするなら、いったいどうして得意になることができるでしょう? 彼は行為の結果に関心を持つべきでさえないのです。そうしたときにのみ、行為は非利己的となるのです。

(対話502)


テレビはたとえ故障していなくても、スイッチを入れない限り何も起きません。人は自分とテレビとの関係を明確に理解していますから、何も起きなくて当然だと思っています。そこで私があなた方に望むことは、テレビについてのすばらしい知恵のすべてを、もっと広い次元に応用し、「このすばらしい電磁流のスイッチを入れるのは、私の責任です」と宣言することです。


では、自分が本当に愛情深い人間かどうか、どうしたらわかるのでしょうか。あなた方にとって、その答えはあまりにシンプルすぎて、受け入れがたいかもしれませんが、こういうことです。自分の心をよぎるすべての人、自分の目の前に現れる人のすべてに対して、温かい思いやりの心とその人たちの気持ちを理解する心を持つことができたとき、その人は本当に愛情深い人ということができます。


相手は”神の大いなる光”で満ちているのだ、ということをつねに覚えていてください。そうした態度が、人の”存在”が持つ、言葉では表現できない神秘のなかから、愛の贈り物を引き出してくれます。あなたが彼らに贈り物を与え、その贈り物があなたのところに戻ってくるわけです。与えることと受け取ることは同じことです。あなた方はこの目的のためにおたがいを創造したのです。つまり、「本当の私たちは、自分たちが考えているようなものではない」ということを、おたがいに思い出させてあげるためです。


6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない。


困難の中に、機会がある。


同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、
それを狂気という。


すべての宗教、芸術、科学は、
同じ一つの木の枝である。


盤上のすべての石は連携している。
存在意義のない石なんてない。


あせってはいけません。
ただ、牛のように、
図々しく進んで行くのが大事です。


国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心あるの人を名づけて国宝となす


天は万物を生みて所有せず、育ててこれを支配せず。


たとえ国家が要求しても
良心に反することをしてはいけない。


だれに対しても、
不正を不正でもって、
悪を悪でもって、
埋め合わせしてはいけない。
よしんば、その相手に
どれほど苦しめられていようとである。


どのような状況になろうとも人間にはひとつだけ自由が残されている。
それはどう行動するかだ。


人は各種各様(かくしゅかくよう)の旅をして、
結局、自分が持っていたものだけを持って帰る。



そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。
我々は人生に問われている立場であり
我々が人生の答えを出さなければならないのです。


人間の目的は生まれた本人が、
本人自身のために
つくったものでなければならない。



鉄舟「修身二十則」
(鉄舟が満13歳の時に自身に課した人生訓)


一 嘘を言うべからず候
二 君の御恩は忘るべからず候
三 父母の御恩は忘るべからず候
四 師の御恩は忘るべからず候
五 人の御恩は忘るべからず候
六 神仏ならびに長者を粗末にすべからず候
七 幼者をあなどるべからず候
八 己れに心よからざることは、 他人に求むべからず候
九 腹を立つるは、 道にあらず候
十 何事も不幸を喜ぶべからず候
十一 力の及ぶ限りは、 善き方につくすべく候
十二 他をかえりみずして、 自分のよきことばかりすべからず候
十三 食するたびに、 稼穡(※)の艱難を思うべし、 すべて草木土石にても、 粗末にすべからず候
※かしょく・・・種まきと収穫、農業
十四 ことさらに着物を飾り、 あるいはうわべをつくろう者は、 心に濁りあるものと心得べく候
十五 礼儀を乱るべからず候
十六 何時何人に接するも、 客人に接するように心得うべく候
十七 己の知らざることは、 何人にても習うべく候
十八 名利のために、 学問技芸すべからず候
十九 人にはすべて能不能あり、 いちがいに人をすて、 あるいは笑うべからず候
二十 己れの善行を誇り顔に人に知らしむべからず、 すべて我が心に恥ざるに務むべく候


もののふ(武士)というものは、 出所進退を明らかにし、 確乎として自己の意志を決した以上は、 至誠もって一貫するのが、 真の武士でまた武士道でもある。


晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり


人は至誠をもって四恩の鴻徳を奉答し、 誠をもって私を殺して万機に接すれば、 天下敵なきものにして、 これがすなわち武士道である。


一国を治めるものは、 まず手近く自身からしなければならない。 親子兄弟一族の治めがついて、 さしつかえがないというに至ったならば、 この秘法はたちまちに万機に応じることができる。


剣法を学ぶ所以は、 ひとえに心胆練磨。 もって、天地と同根一体の理を果たして、 釈然たる境に、 到達せんとするにあるのみ。


およそ大凡人たるものは、 誠忠が肝要である。 ゆえに時変に接しては 死を見ること帰するがごとき 確固たる心胆を動かさぬように 鍛練が第一である。


道は千載不滅だよ。 いかなる大敵でも、 道には勝てぬ。


人である以上は、 なにびとに限らず 人の本分を尽くさねばならない。 人間である以上は、 他の動物と異なる 人間らしい道を歩まねばならない。


心身ともに忘れ、 自ずから天地万物、 一筆に帰するの妙。


無刀とは、 心の外に、 刀が無いこと。 敵と相対するとき、 刀に拠ることなく、 心を以って心を打つ、 これを無刀という。


自然は教師なり、 自然を眺めて学び、 自然に即して考える。


人のこの世の中に処するには、 必ず大道を履行しなければならない。


宇宙と自分は、 そもそも一体であり、 当然の帰結として、 人々は平等である。 天地同根、 万物一体の道理を悟ることで、 生死の問題を越え、 与えられた責務を果し、 正しい方法に従って、 衆生済度の為に尽くす。


諸行無常のならいにて、 因果は車の輪のごとく、 密接不離のものである。


人には必ず信心という大磐、 すなわち宗教心が第一である。



天叢雲剣(草薙の剣)とは、【三種の神器】の一つとして知られています。今回の天皇交代の儀式においても、三種の神器を持つ者が本当の天皇とされますが、天叢雲剣だけは天皇家にあるのではなくて【熱田神宮】にあります。で、残りの二点を持って天皇である証の儀式が行われたなのです。それに関してはニュースでも天叢雲剣は熱田神宮にあると流されていました。


しかしながら、霊的世界に関わっているとどの御神霊も「鏡・玉・剣」の三種を持っておられます。古代においては、「鏡・玉・剣」は別に天皇たる証ではなくて、支配者としての象徴ではなかったのかと言われています。それは古代の遺跡発掘において、「鏡・玉・剣」の組み合わせが出土するからです。


天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とは、素戔嗚尊が【八岐大蛇】を退治した時にその大蛇から取り出した剣とされ、それを日本武尊(倭建命)が東征をする時に伊勢神宮の斎宮「倭姫命」から日本武尊に渡されたとします。その日本武尊の出来事から別名「草薙の剣」とも呼び、日本武尊が亡くなった後にその従者たる尾張氏が熱田神宮に剣を御神体として祀ったとします。


一方、形代として宮中に残された天叢雲剣は、源平合戦の壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水したことにより、関門海峡の海の底に沈んだことで天皇家にも存在しません。


私は神霊世界を見聞した中で、俗に言われる神鏡と神剣とは私達が思っている鉄とか青銅の類い物ではないことを知りました。霊的世界ではそうした神鏡とか神剣は間違いなく存在しているのです。ですから、この世にあるのは「レプリカ」とか模造品的なものと言えます。一部の霊能者の方達のなかには、自分は霊的な三種の神器を持っていると公言される方達がありますが、それは神々も三種の神器を持っておられることからして嘘だとは言い切れないのです。


例えば、西洋で天使とされる存在の霊達も神刀を持っています。私達日本人にとっては馴染みが深い不動明王や明王と呼ばれる仏界の仏像にしても、どの仏像も剣を持っています。霊界においては、神仏や天使達は霊剣を持っているなのです。


私は神霊世界の修業に入った頃、豊受姫の庇護の元に修行して来ました。すると多くの行者さんから、私が豊受姫から霊的な【御神刀】を賜っていないと知ると、皆さんからあり得ないと言われてしまいました。行者であれば自分の身を守る為に御神霊から「神刀」を賜るものだからです。


確かに、日本の神社の神達の中では、参って来た者に「神刀」を贈り物として渡すがあります。神界では神刀は【贈答品】の役割もあるなのです。


私は2番目の師匠の元で、自分はどの神様からも「神刀」を賜ってないと話したところ、国常立尊を詐称していたその御祭神から「神刀」を賜ったのですが、この神刀はまさに妖刀村正みたいな神刀で、霊達が自分を斬ってください。自分を斬ってくださいと押しかけて来るので、あまりの凄さにその神刀を捨てました。すると、霊の懸かりが起きなくなりました。


何故に、霊達は私にその神刀で斬ってくださいと押しかけて来たのか?。その理由は大国主命様の神刀の使い道で理由が解りました。それは、霊界で自己の魂が汚れてしまったことによる苦痛を消す為には、魂の汚れた部分を神刀で削って(身削ぎ)くださいと言うことだったのです。


つまり、


神刀の使い道には魂の禊ぎ(身削ぎ)もあり


天叢雲剣とは、天の剣で業(カルマ)を取る


霊が神刀で切ってくださいと押しかけて来るのは、何も知らない人からすると変だと思いますが、私が豊受姫の命令で現在地に家を建てる時、それを妨害する方がありました。すると、大国主命様が出て来られてその妨害者を神刀で切ってしまわれたのです。それを最初の師匠に話したところ、その妨害者は間もなく死ぬだろうと言われます。


ところが、その妨害者は死ぬのではなくて、その性格が一変してしまったのです。今度は逆に協力に変わったのです。その意味は解りました。その妨害者の魂は非常に汚れていたのですが、大国主命様が神刀で切られたのは、その魂の汚れた部分を神刀で【削ぐ】われたのです。為にその性格が一転してしまったのです。


日本神道には【禊ぎ】の言葉があります。この「禊ぎ」は


禊ぎ=【神との契約の示し】で、「身削ぎ・身殺ぎ」


自己の魂の汚れた部位を、身削ぎ身殺ぎすることによって汚れ無き玉にする


霊が神刀で切ってくださいと押しかけて来たのは、この禊ぎに「身殺ぎ・身削ぎ」の意味があるからです。


しかしながら、いくら汚れた魂でもその魂の汚れた表面を削れば、その魂は小さくなります。魂が人として幾度も幾度もこの世に輪廻転生で出た意味には、自己の魂を磨くと共に自己の魂を大きく成長させる意味合いがあります。


その魂を削って小さくしてしまうことは、魂そのものは救えますが最終的な手段になってしまいます。


すなわち、外科的な手術ではなくて、何等かの薬によって魂の表面を削ぐではなくて、内部から魂の汚れを取ってしまうのが本筋なのです。


そこに出て来るのが、人には「良心と呼ばれる神が内在する」であり


人の良心神は、魂の汚れを削ぐ神の「神刀」の働きを持つのです



地球を襲った5回の「大量絶滅」と人類の未来への警告


地球の歴史が始まって以来、誕生した生物の99%が絶滅している。生命の歴史において絶滅は不可避であり、種の絶滅は常に起きている。ある種が絶滅して空いた穴は自然淘汰によって、生き残った生物や新たに誕生した生物が埋める。


一方で大量絶滅が起こった場合には、短期間に生物の多様性を大きく損なう規模の絶滅が起こり、新たに誕生する生物によってもその穴を埋めることができない。そういった大量絶滅は地質に残されている。


古生物学者らはこれまでに起きた5回の大量絶滅を特定している。4億4300万年前のオルドビス紀の終わり頃、推定86%の海洋生物が地球上から姿を消した。3億6000万年前のデボン紀の終わりには全生物の75%が絶滅した。2億5000万年前のペルム紀の終わりには史上最大の絶滅が起き、生物の96%が消えた。


2億100万年前の三畳紀の終わりには全生物の80%が姿を消した。最も有名な大量絶滅は6500万年前の白亜紀の終わりに発生した。このときは恐竜やアンモナイトを含む76%の生物が死に絶えた。他にも1万年前の、更新世の氷河期の終わりに起きたメガファウナ(巨大動物)の絶滅などもある。


大量絶滅の原因については、火山の噴火や隕石の衝突、気候変動などの天災が指摘されている。恐竜が消えた大量絶滅の原因として最も可能性が高いのは巨大隕石の衝突で、地球規模で生態系に影響を与えた。


氷河期の終わりに起きた大型哺乳類の絶滅の原因としては、気候変動に加えて人類による狩猟採の影響もあるかもしれない。


過去400年で数多くの哺乳類や鳥類、両生類、爬虫類が絶滅した。2011年にネイチャーで発表された論文では、現在の生物の絶滅率と、地質学的に平穏な時期と大量絶滅が起きた時期の率が比較された。その結果、現在の生物の絶滅率が過去よりも高く、大量絶滅に向かっていると結論づけられた。


人間の活動が地球規模で環境に影響を及ぼし、その悪影響は加速しているのだ。


国連が主催する政府間組織「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学-政策プラットフォーム(IPBES)」は5月6日、人間の活動によって100万種の動植物が絶滅の危機に瀕しているというレポートを公開した。


報告によると、現在知られている種の4分の1が絶滅の危機に瀕している。両生類が最も危険にさらされており、調査対象の種の40%が絶滅しかけている。続いて針葉樹が34%、サンゴ礁が33%、サメやエイなどの軟骨魚類が31%、哺乳類が25%、そして鳥類が14%だった。


無脊椎動物では調査対象となった甲殻類の27%が絶滅の危機に瀕している。昆虫の数が激減していることも、最近の調査から分かっている。

David Bressan
2019/05/26 09:00


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