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これは「私がやった」の私をいまここに提示してみてくださいと言われたら


大体の人が肉体を指さして、この「私」です。と言います。
では肉体を一切動かさずに「私」を提示してみてくださいと言われたら、


意識上で「私」を捕まえて、目の前に提示できるでしょうか。


(私が?)やった結果は目の前にあるものの
その証拠となる人物を意識上で見出すことができません。


私は在る、と存在を認識している位置はありますけれども
そのどの部分が「私」なのかわかりません。


ここで重要なことは、
私たちが普段「私がやった」と言うときに想定しているのは


この「肉体の中に宿るであろう意思決定と思考の主体」

「多分私の肉体の中に宿っているにちがいない」=それが行為の主体者としての「私」だろうたぶん


という推測込みで発言しているということです。
確認済みの事実ではなく、ただの推測です。


昼休みにタバコを吸う方が、タバコの煙とともに吐き出す
午前中に「私がやった」仕事は…
と振り返るようなとき


推測を空中に投げていることに気づきます。


目の前の変化を認識する「存在」は確かに在ります。
でも「私がやった」は怪しい。
純粋に怪しいのです。n
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