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トシさん、こんばんは。元気です。
本当にいつでも、トシさんのタイミングで大丈夫です。それが半年後になっても全然OKです。私が感じているのは、おそらく今日も明日も、来週も、1週間に1回くらいはトシさんがコーヒーを飲むときにまとめて読んでくださるだろうと思って気楽に書いています。


安寧を「選んでいる」のも、焦燥を「選んでいる」のも実は私たちの日々の一回一回の選択なんですよね。
どっちでもいいんだと私も思っています。
どっちでも意味があるといいますか、ある種の「視点の切り取り方」に過ぎず、自分の選択です。意識的な選択であろうと、無意識的な選択であろうと、「自分の下した」選択に間違いありません。


★与えられている恩寵の中でどのような奏上を捧げるか


トシさんのおっしゃっていることこそ「本質」だと思います。
主(しゅ)と1対1の関係と言いますか、他人は関係ありません。
毎日、毎朝、毎晩、他人は関係ありません。
ぶっちゃけ自分も関係ありません。
在るのは、「奏上」がどうなっているかだけです。


「神との関係=奏上」が擬人化されたものが私たちです。
これを
他人との関係とか、私自身(肉体)との関係だと勘違いしている時間が比較的多いから混乱するだけなのではないでしょうか。
これは観念論では決してなくて、あくまでも物理的な事実100%です。


★私は在る
がありますよね。存在しているのは「私は在る」に過ぎないのに、
私たちはそこに「〇〇□□」という個人名を投影して自分を見ています。
事実は、
「私は在る」があって、その
「私は在る = 神との関係をいまこの瞬間体現する自由」として開かれている空間です。
仕事中この空間が失われたり、選択権の中心が揺らいだりすることはありません。
どこまで行っても、何をしていても、
「私は在る」が移動(?)し、呼吸し、100%それそのままで「奏上」になっています。
ロスはゼロです。
それそのものが「神との関係」で「奏上」です。
そこに人格と個人名を投影するのは単なる習慣に過ぎません。しかも余計な習慣です。
個人名を持ち出した瞬間、私たちは過去のデータの奴隷になります。


★部屋(空間)と家具(内容物)
を逆に捉えたとき(つまり家具を焦点の中心に据えてしまっているとき)
マインドは様々な勘違いをやらかし、
暴走を始めます。


安寧は空間に焦点が戻っ「ている(現在進行形)」証拠です。


主人公は〇〇□□さんじゃないです。
誰もがそう、〇〇□□さんは、足を引っ張っているだけです。


本当の主人公は、
名前をつけられたことがない
部屋の
対象物に指定されることが絶対にできない
空間、
概念として指定できないから誰もが忘れてしまう透明人間的な


★非顕現
です。その非顕現に焦点を戻すための唯一のコツが、


☆彡 自己への限定に気づき、限定を解除することです。n020006
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