質問者 気づきの訓練とはどのようなものでしょうか?
マハラジ 訓練の必要はない。気づきはつねにあなたとともにある。あなたが外面に対して与える注意を、内面に向けるだけだ。何も新しく、特別な周囲の気づきが必要なわけではない。
凡庸な精神
凡庸さの要因の一つは達成しよう、結果を持とう、成功しようとする衝動ではないだろうか? そしてわれわれが創造的になることを欲するとき、われわれは依然としてものごとを浅薄に扱っているのではないだろうか? 私は【これ】だ、そしてそれを私は【それ】に変えようと欲する、それゆえ私はいかにしてと尋ねる。しかし創造性が、何か追求されるべきもの、達成されるべき結果であるとき、精神はそれをそれ自身の状態へと引き下げてしまったのだ。われわれはこの過程を理解しなければならないのであって、凡庸さを何かほかのものに変えようと試みてはならない。
両方に気づくこと
単に部分的に鋭敏であることは、麻痺していることである。美を受け入れて、醜に逆らうことは、何の感受性も持たないことである。沈黙を歓迎して、騒音を拒むことは、全的ではないことだ。鋭敏であることは、沈黙と騒音のうちの一方を追い求めて他方に逆らうことなく、両方に気づくことである。それは、自己矛盾なしにあること、全的であることなのである。
自分の経験を正直によく見てみれば、自分の時間のほとんどを、ある状況を避けるか、”抵抗する”ために使っているのがわかります。それを避けようとすればするほど、そういう状況が数多く起きてくるのは当然です。逃避と否定からは何も学べないからです。
目の前にある今の状況に立ちむかい、責任をとろうとするとき、初めてその状況に意味をもってかかわることができます。恐怖心に直面し、対決することが、プロセスの第一歩です。
あなたは自分がこの世界にいるのは、有意義でかっこうのよいことをあれこれ達成するためだと思っているでしょうが、それはあなたのエゴが人々に認められようとして叫んでいるにすぎません。あなたがここにいるのは、何かをなしとげるためではなく、自分や他人について抱いているまちがった観念や信念をゼロにもどすためです。
どうか、ちょっと時間をとって、あなたの立てた目標の数々をながめてみてください。世間的に何かをなしとげることにかかわる目標が、いくつあるでしょうか。ほとんどがそうかもしれません。しかし、それを恥じることはありません。あなたの注意が、ひたすら外界に向かっているということに気づいてください。そして気づいてほしいのです。仮に、それらの目標がぜんぶ達成されたとしても、あなたは幸福にならないだろうということに。
幸福はいま現在の瞬間にしかありません。 いまあなたが幸福であれば、それ以上に、なにか達成すべきことはありません。もしあなたが明日幸福になれるとか、五分後に幸福でいられるかとかに心をわずらわせれば、いま幸福になる、ということを忘れてしまいます。計画や願いごとのすべてが、あなたを現在の幸福から遠ざけてしまうのです。
友よ、あなたにたずねたいと思います。あなたは現在の幸福のために「重要な」目標群をよろこんで捨てようと思いますか。いまこの瞬間がどこへつながっていくかわからないけれども、それでもこの瞬間を完全にわがものとしたい、と言いきる勇気はありますか。
あなたの心や経験のなかの混沌や混乱はすべて、完全にいま現在にいて、現在にのみ注意を向けることで乗りこえられます。これこそ奇跡的な真実です。
画家はどんなときに絵を描く幸せを感じるのでしょうか。絵を描いていて、画家という存在がなくなったときです。創作行為がおこなわれているのですが、使う色や絵筆の動きについて画家はいちいち考えてはいません。その瞬間、画家は無限の空間にいます。こうした異質の空間に入る画家の能力が高ければ高いほど、その作品は偉大なものとなります。
ゴッホについてはいろいろな意見があると思いますが、私が言っておきたいのは、彼は気ちがいではなかったということです。頭が混乱していたことは確かです。『星月夜』のような絵を創作したあとで現実に戻るのは、ゴッホにとって非常に困難なことでした。というのも、ゴッホは、地球界での人生は苦痛に満ちたものであり経済的に報われない、という基本的な信念を持っていたからです。それにもかかわらずゴッホは、こうした狭い固定観念から抜け出て、意識を星の世界へ移行させることができました。そこで彼は宇宙の動きを体験し、それをほかの人間も<見る>ことができるように再現したわけです。これは、意識の焦点を移行させるということの、わかりやすい例です。
ということは、意識の焦点を移行させるためには、すべての人が画家にならなければならないということでしょうか。いいえ、あらゆる瞬間にすべての人は芸術家なのです。目の前にあるものが何であれ、自分はそれを創造しているのだ、という事実に胸をおどらせてください。人は自分の意識を純粋な覚醒という絵の具にひたし、創造という絵筆でそれぞれの瞬間の絵を描いているのです。
神がすべてであり、すべては一つなのだとしたら、普遍的な深い”愛”の感情が存在し、「相手」がいなくでも、それを感じることができるはずです。何をしているときにも、これが真実であると固く信じて、”大いなる愛”の感覚を探し求め、それを待ち望んでください。それを感じることができると、自分にパワーが戻ってきます。そうなるとあなたは、”大いなる愛”のパワーがある、自分の「存在」の中心にいることになるのです。
そのために必要なのは、そうした愛を自分は当然感じるだろうという「期待感」です。
そのときどきで、使える形を使ってください。先入観を捨てます。毎瞬があたらしい瞬間です。すべての状況が、あなたのちがう面をひきだそうとします。
あることをある特定のやりかたで言ったりしたりすることに固執すれば、時間に縛られることになります。そういう執着は、あなたを過去に縛りつけます。やってくる経験がたずねているのは、あなたが喜んで過去を手放すか、喜んで信頼に身をゆだねるか、喜んで時間の外に踏み出すかどうか、ということです。
あなたが形に執着しなければ、時間の外に踏み出すことはかんたんです。あなたはいま現在に焦点をあわせます。永遠のいまです。どんなことが起きようと、そのことに全身でかかわっていけます。
でも、あなたがたの中でどれほどの人が、経験のなかで完全に現在という瞬間にいるでしょう。たいていの人は、経験を評価したり、判断したり、アラ探しをしたり、こうあってほしいという色眼鏡で見たりという作業で手一杯です。つまり、あなたがたはにせのアイデンティティにしがみついています。現在を過去に合わせようとしています。
マハラジ マインドを超えたところに体験はない。体験とは二元的状態だ。実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成ることを分離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろう。実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割不可能だからだ。そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちらも「私は在る」という感覚のなかに立ち現れる。これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを逃すことになる。
最終的な責任はあなた方にあります。悩みや苦しみをなくす方法が存在し、それがいまここにあるということを忘れないようにしてください。
モード(様態)
マハルシ 眠り、夢見、目覚めは、真我の前を通り過ぎてゆく様態でしかありません。それらはあなたが気づいていようといまいと、自動的に移り変わっていきます。ジニャーニの境地では、目覚め、サマーディ、眠り、夢見の状態が彼の中で移り過ぎてゆきます。それはちょうど牛車に乗った旅人が、牛が動いているときも、立ち止まっているときも、くびきをはずして休んでいるときも、気づかずに眠っているのと同じ状態です。
(対話313)
マハルシ 真我の真の本性は「平和」として在ることだと言われています。もしその「平和」が見いだせないとしても、その「見いだせない」ということは一つの想念でしかなく、真我とは相容れないものです。
瞑想をするのは、このような真我と相容れない想念を取り払うためです。それゆえ、想念は立ち現れたそのときその場で静められなければなりません。いつであれ想念が起こったときは、その波にさらわれてはなりません。真我を忘れると身体に気づくようになります。しかし真我を忘れることができるでしょうか? 真我として在りながら、忘れることができるでしょうか? もしそうであれば、そこには忘れる自分と忘れられる自分の二人がいるはずです。それは馬鹿げています。
↓
それゆえ、真我は憂鬱ではなく、不完全でもありません。真我は常に幸福です。それに反する感情はただの想念にすぎず、それ自体は何の力も持っていないのです。
↑
想念から自由になりなさい。
(対話462)
マハルシ この詩節の真の意義は、アートマンだけをとらえ、そこから道を踏み外さないことです。
問題が起こるのは、自分自身以外のものが存在するときです。「アートマンは唯一存在する一者である」ということを真に理解すれば、他者もなく恐れの原因もなくなるでしょう。
真我に心をとどめ、行為者という感覚なしに、自然に行為しなさい。そうすれば、行為の結果があなたに影響することはないだろう。
「真我の内に在る」ことが『ギーター』の教えの大要であり、精髄なのです。
(対話58)
神とは絶対的幸福である
あなたが悩みを持たず、素直で明るい意識だったら、いまよりずっとおもしろくて魅力的な人間になるかもしれませんよ。神の覚醒意識を望むというのは、非常に深いところに根ざした欲求です。あなたが勝者の意識を持たず、望みどおりの人生を手に入れるという意識を持っていないのだったら、覚醒意識を手に入れるという問題においても、やはりそれを「得る」ことはできないでしょう。そういう人は、「求める人」で終わってしまいます。勝者のみが「見つける人」になれるからです。意識の転換が必要です。
自分が感じたいと思っている、新しい感覚について話すようにしてください。人生のすばらしさや価値や”大いなる光”を、自分の人生のなかに探すようにしてください。そして、それ以外のものにはあまり注意を払わないことです。自分のすべてを受け入れるという生き方を、ますます熱心に実践するようにしてください。そのために必要なことは、何でもしてください。
この勉強を始めたときに言ったことですが、神は地を這う虫には興味がないのです。神は、生き生きと元気にあふれ、パワフルで拡がりゆく意識に興味があるのです。だからといって、そういう人はけっして気分が沈んだりしないという意味ではありません。どんな感情も抑えつけず、自分の望むことに意識を集中してください。”神意識”と最も調和している人々は、前向きで生き生きとしていて、強じんな明るさと優しい心を持っています。そうした人たちは、よいことも悪いことも、自分は何でもすることができることを知っていながら、そういうなかで罪の意識を捨てて、代わりに”大いなる光”と”幸せ”と神を選ぶことに精神を集中しているのです。
質問者 アートマ・サークシャートカーラ(真我実現)とは何でしょうか?
マハルシ あなたはアートマン(真我)であり、サークシャート(今ここにある直接体験)でもあるのです。そのどこにカーラ(実現)が必要でしょうか? この質問は、あなたが自分を真我ではないと考えていることを表しています。
この質問の根底には、あなたが自分自身を粗大な身体と同一視しているという事実があるのです。
今、あなたは自分自身を身体だと見なしています。そして自分の周りに物事を見るように、真我も目で見たいと考えているのです。習慣はそのように影響を与えるものです。
アートマ・サークシャートカーラとは
↓
アナートマ・ニラーサナ(真我ではないものの放棄)
↑
なのです。
(対話565)
マハルシ ほとんどの人が、「多数の個人が存在する」という論点に立っています。
人は自分を自我と同一視し、「自分のような存在が他にも数多く存在するに違いない」と議論します。
ある人が夢の中で大勢の個人を見たとします。目を覚ました後でも、その人は夢の中で見た大勢の個人が実際に存在すると信じて、彼らについて尋ねたりするでしょうか?
ここに水の入った容器がいくつかあり、その中に月が映っていると想像してください。それぞれの容器に映った月のイメージはみな違ったものですし、本物の月のイメージもまた違ったものです。もし容器の一つが床に落ちてこなごなになれば、その中の月の反映も消え去るでしょう。しかしその反映の消滅が本物の月に影響を与えることはありませんし、他の容器の中の反映も影響を受けません。これは個人が解脱に達するのと似ています。ただその人だけが解脱するのです。
多様性を支持する二元論の学派(ドヴァイタ)は、このことについて非二元論の学派(アドヴァイタ)に反論します。「真我が単一なら、一人が解脱すればすべての魂が解脱するはずなのに、実際はそうではない。それゆえ、アドヴァイタ学派は間違っている」と。
この議論の欠点は、「真我本来の光」と「真我の光の反映」とが取り違えられているところにあります。自我、世界、個人は、すべて個人のヴァーサナー(心の潜在的傾向)ゆえに現れ、ヴァーサナーが消え去れば、個人が見ていた幻影も消え去ります。つまり一つの容器が壊れたとき、その反映も消え去るのです。
実際のところ、真我が束縛されたことなど一度もなく、それゆえ解放もありません。
あらゆる問題は自我にとってのみ存在するのです。
(対話571)
私はよく、「どうすればこの『止めた(stopped)』状態に留まることができますか?」と訊かれます。
でも「止める」というのはある状態を指しているのではありません。
沈黙(silence)、静寂(stillness)も然りです。
これは非常に重要な違いです。
あなたには頭の中を比較的落ち着いた状態にできますし、身体をリラックスした状態にすることもできます。
けれども私がここで言っている静寂とは、本質的に決して動かないものなのです。
それはいつでも「止まって」います。
すべての理性活動、行動は、この決して動かない静けさの中に現れ、存在し、そして再び消えていきます。
すべての状態には、始まりがあり、経過があり、そして終わりがあります。
それは、幸福だったり悲しかったり、非日常的だったり日常的だったり、高揚していたり沈滞していたりします。
けれども、状態とは無関係の存在、それがすなわちじっとして動かない静寂です。
意識とはすなわち静寂です(Awareness is stillness)。
そしてあなたはすでに、この静寂なのです。
あなたの理性は、理性の活動について、またはどうすれば活動を止められるかについて、忙しく考えているかもしれません。
でもそれはみな、どんな状態でもない存在、つまり静寂そのものの中で起きています。
決して変化しない静寂、それが、意識的に繰り返すことのできるものであるとか、あなたにうまくできなかったりするものであるとか、そういった考えをあなたの頭の中から追出すことができれば、静止したもの、存在そのものが、つまりあなた自身であるということがついにあなたにはわかるはずです。
静止「したい」という衝動は理性の活動から来るものであり、理性の活動は、静止の中で起きているのだということに気づいてください。
この静けさは、死んでいるのでも空っぽなのでもありません。
それは意識(consciousness)そのものであり、気づき(awareness)そのものなのです。
そしてあなたがそのawarenessです。
「静止しなくてはいけない、静止していよう、どうして自分は静止することができないのだろう?」という思考、それを観察し、経験しているのは、この静寂そのものです。
月は空にある。私はそれに叫びかけ、唾を吐きかけることもできる。私はそれを礼拝し、花を投げかけ、賛歌を歌うこともできる。私の行為によって月は影響を受けただろうか? いいやまったく受けなかった。それはただ輝きつづけるばかりだ。私たちが良いふるまいをしようと悪いふるまいをしようと、喧嘩をしようと瞑想をしようと、月は何の影響も受けない。それは空についても同じことだ。私たちは空の中に座っている。四つの壁の中には空がある。私たちは瞑想しているかもしれない。あるいは何か他のことをしているかもしれない。私たちが何をしようと、あるいはしなかろうと、空は影響されないままだ。私たちが存在しようと不在であろうと、空にとっては何の違いもない。これが四つの壁の中にある空間なのだ。
あなたはすべての物事が現れては消え去るその空なのだ。物事があなたなのではない。あなたは世界の活動にも無活動にも影響されない。物事が存在しようと不在だろうと、あなたにとっては何の違いもない。あなたは常に空なのだ。
もしあなたが継続したエゴだとしたら、誕生以来あなたに起こった考えや信念、アイデアや体験、記憶や気づきなどのすべてが脈々とこの瞬間に生きてあふれ返っていなくてはなりません。自分が継続した実体だと思い込もうとすることで、本当に継続しているものが体験できなくなっています。
本当に継続しているものはこれまでもずっとありましたし、いまもあります。それは<我在り>と言うときの”我”です。それはあらゆるものが流れ出る”源”です。それは始まりの前にあり終わりの後にあるもので、意識の本質です。それは純粋な意識そのものです。それが継続するもので、それ以外には何も継続しません。
それ以外のものであなたがこの瞬間にもたらすものはすべて、目に見える、継続した有限の人間として自分が存在すると思い込みたいがためにあなたがもたらしているものです。
そうした自己像で自分を縛ってしまわないでください。自分を無力でちっぽけな存在だと信じて、『ああ、人から嫌われたらどうしよう』、『太りすぎじゃないだろうか』、『お金に困ったらどうしよう』などと心配するのをやめてください。あなたのまわりにはいたるところにあなたの本質が実在していて、細胞の一つひとつ、意識のすみずみまで雷鳴のごとく激しい音を立てて流れています。あなたは持っているものを使わずに損をしているのです。でも損をする必要はありません。これまでに話した方法のひとつを使えば、その習慣はやめられます。思考をやめて、いまの瞬間にいましょう。何か特別のことを聞こうとしないで、ただ耳を傾けましょう。見ている物を判断せずに見ましょう。ゆったりとした意識で呼吸しましょう。物事を評価したり選んだり受け入れたり拒否したりすることなく、いまこの瞬間に意識を向けましょう。いまこの瞬間に安らぎ、完全に心を開いて、意識を完全にいまの瞬間に向けていると、それが起きます。純粋な意識がその姿を現します。いまやっても、後でやってもいいですが、どちらにしてもあなたはいずれ実行します。
あらゆるものの中を息づくただひとつの現実があるだけです。それ以外はすべて幻影です。あなたは自分が考えているものとは違います。あなたはいつどう変わるともしれない短い命を、あてもなくおびえながら生きる意識のかけらではありません。あなたは広大無辺の完全に目覚めたすばらしい意識であり、それを充分に体験するのはあなたの持って生まれた権利です。これからのあらゆる瞬間にそのことを完全に完璧に知るようになってほしいというのが、わたしの願いです。
あなたが自分自身と呼んでいるあの慣れ親しんだ感覚、間違って<自分>と呼んでいるあの感覚に気づくように、ここでまたお願いしたいと思います。実際のところ、あの慣れ親しんだ感覚というか、歓喜の絶頂から憂鬱のどん底まで、愛から憎しみにいたるまで、不安から喜びにいたるまで、あらゆる過程に存在する感覚こそがあなたの本質です。あなたは”わたし”を間違って<自分>と呼んでしまったのです。生まれたり消えたりするのは有限の<自分>です。あなたといつもいっしょにいて、朝目覚めた瞬間からもっとも深い夢の瞬間までいるのが”わたし”の本質です。
あなたは”わたし”の本質をいつも感じているのですが、それをいままでは間違った名前で呼んできました。これまであらゆる瞬間に感じてきた感覚があなたが求めているものです。ほかのあらゆるものはその上に反映されます。こうしてここにすわっているときも、常に変わらず存在するのはその純粋な意識です。わかりますか。あなたは自分がすでにそうであるものを求めているのです。あまりに明らかで、不変で、強く、なじみが深いので、それがわからなかったのです。どうか見過ごさないでください。
森羅万象いかなる処にもわたしを見
わたしのなかに森羅万象を見る人を
わたしは必ず見ている
彼は常にわたしと共にある
バガヴァッド・ギーター 第6章30節
質問者 私の年齢でもハタ・ヨーガを遂げることはできるでしょうか?
マハルシ なぜそのようなことを考えなければならないのですか? あなたは真我があなたの外側に存在すると考えるため、それを求めて努力するのです。しかしあなたは常に存在しているのではないでしょうか? なぜ自分自身を離れて、外側にある何かを追い求めるのでしょうか?
(対話619)
マハルシ あなたは純粋意識なのです。グリハスタ・ダルマも世界も純粋意識の上に現れた単なる現象にすぎず、それは影響を受けることなくとどまります。
疑いが誰にとって起こるのかを見なさい。疑う者とは誰でしょうか? 考える者とは誰でしょうか? それは自我です。それをとらえなさい。
自我がどこから立ち現れるのかを見いだしなさい。それが純粋意識なのです。
「私は実現できるだろうか?」という疑いや、「私はまだ実現していない」という感覚自体が障害なのです。
(対話251)
あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。
あなたが自分の未解決の問題に直面する勇気を持つと、あなたの心が一挙に大きく開かれ、人間は誰でも同じ問題を抱えているのだ、ということに気づきます。あなた方はみな怖れているのです。それというのも、自分はこの危険に満ちた世界を行く先もわからずにすすんでいる、ちっぽけな存在であると、自分を取りちがえて考えているからです。
これから先、もっとも有益な道具は、自己の限られた意識以外のものを体験したいという願望です。前にも言ったように、人は自分が何であるかということを思いちがいしています。
自身の傷に対して自分で愛を与えるという責任をとらないうちは、攻撃──防御、罪悪──非難という悪循環から抜け出ることはできません。怒り、傷つけられたという思い、裏切られた感じ、それらはあたかも正当なように見えますが、おたがいのいさかいの火に油を注ぐだけでなく、自分は愛されないし、愛する能力もない、という無意識の信念をたえず強めていきます。
自分自身がどれほど自己を憎悪しているかに気づく必要があります。鏡をのぞいて、そこに自分の信じていることがそっくり映っているのがわかるまでは、まずは日々出会うすべての兄弟姉妹を鏡として、自分が自分をどう見ているのかを知ることができます。この実践は特にむずかしくはありませんが、天国への最短距離というわけではありません。自分の見ているものは、よその人への教訓なのだと考えがちだからです。
この世界のいまわしい心理戦争からのがれるには、投影というゲームをやめることです。このゲームは自分の無意識の中の死への衝動を、それは悪いというせまい道徳倫理で、自分の目からもおおい隠してしまいます。皮肉に聞こえるかもしれませんが、自分は正しくて悪いのは兄弟なのだと主張しているその瞬間に、あなたは自分自身の罪悪感と劣等感を拡大しているのです。
非難の悪循環から抜け出るには、非難をやめるしかありません。ただし、覚悟してください。苦しみの円環から抜け出ようとすると、世間からはよく言われないでしょう。まず最初に攻撃の矢面に立たされるのは、この世界の投影ゲームに参加しない人たちです。あなたがたがわたしの生涯から教訓を受けとるとしたら、まずはそのことです。
「悪事をふたつ重ねても、ひとつの善事にはならぬ」という言い回しを聞いたことがありますか。これこそ、わたしの教えの中心にあるものです。あらゆる悪事は、正しいやりかたで修正されなければなりません。それ以外の修正方法は、攻撃となります。
相手の議論をねじ伏せようとしたり、まちがいだぞと言い負かそうとしても、相手はいこじになるだけです。それは暴力的なやりかたです。これに対して、わたしのやりかたは非暴力的です。わたしの場合は、こうすれば問題は解決するという解答を実際に行動で見せてあげます。それは苦しんでいるものに対し、攻撃ではなく、愛をもたらします。このやりかたは、本来の目的にかなっています。
よくないこととは、罪悪感を教え、苦痛や苦しみが必要なのだという信念を確立することです。正しいこととは、愛を教え、それにあらゆる苦しみを乗りこえる力があるのを示すことです。かんたんに言えば、正しくあればよくないことはできないし、よくない場合には正しいことはできません。正しくあるために、正しいことを行いなさい。
愛の感じられないやりかたでは、真に愛することはできません。ほんとうに正しい人間なら、誤りを攻撃する態度はとれません。誤りはもちろんなくすべきです。しかし、すべての誤りの根源は恐怖心ですから、恐怖心の撲滅が誤りの修正につながります。
あなたがたのほとんどは、恐怖心についてはかなり理解していますが、愛についてはほとんど知りません。あなたは神を恐怖し、わたしを恐怖し、おたがいを恐怖しています。
なぜ恐怖を抱くのですか。それは、自分に愛される値打ちがなく、おたがいを愛する能力もないと信じているからです。
たったひとつ、この信念を変えさえすればよいのです。人生のすべてのネガティブなものは、自分についてのこの誤った信念をぬぎすてたとたんに、はがれ落ちます。
そのとき、あなたは一点の疑いもなく、あなたを愛している神の愛を知るのです。そのとき、あなたは”彼女”がただの一度もあなたを見捨てたことがなかったのがわかるでしょう。たとえあなたが”彼女”の罰が自分にくだり、世界は破壊されるだろうという血迷った考えにとらわれていたさなかにもです。そのとき、あなたは自分の心の創造の力を知り、そして神と別個にではなく、神とともに創造することを選ぶでしょう。
質問者 神の力なくしては、何ひとつ為されません。彼なしにはあなたがここに座り、私たちに話すということさえありえなかったでしょう。
マハラジ 疑いなく、すべては神の為す業だ。それが何だというのだろう、私には何も求めるものはないのだ。神が何を私に与え、あるいは取り上げることができるというのだろう? 私のものは私のものだ。そして神が存在しなかったときにも、それは私のものだった。もちろん、それは非常に小さな取るに足らないもの、微々たるものだ。「私は在る」という感覚、存在の事実だ。これは私自身の場であり、誰に与えられたものでもない。この地球は私のものであり、そこに育つものは神のものだ。
質問者 神があなたに地球の借地料を払ったのですか?
マハラジ 神は私の帰依者だ。これらすべては神が私のためにしたことだ。
質問者 あなたを離れて神は存在しないのでしょうか?
マハラジ もちろん存在しえない。「私は在る」が根で、神は樹だ。私が誰を、何のために礼拝しなければならないというのだろう?
質問者 あなたは帰依者なのでしょうか。それとも帰依の対象なのでしょうか?
マハラジ そのどちらでもない。私は帰依そのものだ。
質問者 世界には帰依が欠けています。
マハラジ あなたはいつも世界を改善することに忙しいが、世界があなたによって救われることを待っていると本当に信じているのだろうか?
質問者 世界に対してどれだけのことができるのか、私にはわかりません。私にできることはただ試みることだけです。何かあなたが私にしてほしいと望むことがあるでしょうか?
マハラジ あなたなしで世界が存在するだろうか? あなたは世界についてすべて知っている。だが、あなた自身に関しては何も知らない。あなた自身があなたの仕事の道具なのだ。仕事について考える前に、道具の面倒を見たらどうかね?
質問者 私は待てますが、世界は待つことができないでしょう。
マハラジ 探求しないことで、あなたは世界を待たせている。
質問者 何を待っているのですか?
マハラジ 救ってくれる誰かを待っているのだ。
質問者 神が世界を管理しているのです。神は救うでしょう。
マハラジ それはあなたがそう言うだけだ! 神があなたのところへやってきて、世界はあなたのものではなく、彼の創造物と関心事だと言ったのかね?
質問者 なぜそれが私ひとりの関心事であるべきなのですか?
マハラジ 考えてみなさい。あなたの住む世界をほかに誰が知っているというのかね?
質問者 あなたが、そして皆が知っています。
マハラジ 誰かがあなたの世界の外側から来て、あなたにそう言ったのだろうか? 私自身も、ほかの皆も、あなたの世界のなかで現れては消えていくのだ。私たちは皆あなたのなすがままなのだ。
質問者 そんなひどい話があるでしょうか! あなたが私の世界のなかにいるように、私はあなたの世界のなかに存在しています。
マハラジ 私の世界の証拠をあなたはもっていない。あなたは完全に自分でつくり出した世界のなかに包みこまれているのだ。
質問者 なるほど。まったくそのとおりですが……どうしようもないのですか?
マハラジ あなたの世界の牢獄のなかにある人が現れ、あなたが創造した苦痛に満ちた矛盾の世界は継続も永続もせず、それはただ誤解がもとで現れたのだ、とあなたに言うのだ。彼はあなたに来たときと同じ方法、同じ道を通ってここを出ようと主張している。あなたはあなたが本来何であるのか忘れることによってその牢獄に入った。そして、あなたがあなた自身であると知ることでそこから出るのだ。
質問者 それがどのように世界に影響をあたえるのでしょうか?
マハラジ 世界から自由になってはじめて、世界に対して何かができる。その囚人であるかぎり、それを変えることはできない。それどころか、あなたが何をしてもかえって状況を悪化するだけだ。
質問者 公正さが私を自由にしてくれるでしょう。
マハラジ 公正さは疑うことなくあなたと世界を住みよい場所に、幸福にさえするだろう。だが、それが何になるというのだろうか? そこには実在性がない。永遠には続かないのだ。
質問者 神が助けてくれるでしょう。
マハラジ あなたを助けるには、神があなたの存在を知らなければならない。だが、あなたも、あなたの世界も夢なのだ。夢のなかで、あなたは断末魔の苦しみを味わうかもしれない。誰もそれを知らないし、誰もあなたを助けることはできないのだ。
質問者 では、私の質問も、探求も、研究も何の役にも立たないのですか?
マハラジ それらは眠りを破ろうとする人の活動だ。それらが気づきをもたらす原因にはならないが、その初期の徴候ではある。だが、あなたがすでに答えを知っていることについて、無意味な質問をしてはならない。
質問者 どうすれば真の回答が得られるのでしょうか?
マハラジ 真の質問を尋ねることによって、言葉の上ではなく、あなた自身の光にしたがって生きることに挑むことで得られるのだ。真理のために死をも厭わない人がそれを得るのだ。
質問者 もうひとつの質問です。個人がいます。その個人を知る者がいます。そこには観照者がいます。知る者と観照者は同じなのでしょうか? あるいは分離した状態にあるのでしょうか?
マハラジ 知る者と観照者は別々だろうか、ひとつだろうか? 知る者が知られるものと別のものとして見られたとき、観照者はひとり離れて在る。知られるものと知る者がひとつであるとき、観照者はそれらとひとつになるのだ。
質問者 ジニャーニ(賢者)とは誰なのでしょうか? 観照者でしょうか、それとも至高なるものでしょうか?
マハラジ ジニャーニは至高なるものであり、観照者でもある。彼は存在と気づきの両方だ。意識との関わりにおいて、彼は気づきであり、宇宙との関わりにあっては純粋な存在だ。
質問者 それでは、個人についてはどうでしょう? はじめに現れるのは個人でしょうか、知る者でしょうか?
マハラジ 個人とは非常に小さなものだ。実際には、それはいくつかの要素が混成されたもので、それ自身として存在することはできない。知覚されもしない。それはただ存在しないのだ。それはマインドの影、記憶の総計にすぎない。純粋な存在はマインドの鏡のなかに知るという状態として映る。知られたものは記憶と習慣を根底にして、個人としての形を取るのだ。それはマインドのスクリーンの上に映しだされた知る者の反映、ただの影にすぎない。
質問者 鏡が在り、反射があります。しかし、太陽はどこでしょうか?
マハラジ 至高なるものが太陽だ。
質問者 それは意識しているはずです。
マハラジ それは意識でも、無意識でもない。意識、無意識といった言葉で考えてはいけない。それは生命であり、その両方を含み、また両方を超えている。
質問者 生命は高い知性をもっています。どうして無意識であることができるでしょう?
マハラジ 記憶が中断するとき、あなたはそれを無意識と言う。実際には、意識だけが存在するのだ。すべての生命は意識しており、すべての意識は生きている。
質問者 岩でさえも?
マハラジ 岩でさえも意識し、生きている。
質問者 私には自分で想像できないものの存在を疑う傾向があるのです。
マハラジ 想像したものの存在を疑うほうが、あなたをより賢くするだろう。想像されたものが偽りなのだ。
質問者 想像可能なものはすべて偽りなのでしょうか?
マハラジ 記憶に基づいて想像されたものは偽りだ。未来はまったくの非実在ではない。
質問者 未来のどの部分が真実で、どの部分が偽りでしょうか?
マハラジ 予期されず、予測不可能なものが真実だ。
無住心(むじゅうしん) Non-Abiding Mind
『金剛般若経』の中の「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」という言葉に拠る。これは、「まさに住する所無くして、しかもその心を生ず」と読み、「いかなる対象にもとどまることのないまま、心を生じるままに任す」を意味する。禅の六祖慧能はこの言葉を師から聞いた瞬間に大悟した(『六祖壇経』)。大珠慧海は『頓悟要門』の中で、「善悪、有無、内外、中間にとどまらず、空にも不空にも、定にも不定にもとどまらない心を無住心という。無住心とは仏心なり」と説いている。
質問者 意識と気づき、どちらが先に現れるのでしょうか?
マハラジ 気づきがそこにひとつの対象物をもったとき意識となる。対象はつねに変わっていく。意識のなかには運動がある。気づき自体は、運動も時間もない今ここにあるのだ。
あなたの視点を叡智の視点に変えなさい
質問者 どうすれば想念を互いに伝達し合えるでしょうか?
マハルシ それはそこに「二」という概念があるときだけ可能です。
想念は立ち現れるため、私たちはそれが生じる元となる何かが存在すると推測し、それを心と呼ぶのです。
あなたの視点が外交的だったため、真我の視野を失い、ヴィジョンも外的なものになったのです。外側の物事の中に真我を見いだすことはできません。
(対話238)
あなたが人々を神という本来の地位に戻し、何をしていようとも、彼らは自分の内なる神のために生きていることを知るとき(これは、あなたが自分の内なる神のために生きているのと同じだが)、あなたはすべての人々を愛することを学ぶことができる。彼らの表現がどんなものであろうと、これまでの存在ではじめて、あなたは本当の意味で彼らを愛することができるのだ。というのも、あなたの愛は価値判断によって制限されたり、抑制されたりするものではないからだ。そして、これがまさに、キリスト、すなわち「神として生きる人間」の内面の在り方なのである。
質問者 先日、私はあなたに二通りの成長の方法、放棄と悦楽(ヨーガとボーガ)について尋ねました。その違いはさほどのものではありませんでした。ヨーギは楽しむために放棄し、ボーギは放棄するために楽しむのです。ヨーギはまず放棄をし、ボーギはまず楽しみます。
マハラジ それが何だというのだね? ヨーガのことはヨーギにボーガのことはボーギにまかせておくがいい。
質問者 私にはボーガの道のほうがより良いように見えます。ヨーギは熟しきらないマンゴーのように、未熟なまま木から切り離され、かごのなかに熟すまで保たれます。風通し悪く、加熱されて、熟しはしますが本当の味と香りは失われてしまうのです。木に残ったマンゴーは完全なサイズで、色、甘さなど、あらゆる喜びをともなって成長します。それでも、どういうわけかヨーギはあらゆる称賛を受け、ボーギは非難を受けます。私の目にはボーギのほうがよりよく映るのです。
マハラジ 何があなたにそう言わせるのだろうか?
質問者 私は多くのヨーギたちと、彼らの途方もない努力を見てきました。たとえ彼らが真我を実現したときでも、何かそこには苦く、厳しいものがあります。彼らは一見、多くの時を三昧(ざんまい)状態のなかで過ごしているようですが、いざ話をすると聖典の引用をするばかりです。そのようなジニャーニ(知者)たちは、もっとも良いところで、完成されていても周囲にわずかな芳香を放つ小さな花のようです。森林のように豊かで、多彩であり、巨大な、動きにあふれる世界をもった何人かの人たちがいます。その違いには何らかの理由があるはずです。
マハラジ あなたはすでに言ったではないか。あなたによればヨーガにおいて人は発育を妨げられ、ボーガにおいて育成するのだと。
質問者 そうではありませんか? ヨーギは人生を恐れ、平和を探し求めます。一方、ボーギは冒険的精神いっぱいに前進するのです。ヨーギは理想に束縛され、一方、ボーギはつねに探検する用意があります。
マハラジ それは多くを望むか、わずかで満足するかという問題だ。ヨーギは野心的だが、ボーギは単に冒険的だ。あなたのボーギはより豊かで、もっと興味深いように見える。だが、実際はそうではないのだ。ヨーギは鋭いナイフの刃先のように、狭く局限される。深く、ためらいなく、数多くの偽りの層を誤ることなく貫くために、彼はそうあらねばならないのだ。ボーギはたくさんの祭壇を崇拝する。ヨーギはただひとつ、彼の真我のみに仕えるのだ。
ヨーギをボーギに対立させるのは、まったく無駄なことだ。外面へ向かう道(プラヴリッティ)は、かならず内面への道(ニヴリッティ)に先行するものだ。判定を下したり、採点したりすることはばかげている。すべてが究極の完成に貢献しているのだ。ある人びとは、実在には三つの層があると言っている。真理、智慧、至福だ。真理を求める者はヨーギとなる。智慧を求める者はジニャーニに、幸福を求める者は行動の人となる。
質問者 私たちは非二元性の至福についての話を聞きました。
マハラジ 非二元性の至福は大いなる平和の本性なのだ。喜びと苦痛は正当、非正当といった行為の結果だ。
質問者 何がその違いを生みだすのでしょうか?
マハラジ 違いは与えることと、つかみ取ることにある。どの道を行こうとも最後にはみなひとつとなる。
質問者 もしゴールに違いがないのなら、なぜ多様な道に区別をもうけるのでしょうか?
マハラジ 各人がそれぞれの自然な本性にしたがって行動するがいい。いかなる場合であっても究極の目的に仕えることだろう。あなたの識別や分類はまったく正しい。だが私にとって、それらは存在しない。何の根拠がなくとも、夢の記述は詳細で正確かもしれない。同じように、あなたの区別分類もまた、憶測に合わせたものにほかならない。ある概念からはじめて、異なった衣装をつけた同じ概念で終えただけだ。
質問者 あなたはどのようにものごとを見るのでしょうか?
マハラジ 私にとっては、ひとつとすべては同じだ。同じ意識(チット)が存在(サット)と至福(アーナンダ)として現れる。動のなかの意識が至福であり、不動の意識が存在だ。
質問者 それでも、あなたは動と不動の区別をつけています。
マハラジ 無区別は沈黙のなかで語る。言葉は区別をともなうからだ。非顕現(ニルグナ)は名前をもたない。すべての名前は顕現(サグナ)に属するからだ。言葉を超えた何かを表現するために、言葉で争うのは無意味なことだ。意識(チダーナンダ)は魂(プルシャ)であり、意識は物質(プラクリティ)でもある。不完全な魂が物質で、完全な物質が魂なのだ。はじまりがそうであるように、終わりもまたそうなのだ。すべてはひとつだ。
すべての分割はマインド(チッタ)のなかにあり、実在(チット)のなかに分割はない。運動と休息はマインドの状態であり、互いに対極なしには存在できないのだ。それ自体では、何も動かず、何も休息しない。絶対的存在を精神的構造に帰属させることは悲惨な過ちだ。それ自体では、何ひとつ存在しないのだ。
質問者 あなたは休息を至高の状態と同一化しているようですが。
マハラジ マインドの状態(チダラム)としての休息があり、存在の状態(アートマラム)としての休息がある。前者は来ては去っていく。一方、真の休息は行為の本質そのものだ。あいにく、言語は精神的道具であるため、対立のなかでしか使うことができない。
質問者 観照者としてのあなたは働いているのでしょうか、休息しているのでしょうか?
マハラジ 観照は体験であり、休息は体験からの自由だ。
質問者 存在の感覚は体験によってのみ生じるのでしょうか? 偉大な真言(マハー・ヴァーキャー)、「タット・サット」(我はそれなり)は単なる思考の様式なのでしょうか?
マハラジ 何であれ、語られたことは言葉にすぎない。何であれ、考えられたことは思考にすぎない。真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ。マハー・ヴァーキャーは真実だが、あなたの観念は偽りだ。なぜなら、すべての観念(カルパナ)は偽りだからだ。
質問者 「我はそれなり」という信念も偽りなのでしょうか?
マハラジ もちろんだ。信念とは精神的状態だからだ。「それ」のなかに「私は在る」はない。「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、「それ」は光を奪われる。しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダーナンダ)が訪れる。そして至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって束縛がはじまるのだ。
質問者 日々の生活のなかで、あなたはつねに実在の状態を意識しているのでしょうか?
マハラジ 意識もしなければ、無意識でもない。私に信念は必要ない。私は勇気を生きる。生命の愛である勇気が私の本質だ。私には記憶や不安がない。私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。自己描写にふけったりもしない。「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラーマスミ」(我は至高なるものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。私には無として在る勇気がある。そして世界をあるがままに、無として見るのだ。シンプルに聞こえるだろう? 試してみなさい!
質問者 しかし、何があなたに勇気を与えたのでしょうか?
マハラジ あなたの見方は何と倒錯しているのだろう。勇気は与えられる必要のあるものだろうか? あなたの質問は不安が正常で、勇気は異常だということを暗示している。それは反対なのだ。不安と期待は想像から生まれる。私はその両方から自由だ。私はシンプルな存在だ。何に寄りかかる必要もないのだ。
あなたがあなた自身を知らないかぎり、存在があなたにとって何になるというのだろう? あなたのままで幸福であるには、あなた自身を知らなければならないのだ。
在ることは、知ることとして輝く。愛のなかの暖かさ、それを知ることだ。それはみなひとつだ。あなたの分離を想像しておいて、疑問に頭を悩ませている。公式に関わりすぎてはならない。純粋な存在は描写できないものなのだ。
質問者 それを知ることができ、楽しむことができないかぎり、私にとっては何の意味もありません。それはまず、私の体験の一部となるべきです。
マハラジ あなたは実在を体験のレベルまで引き下げているのだ。どうして実在が体験に依存できるというのだろう? 実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。体験は、つまりマインドの状態なのだ。一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。
質問者 またもや私は混乱しています! 在ることは知ることから分離しているのでしょうか?
マハラジ 分離は見かけだけだ。夢が夢見る人から離れてはいないように、知ることも在ることから離れてはいない。夢は夢見る人であり、知識は知る人なのだ。区別は単に言葉の上にあるだけだ。
質問者 私には今、サット(存在)とチット(意識)がひとつだとわかります。しかし、アーナンダ(至福)はどうでしょうか? 存在と意識はつねに一緒です。しかし、至福はごくまれに、瞬間ひらめくだけです。
マハラジ 存在の静かな状態が至福なのだ。乱された状態が世界として現れる。非二元性のなかには至福がある。二元性のなかには体験がある。来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。至福とは知られるものではない。人はつねに至福なのだ。しかし、けっして至福に満ちているのではない。至福とはひとつの属性ではないのだ。
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