2012年12月21日 終末の日より400日目


質問者 私は家族と所有物に対してたいへんな執着があります。この執着をどのようにして克服すればいいのでしょうか?


マハラジ  この執着は、「私」と「私のもの」という感覚とともに生まれたものだ。これらの言葉のもつ本当の意味を見いだしなさい。そうすれば、すべての束縛から自由になるだろう。あなたは時間のなかに広がるマインドをもっている。つぎつぎとあらゆることがあなたに起こり、そしてその記憶が残る。それには何の誤りもない。ただ、すべての有機的生命にとって本質的である過去の苦痛や快楽の記憶が、ひとつの反射的作用、支配的行動として残るとき問題が起こるのだ。この反射作用が「私」という形を取り、身体とマインドをいつも快楽の追求、苦痛からの逃避という目的のために使うのだ。あなたが「私」を、ひと塊の欲望と恐れとして、「私のもの」を、苦痛を避け快楽を確保するためにものごとや人びとを抱擁するものとしてあるがままに認識したとき、「私」と「私のもの」は、実在のなかに何の基盤ももたない偽りの観念だということが理解できるだろう。マインドによってつくられながらも、マインドがそれらを真実だと見なすかぎり、そのつくり出した者を支配する。それが疑われた瞬間、それらは消え去るのだ。「私」と「私のもの」は、それ自体では存在をもたないため、身体という支えを必要とする。身体がそれらの身元の証明となるのだ。あなたが「私の」夫や「私の」子どもと言うとき、身体にとっての夫、身体にとっての子どもを意味している。自分が身体だという観念を捨て去り、「私とは誰なのか?」という質問に直面しなさい。即座に実在を呼び戻す動きのプロセスがはじまる。というよりも、そのプロセスがマインドを実在へと連れていくだろう。ただ、恐れてはならないのだ。


質問者 何を恐れるというのでしょうか?


マハラジ  実在が在るためには、「私」と「私のもの」という観念は去らなければならない。あなたが手放しさえすれば、それらは去るだろう。そうすれば、あなたの正常で自然な状態はふたたび現れる。そのとき、あなたは身体でもマインドでもなく、「私」でも「私のもの」でもない、まったく異なった存在の状態に在るのだ。それは、あれやこれとしての存在ではなく、特定の、あるいは一般的な何かとの自己同一化のない、純粋な存在の気づきだ。意識の純粋な光の中には何も存在しない。無という概念すらない。そこにはただ光があるだけだ。


質問者 私には愛する人たちがいます。彼らを手放さなければならないのでしょうか?


マハラジ  あなたはただ、彼らをつかんでいる手を放すだけだ。あとは彼ら次第だ。彼らはあなたに興味を失うかも知れない。あるいはそうではないかもしれない。


質問者 どうして彼らが興味を失うというのでしょう?彼らは私のものではないのでしょうか?


マハラジ  彼らはあなたの身体のものであり、あなたのものではないのだ。あるいはあなた自身のものではない人は、ひとりもいないのだ。


質問者 それでは私の所有物はどうなるのでしょうか?


マハラジ  「私のもの」がないとき、どこに所有物があるというのかね?


質問者 どうか教えてください。「私」を失うことですべての所有物を失わなければならないのでしょうか?


マハラジ  そうかもしれない、そうではないかもしれない。それはあなたにとってみな同じこととなるだろう。あなたの損失は、誰かほかの人の得となるからだ。あなたはかまわないだろう。


質問者 もしかまわなければ、私はすべてを失ってしまうでしょう!


マハラジ  ひとたび何ももたなくなれば、問題はなくなるのだ。


質問者 私は生存の問題とともに取り残されてしまうでしょう。


マハラジ  それは身体の問題であって、食べたり、飲んだり、眠ったりすることで解決されるだろう。そこにはすべてに充分なだけ、すべてを分かちあうだけ用意されているのだ。


質問者 私たちの社会は分かちあうことではなく、つかみ取ることを基本にしているのです。


マハラジ  分かちあうことで、あなたはそれを変えるのだ。


質問者 私は分かちあう気にはなれません。とにかく、私は所有物によって重荷を負わされているのです。


マハラジ  これは自由意志による分かちあいと同じではない。社会は強制では変わらない。ハートの変革が必要なのだ。あなたのものは何ひとつなく、すべてはすべてに属しているということを理解しなさい。そのときにだけ、社会は変わるだろう。


質問者 ひとりの人間の理解によって、世界を大きく変えることはできないでしょう。


マハラジ  あなたが住む世界は深く影響を受けるだろう。それは健康で幸福な世界となるだろう。それは光を放ち、通じあい、拡大し、広がっていくだろう。真実のハートの力は計り知れないものなのだ。


質問者 どうか、もっと私たちに話してください。


マハラジ  話すことが私の専門ではない。ときに私は話し、ときには話さない。私が話すか話さないかは与えられた状況の一部分であって、私に依ることではないのだ。話さなければならない状況では、私は私自身が話していることを聞き、別の状況では、私は私自身が話していないことを聞くのだ。それは私にとってみな同じことだ。話をしようとしまいと、存在の光と愛である私は影響を受けず、それらは私の制御の内にあるのだ。それらはある。そしてそれらがあることを私は知っているのだ。そこには喜ばしい気づきがある。だが、誰も喜んでいる人はそこにいない。もちろん、アイデンティティの感覚はある。しかし、それは一連の記憶のアイデンティティ、不変のスクリーン上の画像の連鎖とのアイデンティティのようなものなのだ。光とスクリーンなしに画像はありえない。画像がスクリーン上の光の戯れであると知ることは、画像が実在だという観念からの解放を与えてくれる。理解しなければならないことは、あなたは自己を愛し、自己はあなたを愛しているということだけだ。そして「私は在る」という感覚は、あなたと自己との間の連結部であり、外見の多様性に妨げられないアイデンティティの象徴なのだ。「私は在る」を内面と外面の間、実在と現れとの間の愛の象徴として見なさい。夢のなかでは、「私」という感覚を除いてはすべてが異なっている。その「私」が「私は夢を見た」と言うことを可能にするように、「私は在る」という感覚が、「私は真我だ」と言うことを可能にするのだ。私は何もしないし、私に対して何もされることはない。私は私であり、何も私に影響を与えることはできない。私はすべてに依存しているように見えるが、事実は、すべてが私に依存しているのだ。


質問者 どうしてあなたが何もしないと言えるのでしょうか?あなたは私に話しているではありませんか?


マハラジ  私には私が話しているという感覚がない。話をすることが起こっている。ただそれだけだ。


質問者 私は話しています。


マハラジ  そうかね?あなたはあなたが話しているのを聞く。そして言うのだ。「私は話す」と。


質問者 誰もが「私は働く、私は来る、私は行く」と言います。


マハラジ  私はあなたの言語習慣に異議はない。だが、それは実際を歪ませ、破壊してしまうのだ。より正確な言い方は、「そこには話すことが、働くことが、来ることが、行くことが起こっている」となるだろう。なぜなら、何かが起こるには宇宙全体が符合しなければならないからだ。ひとつの出来事の原因が何か特定のものと信じるのは間違いだ。すべての原因は普遍的なものなのだ。宇宙全体がその創造と存続に貢献しないかぎり、あなたの身体は存在しなかっただろう。ものごとは起こるがままに起こる、なぜなら、世界はあるがままだということに、私は完全に気づいているからだ。出来事の流れに影響を与えるには、世界のなかに新しい要因をもたらさなければならない。そしてそのような要因は、私のなかで焦点を合わされた愛と理解の力である私自身でしかありえないのだ。身体が誕生するとき、あらゆることが自由に起こる。そしてあなたは自分を身体だと見なして、それらに関わっていく。あなたは映画館でずっと席に座っていて、画像が光の戯れにすぎないのをよく知っているにもかかわらず、画面を見て笑ったり泣いたりしている人のようなものだ。その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行させるだけで充分なのだ。身体が死ぬとき、あなたが現在生きている身体的、精神的出来事の連鎖である人生は終わりを迎える。それは身体の死を待たずとも、今でさえ終わらせることができる。注意を真我に移行し、そこにとどめておくだけで充分なのだ。あたかもそこに、すべてを創造し、動かす神秘の力があるように。すべては起こるのだ。あなたは動かす人ではなく、ただの観察者なのだということを自覚しなさい。そうすれば、あなたは平和の内にあることだろう。


質問者 その力とは私から離れてあるものでしょうか?


マハラジ  もちろん、そうではない。だが、あなたは冷静な観察者としてあることからはじめなければならない。そのときにのみ、あなたは普遍的な愛する者と行為する者としてのあなたの完全な存在を認識するだろう。あなたが特定の人物としての困難のなかに巻き込まれているかぎりは、何もその彼方にあるものを見ることはできない。だが究極的には、あなたは特定でも普遍的でもなく、その両方を超えたものだと知ることだろう。鉛筆の先のごく小さな点が無数の絵を描きだすように、気づきの無次元の点は広大な宇宙の内容を描くことができるのだ。その点を探し出し、自由になりなさい。


質問者 私は何から世界をつくり出したのでしょうか?


マハラジ  あなた自身の記憶からだ。あなたが創造者としての自分に無知なかぎり、あなたの世界は限定され、反復的なものになる。ひとたびあなたが過去との自己同一化を超えていけば、調和と美の新しい世界を自由につくり出すことができる。あるいは、あなたはただ存在と非存在の彼方にとどまるのだ。


質問者 もし私が記憶を手放したなら、何が残るのでしょうか?


マハラジ  何も残らないだろう。


質問者 私はそれを恐れるのです。


マハラジ  自由とその祝福を体験するまであなたは恐れることだろう。もちろん、身体を識別し導くためにはいくらかの記憶が必要だ。そしてそのような記憶は残る。だが、身体への執着が残ることはない。それはもはや欲望と恐れの拠り所ではなくなるのだ。これらすべてを理解し、修練することは何も難しいことではない。しかし、あなたは興味をもたなければならない。興味なしには何もなされないからだ。あなたとは執着によって束ねられた一束の記憶なのだということを理解した上で、そこから踏みだし、外側から見てみなさい。はじめてあなたは記憶ではない何かを知覚するだろう。自分個人の関心事に忙しい某氏として在ることをやめて、ついにあなたは平和になるのだ。世界には何も間違ったところがないということを、あなたは認識するだろう――間違っていたのはあなただけだ。そして、それは今終わったのだ。けっしてふたたび、あなたは無知から生まれた欲望の網の目に捕まることはないだろう。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody