目覚めた実在と利己性の違い


目覚めた実在(プレゼンス)と利己性(エゴ)の違いを認識することは重要です。実在の状態のシンプルな判断基準があります。あなたが完全にこの瞬間に存在するならば、あなたの心(マインド)は沈黙しています。そこに思考はありません。それが判断基準で、そこに議論の余地はありません。それ以外のすべては利己性となります。


利己性は「非難のエネルギー」「憤慨のエネルギー」「罪悪感のエネルギー」「後悔のエネルギー」「自責のエネルギー」を駆使して、あなたを過去に縛ります。あなたがそれらのエネルギーのいずれか一つとでも一体となるか、それらのエネルギーが持っているストーリーを信じると、あなたは痛みを伴う過去の中に閉じ込められている自分自身を見つけるでしょう。それがあなたの人生で利己性の支配する力を維持するために、利己性の望むことなのです。


利己性は抵抗と批判を栄養にして成長します。拒絶と対立を栄養にして成長します。利己性をくつろぎと降伏という境遇に引き寄せることができるのは、唯一、愛と受容のエネルギーだけです。あなたができることはただ、利己性の「ちょっとした計略」「巧みに操る」「誘惑と混乱の戦略」もすべて含めて、利己性を無条件に愛して受け容れることだけです。


利己性が実在に抵抗して、あなたを心の世界に誘惑しようとするあらゆる点を、愛、受容、思いやりを持って意識まで浮上させます。これはあなたがこの瞬間に存在するときだけに可能なのです。


利己性は決してこの瞬間に存在することはできません。利己性は決して人生の真実に目覚めることはできません。利己性の世界は心の世界です。利己性は過去に基礎を置き、未来に突き出しています。利己性の生存そのものがまさに思考に依存しています。


この瞬間にいると、思考と利己性は存在できないことを認識していることが重要です。



マハラジ  探求者とは彼自身を探している人だ。じきに彼は、身体が彼ではありえないと発見する。ひとたび「私は身体ではない」という確信がしっかりと確立されれば、もはや彼は身体に代わって感じ、考え、行動することはできなくなる。彼は普遍的な存在、知識、行為なのだということを容易に発見するだろう。彼のなかで、彼を通して宇宙全体が真実で、意識的で、活動的になるのだ。これが問題の核心だ。あなたは身体意識として環境の奴隷となるか、あるいはあなたは普遍的意識そのものであり、あらゆる出来事を完全に制御するかだ。しかし、それでも意識、個人、普遍なるものは私の真の居場所ではないのだ。私はその中にはなく、それは私のものではない。その中に「私」はない。どのようにして人が意識でもなく、無意識でもなく、ただ彼方に在ることができるのかを説明することは容易でないが、私は彼方にあるのだ。私は神の中にいる、あるいは私は神だ、とは言えない。神は普遍的な光と愛、普遍的な観照者だ。私は普遍的なものさえ超えているのだ。


質問者 それでは、あなたには名前も形もないということです。いったい、あなたはいかなる類の存在なのでしょうか?


マハラジ  私は私であるものだ。形がなく、形がないということでもない。意識ではなく、無意識でもない。私はこれらすべての範疇の外に在るのだ。


質問者 あなたは「ネティ・ネティ」、これではない、これではないというアプローチについて語っているのでしょうか?


マハラジ  単なる否定によって私を見いだすことはできない。私はすべてであり、無なのだ。その両方であり、その両方でない。そういった定義は宇宙の支配者には当てはまるだろうが、私には当てはまらないのだ。


質問者 あなたはただの無だということを伝えたいのでしょうか?


マハラジ  そうではない。私は完全であり完璧なのだ。私は存在の中の存在性、知ることの中の知、幸福の充足だ。私を虚空に引き下げることはできない。


質問者 もしあなたが言葉を超えているならば、私たちは何について話すというのでしょう?形而上学的には、あなたの言われることは筋が通っていて、内面的な矛盾はありません。しかし、あなたの言われることは、私の糧になっていないのです。それは完全に私の緊急の必要性を超えています。私がパンを求めているときに、あなたは宝石を与えているのです。それらが美しいことは、疑うまでもありません。しかし、私は空腹なのです。


マハラジ  そうではないのだ。私はあなたがまさに必要としているものを差しだしている――気づきだ。あなたは空腹ではなく、パンも必要ない。あなたに必要なのは停止、放棄、開放だ。あなたが必要だと信じているものは、あなたに必要なものではないのだ。あなたが本当に必要としているものを知っているのは私だ。あなたではない。あなたは私がいる状態に戻らなければならない――あなたの自然な状態に。ほかの何であれ、あなたの考えるものは幻想であり、障害だ。私を信じてほしい。あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているようなものだ。あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄することで充分だ。それ以外のすべては無駄なのだ。


質問者 言うは易く行うは難し、です。苦痛を抱えた人があなたのもとへやってきたとします。そして、あなたは彼に胃の中のものを吐き出すように勧めるのです。もちろん、マインドがなければ何の問題もありません。しかし、もっとも明白に、マインドはそこにあるのです。


マハラジ  マインドがそこにある、とあなたに言うのはマインドなのだ。騙されてはいけない。マインドについての果てしない議論はみな、マインドそのものによってそれ自身を保護し、継続し、拡張するために生みだされたのだ。それを超えた彼方へとあなたを連れていくことができるのは、マインドの回旋や動乱を完全に拒絶することだ。


マハラジ  いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。自己実現は獲得されるものではない。それはもっと理解の本質に近いものだ。ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。意識とその内容をとどめようとしてはならない。意識をとどめれば、それは止まる。洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持しようとするものにとって破壊的になる。来るものは去らなければならない。永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。無限の実在は存在と非存在の彼方にある。何度も繰り返し試みることだ。


質問者 試みるには信頼が必要です。


マハラジ  まず、熱望がなければならない。欲望が強力なとき、試みようとする意志が現れるだろう。欲望が強いとき、あなたは成功への確信も必要ない。あなたには賭をする用意があるのだ。


質問者 強い欲望、強い信頼――最後にはどちらも同じことです。これらの人々は彼らの両親も、社会も、自分自身さえ信頼しません。触れるものすべてがくずれてしまうのです。彼らに絶対的に真正で、疑う余地のない、マインドによる議論を超えたひとつの体験を与えてください。そうすれば彼らは世界の果てまであなたにしたがうでしょう。


マハラジ  だが、私はほかでもない、それをしているのだ!休むことなく、私はひとつの論争の余地のない要因へと彼らを引き寄せている。存在に証明は必要ない。それはそれ以外のすべてを証明するのだ。もし彼らが存在の事実の中に深く入っていき、「私は在る」が扉となる広大さと栄光を見いだし、その扉を通り抜けて、さらに彼方へと進んで行くなら、彼らの人生は幸福と光に満ちたものとなるだろう。私を信じてほしい。到達したとき、発見されるものに比べれば、必要とされる努力など無に等しいのだ。


質問者 あなたの言われるとおりです。しかし、これらの人々は自信も忍耐ももってはいないのです。短期間の努力でさえ彼らを疲れさせてしまいます。彼らが盲目のうちに手探りをし、しかも救いの手をつかむことさえできずにいるのを見るのは心痛むことです。彼らは根本的に本当にすてきな人たちなのですが、完全に道に迷っています。私は彼らに言うのです。「真理をあなたの要求額で手に入れることはできない。条件を受け入れなければならないのだ」と。それに対する彼らの答えはこうです。「何人かは条件を受け入れ、何人かは受け入れないでしょう。受容や非受容は表面的で偶然のものです。実在はすべての中にあるのです。すべての人が無条件で歩いていける道がかならずあるはずです」と。


マハラジ  あらゆるレベルで、人生のあらゆる領域において、すべてに対して開かれたそのような道はあるのだ。誰もが自分自身に気づいている。自己覚醒を深め、広めていくことは王道なのだ。それを留意、観照、あるいはただ注意と呼んでもいい。それはすべての人たちのためにある。誰もそれにとって未熟ではない。そして誰にも失敗はありえない。しかし、もちろんただ注意するだけではない。あなたの留意はマインドをも含まなければならないのだ。観照とは、根本的に意識とその動きへの気づきなのだ。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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