悪意に満ちた自分の考えや願望から目をそむけることをやめて、それが表面化するにまかせる必要があります。それらの本当の姿を見すえると、そのような想念は、あなたもやはりほかの人間と同じなのだということに気づかせてくれます。すべての人間はそうした可能性を秘めているのです。人を傷つける可能性を心のなかにひそませているのです。まったく人間らしいと感じるというのは、そういうことです。そうした想念が、自分のなかにもあるのだということを知ることは、あなたを強くするものであって、無力にするものではありません。自分が人間のもろさを持っていることを認めることは、そうした想念や可能性を自分のなかにそっと抱きながらも、奇跡を実行するという機会を与えてくれるのです。


奇跡とは、それらの想念が存在することを素直に認めたうえで、そうした想念や感情を実際の行動に移さないだけの力を与えてくれる精神力を感じさせてほしい、と祈ることなのです。内面の力を呼び出して、それらの想念の力を弱らせ、そうしたイメージをやわらげるように頼むのです。そして、自分にもっと力を与えてほしいと祈るのです。さらにそれらの感情以外のもので、自分の内部にあるものを感じさせてほしいと祈ってください。悪意に満ちた感情は確かに存在します。けれども、そのほかに何があるのでしょうか。静かにすわって、自分の”神なる自己”の資質を感じさせてほしいと祈ってください。心の平安や光、内なる神を感じさせてほしいと頼んでください。



生命からの分離と、「不完全」と呼ばれる理解は、何かがほかのものよりも偉大であるとみなしたときにのみ生じるものである。だが、生命という現実の中では、何かがほかのものより偉大であったり劣っていたりすることはない。すべてのものはただ在るだけであって、「在ること」という平等性の中にあるのだ。それゆえ、すべてのものは「完全な状態」、もっと適切な言い方をすれば、「在るという状態」、「ただ存在するという状態」にある。何かをその本当の姿である「在ること」という完全性よりも劣っているとみなすのは、態度という集合的な思考だけなのだ。


さて、最大の分離は、あなた方が人間という化身に入ったときに起こった。その時点までは、あなた方は自分をすべてのものから分離させ始めてはいたが、それでもまだ自分が神であること、そして自分の存在が不死であることを知っていたのである。だが、あなた方が自分を化身のレベルまで下げ、細胞物質という現実を体験し始めたとき、空腹や寒さや生存といった肉体的機能にとらわれてしまったのだ。つまりそれは、自分がなった化身を維持するための苦労のことである。こうして、あなたは細胞物質と結びついたわけだが、細胞物質は、それが創造されたときに、それ自体が生存していけるようにプログラムされていた。偉大なる不死の存在と、自らの構造を生き延びさせようとする物質的機構との結婚は、「ただ在る」というあなたの自我の状態を大きく変質させた。これが「知識の木」、すなわち「変質した自我」の誕生である。そして、あなたの変質した自我をさらに強め、自分は神であり、不死であり、すべての生命とひとつであることを「知っている状態」をさらに変質させたのは、この天界での恐れや競争や嫉妬といったさまざまな感情の体験であったが、それらの感情は魂に記録され、細胞構造の中にプログラムされていったのである。


神々が最終的に自分たちを男と女という形に変え、自分たちがほかの創造物よりも賢くなり、ほかの創造物から逃げられるようになることにすべての意識を集中したとき、神々は変質した生の状態に入ってしまった。皮肉だったのは、自分たちを餌食にする動物からは逃げられたとしても、自分たちの意識を支配し始めていた生存に関わるさまざまな態度からは逃げられなかったことだ。生存に関わる態度と死に対する恐怖が、結局は神々の体を衰えさせてしまったのである。というのも、ある存在がどんなものを恐れていようと、その存在は恐れているものそのものになっていくからだ。


残念なことに、「すべての生命と一体である」という理解は、創造物をデザインしていく過程で、「より偉大である」、「すぐれている」といった思考と競争を通してすでに失われ始めていた。


マスターよ、このことを言っておきたい。すべてのものと一体である状態は、本当にわずか一瞬、わずか一息しか離れていないのだ。自分の存在の奥深くで、もはやいかなるものとも自分を切り離したくないと望むとき、あなたはもはや切り離された存在ではなくなる。すべての思考から自分を切り離してきたのは、あなたの態度、制限された考え方、変質したアイデンティティーにほかならない。


マスターよ、自分であるものを愛しなさい。それを愛するのだ。自分が永遠の存在であり、自分は神なのだと知りなさい。ただそれを知るのだ。それを感じ、その思考を抱き容れなさい。多くの時代を通してあなたを守ってきた本能という遺産が、自分は死すべき人間ではなく、まさに不死の存在であり、自分は限られた人間ではなく、まさに限りない神なのだという「知っている状態」に出会ったとき、あなたの魂はこの限りない思考をあなたの化身の全細胞に伝え、それによって細胞は歓喜することだろう。そうなれば、あなたの体は、その中に宿る偉大なる神の無限の思考に喜んでしたがうようになる。そして、これまであなたの体は、本能的な生存のために不安や用心深さを保持してきたのだから、今や体がその細胞の中に無限の神を宿し、体中の物質が「神なる自分」のすべてと整合した状態へと統一されるときがきているのだ。



質問者 私は人生のはじめのころから、不完全さという感覚につきまとわれてきました。高校から大学、就職、結婚、そして裕福になっていき、つぎに起こることこそ私に平和を与えてくれるはずだと想像するのですが、平和はやってはこなかったのです。


マハラジ そこに身体と、身体との同一化の感覚があるかぎり、欲求不満は避けられないものだ。あなたが身体とは完全に異なり、相容れないものだと知ったときにだけ、「私は身体だ」という観念に不可避の恐れと欲望の入り交じった状態から休息を見いだすのだ。単に恐れをなだめたり欲望を満たしたりすることでは、あなたが逃避したがっている空虚な感覚を取り除くことはできない。ただ自己知識だけがあなたを助けることができるのだ。自己知識と言うことで、私はあなたが何ではないのかということの完全な知識を意味している。そのような知識は到達可能であり、最終的なものだ。だが、あなたが何であるのかを発見していくことに終焉はありえない。発見していけばいくほど、より多く発見することが残るのだ。


質問者 そのためには、私たちは異なった親と学校をもち、違う社会に生きなければなりません。


マハラジ あなたに環境を変えることはできない。だが、あなたの態度を変えることはできる。非本質的なことに執着する必要はないのだ。ただ本質的なことだけが正しい。本質的なことのなかにのみ平和は在るのだ。


質問者 私の求めているものは真理であり、平和ではありません。


マハラジ あなたが平和でないかぎり、真実を見いだすことはできない。静かなマインドは正しい知覚にとって欠かせないものだ。それはまた、真我の実現にとっても要求されるのだ。


質問者 私にはあまりにも多くのなすべきことがあり、マインドを静かに保つだけの余裕がありません。


マハラジ それはあなたが行為者だという幻想によるのだ。実際には、ものごとはあなたに対してなされるのであって、あなたによってなされるのではない。


質問者 もし私がただものごとをあるがままに起こらせたなら、どうしてそれが私の思うように起こると確信できるでしょうか?もちろん、私はそれを私の欲望に沿うように変えていくべきです。


マハラジ あなたの欲望はそれを満たすこと、あるいは満たされないこととともに、あなたに起こるのだ。どちらにせよ、あなたに変えることはできない。あなたは努力し、闘い、力を尽くしていると信じるかもしれない。それもまた、その仕事の結果とともに、すべては単に起こるだけなのだ。何ひとつあなたによるものではなく、あなたのためのものでもない。すべては映画のスクリーン上の画像の中に顕わにされる。光のなかには何もない、あなたがあなただと思っている個人も含めて。あなたはただの光なのだ。


質問者 もし私がただの光なら、どうしてそれを忘れてしまったのでしょうか?


マハラジ 忘れてはいない。あなたが忘れ、そして思い出すのはスクリーン上の画像のなかだけだ。あなたがトラになった夢を見たからといって、人であることをやめたわけではない。同じように、あなたはスクリーン上の画像として現れた純粋な光であり、またそれとひとつになったものでもあるのだ。


質問者 すべてが起こるだけなら、どうして心配しなければならないのでしょうか?


マハラジ まさしくそのとおりだ。自由とは心配からの自由なのだ。あなたが結果に影響を与えることはできないと自覚したからには、欲望と恐れに注意を払うことはやめなさい。それらを来ては去っていかせなさい。それらに興味や注意といった栄養を与えて助長してはならない。


質問者 もし私が起こっていることから注意を背けたなら、何によって私は生活していけばいいのでしょうか?


マハラジ またしてもそれは「もし私が夢を見るのをやめたら、どうすればいいのでしょう?」と尋ねるようなものだ。止まりなさい。そして見るのだ。「次は何か?」と心配する必要はないのだ。つねに次はやってくる。生命ははじまりも終わりもしない。不動でありながら、それは動き、一時的でありながら、それは継続していくのだ。数えきれないほどの画像が投影されたとしても、光が使い尽くされることはない。生命もまたあらゆる形態をいっぱいに満たし、その形態が崩壊したとき、その源に戻っていくのだ。


質問者 もし人生がそれほど素晴らしいものなら、どうして無知が現れたのでしょうか?


マハラジ あなたは患者を看ずに病気を扱いたいのかね!無知について尋ねる前に、まず誰が無知なのかを調べなさい。あなたが無知だと言うとき、感情と思考の現状に無知という観念を押しつけたことをあなたは知らないのだ。それが起こるときを調べてみなさい。完全な注意を払いなさい。すると、あなたは無知といったものはまったく存在せず、ただ不注意があっただけだということを知るだろう。あなたが心配することに注意を払いなさい。ただそれだけだ。結局のところ、心配とは精神的な苦痛であり、苦痛とはつねに注意を呼び起こしていることなのだ。あなたが注意を払う瞬間、苦痛はやむ。そして無知という問題は消え去る。質問の答えを待つ代わりに、誰が尋ねているのか、何がそれを尋ねさせるのかを見いだしなさい。あなたはすぐに、それが恐れと苦痛に駆りたてられたマインドが尋ねるのだと知るだろう。そして恐れのなかには記憶と期待、過去と未来がある。注意はあなたを現在に連れ戻す。今、そして今のなかにある存在はつねに手に入る状態だ。だが、気づかれることはまれなのだ。


質問者 あなたはサーダナ(修練)を単純な注意に引き下げています。どうしてほかの教師たちは完全で、困難な、時間のかかる過程を教えるのでしょうか?


マハラジ 普通、グルたちは彼ら自身が目的に達したサーダナを教えるのだ。その目的が何であれ。彼ら自身のサーダナこそ彼らが深く知るものであるため、それは自然なことなのだ。私は、「私は在る」という感覚に注意を払うことを教えられ、それが最高の効果をもっていることを見いだしたのだ。それゆえ、私はそれについて絶対の確信をもって語ることができる。しかし、しばしば人びとは彼らの身体、脳、精神をひどく手荒に扱い、誤用し、虚弱となった状態でやってくるため、形式のない注意の状態は彼らの手の届かないものなのだ。そのような場合は、何かシンプルな、誠実さの見本を示したほうがふさわしいのだ。マントラの復唱や写真を凝視することが彼らの身体とマインドをより深く、より直接的探求へと備えさせるだろう。結局、誠実さが欠くことのできない決定要因なのだ。サーダナはただの器であって、それは誠実さによって、あふれんばかりに満たされなければならない。それは行為のなかの愛なのだ。なぜなら、愛なしでは何もなされないからだ。


質問者 私たちは、ただ私たち自身だけを愛するのです。


マハラジ もしそうなら素晴らしいことだ!あなた自身を賢明に愛しなさい。そうすればあなたは完全性の頂点に達するだろう。誰もが自分の身体を愛する。だが、真の存在を愛する者はまれなのだ。


質問者 私の真の存在が私の愛を必要とするのでしょうか?


マハラジ あなたの真の存在は愛そのものだ。そしてあなたの多くの愛はその瞬間と状況にしたがって反映されたものなのだ。


質問者 私たちは利己的で、自己愛しか知らないのです。


マハラジ はじめるにはそれで充分だ。ぜひ、あなた自身にとって良かれと願いなさい。あなたにとって何が本当に良いことなのか、深く感じ取りなさい。そして誠実にそのために努力しなさい。すぐにあなたは実在のみがあなたにとって最善のものであることを見いだすだろう。


質問者 それでも、私にはどうしてあらゆる教師たちが複雑で困難なサーダナをするように主張するのか理解できません。彼らはよい良い方法を知らないのでしょうか?


マハラジ あなたが何をするかではなく、何をすることをやめたかが重要なのだ。サーダナをはじめた人びとは非常に熱中し、落ちつきがない。道からはずれまいと、とても忙しくしつづけなければならない。没頭できる、型にはまった過程のほうが彼らにはいいのだ。しばらくすれば彼らも落ち着き、静かになり、努力に背を向けるだろう。沈黙と平和のなかで、「私」という皮は溶け去り、内面と外面はひとつとなるのだ。真のサーダナとは努力の要らないものだ。


質問者 私はときどき、空間自体が私の身体だと感じることがあります。


マハラジ 「私は身体だ」という幻想に拘束されているとき、あなたは単なる空間のなかの一点、時間のなかの一瞬間でしかない。身体との自己同一化がもはやないとき、すべての時間と空間は自然のなかに反映された気づきとして、また意識のなかの単なるさざ波として、あなたのマインドのなかにあるだけだ。気づきと物質は、純粋な存在のなかの活動的側面と受動的側面だ。それはその両方であり、そのどちらをも超えている。時間と空間は、普遍的存在の身体とマインドだ。私の感覚では、時間と空間のなかで起こるすべては私に起こり、すべての体験は私の体験であり、すべての形態は私の形態なのだ。私が私自身だと見なすものが私の身体となり、その身体に起こるすべてのことが私のマインドとなるのだ。しかし宇宙の根底には、空間と時間を超えた今ここにある純粋な気づきがある。それをあなたの真の存在だと知りなさい。そして、それにしたがって行動しなさい。


質問者 私が何であると見なすかが、行動においてどのような違いをもたらすというのでしょう?


マハラジ 環境や条件は無知を支配する。実在を知る者は強要されない。彼がしたがう唯一の法則は愛だけなのだ。
03 2024/04 05
S M T W T F S
20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody