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もっとも深い意味では、意識のもつ潜在的創造性がグリッドを決めます。または、別の言い方をすると、すべて神から生まれます。けれどもこの創造力の中にはあなた自身の<個人的な>グリッドも含まれています。あなたのグリッドはあなた自身の可能性や必要性にしたがって創られ、非個人的な神の性質と個人的なあなたの過去やカルマや欲望の両方をあわせもっています。あなたは、いま自分だと思っている人間として姿を現している目覚めた意識です。<あなた>は、完全に目覚めた人間とはどういうものかという可能性のすべてを体験するために肉体をまといます。そこで、まだ体験していないことで体験する必要のあることをグリッドに設定します。自分がすでに体験して理解したことはグリッドに入れません。
たとえば過去生で僧侶だった人がいて、僧侶としての人生が不完全だったとします。僧侶であることを完全に理解する必要があるので、この理解されていない部分が別の人生に戻ってくるわけです。


自分が嫌っている相手や感情を本当に知ると、嫌悪感はなくなります。自分を怖がらせるものや自分にはとても対処できないと思う状況に人は嫌悪感を抱くのです。恐怖を感じる状況をみずから体験しないですむためには、その状況にまつわる心理を感じ取り、理解しようとする意志をもてばいいのです。また、自分とその状況とは何の関係もないのだ、そうした嫌悪したくなる状況を現在演じている人間と自分とのあいだにははっきりとした区別があるのだ、という非現実的な思いこみをなくせばいいのです。その人たちが演じてくれていることに感謝しましょう。おかげで、あなたは彼らという鏡の中に自分自身を見る機会をあたえられ、みずからそれを直接体験せずにすんでいるわけです。
どういう形であれ、あなたがほかの人に同情したり、共感したりするとき、あなたはもはやその相手から分離されてはいません。


前にも言いましたが、自分が嫌だと思うものが人であれ、状況であれ、何であれ、あなたがそれを見たり考えたり想像したりできるということは、それがあなたの中にもあるということです。あなたの中になければ、あなたはそれを見たり、それについて考えたり想像したりできないからです。何かに嫌悪感を感じたら、それが自分のグリッドの中にあって、自分はそれから逃げ出さないで体験する必要があるのだと気づくと、嫌悪感は自然になくなります。


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在るものすべてについて、どうすればもっとよく理解することができるのだろうか?自分がそれを理解していると知ることによってだ。あなたがどう考え、どう語るかが、自分が知ることができる量を決めるのだ。「もっと知りたいと思う」と言ってはならない。それではけっして知ることがないからだ。そして、「もっと知ろうとする」もだめだ。しようとすることで達成されたものは、ひとつもないからだ。「もっと知ることを探求する」でもだめだ。探し求めていても、けっして見つからないからだ。こう言いなさい。「私の存在の主と神から、私は今、この瞬間に知るべきことすべてを知っている。ソービーイット!」と。そして、答えを待つのだ。その時点で、自分が何を知りたいのかに気づいているいないにかかわらず、「私は知っている」という言葉は、その気づきが起こる扉を開いてくれるのだ。あなたが言うべきことは、それだけだ。そうすれば、知識がやって来るのである。


あなたが自分の創造性と人生を制限してしまう方法は、「わからない」と言うこと、あるいは自分にやって来る「知っている状態」を疑うことである。最悪の忌まわしい言葉が「わからない」という言葉だ。憶えておいてほしい。あなたは法を与える者であり、あなたが考え、語ることそのものが法なのだ。あなたが「わからない」と言えば、あなたが知ることはけっしてない。「できない」と言えば、あなたには絶対にできない。「私は『父』の愛に値しない」と言えば、あなたがそれを受け取ることはけっしてない。あなたがそのように語るということは、あなたがそのように思っているということだ。そして、そう思っているならば、その思考のフィーリングはあなたの魂に記録され、魂はその思考プロセスにぴったりと合ったものを現実化するのである。


あなたはコンピューターのようなものだ。あなたは毎日、自分の知識の中に「疑い」を入力している。自分の知識の中に「不足」を入力しているのである。そして、あなたはまさに、自分の知識の中に「わからない」という言葉を入力しているのだ。あなたは自分自身の王国を自ら奪い取っているのである。なぜなら、疑いと制限しか知らないあなたは、自分が思うこと、そして話すことによって、自分自身から生命力を奪い取っているからだ。


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質問者 普通の人が死ぬとき、彼には何が起こるのでしょうか?


マハラジ  彼が信じるところにしたがって、それは起こる。死以前の生が単なる想像にすぎなかったように、死後もまたそうなのだ。夢は続いていく。


質問者 では、ジニャーニ(賢者)においてはどうなのでしょうか?


マハラジ  ジニャーニは死なない。なぜなら、彼はけっして生まれてこなかったからだ。


質問者 他者にとっては、彼はそのように見えません。


マハラジ  しかし、彼自身にとってではない。彼自身のなかでは、物理的にも精神的にも自由なのだ。


質問者 それでも、あなたは死んだ人の状態を知っているはずです。少なくとも、あなた自身の過去生から。


マハラジ  私のグルに出会うまでは、私は非常に多くのことを知っていた。今、私は何ひとつ知らない。なぜなら、すべての知識は夢のなかだけにあり、根拠の確かなものではないからだ。私は自己を知っている。そして、私のなかには死も生もなく、ただ純粋な存在──これでもあれでもなく、ただ在ることだけがある。しかし、マインドが貯蔵庫から記憶を引き出し、想像しはじめると、それは空間を対象物で、時間を出来事で埋めつくしてしまう。現在の誕生でさえ知らない私が、どうして過去生を知っているというのだろう?それ自身が動きのなかにあるマインドは、すべてを動いていると見てしまう。そうして時間をつくり出しておいてから、過去や未来について心配するのだ。全宇宙は意識(マハー・タットヴァ)の揺りかごに揺られている。それは完全な秩序と調和のあるところに立ち現れる。すべての波が海のなかにあるように、すべての物質的、精神的なものは気づきのなかにあるのだ。それゆえ、気づき自体が重要なのであって、その内容ではない。あなた自身の気づきをより深め、広めていきなさい。そうすれば、すべての祝福はあふれ出すだろう。あなたは何も求めなくてもいいのだ。すべてはあなたのもとに、自然に努力することなくやってくるだろう。五つの感覚と四つのマインドの機能である記憶、思考、理解、自我。五大元素である地、水、火、空、エーテル。創造の二つの相である物質と魂──すべては気づきのなかに包括されているのだ。


質問者 しかし、それでもあなたは以前に生きていたことを信じているに違いありません。


マハラジ  聖典はそう述べている。しかし、私はそのことについて何も知らない。私は私が在ることを知っている。私がこのように現れたことや、現れるだろうことは私の体験のなかにはない。私が覚えていないというのではないのだ。事実、覚えておくことなど何もない。転生とは自分の生まれ変わりを意味する。そのようなものはないのだ。「私」と呼ばれるひと塊の記憶と期待が、それ自体を永遠に存在すると想像し、その偽りの永遠性につじつまを合わせるために時間をつくり出すのだ。在るためには、過去も未来も必要ない。すべての体験は想像から生まれてくる。私は想像しない。だから、誕生も死も私には起こらないのだ。生まれたと考える人だけが、生まれ変わると考える。あなたは生まれたということで私を告発しているが、私は無罪を主張する!
すべては気づきのなかに存在している。そして、気づきは死にもしなければ、生まれ変わりもしない。それは不変の実在そのものなのだ。
すべての体験の宇宙は、身体と共に生まれ、身体と共に死ぬ。そのはじまりと終わりは気づきのなかにある。しかし、気づき自体は始まりも終わりも知らない。もしそれについて時間をかけて慎重に熟考すれば、あなたは気づきの輝きをはっきりと見るだろう。そして、世界はあなたの視野から消え去るだろう。それは、燃えている線香を見つめるようなものだ。最初は、線香と煙を見ている。あなたが火の付いた点に注目するとき、それが線香の山を焼き尽くす力をもち、宇宙を煙で覆い尽くすことを認識するだろう。自己はその永遠の可能性を使い尽くすことなく、永遠にそれ自身を具象化していく。線香の直喩では、線香が身体を表し、煙がマインドを表している。マインドが曲解に忙しいかぎり、それはそれ自身の源を知覚することができない。グルはやってきて、あなたの注意を内なる生命の輝きへと向けさせる。マインドはその本性からして外側に向かっているものだ。それはつねに、ものごとの源をものごと自体のなかに見いだそうとする傾向がある。源を内面に見いだすようにと言われること自体、ある意味では新たな人生のはじまりなのだ。気づきは意識のなかに立ち現れる。意識のなかには、意識している「私」が存在している。一方、気づきは分割されることがない。気づきはそれ自身に気づいているのだ。「私は在る」はひとつの想いだ。一方、気づきはひとつの想いではない。気づきのなかに「私は気づいている」という想いはない。意識は属性だ。一方、気づきはそうではない。人は意識していることに気づくことができる。だが、気づきを意識することはできないのだ。神は意識の全体性だ。だが、気づきは存在も非存在をも、すべて超えている。


質問者 私は人の死後の状態についての質問から話をはじめたのです。彼の身体が滅んだとき、意識には何が起こるのでしょうか?彼は見たり、聞いたりといった感覚を彼とともに連れていくのでしょうか?それともそれらは後に残されるのでしょうか?そして、彼が感覚を失うのならば、何が彼の意識となるのでしょうか?


マハラジ  感覚とは単なる知覚の様式にすぎない。粗雑な様式が消えるとともに、繊細な意識の状態が出現する。


質問者 死後において気づきへの移行といったものはないのでしょうか?


マハラジ  意識から気づきへの変化はありえないのだ。なぜなら、気づきとは意識の一形態ではないからだ。意識をより繊細に、より洗練させることはできる。そしてそれが死後に起こることなのだ。人の多様な媒介物が死に絶えると、それらによって生じた意識の様式もまた姿を消す。


質問者 最後に無意識だけが残るまででしょうか?


マハラジ  無意識を去来する何かのように語るあなた自身を見てみなさい!無意識を意識する誰がそこにいるというのだろうか?窓が開いているかぎり、日の光は部屋のなかにある。窓が閉じられても、太陽はそのままだ。だが、それは部屋のなかの暗闇を見るだろうか?無意識などというものはないのだ。なぜなら無意識は体験不可能だからだ。私たちは記憶を喪失したとき、あるいは伝達が不可能なとき、それを無意識であると推定する。もし私が反応しなくなったら、あなたは私のことを無意識だと言うだろう。現実には、記憶や伝達が不可能なだけで、私は鋭敏に意識しているかもしれないのだ。


質問者 私は単純な質問をしているのです。現在、世界には40億人ほどの人々がいます。そして、彼らはみな死を免れることができません。彼らの死後の状態はどのようなものなのでしょうか──身体的にではなく、心理的に。彼らの意識は継続していくのでしょうか?そして、もしそうならどのような形態をとるのでしょうか?どうか、私が正しい質問をしていないとは言わないでください。あるいはあなたが答えを知らないとか、私の質問は無意味だなどと言わないでください。あなたが、私の世界とあなたの世界が異なり、相容れないものだと話はじめた途端、あなたは私たちの間に壁をつくってしまうのです。私たちが同じ世界に住んでいるか、そうでなければ、あなたの体験は私たちにとって何の役にも立ちません。


マハラジ  もちろん、私たちはひとつの世界に住んでいる。ただ私だけがあるがままに見ていて、あなたはそう見てはいないのだ。あなたは世界のなかにあなた自身を見ている。私は私自身のなかに世界を見ているのだ。あなたにとっては、あなたは生まれ、そして死んでいく。片や、私にとっては、世界が現れては消えていくのだ。私たちの世界は実在のものだ。だが、あなたの見方がそうではないのだ。あなたが築いた壁以外に、私たちの間に壁は存在しない。感覚には何の誤りもない。あなたの想像があなたを惑わせるのだ。それはあるがままの世界を、あなたが想像したように──あなたから独立して存在し、しかもあなたが受け継ぎ、習得してきたパターンにしたがってできた世界として覆い尽くしてしまう。あなたの態度には、あなたが理解していない苦しみの原因である深い矛盾がある。あなたは苦痛と苦しみの世界のなかに生まれたという考えにしがみついているのだ。私は世界が愛の子供であり、それにははじまりがあり、成長し、愛の成就を遂げることを知っている。


質問者 もしあなたが世界を愛からつくり出したのなら、なぜこんなに苦痛に満ちているのでしょうか?


マハラジ  身体の視点に立てば、あなたの言うとおりだ。しかし、あなたは身体ではないのだ。真実ではないものを真実として決めつけてはならない。そうすれば、私が見ているものをあなたも見るだろう。苦痛と快楽、善と悪、正と邪。これらはみな相対的な言語であって、絶対的なものと見なしてはならない。それらは限定され、一時的なものなのだ。


質問者 仏教の伝統ではニルヴァーニ、悟りを得た仏陀は、宇宙の自由を司っていると言われています。彼は存在するすべてを知り、体験することができます。彼は因果的連鎖によって自然界を制し、調停し、出来事の結果を変え、過去を取り消すことさえできるのです!それでも世界は彼とともに在り、しかもそのなかで彼は自由なのです。


マハラジ  あなたが描写しているのは神だ。もちろん、宇宙の在るところには、その片割れである神もまた存在するだろう。しかし、私はそのどちらも超えているのだ。ある王国が王を探していた。彼らはふさわしい人を見つけだし、彼を王にした。だが、彼はけっして変わっていない。彼は王位の称号と権利、そして職務を与えられただけだ。変わったのはただ彼の行動だけで、彼の本性は影響を受けてはいないのだ。同様に、悟りを得た人も彼の意識の内容は根本的な変容を遂げる。しかし、彼は惑わされない。彼は不変なるものを知っているのだ。


質問者 不変なるものは意識することができないはずです。意識はつねに変化するものだからです。不変なるものは意識のなかに何の影響も与えません。


マハラジ  そうだとも、そうでないとも言える。紙は書いてあることではないが、それは書いてあることを伝える。インクがメッセージではなく、また読む人のマインドがメッセージなのでもない。しかし、それらすべてがメッセージを可能にするのだ。


質問者 意識は実在から降りてくるのでしょうか、それとも、それは物質の属性なのでしょうか?


マハラジ  意識それ自体としては、物質の微妙な片割れなのだ。不活発性(タマス)とエネルギー(ラジャス)が物質の属性であるように、調和(サットヴァ)は意識それ自体として現れる。ある意味では、それを非常に神秘的なエネルギーの一形態として考えてもいいだろう。どこであれ、物質がそれ自体をひとつの堅固な有機体へと組織化するとき、意識は自発的に現れる。有機体の破壊にともなって、意識は消滅するのだ。


質問者 それでは、何が残るのでしょうか?


マハラジ  けっして生まれることも死ぬこともなく、そのなかでは物質も意識も単なる相にすぎない、あれが残るのだ。


質問者 もし物質も意識も超えているのならば、どのようにしてそれを体験することができるのでしょうか?


マハラジ  それはその影響が物質と意識の両方に及ぼす効果によって知ることができる。美と至福のなかにそれを探してみるがいい。だが、その両方を超えていかないかぎり、あなたは身体も意識も理解することはないだろう。


質問者 どうか、私たちにはっきりと言ってください。あなたは意識しているのでしょうか、それとも無意識なのでしょうか?


マハラジ  悟りを得た人(ジニャーニ)はそのどちらでもない。だが、彼の悟り(ジニャーナ)のなかにすべては包括されている。気づきはすべての体験を含んでいる。しかし、気づいているその人はあらゆる体験を超えているのだ。彼は気づき自体をも超えている。


質問者 体験の背後に物質と呼ばれるものがあります。そして体験者であるマインドがあります。何がそれら二つの間に橋を架けるのでしょうか?


マハラジ  その間にある隙間そのものが橋なのだ。その一端からは物質として見え、反対側の一端からはマインドとして見えるそれ、それ自体が橋なのだ。実在をマインドと身体に分けてはならない。そうすれば、橋の必要はなくなる。
意識が現れるとともに、世界が現れる。世界の美と智慧について考えるとき、あなたはそれを神と呼ぶのだ。あなた自身のなかにある、そのすべての源を知りなさい。そうすれば、あなたはすべての質問の答えを見いだすだろう。


質問者 見る者と見られるもの、それらはひとつなのでしょうか、それとも二つなのでしょうか?


マハラジ  ただ、見ることだけが在る。そのなかに見る者も、見られるものも含まれるのだ。区別のないところに区別をつくり出してはならない。


質問者 わたしは死を迎えた人について質問をはじめました。あなたは彼の体験が彼の期待と信念にしたがって形づくられると言いました。


マハラジ  生まれる前に、あなたはあなた自身が立てた計画にしたがって生きることを期待していたのだ。あなた自身の意志が、あなたの運命の支柱だったのだ。


質問者 間違いなく、カルマが干渉したはずです。


マハラジ  カルマは環境を形づくる。態度はあなた自身のものだ。結局は、あなたの人格があなたの人生を作り出し、人格を形づくるのはあなただけなのだ。


質問者 どのようにして人は人格を形づくるのでしょうか?


マハラジ  それをあるがままに見ることによって、そして誠実に心から感じることによってだ。この見ることと感じることの統合が奇跡的な働きをする。それはブロンズの像を鋳造するようなものだ。金属だけでも、火だけでも無理だし、鋳型だけでも役に立たない。あなたは金属を火で熱し、溶解して、鋳型へ流し込まなければならないのだ。


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