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…真実のあなたは霊性です。しかしこの霊性は誤って…


マハルシ 間違いなくそのとおりです。その欲望はどうして現れるのでしょうか? なぜなら、現在の人生が耐え難いものだからです。なぜでしょうか? なぜなら、それはあなたの真の本性ではないからです。もしそれがあなたがの真の本性であるなら、どんな欲望もあなたを困らすことはないでしょう。現在のあなたの状態があなたの真の本性とどのように異なると言うのでしょう? 真実のあなたは霊性です。しかしこの霊性は誤って自身を身体と同一視しています。身体は心によって投影されたものです。心そのものは霊性から生まれました。それゆえ、誤った自己同一視が終焉すれば、言葉では言い表せない永遠の至福と平和が訪れるのです。


(中略)


永遠の真我とはかなく消え去る身体との誤った自己同一化、それが現状への不満の正体です。

(対話396)


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愛と希望と喜びを内にはらんだあなた方の大切な魂が、叡智と思いやりの荘厳な花へと開いていく中で、そして見える見えないにかかわらずあらゆる生命を抱き容れる愛の荘厳な花へと開いていく中で、この天界でのあなた方の人生の日々を通して、私はつねにあなた方全員とともにあるだろう。その開花にともなう感情の嵐の中で、ラムサという名前など聞かなければよかったのに、と思う瞬間もあることだろう。だが、そのような瞬間よりも、あなたが自分の内面に神を見て、神を理解し、神を知る瞬間のほうが、遥かに、遥かに偉大な瞬間なのである。


さて、これまで私は、考えられる限りのあらゆる言い方で、何度も何度も繰り返し、あなたが知り得る最も偉大な真実を語ってきた。その真実とは、「あなたは神である」ということだ。


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質問者 世界中の多くの国々で、調査官が犠牲者たちから告白を聞きだし、必要ならば人格さえも変えようとする目的である種の策略に従事しています。身体的、また倫理的剥奪と説き伏せによって古い人格は崩れ去り、代わりに新たな人格が確立されるのです。取り調べを受ける人は、何度も何度も彼が国家の敵であり、祖国に対する反逆者だと言われるのを聞かされます。そして彼のなかで何かが崩れ去り、彼は国事犯、裏切り者であり、卑劣でもっとも残虐な罰を受けるに値すると完全に確信しはじめる日がやってくるのです。このプロセスは洗脳として知られています。
宗教的、またヨーガ的な修練が洗脳と非常に似通っていることが、私に衝撃を与えました。同様の身体的、精神的剥奪、独房監禁、強烈な罪の感覚、絶望、そして罪の償いと回心を通しての逃避への欲望、自己の新たなイメージの受け入れ、そしてそのイメージの非人格化、同じ信条の復唱──「神は善なり。グルは知りたもう。信仰がわれらを救いたもう」。いわゆるヨーガ的、あるいは宗教的な修練においても同じ機構が作用しています。マインドはほかのすべての概念を除き、ある特定の概念に集中させられます。そして集中は厳しい規律と苦しい禁欲によって強く強要されます。人生と幸福という高い代償が支払われ、それゆえに得たものは大いなる重要性をもつのです。これが顕なもの、あるいは秘められたもの、宗教的あるいは政治的、倫理的あるいは社会的に、あらかじめ仕組まれた転向であり、一見真正に見え、永続するかもしれませんが、そこには人工的な感覚があるのです。


マハラジ あなたの言うとおりだ。多くの苦しい状況を通り抜けて、マインドは正常な状態を失い、固定されてしまう。それは危険な状態に陥り、それが何をしようとより強い束縛にはまってしまうのだ。


質問者 それでは、なぜサーダナ(修練)が指導されるのでしょうか?


マハラジ あなたが途方もない努力をしないかぎり、努力はあなたをどこへも連れていかないと得心することはないだろう。自我はあまりにもうぬぼれが強いため、完全に落胆させられるまではあきらめることがないからだ。単なる言葉の上の確信では充分ではない。厳しい事実だけが自己イメージの絶対的な不毛を示すことができるのだ。


質問者 洗脳者は私を狂気へと駆りたてます。グルは私を正気へと駆りたてるのです。駆りたてることは同じですが、動機と目的は完全に異なるものです。おそらく、その類似性は単に言葉上のものなのでしょう。


マハラジ 苦しみを招くこと、あるいは強要することは、それ自体暴力を含んでいる。そして暴力の果実に甘さはありえないのだ。
人生には苦しみを避けることのできない状況がある。そしてあなたはそれを乗り越えていかなければならないのだ。あなたが意図的に、あるいは無関心から生み出した状況もある。あなたはそれらから、ひとつの教訓を学ばなければならない。そうすることで、ふたたび繰り返すことのないように。


質問者 どうやら苦痛を克服するためには、私たちは苦しまなければならないようです。


マハラジ 苦痛は耐えなければならない。苦痛を克服するということはないし、訓練も必要ない。訓練とは未来のためのものだ。型にはまった態度を築きあげていくことは、恐れの象徴なのだ。


質問者 ひとたびいかにして苦痛に直面するかを知れば、私はそれから自由になり、恐れず、それゆえ幸福になるのです。これが囚人に起こることです。彼は刑罰を正当で適切なものとして受け入れ、牢獄の権威者や国家と和平を結ぶのです。すべての宗教は、ほかでもない受容と明け渡しを唱導します。私たちは罪を認め、世界中にあるすべての悪の責任を感じ、私たちがその唯一の原因であると感じることを奨励されるのです。私の問題とは、洗脳とサーダナの間に大した違いが見えないということなのです。サーダナの場合は身体的に抑制されませんが、強制的な暗示の要素は双方にあります。


マハラジ すでにあなたの言ったとおり、類似性は表面的なものだ。何度も繰り返して言うまでもない。


質問者 類似性は表面的なものではありません。人間は複雑な存在であり、同時に原告と被告、判事、刑務所長、死刑執行人になることができるのです。「自発的な」サーダナに、それほどの自発性はありません。人は理解とコントロールの範囲を超えた力に動かされているのです。苦痛に満ちた長い努力による以外、私には身体の代謝作用ほど心理的代謝作用を変えることはできません。それがヨーガなのです。私が尋ねたいことは、「マハラジはヨーガが暴力を含んでいるという私の見方に同意されるでしょうか?」ということです。


マハラジ あなたが示しているヨーガが暴力を意味していることには同意するが、私はいかなる形の暴力も唱道したことはない。私の道は完全に非暴力のものだ。私は言葉どおり正確に非暴力を意味している。それがどのようなものであるか自分自身で試してみるがいい。私はただ、それが非暴力だと言うだけだ。


質問者 私は言葉を誤用しているわけではありません。あるグルが残りの人生を、一日、十六時間瞑想するよう求めるとすれば、私には自分への極端な暴力なしにそれをすることはできません。そのようなグルは正しいのでしょうか、間違っているのでしょうか?


マハラジ あなたがそうしたいと感じないかぎり、誰もあなたに一日、十六時間瞑想するよう強要してはいない。それは、「あなた自身とともに在りなさい。ほかのものごとのなかに自分を見失ってはならない」と言っているだけなのだ。教師は待つだろう。だが、マインドは性急なのだ。
暴力的なのは教師ではなくマインドだ。そしてマインドはそれ自身の暴力を恐れているのだ。マインドに属するものは相対的であり、それを絶対的と見なすことは誤りだ。


質問者 もし私が受容的なままでいれば、何の変化も起こらないでしょう。もし活動的になれば、私は暴力的になるでしょう。無益でも暴力的でもないどのようなことを私はすればいいのでしょうか?


マハラジ もちろん、無益でも暴力的でもない道がある。しかも、最高に効果的なものだ。ただあるがままのあなた自身を見なさい。あるがままのあなた自身を受け入れなさい。そして、あなたであるもののなかへと、どこまでも深く入っていきなさい。暴力や非暴力は、あなたの他者に対する態度を表している。自己と自己自身との関係性は暴力でも非暴力でもない。それはそれ自身に気づいているか気づいていないかのどちらかだ。もしそれがそれ自身を知っているなら、それが為すすべては正しいだろう。もしそれがそれ自身を知らないなら、それが為すすべては誤りだろう。


質問者 「私はあるがままの私を知っている」とはどういう意味でしょうか?


マハラジ マインドが現れる以前に、私は在る。「私は在る」はマインドの中にあるひとつの想念ではない。マインドが私に起こるのであって、私がマインドに起こるのではない。そして時間と空間がマインドのなかに存在するため、私は時間と空間を超え、永遠で普遍なるものなのだ。


質問者 あなたは真面目なのですか? 本気であなたがいつでも、どこにでも存在すると言われるのですか?


マハラジ そうだ。あなたにとって動くことの自由が明白であるように、私にとってそれは明白なことだ。樹が猿に「あなたがどこへでも動くことができるというのは本当なのですか?」と尋ねているところを想像するがいい。そして猿は言うだろう。「そうだとも」と。


質問者 あなたは因果関係からも自由なのでしょうか? あなたは奇跡を起こせますか?


マハラジ 世界そのものがひとつの奇跡なのだ。私は奇跡を超えている。私は絶対的に正常だ。私にとってはすべて、起こるべきことが起こるのだ。私は創造過程を妨げない。大いなる奇跡がつねに起こっているときに、小さな奇跡が私にとってどのような意味があるというのだろう?何であれあなたが見ているものは、つねにあなた自身の存在を見ているのだ。あなた自身のなかへどこまでも深く入っていきなさい。内側を探しなさい。自己発見には暴力も非暴力もない。偽りを破壊することは暴力ではないのだ。


質問者 私が自己探求を実践するとき、あるいはそれが何らかの形で私に利益をもたらすだろうと考えながら内側へと入っていくとき、私はいまだにあるがままの私から逃げだしているのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。真の探求はつねに何かのなかへであって、何かから外へではない。私がいかにして何かを得るか、あるいは避けるかを探求するときは、本当に探求しているとは言えない。何かを知るためには、完全にそれを受け入れなければならないのだ。


質問者 そうです。神を知るには神を受け入れなければなりません。何と恐ろしいことでしょう!


マハラジ 神を受け入れる前に、あなたはあなた自身を受け入れなければならない。それはもっと恐ろしいことでさえある。自己受容の第一段階はまったく喜ばしいものとは言えない。なぜなら、人は楽しい光景を見るわけではないからだ。先へ進んでいくには、すべての勇気が必要とされる。助けとなるのは沈黙だ。完全な沈黙のなかで、あなた自身を見守りなさい。あなた自身を描写してはならない。あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。そして、あなたはあなたが見ているものではないことを覚えておきなさい。「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。解放へのほかの手段というものはない。すべての手段は延期を意味するのだ。あなたではないものを断固として拒絶しなさい。真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。それは、「何ものでもないもの」なのだ。


質問者 世界は急速に、危機的な変化を通り抜けています。私たちはそれをアメリカのなかで大いなる明晰性をもって見ることができます。それらはほかの国々で起こっているのですが。一方では、犯罪の増加が見られ、他方では、真正な神聖さが現れています。共同体が形成され、それらのいくつかは非常に高いレベルの統合と禁欲生活を送っています。炎がその燃料を使い尽くすように、あたかも悪はそれ自体の成功によってそれ自体を破壊しているかのようです。一方、善は生命のようにそれ自身を永続させるのです。


マハラジ 出来事を善と悪に区別するかぎり、あなたは正しいだろう。事実は、善は悪となり、悪はそれ自身を満たすことによって善となるのだ。


質問者 愛についてはどうでしょう?


マハラジ それが好ましくない欲望へと変わるとき、破壊的になるのだ。


質問者 好ましくない欲望とは何でしょうか?


マハラジ 記憶すること、想像すること、期待することだ。それは感覚的で、言語的なのだ。耽溺のひとつの形態だ。


質問者 ブラフマチャーリア、禁欲はヨーガに必要不可欠なものでしょうか?


マハラジ 抑制と抑圧の人生はヨーガではない。マインドは欲望から解き放たれ、リラックスしていなければならないのだ。それは記憶の一形態である決定から来るのではなく、理解から現れる。理解するマインドは欲望と恐れから自由なのだ。


質問者 どうやって私自身を理解させることができるのでしょうか?


マハラジ 瞑想によって。つまり注意を払うことによってだ。あなたの問題に完全に気づいていなさい。それをすべての角度から見つめなさい。それがあなたの人生にどう影響を与えるのか見守りなさい。そして、放っておくがいい。それ以上あなたにできることはないのだ。


質問者 それは私を解放するのでしょうか?


マハラジ あなたはあなたが理解したものから自由なのだ。外側での自由の表現が現れるには時間がかかるかもしれない。だが、それはすでにそこにある。完成を期待してはならない。顕現のなかに完成というものはないのだ。小さな衝突はまぬがれない。問題が完全に解決されることはない。だが、あなたはそれが作用しないレベルへと身を引くことができるのだ。


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