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マイソールから来たシャマンナ氏がマハルシに尋ねた。
「どうかアハム・スプラナ(「私─私」の光)についてご説明ください」


マハルシ 眠りの中では「私」は知られていません。目覚めるとともに、「私」は身体、世界、非真我と結びついた形で知覚されます。そのような結びつきを持った「私」がアハム・ヴリッティ(「私」という想念)と呼ばれ、そのアハムが真我だけを表すとき、アハム・スプラナと呼ばれるのです。これはジニャーニ(真我を実現した人)にとって自然なものです。ジニャーニはそれをジニャーナと呼び、バクタはバクティと呼びます。アハム・スプラナは(眠りの状態も含めて)常に存在しているにもかかわらず、知覚されずにいます。それを眠りの中で知ることはできません。それはまず目覚めの状態において認識されなければならないのです。なぜなら、それは三つの状態すべての根底にある自己の本性だからです。
努力は目覚めの状態でのみ為されるべきものです。努力することで、真我は今ここで実現されるのです。実現された後には、真我が目覚め(ジャーグラト)、夢見(スワプナ)、眠り(スシュプティ)に妨げられることなく、常に、絶えず存在していることがわかるでしょう。それゆえ、真我はアカンダーカーラ・ヴリッティ(途切れることのない体験)なのです。
本来のヴリッティは(眠りでは不在なため)短期間のものです。それは(目覚めと夢見のときだけに)限定され、ある方向に向けられた意識なのです。あるいは、それは想念や感覚などを認識することによって分割された絶対意識とも言えるでしょう。
ヴリッティは心の働きですが、途切れることのない意識は心を超越しています。これが解脱した人(ジニャーニ)の自然な、原初の状態です。それは途切れることのない体験です。相対的意識が静まったとき、それはそれ自体を顕わにします。アハム・ヴリッティ(「私」という想念)は途切れるものですが、アハム・スプラナ(「私─私」の光)は途切れることなく永続的なものです。その光は思考が静まったときに輝き出すのです。

(対話307)


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あなたが自分の外に理由や答えをさがし求めている限り、すべての真実を与えるものであり、在るものすべての創造者である内面の声を、あなたはけっして聞くことはない。そして、あなたが本来持っているおそるべき力と無限の理解を見えないようにしてしまう迷信的な信念や、とんでもない論理に、翻弄され続けることになるだろう。


あなたは至高の存在であり、自分が望むどんな真実であろうと、それを受け容れたり、創り出したりすることができるのだ。あなたは自分の世界のマスターとなることもできれば、奴隷となるのを許してしまうこともできる。あなたはどちらでも体験したいものになれるのだ。


記憶とは、視覚的に記録されたものではなく、感情的に記録されたものなのだ。感情が視覚的なイメージを創り出すのである。魂は、記憶するために画像や言葉といったものを記録するのではなく、それらの画像や言葉がもたらす感情のほうを記録しているのだ。


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質問者 あるマハートマ(真我実現した人)たちが、世界は偶然の産物でも神の戯れでもなく、宇宙全体に意識を発展させ、覚醒をもたらそうとする壮大な計画の結果と表現なのだと主張しています。無生命から生命へ、無意識から意識へ、無知から優れた知性へ、迷妄から光明へ。これこそ世界が絶え間なく、容赦なく進んでいる方向なのです。もちろん、宇宙が活動停止するような休息の瞬間もあれば、暗黒と見える時期もあるでしょう。しかし、休息は終わりを告げ、意識への働きかけは再開されます。私たちの目には、世界は涙の谷間として映ります。あらゆる手段で、できるかぎり早く逃げだすべき場所なのです。覚醒した人にとって、世界は善であり、充分な目的を果たしています。彼らは、世界が精神によって構築されたものであり、究極的にはすべてがひとつであることを否定していません。しかし、その構造には意味があり、最上の望ましい目的に仕えていると言うのです。私たちの言う神の意志とは、遊び好きな神の気まぐれではなく、愛と叡智と力のなかで成長し、生命と意識の無限の可能性を実現するために絶対必要な表現なのです。
庭師がごく小さな種を輝かしい完全性へと開花させるように、神も彼の庭で、ほかの生き物たちとともに、神を知り、愛し、彼とともに働く超人へと人間を育てるのです。
神が休息(プララーヤ)をとるとき、成長が未完のものは無意識となり、完成したものは、すべての形態と意識の内容を超え、宇宙的沈黙のなかで気づきつづけます。新たな宇宙が出現するとき、眠っていたものたちは目覚め、彼らの仕事をはじめます。より進歩したものたちは最初に目覚め、後進のものたちのために土台を準備します。このようにして未来の成長にふさわしい行動のパターンと形態を見いだすのです。
話の内容はこのようなものです。あなたの教えとの違いは、あなたは世界を避けるべき、価値のないものだと主張するのに対して、彼らは世界を忌み嫌うことは必要な通るべき段階ではあるが、一過性のものであり、じきに普遍の愛と確固たる意志で神とともに働くことになる、ということです。


マハラジ あなたの言うことはすべて、外へと向かう(プラヴリッティ)道にとっては正しい。源へ帰還する(ニヴリッティ)道を行くものにとって、自己を無に帰することは必要なことなのだ。私のいる無(パラマーカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。そこに意識が攪拌(かくはん)しはじめ、マインドが目覚めだし(チダーカーシュ)、世界を投影し(マハーダーカーシュ)、記憶と想像を構築しはじめる。ひとたび世界が存在のなかに現れたならば、あなたの言ったとおりとなるだろう。目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネルギー、そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもないというのが私の立場だ。そこが私の居場所なのだ。何が起ころうと私には影響を与えない。ものごとがものごとに働きかける。ただそれだけだ。記憶と期待から自由なため、私はいつも新鮮で、無垢(むく)で、トータルだ。マインドはたいへんな働き者(マハーカルタ)で、休息が必要だ。何も必要ない私には、何の恐れもない。誰を恐れるというのだろう? そこには分離などない。私たちは分離し、孤立した自己ではない。ただ個人と非個人がひとつである真我、至高の実在があるだけだ。


質問者 私はただ世界を助けられるようになりたいだけです。


マハラジ あなたが助けられないと誰が言っただろうか? 助けるとはどういう意味で、何が必要なのかということをあなたが自分で決めておいて、何をすべきで何ができるのかという必要性と能力の間で自分自身を葛藤に追いやったのだ。


質問者 しかし、なぜ私たちはそうしてしまうのでしょうか?


マハラジ あなたのマインドがある構造を投影し、それと自己同一化するからだ。欲望の本性とは、それを満たすためにマインドが世界をつくり出すよう促すことだ。小さな欲望さえ、長い行動の連鎖を生みだすのだ。強い欲望ならばどうだろう? 欲望は宇宙をも生みだす。その力は奇跡的なものだ。小さなマッチ棒が巨大な森林に火をつけることができるように、欲望も現象の現れに火をつける。創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。空間(アーカーシュ)は中立的なものだ。人はそれを何でも好きなように満たすことができる。何を望むのか、人はとても注意しなければならない。そしてあなたが助けたい人びとだが、彼らもまた欲望を満たすために、それぞれの世界のなかにいる。彼らの欲望を通して以外、彼らを助けることはできない。あなたには、彼らが正しい欲望をもつように教えることができるだけだ。そうすれば彼らは現状を超え、快楽と苦痛の住処である欲望の世界を創造し、再創造しようという衝動から自由になれるかもしれない。


質問者 ショーが終わって人が命を終え、宇宙の終局を迎える日がかならず訪れます。


マハラジ 眠っていた人がすべてを忘れ、新たな日に目覚めるように、あるいは死んでから新しい命を授かるように、欲望と恐れの世界も溶解し、消え去る。しかし、普遍の観照者、至高の真我は眠りも死にもしない。偉大な心臓の鼓動は永遠に鳴りやまず、新たな鼓動のたびに新しい宇宙が誕生するのだ。


質問者 至高の真我には意識があるのでしょうか?


マハラジ 彼はマインドが考えることのできるすべてを超えている。彼は存在と非存在をも超えている。彼はすべてに対してイエスであり、ノーである。内側であり、彼方でもある。創造し、破壊する想像しがたい実在なのだ。


質問者 神とマハートマはひとつでしょうか?


マハラジ 彼らはひとつだ。


質問者 何らかの違いがあるはずです。


マハラジ 神はすべてを為す者であり、ジニャーニは無為の人だ。神自身が「私がすべてを為す」と言いはしない。神にとっては、ものごとはそれ自体の本性にしたがって起こるのだ。ジニャーニにとっては、すべてが神によって為される。彼は神と自然との間に何の違いも見ない。神もジニャーニもともに、彼ら自身が変動のなかの不動の中心であり、移り変わるものの永遠の観照者であることを知っている。その中心は空なる点であり、観照者は純粋な気づきの点だ。彼らは、彼ら自身が無であることを知っている。それゆえ、彼らに抵抗できるものは何ひとつないのだ。


質問者 あなたの個人的な体験では、それはどのように見られ、感じられるのでしょうか?


マハラジ 無としてあることで、私はすべてなのだ。すべては私であり、すべては私のものだ。私の身体が、動かそうと考えるだけで動くように、私が思うだけでものごとは起こる。言っておくが、私は何もするわけではない。ただものごとが起こるのを見るだけだ。


質問者 あなたが起こるように望んでからものごとが起こるのでしょうか? それともそれらが起こってから、あなたはそう起こることを望まれるのでしょうか?


マハラジ それは両方だ。私は受け入れ、そして受け入れられるのだ。私がすべてであり、すべては私なのだ。世界であるゆえに、私は世界を恐れない。すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう? 水は水を恐れず、火は火を恐れない。私は恐れない、なぜなら私は無であり、恐れや危険を体験しようがないからだ。私には名前も形もない。名前と形に固執することが恐れを生むのだ。私には執着がない。私は無だ。そして無は無を恐れない。反対に、すべてが無を恐れている。なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。


質問者 神は個人ではないのでしょうか?


マハラジ あなたがあなた自身を個人と考えるかぎり、神も個人だ。あなたがすべてであるとき、あなたは神をすべてとして見る。


質問者 私の態度を変えることで、事実を変えることができるのでしょうか?


マハラジ 態度が事実なのだ。怒りを例にとってみなさい。私は激怒して、部屋のなかを歩きまわっているかもしれない。同時に、私は私が叡知と愛の中心、純粋な存在の原子であることを知っている。すべては静まり、マインドは沈黙へと溶けていく。


質問者 まだ、あなたはときどき怒るのですね。


マハラジ 誰に対して、何のために私が怒らなければならないのか? 怒りはやってきて、自己想起とともに消え去った。それはみな、ただのグナ(宇宙的特質)の戯れにすぎない。それらと自己同一化すれば、私はそれらの奴隷となる。距離をおいて在れば、私がそれらの主人なのだ。


質問者 あなたは自分の態度によって世界に影響を与えることができますか? あなたが世界から分離し、距離を置くことによって、世界を助けるという望みはみな失われてしまうのです。


マハラジ そうではない。すべては私自身なのだ。私が自分を助けられないというのかね? 私は特定の誰かと自己同一化しない。私は特定の個人でもあり、宇宙全体でもあるからだ。


質問者 では、あなたは特定の個人である私を助けられますか?


マハラジ だが、私はいつもあなたを助けているのだ、内面から。私自身とあなた自身はひとつなのだ。私は知っているが、あなたは知らない。違いはそれだけだ。そしてその違いは、長くは続かない。


質問者 どのようにしてあなたは世界全体を助けるというのでしょうか?


マハラジ ガンディーは死んだが、彼の精神は地上を覆っている。ジニャーニの想いは人類のなかに浸透し、善のために絶えず働きかけている。無名のまま内面から働きかけるために、より力強く心を動かすのだ。このようにして内面での助けと、外面への祝福によって世界は改善されるのだ。ジニャーニが死を迎えると、大海へと溶け入る瞬間、川が消え去るように、彼も消え去る。名前と形はもはやないが、水は残り、大海とひとつになる。ジニャーニが宇宙的マインドに加わると、彼のすべての善と智慧は人類の財産となり、すべての人間を向上させるのだ。


質問者 私たちは自分の人格に執着しています。ほかの人とは違った個性に、私たちは価値を与えます。あなたはそのどちらも無駄なものとして非難しています。あなたの非顕現が私たちにとって何になるというのでしょうか?


マハラジ 非顕現、顕現、個性、人格(ニルグナ、サグナ、ヴィヤクタ、ヴィヤクティ)、これらすべてはただの言葉、見解、精神的姿勢にすぎない。これらに実在はない。実在は、静寂のなかで経験される。あなたは人格に固執する。しかし、個人としての存在を意識するのは、あなたが困難な状態にあるときだけだ。困難に直面していないとき、あなたは自分のことを考えてはいない。


質問者 あなたは非顕現の目的について語ってはいません。


マハラジ もちろん、目覚めるためには眠らなければならない。生きるためには死ななければならない。新たな形に再生するためには溶け去らなければならない。構築するために破壊し、創造する前に絶滅させなければならない。至高なるものは普遍の溶媒だ。それはあらゆる器を溶解し、あらゆる障害を焼き尽くす。すべてを絶対否定しないことには、ものの専制性は絶対的なものとなってしまうだろう。至高なるものは偉大な調和をもたらす。それは自由なる生の完璧な均衡と究極の保証だ。それはあなたを溶解し、このようにあなたの真の存在を再生するのだ。


質問者 それ自体のレベルにおいては、それでいいかもしれません。しかし、日々の生活において、それはどう作用するのでしょうか?


マハラジ 日々の生活は行為の生活だ。好きだろうが、嫌いだろうが、あなたは機能しなければならない。何であれあなたが自分のためにしていることは蓄積され、爆発する。ある日それは飛びだし、あなたとあなたの世界を台無しにする。あなたがすべての人に良かれと思って働いていると自分自身を欺くなら、ことは一層悪化するだろう。なぜなら、何がほかの人びとにとって良いことかを、自分の概念によって決定すべきではないからだ。他者にとって何が良いのかを知っていると公言する者は危険だ。


質問者 では、人はどのようにして働くべきでしょうか?


マハラジ あなた自身のためでも他者のためでもなく、仕事自体のために働きなさい。するだけの価値のあることには、それ自体の目的と意味がある。何かほかのことの手段にしてはならない。拘束してはならない。神はひとつのものをほかのものに仕えるために創造してはいない。それぞれがそれ自身のために造られたのだ。それがそれ自身のために造られているため、干渉することがない。あなたは物や人を、彼らとは相容れない目的のために用いるため、世界とあなた自身を台無しにしてしまうのだ。


質問者 実在はつねに私たちとともに在るとあなたは言われました。どうして私たちはそれに気づかないのでしょうか?


マハラジ そのとおり、あなたはつねに至高なるものなのだ。しかし、あなたの注意はいつも身体的あるいは精神的なものに注がれている。あなたの注意がひとつのものを離れて、まだほかの対象物に固定される合間、あなたは純粋な存在なのだ。識別(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァイラーギャ)* の実践を通して、あなたは感覚的そして精神的状態の視野を失い、純粋な存在が自然な状態として現れだす。


* 訳注 識別と無執着
ヴィヴェーカ Viveka 識別。真実と偽りを識別すること。
ヴァイラーギャ Vairagya 無執着。世俗的欲望の不在。非実在とはかなき存在への無執着。


質問者 この分離された存在の感覚をどうやって終焉させることができるのでしょうか?


マハラジ 「私は在る」にマインドの焦点を合わせることによって、「私はこれだ」という存在の感覚は消え去る。そこに「私はただの観照者だ」が残り、それさえも、「私はすべてだ」のなかに沈んでいく。そのときすべてはひとつとなり、ひとつは──私から分離していないあなたの自己となるのだ。分離した「私」という概念を放棄しなさい。そうすれば「誰の経験か?」という疑問が湧いてくることはないだろう。


質問者 あなたはあなた自身の体験から語っています。どうやってそれを私のものとすることができるのでしょうか?


マハラジ 私の体験とあなたの体験が異なると言うのは、私とあなたが分離しているとあなたが信じているからだ。より深いレベルでは、私の体験はあなたの体験だ。あなた自身の内面深くに入っていきなさい。そうすれば、あなたはそれをいともたやすく、簡単に見いだすだろう。「私は在る」の方向へと入っていきなさい。



あなたがたは(神により)すでに拘束されていて、精査されています。
これから拘束されるだろうではなく、すでに拘束されています。
これから精査されるだろうではなく、すでに精査されています。
魔に拘束されているなら振りほどいてください。存在を許すことによって。
Fiora


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