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質問者 私は知識を求めています。


マハルシ 知識を求めているのは誰でしょうか?


質問者 私が求めているのです。


マハルシ その「私」とは誰でしょうか? 「私」を見いだしなさい。そうすればその後で、それ以上の知識が必要かどうかがわかるでしょう。

(対話522)


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ここにいるすべての者は、自由意志を与えられて創造された神である。そして、はじまりのころ、光の存在であったあなた方は、至高の存在としてこの自由意志を使い、星々や惑星、そして見える見えないにかかわらず、すべての宇宙を創造したのだ。そして、今あなた方が持っている化身をのちに創造した神々も、あなた方なのだ。あなた方はまさにこの瞬間にも、同じ神々であり、はじまりのころに持っていたのと同じパワフルな創造性を持っている。そして、この永遠とも言えるような長い間に、あなた方は自分を支配するようなものはひとつたりとも創造したことはない。ただし、それが自分を支配していると信じてしまった場合は別である。


「変質した自我」とは何だろうか?
それは、神なる人間が、ただ生き残ろうとする生き物として、社会意識のよどみの中で生きているときの集合的な態度である。


この変質した自我が脳の中に入ることを許した思考の振動数は、それぞれ電流に変換され、脳下垂体によって起動された、その振動数を宿らせるための部分へと送られる。


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質問者 ヨーガの修練はつねに意識的なものでしょうか? それとも気づきの境界下にあるまったく無意識的なものでしょうか?


マハラジ 初心者にとってヨーガの修練は、しばしば熟考され、偉大な決意を要するものだ。だが、すでに何年も誠実に修練を培ってきた者たちは、意識していようがいまいが、いつも真我の実現を念頭においている。無意識のサーダナ(修練)はもっとも効果的だ。なぜならそれは自発的で、変わらず続いていくからだ。


質問者 ヨーガのまじめな弟子だった者が、何年か後に挫折し、すべての努力を放棄した場合はどうなるのでしょうか?


マハラジ ある人がすること、あるいはしないことを、私たちはしばしば見誤ることが多い。彼の見かけの無関心さは、ただ力を蓄えているだけなのかもしれない。私たちの行動の原因は実にとらえがたいものだ。非難したり賞賛したりすることさえも急いではならない。ヨーガとは内面の自己が、外面の自己に働きかけることだと覚えておきなさい。外面の自己のすることは、内面の自己への反応にすぎない。


質問者 それでも、外面の自己は助けになります。


マハラジ  それがどれほどの助けになるというのだろう?身体を抑制し姿勢や呼吸を改善することはできる。マインドの思考や感情においては何の制御もできない。なぜなら、制御すること自体がマインドだからだ。外面を制御できるのは内面なのだ。外面はそれに従うならば賢明といえるだろう。


質問者 もし霊的成長の原因が究極的に内面にあるとするなら、なぜそれほどまで外面への働きかけが勧められ、奨励されるのでしょうか?


マハラジ 外面は静かに在ることで、欲望と恐れから自由になることを助ける。あなたも気づいたかもしれないが、外面へのアドバイスはつねに否定の形を取っている。何々をしてはならない、やめなさい、差し控えなさい、あきらめなさい、犠牲にしなさい、明け渡しなさい、偽りを偽りと見なさい。実在の小さな描写さえ否定を通してなされる──「これではない、これではない」(ネティネティ)と。すべての絶対性が実在に対するように、すべての肯定性は内面の自己に属するのだ。


質問者 現実の体験のなかでは、どのようにして内面を外面から見分けるのでしょうか?


マハラジ 内面はインスピレーションの源だ。外面は記憶によって動かされる。源をたどることは不可能だが、すべての記憶はどこかから始まる。このようにして外面はいつも決定されるが、内面を言葉でつかむことはできない。知覚されるものは一時的で、はかなく、それゆえ実在ではないということを忘れ、内面を、何かつかみ取れるものと想像することのなかに弟子の過ちがある。知覚を可能にするもの、ただそれだけが真実なのだ。生命あるいはブラフマン、何であれあなたの好きな名前で呼ぶがいい。


質問者 生命はその自己表現のために身体をもたなければならないのでしょうか?


マハラジ  身体は生きることを求めている。生命が身体を必要としているのではなく、身体が生命を必要としているのだ。


質問者 生命は意図的にそうするのでしょうか?


マハラジ 愛は意図的に行動するだろうか? そうだとも、そうでないとも言える。生命は愛であり、愛は生命なのだ。身体をひとつに保ちつづけるのは、ほかでもない愛だ。欲望は自己愛以外の何ものでもない。恐れとは守ろうとする衝動以外の何ものでもない。そして知識とは真理への愛にほかならない。方法や形態は間違っているかもしれない。だが、その背後にある動機はいつも愛なのだ。私と私のものへの愛。私と私のものは小さなものかもしれない、あるいは爆発し、宇宙を抱擁するかもしれない。だが愛は残る。


質問者 神の名を繰り返し唱えることは、インドではたいへん一般的なことです。それには何か効力があるのでしょうか?


マハラジ ものであれ、人であれ、名前を知っているときは見つけやすい。神の名を呼ぶことによって、あなたは彼をあなたの元へ来させるのだ。


質問者 どのような姿で彼は来るのでしょうか?


マハラジ あなたの期待した姿による。あなたが不幸であったとして、ある聖者が幸運のためにあなたにマントラを与えたとしよう。あなたが信心と帰依心とともにそれを繰り返せば、不運は去るほかない。変わらぬ信心は運命より強い。運命はいくつかの原因と原因の結果で、ほとんど偶然の産物だ。それゆえ、それはゆるく織り込まれている。自信と正しい期待が、それをたやすく克服するだろう。


質問者 マントラが唱えられているとき、実際には何が起こっているのでしょうか?


マハラジ マントラの音が形をつくり出し、それが真我を具現化する。真我はいかなる形も具現でき、それを通して作用する。つまりは真我が作用のなかでそれ自身を表現し、マントラは作用における最初のエネルギーなのだ。それはあなたに、そしてあなたの周囲の環境に作用する。


質問者 マントラは伝統的なものです。それはそうあるべきなのでしょうか?


マハラジ 遥かなる昔から、ある一定の言葉とそれに相当するエネルギーの間に、数かぎりない復唱によって増強されてきたある関連がつくり出されてきた。それは歩いていくための道のようなものだ。それはやさしい方法で、ただ信心が必要とされるだけだ。あなたは目的地へと導いてくれるその道を信頼するのだ。


質問者 ヨーロッパにマントラの伝統はありません。いくらかの黙想的な儀式を除いては。現代の若い西洋人にそれが何の役に立つというのでしょう?


マハラジ 何の役にも立たない。彼が非常にそれに引きつけられないかぎりは。彼にとってふさわしい道とは、彼がすべての知識の根底であり、すべての感覚とマインドに起こる永久不変の気づきであるという想いを固守することだ。もしそれをつねに覚え、気づき、留意していれば、彼はかならず不注意の境界を破り、純粋な生命、光、そして愛へと現れ出る。「私は観照者にすぎない」という想いは身体とマインドを浄化し、叡知の目を開かせる。そのとき彼は幻想を超え、ハートはすべての欲望から自由になるのだ。氷が溶けて水になり、水が蒸気になり、蒸気が空気に変わって空間へと消え去るように、身体は純粋な気づき(チダーカーシュ)のなかに溶解し、そしてすべての存在と非存在を超えた純粋な存在(パラマーカーシュ)となるのだ。


質問者 賢者は食べ、飲み、そして眠ります。何が彼をそうさせるのでしょうか?


マハラジ 宇宙を動かす同じ力が彼をも動かすのだ。


質問者 すべてが同じ力に動かされています。何が違うのでしょうか?


マハラジ ほかの者が単に聞くことはあっても体験してはいないことを、賢者は知っている。ただそれだけだ。知的に確信しているようでも、行動のなかで彼らの束縛はあばかれてしまう。だが、賢者はつねに正しいのだ。


質問者 誰もが「私は在る」と言います。賢者もまた、「私は在る」と言います。違いはどこにあるのでしょうか?


マハラジ 違いは「私は在る」という言葉に当てられた意味のなかにある。賢者にとって、「私は世界であり、世界は私のものだ」という体験には至上の正当性がある。彼は完全な形で考え、感じ、行為する。そして生きるものすべてとの統合のなかにいる。彼は真我の実現の理論や修行さえ知らないかもしれず、そして宗教や思弁哲学的理念からも自由な家系に生まれるかもしれない。しかし、彼の理解と慈悲には、わずかな欠点も見られないだろう。


質問者 私が裸で空腹の乞食に偶然出会い、彼に「あなたは誰か?」と問うとします。彼は「私は至高の真我だ」と言うかもしれません。私は言うでしょう。「なるほど、あなたが至高なるものなら、状況を変えたらどうかね?」と。彼は何と答えるでしょうか?


マハラジ 彼はあなたに尋ねるだろう、「どの現状だろう? 何を変える必要があるだろうか? 私の何が間違っているのかね?」と。


質問者 なぜ彼はそう答えるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、彼はもはや見かけに束縛されてはいないからだ。彼は名前と形を自分自身と自己同一視しない。彼は記憶を使うだろうが、記憶が彼を使うことはできないのだ。


質問者 すべての知識は記憶を根底においているのではないでしょうか?


マハラジ  低次の知識はそうだ。より高次の知識、実在の知識は、人の心の本性のなかに生来あるものだ。


質問者 「私は私が意識しているものでもなければ、意識そのものでもない」と言うことができるでしょうか?


マハラジ  あなたがひとりの探求者であるかぎり、あなたは空の、純粋な意識だという想いを固守する方が良い。意識の彼方に至高の状態があるのだ。


質問者 真我の実現への欲望は、意識のなかに起源があるのでしょうか? あるいはその彼方にあるのでしょうか?


マハラジ もちろん、意識のなかにある。すべての欲望は記憶から生まれ、意識の範囲内にある。それを超えれば、すべての努力は消える。意識の彼方に行こうとする欲望そのものが、まだ意識のなかにあるのだ。


質問者 意識の彼方の痕跡や形跡といったものはないのでしょうか?


マハラジ  いいや。それはありえない。


質問者 それでは、何が二つの間をつないでいるのでしょう? 何も共通するものがない二つの状態の間に、どうやって経路を見いだすのでしょうか?


マハラジ  純粋な気づきさえ、ひとつの意識の形態だ。


質問者 では、彼方とは何なのでしょうか? 空なのでしょうか?


マハラジ 空もまた意識にのみ属する。充満と虚空は相対的な言葉だ。実在はまったくの彼方にある。意識との関係のなかでの彼方ではない。何であれ、あらゆる類の関係性を超えているのだ。「状態」という言葉が難しくしてしまうのだ。実在とは何かほかの状態ではない。それはマインドや意識や精神の状態ではなく、はじまりと終わり、存在と非存在をもった何かでもない。実在はすべての対極を含んでいる。だがそれは、対極同士の戯れのなかにはない。それをひとつの推移の終わりと見なしてはならない。意識がもはやなくなったあと、それはそれ自身として在る。すると、「私は人だ」、「私は神だ」といった言葉は意味を失う。沈黙のなかだけで聞き、暗闇のなかでだけそれを見ることができるのだ。


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