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マハルシ 誰もが一人のグルを持っています。私にもグルがいることを認めます。


尋問者 誰があなたのグルなのですか?


マハルシ 真我です。


尋問者 誰にとってですか?


マハルシ 私にとってです。グルは内的なものかも外的なものかもしれません。グルは彼の本性を内面で明らかにするかもしれませんし、外的に伝達するかもしれません。

(対話291)


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自分であるものをひたすら愛し、自分の内なる神に耳を傾けなさい。その神は、とてもかすかな声で語りかけてくる。それは、フィーリングと呼ばれている。


自分の内面に感じる真実を生きるのだ。その真実があなたの栄光を示すように、その真実を生き、それを現実化しなさい。あなたがそうしたとき、あなたは自分の観点から人生を評価し、生き、理解したことになる。


「何が真実で何が真実ではないのか」
「何が現実で何が幻か」


といったことを判別しようとすることに、あなたはこだわらなくなるだろう。宗教的な教義や信念という法から離れ始め、他人の真実になろうと努力するのをやめるとき、あなたは自分自身を自由に表現し、自分の魂が求めることを自由に体験できるようになる。


では、あなたの永続性はどこで終わるのか? 終わりはない。なぜなら、あなたは永遠に向かって絶え間なく続いていくからだ。


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質問者 わたしは画家で、絵を描くことによって生計を立てています。これは霊的見地から見て価値あることなのでしょうか?


マハラジ あなたは絵を描くとき、何を想うのだろうか?


質問者 私が絵を描くときは、そこに絵と私自身があるだけです。


マハラジ あなたはそこで何をしているのだろう?


質問者 絵を描いています。


マハラジ そうではない。あなたは絵が描かれているのを見ているのだ。あなたは見守るだけで、それ以外はすべて起こるのだ。


質問者 絵がそれ自身を描いているのでしょうか? あるいは何かより深い「私」あるいは神が描いているのでしょうか?


マハラジ 意識そのものがもっとも偉大な画家なのだ。世界全体が絵画だ。


質問者 誰が世界の絵を描いたのでしょう?


マハラジ 画家は絵のなかにいる。


質問者 絵は画家のマインドのなかにあり、画家は絵のなかにいる。そしてその絵は、絵のなかの画家のマインドのなかにある! この無限の状態と次元はばかげていませんか? 私たちが絵のなかにあるマインドのなかの絵について語る瞬間、高次の観照者が低次を観照しているという、かぎりない観照者の連鎖となります。それは二つの鏡の間に立ち、そこに映る群衆に驚いているようなものです。


マハラジ まったくそのとおりだ。あなたはひとりでそこには二重の鏡がある。その二つの合間であなたの形と名前は無数に存在するのだ。


質問者 あなたはどのように世界を見ているのでしょうか?


マハラジ 私は画家が絵を描いているのを見ている。その絵を私は世界と呼び、画家を神と呼ぶ。私はそのどちらでもない。私は創造しないし、創造されたものでもない。私はすべてを含み、私を含むことのできるものは何もないのだ。


質問者 私が樹や、顔や、夕日を見るとき、その絵は完全です。私が目を閉じるとイメージはぼんやりして、かすんだ状態です。もし私のマインドが絵を投影するならば、なぜ愛らしい花を見るために目を開いていなければならず、目を閉じたときははっきり見えないのでしょう?


マハラジ なぜならあなたの外側のほうが内なる目より優れているからだ。あなたの目はいつも外側へと向いている。あなたが霊的世界を見ることを学ぶにつれて、それが身体の目で見るよりもより色鮮やかで、完全なことを知るだろう。もちろん、いくらかの訓練が必要だ。だが、なぜ議論するのだろう? あなたが、絵はそれを描いた画家から生まれたと想像するからだ。あなたはいつも理由や原因を探している。因果関係はマインドのなかにだけ存在する。記憶が継続性という幻想を与え、繰り返しが因果関係の概念をつくり出すのだ。ものごとが繰り返し一緒に起こるとき、私たちはそこに因果関係を見出そうとする傾向がある。それは精神的習慣をつくり出す。しかし、その習慣は必要なものではないのだ。


質問者 あなたは世界が神によってつくられたと言ったばかりです。


マハラジ 言語はマインドによって、マインドのためにつくられたひとつの手段だということを覚えておきなさい。ひとたび、あなたが原因を認めるならば、神が究極の原因であり、世界はその結果となる。それらは異なるものだが、分離してはいない。


質問者 人びとは神を見ることについて語っています。


マハラジ あなたは世界を見るとき、神を見ている。世界を離れて、神を見るということはない。世界を超えて神を見るということは、神となることだ。あなたは光によって世界を見る。その光が神であり、それが「私は在る」という小さな閃光だ。一見とても小さく見えるが、それは知ることと愛することという行為のはじまりと、終わりなのだ。


質問者 神を見るために世界を見なければならないのでしょうか?


マハラジ それ以外どうするというのだろうか? 世界がなければ神もない。


質問者 何が残るのでしょう?


マハラジ あなたが純粋な存在として残る。


質問者 そして世界と神は何になるのですか?


マハラジ 純粋な存在(アヴィヤクタ)になる。


質問者 それは偉大な広がり(パラマーカーシュ)と同じなのでしょうか?


マハラジ そう呼んでもいい。言葉は問題ではない。言葉では表現不可能だからだ。完全な否定によってのみ表現できるのだ。


質問者 どうすれば世界を神としてみることができるのでしょうか? それはどういう意味なのでしょうか?


マハラジ それは暗室に入っていくようなものだ。あなたには何も見えない。あなたは触れるかも知れないが、色彩も輪郭も、何も見えない。そこで窓が開き、部屋は光で溢れ、満たされ、色彩と形態が現れだす。光を与えたのは窓だ。だが窓が光の源なのではない。太陽が源なのだ。同じように、物質は暗室のようなものだ。意識が窓だ。感覚と知覚によって物質はあふれだす。そして物質と光の両方の源である至高なるものが太陽なのだ。窓は開いているかも、閉じているかもしれない。太陽はいつも輝いている。太陽は部屋に完全な変化をもたらしたが、太陽は変化しない。しかし、これらすべても小さな「私は在る」にとっては大きな意味を持たない。「私は在る」なしには何も存在できないからだ。すべての知識は「私は在る」に関わる。この「私は在る」についての誤った考えが束縛へと導き、正しい考えは自由と幸福をもたらすのだ。


質問者 「私は在る」と「そこに在る」は同じでしょうか?


マハラジ 「私は在る」は内側を、「そこに在る」は外側を意味する。ともに存在(ビーイング)の感覚に基づいている。


質問者 それは実存(イグジスタンス)の体験と同じなのでしょうか?


マハラジ 実存することとは、あるもの、ある感情、ある想い、ある概念といった何かとして在ることを意味している。すべての実存は、ある特定のものだ。すべての存在はほかのあらゆる存在を互いに受け入れるという意味で、存在だけが普遍的なものと言える。実存は対立するが、存在に対立はありえない。実存とは何かになること、生まれ、死に、また生まれるという変化を意味する。一方、存在には平和と静寂があるのだ。


質問者 もし私が世界をつくり出したなら、どうしてこのように間違ったものになってしまったのでしょうか?


マハラジ 誰もが皆、その人自身の世界に生きている。すべての世界が同じように良いわけでも悪いわけでもない。


質問者 何が違いを決定するのでしょうか?


マハラジ 世界を投影するマインドが、それ自身のやり方で色づけするのだ。あなたがある人に出会うとき、彼は見知らぬ人だ。彼と結婚すれば、彼はあなた自身のものとなる。喧嘩をすれば、彼はあなたの敵になる。彼があなたにとって何であるかを決定するのは、あなたのマインドの姿勢によるのだ。


質問者 私の世界が主観的なものだということは理解できます。それはつまり幻想でもあるということなのでしょうか?


マハラジ 主観的であるかぎり、それは幻想だ。実在は客観性の内にある。


質問者 客観性とはどういう意味でしょうか? あなたは世界が主観的なものだと言いました。今、またあなたは客観性について語っています。すべては主観的ではないのでしょうか?


マハラジ すべては主観的だ。しかし、実在は客観的だ。


質問者 どういう意味でしょうか?


マハラジ それは記憶や期待、欲望や恐れ、好き嫌いといった選択に依存しない。すべてはあるがままとして見られるのだ。


質問者 それはあなたが第四の状態(トゥリーヤ)と呼ぶものなのでしょうか?


マハラジ あなたの好きなように呼ぶがいい。それは確固とし、一定で、変化せず、はじまりも終わりもない。つねに新しく、つねに新鮮だ。


質問者 どうやってそれに到達するのでしょうか?


マハラジ 欲望もおそれもない状態があなたをそこへ連れていくだろう。


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