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あなたの知性が妄想の迷宮を超えれば、
これまで聞いたこととこれから聞くであろうことすべてに無関心でいられるようになるだろう。

『バガヴァッド・ギーター』第2章52節


質問者 なぜ真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)が必要なのでしょうか?


マハルシ 真我の探求をしなければ、世界の探求(ローカ・ヴィチャーラ)があなたに忍び入るでしょう。明らかなこと(真我)が探求されないまま、存在さえしないもの(世界)を求めることになるのです。

(対話186)


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あなたは、意識している以上に、実にたくさんのことを知っているのですから、答えを知らないと言って逃げないでください。今現在すべきことは何かを自分に聞いてください。こうした自分への問いかけは、自分の都合に合わせてするのではなく、アンバランスな因子のプレッシャーを感じているその瞬間にするのです。


幸せへの最大の障害のひとつは、まわりが自分をみじめにするという思いこみです。あなたをみじめにするのは、まわりの世界に対するあなたの反応です。


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質問者 インドの伝統では、グル〔師〕が必要不可欠だと言います。彼は何のために必要不可欠なのでしょうか? 母親は子供に身体を与えるために必要不可欠です。しかし、彼女は魂を与えるわけではありません。彼女の役目は限定されています。グルに関してはどうでしょう? 彼の役目もまた限定されているのでしょうか? もしそうならば、何においてでしょうか? あるいは、彼は一般的に必要不可欠なのでしょうか? それとも絶対的に必要不可欠なのでしょうか?


マハラジ ハートのなかで、平和に、永遠に輝く内奥の光、それが真のグルなのだ。ほかのすべては単に道を指し示すだけだ。


質問者 私は内なる部分には関心がありません。直接道を示してくれる師にだけ関心があるのです。グルなしには、ヨーガは到達しがたいと信じる人びとがいます。彼らは正しいグルをつねに探しつづけ、ひとりの師からほかへと変えていくのです。そんなグルたちに、いったいどんな価値があるというのでしょうか?


マハラジ 彼らは一時的な、時間に拘束されたグルなのだ。あなたは彼らをあらゆる職業のなかに見いだす。何かの知識や技術を獲得するために、彼らを必要とするのだ。


質問者 母親は一生涯のためにだけいます。彼女は誕生にはじまり、死に終わるのです。永遠にいるわけではありません。


マハラジ 同じように、時間に拘束されたグルも永遠にいるわけではない。彼は彼の目的を果たし、つぎの師へと場を明け渡すのだ。それはまったく自然なことであり、それについて非難されるようなことは何もない。


質問者 あらゆる類の知識や技術のためには、別のグルが必要となるのでしょうか?


マハラジ これらの問題においては、外面的なものが一時的であり、内面的なものはその外見と行動においてはつねに新しいが、永久不変だということ以外何の規定もないのだ。


質問者 内側のグルと外側のグルの間には、どのような関係があるのでしょうか?


マハラジ 外側が内側を表現し、内側はしばらくの間、外側を受け入れるのだ。


質問者 努力は誰のものなのでしょうか?


マハラジ もちろん弟子のものだ。外側のグルが指導し、内側のグルが力を送る。油断なくそれに応えていくのが弟子の仕事だ。弟子の意志、知性、エネルギーなしにはグルは無力なのだ。内側のグルはチャンスを得ようとする。愚鈍さと誤った追求が危機をもたらし、弟子は自ら己の苦境に目覚めるのだ。賢い者はショックを待ったりしない。それはひどく粗暴なものでもありうるのだ。


質問者 それは脅しなのでしょうか?


マハラジ 脅しではなく警告だ。内なるグルは非暴力に専心してはいない。愚鈍で堕落した人格を破壊するためには、彼はときおりまったく暴力的になりうる。不幸と死、生と幸福は彼の仕事の道具なのだ。二元性においてだけ、非暴力は統一のための法となるのだ。


質問者 人は自分自身を恐れなければならないのでしょうか?


マハラジ 恐れではない。なぜなら自己とは善良を意味するからだ。だが、それは深刻に受け止められなければならない。それは注意と服従を呼び起こすのだ。聞き入れられないとき、それは説得から強制へと変わる。それはしばらく待つことができるが、否定されてはならないのだ。困難は外側や内側のグルにあるのではない。グルはつねに手に入る。不足しているのは成熟した弟子のほうなのだ。その人に用意ができていなければ、どうすることができようか?


質問者 用意でしょうか、それとも志でしょうか?


マハラジ 両方だ。それは同じことなのだ。インドでは、それはアディカーリと呼ばれている。それは能力と資格があるということを意味している。


質問者 外側のグルは秘伝伝授の儀式(ディクシャ)を授けることができるのでしょうか?


マハラジ 彼はあらゆる類の儀式を授けることができる。しかし、実在への儀式は内面から起こらなければならない。


質問者 誰が究極の儀式を授けるのでしょうか?


マハラジ 自己が授けるのだ。


質問者 私たちは堂々巡りをしているようです。結局、私の知っているのは現在の体験的自己だけです。内面の、あるいは高次の自己とは、説明と奨励のために考えられた概念なのです。私たちはそれを独立した存在のように話していますが、そうではないのです。


マハラジ 外側の自己と内面の自己はともに想像上のものだ。ひとつの棘を抜くために別の刺を必要とするように、あるいは毒を解毒するために別の毒を使うように、「私」という存在への固執が癒されるために、「超─私」という別の観念への固執が必要とされるのだ。すべての断定は否定を呼び起こす。だが、これはまだ第一段階にすぎない。つぎの段階はその両方を超えた彼方へと行くことだ。


質問者 外側のグルが、緊急に自分に対して何かをすべきだという注意を呼び起こすために必要だったことは理解します。また、私のなかの深い変化にとって、どれほどグルが無力かも理解します。しかし、ここであなたは無始、不変、存在の根本、動かぬ約束、確かなる目的地である内なるグルをもたらしたのです。彼はひとつの概念なのでしょうか、それとも実在でしょうか?


マハラジ 彼だけが唯一の実在なのだ。それ以外のすべては、「身体─精神」(デハー─ブッディ)によって時間の上に投げかけられた影にすぎない。もちろん、影でさえ実在に関連している。だが、それ自体では実在とは言えないのだ。


質問者 私の知っている唯一の実在は、私だけです。サッドグル(内なる師)は、私が彼を想う間はそこにいます。彼に実在性を移行することによって、私は何を得るというのでしょうか?


マハラジ 失うことが、あなたの得ることだ。影が影として見られたとき、あなたはそれにしたがうことをやめる。あなたは振り返り、そこにいつもあった太陽をあなたの背後に発見するのだ。


質問者 内側のグルもまた、教えを与えるのでしょうか?


マハラジ 彼は、あなたが永遠、不変、実在─意識─愛であり、内面とすべての現れを超えたものだという確信を与えるのだ。


質問者 確信では不十分です。そこには確実性がなければなりません。


マハラジ まったくそのとおりだ。だが、この場合は確信が勇気の形を取るのだ。恐れは絶対的に消え去る。その恐れのない状態が見間違うことのないほど新しく、しかも自分自身のものとして深く感じられ、否定できないものなのだ。それは愛する我が子のようなものだ。誰に疑うことができるだろう?


質問者 霊的な努力における進歩に関して、私たちは話を聞いています。あなたはどのような類の進歩を思い描いていますか?


マハラジ あなたが進歩を超えていくとき、進歩とは何かを知るだろう。


質問者 何が私たちを進歩させるのでしょうか?


マハラジ 沈黙が主な要因だ。平和と沈黙のなかで、あなたは成長するのだ。


質問者 マインドは絶対的に落ち着きがありません。何がそれを静めるのでしょうか?


マハラジ 師を信頼しなさい。私の例を見てみなさい。私のグルは、「私は在る」という感覚に留意し、ほかの何にも注意を払ってはならないと指導し、私はただそれにしたがったのだ。私は呼吸や瞑想、あるいは聖典の研究などの特定の過程にはしたがわなかった。何が起ころうとも、それから注意を背け、「私は在る」という感覚とともにとどまったのだ。それはあまりにも単純で、粗野にさえ見えるかもしれない。私がそうした理由は、グルが私にそうするように言ったからだ。それでも、それは効果があったのだ!服従はすべての欲望と恐れに対する強力な解決策なのだ。
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。だが、新たな義務は避けなさい。空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。招かずにやってきたものを拒んではならない。最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な解放の状態に達する。しかも、それはすばらしく実在なのだ。


質問者 真理の探究者が真剣にヨーガを修練するとき、内側のグルは彼を導き助けるのでしょうか、それとも彼自身にまかせ、結果をただ待つだけなのでしょうか?


マハラジ すべてはひとりでに起こる。探求者は何もせず、グルも何もしない。ものごとは起こるように起こる。行為者という感覚が現れた後に、非難や賞賛が割り当てられるのだ。


質問者 何と奇妙なのでしょう! 行為者はかならず行為の起こる前に現れるはずです。


マハラジ それはその反対だ。行為が事実であり、行為者はただの観念なのだ。あなたの言葉そのものが、行為は確定的であり、行為者は疑わしいことを示している。責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認めるほかはない。行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。


質問者 その幻想はどれほど強力なものなのでしょうか?


マハラジ 疑いようもないほどだ。なぜなら、それは実在に基づいているからだ。


質問者 そのなかの何が実在なのでしょう?


マハラジ 識別し、非実在であるすべてを拒絶することによって見いだしなさい。


質問者 霊的努力における内なる自己の役割を良く理解できませんでした。誰が努力をするのでしょうか? 外側の自己でしょうか、内側の自己でしょうか?


マハラジ あなたは努力、内側、外側、自己といった言葉を発明し、それらを実在の上に押しつけようと努めてきた。ものごとは、ただあるがままに起こるのだ。しかし、私たちはそれを私たちの言語構造に沿うように、ひとつのパターンに組みこむことを望むのだ。この習慣があまりにも強いために、私たちは実在を言葉では表現できないものとして否定してしまう傾向にある。言葉は、繰り返されてきた体験の慣例と習慣に関係する、ただの象徴だということを理解しないのだ。


質問者 霊的な本の価値とは何でしょうか?


マハラジ それらは無知を追い払う助けをする。はじめのうちは有用だが、最後には障害となる。人はいつそれを放棄すべきか知らなければならない。


質問者 アートマとサットヴァとの関連性とは何でしょうか?


マハラジ 太陽とその光線のようなものだ。調和と美、理解と愛情はすべて実在の表現なのだ。それは行為のなかの実在性、物質における魂の影響だ。タマスは覆い隠し、ラジャスは歪ませ、サットヴァは調和をもたらす。サットヴァが成長することで、欲望と恐れは終焉するのだ。歪曲していないマインドのなかに真の存在は反映される。物質は改善され、魂は露わにされるのだ。その二つはひとつとして見られる。それらはつねにひとつだった。だが、不完全なマインドはそれを二つとして見ていたのだ。マインドの完成は人間の努めだ。なぜなら物質と魂はマインドのなかでであうものだからだ。


質問者 私は扉の前にいる人のようです。扉は開いていることは知っているのですが、それは欲望と恐れの犬に守られているのです。どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 師にしたがい、犬たちに立ち向かいなさい。それらがそこにいないかのようにふるまいなさい。またしても、従順が黄金率なのだ。自由は従順によって勝ち取られるものなのだ。牢獄から逃げだすためには、疑うことなく、解放のために働いている人の指導にしたがわなければならない。


質問者 グルの言葉は、ただ単に聞くだけでは力を及ぼしません。人は信頼とともにそれにしたがわなければなりません。何がそのような信頼をつくり出すのでしょうか?


マハラジ 時節が調えば、信頼はやってくる。すべては時節とともに現れる。グルはつねに分け与える用意がある。ただ受け取る者がいないのだ。


質問者 そうです。シュリー・ラマナ・マハルシは、「師は多くいるが、弟子はどこにいるのか?」と言っていたそうです。


マハラジ 時節を待てば、すべては起こるのだ。皆が為し遂げるだろう。ひとりの魂も失敗することはないだろう。


質問者 真我の実現を知的な理解として受け取ることを、私は非常に恐れているのです。私は知ることなしにそれについて語るかもしれません。または一言も語らずして、それを知っているかもしれないのです。
これらの会話は出版されるそうですが、それは読者にとってどのような影響を与えるのでしょうか?


マハラジ 注意深く、思慮深い読者のなかで、それは成熟し、開花し、果実をもたらすだろう。真理に基づいた言葉は、もし完全に試されるなら、それ自身の力をもつのだ。


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