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まわりで起きていることを利用して、天国や地獄を生みだすのは自分自身の心です。この惑星に何が起きるか、政府が繁栄するか崩壊するか、人類が生き延びるかどうか、こうしたことをあなたが決定することはできません。一個人としてのあなたは、地球全体にとって何がベストか、を判断できるような知識はまず持ち合わせていません。けれどもあなたが知っていることがひとつだけあります。それは自分自身の人生です。あなたの人生はまわりの人間に影響を与えています。平和やユーモア、愛情や思いやりや勇気という贈り物を人々に与えながら拡大していくこともできれば、その反対のこともできます。これはまったくあなたが自分で決められることです。それぞれの瞬間に、何かを考えるたびに、何かの行動を取るたびに、どちらの世界を創り出すかを決めるのはあなたなのです。


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世界に目を向けると真我を見失ってしまいます。その反対に、真我をとらえれば世界は現れないのです。

(対話151)


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質問者 私が見るかぎりでは、私の身体にも実在にも、何も問題はありません。どちらも私がつくりあげたものではなく、改善する必要もありません。何がおかしくなってしまったかと言えば、「内なる身体」です。マインド、意識、アンタカラナ、名前は何であれ。


マハラジ あなたのマインドのどこがおかしくなったというのだろう?


質問者 落ち着きがなく、快楽に貪欲で不快を恐れていることです。


マハラジ 快楽を求め、不快を避けようとすることのどこが間違っているのだろうか? 苦痛と快楽の両岸の間を生の川は流れていく。生の流れとともに流れていくことを拒んだとき、それは問題となるのだ。生の流れとともにいくとは、来るものは拒まず、去るものは追わずという受容を意味している。求めず、恐れず、起こるままの現実を観察しなさい。起こることがあなたなのではなく、あなたにものごとが起こるのだ。結局、あなたは観察者でさえもない。あなたはすべてを包括する意識の究極的可能性であり、その表現、そして顕現なのだ。


質問者 それでも、身体と自己との間には思考と感情の雲が横たわり、それが妨げとなっています。これら思考と感情は浅はかな、はかなく無意味なもので、私を盲目にし、息を詰まらせるただの思考のほこりにすぎません。それでもそれらはそこにあり、光を奪い破壊するのです。


マハラジ 確かに出来事の記憶が出来事そのものとして通用することはない。出来事の予測もまた同じだ。現在の出来事には何か独特な、以前起こったこと、あるいはこれから起こるであろうことにはない例外的な何かがある。生き生きとして、実在であり、輝くように際立っている。そこには過去も未来ももっていない実際の「真実のしるし」があるのだ。


質問者 「真実のしるし」を現在に与えているものは何なのでしょう?


マハラジ 現在のなかに、過去や未来から区別するような、特別な何かがあるわけではない。ほんの一瞬前、過去は現実であったし、未来もまたそうなる。何が現在をそれほど特別にするのだろう? 明らかに、それは私の存在だ。つねに今ここに在るからこそ私は現実なのだ。そして私とともに在るものに、私の実在は分かちあわれる。過去は記憶のなかに、未来は想像のなかにある。今現在の出来事のなかに、それを真実として際立たせる何か特別なものがあるわけではない。それは何かただ過ぎゆく一瞬のなかに起こる、時計の刻む音のようなものかもしれない。連続して刻まれる音が等しいということを私たちは知っているにもかかわらず、現在を刻む音は、以前記憶された、あるいは次に予期されるものとはまったく異なっているのだ。今現在に焦点を置かれたものは、私がつねに今に在るからこそ、私とともに在る。私が私自身の実在性を現在の出来事に与えるのだ。


質問者 しかし私たちは思い起こされたことがらも、現実のように扱います。


マハラジ それが現在のなかに入りこんだときだけ、私たちは思い出について考える。今にもちこまれないと、忘れ去られたことを思い出すことはない。


質問者 そのとおりです。現在のなかには一過性の事実に一瞬の真実を与える、何か未知なる要因があることがわかります。


マハラジ 未知と言うまでもない。なぜなら、あなたはそれがつねに作用しているのを見ているからだ。生まれて以来、かつてそれが変わっただろうか? ものごとや思考はつねに変わりつづけてきた。だが、この現在が真実だという感覚は、夢のなかでさえもけっして変わらなかったのだ。


質問者 深い眠りのなかには、今現在の現実感はありませんでした。


マハラジ 深い眠りにおける空白は、完全な記憶の欠如によるものだ。だが、幸福という総括的な記憶がそこにはある。「深い眠りのなかにいた」と言うのと「存在していなかった」と言うのとでは感覚の違いがある。


質問者 はじめの質問に戻りますが、生の源とその表現(つまり身体)との間には、絶え間なく変化しつづけるマインドの状態があります。この精神状態の流れは際限なく、無意味で苦痛に満ちています。苦痛がその変わることのない要因です。私たちが快楽と呼ぶものは、二つの苦痛に満ちた状態の狭間(はざま)にすぎません。欲望と恐れは生の横糸と縦糸で、ともに苦痛でできているのです。いったい、幸福なマインドというものがありうるのでしょうか?


マハラジ 欲望とは快楽の記憶であり、恐れとは苦痛の記憶だ。それらはともにマインドを揺り動かす。快楽の瞬間とは苦痛の流れの間に起こるものにすぎないのだ。どうしてマインドが幸福になれるだろう?


質問者 私たちが快楽を求めたり苦痛を予期したりするときは、確かにそのとおりです。しかし予期せぬ、思いもよらなかった喜びの瞬間も存在します。不相応な、求めてもいなかった、神からの贈り物──欲望に汚されていない純粋な喜びがあります。


マハラジ それでも、喜びは背景にある苦痛に対しての喜びでしかないのだ。


質問者 苦痛とは宇宙的な現実なのでしょうか、それとも単に精神的なものなのでしょうか?


マハラジ 宇宙とは完成されたものだ。そこに何も欠如していない完全性が在るとき、苦痛を与えられるものがあるだろうか?


質問者 宇宙は、全体としては完全かもしれませんが、詳細においては不完全です。


マハラジ 全体の一部も、全体との関連のもとに見られたとき、また完全となる。孤立したとき、それは欠陥をもち、苦痛の在処(ありか)となる。何が孤立をもたらすのだろうか?


質問者 もちろんマインドの限界です。マインドには全体としての部分を見ることができません。


マハラジ そのとおりだ。マインドはその本質上、分割し対立するものだ。統合し、調和をもたらし、部分のなかに全体を見て、全体との完全な関連性をもった部分を見ることのできる何か別のマインドというものが在りうるだろうか?


質問者 別のマインド──どこを探せばいいのでしょう?


マハラジ 限界をもたらし、分割し、相対立するマインドを超えた彼方だ。周知のように、この精神的過程が終焉(しゅうえん)したときだ。これが終わりを告げたとき、そのマインドが生まれる。


質問者 そのマインドのなかでは、喜びと悲しみの問題はもはや存在しないのでしょうか?


マハラジ 私たちが知るような望むべき、あるいは憎むべきものとしてではない。それはむしろ、愛がその表現を求めて障害にであうようなものだ。包括的なマインドとは、愛が活動のなかで環境と戦い、初めは挫折しつつも最終的には勝利をおさめるようなものなのだ。


質問者 魂と身体との間に橋を渡すものは愛なのでしょうか?


マハラジ ほかに何があろう? マインドが奈落を生みだし、ハートが橋を架けるのだ。


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